複雑・ファジー小説
- Re: 魂込めのフィレル ( No.66 )
- 日時: 2020/06/27 12:50
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: lDBcW9py)
オルヴァーンの町へたどり着く。運命の遊戯者フォルトゥーンは町の人にはそれなりに崇められているようで、立派な神殿があるらしい。
フォルトゥーンについて人に聞くと、あまり悪くはない評判が流れる。
「フォルトゥーンの『ゲーム』に勝ったら病気の娘を治してくれた」
「フォルトゥーンに祈ったら、人生を賭けた大一番で最高の勝利を収めた」
そんな話ばっかりで。フォルトゥーンによって人生を狂わされた人はいないのだろうか、とフィレルは思い、そっかと考える。
今、町にいるのはフォルトゥーンの『ゲーム』に勝った人だけだ。負けた人間は一族郎党殺される。フォルトゥーンによって願いを叶えられた人は嫌な思いを味わわない。そうやって彼は恨まれることなく、しかし確実に着実に人々の運命を狂わせて来たのだ。
「フォルトゥーン様の神殿に行きたい? ならば町を出て東に少し進むと神殿があるよ。みんなフォルトゥーン様に感謝しちゃって。立派な立派な神殿になっているからすぐにわかるよ」
町の人はそう言った。
その案内に従い、町を出て東に進むと、遠目からでもわかる豪華な神殿。
打ち捨てられた神殿や地下牢獄のような神殿、慎ましやかに整備はされている神殿などをこれまで見てきたが、こうまで絢爛豪華な神殿はこれまで見たことがない。
神殿の柱は大理石。あちらこちらに本物の金で作られたような装飾が見られ天井は高く、ステンドグラスもあるし柱には精緻な装飾が施されている。
「みんなは知らないのね……この神の悪意に。荒ぶる神々認定を受けたのに、それもとうの昔のことだから皆忘れてしまったのかしら?」
ぽつり、フィラ・フィアが呟いた。
そして無言で奥へ進む。やがて一気に開けた場所。
高い高い天井には、精巧で美しいステンドグラス。正面にある祭壇には、金銀宝石、美しい装飾品や調度品。その奥にある黄金の玉座に、一人の少年が座っていた。身に纏う衣装も実に豪華で、どこか気だるげに玉座のひじ掛けに肘をつき、足を組んでいる。美しい輝きを放つ黄金の髪、海の宝石の如き瞳、端正なかんばせに口元には悪戯っぽい笑みを浮かべた美少年。その頭には王冠を被る。
王と言えばいつぞやの死者皇ライヴを思い出すが、ライヴは夜の王のような暗い印象の王様だった。対する相手はどこまでも明るい輝きに包まれて、ライヴとは正反対の位置にいる王様のようにも見えた。
玉座に座る人物は来訪者を見、姿勢を変えずに声だけを投げた。
「やあやあようこそ、よく来たね? 僕こそ運命神フォルトゥーン。君たちは僕を封じに来たんだろう?
あっはっは、僕も遊びが過ぎたからねぇ、そろそろ年貢の納め時かなぁ?」
くっくっくと彼は笑い、すっと立ち上がる。
次の瞬間、彼の姿が消えた。え、と驚いた刹那、彼はイルキスの目と鼻の先に立ち、悪戯っぽく笑った。
「ふふっ、君のことはよく知ってるよ、姉上に愛されし幻影使いさん。ねえねえ君に提案があるんだけどさ?」
その口元に、蠱惑的な笑みが浮かぶ。
「——皆を、裏切らない?」
「……お断りするよ」
いきなり出された裏切りの提案を、イルキスはばっさり切り捨てる。
「裏切りによってぼくが得られる利益がわからない。いきなり何だい? ぼくに運命の女神がついているからって、あっさりと裏切らせられるなんて甘いよ。運命の女神ならばともかく、ぼくはきみに対して好意的な感情などないのだから」
そうだろうねぇと彼は笑う。なら、これならどうだろうと彼は言う。
その青の瞳が、見た者を惹きつけずにはいられない悪魔の輝きを帯びた。
「——なら、僕が君の恋人を蘇らせる条件として、君の裏切りをつけたら?」
「……ッ」
イルキスの顔が、大きなダメージでも負ったかのように歪む。
そう言えばいつしかイルキスは言ってなかったか。力の代償による『不幸』で、初恋の人を失ったのだと。そして彼は海に生きる人間だったが、同時に海を恐れてもいた。海難事故でその人を失ったのかも知れない。そしてそのことがずっと、彼の中で心の傷になっているとするなら。
フィレルはイルキスを見た。揺れるイルキスの瞳。彼の中で様々な感情がせめぎ合っていた。ずっと昔、救えなかった命と。そして今の大切な仲間と。
やがて、彼は頷いた。ごめん、謝るようにフィレルに頭を下げて。まさか、とフィレルは思い、イルキスに縋るような眼を向けた。イルキスは重い口を開く。
「フォルトゥーン、ぼくは……」
「嘘を言うんじゃない」
と、その言葉を割る声がした。声を発したのはロアだった。しかしどこかがおかしい、何かがおかしい。そこにいたのは確かにロアだったが、同時にロアではない何者かがロアの身体を借りて喋っているようにも見えた。
フォルトゥーンはへぇと面白がるような笑みを向けた。
「僕が嘘つきだって? なら証拠を見せてみなよ」
「ああ」
ロアは答え、淡々と言葉を紡ぎだす。
「死者蘇生なんていくら神様であろうと不可能だ。お前が黄昏の主であるならば話は別だが、運命神といえどそのような権能は存在しない。この俺ですらできなかったんだ、この人間を超越した存在となった俺です、ら……」
言って、え、と彼は自分の口を押さえる。
彼は驚きの目でフィレルを見た。
「なぁ……今、オレは、何を?」
フィレルは確かに聞いていた。『この人間を超越した存在となった俺ですら』という言葉を。
ロアは頭を抱える。
「違う……違う! オレはロア、イグニシィンのロアだ! ならば何だ、さっきの発言は! この記憶は誰のものだッ!」
そんなロアを、フォルトゥーンはじっと見つめる。
「へェ、もしかして君は——」
「言わないで!」
言葉を遮ったのはフィラ・フィアだった。彼女は蒼白な顔をしてロアを見ていた。
「言わないでフォルトゥーン。言ったら全てが崩れる、壊れるわ。ああ、なんてこと! そうなのね、真実はそうなのね! ああ、ああ!」
彼女は大層錯乱した様子だった。今の言葉で、ロアの正体に気がついたのだろうか? フィレルは訝しがるが、怖くてその正体を聞く気にはなれなかった。
くっくっくとフォルトゥーンは笑う。
「いいねいいねぇ、面白いねぇ! この場にはすごい奴がいるぞ。ああ、僕は嘘つきだ、認めよう。そして先程の発言も取り消そう。僕には死者蘇生の権能なんてないのさ。僕が出来るのは生きている人間の運命を操ることだけなのさ。嘘をついて裏切らせようとしたけれど、まさか思いの寄らぬところから思いの寄らぬ言葉が出るなんてね!」
でもあっさり封じられるわけにはいかないから、と彼は言う。
「僕とゲームをしよう。君たちが勝ったら僕を封じていいよ。でも負けたら皆殺しだ。そうでないとつまらないよね? 命を賭けたゲームこそ、僕の求める至高のゲームさッ!」
話を聞きながら、フィレルはちらりとイルキスを見た。彼は苦笑いし、「ぼくとしたことが、愚かだった」とフィレルに謝った。
「……そうだ、よ。あの子が蘇るわけがないのに。とうの昔に魂は冥界に行って、もうどこかで生まれ変わってるかも知れないのに。過去の後悔を取り戻せると、言葉に踊らされ一抹の希望に縋って……」
そんな彼らの会話を尻目に、話は進んでいく。
ルール説明をしようとフォルトゥーンが言った。
- Re: 魂込めのフィレル ( No.67 )
- 日時: 2020/06/28 12:47
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: lDBcW9py)
「僕がこれから問題を三問出す。それら全てに正解したら君たちは僕に問題を出すチャンスを与えられる。君たちが僕の出した問題を間違えたり答えられなかったりした場合は君たちの敗北、ルールにのっとって一族郎党皆殺しだ。けれど君たちの出した問題に僕が答えられなかったり間違ったりした場合——」
彼はふっと目を細めた。それは何かを強く望んでいるがどうせ無理だろうととでも言うかのような、諦めのこもった目。
「君たちは僕を封じることができる。僕はルールに忠実だから、敗北した場合素直に封じられよう。これでどうかな? ああ、当然ながら拒否権はない。回答者は誰でもいいけれど一度答えたら回答がわかっても他の問題には答えられないし、相談するのも禁止だよ。制限時間は各問三分。それは僕も同じだけれどね」
要は、問題全てに正答して、相手が答えられないような問題を作ればいいのだ。
それしかこの神を封じる手段がないのならば、やるしかない。フィレルらは頷いた。
では始めようか、と笑った神の顔に、愉悦が浮かぶ。
「第一問。それは天に浮かぶ星の中にあり、それはあなたの心に宿る。それは時に草を木を森を包み込み大災害をもたらすけれど、同時に人間を助けることもできる。さあ、答えてもらおうか。それとは一体何なのだろう?」
フィレルはうーんと考える。大災害、というところから自然に関わるものかなと思ったが、大災害を引き起こせる魔法も確かに存在する。星の中にあり心に宿り大災害を引き起こし人間を助ける。一体何なのだろうとフィレルは頭を抱えたが、
「わかったわ」
凛とした声が空間を割る。
堂々と胸を張り、フィラ・フィアは答えた。
「正解は……炎ね。星……たとえば太陽は燃えているし、人の心の中にも炎は宿る。山火事などが起これば大災害になり得るし、炎は古来より人間だけが扱えるもの。炎ならば辻褄が合うわ。……どう?」
「お見事。正解だよ封神の娘」
フォルトゥーンは口元に笑みを浮かべる。
「君には簡単過ぎたかな? まぁ良いよ。
では第二問。歌みたいになっているからしっかり聞いてね」
言って、彼は淡々と問題文を口にする。
「農耕の女神が木を植えた
魔除けのナナカマドの木を植えた
アレヴの街道に沿って木を植えた
二十五メルごとに木を植えた
木を植えた後に彼女は帰り、魔除けの街道は出来上がる
彼女の植えた木の数何本」
数学の問題らしい、とフィレルは気がついた。イグニシィン城で少しは勉強してきたために数学の問題が解けないわけではないフィレルだったが、どうやらこの問題、問題文に出てくる「アレヴの街道」の長さを知らないと解けないようになっているようだ。フォルトゥーンは三回読みあげてくれたが、何度聞いても街道の長さは出てこない。街道の長ささえわかれば簡単な問題なのにな、と難しい顔をしていると、蝶王と視線が合った。蝶王は任せろとでも言うように大きく頷き、フォルトゥーンの方を向く。「わかったぞ」と蝶王はフォルトゥーンに声を投げた。
「アレヴの街道の長さは七百メルだ。この問題は七百を木の数であるニ十五で割り、それに一を足すことで解ける植木算だ。七百を二十五で割れば答えは二十八、これに一を足して二十九が答え……と、言いたいところだが」
蝶王の顔に苦い笑みが浮かぶ。
「そなた、最初から騙すつもりでこの問題を出したのであろう。我は二十九ではなく、三十と答える。それがそなたの言う正解であろう? アレヴの街道を指定されたからな……引っかけ問題だと思うたわ」
「……正解。ああ、答えは三十さ」
「どういうこと!?」
わからず目を白黒させるフィレルに、「ナナカマドの期の一本にはヤドリギが生えていたんだよ」とフォルトゥーンは解説する。
「魔除けのナナカマドの木。けれどナナカマドはヤドリギが宿り得る木。アレヴの街道は美しい対称を描いているけれど、一つだけ対称じゃないところがあってね。そこが……」
「……ヤドリギの生えたナナカマドってわけ?」
むぅ、とフィレルは頬を膨らませた。
「ずるーい! 普通に何も知らないで解いてたら確実に間違ってた問題じゃん! そんなのフェアじゃないってばぁ!」
まあまあとフォルトゥーンは笑う。
「解けて、結果生き残れたんだからいいじゃないか。伝説の蝶王様に感謝だね?
