複雑・ファジー小説

Re: 魂込めのフィレル ( No.44 )
日時: 2019/08/19 15:56
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)


【第五章 最悪の記憶の遊戯者】

 英雄の墓場を越え、過去のフィラ・フィアを封印し、トレアーの町へと。
 たどってきた道のりを思い、ずいぶん長い旅をしてきたものだとフィレルは感慨に浸った。
 イグニシィンからトレアーまで。シエランディア大陸の半分を縦断する旅。途中、出会いや別れ、裏切り、死を経験し、フィレルは少しずつ大人になった。
 次の場所、最悪の記憶の遊戯者の神殿で、一体何を経験するのだろうか? そしてその経験を経て、どう変わるのだろうか? 期待と不安を抱きつつ。
「見えたよ。あれが港町トレアーだ」
 イルキスの声に物思いから抜け出し、前を見た。
 その先には、広大な港町が広がっていた。

  ◇

 トレアーはシエランディア南方最大の港町だ。この港町を経由して、東に広がる北大陸や、南に広がる南大陸に旅行する人間も多い。トレアーの町はその立地から、長らく他大陸との貿易の要とされてきた町だ。その町のどこか、あるいはその町に近いところに、最悪の記憶の遊戯者の神殿があるというのか。
 この町にはエルクェーテやデストリィの神殿のあったエーファの町みたいな城壁はない。ただ、町に近づくにつれて舗装されてきている街道が、そのまま真っ直ぐ町に続いているだけだ。誰が町に来ようと誰が町から出て行こうと一向に気にしない、自由な雰囲気が感じ取れる。町の奥からはフィレルの知らないにおいが漂ってきた。ツンとした、そして何かが腐ったような独特のにおい。これは何とフィレルが問うと、フィレルは海を知らないんだねとイルキスが頷いた。
「川の果てには海がある。海の中には様々な生き物の死骸が漂っていて……これは、海の生き物の死骸のにおいなんだ。僕らは礒の香と呼んでいる。ほら、独特なにおいだろう」
「川の果てにはそんなものがあるんだね。海? 聞いたことはあるけれど直接見たことはないんだよねぇ」
 フィレルは鼻の先をひくつかせ、礒の香を胸一杯に吸い込んだ。小さな身長でめいっぱい背伸びをして、町の奥に何があるのか見てみようとする。その様を見てイルキスは笑った。
「封印が終わったら見せてあげるよ。海ってさ、すごいんだ。ただ広くて大きいだけじゃなくって、ただその中で魚が育っているだけってわけでもなくて、怖くておどろおどろしいところもちゃんとある。海に生きる船乗りたちは海の神様の怒りを買わないように、舟の頭に像をとりつけたり船に目の模様を描いたりする」
「へえぇ、そんな風習があるんだねっ! 僕、楽しみになってきちゃったなぁ」
「その前に、封印が優先だからな」
 目を輝かせたフィレルをロアが窘《たしな》める。
 わかってるよぅとフィレルは頬を膨らませた。
「最悪の記憶の遊戯者の神殿は、トレアーの町の地下にあるよ。トレアーの人たちは海に行くと気がふれる人が一定確率で出るみたいなんだけど、そんな時はフラックにお供えして、記憶の神よ鎮まりたまえってみんな唱えるんだってさ。フラックがみんなを狂わせていると、そんな考えらしい」
 イルキスが町を歩きながらも説明した。
「まぁ実際、この町の人たちは不意におかしくなる確率が高い。フラックは人の最悪の記憶を掘り起こす神——。やっぱりこの神様が影響していると見て間違いはないかな」
 海は人の命を奪うから、と静かにイルキスは言った。
 つとその目が細められる。嫌なことを思い出したかのように。
「海は荒れて、時に人の命を奪う。海によって大切な存在を失った人もいる。フラックはその喪失感を呼び起こす神だから」
 過去を振り払おうとするかのように首を振り、先に立って歩き出す。
「神殿はこっちだよ。ぼくは様々なところを旅してきたから、色々と詳しいのさ」

