複雑・ファジー小説

Re: 花束の其の一輪は【アンソロジー】 ( No.7 )
日時: 2019/01/30 14:21
名前: 城流 (ID: vGUBlT6.)

 きっと、午後五時。
 見飽きたアスファルトの上に橙色の陽が降りていて、それを受けてきらきら輝いている彼の鼻水は、別段綺麗でもなく、むしろ当たり前の様に不快だった。
 清水はにへらと笑ってこちらを向く。

「ひさしぶりだね、かたぎりくん」

 最悪だった。
 歪んでいく口元の筋肉を必死で制御し、僕は、多分万人受けするだろうと思われる笑みを顔に貼り付けた。ひさしぶりだね、とオウム返しの様に呟き、彼に気付かれないように歩を速める。

「いつぶりだろうねえ、元気だった?」
「うん」

 極力短く、被せ気味に返す。普通の人間なら、的外れな何かを察して、会話もそこそこに僕から離れていくだろう。しかし、清水にそんな高度な真似なんて、出来るはずが無いこと位分かっている。清水は、頭が悪いから。案の定、当たり前の様に笑いながら、僕にてくてくと付いてきた。僕と同じものの筈なのに、全く別の服に見えるぐらいに汚れた制服。気色が悪いにも程がある。

「かたぎりくんは帰るのがはやいんだねえ。家で勉強してるんでしょ?」
「そうだね」

 決して目を合わせず、真っ直ぐ続くアスファルトの道を見つめながら、曖昧に頷く。清水はというと、まだ中学生だというのにまるで酔っ払いの様に、呂律が回っていない。ずっとだ。僕らが小学生の時から、ずっと。阿呆みたいにべらべら喋るくせ、聞き取れない事この上ない。喋り方だけではない。単純に、頭が悪い。自分の横に侍らせて優越感を味わうなんて、とても出来ない位に。生理的嫌悪を感じる位に。その一点だけが嫌いで、なるべくこいつとは関わらない様にしていたのに。小学校が同じだった時点で、全てが失敗だったのかも知れないと思った。

「すごいねえ、かたぎりくんは頭が良いもんね」
「うん」

 そんな事で、と笑われるかもしれない。もしかしたら、頭の出来一つで清水を嫌う僕の方が、僕に嫌われる清水よりもずっと間違っているのかもしれない。けれど、何も悪くないのかもしれない彼は強情な僕にとっての絶対的なゴキブリであり、蚊であり、蛆虫だった。『無理』、という言葉そのものに等しい。

「だから、かたぎりくんとはひさしぶりだね。学校ではほら、クラスがちがうからさ」
「うん、そうだね」

 ぴくぴくと、頬が引き攣っているのが自分でも分かる。こうして帰宅途中に偶然出くわして絶望的な気分になる事も、元々知り合いなんかで無ければ、そもそも起こり得ない話だったのだ。艶のないローファーに締め付けられた足がやたらと重い__





『……ねえ、清水くん。なに、やってるの?』

 __多分あの時も夕方で、そしてあの時も、僕は顔を引き攣らせていたと思う。

『え?』

 しゃがんだままきょとんと振り向いた彼の背中には、そろそろ窮屈になってきた、煤けた黒いランドセル。歪んだ夕陽でてらてらと赤く染まっていた。そうだ、あのランドセルは、まるで彼の瞳みたいに真っ黒だった。見開かれた、無邪気に煌めき、轟々と渦巻く、彼の。
 学校で毎日そうしているように鼻水を垂らし、くしゃくしゃの髪を振り乱し、彼は、何かを、無心に頬張っていた。

『なに、それ』
『……これ?』

 道端の、知らない家の、くすんだ色の赤レンガで縁取られた花壇を踏み荒らし、水をやったばかりなのだろうか、潤った土をほじくり返して、惨めな位に泥まみれの清水。僕が必死に絞り出した細い声を受け、彼は実になんでもないように、ふいっと、自分の手元に視線を向けた。数度の瞬き。彼はゆっくりと、それの詰め込まれた口を開いた。
 何を食べているんだと、わざわざ聞かなくても十分過ぎる。返答を聞く前に、僕には、それが何かはっきりと分かっていた。

