複雑・ファジー小説

Re: 春風の向こう側 ( No.14 )
日時: 2021/04/10 23:04
名前: ガオケレナ (ID: QpYqoTPR)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no

 
 バフマンと出会ってから二ヶ月後。
 私は、本来の仕事に戻る事にした。

 家族が言うには、どうやら記憶を失う前の私には仕事も家庭もあったらしい。過去形である理由は単純だ。妻が子供を連れて別居しているのだ。だから、私はそれ以降母と弟たちと共に暮らしている。

 仕事については難なく復帰できた。自営だからだ。

 戦争から戻ってからずっとやっていたらしい仕事だった。確かに、簡単で続けやすい。

 庭が付くほどの大きな家のリフォームとその庭の整備。つまりは、金持ち相手の仕事だ。だから一回の作業の報酬は悪くはなかった。

 だが、悪くは無いのであって決して良い仕事では無い。生活が継続できるギリギリのラインだからだ。苦しいことに変わりは無い。

 一ヶ月かけて、厳しい生活を続けられる賃金を受け取る私と、その程度の支払いなど痒くも無い依頼者。
 そのような一方的な差を突き付けられて、私はやるせない気持ちになってくる。

 その一方で、何故私がこんな仕事を始めたのか理由が分かった気がした。

 作業中は何も考えなくていいからだ。

 過去の辛い記憶からも、未来に対する不安も、すべて。

 特に帰還したばかりの当時はより一層この思いが強かったに違いない。何故俺が生きて帰ったか。友人の死を直視したせいで大いに悩んだ事が想像できる。

 大きなため息を吐きながら私は家に帰らんと閑静な住宅地を歩く。テヘランとはいえ都市部から大きく離れているために家々もみな古い。今にも朽ち果てそうな石壁を横目に歩を進めたその時。

 子供の叫び声と共に銃声が鳴った。

 途端に私は足を止め、高鳴る鼓動を耳に刻みながら身構えた。

 遂に"来てしまった"と。

 だが、

「痛ぁぁぁーーーーい!! お父さん痛いよぉ!!」

「何やってんだお前は……」

「アラシュに撃たれたぁ! アラシュに撃たれたよぉ!!」

 とある家からそんな会話が聞こえた。叫んでいる男の子が泣きながら訴えているのでよほど痛かったらしい。
 見れば、向かいの家の窓からほくそ笑んでいる男の子が二人居た。要は、私の頭上で銃撃戦を行っていたようだ。なんとも迷惑であり、平和なしるしそのものである。

 軽く鼻で笑った私は、構わず行くはずの道を進む。父と子の会話はまだ微かに聞こえていた。

「それで……、お前はやり返さなかったのかい?」

「ダメだよぉ……。撃てないよ、だって僕、泥棒役だもん……」

ーーー

 家に着いた私は、広間に通ずる扉の前で奇妙な物を見つけた。

 知らない人間の靴である。
 誰か来ているのだろうか。私はそう思いつつその場で靴を脱ぐと扉を開けた。

「ただいま」

「あら、おかえり。パルヴィーズ」

 出迎えてくれたのは母だ。それから、部屋の奥に、椅子に座って紅茶を飲む一人の男性の姿が。

 その男は私を見るなり少し微笑んだ。

「よう、お帰りかい? ホスロー様」

 何度も言うが、私は記憶喪失だ。この男は、坊主頭で髭もじゃなコイツは一体何者なのか、私は知らない。覚えがない。

 そんな私も何かを言いたかったのだろう。呻き声のような小さな声を発しつつどもっていると、その男が近付いて来る。

「なんだよ、忘れちまったのかい? この俺様を。マブダチのアリ様その人だぜい?」

 かつて。
 かつて若かりし頃、共に遊び、共にはしゃぎ、共に暴れた三人の友人の内のその一人が、どういう訳か私の家にやって来ていた。

 そして、ここから私の記憶を巡る旅は終局へと向かおうとするのであった。

Re: 春風の向こう側 ( No.15 )
日時: 2021/04/10 23:55
名前: ガオケレナ (ID: QpYqoTPR)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no


「い……」

 私は上手く声が出せなかった。何から話せばいいのか頭が混乱しているためだ。

 アリという名を聴き、私の記憶が洗われてゆく。その名前とその顔。少ない手掛かりで十分だ。私の中で照合が済むと、目の前の綺麗すぎて逆に裏でもありそうな笑顔を振り撒くオヤジはその瞬間、友人へと変わる。

「今は……何をしているのかな……」

 結局私はつまらない質問をしてしまった。
 座り直しては再び紅茶を飲み出したその男はフフッ、と鼻を鳴らして小さく笑う。

「あんたがあと十五分早く帰っていればな……」

 私は彼の言った言葉の意味が分からない。だが、その怠さと余計な一言で理解をした。

「この家の中でこの話をするのは二回目、って事さ。それに、前に会ったのは三年前じゃないか? それなのに忘れたってのかい? あんたは本当に人に興味が無いのな?」

 ここで私はアリとの距離感を測ることが出来た。シーリーンのようにウン十年振りの再会などとは違って、頻繁にとは言わずとも何度か会っているらしい。三年前ともなればまぁまぁ久しぶりな仲だ。

「俺は今イスファハーンで仕事しているよ」

「イスファハーン? 一体何の? 観光客相手の何かをしているのか?」

 自分で言っておきながら何か引っ掛かった。

 アリは、"三年前に会ったのに忘れたのか"と逆に聞いてきた。それはつまり、私の記憶が消えた話を知らないと言う事だ。

 それはいい。問題は、自分でした発言だ。

 何故私はイスファハーンという街の事情を知っているのだろうか?
 過去に何かしら関わった街だっただろうか?
 だが、思い当たる節が無い。

 自分で勝手に混乱している姿が異様に見えたのだろう。アリは強い語気で私を呼ぶと、お目当ての質問に答えてくれた。

「半分合ってるよ。俺は今イスファハーンのバザールで本を売ってるよ。まぁ、本当は本だけじゃないけど……ほら、こんな感じのをな」

 そう言ってはアリは足元に置いていたリュックサックから分厚い本を一冊取り出した。
 題名はペルシャ語だった。『ルバイヤート』という題名が振られた代物だ。

「今どきイラン人相手に『ルバイヤート』なんてバンバン売れる訳が無いからな。それはペルシャ語に加え英語とドイツ語、それからフランス語にも対応している観光客向けのお土産さ」

