複雑・ファジー小説

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.59 )
日時: 2019/02/19 00:13
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)

第十章 押し寄せる波

 そこには一筋の光も差し込んでいなかった。
 空気もよどみ、黴と湿った土のにおいが鼻を刺激する。
 既に立ち上がる力すらなくして久しく、身を投げ出した背中には、服越しに剥き出しの冷たい土の感触があった。

「う、うぅうぅぅぅ……」

 あたりからは今にも消え失せそうなほど弱弱しい呻き声が聞こえてきた。一つではなく、いくつも。

「い、きてるな。死ぬな、死ぬんじゃ、ないぞ……」

 我ながら情けないほどしわがれた声が闇の中に反響して響き渡る。だが明確な言葉は返ってこなかった。ただ呻き声の数が心もち増えただけである。
 どれほどの時間が経ったのだろう。
 彼は考える。最後の陽の光を見てから、もう一月以上が経っているはずだ。
 何が間違っていたのだろう。
 彼は自問する。自分は間違ってはいなかったはずだ。ただ自分の父を、デザイト公国マリク公爵を説得しようとしていただけなのだから。
 だが子飼いの部下達と共にデザイト城へと登城しようとした途端、公爵直属の近衛隊によって捕縛され、ここに連行された。
 しかし彼にはここがどこだかわからない。目隠しをされたまま連行されてきたからだ。無意識に顔に手をやる。目隠しはやはりとっくに取り去っていた。目隠しをしたままこの穴蔵にほおり込まれたせいで、いつまでたっても目隠しをされているような錯覚がつきまとうのだ。

「生きてるな。死ぬな、し、死ぬんじゃない……」

 あと何度この声も振り絞れるだろう。
 最初はこの暗闇に驚きながらも、どうにか脱出ができないかと出口を手探りで探した。だがない。出入口は最初に彼らがここに放り込まれた、分厚い鋼鉄の扉に閉ざされた入口があるだけだった。
 ここは穴だ。どこかの砦の床下に掘られた、大きな穴だった。広さは三十人ほどが余裕を持って横になれる程度。だが天井は低く、腰を屈めず立てる場所はあまり多くなかった。
 まず考えたのは、どうにか内側から扉を開けられないかと言う事だ。だがこれは早々に断念せざるを得なかった。扉は両開きではなく一枚の鉄板で蝶番の軸もこちらを向いておらず、おまけに扉は向こうに開く形なのだがこちらの穴は扉の外側に比べかなり狭くなっているのだ。つまり上下左右の隙間も潰れている。だから一筋の光も差し込まない完全な闇になってしまうのだ。
 他の部分も岩で覆われた監獄ではない。時間を掛ければ穴を掘って脱出できるのでないかと思った。だが道具が何もない。剣や槍はもちろん、鎧もはぎ取られている。残されたのは自分たちの両手だけだった。
 仕方なく全員で代わる代わる壁際を掘り進むが、いくらもいかない内に固い岩盤に突き当たる。方向を変えてやっても同じになった。それを何度か繰り返した後に、この穴の横方向には固い岩盤が存在しており、下方向に進むしかないという結論に至った。注意深く側面ではなく地面を探っていくと、それらしい跡もある。だがいくつかあるそれらはどれも念入りに埋め戻され踏み固められてあった。
 彼らはそれでも挫けなかった。いや、逃げ出す努力以外、そこではやる事がなかったのだ。彼らをここに幽閉した者達が、もう二度と無事に解放するつもりがないことが分かっていたのである。
 よく場所を選べば素手でもどうにか掘り進めた。だが二、三日続けただけで全員が指のどこかの爪が割れてしまう。それでも血まみれの手で土を掘り続けた。
 ここの居住性は最悪だ。体を伸ばせない苦痛が常につきまとい、気温は低く身を寄せ合っていなければ眠る事すらできない。すぐに気が狂いそうになった。
 食料と水は、少しだけ与えられた。だがそれ以来一度も扉は開けられず食料や水の差し入れもそれっきりである。行軍に用いる糧食で、腐る心配はなかったが土で汚れた手を拭うことすることができず、まるで家畜のように食べなければならないのが辛かった。
 その内に食料や水も尽き、一人、また一人と動けなくなっていく。最後の一人となっても彼は穴を掘り続けた。それは子供が園芸に使うスコップを使った方がよほど早い程度の進み方だったが、もう一掘りすれば助かるのでは、土壁が突き崩れるのでは、新鮮な風を吸えるのでは、その思いが彼を最後まで突き動かした。
 だがそれももう限界を迎えた。
 動けなくなってからは、彼はなけなしの力で声を振り絞った。

