複雑・ファジー小説
- Re: 魂込めのフィレル ( No.6 )
- 日時: 2019/04/26 07:27
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
【第一部 旅立ちのイグニシィン】
【第一章 イグニシィンの問題児】
「わぁわぁ逃げろ逃げろーっ!」
「おいコラ待て、走り回るなーっ!」
逃げ回る茶髪の少年を、呆れたように黒髪の少年が追いかけ回す。
イグニシィン城は今日も平和だ。いつも通りの風景の中、あっはっはと茶髪の青年が笑い声を上げる。
そんな青年に、黒髪の少年は文句を垂れた。
「ファレル様も笑ってないで、弟の教育くらいしっかりして下さいよっ!」
「無邪気なのはいいことじゃないか。うん、子供はそれくらい元気にしていないとね」
「ファレル様はあいつに甘すぎますっ!」
憤慨する黒髪の少年を見て、青年は面白そうに笑う。
そんな二人を眺め、茶髪の少年は元気よく飛び跳ねた。
「やっほぅ、兄さんはそれでいいって言ってるよ! だからロアもそんなに怒っちゃ駄目なんだよーっ!」
「……何だろう。フィレル、貴様に言われるとすっごく腹立つのだが」
ロアは、この日何度目かになる溜め息をついた。
大陸国家シエランディアの辺境に、イグニシィンという土地がある。そこを代々治めるのがイグニシィン家で、ファレルはイグニシィンの領主、フィレルはその弟にあたる。ロアは城の前に倒れていたのをファレルが拾い、以来、イグニシィンの一員としてこの城に住まうことになった。
かつてはイグニシィンもそれなりの貴族の家だったらしい。正確に言えば三千年前の英雄の、その子孫の家である。けれどここ三百年ずっと起きている戦乱のせいで少しずつ勢力を失っていき、今は「落ち目のイグニシィン家」と呼ばれるほどの貧乏っぷり、城を保つために働いているメイドもたった二人になり果てた。
隆盛を誇っていた時代に小さかった城は大きく改築されたが、衰退の一途をたどっていくうちに城のあちこちが崩れ落ち、今まともに人が住めるのは、一部の生活空間だけという有様。二人のメイドも、たった二人だけではこの広すぎる城を維持することなどできず、辛うじて城の住人に必要最低限の世話だけをする、という事態に。そんな彼女らに貧乏領主ファレルはなけなしのお金を払って、辛うじて城に留まってもらっている。広かった領土も今や猫の額ほどになってしまい、そこからは大した収益など望めやしない。
そんな「落ち目のイグニシィン家」だけれど、漂う空気は意外にも明るく、楽しげだ。イグニシィンの次男坊フィレルは明るく無邪気な性格で、頻繁に問題を起こす割には可愛がられていた。その明るさや無邪気さによって、城の中にまで彼の楽しげな空気が伝わってくるのだ。だからこの次男坊のことを、悪く言う人物は少なかった。
その数少ない例外の一人がロアである。戦災に巻き込まれて孤児となり、記憶を無くし、ファレルに拾われ、ファレルに忠誠を誓うようになったこの少年は、なんとフィレルのお目付け役に任命された。ファレルの命令なので当然逆らうわけがないロアだったが、お目付け役となった初日でフィレルの腕白ぶりに閉口することになった。家の中を走り回っては花瓶を倒し水をぶちまけ、町を走り回っては何か問題を起こして人や動物に追いかけられ、泥まみれで帰ってくる。それでロアに怒られればその日はしゅんとしてこそいるが、次の日にはまた同じことをやっている。極めつけは、彼の生まれ持った天才的魔法の才、「絵心師」であった。
「ねぇねぇ、ロア! 僕ってば、すごいんだよーっ!」
そう言って、訝しがるロアの前で絵を描いてみせた十歳のフィレル。彼は絵の具と絵筆を巧みに使い、キャンバスに瞬く間につやつやと美味しそうなリンゴを描いてみせた。それだけでも大したものだとロアは感心したが、それだけでは終わらなかった。
フィレルはキャンバスに描いたリンゴに手を触れた。悪戯っぽい緑の瞳がきらきらと輝く。
そして、その次の瞬間。
キャンバスが光を放ち、描かれた絵が実体化したのだ。
先程までリンゴの絵が描かれていたキャンバスは真っ白になり、その上には描かれた通りの、つやつやした美味しそうなリンゴが現れていたのだ。
驚きとともに、ロアは問うた。
「……これ、本物か?」
「もっちろーん! 疑うならば食べてみなよ。おいしいよーっ!」
笑ったフィレル。
半信半疑で、ロアはリンゴを手に取りかぶりつく。リンゴの果汁が彼の顎を垂れた。
彼は目を見開いて、フィレルを見た。
「どう? おいしい?」
にこにこと笑うフィレルに、
「……うまい」
ロアは目を見開いたまま、そう答えたのだった。
以来、フィレルはこの力を自由に使い、様々なことをしでかすようになる。
わかったのは、彼は自分の描いた絵を実体化するが、自分ではない誰かの描いた絵や、印刷物ですら実体化できるということ。そして彼が絵を実体化させると、実体化させた対象があった部分は真っ白になり、残された絵は一部分がまるで穴でも空いたかの様に真っ白になること。そして当然、そうなってしまった絵に絵としての価値などなくなる。フィレルは城にある絵画から勝手に絵を取り出してあちこち“白く”し、流石のファレルもそれにたまりかねて、フィレルを叱ったものだった。貴重な絵もあるのだ、当然のことだろう。
家で怒られてもフィレルはめげない。すると今度は町に出かけて、食べ物屋の看板を“白く”する。そして気づいた人に怒られて追いかけられる。一応謝るが反省はしない。そんな毎日の繰り返しだった。