Re: 魂込めのフィレル ( No.45 )
日時: 2019/08/21 17:09
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)


 トレアーの町の端に、地下へ降りる階段があった。そこをイルキスは歩いていく。石造りの階段に、それぞれの靴が音を鳴らす。てんでばらばらな音は共鳴し、その先にある謎の空間に意味不明な音の集まりとして響き渡る。
 階段を降りた先は真っ暗だった。石造りの壁のあちこちに燃え尽き掛けた松明が掛かっており、それが唯一の光源となっているらしい。暗闇に目が慣れてくると、大体の状況が理解出来てきた。
 暗い地下空間の入口にあったのは狭い道。その奥には三つに分かれた道がある。どれが正しいの、とフィレルが問う間もなく、イルキスは確固たる足取りで左の道を進んでいく。その先にまた分かれ道。今度は四つに分かれているが、イルキスは一切迷わない。
 不思議に思ってフィレルが問うた。
「ねぇ、何でこんな複雑な迷路、そんな簡単に進めるの。一度来たことあるって言ってたけれど、こんなところまで行ったの?」
 イルキスは後ろを振り返り、にやりと笑った。悪戯っぽい笑みが松明の揺れる光の中に浮かび上がる。
「ネタばらし。トレアーに行ったことがあるのは本当だけれど、この迷路は、ぼくと契約している運命の女神さまが正確な道を教えてくれているのさ。ぼくにしか聞こえない声。ああ、でも知らない方がいい声」
 謎めいたことを口にしつつ、相変わらず迷いのない足取りでイルキスは進む。フィレルはもう、どこからどう来たのかわからなくなってきた。そして思った。
(もしもこの先にフラックの神殿があるとするならば)
 それは彼を祀るための神殿ではないのではないか、と。
(フラックは悪さする神様だから、閉じ込められているんじゃ……ないかな)
 この広く複雑な迷路の奥に。
 それでも地上に影響を及ぼすことはあるが、野ざらしにするよりはまし。神々の中には移動能力がないものもあるらしく、フラックがもしもそれに該当しているならば、フィレルの立てた仮説の辻褄が合う。
 気を狂わす神様は、気の狂うような長い年月、ずっとずっと地上の光を見ずに過ごしているとしたら。
 それはどんなに寂しいことなのだろうか。否、そもそも寂しいという感情が存在するのかは甚だ疑問だが。
 そんな迷路に置いてある松明は誰が交換しているのか。フラックの世話係みたいな存在がいるのだろうか?
 疑問は、尽きない。

  ◇

 幾つもの松明の間を抜け、幾つもの分岐を乗り越えて。
 やがてたどり着いたのは、松明の明かりに照らされた、
「……扉?」
「うん、そうだよ。この先のことは運命の女神さまも黙っちゃって教えてくれない。最後に一言こう言ってた。『扉は押せば開く。——そして、覚悟せよ』だってさ」
「覚悟せよ、かぁ……」
 フィレルはイルキスの言葉を口の中で転がした。
 最悪の記憶の遊戯者フラック。人のトラウマを掘り返して狂気の淵へ突き落す神。そんな神が相手ならば、先陣を切るのはトラウマたる記憶の存在しないフィレルが適任だろう。皆そう思っているようで、一様にフィレルを見つめる。フィレルは頷き、扉に手を掛けた。
 赤ワイン色の重厚な扉には、金の飾りが幾つもついていた。それは一見豪華に見えるけれど、ドアノブらしき場所に付着したこの赤錆色《あかさびいろ》は、扉の塗料のものではないだろう。その正体に気付き、フィレルはぞっとした。
 でも、そんなことに怯えて動きを止めてしまっては、いけないから。
「……行くよ」
 小さく呟き、ドアノブを掴み、回し、一気に押し開けた、
 その瞬間、
「————ッ!!」
 フィレルは強烈な頭痛に襲われて、悲鳴を上げて地面に転がった。
「フィレル、どうしたッ!」
 慌ててロアが駆け寄ってくる。
 扉の向こうから声がした。
「呼んでいない客に用はないのさァ。さっさとお帰り願おうかなァ?」
 歯車が軋むような、耳障りな、声。
 激しい頭痛の中、ロアに助け起こされながらもフィレルは見る。
 扉の奥に広がった広大な空間。その奥に佇む異様な影を。

