複雑・ファジー小説
- Re: 風神の台地 ( No.8 )
- 日時: 2020/06/29 23:01
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: lDBcW9py)
【第三章 訣別】
◇
翌朝のことだった。
「ネフィル様に会わせてあげるよ。きっときっと、リノを歓迎する」
嬉しそうな顔で、イヴュージオが言った。
その青い瞳は、何かに憑かれているかのようで。その口調は、熱に浮かされているかのようで。
感じた違和感。
差し出された手をリノヴェルカは振り払った。
「……嫌だ」
「何故?」
振り払われたことに驚いて、イヴュージオは驚いた顔をする。
リノヴェルカは慎重に答えた。
「イヴは、変わってしまったんだな。今のイヴからは、前のイヴみたいな温かさを感じられない。前のイヴなら人を殺すことなんてしなかったはずだ。そんなイヴとは……一緒に、いたくないよ」
せっかく会えたのに。死んだと思っていた、何よりも大切な存在に。
リノヴェルカだってこんなこと言いたくはないのだ。けれど、感じた違和感はやがて恐怖になる。
今の兄は、怖かったのだ。
怯えるリノヴェルカを安心させるように、イヴュージオが声を掛ける。
「ネフィル様は悪い人じゃないよ。ネフィル様は弱かった僕に力と理想をくれた。ネフィル様のお陰で僕は強くなれたんだ。確かに僕は変わったさ? でも、それとこれとは話が別だろう。いいじゃないか、会うだけならば」
「……弱かった兄さんの方が、もっとずっと優しかったし、温かかったよ」
「そうかい」
イヴュージオの青の瞳に、ちらり、影が差す。どこまでも冷酷な輝きがちらり、宿る。
「ならばおまえは、僕の敵だ」
瞬間。
勢いよく飛んできた水が、したたかにリノヴェルカを打ちすえた。水に打たれたリノヴェルカはそのまま、部屋の壁に背中をぶつける。
兄の瞳に見たのは、歪んだ理想と狂信。氷のような瞳がリノヴェルカを冷たく見降ろす。
「ネフィル様の理想を邪魔する可能性が僅かでもあるのなら、僕はお前を消すことも厭わない」
身につけた双の剣に手が伸ばされる。その切っ先がリノヴェルカを向く。
あんなに優しかった兄が、リノヴェルカを守るために死を覚悟した兄が、今はリノヴェルカに剣を向けている。その事実が信じられなくて、固まった。
「さようなら、リノ。そうさ、僕はもう以前の僕じゃない。今の僕を見ろよ、強くなった僕をなァ!」
振りあげられた剣。瞬間、心に閃光のように走った記憶は、
『生きろ』
変わる前の兄の遺した言葉。
思い出し、反射的に魔法を使う。父である神から受け継いだ風の力。巻き起こし、剣の切っ先を逸らし、兄を吹き飛ばした。
「私は死なない! 死んでなんか、やるものか!」
兄が変わってしまったのなら、元に戻すのが自分の使命。
けれど今は、生きなければならないから。
そう心得て、窓を破って宿の二階から飛び出した。風の魔法を微調整、衝撃をやわらげて逃げる。
アルクメネに利用され、信じていた兄には殺されかけた。もう何を信じればいいのかわからない。でも、この想いは変わらない。
「死んでなんか——やるものかッ!」
変わる前の兄との約束を胸に、リノヴェルカは必死で走る。
その様子を、冷たい瞳でイヴュージオがじっと見つめていた。
◇
- Re: 風神の台地 ( No.9 )
- 日時: 2020/07/02 09:16
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
逃げて逃げて、何処へ辿り着いたのだろう。激しく息を切らし、ついぞ立ち止まったそこは、見知らぬ町だった。リノヴェルカの荒れる感情に呼応して、風がごうごうと唸りを上げる。必死でそれを鎮め、町の中へ。そうすればいいのかなんてわからない。ただ、ネフィルという人物について知ることができれば、兄を元に戻す手掛かりをつかめるかもしれない、そう思った。
