複雑・ファジー小説

Re: 春風の向こう側 ( No.8 )
日時: 2020/12/01 00:05
名前: ガオケレナ (ID: qiixeAEj)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no


 ショマールでの休息が終わった。

 それから二日後の話だ。
 朝から家の中は騒ぎに包まれている。

「どうしましょう……どうしましょう……」

 母は包丁を持ちながらキッチンと、それに連なる広間を右往左往していた。

「母さん……危ないから! 何やってんの?」

 顔を洗ったレザーが朝食を食べに広間へとやって来る。テレビは母が付けたのだろうか、既にニュースが流れており、白い髭を生やした偉そうな年寄りがボソボソと何かを言っている。

「あ、あぁ……レザー……。起きたのね、おはよう……今大変なのよ!?」

「大変なのは分かったから!! 普通に危ないからまず包丁置いてくれないか!?」

「どうしましょう……どうしましょう……」

「だーから何が起きたんだって!! まず話してくれよ!!」

 レザーが声を荒らげる事で母も少しは落ち着きを取り戻したのか、一呼吸入れると手に持っていた包丁をシンクに置く。

 それは唐突だった。

「パルヴィーズが居なくなっちゃったのよ」

「……何だって!?」

 確かに少し部屋の中が大人しいと思った。人一人居なくなったような静けさが確かにあった。

 部屋を見回すも、確かに兄の姿は無い。
 別の部屋か、庭にでも居るのかと思いレザーは早足で家の中を回る。途中で少し寝坊したマリアンと廊下で鉢合わせした事以外は何も変わった事はなかった。

 兄が失踪した。

 それを理解するのに果たして家の中を何周しただろうか。
 単に外へ出掛けるだけであればなんの問題も無い。

 だが、彼は記憶を失っている。変な話、年寄りが突然行方不明になるのと意味合いとしては同じだ。

 彼が何処へ何をしに行ったのか。それが全く分からない。

 警察へ連絡しようかレザーは惑いつつも受話器を手に取った。

ーーー

 さてパルヴィーズはと言うと、彼の家族が如何にして混乱しているかは露知らず、今にも消えそうな程の朧気で曖昧とした記憶を頼りにひたすらテヘランの街を歩いていた。

 確かに見えた記憶の片隅に写った手掛かり。
 そこに行けば何かあるかもしれない。

 直感が、本能がそう訴えている。

 頼りげの無い足取りはひたすらゆっくりに、果たしてそれが本当に目的の場所へ向かっているのか、もしも事情を知る者が傍に居れば不安になっていたことだろう。

 だが、その前にパルヴィーズの元に変化があった。
 その足が止まった。両足が同じ方向を向き、彼は"それ"をまじまじと眺めている。

 街でも評判の、喫茶店だった。

ーーー

 店に入ってから一時間半後。
 すっかり冷めたコーヒーを凝視していたパルヴィーズは、扉が開くことで鳴るベルの音を捉えた。

 また一人、客が来たようだ。

 パルヴィーズはカウンターで注文を始めているその人を見た。

 歳は自分と近しいようだ。性別は男。綺麗なスーツを着ている。時間的に見て出社前に此処に立ち寄っているようだ。

 その男は一杯のコーヒーカップを持って適当に空いている席へと向かう。
 それを見計らい、パルヴィーズもそちらへ移動した。

「や、やぁ……」

 男はあえて甘くしたコーヒーを飲みつつスマホを眺めている。何やらニュース記事の類のようだ。

 パルヴィーズはひとまず一声掛けると向かいの席へ座った。相手の了承は得られていないが、それは必要無い。必要の無い相手だと分かるからだ。

 男は聞き慣れない声に不信感を抱きつつ、突然座り出した男を眺める。

 不思議そうに自分を見つめる眼差し、まるで知り合いにでも掛けたような声。

 男は少し考えた後に、

「パルヴィーズ……? お前パルヴィーズか!?」

 名前を間違われること無く呼ばれると、彼は安堵のあまり口元を綻ばせた。

「ひ、久しぶり……だね。アッバース」

 それは、偶然だろうか。それとも必然だろうか。

 非常に危うい状況である中、パルヴィーズは嘗ての友人との再会を果たした。

Re: 春風の向こう側 ( No.9 )
日時: 2020/12/19 20:25
名前: ガオケレナ (ID: qQixMnJd)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no


「な、なぁ……。最後に会ったのっていつ頃だったかな?」

 私にはそれが分からない。だから尋ねる事にした。私が知っている……と言うより、思い出したのは千九百七十九年の革命が終わった時までだ。

 そこから先はまだ思い出せない。
 ここ最近までの記憶も、それは同様なのだ。

 アッバースはカップを片手に私を変な物を見るような目で一瞬見つめ、

「さぁ……。どの位だろうな? 二年か、三年前じゃないかな?」

 私に教えてくれた。

「あ、あぁ……そうか、そのぐらいか。ありがとう……」

 何に対して"ありがとう"なのか。相手は恐らく分からないことだろう。故に私はおかしな事を言っている人間と思われてもおかしくはない。

「カップ」

 アッバースは私のコーヒーを見つめて呟く。怪しい目付きは今度はそちらへと向かっている。

「湯気が出ていないね? ここのコーヒーは暖かいまでが美味しいのに。わざと冷ましているのかい?」

「えっ……」

 途端に返事に困った。
 彼はこの店に特別な拘りでもあったのかもしれないが、まさかの着眼点だ。ただでさえ言動が怪しい私に更なる要因を加えられてしまえば益々苦しくなる。