Re: 魂込めのフィレル ( No.46 )
日時: 2019/08/27 08:25
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)


 これまでの神々は少なくとも人間の姿をしていたが、ソレは完全なる異形だった。
 鎖で縛られ、吊るされた両腕は人間の骨。頭は爬虫類の頭蓋骨のようで、虚ろな眼窩の向こうに仄暗い紫の明かりが灯る。頭を除く上半身は人間の骨だが、下半身には無数の足がうごめいて、まるで蜘蛛のようだ。ソレが、最悪の記憶の遊戯者、フラックだというのか。
 それは腕を吊るしていた鎖を一気に引っ張った。じゃらん、と音がして鎖が引っ張られるが、それでも鎖は解けない。骸骨の頭がにぃっと笑った。不気味な笑みと共に、フィレルの心に何かが突き刺さる。その痛みに悲鳴を上げて、フィレルは両の瞳から涙を流し、苦しみにのたうちまわった。
「……貴様、何をした」
 ロアの冷めた声が、凛と空間を打った。
 ロアは静かに怒っていた。片方の手で苦しむフィレルの背を撫でてやりながらも、もう片方の手は剣の柄に伸びていた。
 簡単なことさァと骸骨は笑う。
「この無邪気な坊やにも悲しい過去はあったってことさァ。ボクはそれを呼び起こしてやっているだけなのさァ。一番槍とは大したものだけれど、それでボクに敵うとでも? 誰も認知していない『最悪の記憶』を持っていた、それがあまりに致命的だったのさァ」
 キシシッ、と軋んだ音が骸骨から洩れる。これが骸骨特有の笑い声らしい。
「そこの蘇った姫様も剣士のキミも、運命の女神に愛された風来坊も、みィーんな同じ。みィーんな悲しみの記憶を持ってる。それじゃァボクに勝てないよォ? ボクをここに封じたのは、そのために何の悲しみも与えられないで育てられてきた特別な子供たちだったんだから。悲しみの記憶のある人間は決してボクには勝てない。諦めなよォ?」
 言って、骸骨は鎖をじゃらんと鳴らした。さらなる痛みにフィレルが悲鳴をあげ、胃の中のものを大地に吐きだしてひたすらに泣き喚いた。
 そして次の瞬間。
 その緑の瞳が、驚きに見開かれる。
 緑の奥に、影が差した。彼の光が闇に食われる。
 フィレルは動きを止めて、ただ呆然と座りこんだままだった。
「……フィレ、ル?」
 戸惑い、ロアがフィレルの肩に手を触れるが、フィレルはいつものひ弱な彼からは想像出来ないほどの力でロアを振り払い、頭を抱えた。
「思い、だしたよ。思い、だしちゃったよぉ……」
 染みひとつないはずの、真っ白で無垢であったはずのフィレルの過去に、一点、暗い染みを落とす悲しみの過去。
 フィレルは思い出す。自分の目の前で両親が殺され、ファレルが自分を守って力を失った遠い日のことを。
 その日のことは、幼い自分にとっても忘れられない衝撃的な日になったはずだ。それなのにずっと忘れていたのはなぜなのか。それは——。
「兄さん、だ」
 ぽつり、呟いた。
 心優しいファレルが、言霊使いの力を使って、優しくも残酷な魔法を掛けた。全て忘れてしまえばいいと、悲しみは全て僕が背負うからと。だからフィレルにはずっと幸せでいてほしいんだと——。
 その優しさは、本当に優しさだったのだろうか?
 一方的に忘れるように仕向けられ、そして今一度生々しい実体を持って現れてきた最悪の過去の幻影は、深く深くフィレルを傷つけた。それは忘れていなければきっと、過ぎゆく時が少しずつ痛みを和らげてくれたであろうはずのもの。忘れさせられていたからこそ、痛みは和らがずに生のままでフィレルを襲う。
 忘却の魔法も万能ではない。一度忘却させられたのならば、その記憶を再び思い出した時、痛みは何倍にもなって記憶の所持者に返ってくることをファレルは知らなかったのか。否、知っていても尚、「今のフィレルを守るために」そんなことをしたのか。
 どっちにしろ、今、フィレルの中を最悪の記憶が掻き回しているのは事実で。蘇ってきた恐怖と悪夢にフィレルは暴れ、ロアに身体を押さえつけられても尚、狂ったように暴れ続けた。
「フィレルッ、目を覚ませこの馬鹿ッ!」
 ロアの声は一切、その耳に届かない。

