複雑・ファジー小説
- Re: 灰かぶりが靴を履くなら ( No.1 )
- 日時: 2023/01/22 00:40
- 名前: 心 ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
┄┄1┄┄
地面に落ちたパンくずを、時計を持ったうさぎが食べていた。遠くの方で、八つ頭の竜が吼えている。僕のすぐ隣を、かぼちゃの馬車が駆けていった。
何がどうなってる、と呟こうとした時、誰かが僕を呼んだ。
「はち……起き…………」
僅かに身じろぐと、肩にぶつかったペンケースが音を立てて床に落ちた。がしゃん、という音と共に中身が床へ放り出され、ふっと僕は顔を上げる。
「おーい八王子。八王子僚一さーん? 起きたか? 一番後ろの席は意外とよく見えるぞ」
「……僕、寝てました?」
「寝てたぞ、割とガッツリ。深夜まで勉強するのはほどほどにな、中三とはいえ」
「スミマセン」
周りから笑いが沸き起こる。
どうやら、朝学活の途中に居眠りをしてしまったようであった。ならば先程の光景は夢なのだろう。
僕はいまさらそれに気付いて、くるりと教室を見回す。ほとんどのクラスメイトがこちらを見て笑っていて、でもそれが嘲笑でないのが救いだった。
たしかに昨日──もはや今日──は深夜まで勉強したし、疲れが溜まっているのだろう。
「りょーちゃん、コレ」
「ごめん、ありがとう」
床に散らばってしまったシャーペンやら消しゴムやらを拾って渡してくれる心優しい友人に向けて、どうもどうもと礼をする。小学校から何回も筆箱を落とすなんてことはやって来たが、居眠りして筆箱を落としたのは初めてである。差し込んできた日光が目を刺した。
次第に騒がしくなってくる教室を鎮めるかのように、先生がぱん、と手を叩く。保体の教師らしい快活な声が、教室に響き渡った。
「八王子も起きたので……えー、二つお知らせ。一つ目、物騒なことだから気をつけて、北町のほうに住んでる人。住宅とか多いだろ? 家の窓ガラスが立て続けに割られてるって話だ。あの辺防犯カメラとかもないから、何があったのか全然わからないらしい」
手帳を見下ろしながらそう言った先生は、一旦言葉を切った。目が合いかけて、僕は少し姿勢を正す。
「あ、それ聞いた! お隣さんちもやられたって」
「マジ? 西山んちあっちの方だっけね」
隣の席の、西山瑞稀が話しかけてくる。
「そうなんだよねー、ってヤバ」
いつの間にか教室は静まり返っていて、話しているのは僕らだけだった。あわてて僕と西山は前を向いて、それを見計らって先生がもう一度口を開く。くすりと笑う気配が、前の席から漂ってきた。
「えー二つ目。編入生がうちのクラスに来ます」
静まり返った湖面みたいな、悪く言うなら倦んでいたような教室に、大きな石を投げ込んだかのように。たちまち教室内は、喧騒に包まれた。
「なんでこの時期なんだろ」
「それな。二学期もうあと二ヶ月くらいだし、転校生来る時期じゃなくね? 高校とかどうすんだろ、私立かなあ」
僕自身、編入生さんが女子なのか男子なのかは気になるところではある。なんで二学期なかばに転校してくるのかということも。だがまあ、こうやって僕たちが騒ぎまくっているだけではそれは発表されないわけだ。中三にもなれば、さすがにそれに気づく。
僕が先生の方をちらりと指さすと、西山はああ、とでも言いたげな顔をした。ちょい静かにしよ、と前の席の友人に言っているのが耳に入る。
それが少しづつ伝播するように静かになる僕らを見て、先生は笑って頷いた。
「えー、みんなが先ず気になってそうなことから発表します……女の子の編入生さんです。ここからかなり遠いところから来るので、仲良くしてね──えっと今日何曜日? 木曜日か。じゃあ月曜日からなんで、みんな暖かく迎えてください」
ざわざわざわ、と。再び喧騒が広がる。
流石にこれは僕のテンションも上がらざるを得なかった。編入生がやって来るということが、学生生活の中で何回あるだろう。ましてやそれが女子である。中間試験が思うようにいかなかった人も多くて、やや元気が落ち込み気味だったクラスが、すこし活気を取り戻したような気がした。
- Re: 灰かぶりが靴を履くなら ( No.2 )
- 日時: 2023/01/22 00:43
- 名前: 心 ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
┄┄2┄┄
朝学活が先生の話で長引いたが故に、一時間目までは五分しかなかった。トイレに行くほどの時間もなく、さりとて勉強するほどの意欲も持ち合わせていない僕は、時計の針が九時へ向かっていくのを眺めていた。
確か課題が出ていた、ということを思い出して、僕は数学のワークを机の中から取り出す。一応全てやってあるかを確認しようとすると、前の席から声がかかった。
「さっきの、りょーちゃんが居眠りとかめっちゃ珍しいじゃん。しかもあんなうつ伏せになってさ」
「聞いてくれ、ノスケ……」
僕の幼なじみこと、志村瞬之介である。ちなみに50メートル走において学年で一番で、ついこの間の体育祭の時は大いに活躍していた。
───閑話休題、居眠りについてはさすがに弁明をしないわけにも行かない。僕は右手をひらひらと振って言う。
「最近眠りが浅くてさあ。四時くらいに一回起きちゃうんだ。そのままもう一回寝ようとするじゃん? 寝れないんだ、これ。だから勉強したりとかスマホいじったりとかしてて、そのツケが回ってきた」
「それは分かる、取り敢えずスマホ見るよな」
「ノスケ、分かってくれるのか……!」
感動した僕が手を握ろうとすると、ノスケこと瞬之介は笑って手を引っ込める。傷ついたー、と呟いてみれば、彼はからからと笑った。
「てかさあ、りょーちゃんも俺のことノスケって呼ぶようになったよね。昔は瞬ちゃんだったのに」
「だって皆ノスケって呼んでるじゃん」
「昔からそういうとこあるよね、なんか。みんなに合わせようとするみたいな」
「ノスケがマイペースすぎるだけだろ」
みんなに合わせようとしてる、と言われて、僕は少し考え込む。そういうことをした覚えはあまりないのだが、小一からの友達であるノスケが言うのならそうなのだろうか。
「あー、数学シンプルにだるい」
ノスケはそう呻いて、教科書を机に叩きつける。
ちらりと黒板の方へ目を転じると、数学の先生が入ってきたのが見えた。チャイム鳴るよー、と呼びかける学年委員の声がする。ノスケが前を向いたので、僕もまた姿勢を伸ばした。
□ △ □
僕は昼休みが好きだ。特に晴れた日。理由は、閑散としてるからと言うだけだけど。
外は快晴だが、こんな暑い日に外へ出る気になれるはずもなく。もし仮に僕がテニス部とかバドミントン部とかであったなら外へ行こうという気になったのだろうか。三年生はほぼ全員が引退している今となっては無意味な想像である。まあ僕は文芸部なので、昼休みは基本教室で読書なのだが。
