複雑・ファジー小説
- Re: 花束の其の一輪は【アンソロジー】 ( No.3 )
- 日時: 2019/01/26 15:53
- 名前: 幽顔 (ID: hgzyUMgo)
本の中に、一輪の花が咲いていた。部屋の内装がほとんど白いせいか、対照的な紅色は瞼の裏に焼け付くようである。
無色の背景、並ぶは無機質で生気のない整った黒。どことなく、命に嫌われているような一室において、その文字の配列は葬式の参列者のようにも思えた。しかし、その葬列を目で追う少年の瞳だけは、見守っているだけで力強さを感じられるほど、生きる意思に富んでいた。一つだけ背の高い木が林から飛び出しているように、無味乾燥、寒々しい空虚を想起させる一室において、強い光と熱を放っている。
人生が船出だとすれば、その眼光は灯台のようなものだろうか。部屋に入ると同時に、普段と同じような溌溂とした瞳に目を奪われた少女は、やはりいつものように胸の奥に火が灯るような安堵を覚えた。良かった、今日もちゃんと、そこに、居る。
なすことも無いまま、一心に文字を目でなぞり、小説の世界観の中に没入していた彼であったが、扉が開いた気配に顔を上げた。ついでに、窓の外を見る。陽が傾き始めていた。秋風が優しく枝にしがみついたままの木の葉を揺らしている。数日前まで青々としていたはずのその先端は、命を手放すかのごとく、次第に萎びようとしているところだ。
小さく息を漏らして後、扉の方に目をやった少年は、現れた少女を目にして頬を緩めた。本を読むことは、病床に伏した彼に許された数少ない娯楽ではある。だが、読書を通じてその世界に浸りこもうとする彼にとっては、どうしても集中力を必要とする。無意識に、抵抗することも無く底なしの沼に沈んでいくようなものだ。集中している様子を目にした周囲の者からは、時折目つきが険しくなっているぞと揶揄されるほどに。
小説の世界に浸ることは、気晴らしであると同時に合戦のようでもあった。特に手に汗握るような展開では、自ずと渦中の人物になり切ったかのような緊迫感に身を、心を晒すこととなる。
夕日のように鮮やかな花弁を見せつける、そんな花が書かれた栞を挿しこみ、ぱたんと小さな音を立てて本を閉じた。僅かな空気の流れが、彼の頬をくすぐる。小さな音を立て、空気を巻き上げるその様子が、何だか本がくしゃみでもしてしまったようだと感じた。
短い挨拶をぶつけて、彼が横になっているベッドに、来客は歩み寄った。ウェーブのかかった金色の長髪が歩みに合わせて前後に揺れている。相変わらず派手なものだと、少しばかりブランクがあったその来訪に、彼はより頬の筋肉を緩めた。
「おっす、元気だったか」
「元気、って。そもそも元気じゃないからずっとここにいるんだってば」
相変わらず言葉をあまり選ばない、ずけずけとした物言いを捉えて少年は笑った。口にした言葉は糾弾しているように思えるが、その声は柔らかい。何だか、その失言さえも楽しんでいるようで。咎められているのかからかわれているのかも分からず、居場所無さげに少女の方は髪をかき上げた。
そういう意味じゃないって分かってんだろ。口を尖らせ、彼女は言う。それでも病人にその言い方はどうかと思うよと、より一層笑い声を弾ませると、所在なさげに頬を赤らめ、顔を俯かせた。どうにも、以前も指摘された失言を繰り返したのが余程照れ臭かったと見える。
折角来てくれたのに、気分悪いものにさせたくないな。そう割り切った彼は、可笑しさによじれそうな腹を堪えさせ、全く違った話題に転じた。
「今日は星型なんだね」
「ん。あー、これね。いいしょ?」
学校指定のブレザーをご丁寧に正しく着ておきながら、その姿はやはり派手というに尽きた。足元だけを見れば大したことは無い。指定の革靴に、秋の涼しさから身を守るだけの長めの靴下。スカートの丈も短くは無く、かと言って長すぎず、他の生徒たちと大して変わらない。しかし、一度腰より上に目を向けてしまうと、校則を忘れてしまいそうになる。
通学鞄を握る手には、色とりどりの爪が異彩を放っていた。綺麗に手入れしながら伸ばされた爪が、綺麗な塗料で宝石のように彩られている。そんなに伸ばして引っかかったりしないものかと、少年の方が心配になるほどだ。