Re: 魂込めのフィレル ( No.47 )
日時: 2019/08/29 14:30
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)


 やってくれたわね、とフィラ・フィアが怒りの声を上げた。
「よくもわたしの仲間を、酷い目に遭わせてくれたわね? やっぱりあなたは害悪よ。大人しく封じられるが世のため人のため。悪いことは言わないわ、さっさと諦めて悪夢を終わらせなさい」
「やめるとでも思ったのかなァ?」
 軋んだ声。心穿つフラックのくさびが、フィラ・フィアの中に突き刺さる。
 それでも、彼女は強く首を振って持ちこたえる。過去の自分は英雄の墓場に葬ったのだ、だからこの痛みは悲しみは、過去のもので今感じているものではないと。
 ユーリオの、ユレイオの、レ・ラウィの、死に様が浮かんでは消える。ユレイオの死に怒り狂ったユーリオの顔。そして笑って皆に後を託したレ・ラウィの広い背中と風の魔法。忘れ得ぬ遠い日の悲しみが彼女の胸を駆け巡るが、それでも彼女は血が出るほどに固く唇を噛みしめ、必死で耐えて舞う準備をする。
「ほゥ、強くなったねェ封神の姫。でもこれはまだ小手調べさァ。——本番は、ここからだよォッ!!」
 じゃらじゃらじゃらん。鎖が激しく振られ、虹色の魔法陣を形成していたフィラ・フィアの心にフラックの楔が突き刺さる。そう、彼女には最大のトラウマがあるのだ。自分を間接的に死に追いやった、

