複雑・ファジー小説
- Re: 魂込めのフィレル ( No.74 )
- 日時: 2020/07/17 12:10
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
【十一章 握った絵筆に魂を込めて】
「やあ、久し振りだね」
神殿を出たところで、冷たい霧の気配。霧の向こう、忌々しい影と出会った。
白の、ボサボサの長髪、冷たく澄みきった印象を与える蜜色の瞳。白のローブを身に纏い、足には白のサンダルを履いた青年。
ロアの記憶を握る者、霧の神セインリエス。
嫌な予感が吹き荒れる。決して出会ってはならない存在と、ぶつかってしまったような気がする。
セインリエスの唇が、動いた。
「ありがとう。君たちのお陰で邪魔な戦神は排除された。後は私が好きに出来る! やっとだ、やっと! 私の世界が幕を開ける!」
セインリエスは笑う。心底、楽しそうに。
「なぁ、私を……殺しておくれよっ!」
放たれた霧の刃。容赦なく。真っ先に対応したのはロアだった。させるかとばかりに弾く。霧の神はうすら笑いを浮かべた。
「そうだよ、そうだよ。私はねぇ、ロア。君と戦いたかったんだッ!」
勝手に斬られた戦いの火蓋。最悪の予感がフィレルの中を動き回る。
まずい、と本能的に思った。この男とロアを戦わせてはいけない、とフィレルの心が必死で叫ぶ。しかし戦神との戦いで疲れ果てたフィレルには、ただ戦いを見ていることしか出来なくて。
「ぼくだって……まだ戦えるさッ!」
イルキスが風を吹かせて霧を吹き払う。その向こう、見えた霧の神。ロアは目をぎらつかせ、その身体に向かって刃を叩き込んだ。
ごぼり、溢れた血。防げたはずなのに、霧の神は防がなかった。
「……どうして防がなかった」
問うたロアに、霧の神は歪んだ笑みを浮かべた。
「だって私は……言っただろう? 殺しておくれよ、と」
話をしようか、と彼は言う。
語られたのは、遠い悲劇の物語だった。
昔、彼は傲慢だった。彼はその傲慢さによって一番上の兄に酷い怪我を負わせ、二番目の兄の怒りを買って、神の力を奪われ人間同然にされた上で地上に追放された。
本来ならば、そのまま野垂れ死ぬはずだった。だがそんな彼を救った人物がいた。
機織りの娘ティア。彼女に救われ、その優しさに触れるうち、彼の心の氷は融けていった。
ある日、彼女が危機に陥った時、彼は彼女を守った。その瞬間、彼の追放は解け、神としての力を取り戻した彼は天界へ帰還、兄神たちと和解するが、天界にて発覚した事実。彼女は重い病を背負っており、もうほとんど生きられないこと。彼は彼女の最後の願いを叶える為に地上に降り、極北の地の極光を見せてやったが彼女はそのまま死んでしまった。
霧の神は言う。
「彼女が死んで以来、私の心は凍ったままだ。だから私は……殺してもらいたかったのさ」
そこまで言って、彼は盛大に血を吐きだした。命の終わりが、近い。
その顔が、孤独に歪んだ霧の神の顔が、ぐしゃりと歪な笑みを作った。
「そして! ただ死ぬだけなんてつまらないだろう! だから私は置き土産をすることにしたんだ……」
その蜜色の瞳は、ロアを見ていた。狂ったような輝きがロアを射抜く。
霧の神は、笑っていた。嗤っていた。嘲笑《わら》っていた。ただ、どこまでも可笑しそうに、わらっていた。
「さようなら地上! 私はあの子に会いに行くんだ! さようなら哀れな人形たちよ! 全ての記憶を君に返そう。そしてその記憶に狂うが良い!」
「やめろぉぉぉーッ!」
叫び、飛びつこうとしたがもう遅い。霧の神の身体は砕け散り、そこから溢れた霧が、ロアを包み込んだ。フィレルはただ、それを見ていることしか出来なかった。
霧が晴れた時、そこにいたのはロアだった。だが、それはロアであってロアではない存在だった。
「思い出した……」
漏れたのは、絶望に染まった声。
「ノア……闇神ヴァイルハイネン……古代文字……ああ、オレはッ!」
「駄目だよロアぁっ!」
叫んでも、その声は届かない。
呆然と立ち尽くすロアの周囲から闇が溢れて、ロアの全身を覆い尽くしていく。その闇の深さは、神にも匹敵するものだった。
——神?
