複雑・ファジー小説
- Re: 魂込めのフィレル ( No.49 )
- 日時: 2019/09/04 08:55
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
【第六章 心の欠片をめぐる旅】
翌朝。
「う……ん」
大きく伸びをしてフィレルは目を覚ます。その回顔には疲れがあった。その顔には恐怖があった。
声を聞き、フィレルの目覚めを知ったロアは、そっとフィレルの手を握ってやる。
「起きたか」
「うん……。怖い夢、見たの。すっごく怖い夢。血がいっぱい飛び散って、その中に——」
フィレルは固く唇を噛み締めた。忘れろとロアは言う。
「それは確かにお前の経験した過去かもしれないが、今は忘れろ。少しずつ時がその傷を癒すまで、下手に意識にのぼらせない方がいい。悲しみの記憶は、トラウマの記憶は——人を、壊すから」
言ってロアが頭を撫でると、フィレルは安心した顔をした。その顔にいつもの明るさが戻ってくる。
病弱なファレルはあまりフィレルに構ってやれなかった。メイドのリフィアは積極的にフィレルに構ってくれたが、フィレルは同性の友達が欲しかった。そんな中でロアが来たのだ。フィレルはいつもロアを困らせロアに文句ばっかり言われていたが、ロアによく懐いていた。だからロアがいればフィレルは、心の平穏を取り戻すことができる。
ファレルはいつもフィレルを第一に考えてくれていたけれど、隠していることもたくさんあるし、時に冷たい顔を見せることもあってフィレルは少し怖かった。が、ロアは謎めいた過去こそあるものの嘘は言わないし、その剣の腕は広い背中は、誰よりも頼りになった。
ファレルの知略とロアの腕に守られながら、フィレルは悲しみを知らないで生きてきていた、はずだったのに。
知った過去。心の底に沈めながらも、フィレルはロアの顔を見て笑顔を浮かべた。
その笑顔を見てロアは複雑な顔をする。
「オレに頼るのもいいが、自分で立ち直れるようにしておけよ」
「ロアはいなくならないよね?」
「またそんなこと。当然に決まっているだろう」
縋るようなフィレルを、ロアはあえて突き放す。実際、この先何事も起こらなかったとしても、ロアの方がフィレルよりも若干年上である。ロアの方が早く逝くのは自明の理なので、フィレルにはもう少し自分ひとりで何とかできるようになってほしいとロアは考えていた。
そうだ、とフィレルがロアに問う。
「ええと、イルキスと、フィラ・フィアは? フラックは封じられたのぉ?」
「それが、な……」
ロアはこれまでの経緯を説明した。フィレルは難しい顔で頷いた。
「イルキスは今、船を探してる。災厄の島へ向かう定期便なんてあるわけがないから、指運師の力で賭け事をして資金を集め、船を買って出発する予定らしい。でもあいつ、海には不安があるようだが……背に腹は代えられない。あいつが海関係で嫌な思い出があったとしても、行くしかないんだ。あいつは風の魔導士でもあるから、風の魔法を船の帆にぶつければ、割と簡単にたどり着けるのかも知れないな」
こんな形で海を見ることになってしまったなとロアは苦笑いする。別にへーきだよとフィレルは笑う。
「海、海、初めての海だよっ! ねぇねぇ今さぁ時間ある? 僕、この港町の絵を描いてみたい! 旅の記念にいいかないいかな?」
海、という言葉を聞いて、フィレルの目に活力が宿る。仕方ないなとロアは言い、フィレルのリュックサックを投げて寄越した。
「イルキスが戻ってきたらフィレルは絵を描きに行ったと伝えておく。ああ、トラブルを起こしたりトラブルに巻き込まれたりなんてことはするなよ? 後始末するのはいつもこっちなんだから」
「わかってるよぅ。じゃあ、行ってきまーっす!」
うきうきとした足取りでフィレルは出ていった。
ロアは彼の為に用意していた朝食の入った盆を手に途方に暮れた。
「昨日あんなに疲れたんだからせめて何か口にしてから出掛けろよ……」
海、という単語を口にしたロアの失敗である。
少し落ち込んでいたって、フィレルはイグニシィンの問題児であることに変わりはないのだった。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.50 )
- 日時: 2019/09/06 08:04
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
海を見るのは初めてだ。フィレルはきょろきょろしながら町を歩く。町の奥に見えた青色を不思議そうに眺め、そちらの方へと駆けだしていった。そして港の船着き場にたどり着き、わぁっと歓声を上げた。
「これが、海……! 川の行き着くところ!」
初めて見る海は青く美しく、フィレルの心を打った。
「坊主、海は初めてか?」
そんなフィレルを見て、たくましい体格の男が声を掛けてきた。擦り切れてボロボロになったシャツとズボン、同じような革のサンダル。頭には青いバンダナを巻いていたが、それもまたボロボロになっていた。男が腰にさげた短いナイフは年季の入った代物のようにも見えた。
男は歯を見せてニッと笑う。
「海はいいぞぅ。海は男の浪漫だ。お前さんはこのどこまでも続く海の向こうに、見知らぬ島が見えた時の感動やワクワク感を知らないだろう。海は時に荒れて人の命を奪うが、海は生き物さ、怒りに打ち震えることもあるだろう。それでも俺たち船乗りは海に出ることをやめない。だって俺たちは知っているんだから、な!」
海の向こうに広がる、新たな世界を、と男は誇らしげに胸を張りながらも言った。
フィレルは目を輝かせて話を聞いていた。
「海ってすごいんだねっ! 僕さ、大陸の内側から来たの。だからこれまで海なんて見たことなかったんだけど……今、すっごく感動してる。この世界って、広いんだ。まだ僕の知らないものなんて星の数ほどあるんだね」
「海へ出れば、もっと見ることができるぞ。一日中太陽の沈まない日、逆に一日中太陽の昇らない日。ああ、そして海を泳ぐ様々な生き物や……海に沈んでいく夕日なんて、美しいなんて言葉じゃあ表せないぜ」
いつか描いてみたいなぁ、とフィレルが言うと、絵描きなのかと訊いてくる。
うん、とフィレルは頷き、旅の日々の中で茶色く変色してしまったエプロンをつまんでみせた。
「僕はある領主さまの弟なの。そこで僕はとんでもないことやらかしちゃって、その償いのために旅に出ているの。でも、本業は絵描きだし、綺麗なものを描きたいって気持ちはそのまんまなんだ。僕、仲間に海を描きたいって言って宿を飛び出してここに来たの」
そこでようやく思い出したのか、フィレルのお腹がぐぅーっと音を立てた。それでやっと空腹に気付き、ふっと力が抜けてフィレルはそのままぺたんと座り込んでしまった。昨日、あれほど疲れたのにまだ何も口にしていないのだ、そうなるのも当然と言えた。
おいおい大丈夫かと、男はフィレルの顔を覗き込んだ。
「今日は船出の予定なんてないしな。良かったらうちに来るか? 美味しい魚とか御馳走してやるよ」
「え、本当? わーい!」
フィレルは目を輝かせて喜ぶが、一度疲れを意識してしまうと、どうにも立ち上がれなくなった。必死で立とうと動くフィレルを見、男は呆れた顔をした。
「芸術家の坊主よ、何かに夢中になるのはいいが、自分の身体の心配くらいしないと駄目だぞ?」
言ってフィレルの身体を背負いあげ、「軽いな」と呟いた。
「まだ若いんだからしっかり食っとかないと大人になった時苦労するぞ? 家まで連れてってやるよ。まずは腹ごしらえで、海を描きたきゃあその後で描きゃあいいんだ」
こうしてフィレルは男の家に行くことになったのだった。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.51 )
- 日時: 2019/09/08 08:35
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
魚の香草焼き、魚介類のダシで作ったスープに塩パン。
男は家に着くとフィレルを椅子に座らせて、しばらくしてからそれらの料理を盆に載せて持ってきた。
石造りの家はフィレルの予想したものとは違っていた。フィレルはもっと、船に関係する船乗り独特のものが置いてあるかと思っていたのだが、中は普通の家のようだった。
「ほら、食いな。港町ならではの魚料理だぜ。簡単なものだが元気になれる」
にやりと笑った男。フィレルはありがとうと礼を言って、ナイフとフォークを手に取った。
魚の香草焼きを一口食べた途端、溢れる笑顔。香草の香りが魚の臭みを討ち消して、良いアクセントになっている。魚の旨みがフィレルの口の中に広がった。
「うまいか?」
そんなフィレルを見、男は問うた。
うんっ! とフィレルは元気よく頷いた。
「おいしい、おいしいよっ! 魚ってあんまり食べたことないんだけれどおいしいんだねぇ!」
「港で獲れる魚は鮮度が違う。そう言ってもらえて何よりだぜ」
「このスープも……おいしいっ!」
「そりゃあ良かった」
フィレルは貴族の端くれだが、イグニシィンの家は落ちぶれた。贅沢なんてさせてもらえないから、フィレルは食べ物を描き、それを実体化させて食べて空腹を凌いでいた時期もあった。でもそれは空気を食べるような感じがして、あまり満足できなかった。でも贅沢を言うわけにはいかなかった。フィレルが贅沢を言ったら、きっと心優しいファレルは「僕は小食だから」なんて言って、フィレルに自分のご飯を分けてしまうだろう。ただでさえ身体の弱い兄に、そんなことさせるわけにはいかなかった。
出された料理を夢中で食べるフィレルを見、お前も苦労しているんだなぁと男は呟いた。
「んーとね、僕の家貧乏なんだー。領主さまの弟って言ったって、お金持ちってわけじゃあないんだよぅ」
何でもないことのようにフィレルは返す。
やがて全て食べ終わり、男に満面の笑みを浮かべた。
「おいしいご飯、御馳走様でしたっ! ありがとねー、元気になった!」
はい、お礼、と言って、フィレルは男の手に何かを押しつけた。
「これは……?」
「似顔絵! ご飯作ってくれてる間に描いたんだ。良かったらどーぞ!」
フィレルはにっこりと笑った。
紙に炭で描かれたらしいそれは当然ながらモノクロだったが、まだ出会ってから大した時間も過ぎていない相手を描いたにしてはうま過ぎた。フィレルの絵の腕は本物なのである。
「ありがとねー! じゃあそろそろ僕、行かなくちゃ!」
フィレルは海を描きたかったが、ロアやイルキスのことを思い出して我慢する。
それに今後も描く機会があるかもしれないし、気にしないことにしたのだ。
またね、と声を掛けて元気よく去っていったフィレルを見、男はぽつりと呟いた。
「……結局、名乗り忘れちまったじゃねぇかよ」