さてさてこちらの出す最後の問題、第三問! 難易度の高い論理パズルだ! 三分以内にわからなかったら君たちの挑戦は終了、ここで朽ち果てる羽目になる!」
さぁ行くよ、と微笑みを浮かべ、運命神は問題を読み上げる。
「その神殿には神がいた 三体の偉大なる神がいた
真の神と偽りの神、そして気紛れなる風の神
真の神は真実しか語らず、偽りの神は嘘しかつかぬ。
風の神の答えは変幻自在、気紛れに嘘も真も答える
彼らは皆同じ顔、同じ声
彼ら、互いの正体こそわかれども、外部が判別すること難し
あなたの前に立ちはだかる神
神々は言う、「我らの正体を見破れ」と
あなたは三度質問できる
されどそれは「はい」か「いいえ」で答えられるもののみ
神の返答は「ルー」か「ロー」
どちらが「はい」か「いいえ」かは判らぬ
そんな彼らの正体を知るには、どのような質問をすべきであろうか?」
問題を聞いて早々に、フィレルは匙を投げてしまった。
キャンバスの端っこに大慌てでざっとした問題文を書いてみるけれど、まるで見当がつかなかった。ちらり、周辺の仲間を見てみるけれど、皆難しい顔で考え込んでいる。ただ一人イルキスだけが、目に強い光を宿らせて、ひたすら思考を巡らせているようだ。
制限時間はたったの三分。そんなので解ける問題ではない、そう、思っていたのに。
「残り時間は十秒だよ」
「わかった」
フォルトゥーンの声と同時、イルキスがきっと相手を見据える。
「いやぁ、難しい問題だったけれど……ぼくみたいな嘘つきに、嘘つき問題が解けないわけがないのさ」
言って、回答を口にする。
「そこに一、二、三の三人の神様がいるってことにして、最初に一の神様にこう尋ねる。『二は風の神ですかと聞いたら、あなたはルーと答えますか』と。答えが『ルー』なら三が、『ロー』なら二が風の神ではない神様さ」
二回目の質問は、と彼は続ける。
「一回目の質問に対する答えを受けつつ、風の神ではない神様にこう尋ねる。『もし、あなたは偽りの神ですか、と聞かれたらあなたはルーと答えますか』と。答えが『ルー』ならその神様は偽りの神、『ロー』なら真実の神さ」
たった三分で、イルキスは難しい問題の答えへと到達した。
フィレルは彼の口から発される答えを、驚いた顔で聞いていた。
イルキスは続ける。
「最後の質問。二回目の質問をしたのと同じ神様に対し、『もし、一は風の神ですか、と聞かれたらあなたはルーと答えますか』と質問する。答えが『ルー』なら一は風の神、『ロー』なら残った一人が風の神。これで全員の正体が明らかになる。……さて運命神フォルトゥーン。ぼくの答えに間違ったところは?」
「……ない。見事だね。流石姉上に愛されるだけのことはある。姉上は馬鹿を愛さない。そんなに優れた頭を持つならばそうなるのもむべなるかな、ってね」
ぱちぱちぱち、とフォルトゥーンは拍手をした。その顔には面白がるような笑み。
「過去に何度もこの問題は出してきたけれどさ、正解したのはほんの一握りしかいないんだよ。いいねいいね、面白い! じゃあさ、今度はそっち側が問題を出してみてよ! 僕が答えられないようなとびきり難しい奴を!」
その時、フィレルの脳裏に電撃のようにして何かが閃いた。
フィレルは知っていた、この神様の物語を。冬のある日、兄が読んでくれた童話集。その中にあった悲しい物語を——。
「質問はどんなものでもいいんだよねぇ?」
問うと、ああ、とフォルトゥーンは頷いた。ならば、とフィレルは手を挙げる。
「今度は僕が質問するよっ! ねぇねぇフォルトゥーン様。神様でも人間でもいいからさ、何でもいいからさ、あなたの好きな存在を一人挙げてみてよ。恋じゃなくって、友情とかそういった『好き』でもいいよ。簡単でしょ?」
フィレルの質問を聞いて、皆顔を青くした。ロアは思わずといった風にフィレルの胸倉を掴みあげる。
「おいこの馬鹿! そんな簡単な質問投げて……。全滅したいのか!?」
えへへとフィレルは笑う。
「まぁ見ていて。絶対に、答えられない質問だから。僕、知っているんだもん」
ちらり、フォルトゥーンを見れば彼はその場で凍りついたように固まっていた。
その顔に悲しげな笑みが浮かぶ、その顔に何かを諦めたような笑みが浮かぶ。
「……制限時間を待つまでもない。答えられない質問だよ絵心師の少年。よく知っていたね。身構えていたけれど……まさか、そんな質問が来るなんて」
どういうこと、とフィラ・フィアが問うと、僕は秤だからとフォルトゥーンは答える。
「僕は運命の秤として生を受けた神だ。秤は絶対に平等でなくてはならない。そんな都合で、僕は秤を狂わせるような感情を、最初から付与されていない。それは憤怒と憎悪と——愛、さ」
愛、とフィラ・フィアが呟くと、愛だよとフォルトゥーンは頷く。
青の瞳に様々な感情が渦巻いた。
「僕は、さ。そうやって上の神様の都合で感情を制限されたのが悔しかった。だから、さ。運命の神様の権能を使って、何かを変えて均衡を崩し、それで奪われた感情を取り戻そうと思っていたわけ。それが僕の放埒の動機。……まぁ、元からゲームが好きだったのもあるけどさ。結局、何をやっても感情は戻って来はしなかった」
どこで知ったの、とフォルトゥーンはフィレルに問う。フィレルは昔兄さんが読み聞かせてくれた一冊の童話集からだよ、と答えた。
「イルキスとは違う人で、運命の女神に愛された人がいたの。その人の話なんだけど、途中であなたの話も出てきたんだ。その時僕はまだちっちゃかったけれど、よぅく覚えてるんだよ」
成程、とフォルトゥーンは頷いた。
そしてフィラ・フィアに向き直る。
「さて……僕の敗北だ封神の姫。宣言通り、僕は無抵抗だ、封じるといいよ。君が僕の地獄を終わらせてくれ。僕は、さ……得られないものを求め続けるのはもう嫌なんだよ。君が封じてくれればきっと、僕はこの際限のない虚無感から解放されるんだ……」
わかったわ、とフィラ・フィアは頷いた。
「じゃあ……悲しみの運命神フォルトゥーン。わたしがあなたに休息をあげる。安らかに……眠りなさい」
言って、彼女は舞を舞い始める。しゃん、しゃん、と澄み渡った錫杖の音、彼女のサンダルが意思の地面を打つ音。そう言えば封神の舞を彼女が舞う時はいつも戦闘中だった、だからこうしてしっかりと見るのは初めてだなと、居並ぶ者たちは彼女の舞に見入った。舞う彼女の足元、生まれる魔法陣と虹色の鎖。少しずつ実体を得ていく鎖はやがて完全に実体化し、彼女の手の動きに合わせて一直線、フォルトゥーンのもとへと向かった。そして……
「ありがとう……ね……」
最後の最高の笑顔を見せたフォルトゥーン。身体に巻きついた鎖、そして溢れたまばゆい光。
光が消えて視界が開けた時、そこには玉座に座ったフォルトゥーンの形をした、青金石《ラピスラズリ》があった。青の表面に時折星のような輝きを宿すその石は、フォルトゥーンらしいなとフィレルは思った。
さて、とフィラ・フィアは皆を振り返る。
「帰るわよ……オルヴァーンの町へ」
そうして彼らは神殿を発った。
黄金の玉座には、孤独な運命の神を封じた青金石が、悲しげな輝きを帯びていた。
◇
オルヴァーンの町で、残った神々を指折り数える。
「後は無邪気なる天空神シェルファークと、戦呼ぶ争乱の鷲ゼウデラと、生死の境を暴く闇アークロアの三体ね。もう半分以上封じたわ、あと少しよ!」
フィラ・フィアは嬉しそうに笑った。
「ところで、次はシェルファークでいいとして……封じる順番について提案があるの。いいかしら?」
何だろうとフィレルは思う。戦神ゼウデラはかつてフィラ・フィアが負けた相手、最後に回すべきだと考えていた。そこに何か変更でもあるのだろうか。
「本来の予定ならばゼウデラは最後よ。でも違う、わたしはそうしない。最後に封じるのは闇のアークロア。アークロアには神殿がない、彼には祈る人すら存在しない。そんな不確定な神様は最後に回さないと、いつまで経っても旅を終わらすことができないわ」
そして方針は定まったのだった。
シェルファークがいるのはオルヴァーンの北、ウィナフの町だ。話によるとシェルファークは、文明を破壊してはそこから人々が立ちあがる姿を見て愉悦を覚えるのだという。文明破壊の無垢なる鉄槌、という異名もある神様で、その攻撃力は恐るべきものだという。十分に用心する必要があるだろう。
次の目的地のことを考えながら、今日はこの町で休みましょうとのフィラ・フィアの提案を受け宿に泊まる。
この旅ももう少しで終わる。それは嬉しいことだけれど、どこか寂しくもフィレルは思っていた。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.68 )
- 日時: 2020/06/29 23:03
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: lDBcW9py)
【九章 文明破壊の無垢なる鉄槌】
◇
翌朝。ウィナフの町へ出立する。文明破壊の神様であるシェルファークは過去に幾つもの町を滅ぼしてきたらしい。だから彼を封じるのは早い方が良かったのだ。彼が今の町を破壊する前に。しかしイグニシィンからウィナフは遠く、近いところに神殿のある神様も人間を苦しめていたために、近いところから封印していっただけで。
だが同時にフィレルは思う。シェルファークはこの世の摂理の一部なのではないか、と。どんな文明も育ち過ぎればやがて、腐った果実のように駄目になっていく。シェルファークは腐った果実を除去することで、新たな瑞々しい果実が育つのを手助けしているのではないか、と。けれどそれは神としての越権行為、腐った果実は同じ仲間の手で取り除かなければならない。だからこそ古の王アノスは彼を荒ぶる神として認定したのだ。
オルヴァーンの町から馬で三日ほどの距離にウィナフの町はある。その町は戦争に荒廃したシエランディアの中でも特に栄えた都市であり、王都よりも大きな町であるとされる。形骸化した玉座のあるだけの王都はもう文化の中心地とは言えず、シエランディアの文明は皆、このウィナフの町に集結していると言っていい。ウィナフから遠く離れたイグニシィンのフィレルでもその噂は聞いたことがある。大きな外壁に囲まれ、外壁の中は石で舗装され、お屋敷みたいな大図書館、高度な内容を教える学校があり、町の商店街では威勢の良い声が聞こえる。まだまだ発展途上に見えるこの町は、いつかシエランディアの体制が完全に崩れた時に、新たな王都になるのだろうか。
そんな町だから当然、検閲も厳しいわけで。蝶王はふっと微笑み、ただの白い蝶へと変身してさりげなく寄り添った。そうすればあまり違和感がない。
シェルファーク神殿の情報を集めようと町の入り口に近づくと、武装した兵士に足止めされた。
「ここは花の都、ウィナフの町。この町へはどんな御用事ですか」
丁寧な口調で訊かれ、反射的にフィラ・フィアは「神様の情報を集めているの」と答えそうになったが、先を制してイルキスが口を開く。
「ぼくらはロルヴァから来た旅人だよ。いやぁ、ロルヴァの港町でもさぁ、ウィナフの噂は聞いていてねぇ。一度、この目で見てみたいと、そう思ったのさ。ぼくはロルヴァの領主イルジェス・ウィルクリーストの双子の弟で名はイルキス。これ、身分証ね。あっちのフィレルはイグニシィンの領主の弟で絵描きをやってる。他はみんな仲間。フィレルもこの町の風景描きたいって言ってたしなぁ……。目的は観光、やってきたのはロルヴァの領主の弟と仲間たちってことでどうだい」
相手に何やら書類を見せながら、すらすらとイルキスが言葉を並べる。兵士はイルキスの示した書類を確認し、大きく頷いた。
「かしこまりました、怪しい者ではないと判断し、この門を通します。観光ですね。この町は他の町にはないものがたくさんあるので、思う存分楽しんでいかれると良いでしょう。絵の題材になりそうなものもたくさんございますよ」
