複雑・ファジー小説
- Re: すばる ( No.1 )
- 日時: 2020/09/13 22:37
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
あの頃から、ずっとずっと、死にたかった。手のひらを満たしていたちいさな幸せが、指の間からみるみるうちにこぼれていって、掴めなくなってしまったあの頃から。
いまさら失うものなんて、もう何もない。でもどうせ死ぬなら、ひとりぼっちより、だれかと一緒がよかっただけで。彼女を相手に選んだのは、遠回しにでもあいつを不幸にしてやりたかっただけで。
ほんのすこしの悪意と、力で、その願いはいともたやすく叶うのだと知った。
安いものだ。人の命なんて、死なんて、安い。軽い。僕はこれまで何に怯えていたのだろうか。なんだか笑えてくる。
腹や胸からあふれていく血をおさえようともせず。冷たい地に伏し、浅い白い息を吐きだすだけの彼女はもう、僕のことも、生の可能性すらも眼中にないようで。どうせなら、正当防衛で刺し返されたいのになあ。
僕もそろそろ追いかけようかと、ナイフの刃先を自らに向けた瞬間。
「やっと…………会えるん、だねえ」
消え入りそうに、うっすらと微笑みながらそう言う彼女の声が、聞こえてきて。頭の中の回路が、ぶつん、と切れてしまった。もうこれで、何度目になるだろう。
彼女の最期を見届けてから、ナイフを鞄にしまった。見上げた夜空はあまりに美しい、浅い闇で。
僕は、もっと深い闇が見たいから、
だから
いまは死ぬのやーめた。
◆
1.『アオイ』
僕のおだやかな日常生活に変化の兆しがあらわれたのは、十二月になったばかりの週末のことだった。
午後九時半。厨房のタブレット端末内にある僕の名前を退勤表示に切り替え、休憩室の一角で私服に着替える。仕切りのカーテンの向こうでは、僕と同じ年に採用された男子大学生が、いつものようにまかないの大盛りカルボナーラをすすっていた。
「素朴な疑問なんだけどさ、夜飯、いつもそればっかりで飽きないの?」
「飽きないっすねー。雨宮先輩が作るととくに美味いんですよ」
「……それはどうも、ありがとう」
マニュアル通りに作っているだけなのだけど。
「来週もお願いしますね〜」
ずずっ、ずっ、ずるるるるっ。
おまえは蕎麦でも食っているのか、と突っ込みたくなるようなすすりっぷり。それでソースも卵も飛び散らないのだから、尊敬に値する。
消臭スプレーを浴びてから上着を羽織り、カーテンを開くと、ちょうど同じタイミングで店長が休憩室へ顔を出した。
「スバルくん。アオイちゃんが来てるよ、二番の席」
「ありがとうございます」
裏口から出て帰る予定だったが、予想外の来客に進路を変更する。ホールに出ると、窓際の二人席、ソファ側に座る彼女が、ひらひらと手を振ってきた。ほかに客はだれもいない。夕飯時の賑わいが嘘のようだ。
「店員さんのおすすめはなんですかー」
「当店不動の人気ナンバーワン、ミートドリア半熟卵のせ、ですかねえ。味もコスパも良しです」
メニューの冊子を流し読むアオイに適当な返事をしてから、荷物をおろして向かいに腰かける。それからすぐに、ドリアが運ばれてきた。もう頼んでたのかよ。
わーあおいちゃんひさしぶりーなんかやせたー? おひっさーえーそお? と、力が抜けそうな会話がかたわらで繰り広げられている。アオイはもともと、ここで僕たちと働いていた一員なのだ。
「二人とも、ゆっくりしてていいからね。時間も時間だし、きょうはもうほとんど暇だから」
「ありがとう」
「あんがちょー!」
同僚が仕事に戻ったのを確認してから、ゆるやかに本題へと入った。
「どうしたのアオイ、こんな時間に?」
「最近生活リズムが乱れちゃってね。いま、わたしの体内時計は午後二時を指しているのさっ!」
この店はボケ要員製造所なのか。喉元まで出かかったツッコミは、お冷やとともに飲み下す。