涙が、零れ落ちていた。あれほど会いたかった人物が、死んだと思っていた人物が、自分を殺そうとしたのだから。心に負った傷は深い。
あのまま兄についていって、ネフィルに会えば良かったのだろうか。けれど兄を変えた人物だ、迂闊に会うのは危険だとリノヴェルカの本能が告げている。
そうやって町の中で呆然と立ち竦んでいたら。
「どうしたの?」
掛けられた声に、振り返る。
そこにいたのはリノヴェルカと同い年くらいの少女だった。淡く揺れる桃色の髪を短く切り揃え、質素な衣服に身を包んだ赤い瞳の少女。彼女は不思議そうな顔でリノヴェルカを見ていた。
「きみさ、この辺りでは見ない顔だよね。一体何処から来たの?」
「私、は……」
言い淀む。町から町へ移動してばかりの生活だった。何処から来たも何も、自分にはないのだ。
必死で紡ぎだした言葉は、
「放浪の孤児だよ。居場所なんて、ないんだ」
アルクメネの家が、新しい居場所になると思っていた。しかしアルクメネはリノヴェルカの感情を利用して、彼女を戦争の道具にした。そう、自分には居場所なんてない。
そっか、と少女が頷いた。
「ならさ、わたしの家に来ない?」
「だ、騙されないぞ。お前もまた、私を利用するつもりなんだろう!」
叫び、リノヴェルカは少女から距離を取る。
信じていた人に裏切られ、大切な兄からは殺されかけて。すり減ったリノヴェルカの心は、もう誰も信じられなくなっていた。翠の瞳に渦巻くのは、根深い人間不信と恐怖。
少女は大丈夫だよ、と笑い掛けた。
「わたしたち、何もしないよ。あ、そーだ。利害関係があるなら信用してくれる? わたしの町ね、戦争で男の人たちがみんないなくなっちゃって、人手不足なんだ。だからさ、働いてくれたら居場所をあげるよ」
「……戦争の道具に、しない?」
「なーにを恐れているんだか。ただの女の子にそんなこと、しないよ。あなたにしてもらうのはねぇ、家事とか、後は壊れたおうちの修理とか。それくらいなら出来るでしょ? お姉ちゃんが病気になっちゃって、人手が足りなくなってるんだよね。だから来てくれたら助かるな」
少女が語ったのは、利害で成り立つだけの関係。そこには代償ありの愛情みたいに歪んだものは存在していなくて。それなら出来る、とリノヴェルカは思った。
すり減ったこの心だけれど。感情を挟まない関係を続けていれば、いつかは癒える日も来るのだろうか。
そんな日々を送りながら、ネフィルの情報を集められるだろうか。
ああ、とリノヴェルカは頷いた。
「わかった。私には居場所がないんだ。居場所をくれるなら……協力、するよ」
「おっけー」
少女はにっこりと笑った。
「わたしはねぇ、ティナって言うんだ。名字なんて大層なもん、ないよ。きみは?」
「……リノヴェルカ」
「長いなぁ。リノでいい?」
「……ッ、別の呼び名にしてくれないか」
リノ。その名で呼ぶことが出来るのは、イヴュージオだけだから。
特別な人にしか呼んで欲しくない呼び名だから、と言い添えると、そっかとティナは頷いた。
「じゃあ、名前の最後をとってルカね。それでいーい?」
ルカ。新しい呼び名を口の中で転がし、リノヴェルカは頷いた。
ティナは花が咲くように笑い、これからよろしくね、とその手を差し出した。
握ったその手は荒れていた。アルクメネの、家事なんてしたことがなさそうな綺麗な手とは違っていた。
◇
ティナとの日々は穏やかに過ぎた。ちゃんとしたお作法で貴族らしく生きていたアルクメネとの時代よりも、こうやって素朴な日々を送っている方が自分には合うとリノヴェルカは思った。朝起きたら水を汲み、洗濯をし、昨日の内に割っていた薪をかまどにくべて料理を作る。朝は早起き、夜も早寝。日の出と共に起き、日が沈んだら眠る。そんな日々。
最初は色々と戸惑っていたリノヴェルカだが、要領は良いのだ、すぐに慣れた。最初の内は奇異の目で見られていたが、町に馴染むのも早かった。
ある日、リノヴェルカはさりげなくティナに訊ねてみた。
「なぁ、ティナ。闇魔導士ネフィルって、聞いたことないか?」