笑って、彼は道を開けてくれた。
何の問題もなく町に入ることが出来た。イルキスは仲間に向かって悪戯っぽい笑みを浮かべた。フィラ・フィアは呆れた表情を浮かべた。
「まったく……あなたっていう人は……。でもあなたのさりげない嘘のお陰ですんなり通れたわ。わたしじゃ素直に正しいことを言って、誰にも信用されないで手間取ったと思うし。あなたのそれも才能よねぇ……」
そりゃどうもとイルキスは笑う。
改めて町を見て、感嘆の声を上げた。
きっちりと整備された道路。識字率が高いのか、絵ではなく文字の書かれた看板が町のそこかしこに見られる。戦乱の中でも活気のある声が聞こえ、華やかな笑い声が響き合う。
こんな町に天空神シェルファークがいるというのだろうか。
「やあ、そこのお人」
イルキスが普通の旅人を装って、道を歩いていた人に問う。
振り返ったのは男性だった。きちんとした身なりをし、髪は茶色、瞳は緑。彼はイルキスに一礼をし、問うた。
「おや、旅人さんですか。私に何の用ですかな」
「いやぁ、この町にある伝説を聞いてみたくってね」
イルキスの青の瞳がきらりと光る。
「天空神シェルファーク。そんな神様がここにいるって話を聞いてね?」
途端、男性の表情が固まった。彼は青い顔をして、イルキスに囁いた。
「いる、いる、いるともさ。だがしかし、旅のお方。その名前は、簡単に口に出しちゃあいけない」
「どうしてだい?」
「私たちは、わかっているんだよ」
男性の瞳からは、諦めのような表情が見て取れた。
「天空神シェルファーク。この町の奥の奥にいる。あいつが、たくさんの文明を滅ぼしてきたあいつが、いつかこの町を滅ぼすって。この町は確かに栄えているのかも知れないが……私たちは皆、いつか訪れる滅びの時を、恐れながら日々を生きているのだ」
シェルファークに目を付けられた町は、必ず滅ぼされる。そしてシェルファークは繁栄している町にしか目をつけない。町がシェルファークを祀れば滅びの時を少しは先延ばしにしてくれるが、結局滅ぼされるのは変わらない。
花の都、ウィナフ。明るく華やかな都の裏に見えた闇。それはシェルファークがいる限り、確実に訪れる破滅への恐怖。
成程ね、とイルキスは頷いた。
「ねぇ、興味本位で聞いていい? 今、シェルファーク様はどこに祀られているの。せっかく訪れたんだ、ここは良い町だし、シェルファーク様にお祈りして、もっとここが存続できるようにしたいんだよ」
イルキスの申し出を聞いた男は、ぱぁっと顔を輝かせた。
男は懐から紙を取り出し、詳細な地図を書いてくれた。イルキスは礼を言い、地図を懐に仕舞ってから仲間の元へ戻った。
戻ってきたイルキスに、フィレルは素直に尊敬の目を向けた。
「イルキス、すっごいや! 僕だったらあんなにすらすら話せなかったよぅ?」
「ま、経験の賜物だろうね。各地を旅してるとさ、厄介事に巻き込まれることも多くってね。自然、そういったことに巻き込まれない話し方や行動が身に着くのさ」
悪戯っぽくイルキスは笑った。
思ったよりもすんなりと神殿の場所が分かった。後はそこに向かう前に、作戦会議である。
フィレルらは宿をとり、その一室で話し合うことにした。
「天空神シェルファークは、攻撃力がとにかく高いわ」
前も言ったと思うけれど、とフィラ・フィアが切り出した。
「文明を破壊する神様だもの。下手な防御に回るよりは、回避に徹した方が良作」
「後は……あいつ、空を飛びまわらなかったか?」
ロアがすっと話に割って入った。
ロアの言葉に、フィラ・フィアが眉をひそめる。
「『あいつ』? まるで知り合いのような口をきくのね」
ロアは難しい顔をして押し黙る。
古代文字も読めて、闇神と知り合いで、天空神とも知り合いらしいロア。
正体がわからない。人外か、神に愛された人間なのか。
知ったらロアがロアでなくなるような気がしたから、フィレルは話題を変えようと試みる。
「天空神だから……雷とか使うの?」
「使っているのを見たことがある。それは我が保証しよう」
蝶王が小さな頭で頷いた。
攻撃力がとにかく高く、空を飛びまわり、雷を使う。並大抵の相手ではない。
「雷ならば、逸らせるよ」
イルキスが自分の胸に手を当てた。
「ぼくが囮になろうか。指運師のぼくに遠距離攻撃は当たらないし、幻影魔法を使えば相手の目を誤魔化せるかもしれないし」
でも危険な役割だよ、とフィレルは心配を込めた瞳でイルキスを見た。
わかっているさと彼は笑う。
「でもこの場合、ぼくしか適任はいないだろう。大丈夫、ぼくには運命神《ファーテ》がいる。そう簡単には死にゃしないさ」
そしてイルキスが相手を引きつけている間、イルキスの幻影魔法に隠れたフィラ・フィアが舞を舞い、シェルファークを封じる。ロアはフィラ・フィアに危機が迫ったら、彼女を抱えてその場を退避する。フィレル、蝶王は状況に応じて支援や妨害をする。
蝶王の死神蝶たちは、たくさん集まれば相手を撹乱できる。蝶王もこの作戦で、大いに役に立つことだろう。
方針は決まった。窓から外を見れば、陽はまだ高い。今日中に封じてしまうのもありかもね、とフィレルの提案に、一同は賛成した。
宿から出て、書いてもらった地図を見て、神殿を目指す。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.69 )
- 日時: 2020/07/02 09:19
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
町が滅ぼされる日が、近い日にはならないように。
シェルファークに目をつけられた町の人々は彼を祀り、供え物をする。
辿り着いた神殿はしっかりと整備されており、中に入ったらだぼだぼの服を着た人がいた。
「天空神の神殿へようこそ。旅人さんですか? 何の御用でしょうか」
「天空神さまにお祈りをしに来たんだよ」
自然な態度でイルキスが答える。すると、神殿の左の道を進んでくださいと案内があった。そちらの方にある部屋に、神への祈りを捧げる場所があるらしい。
たどり着いた先には、人外の雰囲気を身に纏った一人の男がいた。
燦然と輝く太陽の如き金髪、炎を宿した深紅の瞳。身に纏うはひらひらとした、赤を基調として金のアクセントの入っている軽装。挑発的な笑みを浮かべ、背から黄金の翼を生やし、男は宙に浮いていた。
一目でわかる。これが、この男が。
「無邪気なる天空神、シェルファーク……!」
「無邪気……なんて、あだ名は俺には似合わないがね」
笑みを浮かべて神は言う。
「お前が封神のフィラ・フィアか? お前は俺を倒しに来たのか」
「封じに来たのよ」
フィラ・フィアが錫杖を地に突くと、しゃん、と涼やかな音が鳴る。
「あなたはわたしたち人間の社会に、深く干渉しすぎてはならなかった。社会が腐ってしまったのなら、それはわたしたち人間の手で取り除く。あなたの助けなんて必要ないのよ」
「ったく、馬鹿だよねぇ人間はこれだから。あー、もしかして俺が人間のためにこんなことをしているとでも思っていたのか? そんなわけねぇだろう」
笑みの中に愉悦が宿る。
フィレルはキャンバスと絵筆を構えた。
「来るぞ!」
ロアの声。そして。
「——俺は、足掻く人間たちを見るのが大好きだ。それが俺の行動理念だッ!」
轟いた雷鳴。ばりばりと音をたてて天が裂け、神殿の高い天井から天の裁きの如く、無数の雷条が降ってくる。
「させないよ?」
笑うイルキス。彼の周囲で水が渦巻き、稲妻を集めて外へ逃がした。それを戦いの合図として、動き出す。
シェルファークは強い相手だ。これまでの神々と同様、一筋縄ではいかないだろう。
フィラ・フィアは勢いよくステップを踏む。しゃん、しゃんと清浄な鈴の音。銀の錫杖が神聖な光を帯び、足元から形成されていく虹の鎖。
相手は宙に浮かんでいる。近接攻撃専門のロアには難しい相手だ。
だから、だからこそ。
フィレルはその距離差という不利をなくすためのアイテムを、真っ白なキャンバスに描きだす。
「ロア!」
叫んで放り投げたそれは、銀色の。
「弓、ねぇ……っておっと」
感心する暇もあらばこそ。シェルファークはイルキスの飛ばした水の槍を悠々と回避する。
「何を見ているんだい? きみの相手はこのぼくじゃないのかい?」
水と光をより合わせ、生み出されたのは無数の幻影。そこにシェルファークが稲妻を当てても、幻影は消えることがない。だが、稲妻と水は反応し、幻影はほんの僅かだけ揺らぐ。揺らがなかった本体目がけて飛んでくる稲妻。イルキスは小さく舌打ちをした。
「ありゃりゃあ。稲妻に水の幻影は相性最悪かい? ならばこれはどうだい!」
見破られないように。イルキスは自身に水を纏う。これで稲妻を当てられても、条件は同じになった。蝶王が死神蝶を呼び寄せて、少しでも相手を撹乱できるように神殿の中を飛ばす。
そうやって二人が敵を引きつけている間にも、フィラ・フィアは舞う。ただひたすらに。
昔、使命を負って旅に出た。あの日抱いた熱い思いはいまだ、衰えることを知らない。
その横で、ロアがフィレルの弓を引き絞る。全力で引き絞られた弓は、白銀の輝きを放つ矢をシェルファークに向けて撃ち放つ。
閃光。放たれた矢は、イルキスと戦うので精いっぱいだったシェルファークに迫る。
だがその瞬間、シェルファークが獰猛な笑みを見せた。嫌な予感がフィレルの背筋を走る。
「ロアッ!」
思わず上げた悲鳴。ロアの放った矢は、見えない壁によって、空中ではじき返された。フィレルとロアの魔力を載せて放たれた、渾身の一撃は。
ちらり、垣間見えたのはいつかの幻影。シェルファークに巨大魔法をぶつけた人たちが、全て跳ね返されて吹っ飛んでいった場面。それはかつて、実際にこの神殿で起こった事実。
気がついた時は、もう遅い。“魔力を込めて”放たれた矢はそのまま返されて、自分たちを害する武器となって目の前に迫っていた。
「俺に魔力は効かないぜ、人間ッ!」
シェルファークの高笑いが響き渡る。
イルキスが相手を攪乱している間に、フィレルとロアで渾身の一撃を放つ作戦だった。だがその一撃は破られた。
「フィレルッ!」
魔力を込めた矢が二人を貫こうとした刹那、フィレルは何者かに突き飛ばされるのを感じた。
呻き声。振り返ったそこにいたのは、いつも自分を守ってくれた広い背中。
どしゃり。全ての攻撃を一身に受けて倒れたのは。
「ロア!? ロア、ロアッ!」
抱き上げた身体は、血まみれだった。大丈夫だ、死にはしない、とロアが掠れた声で返事をするが、溢れ出る血は止まらなくて。その唇が動き、言葉を繋ぐ。
「ファレル様と約束……したんだ。生きて……帰る、と」
必死で身を起こし、それでもまだ動こうとしたロア。フィレルはその動きを止めて、ちらり、イルキスが戦っていた方を見る。そこにはイルキスが倒れていた。その身体は、動かない。魔力は効かない、とシェルファークは言った。イルキスもフィレルらと同じように、手痛い反撃を受けてしまったのだろうか。
忘れてはならない。シェルファークはとても高い攻撃力を持つ存在。防いではならない、回避しない限りその死の攻撃に対処することは不可能だ。
直接攻撃専門のロアが倒れ、魔法攻撃に特化したイルキスが倒れ。今、残っているのは戦闘向きではないフィレル、フィラ・フィア、蝶王だけ。そっか、とフィレルは呟き、覚悟を決めた瞳で相手を見据えた。
心の内には喪失への恐怖。ロアもイルキスも大切な仲間だ。失いたくない、その想いがフィレルの心を強くして。
心が、壊れそうなくらい大きな想いに揺れた、時。
弱かったフィレルの中で、スイッチが入った。
明るく無邪気な表情が、急激に冷めていく。
これまで自分を守ってくれていた人が傷つき、倒れているのならば。
「……そう」
呟いた声は、普段の無邪気な彼とは打って変わった、冷たく無機質な声。
急速に冷えていく頭の中、初めて心から本気になったフィレルは、動き出す。
「なら、僕が」
守るしかないんだ。