「生きろ、しぃ、死ぬ、んじゃ、死ぬんじゃないっ」

 喉が、渇きを通り越して焼ける様だった。喉の壁が張り付くような不快感を覚えながら、彼は叫び続けた。
 自分だけならよかった。お世辞にも、品行方正に、従順に生きてきたとは思わない。例えばディーネの公子リデルフが同じ状況になったら文句を言ってもいいだろう。リデルフは誠実で、父であるアルフレドの言葉をよく守り国を盛り立てている。だが彼は、務めは果たしてきたとは思うがそれでもその時々の感情に任せて動いてきた。例えば軍記を破った兵にも、同情すべき事情があればわざと見逃したり、逆に立場を利用して弱者を虐げるような者には法を課したよりも重い罰を与えたり。
 そして今回、父であるマリクの行いが間違っていると感じ、それを正しに立ち上がったのだ。マリクはトゥリア教の神官に誑かされている。場合によっては力ずくで改心させるつもりだった。
 その途中で捕まりこの体たらくだ。自分だけならいい。だが自分を慕い、ついてきてくれた部下たちが死んでいくのだけは我慢できなかった。

「死ぬな」

 最初は応えていた部下達も、沈黙したままになって随分になる。みんな生きているのだろうか。それを考えると恐ろしくなる。
 死ぬならなぜ自分からではないのだろう。動けなくなったが、まだ意識はある。死の気配は感じない。
 人一倍頑丈な自分の体が、今、この時ばかりは恨めしい。
 どうせ頑丈なら、鋼鉄の扉の一枚や二枚ぶち抜けるぐらい丈夫だったらよかったのだ。だったらその代償が自分の命だろうと、彼は一瞬の躊躇もなくそれを選んだというのに。
 空腹と疲労で消耗していると、なぜか逆に五感は鋭敏になる。彼は微かな足音が近づいてくるのを感じた。
 彼らが死んだと思い、その後始末をするためにやってくるのだろうか。死んでたまるものかと思いながら、彼は残された最後の力を振り絞り体の各部に力を込めていく。体の各部は、まるで何人もの他人から借りてきたように動かない。それでも彼は根気強く両腕を、両足を、体をなだめすかして立ち上がっていく。
 派手な物音を立てる訳にはいかなかった。もし後始末をしに来た兵なら、中で生き残っている者が分かった途端に引き返してしまうからだ。兵達にとって、仕事が一日か二日先送りになる、ただそれだけの事だが、閉じ込められた者達にとってはその一日で生死を分ける者がいるはずなのだ。
 彼は、体を引きずり、仲間たちの体を踏まないように避けながらどうにか扉の脇に辿りつく。
 死体の始末なら、それほど大人数の兵が回されるはずはない。扉が開いた途端、顔を出した兵を引きずり込んで脱出行を開く。武器を持っていてもいい。それが自分の体を何度傷つけても、構う事はない。やり遂げれば、部下達さえ逃がしてやる事ができればあとはどうなってもいいのだ。
 彼は、大きく息を吸い込んだ。
 よどんだ空気の中にしみ出した土中の水分が、体の中をほんのわずかに潤してくれた気がした。錯覚でもいい。錯覚なら、自分の体をだまして動けばいいのだ。
 もう一度大きく息を吸い、吐いた後、彼はきつく歯を食いしばった。
 果たして、鋼鉄の扉が、重々しい音を立て一月ぶりに開かれた。

「うおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉーーーーーぁぁっ!」

 獣のような雄叫びと共に飛び出した彼の手を、やってきた兵は剣で斬りつけるのではなく、素手でやんわりと受け止めた。白い肌が見え、細い腕だった。

「イスラフィル公子ですか?」

 まだ若い女騎士だった。一瞬驚いた顔を見せた後、目を細め微笑を浮かべた。

「お迎えに上がりました。ご安心ください、私はエリエル公国のシャラザード。同盟の人間です」

 そして彼の意識はここで途切れたのである。

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.60 )
日時: 2019/02/19 19:00
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)

 シャラは帰還途中の馬上で報告を受けていた。
 既にウエスト砦から撤退し、ディーネとの国境近くにまで戻っていた。
 任務は完了。作戦は成功である。
 ようやく夜は明け、東の稜線から顔を出した眩しい朝日が南下するエリエル騎士団の姿を浮かび上がらせていた。

「イスラフィル公子以下、部下の騎士たち二十五名も、ひどく衰弱されていますが命に別状はありません」

 馬を併走させ、緊張した面持ちで報告してくるハティを小さく頷いて下がらせ、シャラは安堵の息を吐いた。
 ウエスト砦の、イスラフィル達を幽閉していた場所は、悪夢のような部屋だった。砦の構造からするならあれは地下のワイン蔵か何かだったのだろう。その壁を覆っていた煉瓦や床をはぎ取り、燭台などを取り去った。その上で大量の軟らかい土を運び込んだようだ。
 低い天井で常に圧迫されながら、土の壁や地面で逃げ出せるのではないだろうかと思わせる。だが元が地下なのだ。ただ横や下に掘り続けても永遠に出られない。おまけにウエスト砦は山の上に築かれているため、奇跡的な偶然で正しい角度に掘り進んだとしても、かなりの距離を進まなければならないのだ。その間に気力か体力かのどちらかが萎えるのは明白だった。
 最初から達成不可能な逃げ道を用意し、必死でもがくのを嘲笑うような牢獄だ。
 それを理解した瞬間吐き気がこみ上げた。話に聞く、トゥリア帝国の残虐な所業そのままだ。デザイトは単に離反しただけではなく、国内のかなりの部分までトゥリア帝国に侵食されているのかもしれない。
 そうなればデザイトを説得するのは容易な仕事ではなくなる。どちらにしても、イスラフィルの回復を待たなければならないのだが。
 ともあれ、イスラフィル以下、一人の犠牲者も出なかったのはまさに僥倖と言えた。聞けば一月以上、あのような場所に閉じ込められていたというのに。
 よほど部下達はイスラフィルを信頼していたのだろうか。

 一人の死者も出さなかった奇跡的な結末を、シャラはそう解釈していた。

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.61 )
日時: 2019/02/20 10:35
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)

 ウエスト砦から追撃部隊に捕捉される事なく、シャラ達は無事に国境を越えた。そこからはリデルフの組織してくれた陽動部隊と合流し、ブリタニアへの帰還となった。
 既にモルドレッドにはイスラフィル救助成功を知らせている。しかし、イスラフィルと彼の部下はイースには運び入れず、途中のマビノギオン砦で留めていた。あのままブリタニアに運んでいれば、瀕死だろうと何だろうと無理やり出頭を命じ、従わぬ場合にはイスラフィルを反乱の容疑で処刑しかねないからだ。
 モルドレッドには、衰弱が激しく今ブリタニアまで運んでくると確実に死なせてしまうと報告しておいた。流石に動かせば死ぬとまで言われれば無理強いはしなかったが、それでももらえた猶予はたったの十日である。普通に考えれば無茶もいいところだ。もう少し猶予と願えば、また「それはイースにて何かよからぬことを起こそうという企みか」とルーカンが邪推を披露し、モルドレッドは例によってそんな戯言を真に受けてしまったのだ。

「ふぅ〜」

 私室の書き物机に向かったまま、ため息を漏らして凝った肩を揉み解す。
 この日のシャラは書類の処理に追われていた。
 騎士とはいえ、一軍の指揮官ともなれば書類上の仕事も増えてくる。特に現在のエリエル騎士団のように、半数以上が傭兵で構成されているような規格外の部隊は。
 流石に援助を申し出てくれても商人である。武器や防具、食糧などに使用した軍費は細かく計算して、ギルドに提出しなければならなかった。また、傭兵ギルドと契約を交わしている傭兵達に関しても、その査定の関係で働きぶりを評価しなければならない。これもエリエル騎士団の仕事となった。基本的に、ギルドから派遣されている傭兵達はエリエル騎士団の騎士たちかシャラ達が直接契約している傭兵達……例えばシャルレーヌやクリス、騎士団に所属するナハトやフィアンナなどを小隊長として、彼らに査定させている。とはいえ、最終的にそれをまとめるのもシャラの仕事となった。