今日も今日とて文庫本を読んでいれば、唐突にページへ影が落ちる。机の前に誰かが立ったのだ。
「あのさあ、僚一高校どこ受ける? 」
続けて聞きなれた声が耳に入って、僕は本から顔を上げた。
「宏介じゃん、いきなりどした? テニ部見に行かないの?」
ノスケと同じくらいの幼なじみ、守谷宏介であった。ちなみに元男子テニス部主将、50メートル走は大体ノスケと同じくらい。
「いや、今日は寒いからいいんだわ。そ、で高校の話しだけど。お前頭いいから、どこ受けるのか気になるなあと思ってさ」
「……───かな。滑り止めに──附属あたり」
志望校は、正直言ってしっかりここに行きたいというのがある訳ではなかった。別に音楽が出来るわけでも、スポーツができるわけでも、絵が描けるわけでもなかったからだ。何かになりたいとかそういうのもない。比較的英語が出来るが、別にそれを将来活かしたいとは思わなかった。
だから、塾の先生に訊いたことから選んで決めた。なんとなく、というのに尽きる。
「マジか……? お前そんだけ頭いいんだから他行けるだろ、例えば──とか」
宏介が、かなり頭のいい高校の名前を告げる。
「あそこなんて無理に決まってるよ! あそこめっちゃ頭いいんだぞ……ほんとに落ちたくないしさ。確実に受かれるところだろ。結構みんなそこ行くって言ってるし、知り合いも多そうじゃん」
本当にそれしか考えていなかった。
そもそも、僕はそこまで勤勉ではないし頭も良くないのだ。勉強の意欲が絶対に続かない。真面目に受けてなんになるのか。
僕がそう言って、宏介がちらりと顔をしかめたのが見える。
「うわー、マジ、煽りかそれ? 俺も勉強頑張らないとな」
よくそう言われるよ、と苦笑して呟く。
ただ僕には、周りの連中が、レベルの高いところを受けようとする意味があまり分からない。
「……だって、ほんとにリスク取る必要ないと思うんだよ。落ちたら高校行けないかもしれないよ?」
落ちたらどうする? これに尽きる。チャレンジして、それでも駄目だったら諦めるとか、そういう訳には行かない。
「そのための滑り止めだろ? とぅ高校に行く。いえすいえす」
「いきなり中二の文法持ってくる? to不定詞じゃん」
「それがすぐに出てくる僚一やっぱ天才?」
気持ちを切り替えたのか、けらけらと笑う宏介につられて僕も笑う。to不定詞はこれから使えるギャグだな、と心のメモ帳にメモする。昔からこういうのは、きっと宏介の方が天才だと思う。
「理科とか復習やってる? 僕、マジで物理苦手すぎて人権がありません」
「理科は……とりあえずフレミングの法則覚えとけばいいだろ物理。逆にそれ以外ぼくはおぼえてません」
シャッ、と効果音が付きそうなほどの勢いで、宏介は左手を突き出した。人差し指を僕の方へ、中指を左側へ。ここまでは正しいからいい。だが──
「お前それ、親指倒さないよ? 親指は力の向きだから真上だよ、僕よりダメなヤツいたわ」
「嘘だろ……まあいいや、テスト本番では合ってたから!!」
「嘘だろ……僕でさえそれは覚えてるよ……」
空気が一気に軽くなった気がした。何はともあれ、僕も受験までに物理を完璧にしなくてはならない。もう中一の冒頭なんて忘れ去ってるし、なによりも中二が大変だ。あの時は地獄だったなと思う。
理科の勉強会をノスケと宏介に提案しよう、と僕は心のメモ帳に追記した。
- Re: 灰かぶりが靴を履くなら ( No.3 )
- 日時: 2023/01/22 00:44
- 名前: 心 ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
┄┄3┄┄
視界が猛烈なスピードで流れていく。
夜の冷たい空気が肌を切っている、とはいささか詩的な表現が過ぎるだろうか。夜に気温が下がるのは、太陽が出ていないのもそうだが、陸は温度を溜めにくいからだと地学で習った気がする。
いやまあ、シンプルにいま僕が自転車に乗っているからかもしれないが、さすがにこれは寒い。
「九月終わりの気温かこれ……」
必死に自転車を漕ぎながら呟いたせいで、さらに口元が寒くなる。吸い込んだ空気まで冷たいものだから、身体の芯まで冷えていく。
そんなことを呟いていると、曲がり角で曲がるのを忘れそうになる。最近ノスケが発見した抜け道で、正規ルートにある坂道をショートカットできるとノスケが言っていた。それを信じて通ってみれば、確かに遠回りではあるが比較的平坦な道ばかりである。
以後僕はこの道を使っているのだが、たまに気を抜くと曲がるのを忘れてしまう。
今回は思い出せてよかったな、と思いつつ、僕は自転車のハンドルをきった。コンビニエンスストアの角を左折して、住宅街に入る。
そう言えば、窓ガラスが立て続けに割られているというのはこの辺なんだったか。
────特に泉町方に家ある人。あの辺って住宅とか多いだろ? 家の窓ガラスが立て続けに割られてるって話だ。
僕の家は下泉と言う地区にあって、泉町とは若干離れているから、別に危なくはないのだが。
建ち並ぶ住宅を横目に見つつ、若干加速。流石に人を襲ってくるなんてことはないと信じているが、ちょっと怖いのは否めない。なら通るなよという話ではあるが、早く帰りたいという気持ちと恐怖を天秤にかけた結果である。月曜日とかならば通らなかっただろうが、金曜日は早く帰りたい方が勝る。
道を直進して、信号で右折。交通安全の看板を目印にして、そこの通りで左折しようとした時───
「は……え……?」
この辺りの住宅街は、家と家の間の隙間が小さな路地のようになっている。そこに、人がいた気がした。僕の方へ振り返ってきて、目が合いかけた気がした。
ただの人ならば気にしなかった。コンビニが比較的近いから、出掛ける人だっているだろう。でもそれより僕の目を引いたのは、その人が持つ色彩だ。
流れる金髪と、空みたいな薄い青の目。白皙の肌と青いドレス。足元には黒いブーツ、だろうか。よく見えない。まるでシンデレラみたいな。でもガラスの靴じゃない。じゃあシンデレラではないのか。そもそも、この道を使っていてあんな子とすれ違ったことなんてなかった。
自転車は速いから、僕の視界から一瞬でその人は消えてしまう。だが、確かに誰かがいた気がする。ざわざわと胸の中が荒波立った。
なぜか先程の恐怖が重みを増してきて、ペダルを強く踏み込む。吹き付ける風も構わずに、立ち漕ぎで家を目指した。どくどく、と心臓の血液を送り出す音が耳元で鳴っている。吸い込んだ息が肺を刺した。
□ △ □
「ただいま……」
玄関のドアを開けて、小さく呟く。ほっとひとつ息をついて、少し胸をなでおろす。きっと幻覚か。幻覚が見えているというのも相当に頭が疲れている気がするけれど。