モノクロの絵を抱き締めながら、元気でなと言葉を投げた。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.52 )
- 日時: 2019/09/10 09:37
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
ロアたちの待つ宿に戻ると、そこには既に疲れた顔のイルキスがいて、ロアと何やら話しているところだった。二人はやってきたフィレルを見ると話をやめ、フィレルの方を向いた。
「気は済んだか?」
ロアが問うと、フィレルはうんと頷いた。
「ええとね、海で働く人に会ったの。おいしいご飯ご馳走してもらったの。海の絵描く時間はなかったけれど楽しかった!」
「……そうか」
フィレルとの付き合いの長いロアは、何となく何があったのか悟ったようだった。
「で、こっちの話なんだけど」
疲れた顔でイルキスは微笑んだ。
「船は買えた。流石に同じ賭場で荒稼ぎばっかりやってると、目を付けられて危険な目に遭いかねないから様々に移動しながら資金を集めた。でもさ、みんなぼくがイカサマしてるってすぐに思っちゃうから大変だったよ、ふぅ……。海の男たちはいい人だけれど、怒らせると怖いからねぇ」
船は港に置いてきたと彼は言う。
「で? 急がなくちゃならないんだろ。すぐに出発するかい? ところでフィレルかロア、船を操った経験は?」
二人とも首を振る。そうかいとイルキスは溜め息をついた。
「じゃあぼくが船を操るしかないようだね……。ぼくなら経験、あるから……」
と、不意にイルキスの身体がぐらりと傾く。ロアが手を伸ばし、咄嗟に支えた。
ロアの黒の瞳が、心配そうにイルキスの顔を覗き込む。
「そう言えばお前、昔は病弱だったみたいだな? それに徹夜したんだし疲れが溜まっているだろう。そんな体調で海になんか出られるか。今日の出発は取りやめて明日にしたらどうだ」
ううんとイルキスは首を振る。
「大丈夫……さ。今日しかないんだよ、チャンスは。明日には潮の流れが変わって、災厄の島へ行くのが非常に難しくなってしまう。潮の流れを見てきたけれど、今日しかないみたいなんだ」
「イルキス……」
大丈夫だからと彼は無理して笑う。
「まぁ……落ち付ける場所に着いたら代わりに、たっぷり休ませてもらうけれどね」
じゃあ行こうかと彼は言う。
ロアは頷き、眠ったままのフィラ・フィアを背負った。心壊れた彼女の身体は、異様なほどに軽かった。
「お前が希望の綱なんだから……さっさと目覚めろよ」
ロアの言葉なんて無論、届かない。
その後ろを、うつむいてフィレルがついていった。
◇
港に出る。イルキスはフィレルらをある桟橋に案内した。そこには一隻の船が停泊していた。
マストは二本。そこに掛けられた白い帆は今は畳まれている。船首付近には舵輪《だりん》があり、それを回すことで船の行き先を定めるらしい。大きさは十メルくらいか。そこそこの広さがあり、甲板の奥からは船室にも行けるらしかった。それなりに本格的な、立派な船である。船首には目のマークがついていた。
「これはなぁに?」
フィレルが問うと、「お守りさ」とイルキスは答えた。
「この地方の風習だよ。悪しきものに目をつけられないように、見張るためのお守りさ」
言って、イルキスは船に乗り込み、舵輪の前に置いてある台に地図のようなものを広げた。その後に続いて進んで行き、揺れる大地に目を白黒させながらも、フィレルは地図らしきものを指差して訊ねた。
「これって?」
「海図だよ。航海には必要なものさ。……ぼくはここではない港町に生まれ育ってね。ぼくもまた領主の息子だったんだけど、そこで船を操る術を学んだのさ。ぼくがいて良かったね?」
海図を広げると、今度は船尾の方へ行き何やらいじり始める。真っ黒な鉄の何かが現れた。「錨《いかり》か」ロアが問うと、「よくご存知で」と微笑んだ。
「これがないと船が停泊できないからね……。災厄の島まではしばらくかかりそうだ。だから食糧や水も買い込んで、本格的な航海の開始だよ。船の上はよく揺れる。気持ち悪くなってもどこにも逃げる場所なんてないから我慢だね」
先程まで疲れた様子を見せていたイルキスだったが、今はわくわくと楽しそうである。久々に船に触ることが出来て浮かれているのだろうか。
やがて。イルキスは様々な場所を一通りチェックしたあと、満足げに頷いた。
「これで良し……と。じゃあ今からぼくが船長だ。ロアが……出来るかわからないけれど頼りにしているから航海士ね。ああ、護衛も頼むよ。で、フィレルは雑用係」
「僕の扱い、ただの雑用!?」
「とりあえず、そういうことでね。まぁフィレルの力があればもっと様々なことができるだろうけれど、丁度良い役職が思い浮かばなかったものでね。ああ、料理もぼくがやる。船の上だから陸上と同じようにはやれないのさ」
頬を膨らませたフィレルをさらりと流し、てきぱきとまとめていく。
イルキスは手でひさしを作り、空を見上げた。太陽はまだ中天にある。夜になるまでどこまで進めるか。夜になったら流石のイルキスも休もうと思っていたし、その間に、船員としての様々な心得を皆に教えようと思っていた。
初心者を二人連れての船旅。希望の子は眠ったままで目を覚まさない。
しかしイルキスの胸は高鳴っていた。かつて、海で大切な人を失ったというのに。
「……でもやっぱり、海への憧れは捨てられないんだな」
自分の気持ちに気が付き、まるで少年のような、冒険への強い憧れに気が付き、イルキスは苦く笑った。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.53 )
- 日時: 2019/09/12 14:37
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
「さぁ、出発だ」
イルキスはフィレルらに指示を出しつつ、錨を引きあげ畳んでいた帆を張った。真っ白な帆が風を受けて大きく膨らんだ。フィラ・フィアは船室に置いてきた。そして。
「わぁっ、動いた!」
思わずフィレルは歓声を上げる。いいだろう、とイルキスは船首に堂々と立ち、笑った。
彼の、背中に流した青みがかった銀の長髪が、海風を受けて霧のヴェールのようにきらめいた。
揺れる大地にはまだ慣れない。フィレルは欄干の手すりを掴んで倒れないようにしていた。身体能力が高くバランス感覚も良いロアはすぐに慣れたようで、揺れる地面を気にしなくなるのもすぐだった。彼は欄干からそっと身を乗り出して海を見詰め、空を見上げた。空と海。同じ青でも色は違う。今まで内陸の地で育ってきた彼らにとっては、何もかもが新鮮に映るだろう。
不意に船ががくんと揺れた。思わずつんのめりそうになったフィレルをロアが支える。
イルキスはつと目を細めた。その目は海の中の何かを読んでいる。
「潮が変わったね、待ち望んでいた潮だ。これから一気に沖に出るよ。陸地とはしばらくはお別れさ?」
言葉と同時、船がどこかに引っ張られるような感触。陸地がみるみるうちに遠くなっていく。
イルキスは海図を見つつ舵を取った。ぐるぐると舵輪が回される。海の上は見事に何もなかったけれど、それでもイルキスの目にはしっかりとした何かが見えているようで。
少しずつ日は暮れていき、吹いていた風も収まる。凪《なぎ》のひとときが訪れ、風はやがて完全に止んだ。真白な帆が垂れ下がる。その中で。
「ご覧、フィレル。海から見る夕焼けは格別だろう?」
言って、イルキスはある方角を指し示した。藍色に染まっていく海の中、溶けていくような鮮やかな橙色。それは近くの空を海を同じ色に染めて、たとえようもないほど幻想的で美しかった。自然、フィレルの手がスケッチブックに伸び、フィレルは憑かれたように絵を描き始めた。描きたかった海の光景。その夕景ともなれば、彼の中に眠る絵師の心が動くのも当然なのだ。
夕焼けの時間はあまりに短い。やがて日は完全に沈み残照すらも消え失せ星の光が射すのみとなったが、それでもフィレルは絵を描き続けていた。まるで先程の光景を忘れまいと、心に刻みつけるかの様に。その表情は鬼気迫っていて、いつもの無邪気でお茶らけた態度はすっかりなりを潜めていた。
やがて。
「終—わったぁ!」
叫び、フィレルは大きく伸びをする。
携帯している水筒で筆とパレットを洗い、絵を描くための道具を仕舞っていく。垣間見えたその絵はとても美しく、イルキスもロアもフィレルの才能の片鱗を思い知ったのだった。絵心師だとかイグニシィンだとかはどうでもいい。やはり彼は彼の本職は、絵描きなのだ。
イルキスはしばらく呆然と立っていたが、やがて船尾に行って、金属の塊を操作し始めた。それはなぁにと問うフィレルに、錨《いかり》だよとイルキスは返す。
「今日の船旅はここでおしまい。休んでいる間に船が遠くに流されないように重石を置くのさ。これはそのための道具でね」
それにしても疲れたねぇと彼は大きく伸びをして、船室方面に歩いていく。
「ふあぁ……。海の上の夜は長いよ。何かあったらぼくを呼んでくれればいいけれど、きみたちもさっさと眠ってしまうことをお勧めするね。ぼくは徹夜だったから……本当に、疲れた」
言って彼はそのまま船室に消えてしまった。
フィレルはロアと顔を見合わせると互いに頷きあって、船室へ消えた。
海の上の夜は静かに過ぎていく……。
◇
それからしばらくは、船の上での生活が続いた。フィレルもロアも船に乗るのが初めてにしては船酔いに悩まされることもなく、旅は快調に進んでいった。イルキスも久しぶりの海に本当に嬉しそうだった。
しかし最初は目新しかった景色も、何日も旅を続けていればその単調さに飽きが来る。旅も三日目になった頃だろうか、フィレルは退屈だと文句を言いだした。旅の食料も決まったものしかなく、それがお坊ちゃまとして育ってきたフィレルには我慢ならなかったのだろう。これまでフィレルは優しい兄ファレルの庇護のもと、不自由な思いなどしたことが無かったのだ。
「そんなこと言われてもねぇ……」
イルキスは困ったように頭を掻いた。
「そうだ、きみは絵心師だろう。その絵の魔法で単調な日々を変えてみたらどうかな? ぼくはこれを単調だとは思わないけどね……。海にいると、落ち付くんだ。海には嫌な思い出だってるのにさ……結局ぼくは海が好きなんだねぇ」
イルキスはそう、苦笑いした。
イルキスの提案に頷いて、フィレルはいつも持ち歩いているスケッチブックに早速絵を描き出した。
しばらくして見えてきたその全貌は。
「……料理、か?」
「うん! 僕、おいしいご飯をたくさん食べたいなぁって!」
フィレルの言葉にロアはそうかと頷いた。
彼らしいと思ったのだ。
その日の夕飯は、フィレルが実体化させた食べ物になった。
が、ロアは知っている。そんな魔法の産物でしかない料理など、本当はお腹をいっぱいにはさせてくれないのだと。満腹感、満足感は得られるかもしれないが所詮は魔法素の塊である。
それでもフィレルは大喜びだった。