顔を見れば嫌でも目にする、柔らかに波打つような髪は黄金色に輝いているようだった。欧米人のような自然なブロンドではなく、絢爛を思い起こす程に鮮やかな、人工的、作り物の金糸。彼女自身本来は綺麗な黒髪をしているのだが、高校に入学して以来、ずっと派手な色に身を包んでいる。
変わりたかったんだ。その昔、そう口にした彼女だが、実際のところは弱さをメッキで隠しているだけだと痛い程理解していた。
虚ろ気な自分というものをよく理解しており、他者の言葉で、その日の心持一つで、容易に揺らいでしまう心。その不安定さを吐き出すための術を持ち合わせていなかった彼女は、時として傷つくことも多かった。それゆえ、彼女は新しい自分に生まれ変わろうと、他者の言動に容易に惑わされず、確固たる意志を持てるようにと、形から入ろうとした訳ではあるが、いつしかただの傾奇者となっていた。
それで幾分か、弱い自分が影を潜めるというのならば、悪くない。傾きかけた太陽が、橙色に染まっている、その日差しを受けた彼女は何故だか、星が堕ちてしまう虫の報せのような波紋を胸の内に広げた。
そう、星と言えば。予感を振り払うように彼女は耳たぶの辺りに手をやった。一瞬、目の前の少年に星だと口にされた時には、胸の内を見透かされたようでどきりとし、心臓も飛び出してしまうかと思った程だが、彼が指していたのは全く別のものだった。
まだ、日暮れだというのに。彼女を傍で見守るように、一等星が瞬いていた。陽の光を反射し、時折輝くその様子は、むしろ月のようではあったけれども。そんな少年の下らない茶々など、当のピアスはいざ知らず、ただ特等席で少女の横顔を眺めていた。
当然、校則で禁じられている。
「体育の田中先生とか五月蠅くないの?」
「ばぁか。体育でもつけっぱだったら危ないだろ。外してるよ」
というかそもそも田中は髪色だけでねちねち絡んでくるからな。吐き捨てるようにぼやいたその表情はやけに倦怠感が浮かんでいる。大方、ここ最近注意されたばかりなのだろうなと、しばらく登校できていない彼にも分かった。
「その爪も充分危なさそうだけどね」
「うるさい。いつもあんたは一言多いんだよ」
目を細めて睨みつられ、怖い怖いと溜め息を漏らした。いつからこんな不良娘になったんだかと肩を竦めるも、口には出さないでおいた。
「それにしても久しぶりだね」
「ん、ちょっと忙しくてさ」
「良かった。てっきりもう、僕の顔も見たくなくなったのかと思ってたから」
「……そんな訳」
洒落にならない冗談に、その表情が翳る。そんな事、思うはずもないと弱弱しい声で告げた。
「ごめん」
「いいよ。来れなかったのはほんとだ」
彼の言葉に強く言い返せなかったのは、彼女自身後ろめたいことがあったせいだ。別に、何一つ忙しくなど無かった。来ようと思えばいくらでもここに来れたはずだ。しかし、どうしても足がこの部屋に向かわなかった。全部、自分が弱いせいだ。そう断じるだけの確固たる自覚が、彼の言葉以上に彼女の胸を締め付けていた。
しばしの沈黙。久々に訪れたはいいものの、何を口にしたものかお互いに分からなくなっていた。通学鞄がいやに重たい。中に入っているものを渡しに来たはずなのに、鉛の箱を持っているようで、落とさないようにするのがやっとだった。
帰りたくはなかった、せっかく来たのだから。目的も果たしていない。息苦しさに耐えかねて、踵を返すなどできる訳も無い。それに、何故だか彼女自身、帰ってはいけないとの声がどこからとなく聞こえるようだった。
目の前の少年は、以前に見た時よりもずっと血色がよかった。学校の先生たちが、「彼も小康状態に入ったらしい」「復学できるかもしれない」そんな事を噂しているのを耳にしたのだが、それは事実だったようだ。柔和にほほ笑むその様子は、かつてグラウンドを走り回っている姿を見た時と、同じようなものだった。
ふとした時に視線がぶつかり、何となく気恥ずかしくなったが、目のやり場に困る。二人しかいないのだから、無理に目を逸らすのは気を悪くさせそうだし、動揺しているとすぐに分かってしまう。何かないものかと、視界の中を必死に探していると、布団の上に置かれた彼の手が目に入った。