 何を話そうか、どこまで話そうか。
 モジモジと悩んでいると、彼は時間が来たからだろうか突如として席を立とうとした。

「待ってくれ!」

 咄嗟に私はアッバースの肩を押さえる。彼はとても迷惑そうな顔をしていたが、それを見て私はどうして此処に来ようと思ったのか、それを思い出すと決意へと変えてゆく。

「待ってくれ……少し、話が……」

「悪いがもう時間なんだ。仕事へ行かないと」

「職場までついて行くよ……。どうしても聞きたい事があるんだ」

 そう言うと彼も間に合えさえすれば良いようなので、私がついて来る分には何も言わなかった。

「実は私は……記憶を失っているんだ」

「……?」

「数日以前からの記憶が一切思い出せないんだ……。初めは私が何者なのかも分からなかった……だけど」

「嘘だね」

 彼の職場は恐らくだが近いのだろう。バスにもタクシーにも乗ろうともせず、店を出ると迷いも見せずに歩き出した。
 彼はそう言ってはまだ視界からは消えていない先程の喫茶店を指す。

「記憶が無いのなら、何故俺があそこに居ると分かった? 何故あの店の場所が分かったんだ?」

「それは……」

 過去の記憶のお陰だった。

 アッバースは若い時からの行きつけであったし、実際に思い出した光景の中には彼がそこで砂糖を多く入れたコーヒーを飲むシーンが何度が現れたからだ。

「それだけじゃない。直接的でないにしろ、母さんが教えてくれた。私はどうやら、友人とあそこへよくお茶しに行ったみたいだってね」

「……つまり、お前は過去の細すぎて最早どうでもいい部類の物まで思い出した訳か……」

「どうでも良くはないだろ! 現に私はこうして君に会えたんだ! 四十年前の友人に、やっと」

 アッバースからすると三年ほど前の友人であるが故に大袈裟な表現ではあったが、素直な話私はそれが正直な感想だ。本当に、私からすれば遠い時代の仲間たちなのだから。

「それで? お前の望みは何なんだ?」

「望み……?」

「状態があまり宜しくない中お前は俺を尋ねてきた訳だ。何か目的とか望みがあるんじゃないのか?」

「あ、あぁ……そうだ」

 私は家族と交わしたショマールでの会話を思い出そうとする。
 幸いなのは、私の記憶は目覚めて以降は健在だという事だった。

「私の思い出は……革命で止まっている」

「それはさっき聞いた」

「そこから先を教えてくれないか!?」

 ピタリと。
 アッバースの足が止まった。

「……お前、本気で言っているのか?」

「私は君や……バフマンやアリやシーリーン達の身に何が起こったのか……あの後に何があったのかを教えて欲しいんだ……!」

 見ると、アッバースの顔は凍り付いているようだった。
 決して言ってはいけない暗黙の了解。それに触れてしまった時の、その時の聞き手の何とも言えない恐ろしさを醸し出しているような。