そうしてその日は過ぎていった。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.54 )
- 日時: 2019/09/16 21:48
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
船旅を始めて、七日が過ぎただろうか。
海図を確認しながら時折魔法の風を送って船を操っていたイルキスが、「そろそろかな」と言った。
ふっと見上げた海の向こう。単調な風景の彼方、かすかに見えた黒い影。
「あれが……?」
「そう、災厄の島だ。海図には載ってるんだけど、実際にお目にかかるのは初めてだねぇ」
ようやくだねと疲れた顔でイルキスは笑う。
彼がちらり振り返った船室には、いまだ目覚めぬ封神の姫が眠っているはずだ。
「この島で彼女の目覚めへのヒントが見つかるといいんだけど……」
ロアの話によると、そこに蝶王がいるという。
蝶王との話いかんでは、状況は様々に変化するだろう。
「見えてきたっ! ……ってこの島、何だか怖い空気があるね?」
フィレルが近づいてくる島を前に感想を述べる。
そうだなとロアが頷いた。
「昔、この島には善良なる竜族が住んでいた。が、彼は人間に裏切られた悲しみでこの島に閉じこもり、以来、島に太陽が昇ったことはないという、そんな伝説がある。今、その竜族は深い眠りについているらしいが、再び目覚めた際に人間を目撃するようなことがあれば、この島の災厄はシエランディア本土にも波及するだろう、とな……。島に大きな火山があるんだが、その竜族は火山の火口の中で眠っているらしい。だから人間は迂闊に火口に近寄ってはならないんだって、な。
この島は今では、世界のどこにも居場所を見つけられなくなった人々の行き着く終着地だ。そこにいる人間のほとんどはこの島に来た際に船を壊し、もう二度と帰れないようにしているらしい。碌な人間などいないから関わるなよ」
ロアの説明にフィレルはへぇーと頷く。イルキスが探るような眼を向けたが、ロアは「記憶はなく知識だけが頭の中に残っている」と返した。
この長い封神の旅の中、ロアの知識量は彼と同年代の少年のそれに比べればはるかに多いものだということがわかってきた。それが何に起因するものなのかはわからないが……。
そして、着く。
濁った波寄せる波打ち際に、白い帆の船が寄ってきた。イルキスは錨を放り投げようとしたが少し考えて道筋を変更、波打ち際ではなく岩場付近に接岸し、板を渡してフィレルらを促した。
どうしてそんな手間が掛かるようなことをしたのかとフィレルが問うと、ロアの話さとイルキスは答えた。
「碌な人間がいない、船を壊した。それらの話を聞いた限りでは……簡単に船に触れるようなところに船を置くのはご法度だろう。何をされるかわかったものじゃないからね。そんなわけでぼくはここに残ることにするよ。ぼくだって伝説の蝶王に会いたかったし災厄の島の内部にも立ち入ってみたかったけれど……それで帰れなくなったらぼくたち、死ぬまで永遠にこの島に取り残されることになるからね。そんな未来、ごめんだろ?」
うん、と神妙な顔でフィレルは頷いた。
じゃあフィラ・フィアを頼むよとイルキスはロアを振り返った。
「彼女を背負っていけば、もしかして蝶王の方から見つけてくれるかもしれないしねぇ」
後はよろしくと彼は言い、フィレルが、フィラ・フィアを背負ったロアが板を渡り終えて岩場に着いたのを確認すると、板を片づけた。
「ぼくは岸からやや離れた場所にいる。でもこの近辺にいることは間違いないから、見当たらなかったら声を上げるなりなんなりして欲しい。それでも返事がない時はどうにもならない事態が起こったと考えてくれて構わない。そうなった時は悪いけれど、最低でも三日くらいは待っていてほしい。その間に何とかするから」
気をつけてね、と声を掛け、イルキスの船は遠ざかっていった。
災厄の島の上のはいつも暗い雲が掛かっており、太陽なんてのぞきやしない。暗く異様な空気のこの島に怖さを覚えてフィレルはロアにしがみついた。普段のロアならばそんなフィレルの頭を小突いて「しっかりしろ」と声を掛けるくらいはするのだが生憎と今は両手がふさがっている。だからロアはフィレルに声を掛けるだけは掛け、不安定な岩場の上を、特にぐらぐら揺れることもなく安定した足取りで進んでいった。
岩場が終わると浜辺に出る。先程の浜辺だ。打ち寄せる波までもが灰色がかっていて、この島に明るい色彩のものなど何ひとつないのだということを思わせる。そんな中で、フィレルの元気な茶色の髪と鮮やかな緑の瞳は、異様なほど際立って見えた。白いエプロンに飛び散った絵の具の痕すらも、この島の中では場違いな明るさを放っていた。
空気は寒かった。凍えるようだ。それは当然ともいえるだろう。この島には太陽が昇らないのだから。この島の天気は曇りか雨か荒天かしかないのだから。
そうやって歩いていたら。
いつしか周囲にぽつり、ぽつり。虚ろな人影が現れるようになってくる。
「関わるな」
ロアは言った。
「世界を捨てた人たちだ。オレたちみたいに目的を持って、確固とした未来への意思を持ってこの島を訪れたわけではない。元いた場所でも簡単に死ぬことはできないからこそここに来たんだ。そんな人たちと絶対に関わろうとはするなよ。何かあったらオレが守るからそうなったらお前はフィラ・フィアを背負って逃げろ」
ここはこれまでみたいにはいかない場所だからなと補足した。
フィレルはロアの陰に隠れ怯えながらも、通りすがる人々を隠れ見る。皆その顔に感情は無く虚ろで、悲壮さや悲しみやその他暗い感情だけが瞳の奥に渦巻いている。彼らは生きてこそいるが、もう死んだようなものなのだ。死んでもいいと思ってこの島に来た人たちなのだ。
彼らは鮮やか過ぎるフィレルたちを見て時に驚きを示しこそはしたが、ロアの発する張りつめた空気に何かを感じ取り、近づいてきたり余計な辛みをしてきたりする者はいなかった。今ロアは自分と周囲の仲間を守るために、周囲に殺気のような空気を振りまいていた。これまでそんなロアなんて見たことのなかったフィレルは怯え、ロアの黒いマントの端を縋るように握りしめた。
- Re: 魂込めのフィレル ( No.55 )
- 日時: 2019/09/21 00:51
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
そうやって歩いていたら。
ふっと周囲の空気が変わった。
これまではただ異様で恐ろしい空気だけだったものが、一気に冷たい死の気配を帯びた。
冷たいだけだった外気が、一気に零下まで下がり空気が凍り付く。
その向こうに“それ”はいた。
真白な蝶、純白の蝶。おびただしい数群れ飛んで。
死そのものを周囲に振り撒くそれはさながら死神の化身。
その蝶の群れの中央に“それ”はいた、“彼”はいた。
後ろ姿だ。純白の衣装に身を包み、背に蝶の翼を生やした、身長三十セメルほどの、
「——蝶王」
『我の名を呼ぶは誰《た》そ』
フィレルの驚きの声に反応し、氷の刃の如き声が空を渡って突き刺さる。
“彼”はゆっくりと振り向いた。純白の髪が揺れる。心閉ざした純白の瞳が眠たげにフィレルらを見遣った。麗しいかんばせが正面を向く。
その、色をなくした唇が言葉を紡いだ。
『いかにも、我こそは蝶王、蝶の中の王。伝説の時代に生くる不思議の存在なり。我を呼ぶは何者そ。答えよ』
その声は相手に言い訳を許さぬ魔性の声。
フィレルの口がその魔力に囚われて勝手に開き、言葉を紡いでいた。
「絵心師、フィレル」
『フィレルとやら。我の名を呼んだ訳を答えよ』
「伝説の、フィラ・フィア。蘇って。でも、目覚めなくなっちゃって」
「——ほぅ?」
その声が面白がるような調子を帯び、フィレルは声の魔力から解放された。
蝶王はフィレルの隣に無言で立つロアを見た。彼の背負っているフィラ・フィアを見た。
「どうやら通常の客ではないようだな。そこにいるのは本当に封神の姫か? 彼女は確かに死んだのではなかったのか」
「僕が禁忌犯して、絵の中から取り出しちゃって」
「しかし何らかの原因で深い眠りについてしまったと、そう解釈して良いのか?」
フィレルは頷いた。
蝶王はロアを見て“声”を発した。
『そこにいる人間。お前はフィレルとやらの仲間か。我が問いに答えよ、そして名を答えよ』
フィレルはロアもまた声の魔法に囚われるかと思ったが。
ロアはフィレルのようにはならず、平然として答えた。
「最初の問いへの答えは、応。そしてオレの名はロア、そこのフィレルの幼馴染だ」
蝶王は平然と答えたロアを見て小さな眉を上げた。
『我の声を聞いてもそれに囚われぬ人間など初めて見たわ。そなた、人間ではないな?』
「生憎と記憶喪失だ、細かいことはわからないな」
本題に入っていいか、と彼が訊ねると、蝶王は面白がるような光を目の奥に浮かべて頷いた。
ロアはこれまでの経緯をざっと説明する。
「そこのフィレルが好奇心によって絵から伝説のフィラ・フィアを取り出した。フィレルは現代に蘇った彼女によって、新しい封神の旅の仲間にされた。オレもついていき途中で一人が新たな仲間になった。オレたちはフィラ・フィアのやり遺した封神の旅を完遂させるために長い長い旅をした」
ロアは背負っていたフィラ・フィアをそっと地面に横たえた。彼女は相変わらず深い眠りに落ちたままだ。彼女の心はいまだ、この場にはなかった。
ロアは話を続ける。
「最悪の記憶の遊戯者フラックとの戦いで、彼女は心に最悪の傷を受けて心を壊し、人形のようになってしまった。推測するに、蝶王、あんたの遠い日の相棒シルーク・フォルイェンの死の記憶を強引に蘇らせられたからだろう。彼女はシルークに淡い恋心のようなものを抱いていたようだな。
そしてリーダーたる彼女が動けなくなってしまった以上、こちらが動くしかない。オレは前に闇神ヴァイルハイネンがしてくれた話を思い出し、それを希望の綱にここまで辿り着いたわけだ」
フィラ・フィア、目覚めるかなぁとフィレルは心配げだ。
しかし蝶王はそれどころではなかった。
「シルーク……シルーク! ああ、その名を聞くのはいつぶりであろうか。そうだそうだ我の魔性の声も! あの子から奪ったものなのだそしてあの子は我に名をくれたのだ! 覚えている昨日のことのように覚えているぞ! あの子が死んだから我は心を閉ざし、この島に……ッ!」
呻くように叫び、呼吸を整えてから彼はふわり、眠るフィラ・フィアの上に舞い降りた。彼女の顔を間近で見詰め、しみじみと呟く。
「そなたたちの言葉は嘘ではないようだ。先程は怖がらせて悪かったな。彼女のことだって覚えているとも。あの子もな、明るく真っ直ぐな彼女を好ましく感じていたのだよ。このまま二人がずっと生きていたら、不器用な恋はやがて結ばれるかも知れなかったと思ったことが何度あったか……!