そんなフィレルに武術を教え、勉強を教えるロアの苦労は計り知れない。ロアは一部記憶喪失だったが、武術の才と勉学はあった。彼はファレルにお願いされてフィレルにそれらを教えていったが、それのなんと難しいこと! 教えられている時に勝手に船を漕ぎだす、隙を見てすぐに逃げ出す、武術の為の木剣を渡せば、気が付いたらそれを持って鶏を追い掛けて笑っている。その腕白さにロアは辟易した。だが、恩人の頼みとあっては断るわけにもいかず。
「……オレの教えたことが、全て馬の耳に念仏状態になっている気がするのだが」
ロアの言葉も最もであろう。
さてさてそんなフィレルであったが、絵の才能だけは文句なしにうまかった。彼は問題を起こすと必ず自分の描いた絵をお詫びに差し出した。それのクオリティたるや、本物かと見まごうほどである。絵を台無しにされた人はそれを見て、フィレルへの怒りを治めるのであった。
ロアはフィレルに歴史も教えた。フィレルは普段、ロアの授業などまるで聞いていないのである。けれど一つだけ、よく聞いていた話があった。それは三千年前の英雄の話だった。
物語の名は、「封神綺譚」。神々を封じるために旅立ち、旅の果てに命を散らした王女と六人の仲間の物語。それはあまりにも悲しい結末で終わり、シエランディア歳大の英雄譚にして最大の悲劇として知られている。その話をロアがした時、フィレルは珍しく真面目に聞いていた。
話が終わった後、ぽつりと呟かれた一言。
「……王女さまは、幸せだったのかなぁ」
その言葉が、印象的だったとロアは思った。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.7 )
- 日時: 2019/04/28 23:18
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
そして変わらぬ毎日が今日も訪れる。フィレルの足音で城中が目を覚まし、騒がしく一日が始まる。
「ハッピーバースデートゥーミー、生まれて良かったぁ!」
その日はフィレルの誕生日だった。彼は「これで好きな物を買っておいで」とファレルにお金を渡されて、にこにこ笑って出かけていった。大喜びで飛び跳ねるフィレルを「待てよ、待てったら!」と必死で追いかける。ロアの苦労人っぷりも板についてきた。
「やったやったぁ、何買おう、何買おう?」
「散財し過ぎるなよ? もらったお金だからって全部使い切るなよ?」
「いーじゃん、いーじゃん。僕の誕生日だし、別にいーじゃん!」
「…………」
ロアは、自分が財布を持っていて良かったと心の底から思った。
フィレルは元気よく飛び跳ねる。その無邪気な姿を見、領民たちはにこにこと笑う。この厳しい世界にあっても、いつもいつだって笑っているフィレルは、確かに皆の心を明るくした。今日がフィレルの誕生日だと思いだした領民たちは、フィレルに何かプレゼントしようとあちこち家を探しまわる。間もなく、ロアの腕はフィレルへのプレゼントでいっぱいになった。フィレルは大はしゃぎしながらも食べ歩きをしたり、怪しい変な物を買おうとしてロアに引っぱたかれたりした。
そんなこんなでいつの間にか渡されたお金も残り少なくなり、ロアの合図でフィレルらは帰ることになった。名残惜しげなフィレルにロアは言う。
「……長時間、ファレル様を一人にするつもりか?」
「あ……それは嫌だぁ」
ロアの言葉に頷いたフィレル。兄の話題を出すと素直である。
フィレルの兄ファレルは心優しい領主さま。しかし彼は病弱で、城の中からは滅多に出てこない。城の中でこそ割と気ままに歩いているけれど、余程のことでもない限り外へは出ない。昔は違ったのになぁとフィレルが寂しそうな顔をして、ごめんよと困ったような顔を浮かべていたファレルを、ロアは見たことがある。
二人して歩いて、城に帰る。城の門の前、門番はいない。門番さえ雇う余裕がない貧乏貴族。メイドを雇うだけでも精一杯だ。何かあった場合、武術の心得のあるロアが皆を守る。
ロアは記憶喪失だ。戦災孤児らしく、イグニシィンの城の前に倒れていたところをファレルに拾われ、やがて家族として迎えられるようになった。そんな彼には、ファレルに拾われる前の記憶がない。「……何か、絶対に忘れてはならないことを忘れている気がする。そして自分が最も大切にしていた存在を、誰かによって殺された気がする。胸の内には喪失感が巣食っているんだ」と彼は語ったが、その過去はいまだ謎に包まれたままである。そしてその過去を明らかにして良いのか、それはわからない。ロアは己の過去を解き明かすことを望んでいたが、ファレルはそれに否定的だった。
「ただいまぁ」
「ただいま」
二人して大扉を開け、城の中に入る。
帰ってきた二人を、茶髪に桃色の瞳をした、メイド服の少女が出迎えた。城に二人いるメイド、リフィア&エイルのリフィアの方だ。エイルは青い髪に赤い瞳という、異様な外見を持つ。
リフィアはくりくりした目を悪戯っぽく輝かせてロアに話しかけた。
「お帰りなさーい。……って、ロア、またまた荷物持ちぃ? いつも大変ねぇ」
「余計な御世話だ。リフィア、たまにはオレと代わってくれないか? コイツのお守りは本当に疲れる」
「あたしは別に構わないけれど、ロアには代わりに家事やってもらうことになるわよ。家事なんてやったことのないロアにあたしの代わりが務まるのかしら?」
「……やれやれ」
ロアは溜め息をついた。
リフィアと呼ばれたメイド服の少女は勝気な笑みを浮かべる。
「そんなわけで、ロアはずっとフィレルのお守りね。
そしてフィレルーっ! お誕生日、おっめでとーっ!」
彼女が笑いかければ、うん、と元気よくフィレルは頷く。
