複雑・ファジー小説

Re: 花束の其の一輪は【アンソロジー】 ( No.9 )
日時: 2019/02/07 19:49
名前: 藤田浪漫 (ID: 7/g4bQJJ)

 これは僕が小学生だった時の話だ。あの頃はまだ商店街のゲームセンターが閉店してなかったから、多分五年生になって少し経った時の事だったと思う。

 週末になると給食着を持ち帰り、各々の家で洗濯するという決まりがあった。その日僕はその給食着をロッカーの中に忘れている事を下校中に気付き、ため息をつきながら学校へとUターンした。
 放課後の校舎の中はほとんどの電気が消され、薄暗かった。その頃クラスでは七不思議が流行っていて、踊り場の鏡は異世界へと繋がっているだとか、廊下を歩いてると大鎌を持った口裂け女が追いかけてくるだとか、そんな話を皆口々に噂していた。普段僕はその手の話を全く信じていなかったんだけど、夕方の校舎はどこか不気味で、いつ血まみれの幽霊が襲って来てもおかしくないくらいに思えた。キュッと着ていたTシャツの裾を握りしめてから、ほとんど走っているくらいの足取りで自分の教室へと向かった。

「……っ!」

 教室の前に辿りついた僕は思わず立ち竦んだ。教室の一番奥、窓際に髪が腰にかかるくらい長い女の子の後ろ姿があったからだ。早いスピードで脈打っていた心臓を見えない手にグッと強く掴まれたように思えた。背筋をすっと冷たい汗が伝う。

 給食着なんかロッカーに置いたままにして逃げよう、と思ったけどよく見ればあの窓際の後ろ姿に見覚えがあった。
 クラスメイトのミオさんだった。髪の毛が長くて、陰鬱とした雰囲気を纏った女の子。とても無口でクラスの男子と喋っているのを見たことが無かった。
 理由は特に無いがなるべく音を立てないようにして、ドアを開いて教室に入った。中はまるで水族館の水槽の底のように暗くて、しんと静まっていた。日中の騒々しさは嘘みたいだった。 ミオさんは何をやっているのだろうと目を凝らすと、窓際のホウセンカをぼんやり眺めているらしかった。

 僕たちのクラスは理科の授業の一環でホウセンカを育てていた。窓際のロッカーの上にプランターを置き、毎日水をあげて観察日記も書いた。種を植えてしばらく経つと、ロッカーの上は赤い花で埋め尽くされた。それを見た担任は「お花畑みたい!」とうっとりしていたが、列を成したプランターの内、一つだけ醜く枯れてしまったものがあった。それがミオさんが育てていたものだった。
 給食着は彼女の近くのロッカーの中にある。ミオさんはまだ僕に気付いていないようだった。
 そこで、背を向けているミオさんが何かを握っているのに気づいた。黄色の柄があって、その先には長く伸びた銀色の刃がついていた。彼女が持っている何かがカッターナイフであることに、僕は多少の時間を有した。

 一瞬の出来事だった。彼女は着ていたトレーナーの袖をおもむろにまくり、その細い腕をさらけ出した。それから何の躊躇もなく自らの手首にそのカッターナイフの刃を強く押し当てたのだ。
ぐいっ、とその柄を引いた。
 傷口から赤黒い血がどくどく、どくどくと溢れ出す。痛みを堪えるためだろうか彼女は肩を震わせながら、ホウセンカが植えられたプランターの上にその手を出した。傷から流れた血は赤い糸のように手のひらの側面を伝って、小指の先からポタリと赤い雫がプランターの土の上に落ちた。

「──な、なにしてっ……!」

 僕は慌ててミオさんに駆け寄った。背を向けていた彼女は僕の存在にやっと気が付いたようで、「あっ……」と声を漏らして振り返った。慌てて手首と持っていたカッターナイフを背中に隠したが、僕は一部始終を見ていたのだ。誤魔化しきれるわけはない。

「は、早く手当てを──」

 僕は彼女の負傷した方の腕を無理矢理掴んだ。ミオさんは抵抗する素振りを見せたが華奢な女の子の力だ。呆気なく背中に隠していた腕を身体の前に出した。小学生の頃の僕でも手首に太い血管があるのは知っていたし、ドラマで手首を包丁で切り裂いて自殺するシーンを見たことがあった。

 しかし、彼女の腕には不可解な事が起こっていた。
 彼女の手首に傷なんてどこにもなかった。牛乳みたいに真っ白でその下に青い血管が浮いている、細くて綺麗な女の子の腕だった。刃を長く伸ばしたカッターナイフで確かに手首を切り裂き、赤い血が大量に出ているのをこの目で見たはずなのに。

「……触らないで」

 彼女は短く言って僕の手を払いのけた。僕は呆然としていた。狐につままれたかのような気分だった。

「はぁ……」

 ミオさんは窓際の方に振り返った。その視線の先にはさっき彼女が血を垂らしたプランターがあって、その前面には「木下美央」というシールが貼ってある。そのプランターの上には見るに耐えないほどに萎れ、よく形容できない色に変色したホウセンカが植えてあった。

