複雑・ファジー小説

Re: 灰かぶりが靴を履くなら ( No.5 )
日時: 2021/03/18 21:01
名前: 心 ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

┄┄5┈┈
 
 さて今日は月曜日。転校生が来る、その当日である。朝から教室全体がどこか浮き足立っているように感じたし、実際僕も傍から見ればそうなのかもしれない。ただ眠いので、とりあえず机に突っ伏してみる。周りが騒がしくて寝れやしないし、机は硬い。
 チャイムが鳴ったのが聞こえて身体を起こした。いつもならここで朝学活が始まる。
 
「えー、おはようございます。とりあえず朝学活の前に編入生さん紹介します。入ってきてくださーい」
 
 いかにもって感じだ、と思う。
 
灰原硝子はいばらしょうこ、です。よろしくお願いします」
 
 教室に入ってくるなりそう言って一礼したのは───金髪に青い瞳、白い肌、それに黒のタイツを履いた彼女だった。金髪はどちらかというと白に近い色合いで、そのきらめきから地毛なのだろうと僕は悟った。俗にサイドテールと呼ばれる髪型だろうか。
 均整の取れた顔立ち、と表現するのが当たり障りがないように思う。目の青が、はっきりと見えた。そこはかとない神秘性を感じて、小さく瞬いた。
 それを見るなり教室がざわめいて、テンションが上がっていくのが明確に分かる。けれどそれとは反対に、僕の体温が下がっていくのがわかった。幻覚。いや、そんなことは有り得ない。集団幻覚、という言葉がちらついたけれど、それもきっと有り得ない、と根拠の無いまま否定する。
 黒いシンデレラ、というイメージが同時に想起された。図書館で見た彼女、自転車の時に見かけた彼女だ。名をはいばらしょうこと言っただろうか。
 声を上げかけたけれど、一瞬でブレーキがかかった。目立つのも怖かったし、彼女を不快な思いにさせてしまうかもしれないのも怖かった。
 
「灰原の席は後ろのとこな。えーと、ちょっと自己紹介してほしい」
「あ……ええと……得意な科目とか、嫌いな科目はあまりないです。あと、よく聞かれるんですが髪色と目の色は元々です。……童話、昔話、神話とか。そういう本については詳しいです」
 
 彼女の視線が滑って、僕を捉えたのがわかる。それと同時に僕も目を合わせたから。
 あのときの、と小さく灰原の唇が動いた気がした。読唇術なんて使えないから分からないけれど。確かにその時彼女は一瞬目を見開いていたと思う。
 
「えー可愛い!」
「プリンセスじゃん……かわいー!」
「……ッ」
 
 プリンセスじゃん、という女子の言葉を聞いて、彼女の表情が一瞬強ばったように見えた。が、それはどうやら気のせいだったらしい。微笑みを取り戻した灰原は、何も聞こえなかったかのように先生の方へ振り向く。
 
「先生、わたしの席はあそこで良いんですよね?」
 
 僕の席は廊下側から数えて二列目、灰原が指さす席は窓から三列目の一番後ろだ。
 クラスメイトは偶数人であるから、ここに彼女が入ると奇数になり、必然的に灰原は一人席である。が、彼女自身はそれを欠片も気にしていないようで、先生が頷くと同時にまっすぐ席に向かって歩いてくる。
 
「───わたし、図書室が気になるんだけど」
「あ、じゃあうち、昼休み案内するよ!」
「ありがとう」
 
 会話が雑音に紛れながらも聞こえてきて、僕は思わず息を詰めた。一瞬、図書館で焼き付いたイメージが蘇る。青と白と金と黒。
 
「はいはい、じゃあ朝学活始めるから静かにしてくださーい」
 
 先生の声がすぐに滑り込んできて、そのイメージは僕の脳内から消し去られてしまったけれど。
 
□  △  □
 
 昼休みが始まったことを告げるチャイムが鳴った。
 灰原を含む女子の一団が、図書室に向かって行くのが見える。普段ならばしずかになった教室で本を読むところだが、今日はどうしても彼女が気になってしかたなかった。適度なタイミングで席を立って、横目で彼女らを伺いながらも図書室へ先回りする。
 ただ、若干の後ろめたさは拭いきれない。気になっている本があったのだと自分に言い訳をする。
 