「お前……頭おかしいよ」

「仕方がないだろ……私はこの通りなんだ」

「戦争だよ……ッ!」

 その時。
 確かに空気が凍った。

「戦争が起きたんだよっ! この国で……。当然お前も俺達も軍に駆り出された……。それさえも忘れたのか? お前は」

「戦争……? 戦争だって!?」

「どうしても分からないか? ならば実際に行って見てみるがいいさ」

 アッバースはそう言うと片手で持ち上げていた小さな鞄から街のパンフレットを取り出し、地図の上に印を付けると私に渡して来た。

「これは? ここに何があるんだ?」

「行ってみろ。すべて分かるさ」

 鞄の蓋を閉め、アッバースは再び歩き出した。だが、その方向は先程とは違う。

「そう言えば……時間は大丈夫なのか?」

「問題ない。もう着いているからな」

 アッバースが足を止めた理由。
 それは私の言葉に驚愕したからだけではなかった。方向転換もしたかったようだ。

「此処は……役所?」

「俺は市の職員だ。いつも此処で働いている」

 私の目には、大きな現代的な建物が見えた。
 広く、高く、それでいてアラベスクな意匠も見て取れる立派な建物だ。

「それはつまり……君は政府の人間になった訳だね」

「ま、まぁな……。言ってしまえば、そうなる」

「何か……変わったかい? 革命前と、今とで。良くなったかい? ……私にはそれがよく分からないな」

「待て。待てパルヴィーズ。それ以上言うな」

 私は特に意識せずにそう言った。だが、それがいけなかったようだ。

「お前はそれ以上言ってはいけない。俺はお前を警察に突き出す事も出来るんだぞ?……今ので」

「何故だい? まさか文句か? 待ってくれ。私はそんなつもりで言った訳じゃない。私は思い出せないから……」

「だから、だ。お前が本当に忘れているのなら、軽はずみな言動はよせ。理由わけを知らない人からすると勘違いされてもおかしくないんだからな」

 そう言うとアッバースは私の元を離れ、建物の中へと入っていく。
 軽く脅された訳だが、ピンと来ない私はぼんやりとその背中を見つめることしか出来ない。

 強い風のせいで、私の手の中のパンフレットが揺れた。

Re: 春風の向こう側 ( No.10 )
日時: 2020/12/24 20:53
名前: ガオケレナ (ID: Se9Hcp4Y)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no


 テヘランという街は、地上においては混雑を極めるという意味では不便であれど、地下においてはそうでも無かった。

 テヘラン・メトロ。
 中東を、いや、世界を代表する大都市の奥底に張り巡らされた新交通システムは千二百リヤルで何処までも行ける代物だと言うのだから利便性は上々と言ったところである。

 問題とするならば、そこに至るまでに苦労したことだった。

 何度も言うようだが、私は記憶喪失である。今においては全てではなくなったが、一切の思い出が私には無い。

「すみません……。あの、すみません」

 どうにも出来ない私は声を掛けた。私同様、外に出てはゆっくりと歩いているその人に。

 その人は老婆であった。手押し車を押しては面白味のないリズムで地を踏んでいる。
 はじめは私の声に気が付いていない様子だった。一言目では私の声を無視し、通り過ぎようとしていたからだ。

「あの……、あのっ!!」

 私はより声を上げ、彼女の肩に優しく触れた。
 そして、老婆は遂に私に気が付いた。

「なんだい? アンタ誰だい?」

「私は……ちょっと道が知りたくて」

 老婆ははっとした顔を一瞬見せたかと思うと、他人だと知るや否や目付きをきっと尖らせ、そのように鋭く言い放った。警戒しているようだ。

 私はすぐに、アッバースから貰ったパンフレットをポケットから取り出す。そこに、彼が印として付け加えてくれた手掛かりがあるためだ。

「ここに行きたいんだ」

 私は地図の上に書かれたペンの印を指しつつ老婆にパンフレットを渡す。彼女は目が悪いせいか、これでもかと目の前に手に持ったそれを近付けてはまじまじと見た後に、目元から離しては再びじっと見つめる。

「アンタは此処に行きたいのかい?」

「あ、あぁ……。そこまでの道が……そこが何処なのかよく分からなくて」

「アンタ頭おかしいんじゃないかね?」

「えっ?」

「いや、それとも外国人かぃ? 何処から? パキスタン? シリア?」

「え、えっと……」

 私が返事に困っていると老婆は、ため息の代わりとでも言いたそうな鼻で笑う仕草をするとパンフレットを私に返して来た。

「共同墓地だね? ベヘシュテ・ザフラー共同墓地。ここからずっと南だよ。地下鉄使いな」

「そこから先へはどうやって?」

「知らんよ! 駅の人に聞きな」

 そのような調子で人を伝ってはまた更に人を伝い、その結果私は目的地に至る事が出来た。

 ベヘシュテ・ザフラー共同墓地。
 またの名を、ザフラの楽園。そこは、国内で最大規模の墓地である。
 毎日毎日、布に包まれた遺体が運ばれる。間隔無く、次々に。

 包まれた布が静かな花柄模様にも見えるせいか、ある種の神聖な儀式にも見て取れるようだ。こちらで永眠を約束されたほとんどの人間がイスラム教徒であるからだ。

 そんな光景を見、足を踏み入れた直後、異変が起こった。

 私の足が勝手に動き出したのだ。
 まるで、既に知っているかのように。私の意に反して、この中の目的の箇所を予め知っているかのような足取りをして。

 それから、不思議と戸惑いもしなかった。
 思い出すことすらも出来ない、ある意味初めて来た場所であるのに、過去に何度も通い詰めたような"慣れ"と"安心感"があるように。