「それはいいね……。やっぱり客は来るもんなのかな?」

「どうだかな。前と比べるとかなり減ったね。その代わりにアラブ人と中国人が増えていやがる」

 本を返そうと彼に差し出したら、それはお前にやるとジェスチャーで示された。冷静に考えたら、この詩集は読んだことが無かったかもしれない。記念として今回は素直に貰っておこうと私もここは彼の優しさに甘えることにした。

「ところで、あんたこそ今何を? まだ金持ち相手にリフォームかい?」

「知っているじゃないか」

 昔の私ならば何度かあった人間かもしれない。だが、今の私としては今日初めて会った仲間だ。若い頃の話も交えて色々と語りたくなってきた。

 私も自分の紅茶を用意すると、思い出話に浸る事にした。

ーーー

 一時間半は経過したかもしれない。
 アリが「そろそろ時間だから」と帰る準備を始め出した。母が夕食を勧めて来たが、そうなると帰りがより遅くなるからだろうか丁寧に断っては挨拶をし、家を出た。

「じゃあな、ホスロー様。気が向いたら俺の出店にも来てくれよ。サービスするからよ」

「ありがとう……。近い内にまた、行くよ」

 私は、彼が家の前の通りにてペイカンを拾っては乗り込むまで見送った。アリの姿が完全に消えると、私は部屋へと戻る。

 リビングに放置されていた『ルバイヤート』が目に留まる。私はそれを手に取り、パラパラと捲ると確かに他言語で書かれたページもあった。

 特に中身を楽しむような事はしなかった。
 日を改めて読もうかと思い、本を片手に私は自室へと向かった。
 その部屋には木製の古い机がある。そして、少し分厚い程度の本ならばスッポリと収まる横長の引き出しもある。

 ガタガタと鳴るそれは所々突っかかって上手く開ける事は出来なかったが、無造作に小物がしまってあった事以外は何の変哲もない引き出しである。

 私は本をそこに置こうとした時、ある物が目に写った。

「あっ、」

 ズキリとした静電気が走ったような小さな衝撃がこめかみに走ったかと思ったのも一瞬、更なる異変が起こる。

 その時、私は記憶のすべてを思い出してしまった。

Re: 春風の向こう側 ( No.16 )
日時: 2021/05/03 11:23
名前: ガオケレナ (ID: cFBA8MLZ)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no=12355


 翌日、私の取った行動はといえば、再び友人に会いに外に出たことだった。

 それまでの世界は朧気な夢を見ているような、不確かな空間だった。だが、今は違う。明瞭で、ハッキリとした視覚を伴い、そしてすべてが判る。

 それまでの私は街を歩くことでさえ、不安で仕方がなかった。常に何かに怯えていないと逆に落ち着かなかったのだ。

 だが、全てを思い出した今、私に恐れるものなどない。おぼつかなかった足が軽い。

 既にこの街は私の知る街だ。だから、何処に何があって、何時誰が出てくるのかもうすべて思い出している。すべてが範疇だ。
 だから私の視界に彼が映っている。アッバースだ。

 彼は役所の外で苦々しい表情をしながらそれを眺めていた。高給取りなのか、紙巻きたばこを咥えながら、だ。

「やあ、アッバース」

「またお前か……」

 面倒な相手だと思われているようである。それもそうだ。前に会った時は私はある種の障害を伴っていたのだから、またそれを"持ち込みに来た"と思われているのだろう。だが、私に恐れは無い。

「楽しそうじゃない顔をしているね?」

「そういうお前こそ何をしている。仕事はどうした? それとも作業のパターンまで忘れてしまったとかか?」

「今日は休みだよ。私は好きなように休みの日を作る事が出来るんだ。これでも自営なんで」

「それで? ご要件は?」

「すべて思い出した」

 はっきりと、そして流れを断ち切るが如く私は告白する。
 一瞬、そして確かにアッバースは驚きの表情を見せた。だが、相手が私だからか少しでも弱さを見せたくないという気持ちが働いたのだろう、すぐに平静を装う。

「言っていることの意味が分からないな」

「記憶のすべてを思い出したのさ! 前にあった時は一部のことしか分からずにいた。だがあの後、私は君のお陰でバフマンのことも思い出せたし、シーリーンにも会えた。別の日にはアリにも会えた。その後に私は"ある物"を見て残りの記憶を取り戻せたのさ」

「そんな都合のいい事が起こる訳がない」

「だけど、実際に私はそうなった」

「全く……どれだけ時が経っても変わらないな。お前はどこか気に入らない」

「でも、そんな私を友達として見てくれている」

 私は、にやりと小さい笑みを見せた。それは自信の現われだった。それまでアウェーだった環境が、途端にホームへと変わる。

「アレが何か……お前には分かるか」

 つまらない会話のせいだったからか、突如そう言ってはアッバースは指を差した。その方向には一つの建物がある。

「サッカースタジアムだろう? それがどうかしたのかい?」

「迷惑な野郎共が試合の妨害をしているのさ。さっきこの通りを、あるデモの参加者たちが通って行った。そいつらが今スタジアムの観客席を占拠して何やら叫んでいる。観客を装っているのか、最初からこの目的であったのか……。どちらにせよ本当にウザったい事この上ない」

「一体彼らは何を叫んでいるんだい?」

「行けば分かるさ。見に行くのならば警察が来ていない今の内に行った方がいい。面倒なことになるぞ」

 そう言って彼は背を見せた。そしてそのまま役所へと吸い込まれてゆく。

 同時に、私は彼の不満げな顔の理由が分かった。
 彼はデモ隊に対して向けていたのだ。

 好奇心が駆り立てられる。私は面白いものでも見るように駆けて行った。勿論スタジアムに向けてだ。

 建物内に入った私は、そこからでも微かに聞こえるシュプレヒコールをじっと聴き取ろうとした。中にはロビーからそのフレーズを呟くモノまで居た。
 抵抗感は無かった。私は迷うこと無く観客席へと向かう。

 広々とした空間、ぽっかりと空いたサッカー用のフィールド。そこに向かって彼等は、いや、私以外の全員の人間が力強く叫んでいた。

 レザー・シャーと。

 私は理解した。これは反政府のデモだと。

 その名は最後の、私が若かった頃のこの国を統治していた皇帝、モハンマド・レザー・パフラヴィーの名だ。
 つまり、彼等は王の再臨を望んでいる。その場面に出くわしてしまった。
 だから彼は、アッバースは殊更に嫌な顔をしていたのだ。