「何やらお困りの様子だね?」
「そうなんです、書類の量が尋常じゃなくて、今日一日でまとめきれ……へっ!?」

 突然後ろから声が聞こえたので慌てて振り返ると、シャラを覗き込む青年が立っていた。

「ソスラン様!?」

 落ち着いた赤い短髪の青年だった。年齢は騎士団のアスランぐらいの年齢であり、穏やかで知的な微笑みがよく似合う。瞳はラクシュミと同じく碧く、澄んでいる。白い鎧と高貴なマントを羽織るこの好青年は、シャラの父であるアイオロスの上官、ソール王国第一王子の「ソスラン・リート・ソール」王子だった。
 ソール王国はエリエル公国から遥か東、デザイト公国の隣にある王国で、ラクシュミの故郷である。ソール王国とエリエル公国は国境こそ接しておらず、かなり距離があるものの親密な交流を持っていた。そしてソスラン自身もエリエル公爵家によく遊びに来るという関係であり、シャラ自身も二人きりの時は「兄さん」と呼んでいた。

「おや、二人きりなのに「兄さん」と呼んでくれないのかい?」
「あ、えと……すみません」

 シャラは恥ずかしそうに頭を下げる。ソスランはその様子を見て大笑いしてからシャラの頭を撫でた。

「いやいや、こちらこそすまない。ノックをしたのだが返事がなかったものでね。レディの部屋だが入らせてもらったよ」
「あ、いえ! 私の方こそ仕事に夢中になっていたもので、気づきませんでした」

 シャラははっと気づいて立ち上がり、今まで自分が腰を降ろしていた椅子をソスランに勧める。

「いや、お構いなく。私は立ち話で充分だ。それより、頑張っているそうじゃないか。妹を救ってくれたそうだね、遅くなってしまったが感謝する」

 ソスランはシャラに頭を下げる。

「いえそんな! 私も殿下にはいつもお世話になっています……」
「それに、エオスにも会ってきたんだよ。自慢げに君の事ばかり喋っていて止まらなかったよ」
「エオスが……」

 シャラは嬉しく思った。ソスランは用兵の天才で、数も少なく、また寄せ集めの兵で構成された東部戦線を見事に勝利の連続へと導いている。剣の腕も優れ、アイオロスが体験で敵の防具ごと叩き潰す剛の剣であれば、ソスランは鎧の隙間を貫いて相手を沈黙させる柔の剣である。
 どちらを尊敬しているというより単に性質の問題で、アイオロスよりソスランの剣の質に近いと考え時折手ほどきも受けていた。シャラが尊敬する一人である。
 そんな人に自身を褒められ、舞い上がってしまいそうである。