 私の足は止まった。
 そこに、私でない他の誰かが立ち塞がっていたためだ。

 その人は、女性であった。
 ヒジャブで髪を隠しているせいでシルエットが掴めないが、辛うじて横顔が望める。

 目を瞑り、祈っている。
 奇妙なことに、彼女の祈る対象は私と同じようだ。体がそう訴えていた。

「……あら?」

 彼女は目を開け、気配を察したからだろう、自身を見つめている私を見ては驚く素振りを見せた。

 そして、私と彼女は固まった。

 どこかで会った事がある。お互いそう思っているらしく、各々記憶を遡って思い出そうとしていた。現に私がそうだからだ。

 年齢は私と同じようだ。四十代後半から五十代前半若しくは後半。そのように見える。もしかしたら知り合いなのかもしれない。

 そのように思いつつ蘇ったほんの少しの記憶の断片。それを今と照らし合わせる事で、

「シーリーン?」

 ひとつの答えが生まれた。

「……パルヴィーズ?」

 同じタイミングで同じようにして、

 彼女も声を上擦らせては私の名を呼ぶ。

「どうして……ここへ? 貴方に会うのは……何年振り……かしら、ね?」

「さ、さぁ……私もよく、分からない……な」

 一歩足を踏み出したその直後。

 私は見てしまった。

 彼女が祈りを捧げていた者の名を。
 私が忘れてしまった者の名を。

 "あの時"と同じような異変が再び巻き起こった。

 頭の中が猛烈に回り始め、視界がぼやけていく感覚。認識した事で数多の情報が、記憶が、一気に流れ込んでいく。

 記憶の復活が始まろうとしていた。

 バフマン・サーダーヴィー
 勇敢にして偉大なる愛国者、ここに眠る。

 プレートには、そのように刻まれていた。

Re: 春風の向こう側 ( No.11 )
日時: 2021/01/10 02:08
名前: ガオケレナ (ID: EVwkkRDF)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no


 千三百六十六年。
 革命を終えて八年が経った今。

 俺は、戦争に駆り出されていた。
 仕方の無い事だ。何故ならこれは男の義務でもあるからだ。

 俺はバイクを走らせ、駐屯地へと走る。裏方の配達。それが新人の俺に任された仕事なのだ。

『おい……、お前パルヴィーズか!?』

『そう言うあんたはバフマンか?』

 ある日の早朝、街からの物資を届けに来た俺は、革命以来の友と偶然の再会を果たしてしまう。見間違いではない。見慣れた顔だ。緊張感がやや解け、自然と顔からは笑みが生まれる。

『お前、今年で幾つになる?』

『俺か? 二十七だが?』

『聞いた話だとお前最近配属されたらしいな? まさか十八の時からずっと訓練していた訳じゃないよな?』

『それに関しては……まぁ、ややこしい事があったんだ。それよりお前は? 今まで何をしていたんだ?』

『全く……呑気だこと』

 バフマンは小さく笑うと両腕を広げ、自らの軍服をこれでもかと見せつける。軽やかにステップを刻みながら。

『よく見ろよ。俺は大学を卒業して此処では中尉だぜ? 大出世だろう?』

『あぁ、確かに……そうだな。服が違う』

 俺は端からこんな戦争に興味など微塵も無かった。ただ義務だから。仕方無しに参加した以外何の感情も生まれてこない。

 周りの若い男たちは愛国に燃え、必ずやイラクのフセインを倒すとその士気の高さを窺わせている。
 だが、俺はその限りでは無かった。革命を終わらせてしまえば、この国そのものを貪っていた悪を倒せばそれで終わりだと思っていたからだ。そこで戦いは終わり。にも関わらず、どういう訳か俺は今、国の存亡を賭けて戦地に立っている。

 意味が分からなかった。

 何故戦っているのかを。
 何故八年もの間、この国は戦争をしているのかを。

『パルヴィーズ、来たばかりのお前とはいえある程度は知っているだろうが、一応説明させておくぜ。此処は街からは離れた砂漠のド真ん中だ。街とは反対の方角に更に走っていけばイラクとの国境が、更にその先にバスラが見えてくる。だが、知っての通りこの戦いは今年でもう八年だ。膠着状態が続いている』

『知っているよ。それで? 俺に何をさせようってんだ? 地雷原を突き進むのは嫌だからな』

『勃発直後の話をされてもな……。今はもう他国の支援もあって武器もある程度は揃っている。そこは安心して欲しい』

 一転してイスラム国家となったイランだったが、そのせいで周辺国家は大いに焦ったそうだ。
 事実、この戦争もイランとイラクという二国間の争いだが、背景にはイラン人とアラブ人という人種問題、イスラム教のシーア派とスンニ派の対立、国境線からなる領土問題という種々の要素をも含んだ複雑な状況を表している。

 にも関わらず、革命後の政治的混乱のせいでイラクのサダム・フセインが動き出した。
 アメリカや周辺のアラブの国々から支援を得たイラクは戦況を有利に進めていた反面、イランはそれらに乏しく、人海戦術に頼るしか無かった。
 その際大量の地雷を埋められ、身動きの取れなくなった軍の為にと無数の少年少女や老人らが自らその先を恐れず歩んでは進軍に貢献した……という話も耳にした事がある。

 今となっては開戦時ほど動きも活発で無くなり、世界各地で紛争が起きた事からさほど注目もされなくなった。このまま沈静化し終わりへと向かう。多くがそう思っていた頃だ。

『今日やる事はと言えば敵の動向のチェックとミサイルの準備、それから……』

 そう言いながら、バフマンはどこからか小包を取り出してはそれを俺に手渡して来た。

『これを隣の駐屯地まで運んでやって欲しい。いや、重要な物では無いんだが』

 小包は重くは無かった。小さな紙を何枚も何枚も重ねたような半端な重みだけが手に伝わる。

『電話でやり取りすれば良くないか? なんでわざわざ御遣いなんかを?』

『新人の癖によく言うんだな……。電話でも良いんだけど電話線は駐屯地と駐屯地のみを繋いでいる。故に盗み聞きされる事はそうそう無いんだが、そういうのはもっと大事なやり取りに使うんだよ。つまり……』