——『白蝶の死神』、シルークの死。

「やめてぇぇぇえええええええっ!!」
 フィラ・フィアは絶叫を上げた。
 謎めいた彼が好きだったのだ。いつも笑わず、声も出せず。不思議の存在『蝶王』によって声を奪われた彼は『蝶の魔法』でしか喋ることができず、そうやって作られた偽りの声は合成音声のようでどこか不自然で。誰にも心を開かなかった彼だけれど、ある時フィラ・フィアには心を開くようになって、初めて笑ってくれた。そして蝶王が調子に乗って、奪った『本当のシルークの声』で数声喋ったのだ。その声の美しさは魔性の美しさで、それゆえにシルークは声を奪われたのだとフィラ・フィアは理解した。
 暗く冷たく不器用な彼。それでも笑っている時は春のひなたのように優しく穏やかで。ずっとずっと一緒にいたいと、近くでその笑顔を眺めていたいと、密かにそう思っていた。この長い旅が終わったら、彼にこの不思議な気持ちを打ち明けてみようとさえ思っていた。しかし。
 そんな彼は、彼女を守って、死ん——
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だッ!」
 心の奥底に封じたはずの最悪の記憶が彼女を打ちのめす。作られつつあった魔法陣は虹色の破片と共に砕け散り、封神の舞はまた最初から。しかし今や彼女に魔法をやり直す気力なんて欠片も残ってはいなくて。
 無慈悲な声が、軋んだ音を立てる。
「封神の姫、面倒だなァ。容赦なく心の奥底まで破壊しないと後が大変かなァこれは?」
 蜘蛛の足が彼女に伸びる。イルキスの制止の声も当然のごとく無視して、蜘蛛の足が彼女を包む。
「眠れよ姫、永遠に。永遠の悪夢の檻に囚われよ」
 軋まない綺麗な声が、魔性の声が、彼女の記憶の底から引っ張り出された《本物のシルークの声》が、彼女の鼓膜を震わせる。
 そして彼女の全身はくたりとなって、動かなくなった。
 骸骨は勝ち誇ったような甲高い声を上げて、蜘蛛の足で彼女の身体を放り投げた。重い音。彼女はぴくりとも動かない。慌てて駆け寄ったイルキスが彼女の脈を調べ、生きていると知って一安心。しかしいくら揺すってみても呼びかけてみても、彼女の意識は戻らない。
 イルキスは彼女の傍にひざまづきながらも、ぼんやりと骸骨のフラックを見た。
 骸骨は軋んだ音を立てながらも解説した。
「心を壊してやったのさァ、彼女の、心を! 封神の姫はもう二度と意思を持って動くことはない。彼女はただ生きているだけで、心のない人形のようになったのさァ」
 これでもう封じられないなァ、と骸骨は笑う。
「憎いならば挑んでみるかィ運命の愛し子。ボクは身体を破壊されても、封じられなければ不死身だぜィ」
「……遠慮させていただこう。ぼくだって、壊れたくはないからね」
 努めて冷静な口調でイルキスは言った。
 ちらり、フィレルの方を振り向けば、暴れて疲れたのかフィレルは寝息を立てており、戸惑ったようにその身体をロアが抱いているのが見えた。眠るフィレルの顔は、悪夢でも見ているかのようにしかめられたままだ。
 イルキスはロアに言った。
「ぼくらの、負けだ。でも心が壊れたって封神の姫は生きている。再起する機会はまだあるはずさ。戻ってどうするか考えるんだ」
 帰り道はぼくが案内するから、とイルキスは意識を失ったフィラ・フィアを背負いあげ、扉を開けて進んでいく。ロアもフィレルを背負い、その後に続いていこうとした、矢先。
 軋んだ声がその背に呼び掛けた。
「剣士の少年。見えるぞ見えるぞォ、オマエに宿る最悪の記憶が。過去を知りたいならば教えてやろうかァ?」
「お断りする。オレだって、壊れるのは御免なんだ」
 きっぱり断りロアは部屋を出、扉を閉めた。
 バタンという音がふたつを隔てた。
 隔てられた扉の向こう、最悪の記憶の遊戯者がひとり、笑っていた。
「剣士……ロア……闇の気配……繋がった! ハァハッハッハァ、セインリエスめェ、粋なことをしているなァ!」
 その声は誰に届くこともなく、ただ閉ざされた空間に反響するのみ。

  ◇

Re: 魂込めのフィレル ( No.48 )
日時: 2019/09/02 14:38
名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)