そうだ、我こそが蝶王だ。何百回何千回と生まれ変わりを繰り返し、幾星霜の記憶を受け継いできた存在だ」
彼女の心を取り戻したいと言ったな、と確認し、ひとつ頷くと蝶王は眠るフィラ・フィアの耳元に寄ってきて、
“声”を発した。
それは、たったの一言。
『——いつまで寝ているの、フィラ・フィア』
遠い日の『彼』ならば、シルークならば発したであろう言葉を、魔力のこもった魔性の声に乗せて届ける。
彼女の愛した彼の、人間不信で不器用だった彼の——。
- Re: 魂込めのフィレル ( No.56 )
- 日時: 2019/10/13 08:27
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
しかしその瞳は開かない。蝶王の声すらも、シルークの声すらも届かない。
一瞬だけ、確かにその瞼は震えたのに。それっきり、動かない。
「……駄目であったか」
落胆したような蝶王の声。
「済まぬ、我ならばできると思ったのだ。そなたらの話を聞く限り、彼女はあの子を直接の原因としてこのような事態になったと思ったがゆえにな。しかし原因は違うところにあるというのか? わからぬ……」
頼みの綱である蝶王でもこの事態を解決出来なかった。
フィラ・フィアは目覚めない。希望の子は目覚めない。
フィレルらが途方に暮れた、時。
不意にどこからか、カアと鴉の鳴き声がした。
それに反応し、まさかとロアは声のした方を見る。
島の闇を切り裂いて、闇よりも黒い鴉が飛んでくる。その瞳だけは血のように赤い、鴉が。
フィレルはロアから聞いた話を思い出し、思わずといった感じで口にしていた。
「赤眼の鴉って……もしか」
「しなくても闇神ヴァイルハイネンだ。人間たちはご機嫌麗しゅう」
フィレルの言葉を引き継いで、聞いたことのない声が答えた。
高速で迫って来た赤眼の鴉は宙で一回転すると、人間の姿になった。
闇よりも黒い髪、血のように赤い瞳、褐色の肌。赤いマフラーをし、濃い灰色を基調とした地の上に赤い模様が交差する意匠の服を身に纏い、漆黒のマントを上に羽織る。
人間ではないと一瞬でわかる、圧倒的な存在感。
彼はマフラーに隠れた口元に、不敵な笑みを浮かべた。
「こんにちはだな人間たち。前からずっと様子を見させていただいていたが詰んだみたいだからな、ヒントを与えに来たんだよ」
俺は人間が好きだからなと笑う。
「そして最悪の記憶の遊戯者には通常の人間は立ち向かえん。今回だけだが特別に手を貸してやろうとも思った。人間好きな闇神の気紛れだよ。まぁ、否と言われたって勝手についていくがな」
驚くフィレルらに闇神は言う。
「眠っている封神の姫を呼び起こすには、あと二つの『欠片』が必要だ。壊れ傷付いた彼女の心を復元するには、彼女と強い関わりを持つ人物のものを集めなければならない。シルークの『欠片』は蝶王だった。レ・ラウィの『欠片』はエメラルドのペンダントだ。そういった全てを集めなければ彼女は目覚めないようになっているという。……全く。面倒な鍵を掛けたものよあの骸骨めが」
蝶王の声は確実に届いているぞと彼は言う。
「だから絶望するな、前を見ろ。歴史を思い出し文献をあされ。彼女を七雄のゆかりの地に連れていけ。そうするごとに彼女に掛かった『鍵』が外れ、最後の『鍵』が外れた暁には彼女はようやく心を取り戻す。旅は長いが全てが終わったわけではない。……ほら、な。希望が見えてきただろう? ヒントをやる。七雄全てのものを集める必要はない。必要なのはシルークと、レ・ラウィと……エルステッドだ」
闇神の、言葉。
全て終わった、打つ手はないと思っていたけれど、そんなことはなくて。
よかった、とフィレルはその顔に微笑みを浮かべた。
「レ・ラウィのペンダントなら兄さんが持ってるから最後に行けばいいね!」
とにかく、用は済んだのだしこの島から出ようとフィレルは笑った。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.57 )
- 日時: 2019/10/01 10:04
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
来た道を戻り、島の入口へと向かう。蝶王と闇神もついてきた。
その途中。
不意に、大きく大地が揺れた。
「地震……?」
フィレルは両足を踏ん張ってバランスを取る。ロアも体勢を崩し掛けたが何とか留まる。
どこかで、竜の咆哮が聞こえたような気がした。悲しい叫びが島をつんざく。
竜の、咆哮。そしてこの地震。それの示すことは。そもそもこの島が災厄に包まれた原因とは。
——この島の、禁忌とは。
「え、まさか……」
気付き、フィレルもロアも顔色を変える。
島に住む竜、人間に裏切られ、島を災厄に包みこみ、火口に眠る竜は人間が嫌いだ。火口になど通常の人間は近づかないはずだが、話を知らない人間からすれば火山の火口は丁度良い自殺スポットである。何も知らない人間が火口に近づき、眠る竜を起こしてしまったのだとしたら。
「まずいな」
闇神の言葉と同時、
爆発。
「火山が噴火したぞ、今すぐ逃げろッ!」
切羽詰まった声。
轟音。
島の奥の火山が大爆発を起こし、その向こうから巨体が現れる。
漆黒の鱗に紫水晶の瞳をしたそれは、紛れもなく、伝説の存在、竜族であった。それは紫の瞳を怒りと狂気に爛々と光らせ、大地をどよもすような声で叫びを上げた。
《——我を眠りから起こしたは誰そ》
その声の圧力たるや。
蝶王の、もといシルークの『魔性の声』と同等か、それ以上の威圧感を聞く人に与えた。
爆発する大地。闇神が守護魔法を展開、フィレルらに火山弾などが飛んでいかないようにしているが、その顔は難しげだ。
悲しみの竜は叫びを上げる。
《——我を! 穏やかなる眠りから起こしたのは! 誰そ!》
目覚めたくなかったのにと竜は呟くような声を漏らす。
《目覚めなければ思い出すことはなかった。人間種族への怒りや悲しみ、奪われた我が子の命のこと! 近づかなければ傷つけることもなかった。我はこの炎の海で、ずっとずっと眠っていられたのに》
その瞳がぎろり、闇神を見つけて光る。
《——お前か》
「否」
人間の姿に変じた闇神は首を振る。
「落ち付くが良い、災厄のアリューン。きっとただの自殺志願者だ。俺——闇神ヴァイルハイネンはお前の目覚めに一切の関与はしておらんぞ。俺は訳あってこの地に来、この地に本土からはるばるやってきた人間たちを救っただけだ。そしてその人間たちは可能な限り、火山から距離を置いていた」
《闇神、だと?》
竜の瞳に、束の間宿った冷静さ。巨大な竜は翼をはばたかせこちらに近づき、目を細めた。その目がフィレルとロアと、ロアに背負われたフィラ・フィアを捉える。
《成程、人間好きな闇神が来たか。だが闇神は人間好きゆえに人間を庇う。ああ、我は信じん信じんとも! 人間種族など、人間種族に関わるものなど! たといそれがこの世界の神であろうと!》
叫び、竜は咆哮を上げた。その声に応じ、無数の火山弾がこちらに向かって降ってくる。どう考えても常軌を逸した力、大地そのものに働きかける強力な力に、フィレルらはただ縮こまることしかできない。
そしてそんな大自然の暴力を、闇神は掲げた腕で受け止める。彼の掲げた腕の先、透けた闇色の魔法陣が無数生まれ、それが火山弾を受け止め、流し、勢いを殺して大地に返す。瞬く間に変わっていく地形の中で、闇神を中心とした部分だけは無傷だった。
「話を聞け、災厄のアリューン!」
闇神は叫んだが。
災厄の竜の瞳は再びの狂気に侵食されていきつつあった。
闇神は舌打ちをする。
「話しても無駄だということか」
彼はフィレルらを見た。
「仲間が船で待っているらしいな。そこまで送り届けるからお前たちは全力で本土を目指せ。俺はこの災厄を止めた後に合流する」
「勝算はあるの?」
あまりの竜の力に不安になってフィレルが問うと、闇神は「どうだか」と難しい顔をした。
「余裕だ、と笑いを返したかったのだが、な……。
ここが天界であるならば俺の勝利は間違いない。が、ここは本来の姿を現すわけにはいかない地上界。かりそめの姿でこの化け物とどこまで戦えるか……それは未知数だ。本当にどうしようもなくなったら天界に救援を要請する。……有名ではないが俺には兄神がいてな。あいつなら、ゼクシオールならば俺の危機にはきっと駆けつけてくれるだろう」
話は終わりだ、と闇神は打ち切り、右手を何もない空間に伸ばした。すると、そこに生まれる黒い闇のだかまり。それは縦に伸び、その向こうの光景はうかがい知れない。
闇神は言う。
「緊急時だから仕方あるまい、過干渉と言われようが関係ない。俺の権能『異界の渡し守』で『扉』を開いた。この闇の向こうに仲間と仲間の船がある。だからさっさと行け」
行って闇神はフィレルらに背を向けた。
彼が見上げるは災厄の竜。この島の主にしてとても強い力を持つ竜。
その竜に比べれば、人間の姿をしている闇神はあまりに頼りなく見えたけれど。
「——信じてる。頑張って!」
声を掛け、蝶王、ロアと一緒にフィレルは闇を越えた——。
「話は聞いたよ。すぐに逃げる!」
船に着くなり、イルキスは叫んだ。
風魔法を目いっぱい使い、全速力で船を進ませ災厄の島からなるべく遠ざかろうとする。
彼は船を進ませながらも、災厄の島の解き放たれた災厄を遠くに見遣った。
「闇神さま、無事だといいんだけれど……!」
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.58 )
- 日時: 2019/10/02 09:28
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
《人間を逃がし己は残るか》
「応。お前をこのまま放置したら、シエランディア本土に災厄が波及するというのが俺の考えだ。俺は人間種族の味方だからな、そんな可能性、許すわけにはいかないんだよ」
災厄の島で、闇神と厄竜は対話していた。
厄竜は問う。
《して? そなたは我に戦いを挑む気か》
「応」
闇神の瞳は揺るぎない。
「お前が人間種族を害し得るというのならば、俺はこの身をもって人間種族の壁となろう」