「その調子じゃ、予備校もさぼってるでしょう」
「あ、もうばれた」
「なんかあった?」
「んー」
卵を崩して、ゆっくりと、ドリアを口に運ぶ。
わざわざ僕に会いに来たのだから、なにか話があるのだろうとは思っていた。
互いに連絡先は知っている。つまり、まあ、それほど重要なことなのかもしれない。こんな場所でいいのかな。
うつむきながら言葉を選んでいるアオイを、しずかに待った。有線で控えめに流れている、最近話題のJ-POPに耳を傾ける。こんど二人でカラオケにでも行こうか。なんて、考えて。
「ミドリが、殺された」
きっかり一分後。選ばれたのは、あやた……じゃなくて、わりと物騒な言葉だったのだけど。
「……だれ?」
「相馬翠。わたしの母親」
「え、お母さん、が、こ」
僕の反応に、アオイが眉をひそめた。声が大きかったかもしれない。
時間差で事態を理解する。
殺された、って。どうして。
「最近、ニュースで取り上げられてるでしょ。県内の連続殺人事件。狙われているのは若い女性ばっかり」
「まさかそいつに」
「それは、まだわかんない。だから司法解剖にまわされて、詳しく調べられるの。お葬式は当分先かなあ」
アオイは、淡々と語った。母親が仕事に行ったきり帰ってこなくなり、捜索願いを提出してから数日後に、警察から連絡があったのだそうだ。
殺害の翌日、中央公園の林の中に放置されていた遺体を管理者が発見し、持ち物から身元がわかったらしい。胸や腹に何ヵ所も刺し傷があり、その手口が先の殺人事件と酷似していたことから、同一犯の疑いがあるとして捜査が進められている、と。そこまで話しきって、大きくため息をついた。
「悲しいとか、思える余裕が心にない。疲れた」
なんだか空元気だな、やつれたなと、感じたのは気のせいではなかった。
彼女の家は母子家庭だったはずだ。父親は遠い昔に亡くなっていると聞く。最近成人しているし、諸々の手続きも、全てひとりでこなしてきたのだろう。僕のほうが二つ年上だけれど、同じことをやれと言われても、できる気がしない。実際、なんっにもできなかったもんなあ。母も父も兄もみーんな死んでしまった、六年前。
「大変だったね」
「うん」
「ごはんくらいなら作りにいくから、アオイさえよければ、連絡して。しばらく休んだほうがいいよ」
彼女には、返したい恩がある。高校生のとき、アオイの存在にとても救われたから。
あれ以上留年したら、学校はやめるつもりだったのだ。
だから、ほんの少しでも。できることがあればいいなと。
「………………すぅくん、スバルぅう」
「はーいはい。がんばったね」
ぼろぼろと涙をこぼしはじめたアオイが、両手を僕のほうにさまよわせてきたので、席をたって受け入れにいった。声を押し殺して泣いているその細い背中を、よーしよし、とさすり続ける。
ドリアはまだ半分以上残っていた。バイトの頃、仕事が終わるといつも賄いで頼んでいた、彼女の大好物。
頑張って、食べたんだろうな。
- Re: すばる ( No.2 )
- 日時: 2020/10/17 01:18
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
アオイと出会ったのは、十九歳の春、つまりは二度目の高校二年生になったときのことだ。僕の通う隣町の通信制高校に、アオイは入学してきた。十七歳になる、高校一年生として。
小さなビルの一室であるあの学校には、わけありな生徒たちがたくさんいた。怪我や病気で進学が遅れたり、勉強についていけなくなった人、普通制高校を退学せざるをえなくなった人、不登校や引きこもりの経験者。もう一度学びたいと門戸を叩く中卒の大人も、ときどきいる。僕もアオイもそんな、わけあり、のひとりだった。