「リフィアもありがとーっ! あのね、後でね、兄さんとお話しするんだよーっ!」
笑いながらもフィレルは城の正面階段を駆け上がる。そこを進めば彼の部屋にたどり着く。そんな様を眺めつつ、ロアは持たされた荷物を置きに、リフィアに別れを告げてからゆっくりと動き出した。
正面階段を上ると、階段は途中で左右に分かれる。その回廊には「封神綺譚」に出てくる伝説的な人物たちの絵画が飾ってある。実はイグニシィン家は「封神綺譚」の七雄の一人レ・ラウィの子孫であり、その関係で、「封神綺譚」関係のものが数多くあるのだ。
飾ってある絵画は、レ・ラウィの息子ラキが、エルステッドから話を聞いて描いたものらしい。彼は伝説の時代には生きておらず、話だけを聞くしかなかった。けれど話を聞いただけで、本物そっくりの絵を描き出した。フィレルの絵の才能はラキから来たのかもねといつしかファレルが話していたこともある。
英雄の、子孫。
七雄の内、唯一子を遺していた英雄レ・ラウィの子孫。
それがイグニシィンの正体なのだ。
- Re: 魂込めのフィレル ( No.8 )
- 日時: 2019/04/30 09:56
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
飾られた絵を遠目で見つつ、ロアは階段へ歩を進めようとした、
時。
彼は見てしまった。
飾られたフィラ・フィアの絵。美しい王女の絵に、フィレルがその手を伸ばしているのを。
フィレルの手は魔法の手、描かれた絵を実体化させる奇跡の手。その手が目の前の人物画に伸ばされている、意味。
それに気が付いたロアは戦慄した。——フィレルは禁忌を犯そうとしている。
「やめろこの馬鹿ッ!」
叫び、荷物を放り出してフィレルを止めようとしたが時既に遅く。
フィレルが触れた絵画が、虹色の輝きを放った。
その瞬間、飛んできた衝撃波。「フィレルッ!」叫び、ロアは咄嗟にフィレルを庇うように抱きしめて、代わりにしたたかに地面に背中をぶつけた。「わわわっ、ロア、大丈夫!?」と慌てたようなフィレルの声。「問題ない」答え服の埃を払ってから立ち上がる。
虹色の光。輝いた絵画。その光がおさまった時、絵画の目の前に立っていたのは、
「わぁ、ほんとーにいたんだねっ!」
「……嘘、だろ?」
古の王女、悲劇の英雄、『崇高たる舞神』フィラ・フィアだった。
彼女の肖像画は、彼女の絵があった場所だけ、異様な空白を晒している。
そして目の前に立っていたのは、右手に鈴の付いた錫杖を握った、本物の、
「——フィラ・フィア?」
「そう、それがわたしの名前」
目の前に立つ、踊り子風の衣装を身に纏った少女は頷いた。
彼女は手に握った錫杖をしゃんと鳴らす。
「知りたいの。ここはどこ? 今はいつ? わたしは死んだわ、確かに死んだの。なのにどうして生きているの。わたしは生まれ変わったの? 何が起こっているの? ああ、全然わからないわ」
ロアはかつてないほど厳しい顔で、フィレルを睨んだ。
「……貴様、禁忌を犯したな」
絵心師は描かれたものを取り出して、現実世界に召喚することができる。そんな絵心師には、絶対に犯してはならない禁忌があった。それは、人物を取り出すこと。
人物を取り出して、もしもその人物が実在の人物であり、今も生きているとするならば対象は、自身を取り出した絵心師のもとへ自動的にワープする。対象がもしも死者である場合は、死んだはずの者が復活するという異常現象が起こる。ただ、取り出した対象が架空の人物である場合は何も起こらないだけで無害なのだが……。
現実。絵画から取り出された古の王女フィラ・フィアは、今こうして目の前で喋り、生きているのだ。
それは、フィレルが禁忌を犯した証拠。
フィレルは困ったような顔をして、目の前の王女に手を差し出した。
「えーとねぇ、初めまして? 僕はフィレルぅ! 絵心師っていうさ、すごい特殊魔導士なのね。よっろしくぅ!」
「……フィラ・フィア・カルディアルトよ。ところで、どなたか状況を説明してくれないかしら? シルークは? エルステッドは? ヴィンセントは? レ・ラウィは? ユーリオとユレイオの双子は? みんな何処に行ったの? どうして私だけが生きているの」
混乱する王女を見て、ロアは溜め息をついて答えた。
「……王女よ。絵心師って知っているか?」
ロアの質問に、フィラ・フィアは頷いた。
「少しなら聞いたことがあるわ。描いた絵を実体化させる特殊魔導士。自分の描いた絵だけでなく、他人の描いた絵や印刷物まで実体化させる。それがどうしたのかしら?」
「……このフィレルがその絵心師だ。それでだな、王女。あなたの絵はちょうど……」
言いかけて、彼は一部が異様に白くなった、肖像画だったものを指し示した。
「ここにあった。つまりは……」
「わたしはこの絵に描かれていた。それをこの少年が取り出した。それで解釈は合っているの? それって禁忌なんじゃないの?」
頷いたが、彼女は納得のいかない顔だ。
ああ、とロアは答える。
「それで合っている。でも、禁忌すら堂々と破るのがこのフィレルという奴なんだ……」
頭が痛いぜ、と彼が呟いた時。
「どうしたんだい? みんな集まって。……おや、その女の子は?」
優しい碧の瞳に不思議そうな表情を浮かべて、イグニシィンの当主、ファレル・イグニシィンが現れた。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.9 )
- 日時: 2019/05/02 05:43
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