 しかし私は、同時に彼に対して申し訳ない気持ちをも抱いてしまった。

 私は、彼等の叫びに対してすべてを否定する事など、いや、むしろこれに対しての反対の意思を示す事が出来ずに居たからだ。

Re: 春風の向こう側 ( No.17 )
日時: 2021/05/17 22:33
名前: ガオケレナ (ID: 8.dPcW9k)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no


 私は臆病者である。
 本来、あそこでは試合が行われる予定だった。それを彼等が占拠する事で予定時刻を大幅に遅らせている。それに理由などあったのだろうか。私には見当がつかなかったが、後になって理由を知った。

 この国には民間放送というものが存在しない。すべて国営によって番組は製作されている。このサッカーの試合中継も同様だ。

 つまり、試合の遅延の理由が反政府デモであるということを世間に見せつけ、同時にIRIBの連中、と言うよりは政府そのものに恥をかかせようという魂胆であるらしかった。私はそれに気付けなかった。

 私は臆病者である。
 結局私は、声を大にして文句を言う事が出来なかった。私は今の政府には懐疑的である。故にデモ隊の連中を、彼等を非難する事は出来なかった。しかし、後ろめたさがあったからだろうか。私は彼ら同様に叫ぶという事が出来なかった。

 ただ小さい声で「レザー・シャー」と一度か二度呟いたところでスタジアムを出た。本当はもっと叫びたい気持ちはあったが、勇気が出なかった。だから私はここでひとまずは諦めたのだ。

 家に到着し、そこで暫くすると外は暗くなり夜が訪れる。
 そこから更に少しばかり時間が経過すると、母が作り、姪が手伝った料理がリビングに運ばれてきた。
 今家に居るのはいつもの四人だけだ。故に床の上に布を敷いて食べる必要はない。そのままテーブルの上に皆が集まると各々座り出した。

 私はテーブルの真ん中に置かれているゴルメサブズィを自分の米の上にかけてゆく。
 さて一口食べようとスプーンを口に運ぼうとした時。

 この家の異変に気が付いた。

 とにかく静かなのだ。誰も余計に口出しして会話を楽しもうとしない。
 昔からこうであった訳ではない。むしろ、親戚たちを見て分かるように本来この族の人間たちはお喋りが好きだ。食事の時間は家族全員が集まる時間でもあるので特に会話に花が開く。

 何かを隠しているのが、私を除く皆が共通して秘密事を抱えているのは明らかだった。何故なら私は、

「なんだか静かだね?」

 その理由に心当たりがあったからだ。

「もっとお話していたはずなのに。何かあったの……かな」

 まず初めにこれを「おかしい」と感じたのはレザーだった。彼が、彼だけが食事を止めたからだ。

「料理中静かにしていて何がおかしい?」

「私はあまり静かなのは……みんながいるのに静かって言うのはあまり好きじゃないんだ」

「いいから黙って食べてくれよ兄さん」

「何か隠し事でもしているんじゃないかな? レザー、マリアン、母さん」

 この言葉に、遂に全員の顔が強ばった。

 母とマリアンは強く怯えたような顔をして私を見つめている。
 レザーは何か、大きな真実でも見つけてしまったような、これまでの常識が覆ってしまった瞬間に遭遇したような、ただの驚きとは違う不思議な顔をして私を凝視している。

 私は思わず小さく笑ってしまった。全員の注目を今浴びてしまっているこの状況がおかしく思えたのだ。

「何なんだ一体」

「ごめん……、何でもないんだ。ただ、少しおかしくて」

「おかしいのは兄さんだろ? 兄さんこそ何か隠しているんじゃないのか?」

「あぁ、その事なんだが……実は……」

「いや待て。その前に……マリアン」

 突然レザーは自分の娘の名前を呼ぶと指で何かを示す。見たところ退席を促しているようにも見える。

「あれを持ってきてくれ」

「あれって?」

「学校で聞いてきたんじゃなかったっけか?」

 そう言われたマリアンは、ハッとした顔をしてすぐに椅子から立ち上がって部屋へと姿を消した。彼女は早食いではないのでご飯は残ったままだ。

 マリアンはすぐに戻ってきた。一冊のノートを持ってきつつ、それを私に手渡しながら。

「叔父さん……。実はね、叔父さんの記憶喪失の話を学校で、先生に相談してみたの。そしたら色々話してくれてね。そのノートに先生から聞いた話、私が調べたことを色々纏めてみたの」