《我は強いぞ? そんじょそこいらの伝説生物とは訳が違うぞ? 本来の力を出し切れぬそなたに我を倒せるのかわからぬぞ?》
「承知の上で、戦いを挑んでいるんだ」
そうか、と厄竜は頷いた。
紫の瞳がぎろりと光る。
《ならば我も容赦はせんぞ。全力で来い、人間好きの闇神》
闇神は頷き、宙を蹴った。するとその背に現れる、漆黒の鴉の翼。
燃え盛る火山弾を右に左に高速飛翔し回避して、厄竜へ迫る。赤いマフラーが翻り、彼をかすめた火山弾に触れて一部が焼け焦げたにおいを発した。
闇神は何も持っていない両腕を振る。するとそこから現れた漆黒の双剣。それは闇で作られたもの。
迫る闇神。迎え撃つ厄竜。人間の力を遥かに超えた存在同士の戦いが始まった。
闇神に対し、厄竜は大きく口を開けてブレスを吐こうとする。が、闇神はそれを見切り、急上昇。目の前すれすれに迫った地獄の火炎を回避する。
厄竜は感心したように言った。
《やりおるな》
「一応、世界誕生からいる最古の神の一柱なんでね。竜と戦った経験だってあるさ」
ふっと笑う闇神。その姿が、消えた。
《なん、だと?》
厄竜の驚きの声。
闇神ヴァイルハイネンは闇の神であると同時に影の神。彼は闇に紛れ、影に紛れ、予測不能な攻撃を仕掛けることができる。
厄竜は自身の鱗に衝撃を感じた。だが、それだけだった。闇神の影の刃は厄竜の鱗を貫くには至らなかった。
何だ、その程度かと厄竜は笑う。
《そうか、そうであったな! 闇の神は炎の神や大地の神とは違うのだ! 行動が素早く視界に捉えることなどできないが、その分攻撃力も防御力も低い……。それに、“見る”ことはできずとも、“感じる”ことは可能である!》
感覚解放。呟き、厄竜は目を閉じる。彼の全ての感覚が研ぎ澄まされていく。
そして感じた。自分の弱点である柔らかい腹を目掛けて迫ってくる動く影を。
闇の神は動きこそ素早いが防御力は低い。ゆえに一撃でも喰らったら、それは大きなダメージとなる。
厄竜は尻尾を動かし、見えぬ影に向かって尻尾による殴打を加えた。直後、呻き声。纏った影のベールがはがれ、闇神の姿があらわになる。
尻尾の一撃で、咄嗟に顔を庇った彼の右腕は使い物にならなくなっていた。闇神は苦しみに顔をしかめ、口の中に溜まった血を吐きだした。
《見えぬからって油断するな》
「油断していたわけじゃあ……ないんだけど、な」
苦しげに闇神は笑った。
戦況は一変し、今は厄竜が有利となった。どうやって撃破するか頭を巡らす闇神に、不意撃つ地獄のブレスが迫る。
「くっ……!」
間一髪、闇神はそれをかわしたが空中で大きく態勢を崩し、状況の劣勢は変わらない。
《神といえどもその程度か。やはり天界ではない場所で戦う神は弱いな? お前が原初神だと? 笑止!》
笑い、厄竜は今度は自分から攻めかからんと動き出す。その動きを見切ることは闇神にとっては余裕だったはずだが……。
「……ッ」
ダメージを負い、動きの鈍っていた身体。かわしきれず、闇神は厄竜の腕に薙ぎ倒されて遠くへ吹っ飛ぶ。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
苦しみに顔を歪め、それでも闇神の瞳は揺るがない。
彼の全身から闇が噴きだし彼を包み込み見えなくさせる。何だと厄竜は笑った。
《先程と同じではないか。同じ手が我に通じると思うな。一回目も防がれたであろうに》
「同じじゃ……ないぜ」
答える声は、複数箇所から同時にした。
何だと、と厄竜は目を瞠る。
そこに闇神がいた。満身創痍の姿で、しかしその姿は七つに分かれて。
厄竜は目を閉じ感じ取る。それら七つすべてに熱があるのを。
厄竜は相手の熱を感知して闇神の接近に対処したが、分身すべてに熱を感じるとなると本体のみを撃破するのは難しい。
七体の闇神は同時に言った。
「「『竜と戦った経験だってある』と言っただろう。先程の交錯であんたのことは大体わかったんだよ」」
言って、七体が同時に迫る。
あるものは厄竜の腹へ、あるものは厄竜の口の中へ、あるものは厄竜の目をめがけて、あるものは厄竜の鱗の隙間を狙い、それぞれ闇の剣を振る。四方八方から迫る攻撃全てに対処できるわけもなく。辛うじて口へ迫るもの、腹へ迫るものは撃退できたが代わりに目を貫かれ、鱗の隙間を抉られた。感じた痛みに厄竜は絶叫し、残った片目を爛々と光らせた。彼の叫びに呼応して、火山が再び噴火して火山弾が闇神たちに迫る。が、闇神たちは右に左に高速飛翔、危なげなく避けていく。
一転して優位に立った闇神たち。が、体力も限界に近づいて来たようで動きがぎこちない。余裕のない表情で、無言で闇神たちは追撃開始。飛翔する彼らを厄竜は尻尾とブレス、腕で撃退しようとするが、全てを撃退しきることはできずにさらなるダメージを喰らう。
闇神の一体の剣が鱗を抉り、首の筋肉をあらわにさせた。その向こうにあるのは大事な血管、切られたら死ぬ急所である。そこを目がけて残った闇神たちが殺到する。厄竜は腕でそれらを何とかしようとするが、かと思えば他の闇神が別の場所を攻撃、強引に注意を逸らさせる。
どれが本体かわからない。どれを攻撃すれば良いのかわからない。ただ、分身でも自身に傷を与え得ると気付き厄竜はひたすらに撃退するが、高速飛翔する相手が七体もいるのだ、動きのあまり速くない厄竜に全てを撃退しきることは不可能で。
闇神たちは不敵に笑った。
「「ダメージを喰らわないと発動させられないのが厄介だが——この術式の分身は全て俺だ。俺は自分を七つに分けた。だから分身が死ねば自分も残り体力の七分の一を一気に消失するが、逆に言えば全員倒されない限り俺は死なない。肉を切らせて骨を断つ——苦肉の策の技だがな?」」
しかし流石に苦しいか——などと闇神たちはぼやいているが、攻撃の手は止まることなく。
「「厄竜よ。本来、お前に罪はないが、人間種族の敵となり俺と向かい合ったが不幸、悪いが安らかに死んでくれ」」
言葉と同時、厄竜の首の血管が、断たれる。盛大に噴き出した血液を浴びないように、闇神たちは一気に離れる。
そして、空中で集まり——ひとつに、戻った。
くずおれつつも、厄竜は呟いた。
《油断していたのは——我であったか》
「こっちだって無事とは行かないがな。こんなに苦戦したのは久しぶりだ。奥の手を使うことになるとは思わなんだ、あんたは強かったぜアリューン」
闇神の翼が消え失せる。勢いよく大地に激突した闇神は、もう立ち上がれなかった。それでも彼は必死で大地に膝をつき、何度も血を吐きながらも笑ってみせた。
「あんたの無念もよくわかる、人間種族の醜さも。その件はこちらで何とかすると約束しよう。だから——安らかに、眠れ」
《……闇神、ヴァイル、ハイネ、ン》
「どうした?」
厄竜は何かを言おうとした。しかし言葉は出なかった。厄竜はそのまま残った片目を閉じ、もう二度と開くことはなかった。
不意に、空が晴れる。厄竜の死により島に掛けられた呪いは解け、実に久しぶりの青空が姿を現したのだ。青空の下に広がるは荒野、火山の大噴火によって何もかもが無に帰した地。だがそれでもいつかはこの島に植物の種子が運ばれ、島が生まれ変わる日も来るのだろう。自然は、強い。闇神はそれをよく知っている。
闇神は自分に残された体力を感じ取り、今のままでは先に行ったフィレルたちに合流できないこを悟った。どうせ翼もしばらくは出せないのだ、休息しても良いかとは思ったが。
「……でも、心配なものは心配だし、な」
呟き、彼は震える身体を何とか動かし呪文を唱える。するとその身体が鴉のものに変じた。片方の翼の折れてねじ曲がった鴉は必死に空を飛ぶ。鴉の姿ならば消耗が少ないと、そう思ったが故の変身である。体の構造を人間の言葉が喋れるようにするほどの余裕もなかったが、少なくともこれで合流できる。
そうやって必死で羽ばたいていたら。
「——ハインも無茶しちゃって。まったく、俺の手間を掛けさせないでくれる?」
笑い声と同時、翼を支えるように風が吹いた。
姿は、見えない。だが闇神は感じ取る。それが、彼と親しくしている神、風神ガンダリーゼのものだということを。
「そっちの戦いに干渉はするつもりなんてなかったけれど、ずっと見させてもらってたよ。いやぁ、厄竜アリューンは強かったなぁ。でも、いくら人間種族のためだからって、お前は無茶し過ぎ。俺が心配になるじゃんかよー」
明るく笑う風神の声。しかし闇神はそれに応える力を持たなかった。
風神の声が心配げになる。
「応えることもできないくらいになっちゃったわけ? まったく、無理すんなよな。船までは俺の風で送り届けるけれど、その先は無茶しないでしっかり休めよ? 鴉の姿じゃ何もできないぜ?」
わかってる、と言う風に辛うじて闇神が首を上下させると、それで良しと満足げに風は笑った。
やがて見えてきたイルキスの船。白い帆を張り、船首に目の模様の描かれた船。
風はその近辺まで闇神を送り届けると、最後に癒しの力のこもった風を送り、「元気でな」と声を掛けて気配ごと消え去った。
そして。
「わっ、赤眼の鴉! 落ちてくるよ!」
「闇神さまだ、受け止めろッ!」
墜落するように船に向かって飛んできた彼は、フィレルの手に受け止められたのだった。
そして安心したのか——彼は意識を手放した。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.59 )
- 日時: 2019/10/13 08:30
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
「闇神さま、満身創痍だぁ……」
「だが見てご覧。災厄の島に掛かった雲が、なくなっている」
落ちてきた鴉の闇神に治療を施しながらもフィレルたちは会話をしていた。
イルキスの言葉に、フィレルは目を細めて遥か向こうを見やる。そこには先程まで、漆黒の島影があったはずだ。しかし今そこには闇なんてなくなっており、通常の島影があるだけになっていた。
ほぅ、とロアが呟きを洩らす。
「あの闇は厄竜の象徴だった……。それがなくなったということは、闇神さまは本当に厄竜を倒したのか」
「でもギリギリだったみたいだねぇ。人間の姿になるほどの気力もないみたいだし……しばらくは彼の助言に期待できそうにはないかも。ええと、七雄の『心の欠片』を探せばいいんだよね? 自分たちで文献あさって何とかするしかなさそうだ」