「ああ、そうだ。お茶を持ってこさせましょう」

 シャラがそう言いながら、自室のドアを開けて、隣に控えていたエレインに「ソスラン様にお茶をお持ちしてくれ」と声をかけた。

「かしこまりました」
「すみません、エレインにも手伝ってもらっているのに」

 書類の整理が一人ではとても終わらないため、この街で購入する物資に使った軍費に関してはエレインにまとめてもらっていたのだ。

「いえ、私の分は既に終わりましたので」

 有能な秘書である彼女は、事もなくそう言いお茶の用意に向かったのだ。

「それよりも——」
「お兄様!」

 突然、シャラの自室に入り込んできたのは、ラクシュミだった。普段は少し不愛想な表情であるが、今日のラクシュミはキラキラと輝くような笑顔でソスランに抱き着いた。

「ラクシュミ、シャラの前だぞ」
「ちょっとだけ、ちょっとだけです!」

 ラクシュミは固くソスランに抱き着いて離れなかった。ソスランも心なしか笑みを浮かべていた。

「ははは、ラクシュミは変わらないなぁ」

 ラクシュミがしばらくしてソスランから離れ、満面の笑みを浮かべた。

「お兄様、ここにはいつまでいらっしゃるのです?」
「シャラと少し話をしてからな……」

 ソスランがそうラクシュミの頭を撫でながら言うと、シャラに向き直る。

「シャラ、エオスは君の事を色々自慢していた。ラクシュミやソール王国の件にマビノギオン砦での戦い、それにイスラフィル公子救出作戦……大活躍だそうじゃないか、私も鼻が高いよ」
「いえ、私なんて、エドワードや殿下、部下達に助けられてばかりですから」
「ははは。まあシャラを訪ねるのはエオスとの約束だったんだ。これで死ぬ前にエオスに恨まれずに済むよ」
「……えっ」

 突然の言葉にシャラとラクシュミは驚いてソスランを見る。ソスランは微笑みを崩さずに頷く。

「これはエオスからの手紙だ。シャラに渡してくれと預かって来た」
「あ、ありがとうございます。それよりも……それよりも兄さんが死ぬって……」
「じょ、冗談ですよね、お兄様!」
「それならどんなにありがたい事か」

 ソスランは平然としていた。シャラには理解できない。冗談でないなら、なぜそんなに涼しい顔をしていられるのだろう。

「まさか、モルドレッド王が呼びつけたの?」

 ラクシュミの問いに、ソスランはここで初めて難しい顔をして頷いた。

Re: イストリアサーガ-暁の叙事詩- ( No.62 )
日時: 2019/02/20 10:39
名前: 燐音 (ID: .CNDwTgw)

 モルドレッドとソスランの両者の間には、複雑な関係があった。因縁と言ってもいいだろう。実は、ソスランにはイース王家の血が流れている。傍流だがかなり濃く、普通であれば王位継承権を持っている。順番でいえばモルドレッド、アムルの次、第三位の王位継承権だ。
 彼はソール王国の第一王子としてラクシュミの次点ではあるが王位継承権を持つ。だが、彼はソール王国の人間ではない。養子なのだ。イース王家の歴史を紐解いた時、一、二を争う程の凄惨な内戦にイストリア歴600年から始まった「血の八年間」と呼ばれる紛争がある。現在のモルドレッド王からさかのぼる事二代。当時はモルドレッドの祖父にあたるユーサー王がイース王国を治めていた。だがこのユーサー王が突然何者かに毒殺される。彼には二人の子供がおり、これをアーサー、エニードと言った。
 二人は仲のいい兄妹だったが、そんな兄妹の思いとは関係なく、それぞれを頂点に祭り上げ派閥が生まれた。それは互いに相手をユーサー王暗殺の犯人だとし、日増しに緊張感を高めていった。当時を知る者に言わせれば、まさしく「一触即発」の状況であったらしい。だがこれは、エニードの自害という、意外な形を以て終結した。これにより毒殺の犯人もエニードであると結論づけられ、王位はアーサーが継いだ。エニードには子供が三人いた。その一人がソスランなのだ。
 ここまではまだ「血の八年間」の序章である。

「私は、子供だった」

 ソスランの自虐的な言葉にシャラは何も言えず、黙ってソスランを見ていた。

「私は母が濡れ衣を着せられたのが我慢できず、アーサー王こそが真犯人だという、取り巻きの甘言に弄られ叛乱の旗手として担ぎ出された。愚かな話だ。その馬鹿騒ぎの下で民達がどれ程苦しむかもわからずに……」