 そう言えば前にそんな事を言っていたのを私はふと思い出した。ノートを受け取り、中を捲るかご飯を先に食べようか悩んでいた時。

「兄さん、今ちょうど皆集まっている。ご飯食べながらでいいから、話をしないか?」

「話? 話ってどんな?」

「兄さんの記憶についての。マリアン」

 と、レザーはまたもマリアンを呼ぶ。今度はちゃんと席に戻って食べようとしていた。

「ノートに纏めたことと、先生と話し合って最終的に出した答えがあるんだろう? それを今話してくれないか?」

「わ、わかった……」

 と、マリアンはひと呼吸置いた。
 まるで強い決意でも表しているかのようだ。

「叔父さん、あのね」

 私は、私を強く見つめる彼女の顔を凝視した。
 若く、瑞々しいその肌は嘗てのシーリーンを彷彿とさせる。

「叔父さん……前に記憶喪失だって言ったじゃない? でもね、本当は違う気がするんだ」

「違う? それはつまり……どういう事かな?」

 反応に困る。私は既に元の私に"戻ってしまった"からだ。
 いつまで演じていればいいのか、そんな不安も巡る。

「叔父さん……。多分叔父さんは記憶喪失じゃないよ……。記憶の一部が"無意識"に入り込んじゃったんじゃないのかな?」

 よく聞く言葉だった。だが、彼女が言いたかったのはそんな単純なものでは、医学的な意味で言った訳では無いのだろう。

 ジークムント・フロイトが提唱した、深層心理における抑圧され続けた意識の領域。そこは通常の意識のある状態には意識できない文字通り無意識。

 私も学生の頃に学校で少しだけ学んだ事があった。気がした。微かに、ほぼ消えかけのもやのような薄れた記憶なので信憑性はほぼゼロではあるが。

「普通これまでの記憶が丸ごと無意識に入っちゃうことって無いんだけど、何かのきっかけでそうなっちゃったのかな……とにかくね、」

 マリアンは続けた。無意識とはどんなものか、その説明から。

 そして。

「無意識領域と言うのはね、本人に自覚が無いから気付くことも出来ないの。だからもし、発症した理由が分からないトラウマとかがある人はまずコレが疑われるんだ」

「トラウマ……? 私に関係ある……のかな?」

「それは叔父さんの記憶だから私は分からないけど……そう言った無意識下の精神面の治療となると少し厄介なの。でもね……」

 と、マリアンは分かりやすく例え話も交えながら治療法について述べ始めた。

 とある女性患者の話、精神科医への相談、記憶を呼び覚ます為の誘導にも似た問答、そして理解。

 もっともな理由を並べ立てる彼女だったが、私には響かなかった。聞いていくうちに別の解釈を勝手に自分の中で始めたせいだ。

「……それでね、その人は……って叔父さん、聞いてる?」

「あ、あぁ……ごめん。少し……考え事を、していて」

「もう!」

 途端にマリアンは不機嫌になった。私の態度が不真面目だと捉えられたせいだろう。彼女は善意で、成績に全く反映されない事を独自に調べ上げてきたのだから。

「ごめんよ」

 だから私も決めた。導き出した解釈が、どんなものかを皆に伝えることに。

「記憶やトラウマを理解するのが治療に近付く一歩だとさっき言ったよね?」

「言ったよ。それが?」

「私にも同じような事が起きたんじゃないかな?」

 それは。
 ショマールの海。友人の墓。そして、自室で見てしまった"ある物"。

 それら一つひとつの記憶の断片が、耐え難いトラウマに包まれた私を、本来の自分とは如何なる者かと気付かせてくれたパズルの一ピースだったとしたら。

「私は……偶然にもトラウマの克復をした事になるのかもしれないね」

 そう言い切って私は米を口に入れた。いつも通りのパサついた味だ。

「なぁ兄さん。さっきから気になっていたんだが……そのトラウマって一体なんの事なんだ?」

「そうよパルヴィーズ。ずっと一緒にいる私たち家族が知らない事なんてあるのかしら? 何があったの? 教えてちょうだい?」

 母と弟に詰め寄られた私は、言いかけていた言葉が喉に詰まり、そして下がってゆく。

 果たして言って良いものなのであろうか。
 私が見た物が何なのかを。

 この私が、自殺しようとしていた事などと。

Re: 春風の向こう側 ( No.18 )
日時: 2021/07/20 23:13
名前: ガオケレナ (ID: 2awtZA.D)


『よぉ。やっとお話が出来るな?』

 それは一瞬だった。世界が突如として暗転した。

「これ……は……?」

 私は一人、延々と闇が続く世界に一人立っている。取り残されたような感覚だ。

『よく見ろよ』

 いや、違う。私の他にもう一人人間が居た。それは私の知る人だった。

「私……自身とでも言うのか?」

『大正解。俺はお前で、お前は俺だ』

 私は訳が分からなかった。今、何を言われているのかを。単語の一つひとつを理解しようと試みたが情報量が多すぎるせいで頭がそれを受け付けない。

「ここは、何処だい? まるで……ロスタムの英雄譚に出てくる闇の世界のようだ」

『半分合っているような間違っているような……』

 私を名乗る男はとぼけてみせる。何を伝えたいのか、何の為に私を呼び出したのか、答えが見えない。

 その男は確かに私だった。ただし、少し若く見える。恐らく十代も後半の頃の姿なのだろう。チリチリの髪の毛、伸ばそうとしている髭。そして、礼儀知らずな言葉遣い。正に若かりし頃の私そのものだ。

『ここはお前の……いや、俺の心の中の世界だ』

「は?」

『そう思うのも無理はないかもしれないが。あれだ。"俺"はつい最近まで何か旅のようなものをしていただろう?』

 そう尋ねられ、私は少し考える。思い付く限りの事象が過ぎったがその結果、記憶を巡るあのエピソードの事を指しているらしいことを突き詰める。

『お前……いや、俺はややこしい事をしたもんだなぁ? そもそも死のうとしなければこんな目には遭わなかったはずだが?』

 そうだ。

 私は命を絶とうとしたのだ。

 記憶を失ったあの日。その、たった数分前に、だ。

「私は……死ねなかった」

『そうだな』

「その瞬間になって、怖くなったんだ」

『そうだろうな』

 私が机を開いて見てしまった物。

 それは、首を括ったはずの擦れた紐だった。

『今でも覚えているよ。死の感触を。まず、当然ながら息が苦しくなる』

「やめろ……。言わなくていい」

『ギリギリと締め付けられる中、五感が徐々に消えてゆく。聴覚が無くなってゆく。目を瞑っているはずなのに視界が無くなってゆくんだ』

「やめてくれ!」

 私は叫ぶ。だが、私は嬉々として感想を述べるのを止めない。

『最後に"考える力"が体から抜ける。閉じた目の中に広がるのは真っ黒に塗られた世界だが、その色を認識出来ないんだ。あれ? これ何色だ? ってね』

「それがトリガーになった……」

 異様と言う他無かっただろう。
 自分で自分の命を断ち切ろうとしていたにも関わらず、それすらも忘れた"生存本能"しか残らなくなった体が生きる為にと必死に抵抗したのだ。

「感覚の消失を怖いと感じてしまった……。全部消え去ったはずなのに、それだけは消えなかったんだ……」

『そう。それで俺は必死に体を揺さぶった。思い切り体を振って振って振りまくって遂に紐を千切ってしまった訳さ』

 その程度で助かる自殺など杜撰以外の何物でもないのだが、結果として私は助かってしまった。自殺失敗のショックと、これまでの辛く苦しい日々が一気にのしかかった事で無意識下に記憶がすべて押し込まれる、という形で。

「私は……どうしてあの時死のうとしたのだろうか?」

 私は自分自身に問いかけた。自分で分からない事が分かるはずもないと知っていながら。

「私は人の死を何度も見てきた……。残された人が、人の死を見てしまうとどうなるのか……、私は知っている。にも関わらずだ。何故私は死のうとしたんだ? 頼む、教えてくれ!」

 私の前に立ち塞がるように佇む若い私はにやりと笑いつつ、

『本当は死にたくなかった。だが、構って欲しかったんだろう? 誰かに助けて貰いたかったんだろう? だから、失敗できる死に方をしようとした』

 本当は気付いている事をズバリと突き刺すように言って放つ。

『だが実際は……』

「お前に……。いや、私に助けられた……」

 若かりし私はそれを聞き、微笑んだ。

『俺は別に孤独だった訳じゃない。母親は健在だし、弟も居るし可愛い姪もな。親戚は声掛ければ皆やって来るし、別れた妻と子も連絡さえすれば会ってはくれる。嘗ての友人も同様だ』