イルキスはぼくは一部、思い当たるものがあるんだけれどと補足した。
「……まぁとりあえず、全ては本土にたどり着いてからだ。ところで蝶王さま、あなたはこれで良かったのかい?」
イルキスの問いに、ああ、と蝶王は頷いた。
「いつまでもあの地にいるわけにもいくまいて。……そなたらが我に新たな道を示してくれたのだ、感謝している」
そりゃどうもとイルキスは笑った。
そして船は少しずつ進んでいく——。
それから数日後。
「わぁい、シエランディアだぁ! 帰ってきたぁ!」
フィレルが歓声を上げた。
見覚えのある、トレアーの港に船が着く。
その頃には鴉の闇神も大分回復したようだが、まだ言葉を喋れるほどにはなっていなかった。何を話しかけても「カア」と答えるだけの彼に、助言は期待できそうにないだろう。厄竜はそれほどまでに強かったらしい。
「さて、到着だ。ああ……ちょっと頭がふらふらするんだけど……」
一人でずっと船を操っていたイルキスは具合が悪そうだ。
フィラ・フィアを背負ったロアは、「先に休んでろ」と提案した。
「『踊る仔馬亭』にまた泊まることを考えている。オレはフィラ・フィアを宿に置いたらフィレルと共に情報集めに町へ出るが、疲れ切ったあんたまで一緒に来ることはないだろう。休んでおけよ」
「そうさせてもらうよ……」
疲れ切った表情でイルキスは笑った。
そうやって、踊る仔馬亭にたどりついた、時。
聞き覚えのある声が、フィレルの耳を打った。
「あっ、フィレルじゃない! ずっとずっと探してたのよ! ……って、見たことのない人もいるわね。それにその、飛んでる白い人って! まさかの、伝説の蝶王様!?」
その声を聞き、まさかとフィレルは振り返る。
そこにいたのは茶色のツインテールの髪に、赤い瞳の……
「リフィ、ア? それにエイル!?」
「エイルは双子の妹の名だ」
リフィアの隣にいた青い人影が、ぶっきらぼうに答えた。
リフィアはずっとイグニシィン城にいたはずだ、とフィレルは不思議そうな顔をする。
それについては長い話があるのよと彼女は笑った。
「これまでのこと、話すから。だからそっちもどんな旅をしてきたのか教えてほしいな」
どうして蝶王様なんて伝説の存在が一緒にいるのかもわからないしと彼女は言う。
「えーと……王都には踊る仔馬亭だっけ? そんな宿があるよね。そこに行こう、そこで話そう!」
「とりあえず名乗っておく。俺はレイド、エイルの双子の兄だ」
名乗りだけを済ませ、彼は行くぞと声を掛ける。場所はわかっているらしい。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.60 )
- 日時: 2019/10/23 22:29
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
簡単な自己紹介を済ませて、リフィアはこれまでの旅について話した。
フィレルたちと別れた後、ファレルが言霊使いの力でエイルを殺したこと、エイルの言っていた「お母さま」の話、レイドとの出会い、その後の旅路……。
「あたしたちはエイルの言っていた人物を見つけられた。その人物はずっと昔、ファレル様の両親を殺し、ファレル様の心に消えない傷を、トラウマを植え付けた人物だった。名前はウェルフェラ・シエリィ。シエランディアの、形骸化した王族の末端にいる人物だった」
その都合上、ファレル様の抱えた傷についても知っちゃったんだと、リフィアは悲しげに笑う。
「あたしたちは正体を突き止め、彼女を追い詰めた。彼女は追い詰められたと見るや、自ら命を絶った。自爆魔法を使われて、うっかり死にそうになっちゃったんだけど……」
彼女はちらりとレイドを見た。その端正な顔の右頬には、醜い火傷痕がついている。
「レイドが、助けてくれたの。レイドは凄腕の人形使よ、その技を使えば様々なことができる。でも自爆魔法なんてそんなに威力が高いのに、対応できるわけがない。レイドはあたしを腕の中に庇ってくれた。代わりに酷い怪我を負っちゃったんだけど……でも、レイドが庇ってくれてなかったら、きっとあたしは死んでたわ。所詮はただのメイド、特殊な力も何もない女の子なんだもん」
彼女ははにかむように笑った。
「だからレイドには、感謝しているのよ。
その後、あたしたちはフィレルと再会しようとトレアーまでやってきたわけ。そこでこうして出会えたのね。それがこれまでの物語」
どう? と彼女は笑った。
「ただのメイドのあたしだって、たくさん冒険したんだから!」
「それはそうと」
ロアがリフィアにその黒い瞳を向ける。
「ファレル様は、どうなった?おひとりなのか?」
いいえ、と彼女は首を振る。
「レイドの人形が傍にいるって。あっ、そうだ! 思い出した、これ!」
言って彼女は首に下げた何かを見せる。
緑色に輝くそれは——
「レ・ラウィの……」
「そ。レ・ラウィのペンダント! ファレル様がお守りにって渡して下さったのよ!」
フィレルはそれどころではなかった。
闇神は何と言っていたか? フィラ・フィアの心を取り戻すには、彼女と深く関わった六雄の『心の欠片』が必要だと。そしてシルークの『欠片』は蝶王の魔性の声だったが、レ・ラウィの『欠片』は彼の遺品となったエメラルドのペンダントだと。
——エメラルドのペンダント。
何の偶然か、ファレルが受け継いだはずのそれは今、リフィアの手の中にあって。
そのペンダントは遠い昔、レ・ラウィが自分の婚約者たるルキアに渡したものだった。「必ず帰ってくる」言って手を振った彼は、その後家に戻ることはなく、フィラ・フィアたちを守って命を散らしたそうだが……。
「えっと……リフィア。それ、貸してくれない?」
「え? いいけど」
フィレルの頼みに不思議そうな顔をしながら、リフィアはペンダントを外して渡した。フィレルはそれを受け取った。ロアと目が合う。ロアは頷き、背負ったままだったフィラ・フィアを宿のベッドに下ろした。
フィレルの脳裏にロアから聞いた伝説の物語が浮かぶ。
フィレルはレ・ラウィのペンダントを眠ったままのフィラ・フィアの首に掛けた。自然と、言葉が出た。
『——いよぉ、姫さん。いつまで眠っているつもりだい?』
レ・ラウィならば言うであろう台詞、陽気でお茶らけた彼らしい台詞。
言った瞬間、フィラ・フィアの瞼がかすかに動いたが——それだけだった。
だが、確信できる。フィラ・フィアの心に張り巡らせられた鎖の一つが今、確かに解放されたこと。
なぁんだ、とフィレルは思った。
運命というやつは案外、素直に味方してくれるものだった。
「えーと……どういうこと?」
訳がわからないという顔をしているリフィアらに、フィレルはこれまでの冒険を教えてやった。
イルキスとの出会い、風神リノヴェルカの封印、収穫者デストリィ戦でのイルキスの加勢、死者皇ライヴとの戦い……。
フィレルの話す数々の物語を、リフィアは興味深げに聞いていた。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.62 )
- 日時: 2019/10/27 08:39
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
「へぇ、ずいぶん大変な旅をしてきたのね」
リフィアは驚いたような顔で頷いた。
そんなわけで、とフィレルは言う。
「偶然だけど、リフィアの持ってきたペンダントが役に立ったね! 僕ら、いったんイグニシィン城に帰らなくちゃならないのかなって思ってたしぃ」
イグニシィン城に戻るのは、全ての旅が終わってからだと思っていた。それまで帰らないと心に決めていたそれが守られるのは良かったなとフィレルは思った。イグニシィン城は優しい、そこにいるファレルは温かい。一度戻ってしまったらその優しさと温かさに甘えて、再出発がなかなか決まらなくなるんじゃないかと、フィレルはそう思っていたのだ。だからフィレルは自分を戒めるためにも、可能ならば城に帰るのは一番最後にしたかったのだ。
リフィアたちのお陰でその目的は果たせそうだ。フィレルは心の中で、ペンダントをリフィアに持たせてくれた兄に感謝した。もしも兄がリフィアに持たせてくれなかったら、フィレルらは城に帰り、そこの安穏とした生活の中で、封神の旅への意欲を失ってしまっていたかもしれない。ファレルは優しい人だから、きっとどこまでもフィレルを甘やかす。そしてフィレルはそれに抗えるか、わからない。
ありがとう、とペンダントを返しながら、フィレルはリフィアらの方を向く。
「リフィアたちは? 僕たちの旅についてくるの?」
少し考え、いいえとリフィアは首を振る。
「行きたい気持ちは山々だけど……ファレル様を、ずっと一人にしておくわけにはいかないの」
「同じく。いくら人形たちに守らせていると言ったって、絶対ではないからな。俺がいれば役に立てることもあるだろう」
そう、レイドも頷いた。
こうして別れることになった。
でも、二度と会えないわけじゃないから。
「フィレルぅ! あんた、他の人に迷惑掛けんじゃないわよ!」
「わかってるってばぁ!」
そんなやり取りをして、リフィアたちはいなくなった。
◇
リフィアらと別れ、次の目的地の相談をする。闇神の話では、後はエルステッドの「欠片」を集めればフィラ・フィアは目覚めるらしい。しかしエルステッドは武器や防具を自分の魔力で作り出す特殊な魔導士なので、彼の遺した武器など探そうとしても出てこない。騎士エルステッドの『欠片』は武器ではないと判断し、別の何かを探す必要がありそうだ。
「そう言えば」
ふっと何かを思い出したようにロアが言った。
「エルステッドは封神の旅の後、手記を残したらしいと聞いたことがある。今回のキーはその手記なんじゃないか?」
エルステッドの手記。それはフィレルも聞いたことのある話だった。
最愛の人、フィラ・フィアを失ったエルステッドは生涯、誰とも結婚しなかった。姫を守れなかった騎士たる彼は、その後悔を、一人だけ生き残ってしまったという十字架を背負いながら生きてきた。だが彼はそんな日々の思いを手記に残し、ある魔導士に頼んで保存の魔法を掛けてもらっていたという。その手記が眠る場所は——