 叛乱が起こった。激しい内乱が八年もの間続き、そのためにこの内乱の事を「血の八年間」と呼ぶのだ。この内乱の混乱で、ソスランは残された血縁者である妹と弟とも生き別れた。もはや生きてはいないだろう。
 内戦は終結した。ソスランは敗北し、ソール王国の離れ島へ流刑に処されたのだ。当時、多くの人間がソスランの死刑を求めたという。この内紛の死者は数十万人にものぼったと言われている。それだけを見れば、確かに無理もないだろう。だがソスランへの処罰を流刑で留めたのは他でもない、自分の王座を狙われたアーサー自身である。
 シャラはアイオロスより真相を聞いていた。
 ユーサー王を暗殺したのは、エニードではない。もちろんアーサーでもない。当時はそのどちらかでなければ不可能としか思えない状況だったのだが、どうやらトゥリア教の暗殺者が真犯人であったらしい。それはイースの神子が得た信託で明らかになった。だが、もはや名も顔もわからぬ暗殺者の存在を持ち出したところでどうしようもならないほど事態は緊迫していたのだ。
 内乱を恐れたエニードはわざと罪を被り自害した。全てはイース王国の民達に累を及ぼさぬため。
 真実を知ったソスランは心の底から悔やみ、真面目に罪を服した。そして時が経ち、数年前、まだ存命中だったアーサー王は正式にソスランの罪をゆるし、そしてソール王国への養子縁組が行われた。
 それからは生き別れになった妹と弟の為にも、自分の罪を償うためにも今、必死に戦い続けているのである。

「でもどうしてお兄様が……でも、モルドレッド王なら……」

 ラクシュミは涙をこらえながら口にしていた。ソール王国やディーネ公国、エリエル公国にとって、もはやソスランは犯罪者ではなく救国の英雄である。逃げ回り、非道な命令を下すことしかしないモルドレッドと比べればその人気は雲泥の差である。
 だから面白くないのだ。

「いや、大丈夫だ。ラクシュミ、それにシャラ。アイオロスはよくやってくれた。彼なら、私が戻らなくとも充分に東部戦線を勝利へと導いてくれる」
「そんな事を心配してるんじゃないんです!」

 シャラは真剣に怒る。シャラが怒りを露わにしているのを初めて見るソスランは少し動揺した。
 だが、ふうっと息を吐いて、シャラに微笑みかけた。

「ありがとう、シャラ」

 ソスランはシャラに歩み寄ってシャラの肩に手を置いた。
 その手には驚くほど強い力が込められている。

「シャラとこうして話をすることができて、安心した」
「やめてください!」

 シャラは腕を振り上げて叫ぶ。その眼には涙をためていた。

「そんな言葉が聞きたいんじゃないんです! 私は……っ」
「シャラは優しい子だな、変わっていなくて嬉しいよ」

 ソスランはにこりと笑ってシャラをそっと抱き寄せた。

「ありがとう」

 そして、シャラの潤んだ目を見る。

「イース同盟に名を連ねる国々、エリエル騎士団、君を慕いついてくる多くの兵士達傭兵達、ラクシュミ、エオスを守ってやってくれ」

 その言葉は重かった。だがシャラは、目にためている涙を拭って、迷うことなくこれに頷くのだった。

「はい、私の力と命が続く限り……」
「あと、ラクシュミの影に潜んでいる精霊さん。ラクシュミを頼んだよ」

 ソスランは最後まで泣き言を漏らさず別れた。その背中を見送るラクシュミは、声を押し殺して泣いていた。
 ソスランが連行されたと一報が入ったのは、その日の夜の事だった。
 すぐさまモルドレッドの下へ突き出され、もう償ったはずの罪をあげつらって再び断罪された。
 シャラはその場に居合わせてはいなかった。後でその場で起こった出来事を教えてくれたのはアルフレドである。

「その罪は死罪を以てのみ償われる」

 そう宣告したモルドレッドの顔は酷く楽しそうだったと、アルフレドはシャラに語った。だがアムルが必死で懇願したおかげで、どうにか流刑に減刑させることができた。それとて死ぬまで出てこれないのだが。
 減刑を懇願したアムルをモルドレッドは口汚く罵ったという。正確に何と罵ったかは、アルフレドは自分の口からはとても教えられないと言っていた。
 ソスランが流刑に処されたのは、このイース王国の最西端に浮かぶ孤島であった。
 ここにはイストリア帝国の神官が残した神殿があり、かつてイース王国を盟主とする九諸国がトゥリア帝国に対しての同盟を結ぶため誓約書を奉納した。そう、この島こそがイース同盟発祥の地である。
 神聖なる誓いをうち立てた島も、今では政治犯を収容する流刑地として使用されていた……。