「もう一回見てて……」

 再び彼女は右手に持ったカッターナイフを握りしめて手のひらに刃を当てた。ぐっと力を入れると刃先にジワリと血の玉が浮かぶ。躊躇わずそのままじりじりと小指に向かって刃を動かしていき、
ぴとりと雫が垂れる。
眠るように黒土に横たわるホウセンカの上に、血が一滴落ちる。乾いた葉に滲んで、葉脈に沿ってたらりと滑った。すると不思議な事が起こった。彼女の血を受けたホウセンカがピクリと確かに震えたのだ。萎びた根元が薄茶色から瑞々しい黄緑色に段々と変わって、力なく倒れていた茎が何か見えない糸に引かれるように起き上がり始めた。やがてそのホウセンカ全体に緑色が行き渡り、今にも弾けそうな実がつき、彼女の血のように赤い花を咲かせた。

「私は魔女なの」

 ミオさんはそう消え入りそうな声で言った。

「誰にも言わないでね」

 彼女は優しく花を撫でた。その手にはさっき鋭く切り裂いた傷なんてどこにもなかった。

 週が開けて教室がまた活気に包まれた。朝投稿した時に本を読んでいたミオさんへ「おはよう」と挨拶しても返事はなく、僕と目を合わさずにページをめくっていた。枯れていた花が何事もなかったかのように実と花を付けても、クラスの誰もその事に気付くことはなかった。開け放たれた窓から吹いた風でその真っ赤な花がゆらりと揺れるたびに、僕は彼女の指から滴る血を思い出すのだ。
 それから数日経ち、プランターから中庭の花壇に植え替えることになった。ホウセンカは果実を弾けさせて種子を辺りにばら撒く習性があり、ロッカーの上にそのまま置いておくと教室が汚れるからだ。
 四時限目。各々自分のホウセンカのプランターを両手に中庭に集合した。外はカラッと晴れていて、太陽はすっかり高い位置に登ってカンカンと中庭を照らしていた。ニイニイゼミが既に鳴いていた。授業が始まり、すぐに花壇の土を耕す作業に取り掛かった。一人一つずつ片手で持てるスコップを渡されたが、しばらく経って「先生!スコップが足りません!」と女子バレー部の副キャプテンが手を挙げた。

 「そうね……、じゃあ生き物係のミオさん。体育館裏の倉庫にあるから取って来てくれる?」

 突然指名されたミオさんは「えっ……?」と困惑したような表情をした。何で私が、という言葉がその顔から見て取れる。

「ホウセンカだって生き物でしょ? ……あっ、それと大地くん」

 そこで先生はちょうど側にいた僕の名前を呼んだ。

「ミオさんと一緒に倉庫に行って肥料の袋持ってきてくれる?」

 そう言って先生は僕に何を言わさず鍵を渡した。これが倉庫の鍵であるらしかった。もう三ヶ月このクラスで過ごしてきたので先生の性格は知っていた。生徒が少しでも反抗するとヒステリックに怒り出すのだ。起こった時の様子から「カマキリ先生」と裏で女子からあだ名を付けられていた。

 しょうがない、と僕は鍵をポケットに入れてから「行こう」とミオさんに呼びかけた。彼女は不服そうな顔をしていたが、先生が不機嫌になるのを嫌ったのだろう。ほんの少し眉間に皺を寄せてから僕の横に並んで倉庫に向かった。後ろから男子の囃し立てる声がしていたけど聞こえなかったことにした。


「私の事──」

 中庭を抜けて、クラスの皆の姿が見えなくなった辺りで、ミオさんは小さい声で言った。長い前髪で隠れたその両目が僕を見ている。

「誰にも言ってないよね?」

 僕は首を横に振る。あんなこと誰かに言ったとしても信じてもらえるわけがないし、それどころか気が触れたんじゃないかと疑われるだけだ。

「そう……」

 少しだけ安心したような表情で彼女は僕から視線を外して足を早めた。
 しばらく無言で歩き、倉庫に辿りついた。風や雨に長い間晒されて、泥色に汚れたプレハブ小屋だ。滅多に人が近づく事がなく今にも崩れそうな外観なので、「あそこに幽霊が住んでいるらしいぜ」と友達が噂しているのを聞いた事があった。

「……ここでいいの?」
「ここしかなくない?」

 僕は先生から渡された鍵をポケットから取り出して、鍵穴に突っ込んだ。古い建物だからかなかなか回らなかったが、力いっぱい捻るとガコッという鈍い音と共に鍵は開いた。建て付けが悪い扉をガラガラと音を立てながらスライドさせる。

「……うわぁ」

 ミオさんが中に入るのを躊躇した。納屋の中は堆肥の臭いが充満し、天井には蜘蛛の巣が幾重にも重なっていた。木で出来た棚の上に、ヒビの入ったバケツや何やら文字が書かれた段ボール、朽ち切った木材が置かれていた。立てかけられた草刈り機の刃がギラリと鈍く光った。僕一人が入るくらいの広さしかない。

