複雑・ファジー小説

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.133 )
日時: 2019/03/23 20:45
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)

第五章 風の乙女

 イース王国西部、ケートス伯爵が治める領地があった。
 その領地周辺には深い森と、高い山々と、切り立った谷に囲まれ、イース王国の中でも自然豊かな場所で、人の手をほとんどつけていない土地だった。
 ケートス伯爵の領地は自然に囲まれていて、マジョリタも度々訪れていたと侍女は言う。
 彼の領地には大きな一つの街があり、ケートス市という名の強固な城壁で囲んだ城塞都市である。
 エリエル、ディーネから生き残った人々がこの城塞都市へと逃げ込んでいた。
 人はただ暮らすだけでも様々な物資を消費する。この街が有能な兵士や騎士だけならばともかく、一般市民をも受け入れてくれたのは驚くべき事だと言っていい。
 確かにこれまでは北に存在するエリエルやディーネ、東に位置する王都や砦などのおかげで戦わずに済んできた。だがこの街に逃げ込んでいる他国の人間は、元から暮らしているこの街の住人の倍にものぼる。
 ケートス市民の生活を圧迫するのは確実だった。しばらくの間はそれぞれが持ち寄った物資だけでどうにかなるだろう。しかし早晩、物資は尽き、特に食料は下手をすれば住民と奪い合いになりかねない。
 今はまだ不足している物がないというのに、ケートスの街には強い閉塞感が満ちていた。
 ケートス市に逃げ込んでから数日が経ち、そんな状況に息苦しさを感じ始めたエオスは砦を抜け出した。
 逃げ出したわけではない。気分を変えようと散策したかっただけだ。第一、この街のほかに行く場所はない。
 もし、この街にまで帝国軍が押し寄せてきたら、それは遠くない未来の現実ではあったけれど、おそらく誰も街を守り抜くことはできないだろう。
 ケートス伯爵にはこの街に逃げ込んだ時に謁見したが、温和なだけでアイオロスやソスランが見せる力強さは欠片もなかった。いや、だからこそゆくゆくは害になる難民すらあっさりと受け入れたのだろうか。
 森の清涼感を胸いっぱいに吸い込み、胸の中にこびりつく嫌な思いを拭い去ろうとする。
 こんな時、アイオロスなら、シャラなら、一体どのように民を導いたのだろう。
 現在、エリエル公国、あるいは公爵家の家督はシャラにある。もちろん正式に爵位を次いだわけではないが。
 本来ならシャラに指示を仰ぎ、エオスはその代行として民を導かなければならないのだがシャラとの連絡は、随分前に送った手紙を最後に途絶えたままだ。
 アイオロスのように自ら戦場を駆ける力も、シャラのように兵達を動かす信頼も、何もない。それとも、ここまで無事に避難できただけでも奇跡的といわなければならないのだろうか。
 気が付けば、いつの間にかエオスは砦の傍を離れ、森の中を歩いていた。
 深い森だ。
 木々に覆われ、辺りを見ても砦がどこにあるのかわからなかった。それほど遠くに来ているはずがない。正反対に振り返り、少し歩けばすぐに砦の城壁が見えてくるはずだ。たとえ空がほとんど見えない程の鬱葱とした森であったとしても。
 風が吹いて、すぐ傍の茂みが揺れた。
 ただの風だ。それはわかっていたのに体が勝手に驚いて数歩後ずさった。
 後ずさった足が、茂みの中に踏み入れ、そしてそこは唐突に急な坂になっていた。

「きゃあっ!」

 頭の後ろの所に、何かで衝撃が走り、エオスは意識を失った。



 どれほど意識を失っていたのだろう。エオスは草の上にあおむけに寝転がっていた。どうやら先ほどの所から一段低くなった場所のようで、近くに小さな泉があった。
 折り重なるように広がった木々の隙間から見えているのは、既に藍色の空である。