 トレアーの町へ戻り、手近な宿に部屋を借りて、部屋のベッドにフィレルとフィラ・フィアを寝かせ、作戦会議が始まる。フィレルはただ眠っているだけのようだが、フィラ・フィアの場合は違うようだ。その目は開いてはいるがどこまでも虚ろで、意思の光を宿さない。あんなに強くて真っ直ぐだった封神の姫が、この体たらく。他者の最悪の記憶を暴き、強引に晒すフラックは、封神のフィラ・フィアの心をも破壊したのだ。
「まず、これからどうするかなんだけれど……」
 疲れたようにイルキスは言った。
「フィレルはじき回復すると思う。で、問題はそこのフィラ・フィアだ。リーダーが動けないんじゃ旅を続けられないし、だいいち、彼女しか神々を封じられない」
「心を回復させるという手段は?」
「……あるとは、思うけれど。難しいねぇ」
 ロアの質問に、イルキスはそう返した。
「彼女の心を壊したのはシルークの死の記憶。でも、忘れちゃあいけない。シルークはあの時死んだけれど、シルークの契約していた蝶王は死んではいなかった。蝶王の寿命は十年と短いけれど、蝶王は何度も何度も転生し、過去の記憶をずっとずっと受け継いでいる。だから……」
「蝶王の生まれ変わりに会えればもしかして、ということか?」
 うん、とイルキスは頷いた。
「でも、シルーク本人じゃないからそれで彼女の心が戻ってくる可能性は薄……って、あっ!」
 何かを閃き、イルキスはぽんと手を叩いた。
「『魔性の声』だよ、蝶王の奪った! シルークは魔性の声を持っていたがゆえに美しいものが好きな蝶王に目をつけられ、その声を奪われた。蝶王は生まれ変わるたび、記憶以外にももう一つ受け継ぐことができるんだけど……今の蝶王が、まだずっとシルークの魔性の声を受け継いでいたのならば、可能性は、あるかもしれない」
 藁にも縋るような可能性だな、とロアが鼻を鳴らすと、何も無いよりはいいじゃないかとイルキスは反論する。
「ぼくが考えられる可能性はこれだけだ。だから、状況を見つつ、フィレルが落ち付いたら行動を開始するよ。蝶王が、伝説の存在が今どこにいるかなんて見当はつかない。これに関しちゃ運命の女神さまも答えてくれない。砂漠の砂の中で一粒の金を探すようなものなのかもしれない。でも、ほんの僅かでも可能性があるのなら」
 わかったから落ち付け、とロアが半ば立ち上がりかけたイルキスの腕を引き、座らせる。
「蝶王の居場所ならば、オレに見当がつかないわけでもない。シエランディアの南西方向、名前の付けられていない巨頭があるのを知っているか? 人が災厄の島と呼ぶその場所に、恐らく蝶王はいる。蝶王はな、シルークの死後、心を閉ざして人間と関わるのをやめてしまったんだ。シルークは蝶王の最後にして最高のパートナーだったらしい」
 ロアの言葉に、イルキスは驚いた顔をした。
「……どこで知ったのさ、そんなすごい情報」
 ああ、とロアは少し考えるような仕草をした。
「赤眼の鴉、だったか。いつの頃かは覚えていないが、赤眼の鴉が教えてくれた気がする。……ちょっと待てよ。赤眼の鴉……赤眼の鴉、って」
「闇神ヴァイルハイネン。極夜司る闇呼ぶ鴉、風の体現者、異界の渡し守。人間好きな奇妙な神様で、気紛れに人間の生に干渉し、その一生に寄り添って、相方が死ぬと一時的に天界に帰る。人間好きな神様だから、気紛れに誰かに話し掛けることもあるだろう。しかし驚いた。きみがあのヴァイルハイネンと話したことがあるとはね」
 ロアの言葉を引き継ぎ、イルキスが興味深げな表情を浮かべる。
 赤眼の鴉は闇神ヴァイルハイネンの象徴。災厄の島に行かなくとも、彼に会えればもっと確実な手段を得られるかも、知れないが……。
「まぁ、闇神さまに会えるかなんて、それこそ運だし。運命の女神さまでも神々の行動までは制限できないからぼくの力もこれには無力だし。大人しく災厄の島へ行こうか。目的地は決まったね」
 それにしても、きみってすごいねとイルキスは不思議そうな顔。
「英雄の墓場の文字も読めたし、偶然にしろ闇神さまにも会えてるし。……きみって、本当に何者なんだい?」
「生憎と、自分ではわからなくてな」
 そう、ロアは苦笑いを浮かべた。
 こうして一日が過ぎていった。
 敗北はすれども決して諦めじ。フィラ・フィアの思いを継いで、前へ進むためにまた一歩。

【第五章 完】