「そうだっ!」
ぽん、とフィレルが手を打った。
「英雄の墓場だよ、覚えてる? フラックに挑む前に行った場所、英雄たちの魂の眠る場所! みんな見えてなかったみたいだけれど、僕、見えたんだよね。エルステッドの墓の足元に何かの本の一部らしきものが見えていたの」
最初は見間違いだと思っていたんだけど、と言いつつ、その目を輝かせた。
「それ、もしかしてエルステッドの手記じゃなぁい? 場所からしてもしっくり来るよ!」
かもしれないねぇ、とイルキスは頷いた。
「ならば前にたどった道を戻るだけだ。闇神さま、合ってるかい? 闇神さまなら手記の場所、知っていそうだけれど……今はこんな状態だからねぇ」
イルキスの問いに、鴉の姿から戻れない闇神は賛同するようにカアと鳴いた。
目指す場所は決まった。きっともうすぐでフィラ・フィアは目覚めることだろう。
フィレルはロアに背負われているフィラ・フィアを見た。
「目覚めてね……! 僕らさぁ、君がいないと目的を達成できないんだよぅ?」
眠ったままのフィラ・フィアにそっと、無言で蝶王が寄り添った。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.63 )
- 日時: 2019/10/29 12:30
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
辿ってきた道を戻り、円環の丘に到着する。中央の石碑を取り囲むように並ぶ、六つの石碑群。ロアが石碑に書かれた文字を読み取り、「エルステッドの墓はこれだ」と指し示す。その足元に——
「あった! 手帳みたいなやつ! これだよ、これじゃなぁい?」
フィレルがぴょんぴょん跳ねて興奮を示す。彼の差した地面には確かに、何かの本の青い表紙が見えた。フィレルはそれに近づいていき、せっせと地面を掘り返す。そしてそれは姿を現した。
読めない文字で書かれた表紙。しかしロアはその文字を読み取る。
「姫失いし騎士の記録——エルステッド・カルーディス。すごいな、フィレル。これはきっと本物だぜ」
その青い表紙の手記は、書かれてから千年以上の年月を経たのにまだ新しく、ざっと開いたページの文字は、まだ簡単に読み取れそうだ。ロアはフィレルの手から手記を奪い、高速でページをめくりながらもざっと内容に目を通していく。その黒いまなこが忙しなく動いた。ロアしか読めない昔の文字。イルキスも読めないことはないが彼はたどたどしくしか読めないからロアが読む。何故ロアがこの文字を読めるのか、その理由はいまだにわからないけれど。
やがて。
読み終わったのか、ロアは手記を閉じて大きな息をついた。
「……晩年のエルステッドはもう、英雄ではなくなったな」
それが彼の発した第一の感想だった。
「だが、フィラ・フィアを起こすキーとなるような言葉が見つかった。フィラ・フィアはシルークが好きだったが、エルステッドは純粋にフィラ・フィアを愛していた。ゆえに、だからこそ、出た言葉だ」
言って、ロアはフィレルに開いたページを見せ、そこに走り書きされたような一文を指し示した。そこに書かれていたのは——
「『さようなら、フィラちゃん。大好きだったよ』」
口に出して、フィレルは驚いた。今の言葉は誰のものだろう? ロアとは違い、フィレルにはこの文字なんて読めないはずなのに。フィレルの中には確かにその時代に生きたレ・ラウィの血が流れているけれど、血の繋がりがあると言うだけで、それで当時書かれていた文字を読み取れるなんて有り得ない。
しかし起こるべくして奇跡は起こる。
何か、硝子質の何かが割れるような甲高い音がした。
そして、
「う……ん」
ロアの背で、ずっと眠っていたフィラ・フィアが動き出す。
フィレルは歓喜の声を上げた。その時ちらりと手記を見たけれど、もうその文字を読むことはできなかった。
「やったやったぁ、フィラ・フィアが目覚めたぁっ!」
「……長い、悪夢を見ていたの。長い、長い、終わりのない、悪夢」
ぼんやりと、焦点の合わない眼をこすりながらもフィラ・フィアは呟いた。
ロアは背負っていた彼女をそっと、大地に横たえた。フィラ・フィアの瞳が心配げに自分を見る仲間たちの視線に気付き、少しずつ焦点を結んでいく。
その瞳がふっと蝶王の上に留まった。彼女はぼんやりと呟いた。
「シルーク……?」
「シルークはもういない」
「そう、そうよね……知ってた……わかってた、わ……」
蝶王の言葉に、フィラ・フィアは頷いた。
やがて、彼女は言う。
「ごめんなさい……起こして」
ロアが頷き、横たわったままの彼女の脇に手を入れ首を支え、その身体を起こしてやる。ありがとうと彼女は言った。錫杖の場所を探す様に目が動くと、ずっと錫杖を預かっていたイルキスがそれを彼女の手に握らせる。フィラ・フィアは頷き、錫杖を持ったままうーんと大きく伸びをした。錫杖についた鈴がしゃん、と鳴り、彼女の意識を正常にさせる。
そして、彼女は錫杖を支えに自分の力で立ち上がる。焦点のしっかり結ばれた瞳で、しっかりとした声で、言う。
「ただいま」
その声を、その言葉を。どれほど聞きたかっただろうか。
「皆には迷惑掛けたわね……。夢うつつの世界の中でも、そちらのことはぼんやりとわかっていたの。わたしは弱かったわ、ええ、本当に弱かった。でももう違うの、今度こそわたしは負けないわ!」
眠りから醒めて、悪夢から醒めて。希望の姫はより強くなる。
しゃん。強く打ちつけられた錫杖から、彼女の決意の音が鳴る。
「待たせたわね、みんな。わたしはもう大丈夫、大丈夫、だから……!」
彼女はぐるり、自分の信頼する仲間たちを見渡した。
「さぁ、行くわよ、もう一度! 最悪の記憶の遊戯者の神殿へ。今度こそ絶対に、負けないんだからっ!」
その時、英雄の墓場の石碑ひとつひとつに、不思議な輝きが宿った。その輝きの向こうに、ぼんやりとした人影が見える。フィラ・フィアはそれらを見、あっと驚いたような声を漏らした。
フィレルだって、イグニシィン城に飾られている絵で見たことのあるそれは、封神の七雄の亡霊のようにも見えた。かつて彼女と共に旅をして、そして散っていった英雄たちの。
「ユーリオ……ユレイオ……ヴィンセント……レ・ラウィ……エルステッド……シルーク……!」
ひとりひとりの名を呟き、彼女は泣き笑いのような表情を浮かべた。
「何……何よ。わたしが心配で現れてきちゃったってわけ? 心配性ねぇみんな……」
彼女はごしごしと目をこすった。
「でももう大丈夫だから。みんなは安心して眠ってなさいよ……わたしはもう、立ちあがれるんだから……」
言って、彼女は亡霊たちに背を向けた。フィレルの視界の端、イルキスがフィレルにしかわからないようにウィンクしたのが見えた。あれはイルキスがフィラ・フィアを元気づけるために作りだした幻影らしい。彼女には内緒でね、とイルキスが口の形だけで言った。
行くわよ、とフィラ・フィアが言い、そのままずんずん進みだす。イルキスは幻影を消したけれど。
何故だろう、それでも気配らしきものが、残っているのは。
もしかしたら、遠い昔に死んだ英雄たちの霊が、今も尚この地に、英雄の墓場に、留まっていたのではないだろうか。そうフィレルは考え、不思議な気持ちになった。そうやって佇んでいるフィレルに、置いていくわよとフィラ・フィアの声。ずっと持っていたエルステッドの手記を元あった場所に戻し、待ってよぅとフィレルは慌てて追いかける。
希望の子、再び立つ。
封神の旅は、終わらない。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.64 )
- 日時: 2019/10/31 14:39
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
フィラ・フィアの心を取り戻し、再び最悪の記憶の遊戯者の神殿へ向かう。トレアーの港町へ戻り、イルキスの案内に従って、地下牢獄の先の先へと。イルキスしかわからない、迷路のような道を進む。しかしそこを歩く一行の顔は初めてそこを歩いていった時よりも、ずっとずっと晴れやかだった。特にフィラ・フィアは、憑きものが落ちたような顔をしていた。
そして扉の前に立つ。前回はこの扉を開けた時、フラックの不意打ちを食らいフィレルの最悪の記憶が呼び起こされたのだ。覚悟して扉を開けなければ、前回と同じ轍《てつ》を踏む。
「でも、大丈夫だから。今度も僕が先に行くよ!」
言って、フィレルがドアノブに手を掛け、開けた瞬間。
——鴉の鳴き声が、した。
そして予想していた悪夢の波動は、誰にも届くことがなかった。
軋んだような声、悔しそうな声が響き渡る。
「闇神ヴァイルハイネン! また人間に味方しおったか!」
「それが俺の性だからな」
不敵に笑い、鴉は人間の姿になる。
闇よりも黒い髪、血のように赤い瞳、褐色の肌。赤いマフラーをし、濃い灰色を基調とした地の上に赤い模様が交差する意匠の服を身に纏い、漆黒のマントを上に羽織る。
人間ではないと一瞬でわかる、圧倒的な存在感。
「闇神ヴァイルハイネン、今ここに復活す。時間はあった、その間に傷を癒すことはできた。そしてフラックの精神攻撃は俺には効かぬ」
行けよ、と彼は背後にいる仲間たちを見た。
「この下衆野郎の精神攻撃は全て俺が食い止めよう……。物理攻撃はそこの剣士が防げるな? ならば封神の姫はそのまま奴を封じろ。大丈夫だ、この俺が人間の味方をしている限り、人間側に敗北はあり得ない」
「貴……様ァッ!」
じゃらん、じゃらん、と鎖を鳴らし、骸骨が怒りをあらわにする。かつてその鎖の音は、人間にトラウマを思い出させる狂気の音だった。しかし今、その音を聞いても。心の内にトラウマは蘇らない。
フラックの前に立ちふさがる闇神の背が、とても大きく見えた。
行けよ、と彼は不敵な笑みを浮かべ、背後を振り返る。
「俺だってまだ完調じゃないんだ、いつまで持つかわからんぞ?」
「はい、行きます!」
頷き、フィラ・フィアはステップを踏む。舞の魔法が発動し、足元には輝く魔法陣、彼女の周囲には虹色の鎖が生まれ、少しずつ実体を得ていく。それを防がんとフラックの鎖が暴力となって飛ぶ。ロアの剣が鎖に巻かれ、持っていかれそうになるが。