言って、フィレルは倒れているロアを守るように、両腕を広げて神の前に立ちふさがった。その姿を見た蝶王が驚きの声を上げる。
「絵心師! そなた、何をする気——」
「黙ってて」
冷めた声で相手の言葉を切り捨てると、フィレルはいつも身につけていた、絵描きの証たる白いエプロンを外した。その下にあったものがあらわになる。そこにあったのは、
「……武器の絵、だと?」
「絵心師ならではの切り札さ」
浮かべたのは獰猛な笑み。
フィレルは緑に輝く手で、所狭しと武器の絵の描かれた服に触れた。
そう、これこそがフィレルの切り札。描かれた絵を自在に取り出せるフィレルならば、絵の中に武器を隠して持つことも容易い。フィレルがいつもちぐはぐなエプロンを身に纏っていたのは、これを隠すためだったのだ。
フィレルは服の中に描かれた数多ある武器の中から、一本の剣を選び取る。実体化したそれを握り、宣言した。
「創作系特殊魔導士、絵心師フィレル・イグニシィン! 神だか何だか知らないけどさ、大切な人を酷い目に遭わされたんだ、相応の罰を受けてもらうんだよぅ?」
しかし剣は苦手だったはずでは、と言おうとしたロアに、力強く笑い掛ける。
「だってあのロアが教えてくれたんだ、上達しないわけがないでしょ? のーある鷹は爪を隠す、ってね!」
その言葉は、これまでのあれはただの演技だったのだということを示していた。
明るく無邪気な問題児、フィレル・イグニシィン。勉強もしないで武術も碌に練習しないで。けれどフィレルは陰でこっそりと練習していた。フィレルなりに考えて、己を磨いていたのだ。
その成果が、今ここにある。
フィレルは戦力外なんかじゃなかった。しっかりとした戦力として数えられる程には、十分に強かったのだ。
シェルファークは呵呵大笑した。豪快な笑みが口元に浮かぶ。
「は、はは! そうか、そうなのか! それでこそ……人間だッ!」
すたっ。音を立てて地上に降りる。雷を集めより合わせ、一本の太い綱のようにしたそれを硬化させて雷の剣とする。それを構え、天空神は言う。
「いいだろう、いいだろう! 絶望から這い上がるその姿! 挫けそうになっても諦めぬその姿こそ、俺の愛した『人間』の姿だ! 絵心師フィレル・イグニシィンと言ったか? 人間の意地、見せてみろッ!」
「望むところさ」
言うなり。
一閃。
いつの間にか抜かれていた剣が、神速の動きでシェルファークへと迫る。跳躍。天空神は地を蹴り大きく後方に退避。その顔に浮かぶ表情は愉悦。
絶望から立ち上がる人間の姿を見るのが好きだった神、天空神シェルファーク。その赤い瞳は久々の強い相手との戦いにきらきらと輝き、少年のように純粋な輝きを宿している。無邪気なる天空神、と呼ばれる所以だった。彼はただ純粋に、絶望から立ち上がった人間と戦うのが好きだったのだ。
そんな相手と戦いながら、フィレルは油断なく剣を構えつつ獰猛に笑った。それは図らずも、いつも戦闘時にロアが浮かべている笑みとそっくりなものになっていた。
フィレルは背後で固まっていたフィラ・フィアに声を掛けた。
「ロアが動けないんだ、ならば僕がロアを守るよ。だからお願い、フィラ・フィア。僕がこうしている間に——」
「え、ええ!」
返事をし、フィラ・フィアが舞いながら術式の続きを紡いでいく。それを見てひとつ頷き、フィレルは、
跳躍。引き下がった天空神の前、たった一歩で距離を詰める。それは訓練された武人の如き動き。一閃。絵の中から生み出され実体化させられた煌く刃が、神の身体を切り裂こうと迫る。追撃。フィレルの手から逃れようとした天空神に、逃がさんとばかりに追いすがる煌めき。そして連撃。服の中からいつの間にか取り出されていたもう一本の剣が、天空神の退路を阻む。相手を切り裂くその顔には、力強い笑みと、守るべきものを後ろに庇った、一人の戦士の不退転の覚悟があった。両の手に握った双つの刃は、神すらも殺せそうな勢いで、本気の殺意を込めて唸りを上げる。
フィレルはただの泣き虫な問題児ではなかった。内なる強さをずっと、その身の内に秘めて隠していたのだ。
一閃、二閃、三閃。力強い連撃に、押されていく天空神。雷の刃が悲鳴を上げるかのように火花を散らす。先程まで余裕のあった天空神のその顔には余裕がない。ただ、愉悦があった。無邪気な感情と愉悦によって、その顔は心から嬉しそうに笑っていた。
そしてその瞬間、舞が終わる。しゃん、と涼やかな鈴の音が神殿内に響き渡り、虹色の鎖が彼女の周囲を取り巻くように、ぐるぐると幾重にも回り出す。
澄み渡った声が、神殿内を打った。
「封じられなさい! 無邪気なる天空神——シェルファーク!」
「人間……ああ、やっぱり面白い存在だッ!」
ただひたすらに愉悦をその声に含ませて、神の姿は光へと変わる。虹色の鎖が幾重にも巻き付き、神殿の中を眩しすぎる光が通り抜けた、後。
そこにあったのは、天空神の姿をした巨大な空色石《ターコイズ》だった。
もう大丈夫だ。それを見て、安堵がフィレルの中を駆け巡る。その瞳からは、先程の苛烈な輝きは消えていて。いつもの、無邪気で明るいフィレルに戻っていることが分かる。
がらーん。大きく音を立てて、その両の手から剣が落ちた。
フィレルは泣きそうな顔で、倒れているロアに笑い掛けた。
「やったよ、ロア。僕ね……守れたっ!」
「お前……」
驚きの目でフィレルを見るロアの手を、フィレルは握り締める。
「僕だって、戦えるんだよぅ?」
泣きそうな顔、壊れそうな顔でフィレルは笑う、無理して笑う。
「戦うなんて、武器を使って振り回すなんて、嫌だよぅ。たとえ誰かを守るためであってもさ、武器を振るたびに僕の心は傷ついているんだ」
でも、仕方ないじゃあないかと笑う。
「僕しか、僕だけしか、戦える人はいなかったんだからさっ! いくら戦うのが嫌でも辛くても、僕しかいないなら……僕が、僕が、やるしか、戦うしか、ないじゃあないか……」
フィレルの身体がぐらり、よろける。「フィレル!?」心配そうな顔をしたフィラ・フィアたちの前、フィレルはがくりと、地に膝をついた。その辺りまで広がっていたロアの血が、撥ねた。フィレルはがくがくと震えていた。その顔は蒼白だった。
「嫌だってば、怖いってば。だってさ僕は戦うのが嫌いな平和主義者なんだよなのにどうしてこんな」
フィレルはちらり、ロアの方を見た。大きな怪我を負っていたロアの顔は蒼白になっていた。ロアが、大切な人が危ないと悟ったフィレルは怯える身体を叱咤してロアの方へ急ごうとするが、その身体を猛烈な疲労感が襲う。身体を動かすこともままならないほどの疲労感。フィラ・フィアの心配そうな声がフィレルの耳を叩くが、意識を失いそうになっているフィレルには届かない。
倒れつつも、ロアの方へ手を伸ばした。
意識を手放す寸前、思う。
——ロア。
——僕は大切なものを、守れた……かなぁ?
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.70 )
- 日時: 2020/07/06 10:26
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
目が覚めた場所は、宿のひと部屋だった。前に、作戦会議をした宿だった。
「フィレル! 目が覚めたのね?」
むくっと身体を起こすと、フィラ・フィアが心配そうにやってきた。
そして思い出す。天空神との戦いのこと、倒れていたロアのこと。
「ロアは? ロアは、どうしたの? 生きてる!?」
「案ずるな絵心師よ」
はたはたと小さな音を立て、フィレルの前に小さな影が現れる。背には蝶の翼。蝶王である。
「あそこは神殿だ、あれほど大きな騒ぎを起こせば他の人がやってくる。我々は事情を説明し、手当てをしてもらったのだ。町の人も、我らのことを無碍にはできまい。我らのお陰で、この町は滅びの運命から逃れられたのだからな」
身を起こしたフィレルが横を見ると、そこにもうひとつベッドがあった。その上ではロアが眠っていた。その顔は安らかだった。フィレルは安堵の息をつく。
「幸い、反射的に急所を避けたようだから見た目ほど酷い怪我ではない。数日もすれば戦えるようになるとのことだ。イルキスの負った傷もそこまでではなかった。シェルファークは派手好みの神だ、そこまで酷い傷を負わせる気はなかったのだろう」
「そっか……良かった……」
フィレルは妙に疲れているのを感じていた。当然だろう、初めて本気を出して戦ったのだ。慣れない力、慣れない戦い方。そんなので戦い続けていたら過剰に疲れるのは当たり前だ。
「次の目的地は決めているわ。でも次はそう、戦神ゼウデラ……かつてわたしたちが敗北を喫し、わたしが死んだ原因の神様だから。万全な状態で行かなくてはならないの。だからしばらくはこの町に滞在することにする。フィレルも、疲れが取れたらこの町を観光してみるのはどうかしら?」
そうだね、うん、とフィレルは頷いた。
ひとまずは、再び押し寄せた眠気に身を任せることにして、フィレルは眠る。
◇
その翌日に、ロアとイルキスが目を覚ました。ロアを看た町の医者の話によると、ロアは普通の人間であは有り得ないくらいに自然回復能力が高いという。大した御仁だ、と医者は笑っていた。
「……フィレル」
目を覚ましたロアが、フィレルの名を呼んだ。
言葉なんて必要なかった。目覚めたロアを、フィレルは大声で泣きながら抱き締めた。
「死んじゃうかと……本当に、死んじゃうかと思ったんだよぅ! 怖かった……。ロア、ロアぁ!」
「……生きているからちょっと離れろ」
苦しそうにロアが言うと、ごめん、と謝って後ろへ下がる。
ロアの身体には包帯が巻かれていた。いつも強かったロアのそんな姿を見ていると、胸が苦しくなるのをフィレルは感じた。
「なぁ、フィレル」
静かな声でロアが言う。
「お前……強かったんだな」
「もう二度とあんなことやりたくないけどねっ!」
涙を拭ってフィレルは言う。
「だってさ……ロアが死んじゃうかもって、思ったんだもん。手段を選んでなんからんないよ! 戦うのとか嫌だし武器を使うのって怖いの。でも……失いたく、なかったんだもん」
うつむくフィレルの手を、そっとロアが握った。
「心配かけて、悪かった」
「ううん、大丈夫。生きててくれて、ありがとねぇ!」
ロアの手を握り返して、フィレルは笑った。
と、不意に部屋の扉が開いた。現れたのはイルキスだった。その顔は少しやつれているものの、比較的元気そうである。
イルキスが負ったのは魔法による傷だった。魔法による傷は魔導士ならば治りが早い。ロアに比べるとスムーズに回復できたように見えるのもそのためだろう。
「やぁ、皆様方。元気かな?」
すたすたと歩いていき、手近な椅子に座る。
「ぼくは……まぁ、まだ万全とは言えないけれど大体はもう大丈夫さ。ロアの怪我は……まだみたいだね。フィレル、疲れは取れたかい?」
イルキスの問いに、うん、と大きくフィレルは頷いた。
揃った一同を見て、感慨深げにフィラ・フィアが呟く。
「フィレル、ロア、イルキス、蝶王、そしてわたし。今回はこの五人でゼウデラに挑むのね……。今度こそわたしはやり遂げられるかしら? シルーク、エルステッド……見ていてね」
次の戦いが正念場だ。重い空気が辺りに流れた。
◇
花の都、ウィナフ。そこでフィレルたちは英雄、と町の人々から慕われた。いつか訪れる破滅の運命を回避したのだ。フィレルたちは待ちの人々の不安を取り去った。
大きな図書館があった。そこにはツウェルのウァルファル魔道学院にあった本の迷路を遥かに超えそうなくらいの書物が収まっていた。劇場があった。そこでは古の英雄譚が演じられていた。商店街に行けば様々な食べ物や珍しいものが置いてあり、町の繁栄をうかがわせる。フィレルらはウィナフの都に、五日間留まった。とても五日では観光し切れないほどの町だったが、目的を果たしてからまた来ればよいと割り切った。