はっとなる。
「そうよ」
フィラ・フィアの声が、凛、と響く。
彼女は悲しみを心の底に押し殺したような顔をしていた。
その錫杖が、ロアに向けられる。仲間である、ロアに。
まるで、彼が、敵であるかのように。
「ロアは」
闇が晴れた時、そこにいたのは完全に、ロアではないモノだった。
深い闇と絶望を宿した漆黒のソレの正体を、フィラ・フィアは暴く。
「生死の境を暴く闇、アークロア——それこそが、ロアの正体だったのよ」
思わず、嘘だ、と呟いた。
言葉が、出なかった。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.75 )
- 日時: 2020/07/21 11:45
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
「フィラ・フィアは……いつからわかっていたの?」
フィレルの問いに、悲しみを噛み殺すような顔をしながらもフィラ・フィアが言う。
「フォルトゥーン戦からよ。ロアが死者蘇生について言及した。その時、全てのピースが繋がったの」
「オレは……失ったノアを蘇らせる、ためにッ!」
まだ辛うじて正気を保っているロアが、ぎらつく瞳で答える。
「生死の境を……破壊……しようと……ッ!」
だからこそあの発言。ロアが古代文字を読めたのも、彼が昔に誕生した神だったからだ。彼が他の神々と繋がりがあるのも……。
全て繋がった先、あったのは残酷すぎる現実。
嘘だ、とフィレルは呟く。縋るような瞳でロアを見た。緑の瞳いっぱいにたたえられたのは、涙。
「ロアはロアだよ、アークロアなんかじゃない! お願いだロア、元に戻って! 僕らと一緒に帰るんでしょ!? ねぇっ!」
不可能だ、とロアは首を振る。その腕が持ち上がり、剣を引き抜きフィレルに向ける。
これまで、絶対に自分を裏切らないと信じていたロアが、自分に剣を向ける。
フィレルは現実に打ちのめされた。
封じろ、と異形の闇の殻を身に纏いながらもロアは言う。
「オレに正気が……残っている、内に!」
剣を握った腕が震えている。だがその黒の瞳は闇に、侵されていく。冒されて——いく。
闇の亜神アークロアは、弟を失ったことにより狂い、死者蘇生の方法を求めて地上を荒らした。アークロアは、弟さえ蘇れば地上がどうなろうと構わなかった。その横暴によって「荒ぶる神」認定を受けたのだ。アークロアには死んだ弟以外に優先すべき存在など、ない。
「ロア、ロア、目を……覚ましてぇっ!」
「無駄よ!」
叫ぶフィレルをフィラ・フィアが制す。
フィラ・フィアの赤い瞳の奥に宿る決意は、一瞬足りとも揺らぐことがなく。
彼女は舞い始める。そんな彼女を倒さんとロアの剣が迫る。フィレルは反射的に受けた。受けたそれは、二人で何度も特訓して、よく知っているロアの剣術。金属音。フィレルはロアの剣を防ぐことは出来たが、どうしてもロアを攻撃することが出来なかった。迷いに剣が滑る。隙が生まれる。ロアはフィレルを無視し、フィラ・フィアの無防備な胴体に一撃を叩き込、
「させないよッ!」
烈風。イルキスの生み出した風が辛うじてロアの剣筋を逸らす。
フィレルたちに剣を向けながらも、ロアは懇願するように叫んだ。
「フィレルッ!」
瞳から流れ出した涙は血の色をしていた。
「お前に心があるというのなら、オレをオレのままでいさせてくれ。オレがアークロアに完全になり果てる前にッ! オレを止めてくれ封じてくれッ!」
その瞳から急速に失われていく正気。振るわれる剣に、明確な殺意が宿っていく。“ロア”が失われ、“アークロア”が彼の中に広がっていく。
失いたくない、ずっと一緒にいたい、と誰よりも強く思い、願った人だった。そんなロアが、大切な人が、フィレルが初めて本気を出す原因を作った人が、失われていく。いなくなっていく。闇に溶けて、消えていく。