もう寝ているであろう、年の離れた妹を起こさぬように、静かに廊下を移動した。一旦自分の部屋へ行ってバックを置き、洗面所で手を洗う。
明かりの着いたリビングに踏み込むと、母さんはまだ起きているようだった。ふわりと暖かな空気が身を包む。父さんは帰ってないんだろう。
テーブルへ向かいながら、スマホをとりあえず起動してLINEを開いた。
「おかえり。カレー温めて食べてね」
自分は寝室の方へ向かいながら、母さんがそう言った。
「あー、ありがと」
「じゃ母さんは寝るから、僚一も夜更かしあんましないで寝てね。電気消すの忘れないで」
「分かってるって」
ちゃんと返事しなくては、と思うのだが、おざなりな返しになってしまう。かすかに苦笑した気配を漂わせ、母さんを見送る。
リビングが静まりかえった。エアコンの駆動音がやけに耳につく。ふと、前に親にどう接するかの話題になった時のことを思い出した。友達もみんなこういう感じらしいから、僕は普通なのだろう。不意に、スマホが振動した。LINEの通知ではないかと検討をつけてみれば、やはりノスケから来たメッセージである。
『やっぱ絶対そうなんだよな』
トーク画面に移動して、とりあえず返信を打ち込む。
『何が?』
『今日の塾。課題、みんな出さないんだったら僕も明日でいいですって言ってたじゃん』
『いや、絶対気まずいし目立つ』
『そういうとこ、皆に合わせようとしてる感じする』
さっきのことを思い返してみる。僕だけしか課題をやっていない──提出日が今日じゃなかっただけ──で、それで僕は明日でいいと言ったのだ。塾の先生たちも大変だろうし、目立つし、皆出さないんだったら出さなくていいだろうと思う。
カレーの鍋を火にかけて、白米をレンジに入れた。
そのままノスケとLINE上で会話しつつ、なにか忘れているような気がしていた。レンジの動く音を聞きながら、心のメモ帳と記憶を漁る。ああ、そういえば、理科の勉強会をしようとしていなかったか。
『起きてる?』
『起きてるよ』
『明日勉強会しない? 理科』
『真面目くんじゃん、良いよ』
『二重の意味であざす』
なんだかんだ言ってノスケも真面目だろ、と思うが返信には打ち込まず、代わりに『宏介にも言っとく』と続けて送信する。それに既読が付くのを確認して、視線を鍋の中のカレーへ向けた。
ぴー、ぴー。静寂を唐突に破って、レンジが鳴る。びくりと一瞬肩がはねてしまった。いつになったらこれに慣れるんだろうなと思いながらも、白米をレンジから取り出す。熱っ、と小さく口から声がこぼれた。火を消して、鍋をコンロからおろす。
ちらりとスマートフォンへ目をやれば、またメッセージが来ていた。勉強の途中だったら悪かったな、という申し訳なさが一瞬過ぎる。
『図書館?』
まだ小学生の妹がいるうちは論外だし、宏介の家も弟がいると言っていたからきっと無理だ。ノスケが図書館を提案してきたということは、彼は図書館で勉強したいのだろう、と考える。
『それがいいと思う』
『りょうかい』
『10時でたのむ』
『早起きするわ』
よろしく、とスタンプを送り付けてスプーンを握った。宏介にも連絡しておこうと思いながら、ちらりと時計へ目をやる。22時30分。まだ起きているはずだ。トーク画面を立ち上げて、明日勉強会をする旨を送信する。すぐさま了承の返信が返ってくるのを確認して、LINEを閉じた。
リビングには、時計の針の音だけが響いていて。そう、時計。
「不思議の国のアリス……」
Googleを立ち上げて、そう打ち込んだ。不思議の国のアリス。妹がよく読んでいる本だと覚えている。夢に出てきた時計を持ったウサギ、あれはあの話に出てくるのではなかったか。パンくずを食べていたけれど、不思議の国のアリスにそんな話はなかった気がする。
パンくず。道標、という言葉が頭をよぎった。ああそうだ、ヘンゼルとグレーテルで道標として落としていくもの。
だったらなぜ、アリスのウサギがパンくずを食べていたのか。僕が見つけられない、もしくは知らないだけで、不思議の国のアリスにはパンくずの話があるのか。
「まあ夢、だもんなあ……」
そう呟いて、僕はスマートフォンの電源を落とした。
- Re: 灰かぶりが靴を履くなら ( No.4 )
- 日時: 2021/03/07 10:30
- 名前: 心 ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
┄┄4┄┄
図書館で勉強するということが、効率がいいかなんて知るはずもない。
「待て、俺スタバもう一杯飲みたい。誰か買ってきてくれ」
「え、宏介が僕たちに奢ってくれるんじゃないの!?」
「は!? 主催者は僚一なんだからお前奢れよ」
中学一年生の内容から理科復習しようぜ大会、略して理科復習大会は学校近くの図書館で開催されていた。スターバックス併設になっているので、僕らはそこのテーブルで勉強していたわけである。ちなみにTSUTAYAも併設されている図書館だ。学生が利用しないはずがなく、今日も今日とて混みあっていた。
テーブルを使うのだからとりあえず一杯買うのは当然として、この男はどうやらもう一杯飲みたいらしかった。今日は昨日ほど寒くはなくて、割と暖かい。外のテラス席でも十分である。九月終わりの気温に相応しく、フラペチーノにするか紅茶の類いにするかというのは悩みどころだ。
しかし、先程宏介はなんと言ったか。主催者が僕だから僕が奢れなどと言っただろうか。
「邪智暴虐やめてもらっていいですか」
「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」
僕のメロス──これは若干の語弊があるけど──に対抗して、宏介はエーミールを返してきた。これは手強い、と感じながらも、頭のキャパシティは湿度の計算に注ぎ込まれている。つまり返す言葉が浮かばない。小数点の計算をミスしそうで怖かった。
このままでは僕の負けである。
「君らうるさいんですけど!? ビークワイエット!」
窮状を救ったのは、ノスケの一言である。見事なまでのカタカナ英語でそう告げた彼は、シャーペンの先端を僕らの方へ向ける。それを聞いた僕と宏介は顔を見合わせ、ノスケの方をもう一度見た。
謝るより先に解決しなくてはならないことがある。
「これはノスケの負けだわ……ノスケ買ってきて」
宏介が、とてつもなく重大なことを告げる口調でそう言った。突拍子もなくお前が負けだと言われれば、誰だって動揺するだろう。
「なんの勝負してたの!?」
ノスケだって例外ではなく、目を若干見開きながらそう叫ぶ。
「どれくらい勉強ネタ使えるかな選手権」
「は!? だからメロスとエーミール?」
「そう」
18%、と解答欄に書き込みながらもちらりと様子を伺えば、かなりノスケが可哀想な感じになっている。なにも僕はノスケを嵌めたくて選手権をやっていたつもりはない。僕らが騒ぎ合う中で一番真面目だったノスケが割を食うのはやはり良くないと思って、バッグから財布を取り出した。