傷の治った一同は、宿のひと部屋に集まる。あれだけ大きな怪我を負ったのに、ロアの傷はもう治っていた。人間とは思えないほどの回復力だった。
「次に封じるのは戦神ゼウデラ」
地図を広げながらフィラ・フィアが言う。
「そして、ね。ゼウデラが封じられているのは……ここよ」
彼女が指し示した町の名は、
イグニシィン。
フィレルは知った。
究極の敵は、最も身近なところにいたのだと。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.71 )
- 日時: 2020/07/08 01:34
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: 3edphfcO)
ウィナフの町を出て次の町へ。フィレルたちの顔は引き締まっていた。
「……最初から、知っていたの?」
フィレルの問いに、ええ、とフィラ・フィアは頷いた。
「今の時代の地図を渡された時から、もうわかっていたわ。ゼウデラは強い神様、一筋縄ではいかない相手。それはわたしが一番よくわかってる。でも……もしも旅の最初にそれを知ったとして、あなたたちは平静でいられる? 隠したのはわたしなりの判断よ。今でもそれが、間違いだとは思えない」
うん、とフィレルは頷いた。
確かに旅の最初にゼウデラがイグニシィンにいると知ったら、責任感の強いロアなんか、真っ先にゼウデラを封じると言うに決まっている。その果てに全滅して結局何も果たせずに終わる未来なんて、容易に想像できる。そんな悲劇を起こさないために、フィラ・フィアは一人でその秘密を抱えてきたのだ。
「イグニシィンに帰る時は、全部終わってからにしようって決めてたんだけどなぁ」
思わずぼやいた。
フィレルは今いるメンバーを思う。自分とロアとフィラ・フィアと、イルキスと蝶王。旅の最初に比べれば増えた仲間こそいるものの、欠けた仲間なんて存在しない。
「誰一人欠けさせないで帰り着く」フィレルが兄ファレルとした約束は、果たせそうである。
「兄さん、元気かな?」
今はただ、それだけが心配だ。
様々な思いを抱え、フィレルたちは歩き出す。ロアは先程から黙ったままで、何も話してはくれない。
終わりの時は間近に迫っていた。
◇
何か月ぶりなのだろうか。
フィレルの足は、懐かしい町の地面を踏んだ。
石畳で舗装されてはいるものの、ところどころでこぼこな道。町の奥に建つ、あちこちぼろぼろの大きなお城。最初は逃げながらこの町を出たのだな、と思いを馳せる。リフィアとレイドの話から兄は無事だとはわかってはいるものの、会いたくてたまらなかった。
「イルキス、蝶王さま! ここがね、僕の生まれ育った町なんだよぅ?」
笑いながら、誇らしげに二人に紹介する。
イルキスは穏やかな笑みを浮かべた。
「ふふ、ウィナフのような活気はないけれど、穏やかでいい町だね」
「でしょでしょー?」
町を歩いていたら、掛けられた声。
「あれは……まさかのフィレルさまにロアさま!?」
「お帰りなさいませー!」
いつも遊んでいた町の人々が声を掛けてくる。その全てに、ただいまとフィレルは返した。
改めて、実感する。ここは自分の帰るべき場所だと。
こんなに大好きな町に戦神がいる。何としてでも封じなければならない。
そうやって歩き、城の前にたどり着く。城の前には人形がいた。レイドの残した人形だろうと思い名を名乗り挨拶をすると、すっと通してくれた。そのまま進み、入口の大扉を開け放った、
先に。
「……フィレル」
驚いた顔の、兄がいた。
あの日、別れたっきりの大好きな兄が。
「兄さんっ!」
叫んでその胸に飛び込んだ。会いたかった、会いたかったのだ、と溢れだす想いが止まらない。
「……ファレル様」
ロアがすっと膝をつく。
「ロア、只今戻りました」
「ファレル・イグニシィン。お初にお目に掛かるよ」
ロアの隣でイルキスが挨拶をする。
「ぼくはロルヴァの領主イルジェスの双子の弟、イルキス・ウィルクリースト。フィレルたちの旅の仲間だよ。神々の封印はまだ終わってないけれど……ここに戦神ゼウデラがいると、知ったからね。ここに来ることにしたんだ」
「……よろしく、イルキス」
穏やかな笑みをファレルは浮かべる。
フィレルはファレルを見た。久しぶりに見た兄の顔は、どこかやつれているようにも見えた。
「兄さんさ、元気してた? 僕はいつも通りだけど……兄さん、元気ないように見えたの」
僕はいつも通りだよ、とさらりとファレルは返してしまう。
それより、と言葉を繋ぐファレルの青い瞳には、心からの喜びがあった。
「みんな……無事で良かったよ。次が正念場だってことはわかったけれど、長い旅だったし……誰かが、死んでしまうんじゃないかって。ただそれだけが、怖かったんだ」
歓迎しよう、と彼は言った。
「明日にはイグニシィンの神を封じるために発つのだろう? でもね、今夜だけは。レイドとリフィアも帰ってきたんだ。みんなで一緒に、楽しい晩餐会をしようか」
穏やかに笑ったファレル。
久しぶりの、優しい時間が訪れた。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.72 )
- 日時: 2020/07/10 00:24
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: 3edphfcO)
フィレル、ファレル、ロア、フィラ・フィア、蝶王、リフィア、そしてレイド。エイルはもういない。そして新しいメンバーが増え、見覚えのある食卓とは少し変わってしまった食卓。しかしそこに流れる穏やかな時間は、変わらない。
リフィアはフィレル帰還の知らせを聞き、きらきらと目を輝かせていた。
「おっかえりぃ、フィレル! なぁんだ、帰ってくるならもっと早く教えてくれれば良かったのに! ありあわせの材料でしか歓迎の料理作れないじゃないの! まったくもうったら!」
怒っているような口調ではあるが、心底嬉しそうでもあった。
「話は聞いた。本番はこれからだそうだな」
「ああ。この先、何が起こってもおかしくはない。この晩餐会が最後の晩餐になるかも知れない……」
その隣で、ロアとレイドが言葉を交わしあっていた。聞こえる内容は不穏ではあったが、そうなるのも仕方のないことなのかもしれない。
リフィアが即席で作ったそこそこ豪華な料理を食べながら、フィレルは旅の中であった様々な出来事を報告していた。
「でね……ツウェルの町では死者皇ライヴと戦ったの。ウァルファル魔道学院っていうすごい学校の生徒たちと一緒に、ライヴを倒したんだよ! そこで……一緒に来てくれた学院の生徒が死んじゃって。僕は初めて死ぬっていうことを知ったんだけどさ」
楽しいことも悲しいことも。神々を封じる旅の中、本当に様々なことがあった。話が最悪の記憶の遊戯者フラックのこと、封じられた記憶の話になると、ファレルはその顔を固く強張らせた。
「……そうだよ、フィレル。君の最悪の記憶を封じていたのは僕だ。でもそれが仇となったのだね。フィレル、僕を恨むかい? 恨んでもいいんだよ?」
ううん、とフィレルは首を振った。
「僕さ、それは兄さんの優しさから来ているんだって知ってるんだもん。だから怒ってないよぅ」
あの日、思い出させられた記憶。遠い日に両親を失ったあの痛みは、いまだ胸の内でくすぶり続けてはいるけれど。でも、乗り越えられないほどじゃない。もうフィレルは弱くない。この長い旅でした様々な経験が、心の強さをくれたから。
フィラ・フィアを絵から取り出して始まった、神封じの旅。新生風神の旅団。なし崩し的に始まった旅だったけれど、歩んできたその旅路は決して無駄なんかじゃない。
フィレルは同じ食卓についている仲間を見た。ロア、フィラ・フィア、イルキス。それぞれ、様々な場所で自分たちの過去と相対した。くじけそうになることもあったけれど、結果的に乗り越えられた。互いを思うその心が、それぞれの強さに繋がった。
それを改めて、思って。
フィレルはにっこりと笑った。緑の瞳が輝きを帯びる。
「あのね、僕ね、この旅に出て良かったって思ってるの!」
強くなったんだ、色々変わったんだと兄に言うその姿は、確かに旅の最初の頃のフィレルとは違うもの。
「だからさ、兄さんが色々気に病む必要なんて、ないんだよー?」
「……それは良かった」
ファレルもまた、穏やかな笑みを浮かべる。
この穏やかな時間が、永遠に続けばいいのに。
けれどいずれ、晩餐は終わる。
気がつけば、食卓の食べ物は皆、なくなっていた。宴はお開きだ。
ファレルが言った。
「ふふ、今日はよく帰ってきてくれたね。新しいお客さんも楽しめたかな? 僕は三階の部屋に戻るけれど……何かあったら気軽に声を掛けてね。フィレルたちはいつもの部屋だけど……客人たちの部屋はっと。リフィア、適当に案内してくれるかい?」
「了解しましたっ!」
ぴしっとリフィアが礼をする。
こうして一同は、三々五々散っていった。
◇
「……ファレル様」
自分の部屋へ去りゆくファレルを、呼び止める声があった。
ファレルは振り向かずにその名を呼んだ。
「どうしたんだい、ロア」
「……オレは」
混乱したような声でロアが言う。
「何者なのだと、ファレル様は思いますか」
「わからないけれど……知らない方が、いいよ」
振り向いたファレルは、碧い瞳でロアを見た。
「何度も言うけれど、君はイグニシィンのロアであって他の何者でもない。もしも自分の正体を知る機会があったとしても、それを聞いてはいけないよ。話を聞く限り……君は普通の存在ではないようだから。記憶が消えたということは、何かがあったということ。そして余計なことは知らない方がいい」
「オレは……怖いんです」
『ロア』
ファレルは言霊使いの力を、束の間だけ解放した。
『おまえはおまえの記憶に怯えない。これは現実となる』
大切な家族を、安心させるために。
強張っていたロアの身体から、力が抜けた。ロアは深く礼をした。
「ありがとうございます……ファレル様」
「大切な家族なんだ、当然だろう?」
ファレルは優しく笑う。
決戦前夜。それぞれに不安はある。
ならばそれを払拭してやるのが戦わない者の役目だと、ファレルは思う。
◇
城の正面階段の向こう、階段が左右に分かれる位置にある回廊には、封神の七雄たちを描いた絵画が飾ってある。それらをひとつひとつ愛《いと》おしむ様に撫でながら、フィラ・フィアは呟いた。
「エルステッド……シルーク……ヴィンセント……レ・ラウィ……ユーリオにユレイオ……」
もうすぐだ、もうすぐで。三千年前にやり残した封印を、完遂させることができる。戦神ゼウデラ、自分の死ぬ原因となった神を封じれば、残る神は一体だけ。
かつては果たせなかった使命が。
三千年の時を経て、完遂されようとしている。
そんな彼女の隣に、そっと寄り添う影がいた。どこまでも白いその姿は、
「シルーク……じゃなくって蝶王ね。驚かせないでよ」
「そなたが見間違いをしただけであろうが」
呆れた声で蝶王が言った。
フィラ・ファイアはそんな蝶王に、言葉を投げる。
「それにしても、あんたは変わらないわね。世界も人々も、色々変わってしまったのに……」
「これでも何百回と生まれ変わっておるぞ。蝶の一族は長生きしない。ただ……我は記憶をそのまま引き継いでいるだけの別人だ。あの時代、シルークと共にいた蝶王は……ネーヴェは、もういないのだ」
「そうね、そうよね。結局わたしはこの時代に、一人きりなのよね」
寂しげにつぶやく。
蝶王は誕生から十年くらいで死んでしまう儚い存在だ。ただその記憶だけは、次の代へ、その次の代へと受け継がれていく。蝶王に個々の名前などないが、ごく稀に名前を与えられる個体がいる。それが三千年前の蝶王——ネーヴェだった。その名前の意味は雪。蝶王によって望まぬ修羅の道を歩まされたシルークだったが、それでも彼は蝶王を愛していた。だからこそ、死神蝶の中では最大の栄誉である名前を、与えたのだ。