「僕のこと忘れてなぁい? 燃えちゃえ!」
フィレルの描いた炎が実体化し、それどころではない状況を作りだす。フラックは炎を避けるために、鎖による拘束をやめざるを得なかった。ありがとなとロアが礼を言うと、当然でしょとフィレルは笑う。
その片隅で蝶王が、小さく呪文を唱えていた。魔性の声ではなく、通常の声で。その隣でイルキスが幻影を紡ぎだし、ふたり顔を見合せにやりと笑う。
次の瞬間。
「さぁ、行け!」
イルキスの掛け声と共に現れた、雲霞《うんか》の如き蝶の群れ。蝶王の蝶は猛毒だ、下手に触れれば骨さえ腐る。フラックの焦ったような声。フラックは鎖で撃ち落とそうとするが、何分数が多すぎて、対処しきれるはずもなく。
そして蝶が触れた場所の骨が、毒々しい赤紫色に染まった。フラックは痛みに悲鳴を上げる。
「ぐぅ……ッ! 蝶王……めェ!」
そうやってひるんだ隙に、虹色の鎖は完成する。しゃんしゃんしゃんと、錫杖の清浄な音が空気を凛としたものに変えていく。
思いを込めて、願いを込めて、フィラ・フィアはその言葉を口にする。
「封じられよ! 最悪の記憶の遊戯者、フラック……ッ!」
虹色の鎖が回転し、骸骨の身体に巻きついた。フラックは抵抗するような仕草を見せたがそれも意味なく。
強い光が満ち溢れ——気が付いたら、そこにはもう、骨の骸骨の姿はなかった。
深い闇を湛えた黒曜石が、ただその場に在るだけで。
「——最悪の記憶の遊戯者フラック、封印完了」
勝利宣言のようにフィラ・フィアは言った。
「長かったわ……。でも、ようやく勝てた。みんなのお陰よ? ありがとう」
じゃあ、俺は帰るぜと闇神は言った。
「人間への過剰干渉は神々に罰せられかねない。俺が手伝ってやれるのはここまでだ。残る神々は、お前たちで何とかできるだろう。俺は信じる、人間の可能性を」
時に、ロア——と、彼はつとその目を細め、ロアを見た。
「忠告しておこう。霧の神セインリエスには関わるな。何度もお前たちの旅を邪魔してきた、自殺志願のあの神様だ。関わると碌なことにならない。幸せな生活を維持したいなら、あいつの言葉に耳を貸すな」
あいつは嘘を言わないけれど、と彼は言う。
「だが、残酷な真実というのもあるものなんだ。ロア、いくら気になっても、お前は自分の過去を知ろうとしちゃいけないぜ。真実を知ったら最後、お前は二度と戻れなくなる」
不吉な言葉を残し、じゃあなと彼は赤眼の鴉に姿を変えて、飛び去った。その姿が途中でかき消すようにいなくなる。
最悪の記憶の遊戯者には勝ったけれど、消えないもやもやが残る結果となった。
ロアの過去とは一体どんなものなのだろう? 闇神は全て知っているようだけれど……。
フィレルはそっとロアを見た。ロアは複雑な表情で黙り込んでいた。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.65 )
- 日時: 2020/06/25 00:00
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: lDBcW9py)
◇
「残る神々は、戦呼ぶ争乱の鷲ゼウデラでしょ、生死の境を暴く闇アークロアでしょ、運命を弄ぶ者フォルトゥーンでしょ、無邪気なる天空の破壊神シェルファークでしょ……っと。あと四体! あと少しで封神の旅は終わるわ!」
トレアーの町にて。次の目標を確認するために、フィラ・フィアは数を数えていた。
長かった封神の旅も折り返し地点を過ぎた。あと少しなのだ、あと少しでこの旅も終わるのだ。
そう思うと不思議な気がした。フィレルの過ちから始まった長い旅が、もうすぐ終わる。
終わったら、みんなでまた笑い合えるだろうか? 結末はまだわからないけれど……。
地図と睨めっこしていたフィラ・フィアは、うん、決まったと声を上げた。
「次に目指すのはここ、オルヴァーンの町よ。そこに運命を弄ぶ者フォルトゥーンが、いるの」
彼女は地図の一点を指し示した。そこはトレアーよりも東にある、海沿いの町だった。
「フォルトゥーンは神殿にやってきた人に『ゲーム』と称した拒否権なしの遊びを仕掛け、『ゲーム』に勝った人の願いは何でも叶え、負けた人の一族を本人もろとも『ペナルティ』と称して皆殺しにしてきた。。かつて彼は神殿の来訪者にだけ『ゲーム』を仕掛けていたけれど、それだけでは飽き足らず、いつの間にか、まったく関係のない他者にも同じことをするようになった。そして彼のお陰で世界の均衡は乱れに乱れ、智神兼秩序の女神であるアルアーネが奔走したけれど放埒は止まず、双子の姉である運命神ファーテの言葉も聞かず、と」
危険な神様よ、とフィラ・フィアは言う。
「正攻法は通じない。『ゲーム』に勝ちさえすればいいけれど、負けたら問答無用で全てが終わる。一族諸共ってことは、フィレル、負けたらあなたの大好きな兄さんも殺されるわ。相手の盤面の上で、確実に勝利をつかまなければならない……。そもそも何が来るのか予想すらできないけれど、覚悟を決めてやるしかないわね」
◇
トレアーの港町に別れを告げ、次の町へ、オルヴァーンへ。
舗装された灰色の道を歩く道すがら、彼らの前を不意に白い影が遮った。
「やあやあ久し振り……。ヴァイルハイネンが余計なこと言ってくれたみたいだけれど、私は気にしない。また気紛れに現れるだけさ」
白の、ボサボサの長髪、冷たく澄みきった印象を与える蜜色の瞳。白のローブを身に纏い、足には白のサンダルを履いた、どこか儚げな印象を与える男。
フィレルはその名を呟いた。
「霧の神様……セインリエス!」
これまで散々、ロアの過去を強引に暴き、ロアの心をかき乱した存在。出会った当初はフィレルは相手を「敵か味方かわからない」と思っていたが、今は違う。彼のせいでフィレルの大切な親友が、幼馴染が傷つけられたのだから、セインリエスは敵である。
きっと鋭い視線で自分を睨むフィレルに、嫌われたものだねぇとセインリエスは眉を上げる。
「私はこれからしばらく現れる予定はない。そうだね……次に現れるとするならば、私を殺してもらう時かな? だから挨拶しに来たんだ。そして、ひとつ、お土産を」
言ってセインリエスは蜜色の瞳でロアを見た。途端、ロアががくりと膝をつく。まただ、また何か、セインリエスはロアに対してやったのだ。覗きこんだロアの瞳の奥には、これまで見たことのなかったような、深い深い虚無が宿っていた。
「お前ッ! ロアに何をしたんだよッ!」
叫ぶフィレルに、返してやったのさと飄々とセインリエスは言う。
「残る二つのパーツの一つ、底知れぬ喪失感を。最後のパーツは最後に返そう。そうでないと面白くないからね」
底知れぬ喪失感。そう言えばロアには、ノアという大切な人がいたらしい。その人を無残な方法で殺されたらしい。そしてノアを殺したのは神々らしい、だからロアは神々を憎んでいる、とまではフィレルも何となく予想出来ている。今、セインリエスが返したのは、その時ロアが抱いていた感情だ。大切な人をこれ以上ないほど無残な方法で殺された時の——。
ちらり、振り返ったロアは震えていた。いつも強かったはずのロアが、いつも最前線でフィレルを皆を守っていてくれたはずのロアが、こんなにも弱々しく。それくらいひどい出来事だったのだ。そんなことが、誰も知らない過去にあったのだ。
大丈夫だよとフィレルは囁き、弱い力で精いっぱい幼馴染を抱き締めた。ロアの冷えた体温が伝わってくる。ロアの顔は蒼白だった。
大丈夫だよとフィレルは繰り返した。
「過去になんか囚われないで。僕がいるよ、兄さんがいるよ、フィラ・フィアがいるよ、イルキスがいるよ」
『そして我もだ』
「魔性の声」で蝶王が言った。彼の声は魔法となってロアの耳に届く。
『旅人を惑わす霧に目を向けるな、霧の彼方から聞こえる誰とも知らぬ声に耳を傾けるな。霧の向こうにそなたの大切な人はいない。霧に目を向けるのをやめ、今自分の近くにいる仲間たちを意識しろ。そなたは霧の世界の住人ではない。現実に戻って来い——ロア』
蝶王の声に、言葉に、ロアの震えは止まる。でも瞳の奥に宿る恐怖は消えなくて。そんな幼馴染を失いたくなくて、フィレルは強く強く、しがみ付くようにロアを抱き締めた。
感心はせぬな霧の主、と蝶王が厳しい声を投げる。
「最悪の記憶の遊戯者フラックでもあるまいし、他者の封じられた記憶を暴くことに何の意味がある? 自殺志願ならば兄神にでも殺してもらったらどうだ。風の神ガンダリーゼなら、兄弟を害したお前を許しておくま……」
「——ふざけるなただの虫風情がッ! お前に何がわかるッ!」
蝶王の言葉の何かに激怒し、セインリエスは水滴を集めた刃をその場で作りだし、蝶王に向けて振るった。だが、させないとばかりに何かが防ぐ。金属音、そしてきらめく剣の金属質な輝き。
「……お前なんかに、傷つけさせやしない」
一切の感情を感じさせない極低音の声で、ロアが言葉を発した。彼が咄嗟に剣を抜き、蝶王を守ったのだ。
心配掛けて悪かったなと、同じ声で彼はフィレルに言う。
「今まではわからなかった。過去を知りたい気持ちと知ってはならないという理性がオレの中でせめぎ合っていた。オレの中ではこの霧の神が敵か味方かいまだ判別がつかなかったが——仲間を傷つけようとしたのならば話は簡単、お前は敵だ」
言って、その刃をセインリエスに向ける。
いつもの態度を取り戻したセインリエスが、薄ら笑いを浮かべる。
「そうか、君はそうだったね。下手に記憶を返すより、そうした方が怒るんだ。ようやくわかったよ」
「……さっさと失せろ、そして二度と現れるな」
「生憎と、最後の言葉には従えないねぇ」
笑い声を残しながら、セインリエスの身体は霧となって空気に溶けていった。
それを見届け、ロアは剣を仕舞ってふうっと大きく息をつく。大丈夫、と駆け寄ったフィレルに、不器用な笑みを返してみせる。
「ああ、大丈夫さ。余計な記憶なんかに、負けてたまるか。オレはロアだ、イグニシィンのロアなんだよ。それ以外の記憶なんて要らない。過去がどうだろうが知ったことか」
助けてくれてありがとな、とフィレルと蝶王に礼を言い、彼は呆然と立ちすくむフィラ・フィアを見た。
「で? 行くんだろ、オルヴァーンへ」
ええ、と頷き、フィラ・フィアは歩き出す。
微妙な空気の中、旅は進む。
◇