はじめて声をかけられたのは、まだアオイが入学してきたばかりの頃。昔の知り合いに似ているといった感じのことを言われたけれど、僕にはまったくおぼえがなかったので、人違いだとあしらった。
二度目に声をかけられたのは、それから半年以上が過ぎてからだ。
校内行事で撮影係にまわることが増え、キャンパス内の壁には、僕の撮った写真がたくさん掲示されるようになっていた。一年生の宿泊行事のとき、死んだ親の形見である古いカメラを持っていったところ、写真を見た先生たちが任命してきたのだ。彼らのすすめで出展したフォトコンテストで初入賞した作品が、すこしのきっかけでアオイの目に触れ、そのおかげで仲良くなることができて。僕の写真を好きだと言ってくれたんだっけ。三年生に進級する頃には、趣味で撮った作品たちを彼女に見せるのが日常の一部になっていた。
ありがたいなと、思う。
正直僕は、学校生活をだいぶしんどいと感じていた。そもそも公立高校を一度退学していて、再入学してからも単位が足りずに留年するという、わけありの中でも一癖はある人間だ。撮影係を任されたときも、面倒くさいことになったなと、内心頭を抱えてしまったくらいなのだけど。僕の写真を、いつもきらきらした笑顔でまっすぐ褒めてくれるアオイの存在に、とても救われていた。いつのまにか、学校に行くことや他人と関わることが少しだけ楽になっていた。進路に悩んでいた僕をいまのアルバイト先に誘ってくれたのも、アオイだ。
だから僕は、身におぼえのない、自分とよく似ているらしい「すぅくん」になろうと思った。普段からすすんでそう呼ばれるわけではないし、ときどき彼女が「すぅくん」を望むくらいならべつにいいかなと思ったのだ。
幸い店長たちに気づかれることなく、アオイもすぐに落ち着いたので、残りのドリアを僕の腹におさめてからふたりで店を出た。十二月に入ったばかりだが、今夜はひどく冷え込んでいる。吐き出した息の白さが、いつもより一段と濃い。
「ごめんねスバル。わがまま言って、食べてもらっちゃって」
「へーきへーき。ちょうど小腹すいてたし、よかったよ。きょうは車で来たの?」
「ううん、バス。もうないから歩いて帰る」
「え、このご時世でそれはまずいでしょう」
きみは殺されたいのかい。そう訊いてしまいたくなる。
僕は自転車通勤だけど、二人乗りは交通ルールとか以前にそもそも自分がきついし、おたがい家も反対方向だ。へとへとになる未来しか見えない。ここは歩いてでも「送ってくよ」「いい」「……」なぜか急にご機嫌ななめな様子になり、ひとりで道に出てしまった。
出入り口のすぐそばにある駐輪場で、急いで鍵穴を探るものの、暗いせいでよく見えずなかなか鍵がささらない。
「アオイっ」
待ってよ、と声をあげても、彼女は走り去っていく。ようやく自転車を出せた頃には、その背中はずいぶん小さくなっていた。ツンデレ属性の持ち主でもないし、追いかけてきなさいよ、なんて意思表示には到底見えない。むしろ追いかければ僕が殺されそうな勢いだし。諦めよう。
首都圏内とはいえ、そんなものは名ばかりの淋しい地域だ。現に、まだ十時過ぎなのに人通りはないし街灯も少ないし、店の周りにも民家はあまりない。ここから南の方角、海のほうへ向かえば向かうほど、その傾向は顕著になっていく。
「まじで気をつけて帰ってよー」
南のマンションを目指し駆けていく後ろ姿に向かって、叫ぶだけにとどめておいた。
♪
お母さんは、どうして死ななきゃならなかったんだろう。
警察から連絡が来て遺体の本人確認をしたあとから、ずっとずっと考えていた。だれが殺したのか、よりも、なぜ死んでしまったのか、という問いが頭の中を埋め尽くしていた。考えていたらどんどん体が動かなくなってきて、なんにも食べたくなくなって、眠ることもつらくなった。なんだか中学生の頃の自分みたいで、わたしがどこにいるのか、わからなくなる。悲しいってどういうことか、わからなくなる。