『あぁ、本当に御遣いレベルって訳か』

 俺は小包をポーチに入れると、普段使用していたバイクに跨った。目指すは二十km先の隣の陣地だ。

 荒野の中の、一本だけ引かれたような真っ直ぐな線の上をひたすらに走る。互いに疲弊しているとはいえ、油断はならない。意識は前方よりは真上に向いている。いつか爆弾が落ちてくるのではないか。先が見えないが為の大きな不安はいつまでも俺を覆っては離れない。

 ふと、何でもないタイミングでバイクを停めてみる。
 気のせいではなかった。

 何処か遠く、遥か向こうでミサイルの飛ぶ音が聴こえたからだ。

 近くではない。それでまず安心はしたが、脳裏に浮かんだのは兵役を課されて間もない、訓練兵時代の光景だ。

 十五ヶ月前、右も左も知らなかった俺は夜中の砂漠で一人監視をさせられた事があった。

 どうしていいのか分からず、それでいて夜の砂漠はかなり寒い。混乱と冷えに悩まされた俺がまず掴んだのは音。

 遠すぎて朧気にしか見えない山々。その向こうからミサイルか爆弾の落ちる音が微かにしたのだ。
 無駄に長く響く空気を裂く音に、自分は本当に戦場に居るのだと、夢でなく事実として戦争に参加している事を、それを実感してぶわっと全身から鳥肌を立たせたものだった。

 それを思い出させられた。
 ただ変わった事はと言うと、慣れという感覚が生まれていた事だ。冷や汗をかいて尚更に体温を下げる事も無ければ鳥肌を立たせて震える事も無い。

 俺はため息を吐く。いつまでこんな事をしなければならないのかと。俺が参加するだけでそろそろ二年になろうとしているのに、終わりの気配が見えない。

 俺はただ、普段通りの生活がしたいだけなのに、それが未だ叶わない。
 このまま突き進んだ先に日常が、元の生活があればいいのにと願望を含めた妄想をしつつ、俺は再びバイクを走らせた。

Re: 春風の向こう側 ( No.12 )
日時: 2021/01/24 01:15
名前: ガオケレナ (ID: uCPU0kM7)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no


『バスラに行くらしいな?』

『はい……、そのようです』

 俺はきちんと言いつけを守った。例のバイクで隣の駐屯地まで赴き、渡された小包をそこの将校に渡す。

 その時に言われた言葉だ。

『本気か? カルバラーチャハールで上手くいかなかった癖にか?』


 そんな事を新人の俺に言われても分かる訳がない。そもそも、将校と訓練兵上がりが同じレベルの会話をしている事自体俺にとってはおかしい。

『指導者たちは今年の六月までにはこの戦争を終わらせると宣言しています。支援も武器も有り、目的地まで近くに来ている以上進むのが賢明かと』

 そこで俺は、誰に対しても返事が出来るように上層部うえが考えた原稿スピーチをそのまま暗誦する。指導者の意向を含んでいる以上相手は頷くか、こんな下っ端が偉そうな事を言っているがために呆れるかのどちらかだ。要するに、こんな無意味な会話を終わらせる事が出来る。

『ふん、まぁいいだろう。俺としてもいい加減こんな戦争を終わらせたくて堪らなかったからな。いいだろう。そちらの部隊と同様に進もう』

 その将校はとにかく偉そうだった。自分だけ柔らかめの椅子に座り、人を見下す目をしながら煙草を口に咥えている。と、思うとガラにもなく本音を煙と同時に吐いてみせた。

『では、私はこれにて失礼します』

『まぁ待て。すぐに戻るよう言われているのか?』

『いいえ?』

『なら、今日はここに居てもいいだろう。お前一人増えた所で場所に困るほど逼迫ひっぱくしてはいないからなぁ?』

 どうやら俺は気に入られたようだ。よほど俺の演説に痺れたらしい。誰でも答えられる代物であるにも関わらず。かなり単純のようだ。

 俺は兵舎に連れられた。中に十人ほどが寝られる小さな小屋だ。
 俺はこの兵舎が嫌いだった。狭い空間に何人もの人間が押し込まれ、中は汗と体臭が混じって不快な臭いもするし、時折それに屁が混じる。

 不潔極まりないと俺は誰が見ても分かるように不快感を顔で示す。しかし、俺にそこまで興味を持って見てくれる人が居なかったので何も起こらなかった。

『お前の部隊には俺が連絡しておこう。だからまぁ、今日はここで休んでいってくれや』

 そう言うと将校は機嫌が良くなったのだろうか、自慢げに口から煙を高々と吐くと自分の持ち場へと去って行った。

 俺は複雑な心境だった。此処でどう休めと言うのだろうか。周りは知らない人のみ。もしかしたら訓練時代に一緒だった者も居るかもしれないが、俺がそんなのを覚えている訳が無い。