「あー、数学の鈴木先生はね……」
「国語の佐藤先生が一番面倒だと思うけどね」
 
 後ろから追いかけてくる女子の声。佐藤先生が面倒なのは同意したいが、本人がいるともしれない場所でそういう話が出来るのは、豪胆ごうたんと言うべきなのか何なのか。少なくとも僕には不可能なことである。
 階段を降りて、廊下の突き当たりを曲がる。図書室の中は、廊下や教室と打って変わって静まり返っていた。
 適当に本棚を物色しながら、灰原たちがやってくるのを待つ。新刊の場所を確認したが、どうやら目当ての本はもう貸し出されたらしい。
 
「って、どうするんだ……」
 
 女子の一団がやってきたのが、入口付近に見えた。西山もその中にいるようで、灰原を含めて四人程度。かと言って話しかける訳にもいかず、手持ち無沙汰のまま、不審に思われない程度にちらりとそちらを伺う。
 晴れた日の昼休みに図書室に行こうというひとはやはり限られているのか、室内には僕と灰原たち、そして数名の後輩しかいない。しずかだ、と思う。しばらく彼女らを観察していたけれど、特に変わったことは無かった。若干拍子抜けの感を味わいつつも、本棚の合間を抜けて壁に貼られたポスターを眺める。
 灰原たちがいなくなったのか、図書室の中がさらに静かになった気配を感じた。まるで、凪いだ水面のような。
 
「───あなた」
 
 どん、と心臓が強く打った。耳の奥で流れる血の音がする。高い、鈴を転がすような声と形容されるものだろうか。それにしてはひどく無遠慮で棘のある語調だが。
 反射的に息を吸い込んで、恐る恐る振り返った。
 
「灰原……」
 
 金髪のサイドテール、青い目。間違えようがない。
 
「あなた、わたしのクラスメイトでしょう? ごめんなさい、まだ全員分の名前は覚えきれてないの。教えてもらってもいいかしら?」
「は……八王子、だけど。八王子遼一」
 
 ほぼ条件反射で名乗ってしまう。そうせざるを得ないなにかが、彼女にはあるように思われた。このまま会話を続けるのが、なぜだか酷く怖い。それは僕が灰原に対して恐怖しているとかそんなことではなく、純粋な未知への恐怖である。
 逃げ出したい衝動を押さえ込み、じっと青色の目を見つめた。図書室の柔らかな光が、彼女の顔に影を落としている。
 
「図書館に居たでしょう、あの時。あと、夜の道路でわたしのこと見かけたはず。話しかけてこないから人違いかと思ったけれど」
「……『黒いシンデレラ』」
 
 無意識のまま、そう呟いていた。

Re: 灰かぶりが靴を履くなら ( No.6 )
日時: 2022/03/19 19:54
名前: 心 ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

┈6┈
 
 ゆっくりと灰原が瞬いたのが見えた。一瞬困惑が挟まる。
 先程まで教室などで見せていた貞淑で穏やかな顔つきが嘘のように、その表情が憤怒に染まる。
 
「何言ってんの……!!」
 
 手近に殴れるものがあったら殴っていそうなほどの強い語気。
 今にも襟を掴まれそうだった。
 場所を考慮してか、そこまで声圧は強くないけれど、叩きつけるような感情が込められているように感じる。
 久しく味わっていなかったこの感覚に、思わず上体をのけぞらせてしまった。
 
「ッ、ごめん」
 
 ほぼ反射で謝ってしまう。昔からの悪い癖だった。相手の機嫌を損ねたくなくて、その必要がなくても謝罪の言葉が口を突く。だが、今のは確実に、彼女の地雷を踏み抜いてしまった僕が悪いだろう。
 他人から向けられる悪意が、怖かった。
 灰原もまさか一瞬で謝られるとは思っていなかったのか、小さく瞬いたようだった。何回か深呼吸した彼女は、どこか気まずげに目を逸らす。
 
「……わたしのこと、シンデレラって呼ぶのやめて。あと、出来れば───ううん、なんでもない。とにかく、わたしはシンデレラ嫌いだから、そうやって言うのはやめてほしい」
 
 打って変わって静かな口調で、灰原はそう言った。その青い目は、どこかここじゃない場所を見据えているみたいだ。
 
「それは、どうして……?」
 
 女の子なら、誰だって一度は憧れる存在であろう。
 そう思って僕は問いかけたのだけれど、灰原はどこか逡巡したようだった。それが何故かは分からない。ただ、彼女がひどく苦しげな顔をしていたことだけが印象に残る。
 は、と深々とため息をついて、諦めたように灰原は口を開いた。
 