「だが、最後に頼るべきは……」

『自分自身ってね』

 目の前の私は一歩二歩と歩き、私へと近付く。右手に何かを握り締めながら、柔らかな笑顔を見せながら。

『さてと、いつまでも何も無いこんな世界に居てもつまらないだけだろう? もうお前はすべて思い出した。大事なモノも取り戻したはず。これからすべき事など……分かっているだろう?』

 私は私に手を差し出した。私は私の手を握り、中にある物を掴む。

『もう死のうとは思わないよな? 流石に』

「しないさ。何の為に生きるのか思い出したし、それに……」

 意識が途切れてゆく。もしかしたら、元の世界に戻るのかもしれない。
 私は薄れゆく私を見た。その上で宣言する。

「もう、"あの痛み"は経験したくない」

『その意気だ。お前は一人じゃねぇよ。俺が居る』

ーーー

「叔父さん……?」

 若々しくも可愛げのある声が響く。
 私は悪夢を見た時のように全身をビクつかせて我に返った。

「あれ……。此処……は?」

 家の中である。食卓を囲んだ、食事中の風景。私が見たのは以前とは変わらない、文字通りの世界。

「急に静かになるもんだから……少し心配したわ」

「どの位ボーッとしてた? 凄く……長かっただろう?」

「飯食ってみれば分かるだろ」

 レザーに従って完食すらしていないご飯を口に運んでみる。まだ温かかった。

「みんなは……知っているのかな。あの日のこと」

 私は手の中にある物を強く握りしめる。感触で分かる。紐だ。

「ここに居る全員は」

「そうか……」

「だが、親戚たちは知らない。知ったが最後、噂話としてテヘラン中を駆け巡るだろう」

「どうかそれだけは避けておいて欲しい……」

「ここに居る誰もがそう思ってるから安心しろよ、兄さん」

 夕食を食べ切るのにそこまで時間は掛からなかったが、席を一番最後に離れたのは私だった。まるで、二人分食べたような余計なまでの満腹感が私の体を椅子に縛り付けたのだ。

 すべては家族のため。そして、私の子のため。

 決して投げ出す真似はしない。
 私は、もう一人の私にそう誓った。

 そうする事で、微かな希望が見えた気がしたのだ。

Re: 春風の向こう側 ( No.19 )
日時: 2021/08/31 21:06
名前: ガオケレナ (ID: k98DLrCp)

 そうして、私は真面目に働いた。
 不平不満やぼやきは言わなくなった。ただひたすらに、作業の手を進めた。
 希望など無いと思っていた。だが、それはあらかじめ有るものではなく、自ら作るものだ。
 だから私は、無心で働くことが出来るようになった。

 ある程度貯金が溜まったら、妻と子に会いに行こう。可愛い姪に何か贈ろう。

 そんな事を考えながら、幾日が経った頃。

 私は夜中に突然目を覚ました。見れば、灯りとテレビが点けっぱなしだった。

 半分以上寝ている頭を動かし、瞼を擦る。

「誰も……居ないか……」

 家族は皆寝室で寝ている。リビングで寝落ちしたのはどうやら私だけのようだ。

 西洋では新たな年が明けて何日か経っているらしい。SNSでの、海外に住む友人がそんな事ではしゃいでいる。

 私はまず先にテレビを消そうとテーブルに放置されていたリモコンを持ち上げ、眩しい画面に向けたその時。

「臨時ニュースです。たった今、イラクにおいて……」

 様子がおかしい。
 何だか今コレを消すのは勿体無い気がした。なので、少しばかり眺める事にした。髭の濃い男性キャスターが淡々と言葉を告げているだけの絵面。相変わらずつまらない。

「繰り返します。ゴドス部隊所属のガーセム・ソレイマーニー司令官が外部からのミサイルの攻撃を受けた事により、先ほど死亡が確認されました」

「…………?」

 私は、箱の中の人間が何を言っているのか分からなかった。
 果たしてこれは夢か、現実か。寝惚けている頭ではその違いの見分けがつかない。

 だが、報せの臨時性も相まってニュースは何度も何度も同じ話をする。そのひとつひとつ、一回一回を聞いていくうちにそれが真実なんだと身に染みてゆく。

 大変な事が起きてしまった。

 国際関係に疎い私でも、外交の一切を知らない私でも、それだけは察知出来た。
 そしてその理解という感情は、次なる行動を生む。
 私は同時に、今日の仕事は休むことと決めた。

ーーー

 朝になった。
 例のニュースに立ち会って四時間か五時間ほどしか経っていなかった。

 だが、その景色はその時とは何も変わっていなかった。
 その騒がしさは、まるで暗黒の雲に一筋の稲妻が走る時と同じように。

 ある者は狼狽え、ある者はひどく混乱し、ある者はこれからの予測が出来ず呆然と突っ立っている。
 何故このような事件が発生したのか。街からはそんな囁き声で包まれている。それはつまり、この国の、そして世界の未来に対する不安と怯えだった。

 私は例の金持ちの客に今日は臨時的に休業する旨を告げ、了承を得るとすぐに出掛けた。

 目的地はひとつ。イスファハーンだ。

 私の住む街から移動すれば四時間から六時間で到達する。車で行けばより早く着くみたいだが、弟が先に乗って出てしまったため、私はターミナルまで行くとそこからバスで移動する事にした。

 ほとんどの席が空いていた。私は目に付いた適当な座席を選ぶとそこに座る。椅子はゆったりとしていて心地は悪くなかった。
 この後の予定を思案している内にバスは走り出した。思えばこれから暫くする事が無い。そう考えるとひどく退屈だ。

 なにか引っかかる思いだった私はあらゆるサイト、SNSを開き、そこでの世の中の叫びや声を見た。

 信憑性が無に等しい国内のニュースサイトはとにかく煽りとアメリカに対する批判で埋め尽くされていた。事実上の宣戦布告とも謳っている記事まである程だ。
 これらは国内のメディアや知識人が困惑している表れだと捉えてしまえば、まだ冷めた目で見る事が出来る。

 だが、そんな私も彼らと同じくして動揺することとなる。

 私が次に開いたのはTwitterだった。
 仮に途轍もなく真面目で、聖人君子にも等しいイラン人が居るとしたら、彼らは国内でTwitterやFacebookを使う事は出来ない。国が規制しているからだ。
 だが、私や大半の国民は、その規制を掻い潜るプログラムを施した端末を手にしているのが実情なのだ。

