複雑・ファジー小説
- Re: さいわいを編む ( No.2 )
- 日時: 2018/11/26 16:58
- 名前: 遠野 (ID: aruie.9C)
この国では、死神は畏敬の象徴だ。死者の魂が留まることのないよう、黄泉へと連れてゆく。だから、年にいちど、死神に感謝と祈りを捧げなければならぬ。死神の貴婦人にあつらえた、うるわしいドレスを仕立てること。それが、夜を編む一族の生業だった。
マラミクはそのような一族に連なる娘だ。射干玉の髪と揃いのまなこは、常に頼りなく伏せられていたし、真白の肌には、いつだって黒い装束がまとわりついていた。彼女は、誰よりも卑屈だったのだ。
「マラミク、頼んでいた刺繍は出来上がった?」
「これがそうよ、かあさま」
マラミクの日課は、帳を落とした室内で針仕事をすることだ。好きな香を焚いて、滑らかな布に針をすべらせる。それだけで、マラミクは幸福だった。
「まあ、見事な柄だこと。マラミクは一族の中でも、一番の腕かもしれないわ」
「……いいえ、そんなことない。あたしなんて、その」
マラミクが差し出した紗には、花を象った刺繍がみごとになされていた。感嘆の息を吐く母に、マラミクはかぶりを振る。
「マラミク、卑屈と謙虚はちがうものよ」
「……ごめんなさい」
「もう、謝ることじゃないの。それで、あなたの婚約のことなんだけれど」
母の言葉に、マラミクはぴたりと動きを止めた。婚約。それは、ここ数日の悩みの種だった。マラミクは年頃の娘だ。結婚といった類の話が出るのは、当然だろう。彼女だって、望まないわけではないのだ。けれども。
あたしなんかが、結婚だなんて。
相手の方に迷惑をかけてしまうかもしれない。
マラミクの頭をかすめるのは、そればかりだった。
「ティヤムさまがね、ぜひあなたにお会いしたいそうなの」
「……断ること、できないのかしら」
「だめよ、マラミク」
マラミクのつぶやきに、母は顔をしかめた。
「とにかく、一度お会いすればいいじゃない」
「……わかった」
マラミクは、不安そうに瞳をまたたかせる。ひとすじに引き結ばれた唇は、かすかにわなないていた。マラミクの母は、娘の細い肩に手を置く。
「いい、マラミク。あなたは、幸福なのよ。ティヤムさまは歳が近いし、物静かな人柄と聞きます。あなたに、乱暴はしないでしょう。それだけで、どれだけ恵まれたことか」
マラミクはうつむいて、静かに母の言葉を受け止めた。嫁ぐということは、すなわち大きな賭けなのだ。顔も、歳も、名前すら知らぬ婿殿へ嫁ぐことは、そう珍しくはない。だからこそ、マラミクの父がこの婚約に心を砕いたことなど、身に染みていた筈だった。
マラミクははっと面をあげて、そうして確かに頷いてみせた。
「いつまでも、子どものままじゃいられないもの。あたしは、なんて幸せな娘なんだろう」
マラミクが淡く笑む。
「……マラミク」
ティヤムの一族は、マラミクからすれば格が落ちるだろう。けれどもあの家は近頃、商売が軌道にのっていると聞く。だからこそ、あの家の欲するものとは、ゆるぎなく続く血脈との繋がりだった。この婚姻は、たがいに都合が良かったのだ。変わり者の娘を嫁がせることのできるし、向こうとて格式が得られる。すべてが、まどかに収まるのだ。
母はマラミクを引き寄せ、ひしと抱きしめた。
「あなたは、しっかりした子だもの。きっと、向こうでも可愛がられるわ」
「ありがとう、かあさま」
「けれどね、マラミク。ティヤムさまが寄宿学校を卒業される、あと少し。しっかりと、仕度をしましょう」
「……うん、もちろん」
そうして、しとやかな時間がめぐる頃。廊下から、ぱたぱたと小気味好い足音が響き渡る。ふたりは顔を見合わせて、扉の方へと視線をやった。
「お嬢さま、たいへんでございます!」
長く一族に仕える、年嵩の家政婦のものが扉を勢いよく開けた。右腕には、真っ赤な薔薇の花束。マラミクは目を丸くした。
「まあ、見事な薔薇だこと」
マラミクの母は、頬に手を当ててうっとりとつぶやいた。家政婦は花束を、ずいとマラミクへ差し出す。ふわりとした芳香が立ち上がった。
「こちら、ティヤムさまからの贈り物でございますよ!」
「なんて情熱的なのかしら!」
「これだけではございません。もっとたくさん、届いておりますゆえ、あちこちに飾りたてましょうね」
マラミクを置きざりに、母と家政婦がはしゃぎ立てる。当の彼女は、薔薇の花びらを睨みつけながら、目眩をおさえていた。ひとつばかりの束ならまだしも、大量の薔薇の花だなんて、持て余すに決まってる。なんて押し付けがましい人だろう。そのようなことを、マラミクは考えていた。
それに、赤い薔薇なんて似合うはずがないのだ。あたしは、夜を編む一族なんだから。
あかあかと広がる花びらを撫でながら、マラミクの胸中はくすぶるばかりだ。そうしているうちに、家政婦は「あっ!」と大きな声を上げた。
「おやおや、忘れていました。ティヤムさまからね、ぜひお嬢さまに会いたいということで」
次に家政婦が差し出したのは、ティヤムの名があてがわれた封筒ひとつ。マラミクはこわごわと封を切る。几帳面な文字でつづられていたのは、形式ばった挨拶と、明日の午後にはマラミクを訪うという旨。母は手紙をのぞきこみ、そして口角を上げた。
「やっぱり、ティヤムさまは決断力がある人なのね!」
マラミクは、そうは思えなかった。けれども、マラミクはティヤムを受け入れねばならぬ。人嫌いと噂される娘を娶ろうなど、ティヤムのほかに誰がいよう。マラミクはぐっと言葉を飲み込んだ。
あたしは、幸せものなのだ。
そうやって、ぽつりと胸の内に語りきかせた。傾きかけの歴史ばかりの一族と、位の低く小金だけを蓄えた一族。ふたつの婚姻は、ほの暗い背景があったわけである。