いくら記憶と「魔性の声」、姿を受け継いでいても、今の蝶王は蝶王ではない。あの時代の蝶王は、シルークの死と同時に死んだのだ。そして死神蝶の一体が全てを受け継ぎ、次の世代の蝶王になった。
「落ち込むことはない」
蝶王は慰めるように声を掛ける。
「もうすぐで使命を完遂出来るのだろう? それにな、新しい時代も悪くはないではないか」
「わかってるけど……」
懐かしの仲間たちの姿を写し取ったその絵画を見ていると、知らず、伝い落ちる涙。
絵の中にしかいない大切な人々。改めて、悲しみが胸を穿つ。
絵心師であるフィレルならば、自分と同じように、彼らを絵から取り出すことが出来るのだろう。しかしそれはあってはならないことだから。そうしたい、という強い望みを胸の内に押し込めて、フィラ・フィアは前を向く。
「大丈夫、わたしは大丈夫よ……」
言い聞かせるように何度も口にした。
はじまりの地。並ぶ七つの絵画。その中でたったひとつだけ、一部が異様に白くなっている絵がある。そこから自分は出てきたのだ。そして長い旅は始まったのだ。
「わたし……終わらせるから」
呟き、決意を新たにして。
フィラ・フィアはリフィアに言われた部屋へ向かう。
その後ろを、ネーヴェではない蝶王が無言でついていった。
◇
久しぶりに戻ってきた自分の部屋、懐かしい、いつもの部屋。フィレルは窓から差し込む月の光を、膝の上に愛用のキャンバスを載せながらぼんやりと眺めていた。
月明かりの中、照らされたキャンバス。開けっぱなしの窓から吹き込む風が、紙をぱらぱらとめくっていく。
描かれているのは旅の景色。リノヴェルカの白亜の神殿や初めて見た海、災厄の島のおどろおどろしい雰囲気、そして花の都ウィナフの反映した景色。様々な場所を旅してきた。キャンバスにはそういった思い出が詰まっている。
「封印が終わったら……旅も終わっちゃうのかぁ」
呟いた。それは少し、寂しい気がした。初めて見た様々な景色。旅は心から楽しいものだったから。
旅ばかりしているイルキスを思う。彼は何度もこのような光景を見て、感動してきたのだろうか。
「封神の旅が終わったら……もっと色々なところに行ってみたいよ」
今度こそ、何にも追われることなく。
外へ出ることに対して恐怖を抱く兄を誘って、ロアと一緒に三人で。いや、リフィアやイルキス、レイド、フィラ・フィアも誘ってみんなで。ただ当てもなく、様々なところを冒険してみたい。
そんな日が来ればいい。心からそう思う。
だから。その夢を叶える為に、誰も失ってはならない。
「僕……強くなったんだ。だから、頑張るよ!」
ぐっと拳を握ったフィレルを、淡い月明かりが照らしていた。
◇
「思えば随分遠いところまで来たねぇ」
城の中庭をぼんやりと散歩しながらも、イルキスは呟いた。
「ったく、ぼくってばとんだお人好しだよ。結局、最終決戦までついてきてしまったじゃあないか。昔のぼくならば考えられないことだったよね」
気紛れにフィレルたちを助けた。以来、なし崩し的にずっと一緒にいる。
イルキスに神々を封じる義務なんてない。いなくなろうと思えばいなくなったっていいのに、フィレルたちと時を過ごせば過ごすほどそんな気持ちは薄れていって、思考の端に上ることすらもなくなっていた。
「全て終わったら……兄さんになんて話そうかな」
呟く。
イルキスには双子の兄がいる。自分にも他人にも厳しいくせに、唯一、イルキスにだけは甘い兄が。彼は昔、イルキスを守って大怪我を負ってしまったがために、外へ出ることが出来なくなった。外へ出ることが出来なくなった、という点、弟に甘いという点に於いてはファレルと同じだが、彼はファレルのように温厚な性格ではない。
「土産話、たくさんあるんだ。また会える日が楽しみだ」
月を見上げた。今、遠いロルヴァの町でも、兄が同じ月を眺めているのだろうか。
遠く離れた場所にいても、空に月があることは変わらないから。
「運命神《ファーテ》よ……ぼくに加護をくれるかな?」
呟き、小さく祈る。
全てが終わったら、再会できますようにと。
◇
こうしてそれぞれの夜は過ぎる。祈り、願い、決意を新たにして。フィレルたちは究極の敵に臨むのだ。
穏やかな時間はあっという間に過ぎていく。苦しい時間ほど長く感じる。
けれど、戦いの果てに、幸福な時間があると知っているから。また大切な人々に会えると、知っているから。
だからこそ、それを得るために戦うのだ。それがあるから頑張れる。
決戦前夜。穏やかだがどこか張り詰めた空気が、イグニシィン城の中を流れていた。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.73 )
- 日時: 2020/07/13 09:21
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
翌朝。朝食の席に揃った一同。これが戦いの前、皆で食べる最後のご飯だ。特に話すこともなく、黙々と食べ終わった。
イグニシィン城から出る時、ファレルが声を掛けた。
「約束しておくれよ。死なないと。僕はもう……家族を失いたくはないんだからね」
「うん! 約束、するよ!」
頷いたフィレル。
そして一行は、戦神の神殿へと向かう。
◇
「戦神の神殿は、わたしが一番よくわかってる」
フィラ・フィアが指し示したその場所は、幼い頃、フィレルとロアがよく一緒に遊んでいた森だった。フィレルは思い出す。遠い日の夏のことだった。ロアと一緒に遊んでいたら、突如目の前に、謎の建物が現れたこと。そしてそれからは、とても怖い空気が流れていたこと。嫌な予感を感じて、慌てて逃げ出したこと。それ以来、森で遊ぶのはやめたのだ。あれには絶対に近づいてはならないと、本能が告げていた。
今、歩いているのはその森だった。いつかのあの森だった。あの日見た恐怖が、得体の知れない嫌な予感が背筋を這い上がる。だがもう、あの日のように逃げ出そうとは思えなかった。それが倒すべき相手であるならば、怖がってはいられない。
誰も立ち入らなくなった森の中を無言で歩く。一歩一歩が重く感じた。この先にあるのは戦神の神殿なのだ。だがそんな空気を、しゃん、しゃん、と鳴るフィラ・フィアの錫杖の鈴が打ち消していく。彼女の鈴の音が、心を落ち着かせてくれる。
そうやってしばらく歩いただろうか。深い森の奥、一部だけ木がなくなって、光が差している場所があった。そこにそれがあった。
あちこち苔むして、ひび割ればかりの建物。感じる禍々しい気配。戦神の神殿だ。
今はもう、人を捧げる儀式は行われなくなったらしい。しかし過去の儀式の痕なのだろうか、苔むした石の奥、確かに見える赤錆色。あれは遠い昔、戦神に捧げられた生贄の血の痕だ。
長い時を経て、苔に覆われて。その神殿は、どこか荘厳で神秘的な空気をたたえていた。
「行くわよ」
覚悟を決めたフィラ・フィアが先立って歩き出す。
まるで地獄の底へ案内するかのような真っ暗な入口。その最初の石を、フィラ・フィアのサンダルがかつんと叩いた。
◇
かつん、かつん。それぞれの足音が鳴る。暗い神殿を無言で進む。聞こえる音は足音とどこからか流れる水音、フィラ・フィアの錫杖の鈴の音だけ。神殿はところどころが崩壊しており、そこから外の光が見えた。神殿の中に目を凝らせば、人間の骸骨や衣服、武器の残骸が転がっているのが時折見えた。
何も話すことが出来ない。重苦しい空気は、進むにつれて深くなっていく。
やがて、辿り着いた大きな広間に、
“それ”はいた。
頭から血を被ったような、赤いボサボサの髪。血のように赤い瞳。漆黒のマントに、幾重にも交差する漆黒のベルト。深紅のマフラーが、風もないのに揺れる。その男の傍では、翼の生えた純白の獅子が羽ばたいている。
フィラ・フィアらを見て、“それ”の口が、動く。
「再び来たか、人間よ」
遠い昔のあの日と、同じように。
放たれた声は低く響く。
フィレルはキャンバスを用意し、絵筆を構えた。その隣でロアが剣を引き抜き、イルキスが魔法を唱える準備をし、蝶王が相手を鋭く睨みつける。
大きく息を吸い込んで、錫杖を構えながら、フィラ・フィアは言った。
「戦神、ゼウデラ」
その声は震えることはない。旅の中、様々なトラウマを乗り越えた彼女はもう弱くはない。
「わたしはあなたを、封じに来た」
くつくつと面白そうに戦神は笑う。
「何度来たって結果は同じだ。人間が神に勝てるわけがない。幾らお前たちが蘇ろうと、我を倒せるなどとは思うなよ?」
「思うわッ!」
叫ぶ。これまでの旅で得てきた全てを声に乗せて。
「わたしはもう違う、シルークの死に振り回されてきたわたしではないの。わたしは変わったわ、ゼウデラ。そして今度こそ——」
構えた錫杖が、しゃん、とひときわ澄み渡った音を鳴らす。
「おまえを、封じるッ!」
そして彼女は舞い始める。朽ち果てた神殿の中、天井から差し込む光の中で舞う彼女の姿は神のようでもあった。『崇高たる舞神』。いつか人は彼女のことをそう呼んだが、今の彼女はその二つ名にも負けず劣らずの神聖さだった。
戦神は、吼えた。
「何度舞おうが同じことッ! 行けアウラ、神の偉さを思い知らせてやるが良いッ!」
彼の声に応じ、白獅子アウラが跳躍、舞うフィラ・フィアに迫る。
「させるか戦神ッ!」
金属音。飛んできた爪をロアが悠々と弾く。その後ろから、
「僕だって……戦えるんだぁーっ!」
服の中から取り出した剣を片手にフィレルが跳躍、戦神に迫る。宙に浮いている戦神に、フィレルの剣は届かない。だがそこへイルキスの風。風はフィレルの身体を押し上げて、戦神へその剣を届かせる。
「やるなッ! 確かに強くなった。考えるようにもなった! だが……神の力、舐めてくれるなッ!」
戦神の取り出した漆黒の剣がフィレルを弾く。転がされたフィレルを追撃するかのように迫った白獅子。だが、させまいとばかりにロアの剣がそれを防ぐ。
かつての戦いで、戦神は剣を抜かなかった。彼は長槍しか使わなかった。彼にとって、剣は本気を出す時以外は使わない武器なのだ。その剣を使ったということは。
フィレルも本気だが、戦神も今、本気を出しているということなのだ。つまり、それぐらい、戦神が本気を出さなければならなくなった程に、フィレルたちは強くなったという証。
「フィレル、受け取りなさい!」
イルキスが寄越したのは、風の魔法で編まれた翼。これがあれば空を飛ぶ相手とも対等に戦える。翼を操るのはイルキスなので、フィレルの運命は全てイルキスに掛かっていることになるが。
フィレルはイルキスを見た。イルキスの瞳が真摯な輝きを帯びる。任せてくれ、信じてくれとその瞳は訴える。フィレルは頷き、
跳躍。戦神になんとかその刃を届かせんと腕を振る。追風。イルキスの風がフィレルを運ぶ。高いところ、宙に浮かぶ戦神へ。フィレルの瞳に迷いはない、恐怖もない、躊躇いも諦めも一切ない。握った刃はただ、相手を切り裂くためだけに。
誰ひとり欠けさせないで、帰り着くと誓った。だから、その約束を守るために。
フィレルの振るった刃。戦神が回避動作を見せる。イルキスの風による強化を受けて、防御できないような勢いがその刃には込められていた。ぎらり、輝く緑の瞳はいつか、仲間たちを逃がして命を散らしたレ・ラウィの、あの日の瞳と同じものだった。フィレルは確かに、英雄の子孫だった。
回避する戦神に追撃。服から取り出したもう一本の剣が相手の逃げ場所を奪う。確かに感じた手ごたえ。斬撃。見えたのは、戦神の身体に刻まれた確かな傷。
「やりおるなッ! 人間風情がッ!」
戦神の手に生み出された赤黒い魔力。感じたのは嫌な予感。
「イルキス!」
声を掛ければ、その身体は引き戻される。先程までフィレルのいた場所に、赤黒い長槍が突き立っていた。それはいつしか、シルークとフィラ。フィアの命を奪ったものだった。だが、同じ轍は踏まない!