 本日のトレンド一位は"WorldWarIII"。
 理由は言わずもがな。国内が大いに騒がれているように、この一件で世界も同じく騒いでいるのだ。

 当然第三次世界大戦が勃発したというニュースは存在しない。それはまだ起きていない出来事だ。
 だが、世界中の人間が"起きてしまうのではないか"とざわつき始めている。
 国内の数多いニュースサイトと同じレベルの信憑性だ。それを真に受けるのも馬鹿馬鹿しい。

 だが、量というものを目にしてしまうと、「本当に起きてしまうかも」という思いも渦巻いて来てしまう。

 夜中に目覚めてからずっとだ。

 私の心は晴れることはなく、穏やかになる事は決してなかった。

 そんな事をしている内に、バスはイスファハーンに到着した。
 途中で寝てしまったせいだろうか、予想よりも早く着いた気がした私は、本当にこの地がイスファハーンなのか半分ボケた頭でバスから降りる。
 ターミナルから目的地はあと数キロといった距離だった。私は適当にそこらに大量に停まっているタクシーを捕まえ、イマーム広場前まで行くよう伝える。

 かつて、イスファハーンは"世界の半分"とも称されるまでに大いに繁栄のかぎりを尽くした街である。流石に今となってはそこまで大きいものではないが、その名残は今でも健在だ。

 十六世紀に新市街区として設けられたイマーム広場といえば言葉を失うほどの豪華絢爛なイマームモスクが有名だが、それとは同等に名を馳せているものがある。バザールだ。

 私はバザールに行きたいとタクシーの運転手に話していたので、彼は広場の北側の入り口まで走ってくれた。ここまで来ればあとは目的地は目の前だ。
 料金を支払い、すぐに外に出る。
 平日の昼間となるとイマーム広場に居るのは観光客か見学に来た学生がほとんどのはずであり、一般人の姿はまばらだが、どうやらそれは真夏に限った話のようだ。要するにかなりの人の流れがそこにはあった。

 私は人の波を掻い潜り、バザールの入口へと向かう。

 流石としか言いようがなかった。
 無数にある露天が、小さな隙間無く延々と伸びている。一つひとつの店は規模の大小こそはあれど、基本的には小さいものがほとんどなのだが、限られたスペースを如何にして客の目に留めようかと、派手だったり綺麗な物を上手い具合に並べている。店主のセンスが光る空間でもあった。
 絨毯や水タバコ、そしてお菓子の売り場が無数にある中、私は彼の店を遂に見つける。

 私の友、アリの本屋だ。

 彼は以前、「イラン人相手に『ルバイヤート』など売れるわけが無い」と言っていたがその通りで、本屋と言うよりは雑貨屋に近かった。それでも本の割合が高かったが。

「いい店だね。これはいくら?」

 私は商品の並べ替えをせんと背を向けている友に向かって声をかけた。

「あんた、バザールは初めてかい?それらに値段なんてねぇのさ。全部俺との交渉次第……ってなんだおめぇ、ホスロー様じゃねぇか!」

 私だと気付いたアリは途端に大きな笑みを浮かべ、再会を喜ぶ抱擁を交わす。そして、肩を叩きながら「元気か」なんて言ってくれた。

 私も私で個人的な転機が訪れたお陰で「まぁ、なんとか」と言ってはみせるものの、それでも今朝の出来事が頭から離れずにいる。

 それは彼も同様らしかった。

「君の店を再び見に来たかった。……それと、少し話も」

「あぁ、前に言った通りサービスしてやるぜ? それで話って一体?」

「今朝のニュースは見たかい?」

「当たり前よ。もうその話題で周りもうるせぇ位だ」

「世界中でも私たちと同じように戸惑っているらしい。中には戦争が始まるなんて言っている連中も居る。……それでどうなのかな? この国は……アメリカと戦争をしてしまうのかな?」

 私の言葉を聞いたアリは少し考える素振りを見せると、「目当ての商品はこっちだ」などと言いながら手招きをして露天の奥へと押しやってくれた。流石に通りの真ん前でこの話をするのは色々とマズいようだ。

 そして周りには決して聞こえないような、ぼそぼそとした小さな声で私に答えてくれた。

「確かに、あんたの言う通り戦争を危惧する声は大きい。それは内側だろうと外側だろうと関係ねぇ。中には陰謀論と結び付けて面白おかしく戦争を煽る奴までいる。だが、実態はそんなモンじゃねぇ……」

「どういう……ことだい?」

「いいか? 大前提として、今回亡くなった司令官サマはこの国においては絶大な人気を誇る反面、それと同じくらい恐れている者や鬱陶しく思う声もある。それをまず始めに頭に入れて置いてくれ」

 事情を何も知らない人間に話すための配慮なのだろう。彼は結論を述べる前に前提を提示した。最初は何のためのものかと思った私だったが、それはのちに故人への配慮と勘違いさせない為の措置であると気付かされた。

「結果から言うと戦争は起きねぇ。これは絶対だ」

「何故だ? 何故そう言い切れる?」

「お互い得がねぇからさ」

「得? 戦争は金になるイメージだったが……」

「それは間違い無いのだが、今回は事情が違う。イランがアメリカなんかと戦った所で勝てる訳など無い。わざわざすべてを失うバカみてぇな戦いをこの国が、お偉いさんたちがするハズが無い。それはアメリカも同じだ。イランと戦うよりも、その後に起こる世界的な混乱の方が遥かにダメージがデカい。元々ビジネスマンだったトランプの事だ。そこは誰よりも分かっているハズだ」

「でも、その戦争を起こすのに等しい程の人間を今回失ったって……」

「あー……、そりゃちょっとした間違いだぜホスロー様よぉ……。実はそこにカラクリがあるんだ」

「カラクリ?」

「いいか。これは決して政府の人間が認めない話なんだが、今回あの人が亡くなった事で喜んだ国がいる。それは何処か分かるか?」

「アメリカだろう?」

「それともう一つ。イランだ」

「そんな馬鹿な!」

 私は反射的に大声を発してしまった。あまりの出鱈目さ加減に。
 アリはそのせいで注目を浴びてしまう事を懸念したのか、「馬鹿っ!! 声がデケぇ!」と小声で怒鳴っては私を叩く。