「闇魔導士ネフィル?」
大量の洗濯物を抱えながら、ティナは首をかしげていた。
「知らないなぁ。ルカと関わりのある人?」
「私はその人物を探しているんだ。私の大切な人を変えてしまった、と睨んでいる。いつか会って決着をつけなければならない」
「ルカは、その人のこと見つけたらいなくなっちゃうの?」
ああ、と申し訳なさそうにリノヴェルカは頷いた。
「そいつを見つけて、変わり果てたイヴを……兄さんを、元の優しい兄さんに戻すんだ。それが私の目的なんだ。だから……済まない、ここにずっといることはできないんだ」
「そっかぁ」
洗濯物を水につけながら、ティナは少し悲しそうな顔をした。
「ルカにはルカの事情があるんだものね。仕方ないよね……」
その時、突如吹いてきた風に、ティナの洗濯物のひとつが飛ばされた。それはティナのお気に入りの服だった。
「あ……」
驚いたティナ。反射的に、リノヴェルカは風の力を使っていた。詠唱する暇などない。ただ、戻ってこいと風に願った。すると。
あり得ない方向に風が吹く。風はリノヴェルカの力に応じ、飛んでいった服をリノヴェルカの腕の中へ運んだ。
ティナが、目を見開いてリノヴェルカを見ていた。
「あなた、って……」
苦笑いして、リノヴェルカは明かす。
「私は亜神だよ。天空神と人間との間に生まれた子。ずっと隠していたが……反射的に、使ってしまったな」
困った顔をして、腕に抱き締めた服を見る。
これまで普通に接してくれていた人々も、リノヴェルカが亜神だとわかった瞬間に離れていった。態度を変えていった。ティナもそうなるのかな、と思った。抱いたのは諦めだった。
助けようとしたのに、力を使ったがために「化け物」と呼ばれる。中途半端な存在である亜神に、居場所なんてない。
リノヴェルカは服を返そうとティナに近づいた。するとティナは、怯えた顔をして一歩下がった。感じたのは「やっぱりか」という諦め。友達になれるかな、束の間そう思っていたけれど、ティナはリノヴェルカを恐れた。
「……ティナだって、私の力を恐れるのだな」
それは当たり前だろう。自分と相手。対等だからこそ、そこに何の感情を挟むこともなく本心を語り合える。相手が自分よりも強いとわかった瞬間、生まれるのは恐怖だ。相手の感情を損ねて自分が傷つくことにないように動くようになる。その関係は、対等ではない。
それでもリノヴェルカは求めた。亜神である自分を認め、その上で自分を恐れることなく本心をぶつけてくれる相手を。しかしティナはその相手にはなり得なかった。
寂しい、とリノヴェルカは思った。せっかく仲良くなれたのに、些細なことで崩壊した関係。この先でも同じようなことを繰り返し、亜神としての長い命尽きるまで、こうして誰も本心で語り合える友達を作ることなく地上を彷徨うことになるのだろうか。
「こうなった以上……もうこの関係を続けることはできないよ、ね。あはは……私はまた一人ぼっちだよ……」
悲しく笑い、腕に抱いた服を洗濯桶に落とす。ティナは固まったまま、動かなかった。
さようなら、と声を掛ける。亜神であるとバレてしまった以上、これ以上この村に居ても意味がない。
去りゆくリノヴェルカを、ティナは追わなかった。
◇
- Re: 風神の台地 ( No.10 )
- 日時: 2020/07/06 10:23
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: q7aBjbFX)
居場所を見つけたと思ったら失って。ネフィルの情報は一向に集まらなくて。リノヴェルカの心はますます擦り減っていく。そのうち全てがどうでもよいと思うようになってきてしまった。ただ、生きている。それだけでいいと。そのためには感情なんて抱いて邪魔なだけだ、捨ててしまえと。
世界は広い。けれどリノヴェルカはその世界の中で、一人ぼっちだった。
そんなある日のこと。
ネフィルを知るという人物の情報を、リノヴェルカは聞いた。
兄と訣別してから半年後のことだった。