心の中、広がっていくのは絶望。果てしなく。
どうすれば良いというのだろう。誰よりもずっと一緒にいた人が、封じなければならない人だっただなんて。
「きゃあっ!」
悲鳴。ロアの闇に吹き飛ばされたフィラ・フィアが宙を舞う。そのまま地面に叩きつけられた彼女は身動きをしない。それを見ても、凍りついたように身体は動かない。
希望の子フィラ・フィア。彼女が死んだら、この長い旅の全ては意味のないものになるのに。
わかっているのに、動けなかった。ただロアだったモノを、見ていることしか出来なかった。
しっかりしなさい、とイルキスが叫びを上げる。
「フィレルッ! もうあいつはロアじゃないんだ、倒すべき相手なんだよ!? 呆けている場合じゃないッ!」
そんなイルキスに迫る刃。魔法専門の彼に、剣をかわす反射神経なんてない。斬撃。盛大に血飛沫を上げて倒れるイルキス。それでも身体は動かない。動けない。
気が付いたら、フィレルはロアと二人きりになっていた。完全にアークロアとなったその瞳が、無感情にフィレルを見つめる。その剣が持ち上げられ、無防備なフィレルに振るわれ——
「……わかったよ、ロア」
なかった。
すんでのところでロアの剣は、フィレルの剣に受け止められていた。
泣きそうな顔で、フィレルは剣を構えた。瞳に宿るのは静かな決意。
「ロアの悪夢は僕が終わらせるよ。僕しかいないんだ、僕しかいないんだろ。なら……」
叫んだ。あまりにも残酷な運命に対し、叫んだ。
「——僕がやるしか、ないじゃないかッ!」
迷いはない、惑いはない。目の前にいるのがアークロアであるならば、ただ封じればいいだけ。しかし封じの王女はもう動けない。だが、封じる手段は一つしかないわけじゃない。
フィレルの手が神速で動く。肩に掛けたキャンバスに、ひとつの絵を描き出す。神のごとき早業で、一枚の絵が仕上がっていく。描かれたそれは、
一本の槍。
遠い昔、ある英雄が、神を封じるために作ったという伝説の武器。神封じの槍ヴェルムヴェルテ。
フィレルの手が翠に輝き、キャンバスに触れる。描かれた絵が引き出される。長い時を経て再現された神封じの槍は、ぴったりとフィレルの手に収まった。
フィレルは泣きながらそれをロアに、否、ロアだったモノに、アークロアに、向ける。
思いのたけをぶっつけた。
「ロア、ロア! 僕はさ……ロアのこと、大好きだよっ!」
泣いて叫んでひたすらに泣いて。それでもフィレルはもう折れない。
輝く緑の瞳には、強い強い覚悟の光が灯っていた。
「だからさ——ロア」
槍を構え、ロアに向かいながらも言葉を紡ぐ。
「——もう苦しまなくっても、いいんだよッ!」
一閃。閃いた槍の先。防がれる。勢いのまま突き進み反撃を回避。ロアの動きを見る。見慣れた動き、見慣れた剣術。何度も何度も試合《しあ》ったがために、誰よりもよくわかっているその動き。
狙い澄まし、槍を放つ。今この瞬間しかない、というタイミングで放たれた神封じの槍は、
「フィ……レ……ル」
最期に漏れた声。
槍は的確にアークロアの胸を貫いていた。その胸から鮮血が溢れ、溢れるそばから結晶化していく。その様は美しかったが、同時に永遠の喪失を表してもいた。
そしてその瞬間だけ、戻った正気。
ロアは、笑った。アークロアなんかじゃなくて、ロアの顔で。
最高に綺麗な、笑顔で。
血まみれの唇が紡ぎだした言葉。
「終わらせてくれて……ありがと……な……」
紫色の光が弾けた。フィレルは目を灼くような光の中でも目を閉じず、最後までロアを見届けていた。ロアの身体が結晶に覆われていき、ロアの形をした紫水晶になるのを見届けていた。ロアは紫水晶に完全に覆われて、もう二度と動くことはない。
「あ、ああ……」
地に膝をつく。漏れたのは、慟哭。
こんな悲しみを、これまで味わったことなんて、なかった。
目の前の無機質な結晶が、フィレルに残酷な現実を突き付ける。