重なり合う心が、確かな信頼によってつながった想いが、最悪の未来を回避する。
フィレルは見る。風の翼を操るのに精いっぱいだったイルキスに迫る、白獅子の尾を。ロアはフィラ・フィアに迫る爪を防ぐので手一杯でイルキスを守れない。だが、今フィレルは地上に降りている。フィレルならば、死の一撃を防ぐことができる。
「させないって、っば!」
様々な事態を想定し、服の中に仕込んだ数多の武器。その中に飛び道具がないわけではない。
緑に輝く手が取りだしたのは、淡く輝く一本の槍。
「とど——けぇぇぇーッ!」
勢いよく投げられたそれは、すんでのところでイルキスの命を繋ぎ止める。蝶王が翼をはばたかせた。彼の周囲で白い魔法陣が幾重にも浮かび、光を散らす。
「絵心師! ここは我に任せて、お前は戦神を!」
白い魔法陣から生み出されたのは光条。幾重にも交差しながらそれは、白獅子の身体を貫いた。白獅子が苦鳴の声を上げ、蝶王に向かっていく。させんとばかりにロアの剣が割って入る。
ロアの視線とフィレルの視線が交錯した。フィレルはロアの瞳から言いたいことを悟り、イルキスに頷いて再び、
跳躍。三度目の空。迎え撃つ戦神。直接攻撃しても回避され、反撃されるだけだと理解する。だからあえて剣を構えず、
「馬鹿か? 自殺する気か人間ッ!」
相手の剣の中、自らその身を飛びこませる。相手の剣がフィレルの身を切り裂くが、その瞬間、確かに生まれた隙を突く。肉を切らせて骨を断つ。古典的な戦い方だが、最も効果のある戦い方でもある。
相手に腹を刺されながらも、フィレルはその剣をさらに深く、自分の中に押し込んだ。
「何ッ!?」
初めて聞いた、戦神の焦った声。
フィレルと戦神の距離が、ゼロになる。苦痛に顔を歪めながらも、フィレルは握った双つの剣で相手を切り裂いた——深く、深く。
そしてフィレルは相手の身体を蹴り飛ばして自分に刺さった剣を抜く。傷口から溢れる血、急速に冷えていく身体、感じた死の予感。それでも、相手の負った傷も尋常の傷ではない。戦神は宙でよろけていた。押え切れない傷口から、どくどくと溢れだすは戦神の血。三千年前は傷ひとつつけられなかった戦神が、今、血を流してよろけている。
蒼白になっていくフィレルの顔。イルキスが彼を降ろして傷の治療をしようとしたその瞬間、
「封じられなさい!」
凛、とした声がひとつ。
振り向いたそこでは虹色の鎖が完成し、希望の王女の周囲を取り巻いていた。
裂帛の声が、これまで抱えてきた全てを乗せた声が、その喉の奥から放たれる。
「わたしたちは、人間だけの世界をこの地上に作るんだから! 戦神——ゼウデラッ!」
逃れられない。大きな傷を負った戦神は、その顔に笑みを浮かべてフィラ・フィアを見た。
「そうか……これが、人間の力だと……言うのか」
満足げに放たれた言葉を最後に。
虹色の鎖が巻きついていく。封じの鎖は白獅子アウラだって逃しはしない。
爆発するような光が、溢れて。
次の瞬間、そこにあったのは、
ゼウデラの形をしたガーネットと、白獅子ラウラの形をした水晶だった。
終わったのだ、と悟る。最大の敵の封印は、終わったのだ。
くずおれるフィレル、駆け寄った仲間たち。負った傷は深かったが、
「天の神アンダルシャに願うなり! 我、我らが蝶を天に捧げん!」
蝶王が詠唱を口にした瞬間、その傷はみるみるうちに塞がっていった。
しかし代わりのように、薄れゆく蝶王の姿。
「蝶王さま……もしかして」
フィレルは悟る。
代償なしに、傷を完治させる魔法など存在しないのだ。そして蝶王がフィレルを直す代わりに払った代償は、
「そうだ、我の命だ!」
叫んだ蝶王は、どこか誇らしげだった。
「悲しむな絵心師よ! 我は伝説の生まれる瞬間に立ち会えた。それだけで十分満足なのだ! それにな、我は蝶王、何度も生まれ変わりを繰り返す普遍の存在なのだ。だから……」
いつかまた会おう、そう最期に言い残し、蝶王の姿は消えていった。無数の小さな蝶となって砕けて、神殿から差し込む光の中に溶けていった。
「……ありがとう」
呟き、立ち上がる。
フィレルは皆を見た。フィラ・フィアは涙をこぼしていた。
「みんな……わたしは、出来たよ……!」
三千年の昔、この地で彼女たちは死んだ。その無念が、長い時を経てついに晴らされたのだ。
瞳に光る涙は、とても綺麗な色をしていた。
そしてフィレルたちは神殿を出る。ゼウデラを封じたからと言って、全ての旅が終わったわけではない。
最後に残された神、生死の境を破壊する闇、アークロア。その名前が、不吉な響きを帯びてフィレルたちに重くのしかかっていた。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.74 )
- 日時: 2020/07/17 12:10
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
【十一章 握った絵筆に魂を込めて】
「やあ、久し振りだね」
神殿を出たところで、冷たい霧の気配。霧の向こう、忌々しい影と出会った。
白の、ボサボサの長髪、冷たく澄みきった印象を与える蜜色の瞳。白のローブを身に纏い、足には白のサンダルを履いた青年。
ロアの記憶を握る者、霧の神セインリエス。
嫌な予感が吹き荒れる。決して出会ってはならない存在と、ぶつかってしまったような気がする。
セインリエスの唇が、動いた。
「ありがとう。君たちのお陰で邪魔な戦神は排除された。後は私が好きに出来る! やっとだ、やっと! 私の世界が幕を開ける!」
セインリエスは笑う。心底、楽しそうに。
「なぁ、私を……殺しておくれよっ!」
放たれた霧の刃。容赦なく。真っ先に対応したのはロアだった。させるかとばかりに弾く。霧の神はうすら笑いを浮かべた。
「そうだよ、そうだよ。私はねぇ、ロア。君と戦いたかったんだッ!」
勝手に斬られた戦いの火蓋。最悪の予感がフィレルの中を動き回る。
まずい、と本能的に思った。この男とロアを戦わせてはいけない、とフィレルの心が必死で叫ぶ。しかし戦神との戦いで疲れ果てたフィレルには、ただ戦いを見ていることしか出来なくて。
「ぼくだって……まだ戦えるさッ!」
イルキスが風を吹かせて霧を吹き払う。その向こう、見えた霧の神。ロアは目をぎらつかせ、その身体に向かって刃を叩き込んだ。
ごぼり、溢れた血。防げたはずなのに、霧の神は防がなかった。
「……どうして防がなかった」
問うたロアに、霧の神は歪んだ笑みを浮かべた。
「だって私は……言っただろう? 殺しておくれよ、と」
話をしようか、と彼は言う。
語られたのは、遠い悲劇の物語だった。
昔、彼は傲慢だった。彼はその傲慢さによって一番上の兄に酷い怪我を負わせ、二番目の兄の怒りを買って、神の力を奪われ人間同然にされた上で地上に追放された。
本来ならば、そのまま野垂れ死ぬはずだった。だがそんな彼を救った人物がいた。
機織りの娘ティア。彼女に救われ、その優しさに触れるうち、彼の心の氷は融けていった。
ある日、彼女が危機に陥った時、彼は彼女を守った。その瞬間、彼の追放は解け、神としての力を取り戻した彼は天界へ帰還、兄神たちと和解するが、天界にて発覚した事実。彼女は重い病を背負っており、もうほとんど生きられないこと。彼は彼女の最後の願いを叶える為に地上に降り、極北の地の極光を見せてやったが彼女はそのまま死んでしまった。
霧の神は言う。
「彼女が死んで以来、私の心は凍ったままだ。だから私は……殺してもらいたかったのさ」
そこまで言って、彼は盛大に血を吐きだした。命の終わりが、近い。
その顔が、孤独に歪んだ霧の神の顔が、ぐしゃりと歪な笑みを作った。
「そして! ただ死ぬだけなんてつまらないだろう! だから私は置き土産をすることにしたんだ……」
その蜜色の瞳は、ロアを見ていた。狂ったような輝きがロアを射抜く。
霧の神は、笑っていた。嗤っていた。嘲笑《わら》っていた。ただ、どこまでも可笑しそうに、わらっていた。
「さようなら地上! 私はあの子に会いに行くんだ! さようなら哀れな人形たちよ! 全ての記憶を君に返そう。そしてその記憶に狂うが良い!」
「やめろぉぉぉーッ!」
叫び、飛びつこうとしたがもう遅い。霧の神の身体は砕け散り、そこから溢れた霧が、ロアを包み込んだ。フィレルはただ、それを見ていることしか出来なかった。
霧が晴れた時、そこにいたのはロアだった。だが、それはロアであってロアではない存在だった。
「思い出した……」
漏れたのは、絶望に染まった声。
「ノア……闇神ヴァイルハイネン……古代文字……ああ、オレはッ!」
「駄目だよロアぁっ!」
叫んでも、その声は届かない。
呆然と立ち尽くすロアの周囲から闇が溢れて、ロアの全身を覆い尽くしていく。その闇の深さは、神にも匹敵するものだった。
——神?