「……成程、ねぇ。ふーん、そういうこと」
話を聞いて、彼は大きなため息をついた。
「そもそも聞きたいんだけれどさ。フィレル、君はどうしていきなり禁忌を犯したんだい」
彼の碧の瞳は優しいけれど、それは笑ってはいなかった。
兄を見てフィレルはしゅんとうなだれる。
「あのね、ロアの話してくれた物語、とっても面白かったんだ。それでね、もしも彼女たちが実在するならば直接会ってみたいなって」
「……下らない好奇心で、あなたはわたしを呼び起こしたの。へー、そういうこと」
フィラ・フィアは三白眼でフィレルを睨む。
フィレルは困った顔をして、兄の後ろに隠れた。しかしファレルはそれを許さず、さっとその場から退いてしまう。途方に暮れたような顔のフィレルの頭をロアが小突き、フィレルはまたまたうなだれる。
「後悔するようならば、最初からしなければいいものを」
ロアの言葉も最もであったが。
フィラ・フィアは皆に問う。
「状況整理するわ。今はわたしが神々を封じていた時代からかなりの時が経ち、わたしたちのことは伝説として語り継がれているレベル。わたしの時代に生きていた人たちはとうの昔に骨となり、今はもう誰もいない。わたしの六人の仲間——記憶にある限り、わたしが死ぬ前までには二人残っていたはずなんだけれど——も、当然ながらもういない。要は」
その赤の瞳に、寂しさのようなものが宿った。
「わたしは、この世界に、ひとりぼっちなのね」
三千年も時が過ぎれば、よく見知った土地も人も、異世界のものとなり果てる。この世界で彼女が知っているものなど、わかっているものなど、せいぜい魔道原則や神々くらいか。魔導士の種類だって少しずつ増えている。三千年の間にどれだけ増えたか? それすらも追い切れない。
あんまりよ、と彼女は顔を覆った。
「ええ、あまりにもあんまりだわ。せっかく冥界の底でたゆたっていたのに。心残りは確かにあったけれど、それでもわたしは死んだの、死んだのよ。それなのに、ただの好奇心で勝手に眠りから起こされて、全く知らない異世界に放り込まれるの? ……返してよ。わたしに平穏を返しなさいよこの馬鹿ぁっ!」
彼女はフィレルの胸倉をつかみ上げた。
その赤の瞳には、凄まじいほどの怒りが燃えている。
「いったいどうしてくれるのよ! 責任取りなさいよねあなたっ!」
「え、でもどうすれば……」
「そんなの自分で考えれば! どうしてわたしが考えなくちゃいけないのっ!?」
怒り狂うフィラ・フィア。その怒りももっともだと思うから、流石のファレルも彼女を止めない。
はぁ、と彼は二度目の溜め息をついた。
「人間好きな闇神さまがこの様を見たら笑うだろうねぇ。人間はなんて愚かな種族なんだ、ってさ。僕だって怒る時は怒るよ? ああフィレル、君は決してしてはならないことをしたんだ」
その呟きを聞いて、
ふと、フィラ・フィアの目が細められた。
彼女はフィレルの胸倉を掴んでいた手を離し、ずんずんとファレルに近づいた。咳き込むフィレルは放置して、彼女はファレルに問い詰める。
「待って。あなた今『神さま』って言った? それで思い出した、思い出したわ! わたしはかつて、神様を封じる為にこの世に生まれたの。でもね、わたしが戦神の神殿で倒れた時、封じ切れていない神様はまだたくさんいたんだ! わたしにはまだ使命があるっ!」
教えて、と彼女は真剣な瞳でファレルを見た。
「あなたがこの一団のリーダーであり、最も智恵ある人物だとわたしは踏むわ。そこで聞きたいのだけれど、今、『荒ぶる神々』はいるの? いるとしたらどの神様? 教えて、いいえ、教えなさいっ!」
かつて彼女は使命を完遂できずに命を散らした。
彼女は一度死んで生まれ変わった後でも、その強い使命感が変わることはなかった。
ファレルは真剣な彼女の瞳を見、一生懸命に記憶をたどる。
「えーとねぇ、確か……」
彼は「悲しみに見境を失った風神リノヴェルカ」、「虐殺を愛した死の使いデストリィ」、「運命を弄ぶ者フォルトゥーン」、「最悪の記憶の遊戯者フラック」、「死者の王国の主ライヴ」、「生死の境を暴く闇アークロア」など、いくつかの名前を挙げた。そして……戦神ゼウデラ、さ、と付け足した。
「ええと、確かねぇ。三千年前に比べれば被害はおさまったけれど、彼らは今もまだ一部地域で甚大な被害をもたらしているそうだよ。彼らの支配域には誰も住まなくなってしまった」
「……そう」
フィラ・フィアはきっと顔を上げた。その赤い瞳に強い意志が宿る。
彼女は握った錫杖をしゃん、と鳴らした。動きを確かめるように軽く舞い、自分の周囲で魔力が膨れ上がったのを感じ取る。
「……力は変わってない、まだ戦えるわ。ならば」
呟き、彼女は宣言した。
「わたしのやり残したことで子孫たちが傷付いているのならば、それを救うのが『希望の子』の使命。こうして蘇ってしまった以上、これはわたしの仕事だわ。わたしは封神の旅に出る!」
けれどわたし一人では自分の身を守れないから、と、彼女はフィレルを見た。
その赤い瞳に射すくめられ、フィレルは「な、何?」と上ずった声を上げる。
フィラ・フィアは力強く笑った。
「責任取りなさいよねあなた。あなたにはわたしの旅についていってもらうわ。文句はなし。あなたがわたしを起こしたんでしょう? それくらいはしてもらわないとね」
でも、と思わずフィレルは言ってしまった。
彼は知っているのだ、ロアから聞いたのだ。
荒ぶる神々は仮にも神、そう簡単に何とかできる存在ではないと。フィラ・フィアたち『封神の七雄』でさえ何度も手こずり、その戦いの中でたくさんの仲間を失ってきたのだと。