ロアはもういない。
クールで格好良くて、文句を言いながらも結局いつもフィレルを守ってくれたロアは。
もう、いない。
もう、いないのだ——。
フィレルの胸の中で、何かが砕けて散った。代わりに生まれたのは喪失感。果てのない闇のようなそれがフィレルを覆い尽くし、思わず自分を見失い掛けた、時。
しゃん、と澄み渡った音がした。
凛、とした声が響く。
「——ここに全ての荒ぶる神々は封じられた。わたしたちの使命は、成ったのよ」
振り返れば。錫杖により掛かるようにして辛うじて立っている、満足げな表情のフィラ・フィアがいた。
彼女はフィレルに頭を下げた。
「ありがとうフィレル。あなたのお陰で——」
「……ふざけるな」
フィラ・フィアの言葉を遮ったフィレルの瞳は、激しい怒りに燃えていた。
フィレルは憎悪の言葉を叩きつける。
「お前のせいで……お前の旅につきあったせいで、ロアは、ロアは……ッ!」
「その原因を作ったのはあなたでしょう、フィレル。わたしはずっと眠っているはずだったのに」
言い返されて、押し黙る。やりきれない思いが、その心を支配していた。
誰も悪い人なんていなかった。この悲劇は、起こるべくして起こったのだ。
フィレルは紫水晶になったロアを見る。改めて、もうロアはいないのだと思い知って、
「ロア……ロアぁ……ッ!」
溢れだす涙が、止まらなかった。
フィレルは紫水晶に駆け寄って、その拳で殴った。何度も、何度も。拳が切れて血が出ても、何度も殴り続けた。そうすれば紫水晶が割れて、ロアが戻ってくるとでも思っているかのように。それが無理だとわかったフィレルは、地面に膝をついてただひたすらに泣き続けた。
「……喪失の痛みは、誰よりもわかっているわ」
その背に、静かにフィラ・フィアが声を掛けた。
彼女は優しい声音で、言う。
「とりあえず、今は泣きなさい。泣いて泣いて泣いて——自分が空っぽになるまで泣いたら、いつか時がその空白を、その喪失感を、埋めてくれるから」
痛ましげな表情をして、フィラ・フィアはそっと両手を組む。
まるで祈るかのように。
◇
「……さようなら、ロア」
それから、どれだけ時が経ったろう。
ひたすらに泣いてようやく激情の静まったフィレルは、紫水晶に声を掛ける。
「今まで本当にありがとう。僕……ロアのこと、忘れない。絶対に忘れられない」
紫水晶は、沈黙したままだけれど。
フィレルは静かに決意を述べる、覚悟を述べる。
「僕……立ち直るから。悲しみに停滞なんて、しないから」
だから、と紫水晶を愛おしげに撫でた。
「……安心して、眠ってね!」
その緑の瞳からは、何も知らなかった頃のような無邪気さは消えていた。
もうフィレルはこれまでのフィレルではない。悲しみを知らなかったあの頃には、戻れない。
瞳に灯った炎は、燃え上がる強い想いの証。
大切な人の喪失を経て、涙の代わりに空白を抱えて、フィレルはようやく英雄の顔になった。
「……帰ろう、みんな」
言って、返事も待たずにその場を去る。
彼はもう、振り返らなかった。
その背中には、海の底よりも深い悲しみがあった。
◇
- Re: 魂込めのフィレル ( No.76 )
- 日時: 2020/07/24 00:02
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: eso4ou16)
【終話 魂込めのフィレル】
傷ついたイルキスとフィラ・フィアを連れ、虚ろな思いを抱えて城へと戻る。戻った後のことは覚えていない。ただひたすらに泣いて叫んで、意識を失っていた。
そして巡る朝。ロアが自分を起こす声が聞こえない。そうだ、ロアはもういないんだとわかって沈んだ気持ち。
あの後、ファレルとは何度も話した。約束、したのに。大切な家族の一員は、欠けてしまった。ぽっかりと胸に空いたこの穴は、そう簡単に埋まることはないだろう。