「ノスケが可哀想だから僕行ってくる、ついでに妹用の本借りてきたいし」
「いいお兄ちゃんだ……」
しみじみと呟きながら頷くノスケを見て、どこかしらおじいちゃんのような感じを覚える。ノスケっておじいちゃんじゃね、ということばは胸の内に留めつつ、僕は財布を持って立ち上がった。と、そこでふと違和感。なぜ僕が財布を持っているのだ。
「僕の奢りなのおかしくない? 宏介が払うんじゃないの?」
「気付いちゃったか……」
なんだかんだで宏介も悪いヤツじゃない。そう言えばちゃんと分かってくれるヤツである。ぽん、と差し出された五百円玉を確かに受け取ると、ぐっと親指を立てられた。なんの幸運を祈られたのだと思いながらも、ちらりとノスケを見遣れば、すまないとでも言いたいのか手を合わせられる。
こちらも特に意味はないものの、親指を立てて小さく挨拶。
「じゃ」
そのまま立ち上がって店内に入り、最初に絵本がある場所を目指す。
階段を二階分ほど上がっていると、段々とスターバックスから聞こえてくる話し声がフェードアウトしていくのだ。この、少しづつ静寂に包まれていくような感覚が僕はとても好きだった。まるで、別世界に迷い込んだみたいな。
いつの間にか足元の床の柄は変わっていた。童話を思わせるパンくず柄、飛び石のようになったキノコ柄。小さな子供が楽しめるようにとの配慮だろうか。向こうの方まで見透かせば、様々な模様があるのが見えた。通路の両脇に本棚があって、たくさんの絵本が並んでいる。
子供本の場所に来た証であった。
「痛──ッ」
不意に、頭の奥が痛むような感覚。青いドレスをそこに幻視する。が、次の瞬間には何も見えなかった。白昼夢を見たのか。分からない。視界がぐるぐるした気もしたし、何も起きなかった気もした。
ここがどこか不安になってしまって、左手の方の本棚に目を転じる。『不思議の国のアリス』、『ヘンゼルとグレーテル』、『ブレーメンの音楽隊』。子供向けの童話が並んでいた。
そうしてきっとさっきの感覚は気のせいだと言い聞かせようとするが、どうしても不安が心の内に巣食う。
「……どうして? なんで……」
小さな声が聞こえた。幼稚園生や小学校低学年特有の高い声ではない。むしろアルトとでも言うべき、それなりに低い声。でも女性であることは確かに分かる。縦に長い通路の、向こうの方だ。顔を上げて、失礼にならない程度にちらりとそちらを伺う。
さら、と金髪が落ちるのが見えた。手には青い表紙の本か。何よりも目を引いたのは、彼女の服装だった。青いドレス。白い肌。あの時の人だ、と思う。自転車の時の。
その中で異形のように佇むのは、黒いブーツだった。光を吸い込む漆黒が、肌とドレスに相反している。
本来僕は、そこで違和感を覚えるべきなのかもしれなかった。しかし、彼女の姿はどこまでも現実味が薄くて、それでいてそこにあるのが当然と思うこともできる気がした。果てしなく矛盾した感情が渦巻いて行き着いた先で、僕は呟いた。
シンデレラじゃない、って。
「あ……!」
不意に彼女の手に力が籠ったのがわかる。本のページがぐしゃり、となる音が本当に微かにだけれど聞こえたからだ。ページを破り捨てようとしているのか? だったら止めなくては。そう思うと同時に、ふと一つ思う。
何故止める必要があるのか。そんなことしたら自分が目立つだけだ。
一瞬そこで躊躇ってしまって、次瞬きしたときにはもう彼女は見えなかった。鳥肌が立つ。僕のイメージとして記憶されているのは、青と白と金と黒。それ以外には何も思い出せず、何を彼女が言っていたのかも覚えていなかった。
「気の所為であってくれよ……」
小さく祈るように呟きながら、妹用の本を探す。最初に目に付いた『シンデレラ』と『ブレーメンの音楽隊』を手に取って、貸し出しカウンターに向かった。
宏介に頼まれたものも忘れずに買って、ノスケたちのところへ戻る。
────その後は、僕は安穏と一日を終えた。特に幻覚を見ることもない。だけど、頭の中に黒いシンデレラというイメージは焼き付いたままだった。
- Re: 灰かぶりが靴を履くなら ( No.5 )
- 日時: 2021/03/18 21:01
- 名前: 心 ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
┄┄5┈┈
さて今日は月曜日。転校生が来る、その当日である。朝から教室全体がどこか浮き足立っているように感じたし、実際僕も傍から見ればそうなのかもしれない。ただ眠いので、とりあえず机に突っ伏してみる。周りが騒がしくて寝れやしないし、机は硬い。
チャイムが鳴ったのが聞こえて身体を起こした。いつもならここで朝学活が始まる。
「えー、おはようございます。とりあえず朝学活の前に編入生さん紹介します。入ってきてくださーい」
いかにもって感じだ、と思う。
「灰原硝子、です。よろしくお願いします」
教室に入ってくるなりそう言って一礼したのは───金髪に青い瞳、白い肌、それに黒のタイツを履いた彼女だった。金髪はどちらかというと白に近い色合いで、そのきらめきから地毛なのだろうと僕は悟った。俗にサイドテールと呼ばれる髪型だろうか。
均整の取れた顔立ち、と表現するのが当たり障りがないように思う。目の青が、はっきりと見えた。そこはかとない神秘性を感じて、小さく瞬いた。
それを見るなり教室がざわめいて、テンションが上がっていくのが明確に分かる。けれどそれとは反対に、僕の体温が下がっていくのがわかった。幻覚。いや、そんなことは有り得ない。集団幻覚、という言葉がちらついたけれど、それもきっと有り得ない、と根拠の無いまま否定する。
黒いシンデレラ、というイメージが同時に想起された。図書館で見た彼女、自転車の時に見かけた彼女だ。名をはいばらしょうこと言っただろうか。
声を上げかけたけれど、一瞬でブレーキがかかった。目立つのも怖かったし、彼女を不快な思いにさせてしまうかもしれないのも怖かった。
「灰原の席は後ろのとこな。えーと、ちょっと自己紹介してほしい」
「あ……ええと……得意な科目とか、嫌いな科目はあまりないです。あと、よく聞かれるんですが髪色と目の色は元々です。……童話、昔話、神話とか。そういう本については詳しいです」
彼女の視線が滑って、僕を捉えたのがわかる。それと同時に僕も目を合わせたから。
あのときの、と小さく灰原の唇が動いた気がした。読唇術なんて使えないから分からないけれど。確かにその時彼女は一瞬目を見開いていたと思う。
「えー可愛い!」
「プリンセスじゃん……かわいー!」
「……ッ」
プリンセスじゃん、という女子の言葉を聞いて、彼女の表情が一瞬強ばったように見えた。が、それはどうやら気のせいだったらしい。微笑みを取り戻した灰原は、何も聞こえなかったかのように先生の方へ振り向く。
