複雑・ファジー小説
- Re: 魂込めのフィレル ( No.71 )
- 日時: 2020/07/08 01:34
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: 3edphfcO)
ウィナフの町を出て次の町へ。フィレルたちの顔は引き締まっていた。
「……最初から、知っていたの?」
フィレルの問いに、ええ、とフィラ・フィアは頷いた。
「今の時代の地図を渡された時から、もうわかっていたわ。ゼウデラは強い神様、一筋縄ではいかない相手。それはわたしが一番よくわかってる。でも……もしも旅の最初にそれを知ったとして、あなたたちは平静でいられる? 隠したのはわたしなりの判断よ。今でもそれが、間違いだとは思えない」
うん、とフィレルは頷いた。
確かに旅の最初にゼウデラがイグニシィンにいると知ったら、責任感の強いロアなんか、真っ先にゼウデラを封じると言うに決まっている。その果てに全滅して結局何も果たせずに終わる未来なんて、容易に想像できる。そんな悲劇を起こさないために、フィラ・フィアは一人でその秘密を抱えてきたのだ。
「イグニシィンに帰る時は、全部終わってからにしようって決めてたんだけどなぁ」
思わずぼやいた。
フィレルは今いるメンバーを思う。自分とロアとフィラ・フィアと、イルキスと蝶王。旅の最初に比べれば増えた仲間こそいるものの、欠けた仲間なんて存在しない。
「誰一人欠けさせないで帰り着く」フィレルが兄ファレルとした約束は、果たせそうである。
「兄さん、元気かな?」
今はただ、それだけが心配だ。
様々な思いを抱え、フィレルたちは歩き出す。ロアは先程から黙ったままで、何も話してはくれない。
終わりの時は間近に迫っていた。
◇
何か月ぶりなのだろうか。
フィレルの足は、懐かしい町の地面を踏んだ。
石畳で舗装されてはいるものの、ところどころでこぼこな道。町の奥に建つ、あちこちぼろぼろの大きなお城。最初は逃げながらこの町を出たのだな、と思いを馳せる。リフィアとレイドの話から兄は無事だとはわかってはいるものの、会いたくてたまらなかった。
「イルキス、蝶王さま! ここがね、僕の生まれ育った町なんだよぅ?」
笑いながら、誇らしげに二人に紹介する。
イルキスは穏やかな笑みを浮かべた。
「ふふ、ウィナフのような活気はないけれど、穏やかでいい町だね」
「でしょでしょー?」
町を歩いていたら、掛けられた声。
「あれは……まさかのフィレルさまにロアさま!?」
「お帰りなさいませー!」
いつも遊んでいた町の人々が声を掛けてくる。その全てに、ただいまとフィレルは返した。
改めて、実感する。ここは自分の帰るべき場所だと。
こんなに大好きな町に戦神がいる。何としてでも封じなければならない。
そうやって歩き、城の前にたどり着く。城の前には人形がいた。レイドの残した人形だろうと思い名を名乗り挨拶をすると、すっと通してくれた。そのまま進み、入口の大扉を開け放った、
先に。
「……フィレル」
驚いた顔の、兄がいた。
あの日、別れたっきりの大好きな兄が。
「兄さんっ!」
叫んでその胸に飛び込んだ。会いたかった、会いたかったのだ、と溢れだす想いが止まらない。
「……ファレル様」
ロアがすっと膝をつく。
「ロア、只今戻りました」
「ファレル・イグニシィン。お初にお目に掛かるよ」
ロアの隣でイルキスが挨拶をする。
「ぼくはロルヴァの領主イルジェスの双子の弟、イルキス・ウィルクリースト。フィレルたちの旅の仲間だよ。神々の封印はまだ終わってないけれど……ここに戦神ゼウデラがいると、知ったからね。ここに来ることにしたんだ」
「……よろしく、イルキス」
穏やかな笑みをファレルは浮かべる。
フィレルはファレルを見た。久しぶりに見た兄の顔は、どこかやつれているようにも見えた。