「ちょっと待ってて。僕が入るから」
と言うとミオさんはコクリと頷いた。

 鼻をつまみたくなるほどの臭いに顔をしかめながら中に入る。手持ちのスコップが入った箱を彼女に手渡してから、棚に置かれていた肥料の袋に手をかける。

「一人で持てる?」

 背後から蚊の鳴くようなミオさんの声。うん、と振り向かないまま返事をして、棚の上を引きずりながらその袋を持ち上げようとした時、棚全体がぐらりと揺れた。

「ひっ……」

 後ろでミオさんが息を呑んだ。まずい、と僕は思って、肥料の袋から手を離し無意識のうちに一歩下がった。封のされてない段ボールが棚の上から落ちてきて、反射的にそれを受け止めようとした。それがまずかった。
 段ボールの中には鎌や鉈などの農作業具がいくつも入っていた。当然小学生が受け止めきれる重量じゃない。お腹に段ボールがぶつかり、ドスンと鈍い衝撃。その重さに耐えきれず体勢を崩して尻餅をついた。その段ボールの中に入っていたものが床中に散らばる。

「だ、大丈夫?」

 蚊の鳴くような声で言いながら彼女は倉庫の中に入ってきた。「う、うん」と僕は返事をした。尻を強く床に打ち付けたからかなり痛かったが、女の子の前だから少し強がりたかった。
 床に手をついて立ち上がろうとした。けれど尻の骨よりなんだか脇腹の辺りが痛いような気がした。それもズキンズキンと脈打ち、熱した鉄を押し付けられるような今まで経験したことがないほどの激しい痛みだ。

 先に気付いたのはミオさんの方だった。

「お、お腹……!」

 彼女は僕の腹を指差した。怪訝に思って見るとTシャツが何故か赤く染まっていて、そこにさっきの段ボールの入っていたであろう鋭い鎌が深々と、深々と突き刺さっていた。僕はパニックに陥った。慌てて鎌の柄に手をかけてそれを腹から引っこ抜こうとした。

「待って!抜いたら……!」

 彼女はそう言ったけど、もう遅かった。力ずくで僕は鎌を腹から抜いた。途端にドクドクと傷口から血が溢れ出して、それに合わせて傷口の痛みは何倍にも膨れ上がった。自然と呼吸が激しくなる。体の中で怪物が暴れまわっているような激痛。鉄の匂いを感じていた。

「せ、先生に言って……、でもそれじゃ……」

 珍しいミオさんの狼狽えたような声。視界がどんどんと膜を張ったように薄らいでいく。お腹では暴れまわる激痛。床にどんどんと赤黒い染みが広がっていく。そこでミオさんは僕の前に回り込んで、着ていたトレーナーの袖をまくった。床に落ちていた鉈を手に取った。そして思いっきり振りかぶった。


「起きて!」という高い声で目が覚めた。ぼやけていた視界がやがて輪郭を取り戻して、ミオさんが僕の顔を覗き込んでいるのが分かった。僕は倉庫の壁に背中を預けていた。

「良かった……」

 ミオさんは安堵した面持ちで息を吐いた。そういえば、と思い出して僕は自分の腹部を見た。Tシャツはめくり上げられていて、鎌が突き刺さってできたはずの傷は何事も無かったかのように消えていた。代わりに置いてあったのは肘のあたりで切り落とされたミオさんの左腕だった。

「……血、いっぱい出したからフラフラする……」

 そう言いながら彼女は僕の体の上にあった腕を鷲掴みした。鈍い刃物で無理矢理切ったのか、断面がひどく痛々しかった。まるでプラモデルか何かを作るように彼女はその腕を自分の体に引っ付けて、ぐいっと押し込んでから手を離した。まるで糸で縫い合わせたかのようにピッタリと腕はくっ付いている。
「……あそこ」
とミオさんは倉庫の中を指差した。鎌やスコップなどの農作業具が散らばっていて、床に僕の腹から出たものだろう赤黒い染みが広がっていた。

「早く片付けよ」

 うん、と僕は立ち上がる。お腹に力を入れてみたが何の痛みもなかった。血で赤く染まって破れたTシャツがさっきのことは夢でも何でもないことを物語っていた。

 それから少し経ってホウセンカが枯れる頃に、ミオさんは転校していった。親の転勤が原因であるらしかった。あの日を境に怪我したり骨折したりしても人より早く治るようになった。彼女の体質が ほんの少しだけ僕の体にも受け継がれてるのかもしれなかった。




はい、藤田浪漫です。普段は高校生がわいわいする小説書いてます。売名がてら短編を書きました。遅れてすみません。
ホウセンカの花言葉が「私に触れないで」なので触れられたくないもの=傷ということで傷に関する話を書きました。後半がちょっと雑になった感じがします
急いで書いたので誤字があるかもしれません。ふぁーすとやっぴー