◇
「よく来たな、娘よ」
白銀の髪に淡い水色の瞳をしたその男は、そうリノヴェルカに声を掛けた。
「は?」
思わず声がもれてしまう。
掛けられた言葉は、それくらい有り得ないものだったから。
男は優しい笑みを浮かべた。
「私は天空神アズレイン。リーラとセフィアと交わり、リノヴェルカとイヴュージオをこの世に誕生させた神だよ」
リーラ。それは確かにリノヴェルカの母の名前だ。セフィア。それは兄から聞いた、イヴュージオの母の名前だ。だがいきなりそんなことを言われて、信じられるはずがない。
馬鹿を言うな、とリノヴェルカは鋭い瞳で男を睨んだ。
「初対面で『娘よ』だって? ふざけるのも大概にしてくれないか。もしもあなたが父さんならば……どうして私たちをそのままにした! 父親ならば、子を育てるのが父親の役目だろうに!」
「神々の事情があったのだ。そう怒るな」
男は困ったような表情を浮かべた。
どこから話そうか、と呟き顎に手を当てる。
そしてアズレインを名乗った男は語り始める。自分とリーラ、セフィアとの馴れ初めを……。
◇
話を聞き終え、リノヴェルカは難しい顔をする。
男の言ったことは嘘だとは思えなかった。
『おまえの父さんは神様なんだよ』
それは、母が幼いリノヴェルカに聞かせてくれた話と酷似していた。自分と母しか知らないはずの話だった。それを今、目の前の男が語っている。男の言葉を、信じざるを得なかった。
風神ガンダリーゼはリノヴェルカを気紛れで助けた。神が普通に地上に降りてくるのだ、父神がやって来たっておかしくはないのだろう。
「……話はわかった。あなたは私たち兄妹の父さんだ。でも、ならば」
話を聞き終えた後に残ったのは、静かな怒り。
すり減った心に久しぶりに宿った感情は、怒りだった。
「ならば! 何故私たちを捨てた? 何故天界に連れていかなかった? 答えろこの駄神!」
「神でない者を天界に連れていくことは、出来んのだ」
苦い顔でアズレインは言う。
「本当に……済まないと思っている」
「それが今更のこのこと出てきたというのか。何故? あなたに会わなければ、私は心乱されることもなかったのに?」
「謝ろうと思ったのだ、娘よ」
「娘なんて呼ぶな! 捨てたくせに!」
燃え上がる感情。
生まれてこなければよかった、とリノヴェルカは思うようになっていた。こんな、こんな不幸を味わうくらいならば。だから憎い。母と交わり、自分が生まれるきっかけをつくったこの父親が。生まれてしまった以上、生きなければならない。人々から恐れられ、何処にも居場所を見つけられないまま。亜神としての長い一生が終わるまで、ずっと。
「私は! 父さんなんて!」
激情が風を巻き起こす。誰にもぶつけられず、ひたすらに出口を探し求めて荒れ狂っていた感情が、一気に解放される。落ち付け、という声は聞こえない。ただ憎かった、憤ろしかった、恨めしかった。どうしようもない想いが爆発し、烈風を父に叩きつける。
「大嫌いだ! 今更謝るな! お前のせいで、私はッ!」
孤独、寂しさ、虚しさ、諦め。失われた幸せな日々。
父が母と交わりさえしなければ、そういった全てもなかったのに。この地上で、ずたぼろになった心を抱えて生きなくても良かったのに。
風の刃。幾千も。父に襲いかかる。風の盾を生み出せば防げたはずのそれを、アズレインはあえて防がない。それこそが罰だと言わんばかりに全てを受ける。飛び散った赤い血液が、神の血が、その臭いがリノヴェルカを狂わせる。死んでしまえ、壊れてしまえ。全て全ていなくなれ。暴走した感情。そして。
気がついた時、父は、天空神アズレインは、ぴくりとも動かなくなっていた。
はっとなってリノヴェルカは父に駆け寄る。その身体はもう、息をしていなかった。
「は、はは……」
笑みがリノヴェルカの口を彩る。
「は、ははは……」
感じた。自分はもう、どうしようもない領域に踏み込んだのだと。
父を、天空神アズレインを、殺してしまった。激情のあまり、殺してしまった!