突破口が見つかったような心地で、胸の閊えが取れた少女は、それまでの躊躇はどこへやら、足早にベッドの傍まで歩み寄った。首を傾げた少年に対し、他愛ない問いかけを投げつけた。
「今日は何読んでんのさ」
「ああ、これね。子供の頃大好きだったファンタジーを、また読み返してるんだ」
「何てタイトル?」
「多分知ってると思うよ」
そう前置いて彼が口にしたのは、誰もが知っているような超大作だった。魔法使いの血を引く少年が、世俗から離れた魔法学校に入学し、学友たちと研鑽し、悪の大魔法使いを倒す物語。アメリカで映画化されており、そのシリーズは公開される度に日本でも話題になるほどだった。
「あーこれ私も好きだったよ」
「映画?」
「本でも読んだよ。私を何だと思ってるんだ」
「不良娘」
「あんたは中学までの私を知ってんだろ」
「あの純朴な女の子はどこへやら」
ぶっ飛ばすぞと一言添え、一瞥すると彼は両手を上げた。お手上げだと言うなら初めから茶化すんじゃない。苦々しく愚痴を溢し、奪い取るように彼からその本を借りた。ぱらぱらと頁をめくっていると、なにやら堅い違和感を指先に覚えた。何だろう。異物感を感じたところを開いてみると、そこには鮮やかな花が咲いていた。
そう言えば、栞を挟んでいたなと、ようやくここで思い出す。暮れゆく西日と同じような、鮮烈な赤色が、毒々しく咲き誇っていた。
「いや、病人の栞としてこれはどうなんだよ」
「綺麗でしょ? 曼殊沙華」
「やっぱり彼岸花じゃんか」
縁起悪いんだからこんなもの使うんじゃないと、蓋をするように本を畳んだ。押し付け、返そうと思ったものだが、縁起が悪いと言ったのは自分自身だ。わざわざお墓の周りに咲くような花を押し付けるだなんて行為、本当に目の前の彼を冥府へ向かう旅路に送り出してしまいそうで。伸ばしかけた腕を、ぴたりと止めて、繋ぎ止めるように両手で抱きかかえた。
リコリス、その和名は彼岸花。日本では別名として曼殊沙華とも呼ばれる。身体の中に毒を蓄える性質から、モグラなどが故人の死体を食い荒らすのを防ぐために墓の周りに植えた逸話に由来して、彼岸花と言えば墓を、そして死を連想してしまう。秋口、俗にいう彼岸に、血のように真っ赤な花弁を見せつけることもあり、不吉だと言われるのも仕方ない。
その花を摘んで持ち帰れば、家族に凶事が訪れるだとか、家が火事になってしまうだとか。それはきっと害獣除けの花を引き抜かれないための迷信だったのだろうけれど、現代ではその不吉な迷信ばかりが受け継がれている。
「そう邪険に扱わなくても……。綺麗だと思わない?」
「綺麗でも不吉なもんは不吉だ」
頭が固いなと思うも、綺麗であるとは同意されたため、言い返すことなく素直に従った。
「でもさ、曼殊沙華って花言葉は悪くないんだよ、ちっとも。『想うは貴方一人だけ』だったり、『情熱』だったり。恋愛系の、ロマンチックな言葉がいくつもあって、むしろ生気に満ちた女性にぴったりだと」
「御託はいいよ」
「小説に出てくる悪党みたいなセリフだ」
「その昔、本の虫だったからな」
今でも読んでるだろうと水を差す。前ほどではないと否定し、顔を顰めた。本の虫では、無い。なるほど確かにと、得心がいった。
「別にいいでしょ、返してよ」
「駄目だ。治るまでお預け。その後取りに来い」
「治らなかったらどうすんのさ」
「それこそ縁起でもねえ話だろ」
「元気が出るんだよ、その栞を見てると」
「あんた確か派手なの苦手だろ。大人しい感じの方がよっぽど似合うよ」
「最近はそうでもないよ。決めつけないでよ」
彼の価値観を決めつけるような発言に、初めて涼し気な笑みを崩した。勝手に栞を掻っ攫う横暴にも、縁起が悪いと決めつけた横柄にも気を悪くせず、笑みを浮かべ続けていた彼が。
「派手で、煌びやかで、却って人は嫌煙するかもしれない。でもだからこそ綺麗な華が、今の僕は好きなんだ」
仮面が剥がれていたのは僅かな時間だった。険しい表情だったのは、噛んで含めるようにゆっくりと言葉を紡ぎ、気持ちをぶつけるにつれてほぐれていく。最後には、厳しい言い方をして悪かったと、またほがらかに謝意を告げたほどだ。