「いけない、もう戻らないと……」

 しかし今度こそ方角が全く分からなかった。
 最悪の場合、貴族の子女としてはしたないことこの上ないが、木の上に登って砦を見つけるしかないだろう。

「シャラお姉さまのように上手く登れればいいのだけれど……」

 身体を起こそうとした途端に走る、激しい足の痛みに悲鳴が上がる。

「くぅっ」

 滲む涙を拭って痛みの元を見ると、左の脛のあたりが紫色に痛々しく腫れあがっている。とても立ち上がれる状態ではなかった。ただの捻挫ではないかもしれない。
 このままでは日が暮れるまでに砦に帰れない。
 心配させてしまうだろうか。いや、心配させるどころではないかもしれない。このあたりに凶暴な獣が出没するとは聞いていないが、それでも狼ぐらいは出るだろう。
 自分が生きながら襲われるところを想像して、その悍ましさに身震いを覚えた。
 ふわりと冷たい空気が頬を撫でた。
 エオスは反射的に泉の方を見る。
 いつの間にか、泉の向こう側に誰かが立っていた。女性だ。
 艶やかに波打った銀色の髪。澄んだ泉の水のように静かな眼差し。肌は艶めかしいまでに白く、唇蜂のように赤い。
 氷晶を模った冠をかむり、服は純白のドレス、そして銀色のベールに包まれた……シャラと共に読んだ本にあった「女神」を思わせる物。
 それはこの世の存在とは思えなかった。

「はじめまして、風の子エオス」

 目の前の女性の口は声に合わせて確かに動いている。だというのに、声がそこから聞こえたとは思えず、まるで森のあちらこちらから生きとし生けるもの全ての口を借りて囁かれているようだった。

「風の子……?」

 エオスは呟くように繰り返す。

「そう、あなたは風の聖王国「テンペスト王国」王家の正統な後継者」
「私が?」

 自分がエリエル公爵家の人間でないことは知っていた。その出自がテンペスト王国のどこかである事も。

「あなたは立ち上がらなければなりません。「風の乙女」として」

 風の乙女。それはこの大陸に古くから伝わる伝承の中に現れる存在だ。
 イースとトゥリアがまだイストリア帝国という名前で大陸を支配していた頃、五人の大精霊がいると信じられており、人々は大精霊から魔法を扱うための力を賜っていた。
 大精霊は光、闇、炎、雷、風の五属性であり、それぞれ「レム」「アスタロト」「フラム」「ソール」「テンペスト」という名で、それぞれの大精霊を信仰する王国はその時から既に存在していた。
 しかし、イストリア帝国はやが光の大精霊レムを「イース」とし、闇の大精霊アスタロトを「トゥリア」として崇拝する二つの宗教が生まれた。そしてその教団を礎とする二つの国は、どちらも古代イストリア人から技術を盗み、イース教は癒しや守護を主とする神聖魔法を手にし、トゥリア教は破壊を主とする暗黒魔法を手に入れた。
 当初、そのせめぎ合いは一方的にトゥリア帝国の優位に動いていた。攻撃手段として用いる事の出来る暗黒魔法に、神聖魔法のみでは抗い切れなかったのだ。
 いつ、どこに、なぜそのような少女が現れたのか、伝承に記されておらず誰も知らない。だが、大精霊が力尽き倒れていく自らの信徒を憐れみ地上に遣わした聖女であると言われている。
 五人の聖女はそれぞれ光、闇、炎、雷、風の聖玉を持ち、悪しき者の前に立ちはだかり無力な民を救っていった。
 光と闇の乙女は今では「巫女」と呼ばれ、絶対的力を崇められている。だが、巫女は現在行方知れずであるらしい。

「私が、風の乙女?」

 銀髪の女性は静かに頷き一歩踏み出した、泉の上を。だが泉の水は、そのまとい物はおろか、素足の足すら濡らす事ができなかった。浮いて歩いているのだ。

「あ、あなたは風の大精霊テンペスト!?」

 痛む足も忘れ、エオスは起き上がる。
 これは本当に現実なのだろうか、それとも夢?

「これを……」

 そういって彼女が差しだしたのは、一つの珠。複雑な輝きを発する水晶球。

「これはあなたのためのもの、人はこれを「風の聖玉」と呼びます」
「これが、聖玉?」
「そうです。そして聖玉に触れればあなたはじぶんの使命を思い出す。決して平坦な道ではないでしょう。あなたには選択する権利がある。ここで誰かがこの戦争を終結させると信じて待つか、それとも困難を承知の上でこの聖玉を手にし、民衆のために戦うか」

 迷うまでもなかった。こうしている今も、シャラは苦しい戦いを続けているのだ。この上、自分までシャラのお荷物になる事など我慢できなかった。そのための手段がないのであればまだしも、今、目の前には世界を変えるためにもたらされた力が差し出されているのだ。

「私、やります!」

 そういってエオスは目の前にあった聖玉を手に取る。
 その瞬間、まるで雨水が岩の割れ目に染み込むように激しい力の奔流がエオスの身体に染み込んできた。
 あまりに激しい衝撃に、思わずエオスは悲鳴を上げる。だが苦痛はなかった。驚いただけだ。その一瞬で自分の体の中が全て変革されたように、次の瞬間から何の疑問も抱かなかった。