「先生、わたしの席はあそこで良いんですよね?」
僕の席は廊下側から数えて二列目、灰原が指さす席は窓から三列目の一番後ろだ。
クラスメイトは偶数人であるから、ここに彼女が入ると奇数になり、必然的に灰原は一人席である。が、彼女自身はそれを欠片も気にしていないようで、先生が頷くと同時にまっすぐ席に向かって歩いてくる。
「───わたし、図書室が気になるんだけど」
「あ、じゃあうち、昼休み案内するよ!」
「ありがとう」
会話が雑音に紛れながらも聞こえてきて、僕は思わず息を詰めた。一瞬、図書館で焼き付いたイメージが蘇る。青と白と金と黒。
「はいはい、じゃあ朝学活始めるから静かにしてくださーい」
先生の声がすぐに滑り込んできて、そのイメージは僕の脳内から消し去られてしまったけれど。
□ △ □
昼休みが始まったことを告げるチャイムが鳴った。
灰原を含む女子の一団が、図書室に向かって行くのが見える。普段ならば閑になった教室で本を読むところだが、今日はどうしても彼女が気になってしかたなかった。適度なタイミングで席を立って、横目で彼女らを伺いながらも図書室へ先回りする。
ただ、若干の後ろめたさは拭いきれない。気になっている本があったのだと自分に言い訳をする。
「あー、数学の鈴木先生はね……」
「国語の佐藤先生が一番面倒だと思うけどね」
後ろから追いかけてくる女子の声。佐藤先生が面倒なのは同意したいが、本人がいるともしれない場所でそういう話が出来るのは、豪胆と言うべきなのか何なのか。少なくとも僕には不可能なことである。
階段を降りて、廊下の突き当たりを曲がる。図書室の中は、廊下や教室と打って変わって静まり返っていた。
適当に本棚を物色しながら、灰原たちがやってくるのを待つ。新刊の場所を確認したが、どうやら目当ての本はもう貸し出されたらしい。
「って、どうするんだ……」
女子の一団がやってきたのが、入口付近に見えた。西山もその中にいるようで、灰原を含めて四人程度。かと言って話しかける訳にもいかず、手持ち無沙汰のまま、不審に思われない程度にちらりとそちらを伺う。
晴れた日の昼休みに図書室に行こうというひとはやはり限られているのか、室内には僕と灰原たち、そして数名の後輩しかいない。しずかだ、と思う。しばらく彼女らを観察していたけれど、特に変わったことは無かった。若干拍子抜けの感を味わいつつも、本棚の合間を抜けて壁に貼られたポスターを眺める。
灰原たちがいなくなったのか、図書室の中がさらに静かになった気配を感じた。まるで、凪いだ水面のような。
「───あなた」
どん、と心臓が強く打った。耳の奥で流れる血の音がする。高い、鈴を転がすような声と形容されるものだろうか。それにしてはひどく無遠慮で棘のある語調だが。
反射的に息を吸い込んで、恐る恐る振り返った。
「灰原……」
金髪のサイドテール、青い目。間違えようがない。
「あなた、わたしのクラスメイトでしょう? ごめんなさい、まだ全員分の名前は覚えきれてないの。教えてもらってもいいかしら?」
「は……八王子、だけど。八王子遼一」
ほぼ条件反射で名乗ってしまう。そうせざるを得ないなにかが、彼女にはあるように思われた。このまま会話を続けるのが、なぜだか酷く怖い。それは僕が灰原に対して恐怖しているとかそんなことではなく、純粋な未知への恐怖である。
逃げ出したい衝動を押さえ込み、じっと青色の目を見つめた。図書室の柔らかな光が、彼女の顔に影を落としている。
「図書館に居たでしょう、あの時。あと、夜の道路でわたしのこと見かけたはず。話しかけてこないから人違いかと思ったけれど」
「……『黒いシンデレラ』」
無意識のまま、そう呟いていた。
- Re: 灰かぶりが靴を履くなら ( No.6 )
- 日時: 2022/03/19 19:54
- 名前: 心 ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
┈6┈
ゆっくりと灰原が瞬いたのが見えた。一瞬困惑が挟まる。
先程まで教室などで見せていた貞淑で穏やかな顔つきが嘘のように、その表情が憤怒に染まる。
「何言ってんの……!!」
手近に殴れるものがあったら殴っていそうなほどの強い語気。
今にも襟を掴まれそうだった。
場所を考慮してか、そこまで声圧は強くないけれど、叩きつけるような感情が込められているように感じる。
久しく味わっていなかったこの感覚に、思わず上体をのけぞらせてしまった。
「ッ、ごめん」
ほぼ反射で謝ってしまう。昔からの悪い癖だった。相手の機嫌を損ねたくなくて、その必要がなくても謝罪の言葉が口を突く。だが、今のは確実に、彼女の地雷を踏み抜いてしまった僕が悪いだろう。
他人から向けられる悪意が、怖かった。
灰原もまさか一瞬で謝られるとは思っていなかったのか、小さく瞬いたようだった。何回か深呼吸した彼女は、どこか気まずげに目を逸らす。
「……わたしのこと、シンデレラって呼ぶのやめて。あと、出来れば───ううん、なんでもない。とにかく、わたしはシンデレラ嫌いだから、そうやって言うのはやめてほしい」
打って変わって静かな口調で、灰原はそう言った。その青い目は、どこかここじゃない場所を見据えているみたいだ。
「それは、どうして……?」
女の子なら、誰だって一度は憧れる存在であろう。
そう思って僕は問いかけたのだけれど、灰原はどこか逡巡したようだった。それが何故かは分からない。ただ、彼女がひどく苦しげな顔をしていたことだけが印象に残る。
は、と深々とため息をついて、諦めたように灰原は口を開いた。
「もう見られたから仕方ないわ……わたしの姉なのよ、シンデレラって」
時が止まった、気がしていた。まるで、世界が魔法を解くことを拒んだみたいだ。図書室のカーテンを透かす陽光の色が、やたらと目につく。
ざわりと、白昼夢のような。
粉々に割れたガラスの靴。けれど、それは砂時計をひっくり返したみたいに元通りになっていく。ティアラを煌めかせた誰かと、恐らく灰原であろう少女が相対しているように見えた。歩み寄ろうとしたのだろう。そっと差し出された華奢な手を、灰原は勢いよく振り払う。
ぱちん、と音がして、その音で意識の焦点が、今そこにいる灰原に戻った。
遠くとおく、ここじゃない場所へ一瞬意識が飛んでいた気がする。淡い。
「なにを……?」
ようやく絞り出せた言葉はそれだけだ。本当に何が起きたのかわからなくて、瞬く。
彼女がうすく目を開く。睫毛が細かく震えて、青がそれに遮られたのがはっきりと見えた。決して距離は近くないのに、一挙手一投足を意識させるような───いや、僕の方が、意識せずにはいられないのか。そう気付いても目が離れない。
彼女の存在だけが濃くなっているかのような、その気配。ぞわぞわと、毛が逆立つ感覚というものを覚える。