「分かったよ。情熱的だな、あんたも」
「それを花にぶつけてるのは情熱的と言っていいか疑わしいけどね」
意地悪はもう止め。卒業証書を渡すように丁寧に、両手を添えて文庫を返した。ありがとう、そう口にしてパラパラと頁をめくり、毒々しい程に派手な、真紅の花と対面した。さっきよりずっと傾いた西日が、その横顔を真っ赤に染め上げている。
秋の日暮れは、足が速い。気が付けば、其処に居たはずのお天道様はいなくなりつつある。沈みゆく太陽の、血のように赤い陽光に、彼は胸の内で静かに感謝した。足早に地平線の向こうへ消えてしまいそうな姿は、彼女にとってそら恐ろしかった。
「あのさ、一個お願いがあってさ」
「何、あんまり無理なお願いはしないでよ」
そんなに大したことじゃないさと彼は言う。確かに少年は無理難題を押し付けるような人間じゃない。聞いてみるくらいは構わないだろう。
それにしても、通学鞄は重いままだ。身体中、鎖と枷とで囚われている。完全に縛り付けられている訳では無い。飼い犬と同じようなものだ。一定の行動以上を封じられているだけ、認められている範囲内においては自由を得られる。他愛ない話をすることも、ちょっとしたいたずらもできる。けれども、どうしても彼への届け物を取り出そうにも、鞄を閉じている口に触れられそうにない。
「もし、だよ」
これはあくまで仮定の話だと、少年は念押しする。何度も言われなくてもしかと聞いている。少女は、何をそんなにこだわっているのかと、憮然としながらも頷いた。
「えっと……さっきも言ったけど、僕はあの栞を気に入っててさ」
「趣味は悪かないけど縁起でもねーやつな」
「……うん」
縁起でもない、というのは流石に彼としても受け入れざるを得なかった。生きようと努めるべき病人が、わざわざお墓を守るための花を大事にするだなんて。死後の保険をかけていると言われても、否定できたものではない。
- Re: 花束の其の一輪は【アンソロジー】 ( No.4 )
- 日時: 2019/01/26 15:54
- 名前: 幽顔 (ID: hgzyUMgo)
「誰にも使われず、捨てちゃうっていうのが勿体ないんだ」
「何の話だよ」
急に、目が覚めたような気がした。起きてすぐ、まだ夢と現との狭間を放浪していた意識が、冷や水をかけられ引き締められたように。鼻のずっとずっと奥の方、と呼ぶべきだろうか。後頭部の手前の方、と呼ぶべきだろうか。頭蓋骨の中、脳みそのどことも分からない部位が、不意に思い切り殴られた錯覚。
これまでずっと、身体だけが覚醒していたのではないかと勘違いするほどの衝撃だった。目が冴えた。今の今まで、見ないようにとしていた何かが、色彩と輪郭を携えて、リアリティを持って迫って来た。そんな言葉が、穏やかなその顔から、以前に会った時と比べると血色の良くなった唇から飛び出す想定などできていなかった。
覚悟なんて、なおさら。
「もしも僕が死んだら、君が貰ってくれない?」
喉の奥にバリケードができた訳でもないのに、息が詰まった。その視線は、少年を捉えている。西の空に隠れていく太陽を見た時のように、目の前が朱色に埋められた。
それはもはや、衝動という他に無いだろう。気づけば、己を律していた楔ははじけ飛んでいた。あんなに重苦しいと思っていた重みは、がらがらと音を立てて瓦解して、半ば叩きつけるように彼女は通学鞄を傍にあった机の上に置いた。
凍てついたようにびくともしなかった鞄の留め口も、今は容易に言う事を聞いた。あれだけ頑固だったはずの身体も、意志も、恐れや不安など全て消し去って、彼女の願いに寄り添うように動き出す。
「……来月」
俯いた様子で、ぼそりと呟いた言葉が、何であるのか初めは聞き取れなかった。小さく漏れた、えっ、との一声が何より強く物語っていた。
「来月さ、修学旅行なんだよ」
今日ここに来てから、ずっと重たくて、動かなくて、苦痛を感じていただけのしおりを一冊取り出した。鞄の表面にはごてごてとシールやぬいぐるみなどが節操なく側面や開閉のチャックに取り付けられていたものの、蓋を開ければ綺麗に整頓されていた。明らかに手作りと分かる、ざらざらとした灰色の紙の束が二つ並んでいた。その内の一つを手に取って、さっき返した本と同じように、差し出す。