もしも全ての神を封じることができたとしても、その旅についていったら最後、フィレルが生き残れる可能性は少ない。そしてそれはフィレルの愛する兄を悲しませることになるのだと、彼はよくわかっている。ファレルは家族を失うことに関してとても敏感で、フィレルに過保護な理由の一端もそこにある。
フィレルは兄を見た。ファレルは難しい顔をして黙りこんでいた。
けれど、この大事件を起こしたのはフィレルだ。当然ながら、何もなかったようにするわけにはいかず。
わかった、行くよと真剣な声で言おうとした刹那、
「……ったく、手のかかる坊やだよなぁお前は」
呆れた顔をしながらも、ロアがフィレルの隣に立った。
その意味するところは。
「……ロア?」
「仕方ない、ついていってやる。王女様もフィレルも武術なんてからっきしだろう。誰かが前衛として皆を守らなければ、序盤で全員死亡ルートだぜ。そんなのごめんだろ?」
オレはイグニシィンで一番の剣の使い手だからな、と、彼は誇らしげに胸を張った。
「オレならば、守れる。オレならばその運命を変えられる。だからオレも行くんだよ、ああ。
……言っておくがフィレル、お前の為なんかじゃないからな。オレはこの状態を見過ごすことができないだけだ」
ロアの言葉に、フィレルは虚をつかれたような顔をした。
やがて吐き出された言葉。
「僕の為じゃない、って、ロアは素直じゃないなぁ」
「事実だッ! ついていってやると言っているんだから少しくらいは感謝しろ能天気馬鹿!」
「あーハイハイ」
ロアに小突かれながらもフィレルは笑う。
刹那、その鮮やかなエメラルドグリーンの瞳が、真剣な色を湛えた。
「でも……ありがとう」
「ファレル様を悲しませないためだ。他意は無い」
ぷいとそっぽを向いたロア。
その様子を眺め、フィラ・フィアは確かめるように問う。
「……えーと、つまり今回の旅は、わたし、フィレル、ロアさんの三人で行くことになるのね?」
「どーしてロアだけ『さん』付けなのさー?」
「お前は黙ってろ! ……ああ、そういうことだ。宜しく頼むぜ、王女様。あとオレはただの『ロア』でいい。『さん』なんて戦災孤児には要らんよ」
フィレルの文句を封殺しながらもロアは答えた。その黒の瞳に一瞬だけ寂しさと郷愁のようなものがよぎったが、すぐに消えていつもの不敵なロアに戻る。
わかったわ、とフィラ・フィアは頷いた。
頷き、そして宣言する。
「かつてわたしたち『封神の旅団』は神と戦い、神に敗れた。しかし長い時を経てわたしは今復活した! 傍に大切な人はもういない。けれど……!」
赤の瞳に、強い意志が宿る。
「『新生封神の旅団』、ここに在り! さぁ、やり残した仕事を完遂するわよっ!」
古の昔、旅半ばにしてフィラ・フィアは死んだ。
彼女の物語は、シエランディアで一番の悲劇として語り継がれている。
しかし今、彼女は少年の出来心によって蘇り、偶然にもやり直す機会を与えられた。
だから。
——やり直さないわけには、いかないでしょう?
力強く笑う彼女の隣、フィレルが無邪気さを封じ込め、真剣な顔をしていたことに気付いたのは、ファレルだけだった。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.10 )
- 日時: 2019/05/04 12:23
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: Yv1mgiz3)
「で? いつ出発するのかしら。わたしも、流石に今日とは言わないわ。でもまだ神々のせいで人間が苦しんでいるのならば、早めに動かないと」
フィラ・フィアは言った。
そうだねぇとファレルは思案顔。
「あなたの事情はわかったけれど……三日だけ、時間をくれるかな」
「……どういうこと?」
フィラ・フィアは訝しげな顔をした。
ファレルは答える。
「いや、これは僕のお節介なんだけれど……。いきなり遥か未来の世界で蘇った君に、この時代のことがわかるのかなぁって、ね」
「あ……」
フィラ・フィアは虚を突かれたような顔をした。
三千年の時を経て、彼女は蘇ったけれど。
三千年のブランクは大きい。あまりに、大きすぎるのだ。
良かったら教えてあげるよとファレルは笑う。
「僕の知っている程度の知識でいいならば、僕の教えられる範囲で教えてあげるよ。旅が始まったら忙しくて、そんなことする暇なんてないだろう? 旅を始める時間は確かに少しだけ遅れるけれど……三日程度ならばまだ、誤差の範囲内なんじゃないかな」
「……そうね」
フィラ・フィアは頷いた。
「ならばわたしからもお願いするわ。ファレルさん、わたしに教えて。わたし、何もわからないの。何ひとつわからないのよ、だから」
「いいよ。ああ、でも今日はもう日が暮れたし、今から勉強しようって気にはならないよね。明日の朝から教えるよ。だから今日と明日はお城に泊まって行って。無駄に広いお城だからさ、空き部屋だけはたくさんあるの、」
さ、と言葉を結びかけて、
不意にファレルが苦しそうに咳き込んだ。その優しい顔が苦痛に歪む。
「ファレル様!?」
慌ててロアが駆け寄って背中をさする。「兄さん……?」とフィレルも不安そうに近づいてくる。ファレルはしばらくずっと咳をしていたが、やがて発作がおさまると、ごめんよと言って弟の頭を撫でた。それでも呼吸は荒く不規則で、完調とは言えない様子だ。
「……本当はさ、僕だってみんなと一緒に行きたかったさ。封神の旅でもしもみんなが死んでしまったとして、それで僕だけ残されるのは嫌だからねぇ。でも、僕はこんな身体だから……」
