複雑・ファジー小説
- Re: 灰かぶりが靴を履くなら ( No.8 )
- 日時: 2022/04/30 19:59
- 名前: 心 ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
┈8┈
「まさか本当にやるなんて」
灰原の声が遠くでしている。だが、僕はまだ意識をちゃんと取り戻せていない。ぼんやりと頭の中が揺れているような。
じわじわと輪郭を取り戻してきた光景と身体の感覚に安堵しながら、薄く笑って口を開いた。
「僕はもう決めたから」
僕たちは城の中らしきところに降り立っていた。灰原が悟った通り、開いていた本は『シンデレラ』、そして場面は舞踏会のところ。すなわち、城の大広間といった体の場所である。
ただ、いまはこの広間はがらんとしている。この世界ではもう舞踏会は終わってしまって、それどころか灰かぶり姫は救われたあとなのだろう。
だから、行かなくちゃならない。
「外、出られるかな」
「……衛兵がいる可能性があるわ。気をつけて行きましょう」
灰原もまた、覚悟を決めたような顔をしていた。短く頷きを返して、荘厳な装飾の施された大扉を開ける。
と──、
「■△▲?」
右手側から、軋むような声。衛兵だと気づくのに数秒かかった。
まずいと思ってそれを口走る間もなく、灰原が同じような音を口の端に載せる。と同時に僕は気づいた。
夢の中でみたもの、あるいは聞いたものと同じノイズの交じった声だ。その意味を理解するよりも先に、鋭く刺さるような視線を受ける。
なにが原作なのかは、僕にはわからない。カーキ色をした帽子とマントに短いナイフのようなもの。その確かさに、心臓が飛び跳ねた。
「は、灰原……!」
「白雪姫に見つかった! でもシンデレラまで伝わるのにはまだ時間はあるわ……!」
さすがの灰原も動揺しているのか、いつになく早口でそう急かされる。
信じられないくらいの勢いで鳴る心臓に押されるみたいに、とりあえずくるりと左側に体を向けて走り出す。灰原の手を無意識で握っていた。
わ、と小さく驚きの声を上げた彼女に答えたかったけど、口を開いたら息がしにくくなるとわかっているから何も言えない。
しばらく逃げ回るように城内を走っていれば、辺りが何だか見覚えのある景色に変わってくる。
廊下を抜けて、右手側に見えてきた部屋へ。まだ兵士はここまで到着していないのか、そこには静寂が広がっていた。
「あ、ここって」
「姉様……」
僕が何か言うよりもはやく、なにかに操られるみたいに、ふらりと灰原が一歩踏み出した。部屋を抜けて、青いドレスの見える半円形のバルコニーへ歩いていく。
僕はそこに入ってはいけないような気がして、入口で立ち止まる。がんばれ、と心の内で呟いた。
ノイズの取れた声が聞こえてくる。灰原の声だけをやけに明瞭に捉えた。
「わたし、姉様のこと、ずっと好きだった! 大好きで、愛してるから救われて欲しかったの!」
高所だからだろうか、風が強い。制服のスカートとドレスの裾が揺れて、ふらりと小さくよろめいたシンデレラの足元でガラスの靴がきらりとひかった。きん、と硬質な音がする。途端罅が入ったように白さを帯びたその表面が、瞬間的に元の輝きを取り戻した。
夢の中でもあれは一回割れていた、けど元に戻っている。これが象徴というやつなのか。
僕と同じその光景を見て、灰原は笑って告げた。それにはどこか陰が落ちる。
「でも、あなたの隣に並び立つにはわたしは……、なにもしてないから」
ああ。
きっとこれじゃ灰原は救われない。
シンデレラは心が真っ直ぐでやさしい人だ。だから、なにもしてないって言ったってきっとすぐに庇う言葉が飛んでくる。灰原が求めているものは、きっとそんな慰めじゃないと僕は感じた。
目立ったって何したって構わない。
救ってみせろ。
「僕じゃだめですか、灰原」
シンデレラの瞳がやさしく細められて、口を開きかけたその刹那に声を張り上げる。
やわらかな絨毯を踏んで、彼女に近づいて。
「……え?」
「灰原を救うのは、僕じゃだめですか!」
目が困惑気味に瞬かれ、さらりとサイドテールが揺れる。
手を伸ばした。
「王子様だってどうせ一目惚れだろ、ならもういいじゃんか! 僕だって灰原に一目惚れした、救いたいって思ってる!」
僕はどんな顔をしているだろう。笑っているといいんだけど。
表情筋がぐっちゃぐちゃになって、もうなにもわからない。ただ、願望だけが突き抜けていく。