その代わりのように湧きあがってきたこの力は。亜神が神へと昇格したことを示すのだろうか。
亜神は神を殺したら神になれる。それがこの世界の法則だった。皮肉にも、リノヴェルカは父を殺すことでようやく、天界へ行く権利を得られたのだ。
「ははははは! はははははは! あっはははははははは!」
狂ったような笑いが、もれる。
嗚咽するように呟いた。
「今、更……」
笑いと涙が同時にこぼれる。
「今更……天界へ行く権利を得たって! 神になったって! 遅いんだ、遅いんだよッ!」
亜神から神になったことで、中途半端な存在ではなくなった。だが、その手はもう神の血に汚れている。今更、天界に行ったって誰も歓迎などしないだろう。
父が自分たちを捨てず、最初から天界で過ごさせてくれていたらどれほど良かったろう。そうしたらこのような悲劇は起きなかったかもしれないのに。
暴走する。風の力。それは建物を吹き飛ばし、町中に解き放たれた。人々は風の刃から逃げ惑い、阿鼻叫喚の地獄が生まれる。亜神から完全な神となった彼女を止められる存在などもういない。壊れ、たがの外れた心を元に戻してくれる存在は変わり果ててしまった。白銀の髪は風にもつれ乱れ、翠の瞳には嵐を宿す。空に浮かびあがった彼女はまるで、世界を滅ぼす神のようだった。そこへ。
「……リノ」
何度も聞いた声が、大切な人の声が、リノヴェルカの耳を打つ。
瞬間、正気に戻った心。しかし風は止まない。もう止め方を知らない。止めてくれ、とリノヴェルカは叫んだ。ああ、とイヴュージオが頷く。
かつて仲良しだった兄妹。しかし残酷な運命は、こうして二人を戦い合わせた。
今はリノヴェルカが悪、イヴュージオが善だ。きっとイヴュージオはリノヴェルカを殺す。そしてイヴュージオが神となり、リノヴェルカは救われる。
「お前の地獄は——この僕が終わらせるッ!」
波濤。噴き上がった鉄砲水が、水の竜となってリノヴェルカを噛み千切らんと襲いかかる。疾風。風が爆発する。風を編んで作られた風の竜が水の竜に噛み付いた。そして両者は同時に消滅、次の手を打たんとそれぞれが思考する。
神となったリノヴェルカの力は強い。しかしイヴュージオだってもう、以前の弱い力しか持っていないわけではない。そして今のリノヴェルカは手加減して倒せるような相手でもない。だからこそ。
「海よ! 弾けて砕けよ! 我引き起こすは世紀の災厄!」
イヴュージオが全力を解き放つ。伸ばされた手の先、みるみるうちに集まっていく水。それは巨大な津波となって、町を押し流していく。巨大な波はリノヴェルカに向かい、彼女を呑みこまんとその顎あぎとを開ける。リノヴェルカは風でこれを押し返そうとしたが、重さが違う。リノヴェルカはそのまま波に呑み込まれた。
しかしこの程度で終わるリノヴェルカではない。目を狂気にぎらつかせた彼女は、呑み込まれる寸前に風を集めて空気の球を作り、その中に閉じこもって溺死を防いだ。やがて空気の球は地上に上がり、彼女は大きく息をつく。間髪を入れずに力を解き放つ。呼び出したのは竜巻だ。町ひとつを滅ぼしそうなほど巨大な竜巻は、海の水を巻き込んでイヴュージオに迫る。すさまじいスピードだ。あれに巻き込まれれば、亜神と言えどもひとたまりもないだろう。それを見、イヴュージオは一切躊躇わずに自身が生んだ津波の中にその身を躍らせた。海の中にいれば地上の影響を受けない。当然のことである。リノヴェルカの竜巻は木々をなぎ倒しながら別の町へと進んでいく。戦いの中、兄妹の力はますます被害を生んでいく。
水が外へ抜けていく。別の町を呑み込まんと移動する津波。水から顔を出したイヴュージオ。狙い打つように風の刃が一閃。頬を切り裂かれるが、致命傷ではない。水に流されるイヴュージオを負い、戦いは次の町へ。
押し寄せてきた大津波と竜巻に、阿鼻叫喚の光景が広がる。ぶつかり合う風の力と海の力。どうしようもない想いが砕けて散る。
イヴュージオは勢いを込めて、水の槍をリノヴェルカに向けて放つ。不意打ちの一撃はリノヴェルカの脇腹をかすり、リノヴェルカはそのまま落下して着水、しかし沈むことはなく水に浮かぶ兄を睨みつける。
水の中ならばイヴュージオの領域だ。突如生まれた渦がリノヴェルカの足元を掬い、リノヴェルカはそのまま渦に呑み込まれる。だが、風の魔法で空気の泡を作ることは忘れない。呑み込まれる瞬間、出来る限り多くの空気を巻き込んだリノヴェルカ。空気の泡を操って水中を移動、兄の真下に狙いを定める。発射。空気の泡の先端を鋭く光らせて、魚雷の如く兄に打ち込む。勢いで自分も水から飛び出し風の力で飛翔、下を見る。
決着はついていた。