「もう見られたから仕方ないわ……わたしの姉なのよ、シンデレラって」
 
 時が止まった、気がしていた。まるで、世界が魔法を解くことを拒んだみたいだ。図書室のカーテンを透かす陽光の色が、やたらと目につく。
 ざわりと、白昼夢のような。
 粉々に割れたガラスの靴。けれど、それは砂時計をひっくり返したみたいに元通りになっていく。ティアラを煌めかせた誰かと、恐らく灰原であろう少女が相対しているように見えた。歩み寄ろうとしたのだろう。そっと差し出された華奢な手を、灰原は勢いよく振り払う。
 ぱちん、と音がして、その音で意識の焦点が、今そこにいる灰原に戻った。
 遠くとおく、ここじゃない場所へ一瞬意識が飛んでいた気がする。淡い。
 
「なにを……?」
 
 ようやく絞り出せた言葉はそれだけだ。本当に何が起きたのかわからなくて、瞬く。
 彼女がうすく目を開く。睫毛が細かく震えて、青がそれに遮られたのがはっきりと見えた。決して距離は近くないのに、一挙手一投足を意識させるような───いや、僕の方が、意識せずにはいられないのか。そう気付いても目が離れない。
 彼女の存在だけが濃くなっているかのような、その気配。ぞわぞわと、毛が逆立つ感覚というものを覚える。
 ただの幻覚と、作り話と一蹴させないなにかが、僕を縛っていた。
 さらりと揺れるサイドテールに緩く指を搦めながら、灰原は───シンデレラの妹は、口を開く。
  
「わたしはこの世界の人間じゃないし、あちらの世界にも居場所はないの。必要とされていない──いいえ、必要とされなくなった」
 
 衝撃よりも疑問が先に立つ。
 金縛りにあったみたいだ。適当な相槌を打とうにも、そんなおざなりな返しは許さないとでも言いたげな彼女の瞳が、こちらを見ている。
 
「じゃあ、灰原が……その……ものすごく、シンデレラみたいな名前をしてるのはどうして?」
 
 この質問を口に出すのに、とてつもない勇気が要った。
 灰原は目を逸らす。視線は本棚の上を滑っていた。
 
「姉様が、わたしのことを嫌えばいいと思ったから。模倣だとか、偽物だとか、そういうふうに思ってほしかった。姉様の象徴が何かわかる? 愛とか、慈悲とか、寛容さとか、硝子ガラスとか? よく分からないし知りたくもないけど。───あなた、見たでしょう? 私がガラスを割ってるとこ」
 
 ふっ、と空中に視線を転じて、灰原はそう言った。
 あの金曜日の夜が思い起こされる。はっきりと覚えているわけではないけれど、あんな胸騒ぎのする出来事はなかなかなかった。
 彼女の言葉を肯定するように頷いて、言葉の続きを待つ。
  
「だからね、わたしを嫌って憎んだ時点でそれはもう姉様じゃない───いいえ、シンデレラではないの。灰かぶり姫では、ないのよ」
 
 失墜させたかった、と語尾にそれを溶かして、灰原は目を閉じた。
 僕はそれを聞いて、少し違和感を抱いていた。それは僕の思っていた答えと違ったからで、それを尋ねてしまう勇気が、この時の僕にはあったのだ。
 
「灰原は、シンデレラになりたかったの……?」
 
 その願望が投影されたのが、彼女の名前ではないかと、そう思ったから。
 
「────あまりにもたちの悪い冗談じゃないかしら、それは」
 
 細かく語尾をふるわせながらそう言って、灰原はそれきりなにも喋らなかった。僕も口をひらけない。
 静寂を上塗りするみたいに、どこか籠もった音でチャイムが鳴った。
 
 ◆
 
 一日はなにもないまま終わった。教室に戻ってから、僕と灰原は一言も会話を交わさなかったし、なんなら目すら合わせなかった。
 僕は少し気になってしまって、ちらちらと彼女の方を伺い見たのだけれど、灰原はこちらを見ようとはしない。
 何が起きたんだろう。何に巻き込まれたのだろう。
 その日も、また夢を見た。

Re: 灰かぶりが靴を履くなら ( No.7 )
日時: 2022/04/21 19:43
名前: 心 ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

┈7┈
 
 夢の中だ、と最初に気づけたのは、最近同じような夢を見たからだった。あの、子どもの頃に夢見るものを混ぜ合わせたような世界。
 あのとき僕がいたのは、どちらかというと森の中のような感じだった、気がする。わからない。ぼんやりとしか思い出せないのだ。
 だが、今僕は城の中にいる。とても美しい場所。白い壁と青い絨毯、夢の中だからか踏んでいる感触はないのだが、間違いなく上質なものだというのが視覚からわかった。
 そして、話し声が聞こえてきた。女性と男性がひとりづつ。右側の壁、そのもっとずっと向こうに扉があって、そこから声が聞こえているのだと気付いた。
 何を話しているのかが気になってしまって、一歩踏み出す。
 と、僕の目の前を影が横切った。
 
