複雑・ファジー小説

Re: 伝説の史書〜聖なる運命〜 ( No.3 )
日時: 2019/09/25 13:55
名前: 渾身 (ID: Xr//JkA7)

622年、聖徳太子の回復を祈っていた膳大妃も倒れ、崩御を召す。

聖徳太子は今にも生き絶えそうな様子で蘇我馬子に話す。

「馬子…お前は…私の天皇中心の国…を継いでくれ。私はそなたと共に…国の改革が出来た事がとても…誇らしく思えてる…馬子よ…この国はそなたのおかげで…改革が完成した…」

その様子の聖徳太子の姿に悲しむ馬子。

「陛下。成りませぬ。律令制を倭国に取り入れるのは陛下がなさらねば…」と涙を瞳に溜めて、拳を握りながら言う馬子。

「それは…そなたに任せる。律令制を倭国に…取り入れ…唐との主従関係を崩してはならぬ。私は空へ飛び立つ。いつか空で会おう…」

そう言い、手を落とす聖徳太子。

聖徳太子しょうとくたいし…6世紀末期から7世紀前期まで活躍。592年にクーデター事件で成人もしていない聖徳太子は太子と摂政を同時に任命される。その後も推古天皇を蘇我馬子と共に補佐しながら善政を敷いた。聖徳太子は冠位12階や17条憲法、遣隋使など、様々な面で活躍した。その功績は現在この時も語り継がれている。そんな聖徳太子も622年に没する。618年に隋を支配した唐が制する律令制も取り入れようと病にかかった人生の中、民のため律令制の登用に尽力するが、病魔に侵され崩御、この登用は後の天武天皇が敷くことになる。

622年に没した聖徳太子の後を継いで蘇我馬子は律令の登用に尽力する。しかし馬子の人生も短く、亡骸へと変わるのだった__馬子はその4年後、626年6月19日に人生に終止符を打った。蘇我馬子__彼は550~552年の間に生誕したのだと思われる。彼は4代の王と聖徳太子に仕えた。聖徳太子とはだいぶな歳の差がありながらも友好関係を築いた。そして力を持つことになる蘇我氏一族。彼は592年に崇峻天皇を暗殺し、皇族推古天皇を王位に据え、摂政として聖徳太子を据えた。そして蘇我氏の子孫らはその後の約20年間、絶大な力を持ち、国を揺るがす。
628年 享年74歳、推古天皇が崩御した。その後は義理の孫の舒明天皇が継ぐことになる。舒明天皇は飛鳥で最も長生きした天皇だった__舒明天皇は641年まで蘇我蝦夷に支持され、蘇我馬子の息子であった蝦夷も絶大な権力を持った。舒明天皇は崩御し、その皇后の皇極天皇が即位。

645年(皇極天皇4年)

【皇宮】

使節団キム・チュンチュがある宝剣を大事そうに手に持ち、やって来る。

『天皇陛下。我ら新羅は大倭国へ新羅代々伝わる宝剣を倭国へ授けます。』とキム・チュンチュが笑いながら言う。

「これは新羅のヒョッコセ・ゴソガンが作ったと言われる''ヒョッコセ大貴刀'‘ではないか?」と中大兄皇子はその宝剣を不思議そうに見つめている。

「天皇陛下。我ら大倭国は百済との親交が代々とても深い国です。このような宝剣を受け取れば百済の大王が怒るでしょう」と蘇我入鹿が言う。

『何ですと?大臣?このような新羅の大王が苦悩の末渡す事を決意した宝剣の受け取りを断ると言うのですか?』と怒り口調で言うチュンチュ。

「天皇陛下。新羅の太子の宝剣をありがたく受け取りましょう。」と袖に刀を握る中大兄皇子が言う。

そんな皇宮に刀を持った中臣鎌足率いる兵士たちが集まってくる。

「逆賊蘇我入鹿を殺せ!」と中臣鎌足は刀を抜き、蘇我入鹿の胸に刺す。

蘇我入鹿殺人事件…今の日本では乙巳の変と言う。一部の人は大化の改新と言うが、大化の改新は律令制を倭国に取り入れた事を大化の改新と言う。このクーデター事件は倭国を含めるアジア五国が驚いた。

645年 中大兄皇子率いる中臣鎌足らは蘇我入鹿を殺害、その後、中大兄皇子は孝徳天皇を天皇の座に据え、太子の座に座った。実質的には中大兄皇子が全権を持った。654年に孝徳天皇が崩御した際には一時譲位した斉明天皇が復位した。しかし斉明天皇の寿命も長くなく、661年に斉明天皇も崩御した。その際に中大兄皇子は天皇として役割を始めることとなる。

663年、天智天皇(中大兄皇子)は滅亡した百済の復興軍に2万の手を伸ばすが、水戦と陸戦共に敗北した。復興軍加える倭国と戦ったのは昔中大兄皇子と親交が深かったキム・チュンチュら新羅軍だった。新羅軍は660年、唐と共に百済を滅亡させ、668年、高句麗を滅亡させる。その後、676年に唐との大戦争でも勝利し、三韓(新羅、百済、高句麗)を統一した。そんな新羅とは幾たびも争った天智天皇。しかし、天智天皇は672年に崩御__その後を天武天皇が即位。681年、天武天皇が律令制の詔を下される__しかし律令の体制を整えたのは天智天皇だと言える。