複雑・ファジー小説

Re: 加藤虎之助 ー 豊臣と徳川を変えた男 ー ( No.3 )
日時: 2020/09/12 19:01
名前: 東氏 (ID: 07aYTU12)

〔第一章 ──── 餓鬼大将夜叉若 /第一話『婚姻』〕

『何だお前、手伝うてくれるのか?』

ガシャガシャ、と具足を揺らす音を響かせながら跛行を引いて此方へ来る一人の男に、種籾[たねもみ]を蒔いている皮膚が少し荒れ始めた中年の百姓が尋ねた。

『近くの医院への引回[ひきまわし]を頼めぬか?』

男は百姓にそう一言告げてバタリ、と頽れた。直様百姓は種籾を襤褸[ボロボロ]の古着に有る衣嚢に蔵った[しまった]後、男に駆け寄った。


『此の者は破傷風を患って居る。儂の手には負えぬ。中村の彼奴なら知って居るであろう。』

医院の一室で傷口に薬を塗ると男を気遣っての事か、囁く様な小さな声で百姓に告げた。

『彼奴とは…一体誰の事でしょうか。』

百姓は眉間に皺を寄せて一つ間を開けた後、可成り小さめの声で医者に尋ねた。

『御代は要らぬ故、其奴を清兵衛[せいべえ]の所へ連れて行ってやれ。』

百姓は其の男を支えて清兵衛邸に足を運んだ。


『此の方は如何やら破傷風を患って居る様です。』

百姓は強面の清兵衛を上目遣いしながらそう告げた。清兵衛は『相分かった。』と百姓に言い、腕に血管を浮き立たせながら男を横抱きにして清兵衛邸に上げた。

──── 加藤弾正右衛門兵衛清忠[かとうだんじょうえもんひょうえきよただ]の双眼に一条の淡い光が差し込んだ。すると、弾正右衛門兵衛清忠を介していた清兵衛の娘である伊都が『父上!目を覚ましました!』と清兵衛の居室に飛んで行った。弾正右衛門兵衛清忠は横臥しの体を、諸手に力を加えて起こした。

『此処は一体…。』

起こした体の雁首だけを横に動かして廻りを見渡し、そう呟いた。すると、清兵衛邸が傾いてしまうかの様な揺れを、足裏から出して弾正右衛門兵衛清忠の居る一室に向かうのは清兵衛と伊都である。其の揺れを出しているのは図体の大きさだけで分かるものである。

『漸く目を覚ましたか。其方の御蔭で薬草が全て失くなりそうになったわい。はっはっは。』

図体の大きい清兵衛がそう言うと冗談に聞こえなくなるが、迚も低い笑い声ではあったものの清兵衛の其の笑い声で冗談であると確信できた。因みに、彼が弾正右衛門兵衛清忠の前に尻を付けた時も清兵衛邸は揺れ動いた。伊都は其れを気にも止めなかった。長年の''慣れ''というものか。

『誠、貴殿には救われました。此の恩、如何にして返して良いか分かりませぬ。』

弾正右衛門兵衛清忠は丁寧にそう告げて両脚を尻下に蔵って首を垂れようとしたが、右足に激痛が走り口腔を大きく開けて顔面を崩した。

『矢張り、其方は杖無しにして生きては行けぬ。此の村で百姓として生きて行きなされ。』

清兵衛は膝を突いて、弾正右衛門兵衛清忠の右足に目を置いてそう告げた。弾正右衛門兵衛清忠は其れに対して言を返そうとするも、痛みの余り『然し』の『し』の言も言えなかった。

──── 弾正右衛門兵衛清忠は、杖を突きながら稲に埋まった稲田を見眺めている。此の濃尾[のうび]平野の潤沢な生産力によって弾正右衛門兵衛清忠は養われた。弘治三年【一五五七】長月、加藤弾正右衛門兵衛清忠は加藤正左衛門清忠[せいざえもんきよただ]に名を改した。更に其の翌年、中村で唯一、婚姻を果たしていなかった伊都との婚姻が決まる。

 正左衛門清忠の婚姻が決まると、清兵衛邸で小さな宴が開かれた。宴には清兵衛、正左衛門清忠、伊都、正左衛門清忠の弟である喜左衛門清重[きさえもんきよしげ]、伊都の兄である弥太郎[やたろう]、伊都の次兄の弥次郎[やじろう]、伊都の従姉である仲[なか]、仲の子である藤吉郎[とうきちろう]、そして一人。黒髭が顎下と鼻下に薄く生えた細面の男が宴の席に座した。

『おい、彼奴は誰じゃ?其方の知り合いか?』

清兵衛は伊都に、其の男を指差して低く抑えて殺した声で尋ねた。其の男一人を除いて宴の席に居る者皆が藤吉郎の猿顔を見て高笑いを起こしていると言うのに、唯一人黙々と柔らかい白米を口に入れているのだ。

すると、藤吉郎の猿顔を見ながら甲高い笑い声を立てていた仲が男に向かって言を掛けた。

『竹阿弥さん、藤吉郎は久方振りに家に帰って参ったのです。清洲の上総介様の下で必死に働いて漸との事で気に入られたたのですよ。そんな藤吉郎に少しは父親らしい事をしてあげてください。』

仲は涙を流して竹阿弥の背を叩く。然し竹阿弥は其れに少し足りとも動じず白米を黙々と口に頬張る。すると、竹阿弥は白米が入った器と箸を机上に置いて口を開けた。

『儂はあの子の家を乗っ取った。儂は…あの子の父を殺したのじゃ…。』

竹阿弥は涙を堪えて再び白米を頬張る。唯、只管に白米を頬張る。そして、仲は涙を拭って藤吉郎の猿顔を見て双眼に涙粒を浮かべながら口角を上げた。

《藤吉郎。所謂木下藤吉郎秀吉の事である。竹阿弥は其の継父に当たり、藤吉郎秀吉の母である仲の再婚相手に当たる。竹阿弥は、藤吉郎秀吉の実父だとされている豪農である木下弥右衛門昌吉[きのしたやえもんまさよし]を殺害し、実質家を乗っ取った。諸説有り。》

第一話『婚姻』 終