複雑・ファジー小説
- Re: アコさんと愉快なガラクタ入れども ( No.1 )
- 日時: 2019/05/25 23:06
- 名前: メデューサ ◆VT.GcMv.N6 (ID: Fa9NiHx5)
プロローグ 101号室「橘或子」
アコさんが亡くなった。
そう知らせを受けたのは今から半年ほど前のことだ。
アコさん──橘或子さんは私が子供だった頃に一緒に住んでいた人で、小さなアパートの大家をやっていた。
東京と千葉の合間くらいにある、六畳一間にお風呂とトイレ、キッチンがついてそれで家賃が三万円と少し(「道楽営業だからこんなものだ」とアコさんは言っていた)の本当に小さなところだ。
住人はもういない。アコさんが死んで誰もいなくなった。そして来週、取り壊しが始まる。
私は、自分が育った場所がなくなってしまうのが無性に寂しくて、最期にお別れを言いに来た。
名前を「芍薬荘」という。
就職を機にここを出て行った時、持ち出したままだった合鍵は難なく使えた。
昔は大して気にしていなかったガラス戸を開ける音が午前様の空気にやけに響いて、焦りを抱いた私は玄関に身を滑らせたらさっさと、しかしとても丁寧に戸を閉めた。
五年ぶりに帰ってきた部屋は真っ暗で、家具も畳も無く冷え切っていた。鞄からスマホを取り出してライトを点けると、目の前の柱にキズがあるのに気づく。
いや、正確にはキズではない。ペンで引かれた線だ。一番上にある線のそばには"2006/8/31 夏芽中1"と小さく書いてある。
私はその柱にもたれかかって、しばしアコさんとの想い出に浸った。
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私が6歳の時のこと。
春先の、施設中が新年度特有のごたごたに追われているくらいの頃。積み木で理想の門を作るのにも早々に飽きた私は上の子が嬉しそうに抱えているピカピカのランドセルに触らせてもらっていた。
その子から小学校なる場所のお話を滔々と聞かせてもらっていると、突然部屋のドアが開いた。
そして入ってきた女の人。かつかつと、まるで床に弁えさせるように杖をつく、上品な、歳をとった美人。
彼女が部屋全体をちらりと一瞥すると、丁度私と目が合った。そのあと、追いかけてきた園長先生に連れられて応接間の方へと消えていった。
その美人がアコさんで、それが私とアコさんの出会いだった。
その後色々あって、最終的に私は小学校に入る直前くらいでアコさんの子供になった。子供用のリュックに収まる程度の私物と、餞別のランドセルを持って私たちは施設を出た。アコさんは門を出た途端タバコに火を付けだしていた。
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そうして、どのくらい時間が経ったのだろう、立ち上がって部屋を見渡す。
もう何も残ってなくても、アコさんの灰皿も、よく寝こけたこたつも、学校で描いた絵ももうないけれど、ここは確かに私の家だった。私が育った場所だった。
ひとまず満足した私は、部屋に小さく別れを告げて玄関に向かおうとした。
その時だった、トタン屋根から打擲の音が聞こえたのは。部屋の中の冷え切った空気が少しずつ水の匂いを帯び始める。
降り出した雨はあっという間に打ちつける範囲を屋根から地面に広げて、まるで滝のように芍薬荘に降り注いだ。
さて、困ったことになった。雨が降るだなんて天気予報では言ってなかったから雨具なんて持ってきていない。鞄の中にはあまり濡らしたくないものだってあるのに、でも雨が止むまで待っていたら朝になってしまう。そしたらきっと工事の人たちが来てしまうだろう。不安と肌寒さに思わず身をすくめる。
その時、ちゃら、とポケットの中で鍵束が鳴った。
そうだ、まだ鍵はあるんだった。
さっきまでアコさんとのことを思い出していたせいか、芍薬荘の住人たちのことももっと思い出したくなってきた。
決して真っ当ではなかったかもしれないけれど、とても愉快で、優しくて、そしてままならない人たちのことを。
靴を履いて、101号室の戸締りをしっかりとして、私は隣の部屋へと向かった。
雨はまだ止みそうにない。
最期に好きなだけあの頃に戻ろう。