はっとなる。
「そうよ」
フィラ・フィアの声が、凛、と響く。
彼女は悲しみを心の底に押し殺したような顔をしていた。
その錫杖が、ロアに向けられる。仲間である、ロアに。
まるで、彼が、敵であるかのように。
「ロアは」
闇が晴れた時、そこにいたのは完全に、ロアではないモノだった。
深い闇と絶望を宿した漆黒のソレの正体を、フィラ・フィアは暴く。
「生死の境を暴く闇、アークロア——それこそが、ロアの正体だったのよ」
思わず、嘘だ、と呟いた。
言葉が、出なかった。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.75 )
- 日時: 2020/07/21 11:45
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
「フィラ・フィアは……いつからわかっていたの?」
フィレルの問いに、悲しみを噛み殺すような顔をしながらもフィラ・フィアが言う。
「フォルトゥーン戦からよ。ロアが死者蘇生について言及した。その時、全てのピースが繋がったの」
「オレは……失ったノアを蘇らせる、ためにッ!」
まだ辛うじて正気を保っているロアが、ぎらつく瞳で答える。
「生死の境を……破壊……しようと……ッ!」
だからこそあの発言。ロアが古代文字を読めたのも、彼が昔に誕生した神だったからだ。彼が他の神々と繋がりがあるのも……。
全て繋がった先、あったのは残酷すぎる現実。
嘘だ、とフィレルは呟く。縋るような瞳でロアを見た。緑の瞳いっぱいにたたえられたのは、涙。
「ロアはロアだよ、アークロアなんかじゃない! お願いだロア、元に戻って! 僕らと一緒に帰るんでしょ!? ねぇっ!」
不可能だ、とロアは首を振る。その腕が持ち上がり、剣を引き抜きフィレルに向ける。
これまで、絶対に自分を裏切らないと信じていたロアが、自分に剣を向ける。
フィレルは現実に打ちのめされた。
封じろ、と異形の闇の殻を身に纏いながらもロアは言う。
「オレに正気が……残っている、内に!」
剣を握った腕が震えている。だがその黒の瞳は闇に、侵されていく。冒されて——いく。
闇の亜神アークロアは、弟を失ったことにより狂い、死者蘇生の方法を求めて地上を荒らした。アークロアは、弟さえ蘇れば地上がどうなろうと構わなかった。その横暴によって「荒ぶる神」認定を受けたのだ。アークロアには死んだ弟以外に優先すべき存在など、ない。
「ロア、ロア、目を……覚ましてぇっ!」
「無駄よ!」
叫ぶフィレルをフィラ・フィアが制す。
フィラ・フィアの赤い瞳の奥に宿る決意は、一瞬足りとも揺らぐことがなく。
彼女は舞い始める。そんな彼女を倒さんとロアの剣が迫る。フィレルは反射的に受けた。受けたそれは、二人で何度も特訓して、よく知っているロアの剣術。金属音。フィレルはロアの剣を防ぐことは出来たが、どうしてもロアを攻撃することが出来なかった。迷いに剣が滑る。隙が生まれる。ロアはフィレルを無視し、フィラ・フィアの無防備な胴体に一撃を叩き込、
「させないよッ!」
烈風。イルキスの生み出した風が辛うじてロアの剣筋を逸らす。
フィレルたちに剣を向けながらも、ロアは懇願するように叫んだ。
「フィレルッ!」
瞳から流れ出した涙は血の色をしていた。
「お前に心があるというのなら、オレをオレのままでいさせてくれ。オレがアークロアに完全になり果てる前にッ! オレを止めてくれ封じてくれッ!」
その瞳から急速に失われていく正気。振るわれる剣に、明確な殺意が宿っていく。“ロア”が失われ、“アークロア”が彼の中に広がっていく。
失いたくない、ずっと一緒にいたい、と誰よりも強く思い、願った人だった。そんなロアが、大切な人が、フィレルが初めて本気を出す原因を作った人が、失われていく。いなくなっていく。闇に溶けて、消えていく。
心の中、広がっていくのは絶望。果てしなく。
どうすれば良いというのだろう。誰よりもずっと一緒にいた人が、封じなければならない人だっただなんて。
「きゃあっ!」
悲鳴。ロアの闇に吹き飛ばされたフィラ・フィアが宙を舞う。そのまま地面に叩きつけられた彼女は身動きをしない。それを見ても、凍りついたように身体は動かない。
希望の子フィラ・フィア。彼女が死んだら、この長い旅の全ては意味のないものになるのに。
わかっているのに、動けなかった。ただロアだったモノを、見ていることしか出来なかった。
しっかりしなさい、とイルキスが叫びを上げる。
「フィレルッ! もうあいつはロアじゃないんだ、倒すべき相手なんだよ!? 呆けている場合じゃないッ!」
そんなイルキスに迫る刃。魔法専門の彼に、剣をかわす反射神経なんてない。斬撃。盛大に血飛沫を上げて倒れるイルキス。それでも身体は動かない。動けない。
気が付いたら、フィレルはロアと二人きりになっていた。完全にアークロアとなったその瞳が、無感情にフィレルを見つめる。その剣が持ち上げられ、無防備なフィレルに振るわれ——
「……わかったよ、ロア」
なかった。
すんでのところでロアの剣は、フィレルの剣に受け止められていた。
泣きそうな顔で、フィレルは剣を構えた。瞳に宿るのは静かな決意。
「ロアの悪夢は僕が終わらせるよ。僕しかいないんだ、僕しかいないんだろ。なら……」
叫んだ。あまりにも残酷な運命に対し、叫んだ。
「——僕がやるしか、ないじゃないかッ!」
迷いはない、惑いはない。目の前にいるのがアークロアであるならば、ただ封じればいいだけ。しかし封じの王女はもう動けない。だが、封じる手段は一つしかないわけじゃない。
フィレルの手が神速で動く。肩に掛けたキャンバスに、ひとつの絵を描き出す。神のごとき早業で、一枚の絵が仕上がっていく。描かれたそれは、
一本の槍。
遠い昔、ある英雄が、神を封じるために作ったという伝説の武器。神封じの槍ヴェルムヴェルテ。
フィレルの手が翠に輝き、キャンバスに触れる。描かれた絵が引き出される。長い時を経て再現された神封じの槍は、ぴったりとフィレルの手に収まった。
フィレルは泣きながらそれをロアに、否、ロアだったモノに、アークロアに、向ける。
思いのたけをぶっつけた。
「ロア、ロア! 僕はさ……ロアのこと、大好きだよっ!」
泣いて叫んでひたすらに泣いて。それでもフィレルはもう折れない。
輝く緑の瞳には、強い強い覚悟の光が灯っていた。
「だからさ——ロア」
槍を構え、ロアに向かいながらも言葉を紡ぐ。
「——もう苦しまなくっても、いいんだよッ!」
一閃。閃いた槍の先。防がれる。勢いのまま突き進み反撃を回避。ロアの動きを見る。見慣れた動き、見慣れた剣術。何度も何度も試合《しあ》ったがために、誰よりもよくわかっているその動き。
狙い澄まし、槍を放つ。今この瞬間しかない、というタイミングで放たれた神封じの槍は、
「フィ……レ……ル」
最期に漏れた声。
槍は的確にアークロアの胸を貫いていた。その胸から鮮血が溢れ、溢れるそばから結晶化していく。その様は美しかったが、同時に永遠の喪失を表してもいた。
そしてその瞬間だけ、戻った正気。
ロアは、笑った。アークロアなんかじゃなくて、ロアの顔で。
最高に綺麗な、笑顔で。
血まみれの唇が紡ぎだした言葉。
「終わらせてくれて……ありがと……な……」
紫色の光が弾けた。フィレルは目を灼くような光の中でも目を閉じず、最後までロアを見届けていた。ロアの身体が結晶に覆われていき、ロアの形をした紫水晶になるのを見届けていた。ロアは紫水晶に完全に覆われて、もう二度と動くことはない。
「あ、ああ……」
地に膝をつく。漏れたのは、慟哭。
こんな悲しみを、これまで味わったことなんて、なかった。
目の前の無機質な結晶が、フィレルに残酷な現実を突き付ける。
ロアはもういない。
クールで格好良くて、文句を言いながらも結局いつもフィレルを守ってくれたロアは。
もう、いない。
もう、いないのだ——。
フィレルの胸の中で、何かが砕けて散った。代わりに生まれたのは喪失感。果てのない闇のようなそれがフィレルを覆い尽くし、思わず自分を見失い掛けた、時。
しゃん、と澄み渡った音がした。
凛、とした声が響く。
「——ここに全ての荒ぶる神々は封じられた。わたしたちの使命は、成ったのよ」
振り返れば。錫杖により掛かるようにして辛うじて立っている、満足げな表情のフィラ・フィアがいた。
彼女はフィレルに頭を下げた。
「ありがとうフィレル。あなたのお陰で——」
「……ふざけるな」
フィラ・フィアの言葉を遮ったフィレルの瞳は、激しい怒りに燃えていた。
フィレルは憎悪の言葉を叩きつける。
「お前のせいで……お前の旅につきあったせいで、ロアは、ロアは……ッ!」
「その原因を作ったのはあなたでしょう、フィレル。わたしはずっと眠っているはずだったのに」
言い返されて、押し黙る。やりきれない思いが、その心を支配していた。
誰も悪い人なんていなかった。この悲劇は、起こるべくして起こったのだ。
フィレルは紫水晶になったロアを見る。改めて、もうロアはいないのだと思い知って、
「ロア……ロアぁ……ッ!」
溢れだす涙が、止まらなかった。
フィレルは紫水晶に駆け寄って、その拳で殴った。何度も、何度も。拳が切れて血が出ても、何度も殴り続けた。そうすれば紫水晶が割れて、ロアが戻ってくるとでも思っているかのように。それが無理だとわかったフィレルは、地面に膝をついてただひたすらに泣き続けた。
「……喪失の痛みは、誰よりもわかっているわ」
その背に、静かにフィラ・フィアが声を掛けた。
彼女は優しい声音で、言う。
「とりあえず、今は泣きなさい。泣いて泣いて泣いて——自分が空っぽになるまで泣いたら、いつか時がその空白を、その喪失感を、埋めてくれるから」
痛ましげな表情をして、フィラ・フィアはそっと両手を組む。
まるで祈るかのように。
◇
「……さようなら、ロア」
それから、どれだけ時が経ったろう。
ひたすらに泣いてようやく激情の静まったフィレルは、紫水晶に声を掛ける。
「今まで本当にありがとう。僕……ロアのこと、忘れない。絶対に忘れられない」
紫水晶は、沈黙したままだけれど。
フィレルは静かに決意を述べる、覚悟を述べる。
「僕……立ち直るから。悲しみに停滞なんて、しないから」
だから、と紫水晶を愛おしげに撫でた。
「……安心して、眠ってね!」
その緑の瞳からは、何も知らなかった頃のような無邪気さは消えていた。
もうフィレルはこれまでのフィレルではない。悲しみを知らなかったあの頃には、戻れない。
瞳に灯った炎は、燃え上がる強い想いの証。
大切な人の喪失を経て、涙の代わりに空白を抱えて、フィレルはようやく英雄の顔になった。
「……帰ろう、みんな」
言って、返事も待たずにその場を去る。
彼はもう、振り返らなかった。
その背中には、海の底よりも深い悲しみがあった。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.76 )
- 日時: 2020/07/24 00:02
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: eso4ou16)
【終話 魂込めのフィレル】
傷ついたイルキスとフィラ・フィアを連れ、虚ろな思いを抱えて城へと戻る。戻った後のことは覚えていない。ただひたすらに泣いて叫んで、意識を失っていた。
そして巡る朝。ロアが自分を起こす声が聞こえない。そうだ、ロアはもういないんだとわかって沈んだ気持ち。
あの後、ファレルとは何度も話した。約束、したのに。大切な家族の一員は、欠けてしまった。ぽっかりと胸に空いたこの穴は、そう簡単に埋まることはないだろう。
いつもの城、いつもの食卓。長かった封神の旅を終えて、日常が戻ってくる。だが、何かが足りない。いつもそこにあったはずの「ロア」というピースが足りない。それだけで、ただそれだけでこんなにも違うのかと思った。失ってから初めてわかる、その人の大切さ。ロアは失ってはならない人だった。
フィレルは笑わなくなった。笑い方を忘れてしまった。ただ、虚ろに日々を過ごすだけになった。
イルキスは怪我を治したあとで故郷に帰り、帰る場所のないフィラ・フィアはイグニシィンの養女となった。沈んでばかりのフィレルをファレルは心配したが、「時が過ぎれば元に戻るから」とフィラ・フィアは必要以上に関わることはしなかった。
フィレルは思う。朝起きれば、今でもロアがいるような気がする。「寝ぼすけめ」と笑っているような気がする。いつもみたいに、いつもみたいに。
停滞はしない、いつかは動く。あの日、そうロアに誓ったけれど。空白を抱えた心はそう簡単に、再び動き出すことは出来なかった。
そして、過去に一度喪失感を経験し乗り越えたことのあるファレルとフィラ・フィアはロアの死からも立ち直ることが出来たけれど、初めてといっても過言ではない喪失を経験したフィレルは、そこまで強くはなれなかった。
フィレルは、ロアの部屋の方を見ながら、思うのだ。
——ロア、ロア。
何処にいるの?
僕とまた話してよ。僕はまた会いたいよ。
そんな呟きも嘆きも、ただ壁に吸い込まれるだけ。
◇
いつか、ロアがいない現実も、当たり前だと思えるようになってきた。
いつか、ロアがいない風景にも慣れてきた。
心の底の空白は、いまだ消えることはないけれど。喪失の痛みはいまだ、激しく心を苛み続けるけれど。
——それから、二年。
かつてのロアと同じ十七歳になり、フィレルは悲しみの幻影と立ち向かうことを決意した。
◇
二年ぶりに訪れた、あの暗い森。いつかセインリエスと、ロアと戦ったあの場所には、変わらぬ紫水晶があの時のままにそこにあった。
凍りついた時間。積もった埃が、時が経ったことを示している。
願いを込めて、絵を描いた。魂を込めて、絵を描いた。
それを実体化させることは、ないけれど。再び禁忌を犯す気は、ないけれど。
描いたそれは、ロアの顔。ただどこまでも明るく笑う、大切な人の顔。
「ありがとう、ロア。そしてさようなら。僕はもう、ロアがいなくてもやっていけるから」
呟いて、これまでの思い出の詰まったキャンバスをその場に置く。一番上にはロアの顔。
「……またね」
フィレルは来た道を去っていく。
似顔絵の中のロアの顔が、不敵な笑みを浮かべたのは、気のせいだったのだろうか。
◇
「あーあ、退屈だなぁ」
フィレルはうーんと伸びをした。
長い冒険が終わり、戻ってきたいつも通りの日々。それはあの冒険の日々に比べれば、あまりにも退屈で。
「そーだ、ロルヴァに行こう!」
思い立ち、みんなに話すためにお城の中を駆け回る。
ロルヴァ。それはイルキスの故郷。いつでも歓迎すると、彼は言っていた。
まだ行ったことのない町だ。そこに行けば、また面白いものが見つかるだろうか?
目を輝かせてフィレルは走る。その肩には、新しいキャンバスが下がっていた。
あの冒険の日々を描いたキャンバスは、悲しみと一緒にあの場所に置いていったのだ。これから始まる新しい日々に、過去の思い出なんて似合わない。
喪失感を乗り越えて、少年は前へ進む。
悲しみを乗り越えて、彼はまたひとつ強くなる。
その瞳に涙はあれど、彼はもう迷わない、惑わない。
握った絵筆に魂を込めて、描いた絵を取り出して色々と応用しながら、そして彼は生きていく。
暖かな日差しが、そんな彼を祝福するかのように降り注いでいた。
——僕はもう、一人でも。
——生きていけるよ。
◇
【魂込めのフィレル 完】
【読んでいただき、ありがとうございました!】