「灰原……」
 
 うちの学校の制服でこそないが、サイドテールに結んだ髪型でそれを理解する。
 そのまま部屋に入っていくのだろうと思って追いかけようとした僕は、かすかに何らかの声を聞き取った。いや、それは僕は聞きたくないものだったから、聞き取ってしまったという方が正しいんだろう。
 
「■■■■■。───、□□△──……▼■?」
 
 女性の声だ。高く澄んだ、どこか聞き覚えのある──灰原の声に、よく似ているもの。
 かろうじて、そのノイズのような音だけが聞き取れた。それは明確な声という形を成さず、語尾の上がり方だけで疑問を投げかけているのだということを理解する。
 ざわざわと、肌に鳥肌が走っているのがわかった。

「■△、───……△△□■▲」
 
 今度は僕の知らない男性の声だった。灰原は僕には気付いていないのか見えないのかわからないが、とにかく彼女も声に耳をそばだてている。
 しばらく静寂が落ちていて、琥珀みたいに時間が止まった気さえした。
 
「■■△□■? いるの△……──□□▲▼?」
 
 びくりと灰原が肩を震わせた。僕には聞き取れなかったそれは、彼女に向けた問いかけであったらしい。一瞬躊躇ったあと、そのまま灰原は部屋に入っていく。
 空気が動いて、服の裾に退けられた埃がきらきらとひかった。
 
「ね、■■△□■。だから……────」
 
 そのまま僕がそこに立ち尽くしていれば、少しづつ声にかかるノイズが外れていく。まるでデコードのような。
 しばらくそこで会話、あるいは声を聞いていると、それがこちら側の様々な国の言語が重なり合わさったものなのではないかということが分かった。少しづつ日本語らしくなってきたような、若干英語が重なって聞こえにくいような気もしている。
 少し前に進んで、開け放たれたままの扉の中を覗いてみた。ちらりと罪悪感がよぎって、だれにも見られていないことを確認してしまう。
 
「でも、わたしは……」
 
 灰原の声だ。
 部屋の左手側に小さなテーブルと椅子が三脚置かれていて、中央を真っ直ぐ行った先に扉が見える。開放されてこそいないが、窓から覗く空と、そこから推測できる高さからしてバルコニーの入口ではないだろうか。
 そこまで考えて、僕もまた部屋の中に入った。堂々と真横を通過したのにも関わらず、ドア脇に立つ兵士はなにも反応を返さない。

「ね、王子もこう言ってくださっているし」
「ええ。全く構わないですよ」 
 
 左手側から、声。 

「わたしは、そんな……ッ」

 振り絞るような言い方だった。胸の内に蟠るものとか、今まで吐けていなかったものとか、そういう全部が込められたような。
 灰原へ、手が差し伸べられている。白くて華奢で、それでいてところどころに赤切れの痕がある手。それだけでシンデレラがどんな事を積み重ねてきてそこに座っているのかが察せられてしまって、それは灰原も同じようだった。
 ぎ、ときつく同じように白い、けれども傷跡のない灰原の手が握りしめられている。
 
「……ふざけないでよ! わたしはそんな人間じゃない、なにも見えてないじゃない!!」
 
 強い感情の込められた叫びだ。シンデレラと王子は何も言わない。呆気に取られているのか、動揺しているのかは上手く読み取れなかった。苦しいことだけが確かだ。
 それと同時に、かつかつとヒールが鳴った。灰原はくるりとそのまま背を向けて、壁際の暖炉の方へ向かっていく。なにをするつもりだろう、とそちらを見てみれば、そこにはきらりと光る───
 突如、破壊音。
 高く硬質な、なにかが砕ける時の音だった。びくりと僕が肩を震わせて一歩後退れば、窓からの光を受けてガラスの破片がきらきらと光っている。そうしてやっと理解した。
 砕かれたのは、棚の上に置かれていたガラスの靴。
 
「だいきらい」
 
 ぽつりと灰原が呟いたのが聞こえて、それを境に視界が暗くなった。
 アラームの鳴る音がしている。
 
□ △ □
 
 朝起きたら喉がひりひりと痛んでいた。口を開けて寝てしまっていたらしい、なにか喋ろうとしたわけでもないのに。ずっしりと重くなった頭と疲れの取れた気のしない身体は、あの夢を経験したからだろうか。
 今回の夢は前よりもずっとよく記憶に残っていた。むしろ普段の夢の方が覚えていないと思えるくらいには明瞭に思い返せる。
 カーテンを開けた。日はもうとっくに昇っているらしい。
 