ホチキスで止められたそのしおりの表面には、美術部の誰かが書いたイラストが乗っていた。裏面を返して見れば、編集した修学旅行委員の名前がずらりと。その中に彼女はいなかったものの、懐かしい名前がいくつも載っていた。
「今、小康状態なんだろ? 先生たちが噂してたぞ」
「うん、ここ最近は元気だったよ」
「だったら、修学旅行ぐらい行ける行ける。ちゃんと読んどけよ」
有無を言わせず、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。寝転んでいる膝の辺り、掛け布団の上に広げた冊子に目を落とした。流し読みしてみれば、当日の行程や持ち物、おすすめの観光スポットに、緊急連絡先まで詳細に書かれている。
そのしおり自体から、胸が弾むような感情が伝わって来た。踊っているような筆致から、散りばめられた星やハートの模様から。
「確かにこれを見ちゃうと、まだ死ねないなあ」
「だろ? さっさと元気出して出て来いよ。皆待ってる」
「うん、でも修学旅行は流石にダメかな。完治している訳じゃないし、お医者さんもいつまた悪くなるか分からないから、もう後三か月は入院しながら、また体力をつけなきゃ、って言ってたし」
もう随分とねたきりの生活が続いている。時折握力など、上体は鍛えられていたようだが、内臓と足腰はそうもいかない。立てばふらつき、上手く歩けるかも分からない。点滴で栄養を摂ることも多く、口にするとすれば水と流動食が多かった。消化能力が落ちていないとも限らない。
「行きたかったなぁ……」
力なく吐き出されたため息が、ゆっくりと歩いていく。その場の両者を置いてけぼりにして、何処でもない何処かへと向かうように。脇目も振らず、どこへともなく進み続けた。当然、どこにたどりついたのかも分からない。
ふと、曼殊沙華の花言葉が、脳裏を過った。次第に、自分が恐れていくものが浮き彫りになっていく。モザイクがかかっていたはずの恐怖の象徴、その解像度が次第に増していく。
見たくない、見てはならない。言霊の国に住んでいるだけある。その不安がにじり寄る気配を察知した彼女は、鞄を閉じることも忘れて取っ手を掴んだ。明言したら、握りしめたものをそのまま取りこぼしてしまいそうに思えて。
もう、逃げることしか考えられない。太陽が沈む様を見たくはない。陽が堕ちれば、夜が来てしまうのだから。
「流石に無理なもんは無理か。分かったよ」
「ごめん」
「謝んな、ちゃんと治せよ」
「うん、心配かけて本当に、ごめん」
もう後少しと言ったところで、日は暮れてしまいそうだった。家はここから言う程遠くは無い。バスに乗ってしまえば十分もすれば着くところだ。多分、夜が空を塗りつくしてしまう前に、自宅の扉をくぐることができるだろう。
だから謝らなくてもいいというのに。そんな言及も何とか飲み込む。去り際に、波紋を起こしてしまうものではない。
「あのさ」
「どうしたの、何か忘れ物?」
「……彼岸花の花言葉なんだけど」
「うん」
「他に、まだあったよね?」
しばしの沈黙。それは、少年が答えられない事実を暗に示していた。知らないならば、きっと知らないと答えたことだろう。あるいは、本当に忘れていて考え込んでいれば、その沈黙も受け入れられた。
けれども、彼がしたことと言えば、気まずそうに視線を逸らし、また目を合わせたのみ。取り繕おうと口を開きかけ、唇が僅かに震えたけれども、今更誤魔化す方が不自然だと断じて、そのままだんまりを貫いた。
「知らないと思わないでよね」
捨て台詞のようだった。揺れているようで、掠れそうなその声は、在りし日の彼女と全く同じ声質をしていた。
その背に呼びかけることもできず、誰の目も気にしなくてよくなった彼はと言えば、一人柔らかなベッドの上で、項垂れることぐらいしかできなかった。今度吐き出した吐息は、もはやどこへ行くこともできず、知らぬ間に墜落する。何となくひどく疲れてしまったせいか。小説を再び開くような気にはなれない。