「兄さんさ、元気してた? 僕はいつも通りだけど……兄さん、元気ないように見えたの」
僕はいつも通りだよ、とさらりとファレルは返してしまう。
それより、と言葉を繋ぐファレルの青い瞳には、心からの喜びがあった。
「みんな……無事で良かったよ。次が正念場だってことはわかったけれど、長い旅だったし……誰かが、死んでしまうんじゃないかって。ただそれだけが、怖かったんだ」
歓迎しよう、と彼は言った。
「明日にはイグニシィンの神を封じるために発つのだろう? でもね、今夜だけは。レイドとリフィアも帰ってきたんだ。みんなで一緒に、楽しい晩餐会をしようか」
穏やかに笑ったファレル。
久しぶりの、優しい時間が訪れた。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.72 )
- 日時: 2020/07/10 00:24
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: 3edphfcO)
フィレル、ファレル、ロア、フィラ・フィア、蝶王、リフィア、そしてレイド。エイルはもういない。そして新しいメンバーが増え、見覚えのある食卓とは少し変わってしまった食卓。しかしそこに流れる穏やかな時間は、変わらない。
リフィアはフィレル帰還の知らせを聞き、きらきらと目を輝かせていた。
「おっかえりぃ、フィレル! なぁんだ、帰ってくるならもっと早く教えてくれれば良かったのに! ありあわせの材料でしか歓迎の料理作れないじゃないの! まったくもうったら!」
怒っているような口調ではあるが、心底嬉しそうでもあった。
「話は聞いた。本番はこれからだそうだな」
「ああ。この先、何が起こってもおかしくはない。この晩餐会が最後の晩餐になるかも知れない……」
その隣で、ロアとレイドが言葉を交わしあっていた。聞こえる内容は不穏ではあったが、そうなるのも仕方のないことなのかもしれない。
リフィアが即席で作ったそこそこ豪華な料理を食べながら、フィレルは旅の中であった様々な出来事を報告していた。
「でね……ツウェルの町では死者皇ライヴと戦ったの。ウァルファル魔道学院っていうすごい学校の生徒たちと一緒に、ライヴを倒したんだよ! そこで……一緒に来てくれた学院の生徒が死んじゃって。僕は初めて死ぬっていうことを知ったんだけどさ」
楽しいことも悲しいことも。神々を封じる旅の中、本当に様々なことがあった。話が最悪の記憶の遊戯者フラックのこと、封じられた記憶の話になると、ファレルはその顔を固く強張らせた。
「……そうだよ、フィレル。君の最悪の記憶を封じていたのは僕だ。でもそれが仇となったのだね。フィレル、僕を恨むかい? 恨んでもいいんだよ?」
ううん、とフィレルは首を振った。
「僕さ、それは兄さんの優しさから来ているんだって知ってるんだもん。だから怒ってないよぅ」
あの日、思い出させられた記憶。遠い日に両親を失ったあの痛みは、いまだ胸の内でくすぶり続けてはいるけれど。でも、乗り越えられないほどじゃない。もうフィレルは弱くない。この長い旅でした様々な経験が、心の強さをくれたから。
フィラ・フィアを絵から取り出して始まった、神封じの旅。新生風神の旅団。なし崩し的に始まった旅だったけれど、歩んできたその旅路は決して無駄なんかじゃない。
フィレルは同じ食卓についている仲間を見た。ロア、フィラ・フィア、イルキス。それぞれ、様々な場所で自分たちの過去と相対した。くじけそうになることもあったけれど、結果的に乗り越えられた。互いを思うその心が、それぞれの強さに繋がった。
それを改めて、思って。
フィレルはにっこりと笑った。緑の瞳が輝きを帯びる。
「あのね、僕ね、この旅に出て良かったって思ってるの!」
強くなったんだ、色々変わったんだと兄に言うその姿は、確かに旅の最初の頃のフィレルとは違うもの。