 今すぐに動けとの指令も無い。俺は居心地の悪いこの兵舎で適当に休むことにした。

 翌日。
 
 号令が上がり、周りのむさ苦しい男どもと一緒に飛び起きると軽く身支度を整え、外に出ると朝礼が始まる。
 全員が同じ歩幅で集合し、全員が同じタイミングで列を整える。俺はその端に立って将校が来るのを待った。

 上官特有の嫌な目をぎらつかせながら、人員の確認と必要事項の伝達を進めていく。彼曰く、近くイラク国内のバスラに向かう事を決めたとのことだ。

 朝礼が終わると、俺はヘルメットを付けながらバイクのある方へと歩く。すると例の将校がやって来た。

『戻るようだな』

『えぇ。動向も気になりますし。私の為に休息を下さり、ありがとうございました』

『なに、いいって事よ。戦争でも終わったら……どこかで一緒に酒でも飲もうや』

 続けざまに彼は更に一歩寄り、俺に耳打ちして来た。

『外国から隠れて仕入れて来た良い物があるんだよ』

 俺はそれを引き気味に聞き、彼の顔を凝視しては目が合った。彼は至って真面目に悪さをする子供のような顔をしていたが、俺があまりにも驚き惚けているのでばつの悪い顔をしては俺の背中を叩く。

『なんでもない。さぁ、行け』

 言われるまでもない。俺はオンボロのバイクに力を伝わらせるとけたたましい音を響かせて走り始めた。

 それから。
 目的地までもうすぐで中間点に差し掛かる頃。

『ん?』

 妙だった。

 妙な方向から、妙な飛行機が三機ほど上空を飛んでいる。

 それがイラク軍機だと知った時には、バイクのスピード以上に全身に悪寒が走った。

 バスラへの軍事作戦は一ヶ月前に失敗している。にも関わらず同様の作戦で突き進もうとしているのだ。相手が警戒していないはずがない。

 恐らくアメリカ製の飛行機が宙を舞っては俺と同じ方向へと飛んでゆく。俺に対して攻撃して来なかった理由はよく分からないが、爆弾が落ちてこなかった事に一旦は安堵したものの、少し冷静になってその理由を知った。

 駐屯地が危ない。

 俺は変わらず最高速でバイクを飛ばすも、戦闘機に敵うはずがない。
 しばらくして爆弾の落ちる音が立て続けに鳴り響く。

 余計な感情が消えた。
 今はとにかく戻らなければならない。戻って直ぐにバスラに行かなければならない。でないと、この戦争は終わらないからだ。

ーーー

 俺は、駐屯地"だった"ところで立ち尽くしていた。
 建物からテントまで、その悉くが破壊され今も燃えている。
 そしてそれは人も同じだった。

 動ける者は各々の力で突き進んでいた。中には掘り途中だった塹壕に隠れて身を防ごうとしている者まで居る。

 だが、肝心のバフマンの姿が見えない。

 俺は両手で銃を固く握り締め、辺りを注意深く確認しながら敵とバフマンの両方を探す。

 バフマンはすぐに見つかった。地べたに倒れ、苦しそうに悶えている。俺は彼の名を叫んだ。

 彼に近付かんと左手を伸ばした直後。

 真隣で爆弾が炸裂した。

 それが空から落ちてきた物なのか、それとも前方から敵が投げた物なのか。それはよく分からない。

 だが、その結果俺は爆風で吹っ飛ばされ、破片と衝撃で血を飛ばす。

 固い砂利の上に俺もゆっくりと倒れる。
 遂に、この戦争の終わりを見る事は出来なかった。

 薄れゆく意識を掻き消したのは爆発音と銃声であった。

ーーー

 次に目を覚ましたのは、野戦病院の中だった。

 目を開き、頭を上げると激痛が走る。俺も怪我をしているようだ。

『一体何が……』

『イラク軍が攻撃して来たのさ。見て分かるだろ?』

 俺の隣で寝ていた、見覚えのある男が憎らしそうに答えた。彼は右目に眼帯を当て、右足に包帯を巻いている。

 此処はどうやらイラン領内の、戦地からは大きく離れた箇所に立てられた簡素な病院だった。
 俺も自分の体をよく見てみると左の小指が変な形で折れ曲がっており、歯も一本無くなっている。

『バフマンは……、中尉は何処にいる?』

 俺は好きに動かせない首を動かしては探す素振りを見せる。どうやら首も痛めているようだ。

『あいつは……。生きてはいる。生きてはいるが……』

 医療従事者の一人が言葉を詰まらせつつ呟く。

『あいつは駄目だ。全身に大火傷を負っている。もう、手の施しようが……』

『何処にいるんだ?』

 俺は強めに言っては彼の言葉を遮る。
 今はとにかく奴の姿が見たい。その一心だった。

 俺は看護師に連れられて松葉杖を付きながらバフマンの元へ行く。彼は少し離れたテントの中で寝かされていた。

『この中だ。でもいいか、何を言われても絶対に水を与えるなよ。死ぬぞ』

 中に入った俺は途端に後退りをしてしまった。
 きつい臭いがしたからだ。その狭い空間には鉄の臭いが充満している。
 顔は黒く焦げ、至る所から血が流れ、それは煙臭さと混じっている。