 赤い彼の唇が動く。
 ひらりとこぼれ落ちる、ただひたむきに、毒々しく、どうしようも無い位に紫色をした__


『おはな』









 __背中の芯を冷たい何かが撫でていく。
 彼はその後、一、二週間程学校を休んだ筈だ。あの時から、僕は清水を同じ人間だとは思っていない。

「そういえば、かたぎりくん。ぼく、中学生になってとっても楽しいんだ」
「そう、すごいね」

 どうでもいい。
 そう言いかけた口を閉じて、何事も無かったかのように称賛の言葉を放った。白い歯を見せて笑った清水。何か咎められた様な気がして、僕は意味も無く周囲に視線を巡らせた。何の変哲もない住宅街。私が一番、とでも言う様に、左右を塞ぐ塀にぶら下げられた沢山の植木鉢の中の、色とりどりの花達。オレンジ色の妖しい光の中、赤、青、黄、桃……無意識に僕は、あの日の紫色の花を探していた。

「ねえ、かたぎりくん」

 急に清水の声がくぐもる。見るつもりなんて無かったのに、思わず、僕は彼の方を振り返ってしまった。清水は道の真ん中で、しゃがんでいた。しゃがんで、俯き、地面の上の何かをじっと見詰めている。興味本位で、僕は恐る恐る半歩、踏み出した。
 彼の見ているものは、はっきりとは分からなかった。でも、黒い粒の様な、小さな何かが、彼の頭の下で僅かに蠢いている。それ以上は知りたいと思わなかったし、踏み出せなかった。

「蟻ってさ、何を考えてるんだろう」
「…………」

 清水の顔が見えない。
 僕はなにかに、押さえつけられている様に動けない。行き場のない、汗ばんだ手が、ぎゅっと、家々を巡る塀みたいに灰色なブレザーの端をつかんだ。

「もしかしたら、僕らよりずっと大きなことを考えているのかもしれないね。僕らが、知らないだけ」

 呟く清水の、ぴくりともしない後頭部を見つめるほかなかった。

「温暖化のその先、素粒子より小さなもの、死した後の生命の行き場……」

 清水の影の中、その蟻の様な黒い粒は、どうやら歩けないらしかった。

「宇宙の端だって、見えているかもしれない」

 そう言って清水は立ち上がった。僕の心は驚いてまるで怯えたが、肩は一ミリも跳ねない。身体がどこかへ行ってしまった様だ。立ち上がってもなお蟻を見ている彼を、ぼうっと眺める。
 一時間だろうか、そのくらい経ってから、彼は、蟻を踏みつけた。ひとつの生命の終わり。素粒子も、温暖化も、命も、どこかへ行ってしまった。どこへ? 清水は顔を上げた。真っ黒い目。どぶの様な、ランドセルの様な、蟻の様な、黒。笑っている。切れ切れの頭で、ああ、蔑まれているんだ、と。感じた。でも、なんの感情もわいてこなかった。
 清水の唇がやっと動く。昔、紫の花びらを貪っていた、あの。

「愚かなのは、どっちなんだろうね」

 それから後は、よくおぼえていなかった。

 清水は何も言わずに立ち去ったかもしれないし、じゃあね、と残したかもしれないし、僕にひどい罵声を浴びせていったかもしれない。気付けば、いなくなっていた。ただ、長い時間が経ったはずなのに、傾いた太陽の居場所が全く変わっていないこと。それだけははっきりとおぼえていた。

 彼には宇宙の端が見えているんだろうか。

 僕は歩き出した。重りでも付けられているかのように、ゆっくりと、ふらふらと。まだ中学生だというのに、まるで酔っぱらいのように。
歩きながら、塀に垂らされた植木鉢、そして花達を、眺めた。赤、青、黄、桃、橙、緑。紫の花は、どうしても見つけられなかった。あの花の名前も、学名も、属も、咲く季節も、栽培方法も……花言葉も、僕には分からない。

 やめてくれよ。

 知ってるんだ。思い出せないだけだ。

 僕は、愚かじゃない。











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 ぎりぎりになってしまい申し訳ありません(汗)

 読み返すと至らぬ点ばかりですが、これも私の実力と思い投稿させていただきます……
 ちなみに苧環は午後は日の当たらないところで育てるらしいです。見つからないわけですね^^