「だからさ、兄さんが色々気に病む必要なんて、ないんだよー?」
「……それは良かった」
ファレルもまた、穏やかな笑みを浮かべる。
この穏やかな時間が、永遠に続けばいいのに。
けれどいずれ、晩餐は終わる。
気がつけば、食卓の食べ物は皆、なくなっていた。宴はお開きだ。
ファレルが言った。
「ふふ、今日はよく帰ってきてくれたね。新しいお客さんも楽しめたかな? 僕は三階の部屋に戻るけれど……何かあったら気軽に声を掛けてね。フィレルたちはいつもの部屋だけど……客人たちの部屋はっと。リフィア、適当に案内してくれるかい?」
「了解しましたっ!」
ぴしっとリフィアが礼をする。
こうして一同は、三々五々散っていった。
◇
「……ファレル様」
自分の部屋へ去りゆくファレルを、呼び止める声があった。
ファレルは振り向かずにその名を呼んだ。
「どうしたんだい、ロア」
「……オレは」
混乱したような声でロアが言う。
「何者なのだと、ファレル様は思いますか」
「わからないけれど……知らない方が、いいよ」
振り向いたファレルは、碧い瞳でロアを見た。
「何度も言うけれど、君はイグニシィンのロアであって他の何者でもない。もしも自分の正体を知る機会があったとしても、それを聞いてはいけないよ。話を聞く限り……君は普通の存在ではないようだから。記憶が消えたということは、何かがあったということ。そして余計なことは知らない方がいい」
「オレは……怖いんです」
『ロア』
ファレルは言霊使いの力を、束の間だけ解放した。
『おまえはおまえの記憶に怯えない。これは現実となる』
大切な家族を、安心させるために。
強張っていたロアの身体から、力が抜けた。ロアは深く礼をした。
「ありがとうございます……ファレル様」
「大切な家族なんだ、当然だろう?」
ファレルは優しく笑う。
決戦前夜。それぞれに不安はある。
ならばそれを払拭してやるのが戦わない者の役目だと、ファレルは思う。
◇
城の正面階段の向こう、階段が左右に分かれる位置にある回廊には、封神の七雄たちを描いた絵画が飾ってある。それらをひとつひとつ愛《いと》おしむ様に撫でながら、フィラ・フィアは呟いた。
「エルステッド……シルーク……ヴィンセント……レ・ラウィ……ユーリオにユレイオ……」
もうすぐだ、もうすぐで。三千年前にやり残した封印を、完遂させることができる。戦神ゼウデラ、自分の死ぬ原因となった神を封じれば、残る神は一体だけ。
かつては果たせなかった使命が。
三千年の時を経て、完遂されようとしている。
そんな彼女の隣に、そっと寄り添う影がいた。どこまでも白いその姿は、
「シルーク……じゃなくって蝶王ね。驚かせないでよ」
「そなたが見間違いをしただけであろうが」
呆れた声で蝶王が言った。
フィラ・ファイアはそんな蝶王に、言葉を投げる。
「それにしても、あんたは変わらないわね。世界も人々も、色々変わってしまったのに……」
「これでも何百回と生まれ変わっておるぞ。蝶の一族は長生きしない。ただ……我は記憶をそのまま引き継いでいるだけの別人だ。あの時代、シルークと共にいた蝶王は……ネーヴェは、もういないのだ」
「そうね、そうよね。結局わたしはこの時代に、一人きりなのよね」
寂しげにつぶやく。
蝶王は誕生から十年くらいで死んでしまう儚い存在だ。ただその記憶だけは、次の代へ、その次の代へと受け継がれていく。蝶王に個々の名前などないが、ごく稀に名前を与えられる個体がいる。それが三千年前の蝶王——ネーヴェだった。その名前の意味は雪。蝶王によって望まぬ修羅の道を歩まされたシルークだったが、それでも彼は蝶王を愛していた。だからこそ、死神蝶の中では最大の栄誉である名前を、与えたのだ。
いくら記憶と「魔性の声」、姿を受け継いでいても、今の蝶王は蝶王ではない。あの時代の蝶王は、シルークの死と同時に死んだのだ。そして死神蝶の一体が全てを受け継ぎ、次の世代の蝶王になった。
