複雑・ファジー小説
- Re: 宵と白黒 外伝 ( No.27 )
- 日時: 2020/08/01 02:28
- 名前: ライター ◆sjk4CWI3ws (ID: cl9811yw)
ヨモツカミさん主催のみんなでつくる短編集にて投稿したものです。 みなさんぜひ書きに行ってみてはいかがでしょうか。
「記憶の果てに沈む。」
横断歩道の前、信号で立ち止まってぼんやりとレンは空を見上げた。今まで二値化された夕暮れに慣れきっていたから、その空は不気味なほど紅く赤く鮮やかに見える。むしろこちらの方が怖く感じるほどに。ざわざわと揺らぐ中に立ち尽くして、微かに息を零した。ちらりと横目で見上げてみれば、信号はまだ赤だ。
夕暮れで思い返された色で塗られた記憶に沈み込んで、彼はどうしようもない最初を思い出す。
それは、蒸し暑い夏の夜だった。母、咲織の喪が開けて幾日か経った時のような気もする。今日は毎年恒例の夏祭りが命風神社で行われていて、彼もそれに行く予定だった。途中までは確かに祭りに向かおうとしていたはずで、その証拠に甚平を着ているしあずま袋も持っている。だが、何となく気が乗らなかったのだ。それはもしかしたら、明るくてきらきらした祭りがあまりにも今の自分の境遇には合わなかったからかもしれない。叔父であり育ての親でもある楓樹は町内会の仕事やら何やらをしに行くらしく、夕暮れ前から家を出ていったのだが。
黒のサンダルが乾いた土の地面を踏みつけて、道の端に転がっていた小石を蹴り飛ばす。人の気配なんて全然辺りにはしなくて、どんちゃん騒ぎの幽かな音が風に乗って流れてくるだけだ。木綿の涼やかな肌触りとは裏腹の、鈍い冷たさの風が肌にぶつかる。
それに何故かどうしようもなく腹が立って、風に八つ当たりしても仕方ないのに少年は叫びそうになった。息を吸って、腹に力を込めて、身体をくの字にそらして、叫ぼうとしたその時────
不意に、心地のいい風が吹いた。
顔を元に戻して、息を吸い直して、咳き込みそうになるのを堪えて前を見る。そこに立つのは、蓮よりも年上と思われる少女だった。彼女の冷涼な美貌に目が引き寄せられて、その次に鮮やかな白と緋袴に目が動く。その衣は何よりも雄弁に彼女の身分を物語っていた。
「巫女……さまが、なんでここに…………?」
「やめて、その呼び方。私は華鈴。それ以外の何者でもない。」
緑髪が風に靡き、力を僅かに抜いた少女の下駄が微かな音を立てた。夕暮れの光が滑り込んで、黒い瞳を照らしていく。
「華鈴、さまは……」
「華鈴でいい。君は?」
「あ、ぼくは井上蓮と言います…………えと、じゃ、華鈴さんはどうしてここに……?」
生温い風が長い髪を揺らして、彼女は鬱陶しげにそれを払う。ちらりと己の服装を見下ろして、せめてとばかりに絵元結を引き外した。女なら羨ましがるであろう美しい髪を、しかし彼女は無造作に後ろへ跳ね除ける。
一挙手一投足があまりにも綺麗で、蓮は華鈴から目が離せなくなった。ゆっくりと桜色の唇が動き、彼女は蓮の問に答えを返す。
「私がここにいた理由かぁ。ん……」
そう言って彼女は黙り込んだ。ふっともう日の沈みかけた空を見上げては息を吐きだす。
「なにも、見えないんだ。」
なにも、見えない。小さく蓮はその言葉を反芻して、自分なりに意味が咀嚼してできないものかと考え込む。そんな様子を目にして、華鈴はその歳に見合わぬ自嘲のような表情を浮かべて言った。
「何も見えないんだよね。暗くて、沈んでて。自由なんてものがどこに存在するかもわからない。」
あまりにも大人びていて抽象的なその言葉は、蓮では上手く消化できなかった。だから、他になにか汲み取れやしないかと彼は華鈴の目を見つめる。
「なんてね。ちょっとした冗談だよ、気にするな。」
そう言ってふわりと笑い、少女は蓮に向けてそう言う。じっと己の目を見つめていた蓮の目を見返すように見つめ合い、華鈴は微笑んだ。それで形成されてしまった気まずげな空気を、打破しようと試みたのは蓮だった。
「もし、よければ。屋台とか、いかない?」
その蓮の問いに、彼女は驚いた顔をした。辺りに視線を投げて、人がいないかを確認する。
「え、良い……のかな。」
「だめ、かな。」
「でも、見つかってしまったらアレだから、さ。きみが怒られてしまうよ?」
蓮がそれに答えを返そうとしたその時、不意に轟音が響いた。はっとして二人が顔を上げて、東の方角を見つめる。家々の重なり合う間を透かし見れば、美しく煌めく花火がもう既に上がり始めていた。紺色の空は花火の背景となって淡い赤に照らされ、星々を超えるように輝く。
「私たちは、ここに居ない?」
「それでも、いいですけど……」
花火の轟音と激しくなる喧騒が遠くから響いて反響して、華鈴は静かに微笑んだ。こんな空気が好きだ。棘もなくて逆に柔らかく甘やかすものもなにもない。
「きみは、優しいんだね。」
「え?」
「君は、本当に優しいなぁ。父様の機嫌取りなんてなにも考えず、私に接してくれる。他の者達は皆みーんな父様を優先して私の自由などおかまい無し。外ふらついてる私を連れ戻せば父様の覚えが良くなるとか、恩恵があるとでも思ってるのかな。」
「父様、って神主さまのこと……?」
一転して荒々しい口調で放たれたその言葉もまた、蓮は半分も理解できなかった。疑問を浮かべながらでも、蓮は満面の笑みを閃かせた。理解出来た部分は、彼にとってとても嬉しいことだったから。
立て続けに打ち上がる花火の音にかき消されないよう声を張って、少年は言う。
「わあ、人から褒められるのってうれしいですね……華鈴さん。」
「え……うん、そうだな! ……ねえ、蓮。私、明日も君と会ってもいいかな?」
「べつに、いいですよ? でも……ぼくなんかと会って何するんです?」
そう言って、少年は首を傾げた。
「秘密。会ったら話してあげる。だから、また遊んでね!」
少女もまたそう言って笑って、さらりと髪を揺らして振り返った姿が美しかったことを、蓮は今でもよく覚えている。
「レン。レーン! 信号変わってるぞ!」
ブランのアルトが呼ぶ声に引かれて、ふっと意識が今に浮上した。夕暮れを見て思い返していた過去に虚しくなって、レンはくっと息を詰める。秋津の夏の匂いが甦ってきそうになって、さらに苦しくなる。でもいくら想起したところで足元は踏み固められた土とかではないし、手に握られたのはあずま袋でもない。
「ハイ! 今行きマス!」
もう、過去のことだ。そう思って彼は、そっと白と黒の線上に足を踏み出した。