ただの幻覚と、作り話と一蹴させないなにかが、僕を縛っていた。
さらりと揺れるサイドテールに緩く指を搦めながら、灰原は───シンデレラの妹は、口を開く。
「わたしはこの世界の人間じゃないし、あちらの世界にも居場所はないの。必要とされていない──いいえ、必要とされなくなった」
衝撃よりも疑問が先に立つ。
金縛りにあったみたいだ。適当な相槌を打とうにも、そんなおざなりな返しは許さないとでも言いたげな彼女の瞳が、こちらを見ている。
「じゃあ、灰原が……その……ものすごく、シンデレラみたいな名前をしてるのはどうして?」
この質問を口に出すのに、とてつもない勇気が要った。
灰原は目を逸らす。視線は本棚の上を滑っていた。
「姉様が、わたしのことを嫌えばいいと思ったから。模倣だとか、偽物だとか、そういうふうに思ってほしかった。姉様の象徴が何かわかる? 愛とか、慈悲とか、寛容さとか、硝子とか? よく分からないし知りたくもないけど。───あなた、見たでしょう? 私がガラスを割ってるとこ」
ふっ、と空中に視線を転じて、灰原はそう言った。
あの金曜日の夜が思い起こされる。はっきりと覚えているわけではないけれど、あんな胸騒ぎのする出来事はなかなかなかった。
彼女の言葉を肯定するように頷いて、言葉の続きを待つ。
「だからね、わたしを嫌って憎んだ時点でそれはもう姉様じゃない───いいえ、シンデレラではないの。灰かぶり姫では、ないのよ」
失墜させたかった、と語尾にそれを溶かして、灰原は目を閉じた。
僕はそれを聞いて、少し違和感を抱いていた。それは僕の思っていた答えと違ったからで、それを尋ねてしまう勇気が、この時の僕にはあったのだ。
「灰原は、シンデレラになりたかったの……?」
その願望が投影されたのが、彼女の名前ではないかと、そう思ったから。
「────あまりにもたちの悪い冗談じゃないかしら、それは」
細かく語尾をふるわせながらそう言って、灰原はそれきりなにも喋らなかった。僕も口を開けない。
静寂を上塗りするみたいに、どこか籠もった音でチャイムが鳴った。
◆
一日はなにもないまま終わった。教室に戻ってから、僕と灰原は一言も会話を交わさなかったし、なんなら目すら合わせなかった。
僕は少し気になってしまって、ちらちらと彼女の方を伺い見たのだけれど、灰原はこちらを見ようとはしない。
何が起きたんだろう。何に巻き込まれたのだろう。
その日も、また夢を見た。
- Re: 灰かぶりが靴を履くなら ( No.7 )
- 日時: 2022/04/21 19:43
- 名前: 心 ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
┈7┈
夢の中だ、と最初に気づけたのは、最近同じような夢を見たからだった。あの、子どもの頃に夢見るものを混ぜ合わせたような世界。
あのとき僕がいたのは、どちらかというと森の中のような感じだった、気がする。わからない。ぼんやりとしか思い出せないのだ。
だが、今僕は城の中にいる。とても美しい場所。白い壁と青い絨毯、夢の中だからか踏んでいる感触はないのだが、間違いなく上質なものだというのが視覚からわかった。
そして、話し声が聞こえてきた。女性と男性がひとりづつ。右側の壁、そのもっとずっと向こうに扉があって、そこから声が聞こえているのだと気付いた。
何を話しているのかが気になってしまって、一歩踏み出す。
と、僕の目の前を影が横切った。
「灰原……」
うちの学校の制服でこそないが、サイドテールに結んだ髪型でそれを理解する。
そのまま部屋に入っていくのだろうと思って追いかけようとした僕は、かすかに何らかの声を聞き取った。いや、それは僕は聞きたくないものだったから、聞き取ってしまったという方が正しいんだろう。
「■■■■■。───、□□△──……▼■?」
女性の声だ。高く澄んだ、どこか聞き覚えのある──灰原の声に、よく似ているもの。
かろうじて、そのノイズのような音だけが聞き取れた。それは明確な声という形を成さず、語尾の上がり方だけで疑問を投げかけているのだということを理解する。
ざわざわと、肌に鳥肌が走っているのがわかった。
「■△、───……△△□■▲」
今度は僕の知らない男性の声だった。灰原は僕には気付いていないのか見えないのかわからないが、とにかく彼女も声に耳をそばだてている。
しばらく静寂が落ちていて、琥珀みたいに時間が止まった気さえした。
「■■△□■? いるの△……──□□▲▼?」
びくりと灰原が肩を震わせた。僕には聞き取れなかったそれは、彼女に向けた問いかけであったらしい。一瞬躊躇ったあと、そのまま灰原は部屋に入っていく。
空気が動いて、服の裾に退けられた埃がきらきらとひかった。
「ね、■■△□■。だから……────」
そのまま僕がそこに立ち尽くしていれば、少しづつ声にかかるノイズが外れていく。まるでデコードのような。
しばらくそこで会話、あるいは声を聞いていると、それがこちら側の様々な国の言語が重なり合わさったものなのではないかということが分かった。少しづつ日本語らしくなってきたような、若干英語が重なって聞こえにくいような気もしている。
少し前に進んで、開け放たれたままの扉の中を覗いてみた。ちらりと罪悪感がよぎって、だれにも見られていないことを確認してしまう。
「でも、わたしは……」
灰原の声だ。
部屋の左手側に小さなテーブルと椅子が三脚置かれていて、中央を真っ直ぐ行った先に扉が見える。開放されてこそいないが、窓から覗く空と、そこから推測できる高さからしてバルコニーの入口ではないだろうか。
そこまで考えて、僕もまた部屋の中に入った。堂々と真横を通過したのにも関わらず、ドア脇に立つ兵士はなにも反応を返さない。
「ね、王子もこう言ってくださっているし」
「ええ。全く構わないですよ」
左手側から、声。
「わたしは、そんな……ッ」
振り絞るような言い方だった。胸の内に蟠るものとか、今まで吐けていなかったものとか、そういう全部が込められたような。
灰原へ、手が差し伸べられている。白くて華奢で、それでいてところどころに赤切れの痕がある手。それだけでシンデレラがどんな事を積み重ねてきてそこに座っているのかが察せられてしまって、それは灰原も同じようだった。
ぎ、ときつく同じように白い、けれども傷跡のない灰原の手が握りしめられている。
「……ふざけないでよ! わたしはそんな人間じゃない、なにも見えてないじゃない!!」
強い感情の込められた叫びだ。シンデレラと王子は何も言わない。呆気に取られているのか、動揺しているのかは上手く読み取れなかった。苦しいことだけが確かだ。
それと同時に、かつかつとヒールが鳴った。灰原はくるりとそのまま背を向けて、壁際の暖炉の方へ向かっていく。なにをするつもりだろう、とそちらを見てみれば、そこにはきらりと光る───