「落ち込むことはない」
蝶王は慰めるように声を掛ける。
「もうすぐで使命を完遂出来るのだろう? それにな、新しい時代も悪くはないではないか」
「わかってるけど……」
懐かしの仲間たちの姿を写し取ったその絵画を見ていると、知らず、伝い落ちる涙。
絵の中にしかいない大切な人々。改めて、悲しみが胸を穿つ。
絵心師であるフィレルならば、自分と同じように、彼らを絵から取り出すことが出来るのだろう。しかしそれはあってはならないことだから。そうしたい、という強い望みを胸の内に押し込めて、フィラ・フィアは前を向く。
「大丈夫、わたしは大丈夫よ……」
言い聞かせるように何度も口にした。
はじまりの地。並ぶ七つの絵画。その中でたったひとつだけ、一部が異様に白くなっている絵がある。そこから自分は出てきたのだ。そして長い旅は始まったのだ。
「わたし……終わらせるから」
呟き、決意を新たにして。
フィラ・フィアはリフィアに言われた部屋へ向かう。
その後ろを、ネーヴェではない蝶王が無言でついていった。
◇
久しぶりに戻ってきた自分の部屋、懐かしい、いつもの部屋。フィレルは窓から差し込む月の光を、膝の上に愛用のキャンバスを載せながらぼんやりと眺めていた。
月明かりの中、照らされたキャンバス。開けっぱなしの窓から吹き込む風が、紙をぱらぱらとめくっていく。
描かれているのは旅の景色。リノヴェルカの白亜の神殿や初めて見た海、災厄の島のおどろおどろしい雰囲気、そして花の都ウィナフの反映した景色。様々な場所を旅してきた。キャンバスにはそういった思い出が詰まっている。
「封印が終わったら……旅も終わっちゃうのかぁ」
呟いた。それは少し、寂しい気がした。初めて見た様々な景色。旅は心から楽しいものだったから。
旅ばかりしているイルキスを思う。彼は何度もこのような光景を見て、感動してきたのだろうか。
「封神の旅が終わったら……もっと色々なところに行ってみたいよ」
今度こそ、何にも追われることなく。
外へ出ることに対して恐怖を抱く兄を誘って、ロアと一緒に三人で。いや、リフィアやイルキス、レイド、フィラ・フィアも誘ってみんなで。ただ当てもなく、様々なところを冒険してみたい。
そんな日が来ればいい。心からそう思う。
だから。その夢を叶える為に、誰も失ってはならない。
「僕……強くなったんだ。だから、頑張るよ!」
ぐっと拳を握ったフィレルを、淡い月明かりが照らしていた。
◇
「思えば随分遠いところまで来たねぇ」
城の中庭をぼんやりと散歩しながらも、イルキスは呟いた。
「ったく、ぼくってばとんだお人好しだよ。結局、最終決戦までついてきてしまったじゃあないか。昔のぼくならば考えられないことだったよね」
気紛れにフィレルたちを助けた。以来、なし崩し的にずっと一緒にいる。
イルキスに神々を封じる義務なんてない。いなくなろうと思えばいなくなったっていいのに、フィレルたちと時を過ごせば過ごすほどそんな気持ちは薄れていって、思考の端に上ることすらもなくなっていた。
「全て終わったら……兄さんになんて話そうかな」
呟く。
イルキスには双子の兄がいる。自分にも他人にも厳しいくせに、唯一、イルキスにだけは甘い兄が。彼は昔、イルキスを守って大怪我を負ってしまったがために、外へ出ることが出来なくなった。外へ出ることが出来なくなった、という点、弟に甘いという点に於いてはファレルと同じだが、彼はファレルのように温厚な性格ではない。
「土産話、たくさんあるんだ。また会える日が楽しみだ」
月を見上げた。今、遠いロルヴァの町でも、兄が同じ月を眺めているのだろうか。
遠く離れた場所にいても、空に月があることは変わらないから。
「運命神《ファーテ》よ……ぼくに加護をくれるかな?」
呟き、小さく祈る。
全てが終わったら、再会できますようにと。
◇