「だから、僕じゃだめですか?」
もう一歩を踏み出した。
「わたしは……」
長すぎるくらいの間が空いた。それは僕の主観によってのものだったのか、それとも本当に灰原は長く迷っていたのか。あとから思い返したとしてもそれは分からない、という気がした。
シンデレラは黙っている。
「ずっと、わたし、わたし……ッ、わたしだって救われたかった、報われたかったよ──!」
灰原が泣いている。こぼれた涙が、夕陽を透かしてオレンジに光った。こちらへ、手が伸ばされる。彼女の努力とか、苦労とか。なにか知っているわけじゃなかった。けど、姉の努力を誰よりも傍で見続けて、報われるべきはそっちだと思って。
そして自ら身を引けた灰原の心の美しさに、僕はきっと魅せられてしまったのだ。
これが恋だろうか。
「ありがとう」
僕はそう言って、手を掴んだ。白くて華奢なそれが、強烈な西陽を受けて弾けるように光るなり、背景との境界線をうしなっていく。逆光に暗く落ちた影の中で、あおい瞳が海の底みたいにゆらゆらときらめきを反射した。そこに僕が映り込んでしまうことに、若干の抵抗すら感じている。
やわらかく、とけていく。
灰原はシンデレラではなかったのかもしれないけど、でも僕が踏み出すきっかけを作ってくれた。それはきっと魔法のようなものなのだ。
異常事態を告げる鐘が鳴らされている。魔法はまだ解けない。
ごう、と耳元で風が唸る。視界に入っているシンデレラの口元が動いて、でも僕には何を言ったのか聞き取れなかった。
「……はやく、行かな───ッ」
彼女の方に視線を移していた灰原が、一瞬驚きと笑顔の入り交じった表情をしてから唐突に目を見開く。きゅ、と瞳の輪郭が硬質さを取り戻した。その視線の先は僕じゃなくて、もっと向こうの方。バルコニーの扉だ。
はっとして振り返る。
と、ばたばたと複数人が走る足音が、扉の向こうから聞こえてきた。開け放たれる。
「トランプ兵……!」
灰原が、動揺をにじませて呟いたのが聞こえる。トランプ兵、というのは、不思議の国のアリスからか。ハートの女王の配下だっただろうか。どうやって倒せばいいのか、そもそも倒せるのか。ちゃんと読んだことがないからわからない。
じわじわと包囲の網を狭めてくるトランプ兵に対し、僕らはバルコニーの端で追い詰められたまま。
もう飛び降りるしかないよ、と隣で声がした。ここで死んだら、死体はどうなるんだろうと思ってしまう。
そんなことを思っている場合か?
ただそれ以上、助かりたいと思った。いや、ちゃちな一目惚れでも構わないから、灰原を救いたい。
ここが、御伽噺の世界だと言うのなら。あちら側の世界の人間が、夢を見るためにつくりだしたものの世界だというのなら。
きっと僕らを、救うだろうと確信した。
「───灰かぶり姫がガラスの靴を履いて、そして救われたというのなら、」
怖くないはずがない。
刺さるのは、おまえは邪魔だという視線。目立ってしまうのが怖かったのは、和を乱すことへの恐怖。仲間外れにされるのを、ひたすらに恐れていた。ただ、それだけ。
今そんなものは、微塵も問題ではなかった。いや、問題になんてならなくなった。
「僕らは翼でもって空を飛んでやろう!」
衝動が走っている。身体の内側を強く焼く。きっとできると信じていた。そう思えば思うほど、肩甲骨が熱く疼いていく感覚に焦がされている。
失ってしまうものか。
「足なんか、靴なんかなくたって構わないじゃないか……!」
が、と右足に何かが刺さる感覚。そのまま横へ衝撃が走って、逆に言えばそれ以外はなにもない。
ふっと下を見てみれば、先程のトランプ兵と、彼が持つ剣がちかりとひかっている。
足首から先を切り飛ばされたのだと気づいても、そこに血は溢れ出てこなかった。しゅわしゅわと、炭酸が弾けるような音を立てて、真っ白な光になって僕の右足は飛んでいく。
ふらりとバランスが崩れた。まるでローファーから上履きに履き替えた時みたいな、確かな軽さと若干の違和感だけがそこにあった。
が、血は流れない、痛みすらもない。綺麗で夢のようで決して穢れを許さず、それに合わぬ者を排斥してきた世界なのか。
「はち、おうじくん……!」
灰原が目を見開いた。バルコニーの欄干を残った足だけで蹴り飛ばす。
「大丈夫!」
僕は今、きっと掴んだ気がしていた。灰原だって報われる。だからどうか、ハッピーエンドで終わらせてくれ。
そう祈って、ふたりで地面に身を投じて────