「これは、私からの餞別です」

 銀髪の女性はそういって一本の美しい弓を取り出した。

「これは「風翼弓フリューゲル」。この弓と聖玉が、きっとあなたを守ってくれるでしょう」
「でも、わたしにはどうすればこの戦いにうち勝つ事ができるのか、わかりません」

 もっと、この窮地を覆すような素晴らしい知識が与えられるのではないのかと、そんな希望があった。
 さっきまで敵が立ちはだかっても戦う事すらできなかった。今は戦う事ができる。簡単に言ってしまえばそれだけの違い。けれど、それでケートス砦の人々すべてを救う事は出来ない。

「大丈夫。焦る事はありません。あなたにはすぐに道を示してくれる人が現れます。その人の言葉に耳を傾け、人々を導きなさい。それがあなたの使命です」
「は、はい、わかりました!」

 銀髪の女性がエオスの額に手をかざす。すると、途端に抗い切れない睡魔がこみ上げ、エオスは深い眠りに落ちた。

「風はあなたの力となりましょう、武運を祈ります。風の乙女エオス」

 遠ざかる意識の中、そのような声が聞こえたような聞こえなかったような……エオスは瞳を閉じる。

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.134 )
日時: 2019/03/23 23:36
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)


 エオスが次に目覚めた時、その時には既に木々の隙間から見える空が白みを始めていた。

「夢……?」

 慌てて左足を見るが、そこは最初からそうだったように、傷一つ負っていなかった。

「ううん、夢じゃないわ」

 何故なら、エオスのすぐそばに大精霊から賜った聖玉と、一本の弓が横たわっていたからだ。


 エオスがケートス砦への道を見つけたのはそれからしばらく経っての事である。予想通り、明るくなればすぐ近くにその道は見つかった。
 砦に避難する時にも使った街道である。
 森に抜け出した時、ちょうどそこを通りかかる馬車が一台あった。

「エオス?」

 なぜか馬車の荷台から、強い驚きの声で自分を呼ぶ者がいた。
 エオスの前を行き過ぎた馬車が止まる。その荷台から、一人の青年が慌てた様子で飛び出した。
 赤い髪。今は少しばかり驚いてはいるが、涼やかな眼差し。意志が強そうな口元、どれをとっても人違いではありえなかった。

「ソスランおじさま!」

 そう呼ぶと、ソスランは「まだ私は34だがな」と苦笑しながら、しかししっかりと頷いた。

「すまない、随分長い間留守にしてしまって」
「おじさま、無事でよかった。でも、国王陛下に捕まったとお聞きしたのに……」

 気が緩んだせいだろうか、涙が溢れてソスランの顔が滲んでしまう。

「ああ、イストリア島に流刑されていた。……シャラに助けられたんだ」
「お姉さまに!?」
「ああ、そうだ。エオス自慢のシャラお姉様にさ」

 にっこりと笑う。

「それより、どうしたんだこんな所で?」

 ソスランの馬車が目指していた方向を見れば、もうケートス砦はすぐ近くに迫っていた。

「あの、おじさま! いろいろお話したいことがあるんです」

 あの女性……大精霊が言っていた、エオスに道を示す人物とはきっとソスランに違いない。

「いえ、お話しなければならないことがあるんです」

 ソスランに全てを打ち明けよう。きっと彼ならこの状況を打破できるに違いない。

「わたし……」

 エオスは全てを打ち明けた。
 自分が風の乙女に選ばれた事。滅んだテンペスト王家の最後の生き残りが自分であった事。目の前に大精霊が現れた事。「風の聖玉」と「風翼弓フリューゲル」を授かった事。今までは守られるだけだったが、これからは自分も戦う決意を固めた事。けれど、戦うための方法を一つも知らない事。
 全てを聞いた後、ソスランは怖いぐらい真剣な顔をした後、優しくエオスの頭を撫でてくれた。

「よく決意したな。……私は、表に出る事は出来ない。エオスは自分が戦うと言っていたが、お前自身が手を汚す必要はない。私の言う事をよく聞いて、その通りに動けばいい。そうすればきっと、道は開かれる」

 エオスは安堵しながら頷く。



 こうして、東部戦線に新たな同盟軍が誕生する事となる。エオスはこの日より「風の乙女」を名乗り、人々の先頭に立った。
 そして風の乙女を旗印とする同盟軍は、自らを「大精霊の軍」と名乗る事となる。
 しかし人々はまだ、希望の種がまかれた事を知らない。
 そして不安に包まれながら、眠りについているのだ。