こうしてそれぞれの夜は過ぎる。祈り、願い、決意を新たにして。フィレルたちは究極の敵に臨むのだ。
穏やかな時間はあっという間に過ぎていく。苦しい時間ほど長く感じる。
けれど、戦いの果てに、幸福な時間があると知っているから。また大切な人々に会えると、知っているから。
だからこそ、それを得るために戦うのだ。それがあるから頑張れる。
決戦前夜。穏やかだがどこか張り詰めた空気が、イグニシィン城の中を流れていた。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.73 )
- 日時: 2020/07/13 09:21
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
翌朝。朝食の席に揃った一同。これが戦いの前、皆で食べる最後のご飯だ。特に話すこともなく、黙々と食べ終わった。
イグニシィン城から出る時、ファレルが声を掛けた。
「約束しておくれよ。死なないと。僕はもう……家族を失いたくはないんだからね」
「うん! 約束、するよ!」
頷いたフィレル。
そして一行は、戦神の神殿へと向かう。
◇
「戦神の神殿は、わたしが一番よくわかってる」
フィラ・フィアが指し示したその場所は、幼い頃、フィレルとロアがよく一緒に遊んでいた森だった。フィレルは思い出す。遠い日の夏のことだった。ロアと一緒に遊んでいたら、突如目の前に、謎の建物が現れたこと。そしてそれからは、とても怖い空気が流れていたこと。嫌な予感を感じて、慌てて逃げ出したこと。それ以来、森で遊ぶのはやめたのだ。あれには絶対に近づいてはならないと、本能が告げていた。
今、歩いているのはその森だった。いつかのあの森だった。あの日見た恐怖が、得体の知れない嫌な予感が背筋を這い上がる。だがもう、あの日のように逃げ出そうとは思えなかった。それが倒すべき相手であるならば、怖がってはいられない。
誰も立ち入らなくなった森の中を無言で歩く。一歩一歩が重く感じた。この先にあるのは戦神の神殿なのだ。だがそんな空気を、しゃん、しゃん、と鳴るフィラ・フィアの錫杖の鈴が打ち消していく。彼女の鈴の音が、心を落ち着かせてくれる。
そうやってしばらく歩いただろうか。深い森の奥、一部だけ木がなくなって、光が差している場所があった。そこにそれがあった。
あちこち苔むして、ひび割ればかりの建物。感じる禍々しい気配。戦神の神殿だ。
今はもう、人を捧げる儀式は行われなくなったらしい。しかし過去の儀式の痕なのだろうか、苔むした石の奥、確かに見える赤錆色。あれは遠い昔、戦神に捧げられた生贄の血の痕だ。
長い時を経て、苔に覆われて。その神殿は、どこか荘厳で神秘的な空気をたたえていた。
「行くわよ」
覚悟を決めたフィラ・フィアが先立って歩き出す。
まるで地獄の底へ案内するかのような真っ暗な入口。その最初の石を、フィラ・フィアのサンダルがかつんと叩いた。
◇
かつん、かつん。それぞれの足音が鳴る。暗い神殿を無言で進む。聞こえる音は足音とどこからか流れる水音、フィラ・フィアの錫杖の鈴の音だけ。神殿はところどころが崩壊しており、そこから外の光が見えた。神殿の中に目を凝らせば、人間の骸骨や衣服、武器の残骸が転がっているのが時折見えた。
何も話すことが出来ない。重苦しい空気は、進むにつれて深くなっていく。
やがて、辿り着いた大きな広間に、
“それ”はいた。
頭から血を被ったような、赤いボサボサの髪。血のように赤い瞳。漆黒のマントに、幾重にも交差する漆黒のベルト。深紅のマフラーが、風もないのに揺れる。その男の傍では、翼の生えた純白の獅子が羽ばたいている。
フィラ・フィアらを見て、“それ”の口が、動く。
「再び来たか、人間よ」
遠い昔のあの日と、同じように。
放たれた声は低く響く。