もっと軽いものを求め、彼は少女が置いて行ったしおりにもう一度目を通してみることにした。向かうのは東京らしいが、東京なんかに行って何をするのやら。ただの観光になるのだろうな、自分も久方ぶりに旅などしてみたいな、などと思えども、その夢は叶わない。
「ほんと、許してくれるものならいきたかったな」
喉に棘が刺さったような威圧感がとうとう堪え切れない。嗄れた声がこだましたかと思うと、急にせき込んだ。大げさな咳を聞く者は、周囲にはいない。誰もが、今日の彼はまだ健康であると疑っていないせいだ。なまじ、ここ数日健康な日々だったせいか、すぐ傍の廊下を歩いていたナースも、噎せたのだろうかと油断していた。
今日もまた、日が暮れる。そしてまた、明日になったら昇ってくるのだろう。何食わぬ顔で、目が覚めた時にはとっくに、白日は東からやって来る。口を押えていない方の手で、ナースコールのボタンを押した。
窓一面に、夕日が滲んでいた。咳も収まり、何とか顔を覆っていた手を離す。
霞みそうな視界の中、少年は、その手に夕焼けを携えていた。
太陽が落ちてしまう姿とは、似ているようで似つかず、ただだらしなく滲んだ赤が、純白のベッドの上に滴り落ちた。
『容体は落ち着いていますが、急変する症例も多いです。もうしばらく経過観察が必要ですね』
担当医師の言葉が蘇るも、声は思い出せない。記憶が倒錯し、誰の声を思い出そうにも機械音声のように思えてしまう。いよいよこれは不味いかもな。薄れる意識の中、思い返すのは、楽しかった過日の思い出、過ごしたかった未来への期待。
昼までは何ともなかったのに。そんな悪態をぶつける相手もいない。強いてぶつけるならば、恨めしき自身の肉体だろうか。
「いきたかったな」
最後の声に含まれた意図は、何だったのか。向かいたい場所があったのか、まだ生きたいと祈ったのか。
それを唯一知る人はもう、朝日を目にすることもない。
バス停は病院の駐車場を出てすぐのところにある。病院前という、極めてシンプルな停留所だ。夕方までは十分の一本のペースで出ているが、夜になれば一時間に二本しか走っていない。
夕方、とは言っても今は秋。陽が沈むのは早まりだしている。この時期であれば、多少薄暗くなった頃でもバスの本数は多いままだろう。ただ、病院の入り口を出て、五分とも歩かずとも住むその道が、今日はいたく長いように思えた。進む足取りがやけに思い。気を抜いたら、もう二度と足を持ち上げられないように思える程に。
背後では、太陽が沈みつつあった。振り向く度に、どんどん見えないところに潜り込んでいく。次に振り返った時には、もうその姿が見れないのではないかと不安になるほどだ。居なくなった景色など見たくない。知らず知らずのうち、彼女はもう、振り返ることを拒んでいた。目にしたくないものを目にするのは、時に真実を秘匿されるよりも、ずっと堪える。
病室での少年の言葉を、一つ一つ思い返す。最後に会ったのは、梅雨が明けた直後の頃だ。とすると、暦の上では二か月以上も経っていたのかと、時の流れの速さにゾッとした。自分が怯えていたせいで、それだけの時間を無駄にしていたなんて。
「派手で、煌びやかで、却って人は嫌煙するかもしれない。でもだからこそ綺麗な華が、今の僕は好きなんだ」
いつになく強い語気だった。のらりくらりと衝突を避けているような彼が、ぶつかることも恐れずに真っすぐ言い放ったのは少し意外だった。
「それが、本当に花のこと言ってるって、信じると思ったのかな」
太陽はあくまで、彼女を背中から照らしていた。であれば、本来染まるはずもないのに、少女の耳は、頬は、背で向き合った夕暮れと同じだけの朱を帯びていた。
バス停に辿り着いた。同乗者はいそうにない。少し車両がやってくるまで時間があるようで、腰を下ろす。溜め息を吐き、また、自己嫌悪に囚われた。
頭頂だけを残して、昼の象徴はまた明日へ向かおうとしていた。これからやって来るのは、真っ暗な世界だ。夜の帳が、太陽を隠してしまう。滲む。水平線に衝突して、潰れるように、赤が輪郭を失っていく。