いつもの城、いつもの食卓。長かった封神の旅を終えて、日常が戻ってくる。だが、何かが足りない。いつもそこにあったはずの「ロア」というピースが足りない。それだけで、ただそれだけでこんなにも違うのかと思った。失ってから初めてわかる、その人の大切さ。ロアは失ってはならない人だった。
フィレルは笑わなくなった。笑い方を忘れてしまった。ただ、虚ろに日々を過ごすだけになった。
イルキスは怪我を治したあとで故郷に帰り、帰る場所のないフィラ・フィアはイグニシィンの養女となった。沈んでばかりのフィレルをファレルは心配したが、「時が過ぎれば元に戻るから」とフィラ・フィアは必要以上に関わることはしなかった。
フィレルは思う。朝起きれば、今でもロアがいるような気がする。「寝ぼすけめ」と笑っているような気がする。いつもみたいに、いつもみたいに。
停滞はしない、いつかは動く。あの日、そうロアに誓ったけれど。空白を抱えた心はそう簡単に、再び動き出すことは出来なかった。
そして、過去に一度喪失感を経験し乗り越えたことのあるファレルとフィラ・フィアはロアの死からも立ち直ることが出来たけれど、初めてといっても過言ではない喪失を経験したフィレルは、そこまで強くはなれなかった。
フィレルは、ロアの部屋の方を見ながら、思うのだ。
——ロア、ロア。
何処にいるの?
僕とまた話してよ。僕はまた会いたいよ。
そんな呟きも嘆きも、ただ壁に吸い込まれるだけ。
◇
いつか、ロアがいない現実も、当たり前だと思えるようになってきた。
いつか、ロアがいない風景にも慣れてきた。
心の底の空白は、いまだ消えることはないけれど。喪失の痛みはいまだ、激しく心を苛み続けるけれど。
——それから、二年。
かつてのロアと同じ十七歳になり、フィレルは悲しみの幻影と立ち向かうことを決意した。
◇
二年ぶりに訪れた、あの暗い森。いつかセインリエスと、ロアと戦ったあの場所には、変わらぬ紫水晶があの時のままにそこにあった。
凍りついた時間。積もった埃が、時が経ったことを示している。
願いを込めて、絵を描いた。魂を込めて、絵を描いた。
それを実体化させることは、ないけれど。再び禁忌を犯す気は、ないけれど。
描いたそれは、ロアの顔。ただどこまでも明るく笑う、大切な人の顔。
「ありがとう、ロア。そしてさようなら。僕はもう、ロアがいなくてもやっていけるから」
呟いて、これまでの思い出の詰まったキャンバスをその場に置く。一番上にはロアの顔。
「……またね」
フィレルは来た道を去っていく。
似顔絵の中のロアの顔が、不敵な笑みを浮かべたのは、気のせいだったのだろうか。
◇
「あーあ、退屈だなぁ」
フィレルはうーんと伸びをした。
長い冒険が終わり、戻ってきたいつも通りの日々。それはあの冒険の日々に比べれば、あまりにも退屈で。
「そーだ、ロルヴァに行こう!」
思い立ち、みんなに話すためにお城の中を駆け回る。
ロルヴァ。それはイルキスの故郷。いつでも歓迎すると、彼は言っていた。
まだ行ったことのない町だ。そこに行けば、また面白いものが見つかるだろうか?
目を輝かせてフィレルは走る。その肩には、新しいキャンバスが下がっていた。
あの冒険の日々を描いたキャンバスは、悲しみと一緒にあの場所に置いていったのだ。これから始まる新しい日々に、過去の思い出なんて似合わない。
喪失感を乗り越えて、少年は前へ進む。
悲しみを乗り越えて、彼はまたひとつ強くなる。
その瞳に涙はあれど、彼はもう迷わない、惑わない。
握った絵筆に魂を込めて、描いた絵を取り出して色々と応用しながら、そして彼は生きていく。
暖かな日差しが、そんな彼を祝福するかのように降り注いでいた。
——僕はもう、一人でも。
——生きていけるよ。
◇
【魂込めのフィレル 完】
【読んでいただき、ありがとうございました!】