フィレルはキャンバスを用意し、絵筆を構えた。その隣でロアが剣を引き抜き、イルキスが魔法を唱える準備をし、蝶王が相手を鋭く睨みつける。
大きく息を吸い込んで、錫杖を構えながら、フィラ・フィアは言った。
「戦神、ゼウデラ」
その声は震えることはない。旅の中、様々なトラウマを乗り越えた彼女はもう弱くはない。
「わたしはあなたを、封じに来た」
くつくつと面白そうに戦神は笑う。
「何度来たって結果は同じだ。人間が神に勝てるわけがない。幾らお前たちが蘇ろうと、我を倒せるなどとは思うなよ?」
「思うわッ!」
叫ぶ。これまでの旅で得てきた全てを声に乗せて。
「わたしはもう違う、シルークの死に振り回されてきたわたしではないの。わたしは変わったわ、ゼウデラ。そして今度こそ——」
構えた錫杖が、しゃん、とひときわ澄み渡った音を鳴らす。
「おまえを、封じるッ!」
そして彼女は舞い始める。朽ち果てた神殿の中、天井から差し込む光の中で舞う彼女の姿は神のようでもあった。『崇高たる舞神』。いつか人は彼女のことをそう呼んだが、今の彼女はその二つ名にも負けず劣らずの神聖さだった。
戦神は、吼えた。
「何度舞おうが同じことッ! 行けアウラ、神の偉さを思い知らせてやるが良いッ!」
彼の声に応じ、白獅子アウラが跳躍、舞うフィラ・フィアに迫る。
「させるか戦神ッ!」
金属音。飛んできた爪をロアが悠々と弾く。その後ろから、
「僕だって……戦えるんだぁーっ!」
服の中から取り出した剣を片手にフィレルが跳躍、戦神に迫る。宙に浮いている戦神に、フィレルの剣は届かない。だがそこへイルキスの風。風はフィレルの身体を押し上げて、戦神へその剣を届かせる。
「やるなッ! 確かに強くなった。考えるようにもなった! だが……神の力、舐めてくれるなッ!」
戦神の取り出した漆黒の剣がフィレルを弾く。転がされたフィレルを追撃するかのように迫った白獅子。だが、させまいとばかりにロアの剣がそれを防ぐ。
かつての戦いで、戦神は剣を抜かなかった。彼は長槍しか使わなかった。彼にとって、剣は本気を出す時以外は使わない武器なのだ。その剣を使ったということは。
フィレルも本気だが、戦神も今、本気を出しているということなのだ。つまり、それぐらい、戦神が本気を出さなければならなくなった程に、フィレルたちは強くなったという証。
「フィレル、受け取りなさい!」
イルキスが寄越したのは、風の魔法で編まれた翼。これがあれば空を飛ぶ相手とも対等に戦える。翼を操るのはイルキスなので、フィレルの運命は全てイルキスに掛かっていることになるが。
フィレルはイルキスを見た。イルキスの瞳が真摯な輝きを帯びる。任せてくれ、信じてくれとその瞳は訴える。フィレルは頷き、
跳躍。戦神になんとかその刃を届かせんと腕を振る。追風。イルキスの風がフィレルを運ぶ。高いところ、宙に浮かぶ戦神へ。フィレルの瞳に迷いはない、恐怖もない、躊躇いも諦めも一切ない。握った刃はただ、相手を切り裂くためだけに。
誰ひとり欠けさせないで、帰り着くと誓った。だから、その約束を守るために。
フィレルの振るった刃。戦神が回避動作を見せる。イルキスの風による強化を受けて、防御できないような勢いがその刃には込められていた。ぎらり、輝く緑の瞳はいつか、仲間たちを逃がして命を散らしたレ・ラウィの、あの日の瞳と同じものだった。フィレルは確かに、英雄の子孫だった。
回避する戦神に追撃。服から取り出したもう一本の剣が相手の逃げ場所を奪う。確かに感じた手ごたえ。斬撃。見えたのは、戦神の身体に刻まれた確かな傷。
「やりおるなッ! 人間風情がッ!」
戦神の手に生み出された赤黒い魔力。感じたのは嫌な予感。
「イルキス!」
声を掛ければ、その身体は引き戻される。先程までフィレルのいた場所に、赤黒い長槍が突き立っていた。それはいつしか、シルークとフィラ。フィアの命を奪ったものだった。だが、同じ轍は踏まない!
