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複雑・ファジー小説
- 秋月 ( No.1 )
- 日時: 2020/04/21 15:11
- 名前: 海原ンティーヌ (ID: Wpc96rD2)
月には兎がいるのだろうか。
「いるわけない」と言ったら「自分で確かめてもないのに?」と返したあの子は元気にしているだろうか。中秋を少し過ぎた頃、白い月が見守るあおい家路で、幼い僕らが約束した事を彼女は覚えているだろうか。「宇宙飛行士になる」「小説家になる」と。一方の夢は叶ったけれど、もう一方の夢は叶わなかったこと、彼女は知っているだろうか。今や僕は毎日のように、ただ上司に頭を下げ続け、惨めという言葉では足らないくらいな人間だということを、知っているだろうか。彼女がテレビの中で無邪気に笑っていたとき、かたや僕は満員電車の中表情を失い、過ぎ去る日々を無為に過ごしていたことを、知っているだろうか。
どうか知らないでいて欲しい。彼女の月光のように曇りない願いを、陰らせるのは本意ではない。
僕が仕事を首になったあの日、彼女がついに宇宙飛行士として月に降り立った、記念すべきその日。彼女は銀砂の上をたった数歩歩いて、それから彼女からの通信はおもむろに絶たれた。
あの日から今日で2年が経つ。彼女は依然として月面の彼方に消えたまま。自分の望みが、全地球を震撼させたことも露知らず。そして、一面の銀世界には目もくれず、彼女はきっと今も兎ばかりを探し続けているのだろう。
僕はあれから、ふとした時に彼女の顔を思い出すようになった。垂れ流しになる沢山の感情の中で、たった一つの、そしてひときわ大きな疑問を抱えて、僕は今日も人混みに息をひそめて生きる。
月に兎はいたのだろうか。
ただそれだけが、気がかりだ。
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