それでも、苦しくても何とか笑おうとするファレル。
その姿を痛ましく思ったフィラ・フィアは、手にした錫杖をしゃんと鳴らした。
「……どうしたんだい?」
「じっとしていなさいよね。これから癒しの舞を舞うわ。心優しい領主さま、あなたの苦しみが少しでも楽になれるように。わたしはフィレルにこそ文句はあるけれど、あなたに文句はないしそれどころか感謝してる。良かったら受け取って。わたしの舞には魔法がこもるの。知っているでしょ?」
言って、彼女は錫杖を手に、舞う。
しゃん、しゃん、と、彼女が動くたびに彼女の錫杖の鈴が、彼女が身につけた鈴が鳴りだす。鳴りだした鈴は清浄な空間を辺りに作りだし、やがてそれは彼女の舞に合わせて指向性を得、癒しの魔力となってファレルに向かって流れだす。
神さえ封じる舞を舞う『舞師』フィラ・フィア。癒しの舞など神封じの舞に比べれば圧倒的に容易く行えるものだろう。
しばらくして、荒く不規則だったファレルの呼吸が穏やかになり、彼はほうっと大きく息をついた。
「ああ……すごい、魔法だね。さっきはあんなに苦しかったのにさぁ……」
彼の言葉にフィラ・フィアは笑う。
「わたしの舞は伊達じゃないわ。この程度完璧に舞えないと、神様なんて封じられっこない」
やがて舞が終わった時、ファレルの体調は完全に回復していた。泣きそうな顔で兄にしがみつく弟の頭を、ファレルはよしよしと撫でてやる。
「一件落着おめでとさーん!」
と、不意に現れた茶髪の少女。リフィアだ。どうやら少し前からそこにいたらしい。否、最初から彼女は大扉の前で事の顛末を眺めていたが、フィレルが大問題を引き起こしたせいで、話しかけるタイミングを逃していたのだ。ロアが放り出したフィレルの荷物も、ちゃっかり回収して片付けてしまったところが彼女の優秀たる証である。
彼女は皆が自分に注目したのを確認し、提案する。
「初めまして王女様。あたしはリフィア、このお城のメイドさんね。
そろそろいい時間だから夜ご飯にしようと思っているんだけれど、ファレル様の体調さえ大丈夫なら、みんなで食堂に移ってくれないかな? せっかくお客様もいることだし、あたしとエイルとでおいしいの作っちゃうからさっ!」
その言葉に、フィレルは目をきらきらと輝かせた。
「そーだねっ! お腹もすいちゃったし! それにさ王女さま。リフィアとエイルの料理ね、すっごくおいしいんだよーっ! ていうか! 今日は僕の誕生日だし! 特別なご飯に期待するんだよーっ! 王女さまもラッキーだねぇ!」
無邪気に笑うフィレル。
そうだなとロアも頷いた。
「ファレル様、体調は?」
「王女さまのお陰で、すっかり治ったよ」
じゃあ行こうか、と彼がフィラ・フィアを見やると、じゃあお邪魔するわねと彼女は頷いた。
行こうよ行こうよぉと走り出すフィレルに先導されつつ、一行は食堂へと向かう。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.11 )
- 日時: 2019/05/10 09:19
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
「はーい、こちらが本日のお料理になりまーす」
「頑張って作ったんだ。喜んでもらえたら嬉しいな」
茶髪のリフィアが元気よく言った後で、青髪の、物静かなエイルが柔らかに微笑む。
食堂についてから数十分後。テーブルには様々な料理が出された。
ニシンの香草焼き、パリッとした皮に甘辛いタレのしみ込んだ鶏のモモ肉焼き、イグニシィン領で採れた新鮮な野菜を使った、ほっこりと温まるスープ。特製ドレッシングのかかったサラダまである。それ以外にも、小麦を使ったふわふわのパン、噛めば肉汁の溢れるソーセージ、レモンでアクセントを加えた、野菜のマリネなどなど。それは貴族の食卓にしてはやや貧相でこそあったが、貧乏貴族イグニシィンの皆からすれば十分なご馳走であった。
「フィレル、誕生日おめでとう。フィレルはわたしのスープが好きだって言ってくれたから、頑張って作った」
エイルがはにかむようにして笑えば、フィレルは満面の笑顔を見せる。
「うんうん、だぁい好きっ! ありがとー、エイルぅっ! やったやったぁ、ご馳走だぁっ!」
笑うその顔の輝かしいこと、穢れないこと。
彼の喜びは周囲にまで伝染し、皆を笑顔にさせた。
「いっただっきまーっす!」
言ってフィレルは真っ先にスープを飲み、にこにこと笑う。続いてソーセージにフォークを突き刺し、さらににこにこと笑う。
「おいしいんだよーっ!」
その笑顔はまるで天使のようだった。
リフィアもエイルも料理が天才的にうまい。
一同は二人の料理に舌鼓を打ち、料理を誉められた二人は嬉しそうである。幸せな食卓だった。
しばらくして、メインの料理が平らげられるとメイドの二人は皿を片づけ、新しい皿を出してきた。そこに乗っていたのは……
「じゃーん! お誕生日ケーキよフィレルっ! あたしたちの合作よ。絶対に美味しいんだから、そのおいしさに目を見開きなさいよね?」
挑戦的に笑うリフィア。
「うん、リフィアは誇張じゃないよ。力作なんだ。……フィレル、十五歳の誕生日、おめでとうね」
静かに微笑むエイル。
それはケーキだった。オーソドックスなショートケーキだが、ケーキの本当の美味しさはチョコレートケーキやフルーツタルトなどにではなく、王道のショートケーキにこそあるのだという。それの上には苺がホイップクリームと一緒に飾られていて、つやつやと美味しそうに光っていた。ケーキの中央には絵筆を模した砂糖菓子があり、その下にはイチゴソースで描かれた、可愛らしくデフォルメされたフィレルの似顔絵がある。どうやら絵筆でフィレルの似顔絵を描いた、という趣旨らしい。イチゴソースは絵の具のつもりなのだろう。だとしたら、ややクリーム色がかったこのホイップクリームは、キャンバスをイメージしているのだろうか。