 それはまるで、死臭のようだった。

『バフマン。おい、バフマン……?』

 俺は呼びかける。

『水を……水を、くれ』

 だが、奴は応えない。

『バフマン!! 返事をしてくれよ中尉!!』

『水が飲みたい……。水を、水をくれ……』

 彼はうわ言のように掠れた声で延々とそう言うだけだ。言葉が通じない。俺が残り少ない力を振り絞って叫んでも、彼は答えてくれなかった。

 自分のベッドに戻っても、頭の中で渦巻くのはバフマンの姿だった。彼はこのまま死んでしまう。だが、せめて、彼の願いを叶えてあげれば最後に、正に死の間際に少しだけ一言二言話せるのではないだろうか。

 夜になって俺は決心した。

 俺は自分のバックパックに入っていた水筒を取り出すと、バフマンの寝ているテントへと痛みの抜けないその足でゆっくりと歩き出した。

 彼はまだ生きていた。
 あれからずっと、とにかく水を欲するが為に同じ事を呟いていた。その声はテントの外からも辛うじて聞こえる。

 苦しそうな呻き声だ。最早聴くのも耐え難い。

 俺はテントを仕切っている布に手を掛けた。

 こういう役目は、小さい頃から一緒だった俺がやるしかない。

 俺が、友人だった俺が彼の望みを叶える。

『バフマン、俺……』

 自分の存在をアピールせんと俺はまず声を掛ける。すると、奴もより必死になって声を上げる。そのはずだ。

『ごめん……、母さん。皆。すまない……』

 聞くはずだった水を欲しがる声が無かった。
 代わりにあったのは、すべてを諦め、嘆きと悲しみと悔しさが混じった謝罪の声だ。

 俺はすぐさまテントに入る。臭いは不思議と捉える事が無かった。

 やはり、その通りだった。

 彼は死んだ。中尉としての役割を全うする前に、指示された作戦を完遂する前に。
 最後の小さな望みも叶う事も無く。

ーーー

 イラクの都市、バスラを狙った戦いは結局お互いが膠着状態に陥り、奪う事は出来なかった。

 約一ヶ月後には、この作戦が終了した旨を告げられ、一つの戦いが終わりを迎える。

 そして。

 千三百六十七年五月二十九日。

 イランは、停戦という形で終戦を迎えた。
 俺は負傷兵として医療機関に送られ、そこでこの報せを聞いた。

 この戦争における、イラクの戦死者はおよそ四十万人。

 対してイランは、倍以上の百万人。

 それは、あまりにも犠牲の多かった戦争であった。

Re: 春風の向こう側 ( No.13 )
日時: 2021/03/06 14:47
名前: ガオケレナ (ID: J3GkpWEk)
参照: http://www.kakiko.info/profiles/index.cgi?no


 そうして、私の魂は現代へと戻った。
 ジリジリと焦がれるような石の熱さが、余計に私の意識を戻してくれる。いつの間にか膝をついていたようだ。私は、ゆっくりと立ち上がった。

「どうしたの? パルヴィーズ」

 声のする方へ、左隣の彼女を見る。

 紛れもなくシーリーンだった。かつての可憐なさまは消え失せるどころか、今も尚健在である。
 あれから四十年経っている。しかし、彼女はより魅力的に映った。大人の女性としての妖しさを撒き、当時穿いていたスカートの柄を思い起こさせるような派手でカラフルなヒジャブ。そこから堂々と出している前髪。はっきりとしている目元は特にメイクに力を入れているのだろう。より整った印象を与えてくれている。

 少女は女となった。だが、別次元の美しさを纏って今、私を見てくれている。

「大丈夫? 少し具合が悪そうよ」

「夢を……いや、昔の事を思い出していたんだ」

 私は悩んだ。すべてを話そうかと。
 しかし、余計な混乱は生みたくはないし更なる心配は掛けられたくない。全てとは言わずとも、真実だけを言う事にした。

「バフマンと一緒に居たこと、奴の……最期を」

「戦争で……亡くなったのよね」

 私は黙って頷いた。

 風を頬に受けて、私は少し考えた。先程まで見ていた過去と、ここ二、三日の今のこの国の姿を照らし合わせながら。

「あの戦争は……何か意味があったのかな」

 私は呟いた。シーリーンが彼の墓の前で屈み始めたので、私も同様にそうする。

「私は……何だかよく分からないんだ」

 それは記憶を失ったせいもある。だが、他に"なにかが"あるのだ。
 私はお陰様で革命前後から戦争後までの記憶は取り戻せた。だが、そこから今までの、現代までの記憶は未だ消えたままだ。