突如、破壊音。
高く硬質な、なにかが砕ける時の音だった。びくりと僕が肩を震わせて一歩後退れば、窓からの光を受けてガラスの破片がきらきらと光っている。そうしてやっと理解した。
砕かれたのは、棚の上に置かれていたガラスの靴。
「だいきらい」
ぽつりと灰原が呟いたのが聞こえて、それを境に視界が暗くなった。
アラームの鳴る音がしている。
□ △ □
朝起きたら喉がひりひりと痛んでいた。口を開けて寝てしまっていたらしい、なにか喋ろうとしたわけでもないのに。ずっしりと重くなった頭と疲れの取れた気のしない身体は、あの夢を経験したからだろうか。
今回の夢は前よりもずっとよく記憶に残っていた。むしろ普段の夢の方が覚えていないと思えるくらいには明瞭に思い返せる。
カーテンを開けた。日はもうとっくに昇っているらしい。
「きついな」
気付いたら呟いていた。
灰原は、もしかしたらそれを叶えられる立場にいたのだ。だからあんなにも諦めきれていないのだ。他人に切り落とされるのではなくて、自分自身で切り離してしまったから。
それを悟ってしまって、僕はしばらく呆然としていた。なぜ、灰原があんなにも苦しそうな顔をしていたのかを理解すれば、こんな僕に口出しできることなんてないように思われてしまう。
それをどこか悔しく思っている自分がいることに、その時はまだ気付けていなかった。
ふと思い立って、いつもより早く家を出た。
入学してからずっと朝練なんてものをやったことはなかったから、こんな早い時間帯の通学路を歩くのは初めてだ。時間以外はいつもと変わらないはずなのに、僕はどこか異物みたいな空気がある。
昇降口で、下駄箱を確認した。もともと出席番号は36まであって、そこに付け足された37番目、つまり灰原の下駄箱に靴が入っている。
「よかった」
人知れず呟いていた。こんなに早くに来て、目的の灰原がいなかったら時間を持て余してしまうから。それにしてもまだ登校してくる生徒のいない学校は静かだった。
とんとんと階段を登っていく。僕の立てる足音が波紋みたいに広がっていって、視聴覚室の方から遠雷のような吹奏楽部の練習する音が聞こえた。
そうしてたどり着いた教室に、入ることを瞬間躊躇ってしまう。怖いという気持ちがわずかに過ぎった。後ろのドアから、教室という立方体を満たす静寂を破らぬように身体を沈ませる。
灰原はそこにいた。
「──八王子くん」
唇が動いている。空気を揺らしてこちらを見つめていた。
その青い目を見ていれば、黙ってなどいられない。
「……おはよう、灰原」
躊躇いが過ぎった。当たり障りのない挨拶で誤魔化すな、と叱咤がする。
もう、問うしかなかった。
「どうして、諦められたの?」
窓からの風に舞い上げられてカーテンが揺れた。からりとカーテンレールを金具が滑っていく音すらも響いている。僕の声が落ちて、それと混ざり合うことなく分離しては消えていない。
青色の瞳が動いて、僕から外の景色へうつっていく。どうして知っているのか、とは問われなかった。ただ、答えかねたような、口にしては壊れてしまうものを恐れるような顔をしている。
僕だって怖いのだと言いたかった。でも、そんなのは独りよがりなんだろうから言えるはずもない。
「……姉様は、わたしとは違うから。憎まず、ひたすらに耐えて、耐えて掴んだ人だから。物語で、報われるべきはそういう人でしょう」
言葉が発される。ゆるやかに雨が海へととけるような、そんな雰囲気を纏って灰原はそう言った。
それは、どこか淡々としていても、しっかり本心なのだろうというとが伝わってくる口調だった。斜向かいに向けられた瞳がかすかに瞬く。
「わたしは誰よりも近くでそれを見てきたもの。……目が焼けるみたいだったわ」
眇められた瞳の奥に、憧憬と羨望を見た。
「───これ」
ゆっくりと、リュックサックの中からいつもなら持ってはいないものを取り出す。今日の朝、わざわざ妹から借りてきたものだ。正確には母なのだけれど、そんなのはどっちだっていい。
白の表紙に、青抜きでタイトルが刻まれている。
「灰原は、これ嫌いだって言ったよね」
「それでなにをしようって言うの!?」
瞬間的になんの本か理解したらしい灰原は、掴みかからんばかりの勢いでこちらに言ってくる。凪いだ海でイルカが跳ねたみたいに、一気に静寂が破られてしまったような。
僕だって負けてはいられなかった。それが僕のエゴだとしても、救いなんか、恋なんか所詮そんなものだ。
「向きあわないと、きっと何も起きない」
考えておいたページを開く。望む者に夢を見せるはず、そうであるべきとすらその時僕は思っていた。灰原が息を飲んだのだけが分かって、でも僕は目を開いてはいられない。
身体がここではない場所へ浮いている感じがして、視界がぶわりと明るくなる。一番明るかった教室の窓からその形を失って、床に落ちていた机の影すらも消えて──────
- Re: 灰かぶりが靴を履くなら ( No.8 )
- 日時: 2022/04/30 19:59
- 名前: 心 ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
┈8┈
「まさか本当にやるなんて」
灰原の声が遠くでしている。だが、僕はまだ意識をちゃんと取り戻せていない。ぼんやりと頭の中が揺れているような。
じわじわと輪郭を取り戻してきた光景と身体の感覚に安堵しながら、薄く笑って口を開いた。
「僕はもう決めたから」
僕たちは城の中らしきところに降り立っていた。灰原が悟った通り、開いていた本は『シンデレラ』、そして場面は舞踏会のところ。すなわち、城の大広間といった体の場所である。
ただ、いまはこの広間はがらんとしている。この世界ではもう舞踏会は終わってしまって、それどころか灰かぶり姫は救われたあとなのだろう。
だから、行かなくちゃならない。
「外、出られるかな」
「……衛兵がいる可能性があるわ。気をつけて行きましょう」
灰原もまた、覚悟を決めたような顔をしていた。短く頷きを返して、荘厳な装飾の施された大扉を開ける。
と──、
「■△▲?」
右手側から、軋むような声。衛兵だと気づくのに数秒かかった。
まずいと思ってそれを口走る間もなく、灰原が同じような音を口の端に載せる。と同時に僕は気づいた。
夢の中でみたもの、あるいは聞いたものと同じノイズの交じった声だ。その意味を理解するよりも先に、鋭く刺さるような視線を受ける。
なにが原作なのかは、僕にはわからない。カーキ色をした帽子とマントに短いナイフのようなもの。その確かさに、心臓が飛び跳ねた。
「は、灰原……!」
「白雪姫に見つかった! でもシンデレラまで伝わるのにはまだ時間はあるわ……!」
さすがの灰原も動揺しているのか、いつになく早口でそう急かされる。
信じられないくらいの勢いで鳴る心臓に押されるみたいに、とりあえずくるりと左側に体を向けて走り出す。灰原の手を無意識で握っていた。
