複雑・ファジー小説

Re: 噛マレアト ( No.4 )
日時: 2020/05/30 23:26
名前: オルグチ (ID: bqceJtpc)


2.ほっぺが落ちる。
ーーーーーーー

 恐怖で体は動かなかったが、ポケットからスマホを取り出して警察に通報するくらいの最適解の動きはできた。
 …あいにく今日に限ってスマホを家に置いてきたらしく、ポケットに突っ込んだ手は虚無しか掴めなかったが。

「おぇ…っ」

 また吐きそうになり、喉まで来たそれを反射的に飲み込む。舌に味が残って、めちゃくちゃに気持ちが悪い。いっそ吐いてしまえばよかった。
 連絡手段がないのなら、やはりここを出て生身で助けを求める他ない。夜8時過ぎ…教員の職務事情は知らないが、何人かは職員室に残ってる人がいるはずだ。
 見るに堪えない死体のすぐ脇を通らなくてはいけないせいで、しばらく動く気がしなかったが、この空間に身を留める方が断然気持ちが悪い。恐る恐る、血が中履きの裏に付かないように細心の注意を払い、保健室から出る。

「嘘だろ…」

 …ずーっと長くのびる廊下に出るなり、壁一面に血の飛沫が付着していた。あろうことか、凄惨な光景は保健室内だけに留まらず、闇に紛れて見えなくなる限りのずっと先まで、壁や床そこかしこに血がべっとりとついている。耐え難い匂いが鼻をつく。またまた更に吐きそうになった。

「笹田…?」

 …廊下の奥の暗闇のその奥に、クラスメイトらしいシルエットが見える。学年一の愛されデブで、いつも学ランがパツパツな奴だから、遠くからでも何となくわかった。

「笹田なのか? 俺だよ、流川…!」

 いろいろと状況がわからなすぎて情報に飢えていた俺は、らしくもなく高いトーンで興奮気味に笹田に声をかける。…良かった。俺以外にも人がいた。
 友達ってほどでもないが、お互い何となく話し込むことも多い仲ではあった。

 笹田も気付いたようで、こっちをゆっくり振り返り、歩き出した。

 一歩、二歩、三歩…。

 …ずいぶんとトロいな。体型通り、徒競走も毎回ビリな奴ではあったが、そんなこと関係なく動きそのものがトロく、歩き方がぎこちない。
 まあいいか、俺から向かえばいいだけだし。

Re: 噛マレアト ( No.5 )
日時: 2020/05/31 10:28
名前: オルグチ (ID: bqceJtpc)

 ………。


 …なぜ、よく考えて踏みとどまらなかったのだろう。おそろしい程の、“違和感”に。
 きっと俺は、この状況を打開する何かに縋りたくて、無意識のうちに違和感を抑え込んでいたのだ。

 動きがおかしい上に、返事もよこさない笹田。そもそも大前提として、ここは夜8時過ぎの学校だ。しかも現実とは思えないグロテスク仕様の。

 目の前にいる“それ”が、普通なはずなかった。

「笹、田…?」

 笹田だと思っていたそれは、触れられるくらいの近さになって初めて、窓から差した月明かりに照らされて正体を顕にした。

 …首元から右肩にかけて肉が抉れていて、学ランの半分以上が血で染めあがっている。どう考えても生きていられる怪我ではない。

 その目に光はなく、白く濁っていた。

 ぎこちなく歩みより、俺の肩に両手をかける。


「……へ?」


 ねちょねちょした唾液が顔にかかる。両肩を掴む手は尋常じゃなく強く、指が食い込んで激痛が走る。いくらデブだからって、人間として考えられないレベルの怪力だ。

「痛い痛い痛い痛い…っ!」

 次には、さらに上回る激痛が頬を襲った。

「あ゛あぁ゛ああぁ゛あっ!!!!」

 笹田だった何かの腹部を何度も何度も死にものぐるいで本気で蹴る。何とかして両肩から手が外れ、ケツから思い切り床に落ちた。

「お、おま…何、してんだよ? おい…」

 頬からドクドクと血が迸り、首を伝ってインナーにまで染み込むのを感じる
 目の前の怪物が俺の顔面から噛みちぎった肉を咀嚼するのを眺め、尻もちをついたマヌケな格好のまま、俺は後ずさりし続ける他なかった。

 ああ、終わりだ。

 まさか平凡な日常の崩壊を願ったりしたが、結局平凡な日常が俺には一番だった。こんなB級映画みたいな展開、聞いてない。これは夢なのか…?

 いいや、現実だ。

 ___ほっぺをつねっても起きないどころか、喰われても現実に引き戻されないのだから。

「ははは…笑える…」

 こういう展開は、一度噛まれたら最期なのがお決まりだ。そのうち俺も“感染”して、理性が壊れ、生ける死体となるのだろう。

 笹田…ゾンビとなった笹田は、顔面を齧るだけでは飽き足らず、再び俺に視線を戻して歩み寄る。
 喰われようが喰われまいが、詰みだ。
 好きなだけ喰えよ。いつも昼休みにドカ食いしてたみたいに。



「……?」



 覚悟を決めた矢先、笹田の頭が音もなく吹っ飛んだ。口を押さえていたホースから水が勢いよく出るみたいに、首から血が天井にまで噴き上がり、その巨体はドスン、と前から崩れ落ちる。



「あ、あ…やった! また倒せた……」

 巨体の背後に隠れていた華奢な体が、姿を現す。茶髪に丸眼鏡の若い女性。右手には血の滴る手斧を持ち、白を基調とした服は全身血で濡れている。

 この人が、今のをやったのか…?
 こんな細身で、手斧で、巨漢を、一撃で…?

「えと…起きたんだね、ルカワ君」

 あの時の陰鬱で生気の薄いオーラとは打って変わって別人だった。
 俺の存在に気づき、しっかりと俺の目を見据える。その目はキラキラと宝石のように輝き、高揚した表情で、口角が上がるのを抑えられないといったように、口元はピクピクさせていた。相変わらず声は小さいが、嬉々とした毛色を含んでいるのがよくわかる。

 何がそんなに愉快なんだろうか。気味が悪かった。

「でももう、噛まれちゃってるね…」

 同情するような言葉を発しながら、歪んだ笑顔で軽快にこちらに詰め寄る。…さっきから、状況と言動にズレがある。

 まるで、この最悪な現実を楽しんでいるかのようで___。

 イカれた保健室の先生は、俺の頭のてっぺん目掛けて手斧を大きく振りかぶった。


 …ああ、そうか。


 死ぬ間際に、俺は理解する。
 

 ___俺なんかと比べ物にならないくらい、この人は退屈な日常の刺激に飢えていたんだ。