重なり合う心が、確かな信頼によってつながった想いが、最悪の未来を回避する。
フィレルは見る。風の翼を操るのに精いっぱいだったイルキスに迫る、白獅子の尾を。ロアはフィラ・フィアに迫る爪を防ぐので手一杯でイルキスを守れない。だが、今フィレルは地上に降りている。フィレルならば、死の一撃を防ぐことができる。
「させないって、っば!」
様々な事態を想定し、服の中に仕込んだ数多の武器。その中に飛び道具がないわけではない。
緑に輝く手が取りだしたのは、淡く輝く一本の槍。
「とど——けぇぇぇーッ!」
勢いよく投げられたそれは、すんでのところでイルキスの命を繋ぎ止める。蝶王が翼をはばたかせた。彼の周囲で白い魔法陣が幾重にも浮かび、光を散らす。
「絵心師! ここは我に任せて、お前は戦神を!」
白い魔法陣から生み出されたのは光条。幾重にも交差しながらそれは、白獅子の身体を貫いた。白獅子が苦鳴の声を上げ、蝶王に向かっていく。させんとばかりにロアの剣が割って入る。
ロアの視線とフィレルの視線が交錯した。フィレルはロアの瞳から言いたいことを悟り、イルキスに頷いて再び、
跳躍。三度目の空。迎え撃つ戦神。直接攻撃しても回避され、反撃されるだけだと理解する。だからあえて剣を構えず、
「馬鹿か? 自殺する気か人間ッ!」
相手の剣の中、自らその身を飛びこませる。相手の剣がフィレルの身を切り裂くが、その瞬間、確かに生まれた隙を突く。肉を切らせて骨を断つ。古典的な戦い方だが、最も効果のある戦い方でもある。
相手に腹を刺されながらも、フィレルはその剣をさらに深く、自分の中に押し込んだ。
「何ッ!?」
初めて聞いた、戦神の焦った声。
フィレルと戦神の距離が、ゼロになる。苦痛に顔を歪めながらも、フィレルは握った双つの剣で相手を切り裂いた——深く、深く。
そしてフィレルは相手の身体を蹴り飛ばして自分に刺さった剣を抜く。傷口から溢れる血、急速に冷えていく身体、感じた死の予感。それでも、相手の負った傷も尋常の傷ではない。戦神は宙でよろけていた。押え切れない傷口から、どくどくと溢れだすは戦神の血。三千年前は傷ひとつつけられなかった戦神が、今、血を流してよろけている。
蒼白になっていくフィレルの顔。イルキスが彼を降ろして傷の治療をしようとしたその瞬間、
「封じられなさい!」
凛、とした声がひとつ。
振り向いたそこでは虹色の鎖が完成し、希望の王女の周囲を取り巻いていた。
裂帛の声が、これまで抱えてきた全てを乗せた声が、その喉の奥から放たれる。
「わたしたちは、人間だけの世界をこの地上に作るんだから! 戦神——ゼウデラッ!」
逃れられない。大きな傷を負った戦神は、その顔に笑みを浮かべてフィラ・フィアを見た。
「そうか……これが、人間の力だと……言うのか」
満足げに放たれた言葉を最後に。
虹色の鎖が巻きついていく。封じの鎖は白獅子アウラだって逃しはしない。
爆発するような光が、溢れて。
次の瞬間、そこにあったのは、
ゼウデラの形をしたガーネットと、白獅子ラウラの形をした水晶だった。
終わったのだ、と悟る。最大の敵の封印は、終わったのだ。
くずおれるフィレル、駆け寄った仲間たち。負った傷は深かったが、
「天の神アンダルシャに願うなり! 我、我らが蝶を天に捧げん!」
蝶王が詠唱を口にした瞬間、その傷はみるみるうちに塞がっていった。
しかし代わりのように、薄れゆく蝶王の姿。
「蝶王さま……もしかして」
フィレルは悟る。
代償なしに、傷を完治させる魔法など存在しないのだ。そして蝶王がフィレルを直す代わりに払った代償は、
「そうだ、我の命だ!」
叫んだ蝶王は、どこか誇らしげだった。
「悲しむな絵心師よ! 我は伝説の生まれる瞬間に立ち会えた。それだけで十分満足なのだ! それにな、我は蝶王、何度も生まれ変わりを繰り返す普遍の存在なのだ。だから……」
いつかまた会おう、そう最期に言い残し、蝶王の姿は消えていった。無数の小さな蝶となって砕けて、神殿から差し込む光の中に溶けていった。
「……ありがとう」
呟き、立ち上がる。
フィレルは皆を見た。フィラ・フィアは涙をこぼしていた。
「みんな……わたしは、出来たよ……!」
三千年の昔、この地で彼女たちは死んだ。その無念が、長い時を経てついに晴らされたのだ。
瞳に光る涙は、とても綺麗な色をしていた。
そしてフィレルたちは神殿を出る。ゼウデラを封じたからと言って、全ての旅が終わったわけではない。
最後に残された神、生死の境を破壊する闇、アークロア。その名前が、不吉な響きを帯びてフィレルたちに重くのしかかっていた。
◇