「教えてくれないか……?この戦争に意味なんてあったのかを。奴は何の為に死んだのかを……」

 過去がフラッシュバックする。声が弱々しくなるのを自覚する。出来るだけ女の前で泣きたくはなかった。だが、無理なものは無理なのだ。

「確かに、今も生活は苦しいわ」

「なら……何故っ!?」

「それでも、今が平和だからよ」

 言いかけた言葉を、私はぐっと飲み込んだ。

「革命前が良かったとか、その後が悪かったとかは私はよく分からないわ。けどね、あそこであの戦争が起きなかったら……どうなっていたと思う?」

 私はその問いには答えられなかった。参加しておきながら、本質がこれまで分かっていなかったからだ。

 革命直後のこの国の政治は荒れていた。もしも、イラクのフセインが仕掛けて来なかったらこの国は混乱に耐え切れず自壊していた。
 しかし、これによって国全体が一致団結し、纏まった事で士気は高まり圧倒的軍事力に立ち向かう事が出来た。

 彼女はそう説明してくれた。

「今私達が安心安全に暮らしていけているのはね、バフマンのお陰なのよ?」

 私はイラン人ではあるが恥ずかしい事に自国の歴史をよく知らない。少しでも造詣の深い者ならば、中東という地域は古来から争いが絶えない場所だということくらい分かるはずだ。

 実際、現代においても周辺国では混乱が続いている。そんな中で我々が平和を享受しているという事は。

「だから……そんな事言わないでちょうだい、パルヴィーズ。皆の尊い犠牲があって私たちがあるの。私たちはそれを大事にしなきゃ、いけないわ」

 彼女も次第に涙声へと変わってゆく。見れば、瞼に涙を溜め込んでいた。

「そう……だったのか」

 私はシーリーンの顔から目を逸らし、再びバフマンの墓を凝視する。

 まだまだ小僧だった頃に悪戯を繰り返していた時、海で彼女と共に黄昏ていた時にちょっかいを掛けられたとき、革命に参加して暴れた時、戦地で戦った時。

 いつもそこに彼が居た。
 楽しい時も苦しい時も、バフマンが必ずどこかに居たものだ。それらの思い出がぶわっと突如として大量に思い返される。そして遂に私は耐えられなくなった。

 大量の涙を零し、大の大人になったと言うのに声を上げてとにかく泣いた。

「ありがとう……。ありがとう、バフマン」

 偉大にして勇敢な愛国者。それは決して間違いでは無かった。

 それを理解した今、私の中での戦争は終わりを告げたのであった。

ーーー

「ただいま」

 私は声を低くして扉を開ける。そこは私の、いや、私たちの家だ。

 私の姿を見るや、レザーは怒り狂ったような目を私に向ける。

「勝手に外に出やがって! 一体何処に行っていた!? もう警察に通報しちまったよ! 行方不明になったってな!」

「すまない……。どうしても用事があったもので……」

 この部屋に居るのは私とレザーの他にはマリアンと母だけだった。二人は呆然としている。

「いいから、朝から何処に行ってたのか言えよ。あまりにもふざけた事をしていると……」

「どうしてだい?」

 私はレザーの言葉を無視し、遮る。そして、奥の椅子に座っている母に尋ねた。

「戦争が始まったのは千三百五十九年だ。でも、私が実際に戦争に行ったのは千三百六十六年だった。どうして、こんなにもズレたんだ?」

 私のこの言葉に、レザーは突如として顔色を変える。マリアンと母も、ハッとして狼狽えはじめた。

「どうして、私はすぐに参加出来なかったのかな……? 兵役が課せられたせいで、男子全員の義務となった。だが、私はすぐには出来なかった。お陰で不自由だったよ……」

「兄さん……まさか、思い出したのか?」

「ねぇ、母さん。私が兵役に付けなかったのには理由があった。戸籍が無くなったからだ。確かに戸籍が無ければ軍隊には入れなくなる。でも、そのせいで私は満足にその間仕事も出来なかったし、バイクだって買えなかった。だから私は仕方無しに千三百六十四年に自分で新たに市役所に行った……。何故だい? 何故そんな面倒なことを……私の戸籍を隠すなんて事をしたんだい?」

「あなたを……死なせたくなかったからよ」

 弱々しい声が、静かな部屋に響く。

「あの時は沢山若い人が死んだわ……。あなたもそこへ行けば殺される、そう思ったの」

 私は何も言えなかった。
 それは親故の優しさ、そして愛。
 確かに不便な思いはした。しかし、そのお陰で私は生きている。

 それまで失せていた、生きた心地がこの時じわりと蘇って来た。

「そうか……。ごめん、変な事を聞いて」

「ちょっと待って、おじさん! 何があったの!?」

 勢いをつけてマリアンが椅子から飛ぶようにして駆ける。だが、私は今は何も答えたくなかった。

「ちょっと部屋に戻るよ。訳は……あとで話す」

 私は彼らに背を向けた。きっと皆も察した事だろう。

 私が再び記憶を取り戻した事を。