「革命防衛隊の最重要人物だぞ? そんな人間を失って喜ぶ自国があるのか?」

「あるんだそれが。実はな、奴は隣国イラクでは中々に有名な人間でな。最早今のイラクなんてのはイランの傀儡なんて揶揄する声も大きい位なんだ。そこに、奴の姿があった」

 信じられない話だ。私にとってイラクなど、およそ三十年前の自ら参加した戦争のイメージしかない。フセインが死んでかなりの時が経つというにも関わらず、だ。

「だが、奴は目立ち過ぎた。彼らに反抗的な現地の人間だけでなく、無害な一般市民に対してもかなりの処刑をしたなんて話を聞く」

「そんな事が……」

「それに黙っていられなかったのがアメリカだった。ただちに彼をテロリストに指定し、暗殺の機を伺っていた。同様に彼の動向に疲れていたのがイランだ。言うなれば奴は暗殺者だ。暗殺者てのは本来目立ってはいけねぇもんだ……。だが、奴は目立ってしまった。イラクでは反イランの声も叫ばれている。諸外国に対するイランのイメージもどんどん悪くなっていく。要するに……」

「都合が悪くなったのか」

 私がそう言うと、アリは静かに頷いた。

「俺は商売上周辺国を回りながら売り買いをする事が多いんだが、物や金と同じくらい情報も入ってくる。俺の元にはこんな情報も入ってきているぜ。"バグダード国際空港で奴を殺す"そんな事前通告をアメリカがイランに寄越したってな」

「それはつまり……今日未明の事件はアメリカもイランも事前に知っていた、という事か?」

「それだけじゃねぇ。お互いにとって面倒な人間が亡くなった。言い換えれば互いの思惑が一致した瞬間でもあったって訳さ。文字通り瞬間だけどな」

 その後もアリの話は続いた。

「とはいえ、イランにもメンツってモンがある。表向きは敵対しなければいけない以上、形だけの報復や英雄の死だなんだと言ってセンセーショナルな主張を繰り返すだろうよ」

「いい加減仲良くは出来ないのだろうか……」

「本音としてはイラン政府もアメリカとは話をしたがってはいるんだろうが、まぁ過去があるしな。そう簡単にいけねぇ事情があるのよ」

 偉い人たちの世界は分からない。故に不信感と言った感情が生まれ、反政権的な行動に走る者も居るが、私自身にもその不信感は芽生えている。だが、それ以上にも安心感の方が大きかった。

 アリは方々から情報を手にし、それらを嘘か本当かを見抜く力を備えている。それは昔からだ。だから疑う余地は無い。

 戦争は起きない。これ以上に心を晴れやかにする事実は、他には存在しなかった。

Re: 春風の向こう側 ( No.20 )
日時: 2021/09/01 00:43
名前: ガオケレナ (ID: k98DLrCp)


 イスファハーンという街は夜になって初めて真の姿を現す。
 昼時と比べて人の出入りが激しくなるのだ。

 なにもこれはイスファハーンに限った話ではない。イランという国は乾燥地帯に位置している。昼はうだるように暑く、夜は涼しい。たとえ世界が闇に包まれても、街から灯りが消えることは無いのだ。

 今は真冬の只中にあるが、最早"それ"が習慣になっている人間には大したことではないらしい。それでもアリ曰く「夏が一番賑わっている」との事だが。

「どうだ? 折角だしスィーオセ橋でも見て行くのは」

「おいおい……。私は観光客じゃないんだ。来ようと思えばいつでも来れる。私はやりたい事はすべて果たした。その事に感謝したいくらいだよ」

 そう言って私は彼がサービスして大幅に安く買えた、土産物の派手な柄のミニテーブル用のクロスを軽く振ってみせた。可愛い姪へのプレゼントだ。

「お前の店に再び来れたし、話も出来た。お土産も買えたしで不満は無いくらいだ」

「それは良かった。じゃあもう帰るのか?」

「あぁ。元々日帰りのつもりだった。今から帰ればバスの中で眠れるし、家に着いてもまだ陽が昇る前だ。家でも少し休める。そのまま仕事に行くよ」

「気をつけろよ。近頃は生活苦から反政府デモが頻発していると聞いている。くれぐれも、間違いだけは犯すなよ」

「ありがとう」

 私はそうやってつまらない挨拶を交わすと、行きの時と同じくタクシーに乗り込んだ。帰る方法も変わらない。ターミナルまで行って、そこからは同じくバスだ。

 果たして、私の予想通りの時間の運びとなった。
 夜明け前に家に到着した私は、バスの中で深く眠ったせいでボケている頭を必死に揺り動かしながら部屋に戻り、再び眠りへと落ちる。ここまで寝てしまえば仕事に支障は出ない。何の問題もない。

ーーー

 それから五日が経過した。
 私はこれまでのように、仕事に励む日々を送っていた。
 客の求めるままに庭の手入れをし、壁を破壊して部屋を新たに作ったりするなどして日銭を稼ぐ。その繰り返しだ。

 と、思った矢先。

 また新たなニュースが飛び込んできた。

 それは、革命防衛隊がイラクに駐留しているアメリカ軍とその基地に向かって数十発の弾道ミサイルを発射したという事件が起きたのだ。

 国営メディアは"司令官爆殺に対する報復"だとか、"アメリカ側に八十名の死者を出した"などと広く喧伝している。

 再び世界は混乱した。

 今回の事件は、アメリカの一方的な殺戮で終わると思っていた矢先に、遂にイランが反撃に転じた。まさに一触即発、事実上の宣戦布告などと騒ぎ立てる連中がSNSを賑わせている。
 再びTwitterのトレンドに"第三次世界大戦"の文字が表れた。

 私も、何も知らない状況であれば彼等と同じくしてこの世の終わりを嘆いたり、どうにでもなれという気持ちからデモに参加していたのかもしれない。

 だが、実際のところはアリの言葉が現実となった。そんな意味では、私は彼に救われたのだ。

 そんな事を考えながら仕事を終え、自宅に帰る途中の夕刻。
 私は、役所の前で繰り広げられている口喧嘩の場面に遭遇した。
 よく見ると、友のアッバースが数名の市民に囲まれて何か言っている。

「いい加減帰れ!」

「うるせぇ! こんな時にタバコなんて吸いやがって!」

「やはり金持ち公務員は違うのな! 戦争が起きようって時に呑気にタバコでも嗜みやがって……。しかも仕事中に! やっぱり役人は皆国や国民の事はどうでもよくて、自分らの金が一番大事なのな!」

