複雑・ファジー小説
- Re: 壬辰丁酉.第2章.第1部 ( No.4 )
- 日時: 2019/12/11 13:14
- 名前: エイ (ID: Xr//JkA7)
1588年12月9日 李徳響(副提学)は約1ヶ月船に乗り数人の護衛を付けて海を渡って来る。
西洋に染まった日本の風景。李徳響は幾度となく『すごいなあ。』『何だこれは。』と驚きを口にした。李徳響は日本の市場にやって来た。
ー日本 河内【現在の大阪府】ー
市場で李徳響が目にしたのは南蛮漆器【華麗な絵画装飾に貝を磨いて貼る工芸品】である。室町時代末期にキリスト教が広まると同時に鉄砲と共に南蛮漆器が日本文化に大きく影響した。李徳響は南蛮漆器を手に持ち朝鮮に1589年1月に帰国したとされる。
第2章.第1部《小田原征伐の始期》
ー日本 大坂城 ー
『誠ですか。それが誠なら私も一万の兵を関白殿下にお預けします。』
大坂城の高部に位置する庭園で豊臣秀吉と徳川家康が茶を飲みながら話し合っていた。
『果たして、、兵士は集められるものとしてどう明へ侵攻するものか。』豊臣秀吉は真剣に悩んでいた。
豊臣秀吉が悩む理由は一つだ。明こと日本の間にある日本海は右流【海の流れが右である事】である。日本軍は明に行くためには左に進まねばならぬ。右流の日本海に対して左に進むとは自殺行為も同然だ。故に豊臣秀吉は明に隣接している朝鮮の道を借りる事を決意する__
『関白殿下!関白殿下!大変です!』
その庭園に加藤清正が慌てて走って来た。徳川家康と豊臣秀吉が振り向くと加藤清正はこう言った。
『関白殿下。大変です。板部岡江雪斎《いたべおかこうせつさい》が上洛して参りました。』
徳川家康は不審に思い尋ねた。
『何故あの者が上洛したと言うのだ?』
『北条氏直《ほうじょううじなお》との関係回復の為交渉に参った様です。』
ー京都 右思川《うしがわ》ー
板部岡江雪斎は1000人の兵士と共に整然とし行進していた。先頭に立つ板部岡江雪斎の手には北条氏直直筆の巻物。板部岡江雪斎の目の前に前田利家が立った。
『板部岡将軍。よくぞ参った。関白殿下が左思川《さしがわ》でお待ちだ。』
前田利家は輿に板部岡江雪斎を乗せて左思川へ向かう__
ー朝鮮 漢陽ー
『弘文館副提学李徳響、倭国の密偵を終えて参りました。』
李徳響は南蛮漆器を抱えて宣祖に礼をした。宣祖は李徳響が持つ南蛮漆器に興味を特に示している。
『王様。この工芸品が気になりましたか。これは神を信仰する民族宗教である''キリスト教''が日本に伝えた華麗な絵画に貝を貼り作った南蛮漆器と呼ばれるものです。この工芸品は大層貴重な物ですので王室でお使い下さい。』
この時李徳響が朝鮮に持ち帰ってきた南蛮漆器は1592年に王宮が民に盗難を受け王宮から失われる事となる。南蛮漆器を盗った者の名は''金明遠《キム・ミョンウォン》''全羅道の将軍である。1594年に処刑される。
終
- Re: 壬辰丁酉.第2章.第2部《小田原征伐開戦》 ( No.5 )
- 日時: 2019/12/11 13:11
- 名前: エイ (ID: Xr//JkA7)
『関白殿下!北条氏が真田《さなだ》領の拠点である名胡桃城を奪取しました。』
小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏《ごほうじょうし》を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。北条氏が持つ城の裁定の際に揉め事となり対立が始まる。板部岡江雪斎が1588年2月に関係回復の為にやって来る。北条氏と真田氏に沼田城の割譲が行われ1589年12月に北条氏政《ほうじょううじまさ》が上洛することが決定。上洛は前向きに検討されていたが10月下旬北条氏が真田領の拠点に侵攻する。これを反逆と見た京の人々は誰もが騒然となった。