気づけば、雨が降り出していた。雲など茜の秋空に、一つも浮かんでいないというのに。アスファルトの地面に、煮えたぎるような雨粒が、一粒二粒と零れ落ちていく。
今日の彼は、血色が良いように見えた。けれども、長期的に見ればそれは、まやかしのようなものだろう。たまたまここ数日、顔色が良かっただけだ。最後に会った時と比べれば、頬はこけて目は落ちくぼみ、腕は枯れ枝のように細くなっていた。
春はそれこそ、週に二度、三度と訪れたものだった。しかしある時、気づいてしまった。それに気づいたらもう、あの部屋に向かう足が言う事を効かなくなった。今日は雨が降ったから、今日はテストの勉強があるから。もっともらしい理由ばかり探して、何とか行かないようにと言い訳をし始めた。
怖かったんだ。心の中の、弱い自分が囁いた。日に日にやつれていくその姿が、日ごとに自分達から遠ざかっていくようで。知らない世界に、手招きされているみたいだった。きっと彼自身が誰よりもそれを強く感じていたことだったろう。身体の不調を隠して微笑みかける彼の頬には、いつしか汗が浮かぶようになった。
昨日より今日、今日より明日、そうやって日に日に唇や頬の色から生気が失われていた。投与する薬がもうすぐ変わる。そんな報せを受けた時分は、見舞いをやめて一月足らずといった真夏の一日だった。
このまま死んでしまうのかと、恐れてばかりで、やはり足は彼の部屋へ向かおうとしなかった。訃報が届かないことが、何よりも嬉しい頼りだった。せめてもう一度ぐらい、会いたいと願えども、目にした少年が以前より具合悪そうだったらと思えば、途端に身が竦む。
自分では治療の力になれず、避けられない現実がただ自分の精神を摩耗させるだけ。むしろ、会ってしまえばその次こそ会う機会を失うのではと、誰かがその命を掻っ攫ってしまうような予感もしていた。
そんな風に怯えていた頃に、例の噂話が聞こえてきた。薬をより強いものに変えたおかげではあるのだろう。彼の容態が落ち着き、快復の兆しが見えているというではないか。今しか無いと思った。しばらく会えていなかった分も含めて、元気づけたいと思った。修学旅行のしおりが、都合よく学校で配布された。少しでも、楽しいことへの期待感が、彼を生きている世界に繋ぎ止めてくれればいいと、鎖のつもりで連れて行った。
現に、彼の表情はとても穏やかで、以前とはその声も打って変わってやわらかくなっていた。本当に、入院する前と遜色ない程壮健で、このまま退院してしまえばいいのにと初めは思った程だ。
だが、しばらく彼と接し続けていて気が付いてしまった。本を奪い返そうと伸ばした手の弱弱しさに。何を言われても笑みを絶やさない不気味なまでの高揚感に。『彼が察している事』を、彼女も察してしまったのだ。
バスがやって来て、彼女の前に停まった。扉が開いて、中から涼しい空気が漏れ出た。彼女の腰は、ベンチに張り付いて持ち上がろうとしない。運転手はバスに乗り込もうとしない少女のことを訝しんだが、その足元を見て何かを悟り、頷き、扉を閉めて車を発進させた。少女を置き去りにして、夕日を追いかけるように街の向こうへと走っていく。
彼岸花の花言葉はいくつもある。その花弁の色に応じたものも用意されているため、一般的な他の草花よりも意味が豊富にあるせいだ。
彼女は知っていた。それゆえに、彼が最も託したかった意味を察してしまった。
「もし、僕が死んだらってさ……」
その花言葉の一つには、独立というものがあった。
「死ぬって分かってなきゃ言える訳ないじゃんか……」
茜色から紫色へ、そして次第に濃紺の空へと。移り行く空の色の下、少女は何本もバスを乗り逃した。細長い車体がまた、彼女の正面を素通りしていく。いつしか月が姿を現し、そろそろ見送るのも五本目になろうかという頃、ようやく少女はバスへと搭乗した。
遠くから飛んできた枯葉が、かさかさと音をたてながら地面を擦る。秋に入ってしまったせいか、命を奪い尽くされた茶色い死骸は、そよ風に吹かれるだけで無情にもどこかへと消えていった。
雲など一つも浮かんでおらず、月は素肌を見せている。というのに、雨はまだ止みそうにない。
バスの中で俯く彼女の姿は、まるで萎びた一輪の花のようだった。
<おわり>