さああ……と水が引いていく。空気の刃に切り裂かれ、兄は致命傷を負っていた。
血まみれの兄。見て、正気が復活する。気がつく。自分はどうしようもないことをしてしまったのだと。
「イヴ……!」
叫んだ瞬間、竜巻は消滅した。
荒れ果てた台地に横たわり、イヴュージオは笑っていた。
「リノ……」
「嘘だ! 私がイヴを殺しただと!? 私は私は私はァッ!」
「ははは、計画通り」
そこへ。
した声。
「ネフィル様……」
イヴュージオの呼んだその名を聞いて、リノヴェルカの中に再び燃え上がる怒り。
漆黒の髪、紫の瞳、褐色の肌。紫のマフラーを巻き付けた少年が、嘲笑うように唇をひん曲げて、そこに立っていた。
確信する。こいつが兄を変えたのだと。
燃え上がった怒り。どうしようもないほどに。
「貴——様ァッ!」
怒りのあまり駆けだした瞬間、「リノ!」声がして。
包まれる。いつも一緒にいた海の香り。大切で、大好きで、しかし変わってしまって。救おうとしたその存在の、声が、腕が、リノヴェルカを包み込む。
リノヴェルカが踏み出した先、本来リノヴェルカの身体があった場所。
イヴュージオの身体に、禍々しい刃が突き立っていた。
「何とも麗しい兄妹愛だな」
ネフィルの声が興味深いものでも見たかのように響く。
- Re: 風神の台地 ( No.11 )
- 日時: 2020/07/08 01:32
- 名前: 流沢藍蓮 ◆50xkBNHT6. (ID: 3edphfcO)
イヴュージオ。リノヴェルカとの死闘で死にかけていたはずの兄が、最後の力を振り絞ってリノヴェルカを守った。その青の瞳にもう、冷酷さはない。最後の瞬間、イヴュージオは元の優しい兄に戻ったのだ。
全身から血を噴き出しながらも、イヴュージオは倒れた。イヴュージオの身体の下になりながらも、リノヴェルカは信じられないものでも見るかのように兄を見た。
血まみれの唇が動いて言葉を紡ぐ。
「リノ……僕、は……」
その先を、聞くことは出来なかった。
イヴュージオの瞳から光が失われる。その手がぱたりと地面に落ちる。その身体から体温が失われていく。止まった鼓動、途絶えた呼吸。その何もかもが、明確に示すこと。それは、
イヴュージオの、死。
溢れる思い。どうしようもないほどに。いつかはわかりあえると思っていた。ネフィルさえ倒せば何とかなると思っていた。それなのにリノヴェルカは暴走し、それを止めようとした兄は最後の最後にリノヴェルカを守って死んで。
死んだ。イヴュージオが、死んだ。死んでしまった。
どうしようもない現実がリノヴェルカを襲う。
「ああ……」
喉から漏れたのは、悲鳴のような慟哭。
「あああ……!」
ネフィルもイヴュージオももうどうでも良かった。リノヴェルカの、壊れかけたぼろぼろの心は、ついに、
壊れた。
「あああああああああああああああああああああああああッッッ!!」
最悪な運命が、二人を永遠の別離へと追い込んだ。
もうリノヴェルカを止めてくれる人はいない。その滂沱と流れる涙を拭ってくれる人はいない。
爆発する感情を、その力を、抑えてくれる人はもういない。
リノヴェルカは心を閉ざした。もう何も感じないように、何もかもを封じてしまおうと試みた。それでも溢れる力は、暴れる力は止まるところを知らなくて。
力だけが、彼女を中心とした場所で暴れ続ける。神となった以上、死ぬこともできなくなったリノヴェルカ。彼女は悲哀と絶望と底知れぬ虚無感を抱えながら、永遠を生きることを運命づけられた。
◇
アルティーラ台地。リノヴェルカの長い旅の終着点。すっかり荒地となった場所に、烈風が吹き過ぎる。しかし人々はたくましいもので、町をつくろうと動き始めていた。
心を封じたリノヴェルカ。彼女を中心に神殿を作り、そこから町を広げていく。彼女の悲しみの風は時を経ていくうちに弱まって、台地は人が住める程度にはなった。そうしてその町——ツウェルは生まれた。
町の最深部、今も彼女は眠っている。穏やかな風を吹かせる彼女はいつしか町の人々に愛される神となったが、その心は永遠に閉ざされたままで。
時折思い出す悲哀の記憶が町に烈風を吹かせる時はある。そのたびに人々は、いつか彼女が救われる日が来ることを、と願うのだ。
◇
裏切られ、利用され、大切な人をその手に掛けて、自分を失った風の神。
大地を駆けることを忘れ、人を信じることを忘れ、喜びの意味さえも忘れてしまった。
だが、それから幾千年。誰もが望んだ救いはやってくる。描いた絵を実体化させる少年が、「荒ぶる神」となった彼女を封じにツウェルへ来る。
そうだ、そうなのだ。救いは、来るのだ。
風神の愛した台地には、悲しみの花ばかりが咲くわけではないのだから。
【完】