複雑・ファジー小説

Re: 自由と命令〜宵と白黒・外伝〜 ( No.13 )
日時: 2021/01/24 23:48
名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)

第五章 色ハ、ソノ瞳二映ルカ?
第一話

 その後、国境を越えてタリスクに入った列車は、やがて駅で停車した。列車に乗っていても、何だかふわふわして落ち着かない。苦しい、何か忘れているような気がする。
 何も、思い出せない。否、思い出すことなんてない筈なのに。幾度も繰り返した問。
 蓮はてっきり国境を越えるには入国許可証のようなものが必要だと思っていたが、楓樹によるとそれは要らないのだそうだ。きょうていの恩恵だ、とは楓樹の弁である。蓮にはそもそも協定が何かが分かっていなかったのだが。

□  △  □
 
 駅を出た先の街にある街は、こちらの言葉で黎明街と言うらしい。蓮にとっては目新しいものばかりだったが、ここに来て一番彼が驚いたのは楓樹がこの国の言葉を話せることだった。
 楓樹は仕事で何度も訪れたことがあるのだそうで、彼はすぐ話せるようになると言っていた。蓮には話せるような気がしなかったのだが。
 宿に着いたとき、楓樹は少し友人に挨拶してくる、と言って部屋を出て行ってしまった。楓樹が居なくなって手持ち無沙汰になった蓮は、窓の外を見つめてみる。
 窓の外は、澄んだ青い空ではなかった。何故だか灰色の空が視界一面に広がっている。

「見えない……」

 色が見えない。空の色も、ガラスに映り込む自分の瞳の色も。思い出せはする。絵の具でこの色を作れと言われたら、どうすればいいのかは分かる。だが見えないのだ。
 蓮は、記憶に穴が空いているような気がしてならなかった。その色とともに、誰かいたような気がするのだ。
 分からないけれど。

□  △  □

 ある夜、買って来たタリスク特有の料理を食べていた時のこと。楓樹が、真剣な顔で切り出した。

「蓮、ここにしばらく留まろうと思うんだ」
「ここに? 大丈夫なの?」

 あまり荷物など持って来て居ないことを心配した蓮がそう尋ねると、楓樹が頷いて答えた。それに、かすかな既視感。ぴぃん、と記憶の糸が震えるような。

「友達が部屋貸してくれるらしいんだ。だからそこに住もうと思ってる。俺が荷物取ってくるよ、そんなに遠くないから一日で帰ってこれるし。仕事もこっちに転職になりそうだったから。勿論蓮が嫌なら良いんだけど」

 そう言った楓樹は笑うと、蓮の目を見た。その黒い目が、蓮の記憶の海に一石を投じる。けれどそれが波となることはなくて。
 それに蓮は何処か虚無を感じながらも頷いて、笑った。

「良いよ。……ねえ、叔父さん。何かさ。忘れて、無いよね……?」

 漠然とした不安を抱えた蓮が、楓樹の顔を見つめる。先程から、記憶が揺れている気がして。蓮のその問いに、記憶の頁の文字が揺らぐ。だが、楓樹もまたそれが蘇ることは無かった。

「何か、忘れてたかな?」

 楓樹がそう言うと、蓮は何処か安心したように肩の力を抜いたのだった。

□  △  □

 それから少しして。蓮と楓樹はついに引越した。黎明街のかなり端のほうにある、大きめのアパートの一室である。
 玄関の前で大柄な男が一人、楓樹と聞きなれぬ言葉で会話していた。互いの真剣な顔を見るに、どうやら何か交渉をしているようだ。 
 
 蓮は玄関の前に立って、次々と若い男たちが荷物の箱を家の中に運び込んで行くのを眺めていた。手伝おうにも言葉がいまいち分からないので手伝えなかったのだが、それもさておき。 
 蓮の斜め後ろの方にいた楓樹が不意に聞き取れる言葉を、つまり秋津の言葉を発した。

「蓮! 俺ちょっと出かけてくるから、良い感じに荷物空けといてくれ!」
「わかった!」

 楓樹と話していた大柄な男がバシバシと彼の背中を叩きながら何処かへ歩き去って行く。お互い笑っていたし、悪いことは無かったのかな、と思いながら蓮はドアを開けた。
 
「……あれ?」

 少しの違和感は、すぐに具体的なものに変わった。三和土が無いのだ。キョロキョロと辺りを見回していると、後ろからぽん、と蓮の肩が叩かれる。蓮の肩を叩いた男は、自分の靴を指差してから、首を横に振ってみせた。そして、敷かれていたマットを靴で叩く。
 その動きが意味することを悟った蓮は、ぺこりと一礼した。靴底をマットで軽く擦って、部屋へ踏み込んだ。踏み込んだリビングに、空が見える窓がある。けれど、蓮にはやはり灰色にしか見えない。
 怖い、とここで初めて思った。
 色が、欠片も見えなくなっている。何て言えば良いんだろう。色の温度か。分からない。分からない。本当に何も分からないけれど、思い出して───何を? 見たい。思い出す──違う、誰──思い出せない──いるわけない──
 
 ぐるぐると回る思考は、結局形にはならなかった。

□  △  □

 ある程度荷物が運び込みが終わると──元からあまりなかった──、若い男たちが撤収して行く。ヒラリと手を振った先程の男に手を振りかえしながら、蓮は玄関のドアを閉めた。
 先程の思考は少し疲れていたことにしよう。忘れることにする、と決めて蓮は袖を捲った。
 
「さて、やるか……」

 少しでも進めておこう、と思いながらカッターを手に取り、早速一つ目の箱を開けにかかる。
 カッターの刃を、テープで止められている切れ目に食い込ませる。ざくり、と音を立てて刃が沈みこんでゆく。そっと左手を添えて、刃を引き切る。
 赤い雫が、舞った。

「つっ……!」

 何のことは無い、押さえていた手を刃が掠めただけのこと。
 けれど、血に蓮の瞳は───