わ、と小さく驚きの声を上げた彼女に答えたかったけど、口を開いたら息がしにくくなるとわかっているから何も言えない。
しばらく逃げ回るように城内を走っていれば、辺りが何だか見覚えのある景色に変わってくる。
廊下を抜けて、右手側に見えてきた部屋へ。まだ兵士はここまで到着していないのか、そこには静寂が広がっていた。
「あ、ここって」
「姉様……」
僕が何か言うよりもはやく、なにかに操られるみたいに、ふらりと灰原が一歩踏み出した。部屋を抜けて、青いドレスの見える半円形のバルコニーへ歩いていく。
僕はそこに入ってはいけないような気がして、入口で立ち止まる。がんばれ、と心の内で呟いた。
ノイズの取れた声が聞こえてくる。灰原の声だけをやけに明瞭に捉えた。
「わたし、姉様のこと、ずっと好きだった! 大好きで、愛してるから救われて欲しかったの!」
高所だからだろうか、風が強い。制服のスカートとドレスの裾が揺れて、ふらりと小さくよろめいたシンデレラの足元でガラスの靴がきらりとひかった。きん、と硬質な音がする。途端罅が入ったように白さを帯びたその表面が、瞬間的に元の輝きを取り戻した。
夢の中でもあれは一回割れていた、けど元に戻っている。これが象徴というやつなのか。
僕と同じその光景を見て、灰原は笑って告げた。それにはどこか陰が落ちる。
「でも、あなたの隣に並び立つにはわたしは……、なにもしてないから」
ああ。
きっとこれじゃ灰原は救われない。
シンデレラは心が真っ直ぐでやさしい人だ。だから、なにもしてないって言ったってきっとすぐに庇う言葉が飛んでくる。灰原が求めているものは、きっとそんな慰めじゃないと僕は感じた。
目立ったって何したって構わない。
救ってみせろ。
「僕じゃだめですか、灰原」
シンデレラの瞳がやさしく細められて、口を開きかけたその刹那に声を張り上げる。
やわらかな絨毯を踏んで、彼女に近づいて。
「……え?」
「灰原を救うのは、僕じゃだめですか!」
目が困惑気味に瞬かれ、さらりとサイドテールが揺れる。
手を伸ばした。
「王子様だってどうせ一目惚れだろ、ならもういいじゃんか! 僕だって灰原に一目惚れした、救いたいって思ってる!」
僕はどんな顔をしているだろう。笑っているといいんだけど。
表情筋がぐっちゃぐちゃになって、もうなにもわからない。ただ、願望だけが突き抜けていく。
「だから、僕じゃだめですか?」
もう一歩を踏み出した。
「わたしは……」
長すぎるくらいの間が空いた。それは僕の主観によってのものだったのか、それとも本当に灰原は長く迷っていたのか。あとから思い返したとしてもそれは分からない、という気がした。
シンデレラは黙っている。
「ずっと、わたし、わたし……ッ、わたしだって救われたかった、報われたかったよ──!」
灰原が泣いている。こぼれた涙が、夕陽を透かしてオレンジに光った。こちらへ、手が伸ばされる。彼女の努力とか、苦労とか。なにか知っているわけじゃなかった。けど、姉の努力を誰よりも傍で見続けて、報われるべきはそっちだと思って。
そして自ら身を引けた灰原の心の美しさに、僕はきっと魅せられてしまったのだ。
これが恋だろうか。
「ありがとう」
僕はそう言って、手を掴んだ。白くて華奢なそれが、強烈な西陽を受けて弾けるように光るなり、背景との境界線をうしなっていく。逆光に暗く落ちた影の中で、あおい瞳が海の底みたいにゆらゆらときらめきを反射した。そこに僕が映り込んでしまうことに、若干の抵抗すら感じている。
やわらかく、とけていく。
灰原はシンデレラではなかったのかもしれないけど、でも僕が踏み出すきっかけを作ってくれた。それはきっと魔法のようなものなのだ。
異常事態を告げる鐘が鳴らされている。魔法はまだ解けない。
ごう、と耳元で風が唸る。視界に入っているシンデレラの口元が動いて、でも僕には何を言ったのか聞き取れなかった。
「……はやく、行かな───ッ」
彼女の方に視線を移していた灰原が、一瞬驚きと笑顔の入り交じった表情をしてから唐突に目を見開く。きゅ、と瞳の輪郭が硬質さを取り戻した。その視線の先は僕じゃなくて、もっと向こうの方。バルコニーの扉だ。
はっとして振り返る。
と、ばたばたと複数人が走る足音が、扉の向こうから聞こえてきた。開け放たれる。
「トランプ兵……!」
灰原が、動揺をにじませて呟いたのが聞こえる。トランプ兵、というのは、不思議の国のアリスからか。ハートの女王の配下だっただろうか。どうやって倒せばいいのか、そもそも倒せるのか。ちゃんと読んだことがないからわからない。
じわじわと包囲の網を狭めてくるトランプ兵に対し、僕らはバルコニーの端で追い詰められたまま。
もう飛び降りるしかないよ、と隣で声がした。ここで死んだら、死体はどうなるんだろうと思ってしまう。
そんなことを思っている場合か?
ただそれ以上、助かりたいと思った。いや、ちゃちな一目惚れでも構わないから、灰原を救いたい。
ここが、御伽噺の世界だと言うのなら。あちら側の世界の人間が、夢を見るためにつくりだしたものの世界だというのなら。
きっと僕らを、救うだろうと確信した。
「───灰かぶり姫がガラスの靴を履いて、そして救われたというのなら、」
怖くないはずがない。
刺さるのは、おまえは邪魔だという視線。目立ってしまうのが怖かったのは、和を乱すことへの恐怖。仲間外れにされるのを、ひたすらに恐れていた。ただ、それだけ。
今そんなものは、微塵も問題ではなかった。いや、問題になんてならなくなった。
「僕らは翼でもって空を飛んでやろう!」
衝動が走っている。身体の内側を強く焼く。きっとできると信じていた。そう思えば思うほど、肩甲骨が熱く疼いていく感覚に焦がされている。
失ってしまうものか。
「足なんか、靴なんかなくたって構わないじゃないか……!」
が、と右足に何かが刺さる感覚。そのまま横へ衝撃が走って、逆に言えばそれ以外はなにもない。
ふっと下を見てみれば、先程のトランプ兵と、彼が持つ剣がちかりとひかっている。
足首から先を切り飛ばされたのだと気づいても、そこに血は溢れ出てこなかった。しゅわしゅわと、炭酸が弾けるような音を立てて、真っ白な光になって僕の右足は飛んでいく。
ふらりとバランスが崩れた。まるでローファーから上履きに履き替えた時みたいな、確かな軽さと若干の違和感だけがそこにあった。
が、血は流れない、痛みすらもない。綺麗で夢のようで決して穢れを許さず、それに合わぬ者を排斥してきた世界なのか。
「はち、おうじくん……!」
灰原が目を見開いた。バルコニーの欄干を残った足だけで蹴り飛ばす。
「大丈夫!」
僕は今、きっと掴んだ気がしていた。灰原だって報われる。だからどうか、ハッピーエンドで終わらせてくれ。
そう祈って、ふたりで地面に身を投じて────