複雑・ファジー小説

Re: さいわいを編む ( No.1 )
日時: 2018/11/26 16:59
名前: 遠野 (ID: aruie.9C)

 姉が、名も知れぬ男と駆け落ちをはかった。

 その知らせが届いたのは、ティヤムが20歳を迎えた、夏の日のことだ。かくして、彼は夏期休暇の折に生家へ戻ることとなったのだ。







「それで、渋々結婚を認めたってわけさ」

 そう話を切り結んだのは、ティヤムの従兄弟だった。

 良く晴れた、うららかな午後。寄宿学校から帰郷したティヤムを待ち構えていたのは、いかめしい顔をした、血縁者たちだった。皆が姉を、姉の婚約者の名を口にする。つつしみとならわしを、誰よりも尊ぶ一族のことだ。此度のことは、一層いとわしく映るのだろう。鬱々とした空気は、屋敷中に瀰漫する。いかに朴訥としたティヤムといえど、その雰囲気に耐えきることなど、到底かなわなかった。そういう顛末で、従兄弟と連れ立って庭園へと逃げ込んだというわけだ。

「お前の姉さん、泣くわ喚くわの大騒ぎだったんだ」

 夏の庭園はとりどりの花がやわく綻ぶ。その間を縫いながら、年近い従兄弟のカミルはそう呟いた。ティヤムの姉は、いたく頑固で気が強い。一度決めたら意地でも曲げない性格ゆえに、先に折れたのは一族の方だった。

「さすがに、隣街まで逃げていた時は、笑い事じゃなかったけどな」

 その光景が、ティヤムの眼に浮かぶようだった。きっと、親族が揃いに揃って、汗を散らして奔走したのだろう。

「俺の姉が、迷惑をかけて申し訳ない」

 ティヤムは黒褐色の髪を掻きながら頭を下げた。彼の物憂い顔立ちが、わずかに歪む。それをうけて、カミルは意地悪そうに笑った。

「いいや、迷惑を被ったのはお前の方さ」
「どういうことだ」

 返事の代わりにと、カミルは大げさな仕草で肩を竦めてみせた。彼のまなこが、皮肉めいたようにかがよう。

「姉が辺鄙な田舎へ嫁ぐことになった。じゃあ、残された弟の方はどうだろう。いまや落ちぶれた一族にだって、立派な矜持があるというのに」
「……まさか」
「そう、そのまさか」

 ティヤムのうなじに、嫌な汗が伝う。ちょうどその折、こちらへ駆寄る足音がひとつ。

「おおい、ティヤム! お前の嫁さんが決まったぞ!」

 父の朗らかな声が、澄んだ空に響き渡る。奔放な姉の始末を拭うのは、いつだって弟のティヤムだった。







 恋というものは、ひどく厄介なものだ。特に、苛烈なものほどわずらわしい。それが、ティヤムが一等一番に学んだことだった。恋に恋する姉を、間近で眺めた彼だからこそ。結婚というものに淡白だったのだ。
 眼前の父は、人好きのする笑顔を浮かべている。ティヤムは居心地が悪そうに、革張りのソファに腰掛けていた。

「お前こそ、我が一族の希望なんだ」

 力強く、ティヤムの父は告げる。

「格と歴史がある、お前に似合いの相手だ。少々、変わり者らしいがね。けれど大丈夫、きっと素敵な娘さんだよ」

 マラミク。それが、ティヤムの婚約者の名だった。古く継がれた仕立物師の血統で、曰く、夜を編む一族という。彼らの手ずから産み落とされる品々は、王の祭事に献上される。父がまことに望む、箔のある家系なのだ。

「けれど、父上。先方は、なんと仰っているのですか」
「もちろん、マラミク嬢のお父上も喜んでおられるよ」
「父上、どうか本当のことを」

 恨めがましい視線を遣れば、父は気まずそうに身じろいだ。そうしてわざとらしく、咳払いをしてみせる。

「……マラミク嬢は、あまり気乗りではないと聞く。けれどね、ティヤム。嫁入り前は、皆そのようなものだよ。お前に一目会えば、きっと気に入ってくれるさ」

 言い訳がましく、慌てて言葉をたぐる父を横目にして、ティヤムはため息をついた。夜を編む一族の、マラミク。世事に疎いティヤムだけれど、彼女の噂は知っていた。

 マラミクの仕立てるドレスはうつくしい。けれども、当の彼女を見たものは誰もいない。なぜなら、極度の人嫌いなのだから。

 そのような彼女が、どうしてこの婚約に喜べるだろう。ティヤムは頭を抱えた。

「いいかい、ティヤム。夜を編む一族との婚姻は、大切なことなんだよ。我が一族の、失われた栄光が戻るかもしれない。賢いお前なら、よくわかるね」
「……わかっておりますとも」

 ティヤムだって、いつかは誰かを嫁にもらうことを、重々承知していた。けれども、あまりにも事が急いている。姉の代わりの重責と、人嫌いの娘を嫁にとる憂い。そのふたつが、ティヤムの背にのしかかる。

「なに、今という話じゃない。縁付くのは、お前が寄宿学校を卒業した後の話だ」
「だけれども、近いうちに顔を合わせねばならないでしょう」

 夏が過ぎれば、ティヤムは寄宿学校に戻る決まりだ。時間はあまりない。

「なるべく早いほうがいい。父上、相手方にお伺いを立てましょう」
「乗り気になってくれたか!」

 ティヤムの父の声は弾んでいた。手を合わせ、顔を綻ばせる。そうして、茶目っ気たっぷりに片目をつむった。

「それなら、ティヤム。女性には、かわいらしい贈り物が必要だと、そう思わないかね?」
「父上、マラミク嬢には、特に慎重になったほうが……」
「おおい、誰か! 薔薇の花束を用意しておくれ!」

 ティヤムの言葉を遮って、父は声を張り上げる。ティヤムはうんざりするほど、思い出したことがあった。姉の奔放なところは、父譲りなのだ。