「『絵心師』フィレル、ハッピィバァスディ! あたしたちはあんたみたいに絵の実体化はできないけれど、それでも頑張って作ったんだよ? 味も保証するから、どうぞ召し上がれーっ!」
笑うリフィア。取り分けられたケーキを食べようとしたフィラ・フィア。彼女の身につけた銀の腕輪にクリームが付着したが、彼女は気にしない。フィレルの隣、どうぞ、とエイルがフィレルに近寄って、微笑む。
「いっただっきまーっす!」
満面の笑顔で、フィレルがフォークを切り分けられたケーキに突き刺そうとした、瞬間。
「——食べるなァッ!」
何かに気付いたロアが、ケーキの皿を腕で薙ぎ払った。
「ロア、どーしたの!?」
驚いた顔のフィレル。
ロアはいつも身に付けている長剣を、エイルに向けていた。
エイルは悲しげな笑みを浮かべていた。まるで何もかもわかっているように。
「説明してもらおうか」
「エイルちゃん、どういうことっ!?」
詰問口調のロアの声と、戸惑いが隠せない様子のリフィアの声。
ロアは溜め息をつき、ある人物の名前を呼んだ。
「王女さま」
「……えーと、何?」
訳が分からないといった体の彼女に、「腕輪を見せろ」とロアは言う。
戸惑いながらもフィラ・フィアは腕輪を身につけた手を掲げた。先程、クリームが付着したそこは。
「……黒く、染まって?」
ファレルが驚きの声を上げる。
銀は毒を感知するために使われる金属だ。ある種類の毒に触れた場合、銀はどす黒く変色する。そんな性質があることから、常に暗殺の危機にさらされている王侯貴族は銀の食器を使うのだ。
彼女の銀の腕輪が、黒く染まる。その意味は。
「えーと、さぁ。ケーキに、毒が?」
フィレルは驚きを隠せない。
ああ、とロアは頷いた。
「お前が食べる直前にそれが見えたからオレは防ごうとした。そしてこの毒に関わる人間が、同じケーキを作ったリフィアだと疑わなかった理由だが……。リフィアはケーキを薙ぎ倒されて純粋に驚いていたが、エイルはこうなることをわかっていたようにも見えた、それだけだ」
ロアはエイルに剣を向けたまま、問う。
「答えよ。お前はこれまでずっとオレたちに忠実でいてくれた。お前の為に、こちらだって尽くした。オレたちの間に悪い感情などなかったはずだ。それなのに一体どうして、このような真似を?」
エイルは悲しげに笑った。
「『命令』だからだよ、ロア」
「……命令、だと?」
ロアが眉をひそめた、瞬間。
食堂へ続く扉が開いて、そこから雪崩れ込んできた人間たち。彼らはフィレルらに武器を向けていた。
「くそっ、何のつもりだッ!」
「英雄なんて要らないんだって『お母さま』は言ってた。英雄の子孫なんて、要らないんだって。過去の遺物は捨て去ってしまえって」
「この裏切り者がッ! わかった、オレが道を切り開くッ! オレの傍から決して離れるな。行くぞ、今はこの場から逃げるッ!」
「できるかな」
エイルの言葉と同時、ロアの膝が崩れ落ちる。「ロアッ!」必死で駆け寄ったフィレルは、ロアの顔が蒼くなっていることに気が付いた。——そう、まるで毒物にでも触れたかのように。
「あのケーキ、触れるだけでも危険だから。ロアは直接腕で薙ぎ払ったよね。『お母さま』からすればロアみたいな前衛が一番邪魔らしいから、排除できて好都合だよね。安心して、致死毒だから。でもさぁ、大切な人を守って死ねるならば本望じゃないの?」
「……ふざけるな」
その言葉を聞いて、フィレルの顔に怒気が宿る。
彼は生まれて初めて、本気で怒っていた。
腕に抱きかかえたロア、大切な幼馴染。いつもうるさいけれど、彼はフィレルの大切な人。
そんな人が、裏切りなんかで命を落とす結末なんて、絶対に認められない。
そんな彼を見て、嘲笑うようにエイルが唇の端を歪めた。
「怒ったって、あなたに何ができるの? 絵筆とキャンバスがなければ何もできないくせに。あなたなんて脅威じゃない。ファレル様も王女さまも、そしてただのメイドのリフィアも。ロアが危険だった、ロアだけが危険だった。だから最初に排除した、それだけ」
あなたに何ができるの、と彼女は繰り返した。
うつむくフィレル。しかしその瞳に閃いたのは、何かの決意。
「……できるよ。だって僕はただの“絵使”じゃない。自分の描いた絵だけを武器とするわけじゃないんだ。僕にだって切り札の一つや二つくらいはあるんだよ? 舐めてもらっちゃあ、困るんだよねっ」
言って、何かを取り出そうとしたフィレル。
その肩にファレルが手を置いて、首を振った。
「お前は穢れなくていいんだ、誰かを傷つけなくていいんだよ。エイルは少し前まで仲間だったんだから、彼女を攻撃するのは辛いだろう? ……僕だって、ね。戦えないわけじゃあ、ないのさ」
ここは僕に任せて、と、その瞳が真剣な輝きを帯びる。
倒れたままのロアが、蒼い顔で「ファレル様……」と呟いた。そんな忠実な仲間に、大丈夫だよと優しく微笑む。
「……思い、出さなくちゃいけないんだよね。僕のトラウマ、心の傷。嫌だよ、嫌だなぁ。でもねぇ……」
彼の身体が、黄金のオーラを身に纏った。
「——家族を失うのは、もっと嫌なのさッ!」
彼は朗朗と何かを唱え始める。それを防がんと、エイルは城内に入り込んだ兵士に指令を飛ばす。ロアは蒼い顔をしながらも力なく剣を構えようとしたが、その身体に力が入らない。
ファレルは、叫んだ。
「言霊よ、今一度僕に力を貸せッ!