北条方から弁明の使者として石巻康敬が上洛し、豊臣氏側からは先の沼田城引き渡しと同じ津田盛月と富田一白が派遣されて関係者の引き渡し・処罰を求めたが、北条方はこれを拒否した。秀吉はこの朱印状の中で「氏政上洛の意向を受け、それまでの非議を許し、上野沼田領の支配さえ許した。しかるに、この度の名胡桃攻めは秀吉の裁定を覆す許し難い背信」であると糾弾した。これに対して氏直は遅れて12月7日付の書状で、氏政抑留や北条氏の国替えの惑説があるため上洛できないことと、家康が臣従した際に朝日姫と婚姻し大政所を人質とした上で上洛する厚遇を受けたことを挙げた上で、名胡桃城事件における北条氏に対する態度との差を挙げ、抑留・国替がなく心安く上洛を遂げられるよう要請した。また名胡桃城事件については、氏政や氏直の命令があったわけではなく、真田方の名胡桃城主が北条方に寝返った結果であり、「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となっている城なので、そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである」「名胡桃城は上杉が動いたため軍勢を沼田に入れたにすぎない」、「既に名胡桃城は真田方に返還した」と弁明している。
11月、秀吉は関東の領主たちに「氏政の11月中の上洛がない時は来春に北条討伐を行う」ことを通知した。
秀吉と北条氏の仲介を断念した家康は12月に上洛し、秀吉に同意の意向を伝えるとともに自身も対北条戦の準備を開始した。
第2章.第2部《小田原征伐開戦》
2月中に、豊臣秀次、徳川家康、前田利家、織田信雄ら各大名が出陣し、2月25日には織田信雄、徳川家康が三枚橋城に到着。3月3日に豊臣秀次、蒲生氏郷の軍勢が到着。
2月20日、志摩国に九鬼嘉隆、来島通総、脇坂安治、加藤嘉明、長宗我部元親、その他宇喜多氏・毛利氏らの1千隻を超える豊臣方の水軍が集結し、出航。2月27日、駿河国清水港へ到着。輸送としても、大軍勢と長期の合戦を想定して、清水港には20万石を越える兵糧が運び込まれていた。3月に入ると、水軍は秀吉の到達を待たずに伊豆長浜城を攻略。以降、西伊豆の諸城を落としながら伊豆半島を南下。
『儂が反逆者である北条氏政の首を取り必ず天皇陛下に首を捧げる!』
秀吉は節刀を手にして躊躇いもなくそう言い放った。威勢良いその言葉に兵士達は雄叫びを上げた。
その一動を後ろから眺める謎の男。男は加藤清正に目を当てて静かにこう呟いた。『父上。見ていて下さい。必ずこの戦で戦勝致します。』
この戦は豊臣軍の兵力16万に比べて北条氏の兵力は8万である。この戦は確実に豊臣軍に光が向いていた。天正18年(1590年)春頃から豊臣軍主力が、かつて源頼朝が平家打倒の挙兵の際に兵を集めた黄瀬川周辺に集結。3月27日には秀吉自身が沼津に到着し29日に進撃を開始、進撃を阻む山中城には秀次・徳川勢を、韮山城には織田信雄勢を宛てて攻撃を開始した。
織田信雄《おだのぶかつ》は敵軍城兵より次々と矢を放たれ、木に隠れ鳥銃で対抗している。
『放て!敵軍の射線を切り移動しつつ攻撃せよ!』
北条勢・吉山《よしやま》は矢が切れた事を確認。
『おい…矢が切れてしまった…矢が…このままではまずいぞ。矢の補給を要請せよ。出来るだけの最小限の人数で。』吉山はかなり焦っている。すると韮山城裏門から約100人ほどの兵士が矢の補給に走って行ったのを見て退軍令を下した。『そなたら、何をやっておる!そなたら…承知せんか…』吉山が説教していた次の瞬間その兵士の中に隠れていた織田信雄軍の密偵が吉山らとその配下の兵士らを刺し殺した。
対峙状態が続いていた韮山城での戦いは4ヶ月の時を経て密偵によって北条軍が敗戦。ほとんどの城も敵の進軍により敗城。残されていた北条氏の拠点城も、北の鉢形城は6月14日に守将の北条氏邦が出家する形で開城となり、伊豆の韮山城も6月24日に開城し北条氏規が秀吉の元に出仕した。八王子城の落城に続いて津久井城も開城し、秀吉は黒田孝高と共に織田信雄の家臣滝川雄利を使者として氏政、氏直の元に遣わした。7月5日、氏直は滝川雄利の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、秀吉に氏直の降伏が伝えられた。
戦勝した軍兵らの中に甲冑を背負った加藤清泰《かとうきよやす》彼がいた。そんな加藤清泰の姿を目にした金沢定治《かなざわさだはる》は清泰を指差して馬を跨る加藤清正に言った。
『あれは…加藤公のご子息では?』加藤清正は清泰の姿に目を向けて驚く。〈何故…あやつがここにいるのだ…〉加藤清正は内心驚きを隠せない様子。
軍営を戻る軍兵らの元へ清正がやって来た。そして清泰の姿を発見。清正は清泰を呼び話すのだった。
『清泰。久方ぶりであるな。達者であったか?元気にしておったか?今までどこで暮らしていたのだ?私の事を恨んだりはしておらぬな?』
清正の口からは質問が止まらない。
『父上。私が父上の事を恨まなかったとでも?』
終