「きついな」
 
 気付いたら呟いていた。
 灰原は、もしかしたらそれを叶えられる立場にいたのだ。だからあんなにも諦めきれていないのだ。他人に切り落とされるのではなくて、自分自身で切り離してしまったから。
 それを悟ってしまって、僕はしばらく呆然としていた。なぜ、灰原があんなにも苦しそうな顔をしていたのかを理解すれば、こんな僕に口出しできることなんてないように思われてしまう。
 それをどこか悔しく思っている自分がいることに、その時はまだ気付けていなかった。
  
 ふと思い立って、いつもより早く家を出た。
 入学してからずっと朝練なんてものをやったことはなかったから、こんな早い時間帯の通学路を歩くのは初めてだ。時間以外はいつもと変わらないはずなのに、僕はどこか異物みたいな空気がある。
 昇降口で、下駄箱を確認した。もともと出席番号は36まであって、そこに付け足された37番目、つまり灰原の下駄箱に靴が入っている。
 
「よかった」
 
 人知れず呟いていた。こんなに早くに来て、目的の灰原がいなかったら時間を持て余してしまうから。それにしてもまだ登校してくる生徒のいない学校は静かだった。
 とんとんと階段を登っていく。僕の立てる足音が波紋みたいに広がっていって、視聴覚室の方から遠雷のような吹奏楽部の練習する音が聞こえた。
 そうしてたどり着いた教室に、入ることを瞬間躊躇ってしまう。怖いという気持ちがわずかに過ぎった。後ろのドアから、教室という立方体を満たす静寂を破らぬように身体を沈ませる。
 灰原はそこにいた。
 
「──八王子くん」
 
 唇が動いている。空気を揺らしてこちらを見つめていた。
 その青い目を見ていれば、黙ってなどいられない。 
 
「……おはよう、灰原」

 躊躇いが過ぎった。当たり障りのない挨拶で誤魔化すな、と叱咤がする。
 もう、問うしかなかった。
 
「どうして、諦められたの?」
 
 窓からの風に舞い上げられてカーテンが揺れた。からりとカーテンレールを金具が滑っていく音すらも響いている。僕の声が落ちて、それと混ざり合うことなく分離しては消えていない。
 青色の瞳が動いて、僕から外の景色へうつっていく。どうして知っているのか、とは問われなかった。ただ、答えかねたような、口にしては壊れてしまうものを恐れるような顔をしている。
 僕だって怖いのだと言いたかった。でも、そんなのは独りよがりなんだろうから言えるはずもない。
 
「……姉様は、わたしとは違うから。憎まず、ひたすらに耐えて、耐えて掴んだ人だから。物語で、報われるべきはそういう人でしょう」
 
 言葉が発される。ゆるやかに雨が海へととけるような、そんな雰囲気を纏って灰原はそう言った。
 それは、どこか淡々としていても、しっかり本心なのだろうというとが伝わってくる口調だった。斜向かいに向けられた瞳がかすかに瞬く。

「わたしは誰よりも近くでそれを見てきたもの。……目が焼けるみたいだったわ」
 
  すがめられた瞳の奥に、憧憬と羨望を見た。
 
「───これ」
 
 ゆっくりと、リュックサックの中からいつもなら持ってはいないものを取り出す。今日の朝、わざわざ妹から借りてきたものだ。正確には母なのだけれど、そんなのはどっちだっていい。
 白の表紙に、青抜きでタイトルが刻まれている。
 
「灰原は、これ嫌いだって言ったよね」
「それでなにをしようって言うの!?」
 
 瞬間的になんの本か理解したらしい灰原は、掴みかからんばかりの勢いでこちらに言ってくる。凪いだ海でイルカが跳ねたみたいに、一気に静寂が破られてしまったような。
 僕だって負けてはいられなかった。それが僕のエゴだとしても、救いなんか、恋なんか所詮そんなものだ。
   
「向きあわないと、きっと何も起きない」
 
 考えておいたページを開く。望む者に夢を見せるはず、そうであるべきとすらその時僕は思っていた。灰原が息を飲んだのだけが分かって、でも僕は目を開いてはいられない。
 身体がここではない場所へ浮いている感じがして、視界がぶわりと明るくなる。一番明るかった教室の窓からその形を失って、床に落ちていた机の影すらも消えて──────