 口喧嘩と言うよりは中傷に近かった。
 タバコが高級品なのは何もこの国に限った話ではないのだが、どうやら休憩していた所をたまたま気性の激しい人間が目撃してしまい、彼に突っかかった……というのが事実のようだ。

「お前らが帰らねぇなら、ここに居る全員警察に通報するからな! ほら見ろ! 通報してやったぞ!」

 アッバースはそう叫びながらスマホを掲げた。画面には警察の番号が示されている。
 それを見た喧嘩腰の人々は一斉に散っていく。力無き市民の前では、警察や軍が強い脅迫にもなり得るという場面をまざまざと見せつけられた。

「大変な事になっているな、アッバース」

「またお前か……」

 友は忌々しそうな目をすると、吸殻を捨てた。

「俺も国も、大変だよ全く」

「お疲れ様だな」

「本当にな」

 アッバースは舌打ちをした。それに幾つかの意味があるのは明白だった。

「戦争なんて起きない。そうだろう?」

「何故そう言い切れる」

「そういう類の事件だからさ」

「全く……何処でそんな情報を掴んだんだか」

 私はアリの存在は徹底的に伏せるつもりでいた。私のせいで彼に危害が加わってしまうのは、あまりにも悲劇だからだ。

「確かに、この国は面倒な人間を一人亡くした……」

「だから、戦争は起きない」

「だが、現に軍は報復をした。アメリカ兵をミサイルで殺したそうだ。だが何故か不思議なことに、死者の発表をしたのはこの国だけだがな」

「案外アメリカもこの手の報復が来ると知っていたのかもね」

「おい、それ以上は黙れ」

 強い口調でアッバースは私の言葉を遮る。いくら下っ端の公務員とはいえ、国を思う気持ちがあるのかもしれない。

「ところで、お前に妙な噂が広がっている。サッカースタジアムで起きたデモに参加していたらしいな? 私は何かの間違いだとして取り上げはしなかったが……お前、実際のところはどうなんだ?」

「私は……」

 私は思い出そうとした。何故政府に反抗する言動を取ろうとしたのかを。
 それは、日頃から燻り続けている不信感のせいではない。また、別の感情だ。

「私は……この国での自由が欲しいだけだ」

「自由だと!?」

 アッバースが叫ぶ。

「この国が自由でないと言いたいのか!? だとしたらお前はとんでもない愚か者だな! この国を何も知らないでいる……」

「何も知らないだって? 街を見ろよ……。女性は皆顔を布で隠さないと外を出歩くことすらも出来ないじゃないか。王様の頃の時代はどうだったよ? 服装の縛りなんて無かっただろ!?」

「お前が言いたいのは服装だけか?」

「それだけじゃない。公に西欧の音楽をかける事も出来なければ、表現の自由も存在しない! これを不自由と言わずに何と言うのさ?」

「根本的な説明をしてやろう。何故この国に強い縛りがあると思う? 何故イスラムは戒律が厳しいと思う? 逆に、何故お前の大好きアメリカの刑事罰が物凄く重いと思う? そうでもしないと好き勝手やらかす人種だからだ。道徳心なんてものが俺たちやアメリカ人には存在しないからだよ!! それでもアメリカから犯罪が消える気配は無いがな。俺たちは自分で自分を律しなければジャーヒリーヤを繰り返す! ただそれだけだ!」

「それは過去の話であって、今とは生活環境も豊かさも違うだろう!? あのまま、革命が起こらずにいたらもっと変わっていたかもしれない!」

「何を根拠にそんな事言ってんだお前は……」

 アッバースは二本目のタバコを取り出した。私のせいでイライラしているのは明らかだ。

「秘密警察に怯えなくて済むなんてぬかしてたのは何処のどいつだ? 千年以上前からイスラムの下に作られたこの国を根本からブッ壊したせいで、反感を募らせたのは何処の誰だ? 革命は誰が主導した? 全て国民だ。この国は国民が立てたものだ」

「それは私じゃない! 既に死んだ、私よりも世代が上の人々だ。私たちはそいつらの尻拭いをしているに過ぎないんだよ……?」

「今度は責任転嫁かよ……」

 アッバースの顔は怒りに満ちていた。私も勢いですべてを吐き出しているが、彼のように今のこの国の形を愛する者にとっては売国度のようにしか見えていないのかもしれない。

「本当にお前は気に入らない奴だ」

 彼は背を向けた。まだ吸い途中のタバコを捨てると、仕事の再開のためか、建物に戻ろうとしている。

「いいか、お前の心情を暴露してやる。お前が欲しがっているのは民主的な政治でも、王という統治者でもない。お前が若かった時の"あの頃"だ。……二度目は無いぞ。今度こそお前がおかしな動きをしているのを見たら、絶対に通報してやる」

 そう言って、彼は私から姿を消した。
 そして、それが彼との最後に交わした会話となった。

ーーー

 気が付くと、私はデモに混ざって行進していた。
 デモ隊の人間は皆が違うことを街に向かって叫んでいる。
 生活用品の値下げの要求、戦争への反対、ロウハニ大統領への辞任要求、そして最高指導者への過激なヘイトなど。

 私も叫んだ。

「あの頃のような、自由なイランを!」と。

 自分で言って自分で悩んだ。
 自由とは何か。あの頃とはいつか、と。

 このデモにも民主化を叫んでいる者はいる。だが、果たしてこの国は民主化されていないのだろうか?
 国民を対象とした選挙が行われている。今の私のようにデモも行える。

 これが民主化でなければ、一体自由とは、民主的な政治とは何なのだろうか?

 私はいつも、とある空想をしていた。
 それは、私の前に見えない壁があるのだ。そして、その壁の向こうには春のような、暖かい風が吹いている。風が吹く先には、新たな時代が待っているのだ、という空想を。

 だが、実際は違った。
 本来は、私の求めているものは既にあったのだ。

 風の吹く先には、何も無かった。既に満たされていたからだ。それに気付かなかった。気付けなかった。だが、もう後には戻れなかった。

 嘗ての友の言った通り、私が最も欲しているのは青春を過ごした日々なのかもしれない。勿論そんな物は帰ってこない。

 でも、それでも、私はそれを認めたくなかった。今それを認めてしまえば、これまで積み重ねてきた自分自身の姿が崩れてしまいそうでとても怖かったからだ。

 無学だろうと、無知だろうと、何を言われても私は構わなかった。

 戦うしかないからだ。

 迫り来る不安と、脅威と、そして、輝かしい過去を取り戻すために。

 これは、遠い時代に取り残された、哀れで、情けない、亡霊の、ただの、物語だ。