我、唱う! 我は虚偽を真実へ、真実を虚偽へと覆す者!
空間は、歪みて力場生み出して、進む者の足を止めるッ!
——現実となれッ!」
纏った黄金のオーラが、揺らぐ。
その瞬間、目に見えない力が作用したのが分かった。ファレルに向かってやってきた兵士たちはある地点に吸い寄せられるようにして集まり、その場から動けないでいる。——彼の放った言葉の通りに、現実が変化した。
ファレルはその顔全体に恐怖の表情を浮かべていた。全身から流れ落ちる汗。食い縛った歯は今にも音を鳴らしそうだ。それでも瞳は強く、前を見据える。
「兄さん……?」
驚きの目で兄を見るフィレルに、ファレルは指示を飛ばした。
その声は上ずっていた。彼は過去の恐怖と、自身のトラウマと闘いながら戦っているのだ。彼の力、『言霊使い』は彼のトラウマと直結する力だった。
「フィレル、王女さまの奇跡の力ならばまだ、ロアを助けられるかもしれない。君は王女さまと一緒にこの場から逃げるんだ、いいね? そしてロア。聞いているならば、これは僕からの命令だ。回復しても、決して戻るな。戻ることは許さない」
「え、でも兄さんは……」
「僕は、平気さ。言霊使いは弱い魔導士じゃない。フィレル、荷物を取りに行く時間くらいは稼いであげるからね。自分の武器は持っていった方がいいだろう。そして王女さま。勉強、教えられそうにないみたいだ、ごめんね。ロアが多少は物知りだから、わからないことがあったら彼に聞いて。そしてリフィア、君は……」
「あたしはファレル様と一緒にいるわ」
リフィアは胸を張って言った。
「あたしは旅なんかしたくありませーん! お互いに生きていたら、イグニシィン城で再会しましょうね? あたしはメイド、ただのメイドだ。でも……」
メイドだからって舐めるなと、彼女は毒のケーキの乗った皿を持ちあげ、兵士たちに向かって投げつけた。
「緊急事態、だからこれは正当防衛よ。ってかこのケーキ、いつの間に毒が混ぜられてたんだろー? あたしは気付かなかった。エイルちゃんさ、いつの間に……?」
リフィアの言葉に、エイルは悲しげに首を振るだけ。
ファレルはフィレルの背中を押した。
「さぁ行きなさい。僕の足止めだっていつまで保つかわからないんだ。願わくは、みんな生きてこの城に帰ってきて。ロアも僕の家族なんだ、簡単に死ぬことは許さないよ」
行きなさいと背中を押されて、フィレルはフィラ・フィアと目配せし合って二人がかりでロアを運ぶ。普段前衛で戦っているロアは、二人がかりでも結構な重さがある。二人は苦心しながらもロアを運び、動けないでいる兵士たちの横をすり抜けた。
「ちょっとお願い!」
食堂を出て、門の前。フィラ・フィアにロアを頼んで、フィレルは全力疾走。必死でたどり着いた自分の部屋、お気に入りの筆と絵の具、紙を大きなリュックに突っ込んで、キャンバスを背負って予備費として渡されたお金を持って、今度は門の前へと走る。待っていたフィラ・フィアと合流し、二人でロアを抱えて城の外へ。町にたどり着いて事情を話し、ある家に匿ってもらってようやく一息。けれどまだまだやることはある。
フィラ・フィアは横たわり、荒い呼吸を繰り返すロアを見た。先ほどよりも元気がない。毒は着実に回っている。致死毒、とエイルは言った。対処が遅いとロアの命は、毒に奪われてしまうのだ。
何の前動作も無しにフィラ・フィアは舞い始める。速いステップ、手にした錫杖がしゃんしゃんと忙しない音を鳴らす。それは余計な動作の一切存在しない、まさに魔法の為の舞だった。彼女の足元で黄緑色の魔法陣が浮き上がり、彼女が舞うたびにその図柄は複雑になっていく。
「即席! あらゆる毒の治療薬、『オルファ香』の効果を再現した舞! 今ならば行けるでしょ? 間に合え——ッ!」
彼女の言葉と同時、魔法陣が強く強く輝いた。
次の瞬間——。
「う……」
小さく呻き声をあげて、ゆっくりとロアが身を起こした。「ロア!」叫んでロアにしがみつくフィレル。ロアは軽く咳き込んだが、やがて。
「……悪い。心配かけたな」
そう言って、微笑んだ。
フィラ・フィアはふうっと息をつく。その顔に浮かぶは、疲労。
「もう無理わたし無理。舞の魔法はただでさえ力の消費が激しいし、即席でやるとなると尚更よ……」
ところで、とロアが難しい顔をする。
「ファレル様は? 許されるならば助けに行きたいが」
「命令されたんじゃないの? それを破るの、ロアは?」
「…………」
フィレルの言葉に、ロアはうつむく。
本当は僕だって助けに行きたいよとフィレルは言う。
「でも仕方ないじゃない。兄さんは僕らに何か隠してた。兄さんがあの状況で全力を出すならば、隠してた何かをさらけ出さなければならないのかも知れない。兄さんがそれを嫌がっているとしたら? 無理に駆けつけて、結果兄さんの心を傷つけることになるのだけはごめんだよ」
「……くそっ」
ロアは自分の無力を嘆いた。
【第一章 イグニシィンの問題児 完】