三歳のとき、お父さんが死んでしまってから、お母さんは女手ひとつでわたしを育ててくれた。ひどく言葉が遅くても、叱ったりしないで待っていてくれた。わたしのせいで仕事をクビになっても、絶対に八つ当たりしなかった。
中学校でいじめられて、学校に行けなくなったときも、外に出られなくなったときも。
「アオイがいてくれるだけで、わたしは、きょうまで生きててよかったなあって思うの」
お母さんはよくそう言って、わたしを抱きしめてくれた。
そんな人にここまで育ててもらえて、わたしは幸せ者だと思う。お母さんの娘でいられて、よかったなあと思う。
いっぱいいっぱい、辛い思いをしてきただろうから。いっぱい、いっぱい、悩んできただろうから。両手に抱えきれないくらいたくさんのものをもらってきた分、こんどはわたしが、お母さんにたくさんのものをあげられるようになろう。二十歳の誕生日を迎えたとき、そう自分に誓ったばかりなのに。
最後のいってきますを聞いた朝、お母さんはあんなに元気だったのに。
どうして。
どうしてわたしだけが、いまもこうしてのうのうと生きているんだろう。
本当はわたしが死ぬべきだったんじゃないのかな。
布団のなかで朝になるまで毎晩考えていた。いきたい大学がようやく決まって、今年から通いはじめた予備校にも、受験が近づいているというのに足が向かなくなっていた。
きっとこのままじゃ、わたしはおかしくなってしまう。ひさしぶりの長い夢から目覚めてそんな危機感に襲われた。そして真っ先に頭に浮かんだのがスバルの顔だった。急いでシャワーを浴びて、着替えて、それだけでもうへとへとだったけれど。世界に馴染めるようにせいいっぱい身だしなみを整えて、バスに飛び乗った。
わたしの世界はどうしようもなく変わってしまったけれど、スバルは何も変わっていなくて。お母さんが死んでから、はじめて泣いた気がする。あんなに泣けるんだあって、すこしびっくりした。
でもやっぱり、スバルがお母さんのことを何も覚えていなくて、むかついてしまう気持ちのほうが大きかった。彼はなにも悪くない、そんなことは重々承知している。
「……うそつき」
頭と心と体が、てんでばらばらだ。走っていても歩いていても、足がふわふわする。
どこのだれかもわからない人間に殺されるくらいだったら、スバルが犯人ならよかったのに。わたしも彼のように、自分に都合の悪いことはぜんぶ忘れてしまえればいいのに。頭と心の間にある場所で、最低な考えが浮かんで消えていく。
数少ない街灯に照らされて、ため息が花のように広がった。立ち止まってあたりを見回しても、だれもいない夜があるだけ。こんな寒いさみしい夜に、痛みにたえながら死んでいったのであろう、お母さんを再び思った。
「あーおーいーちゃ「ひゃっ」
隣から、声がした。
「そろそろこっちの世界に戻ってきました?」
振り向くと、いつのまにかそばに停まっている黒の乗用車の窓から、若い男が顔を出していた。あんまりきれいに笑顔をつくるものだから、若干の薄気味悪ささえ感じてしまう。
見覚えが、あるような、ないような。
「なに、だれ?」
「ひどいなあ。雨宮千嘉ですよ。きみもスバルと同類なわーけ?」
「ああ……」
スバルの四つ歳上、つまりは二十六歳の兄。片手で数えてもおつりが来るほどだが、これまでに何度かの面識はあった。遠くから見れば、なんとなく似ていそうな感じだ。顔面偏差値はこいつのほうが高い。スバルが不細工だというわけじゃないけど。たしか彼は父親似だと言っていたから、チカは母親似なんだろうな。
「どの面さげて帰ってきたんですか。ここはもう、あなたのすむ場所じゃないはずですけど」
「べつにあいつのアパートには行きませんよ。ちょっと懐かしくて帰ってくるくらい、いいじゃないですか。アオイちゃんこそ、よくひとりで夜道を歩けますよねー」
完全に偶然だったけれど、よかった、スバルを振りほどいて来て。もしここに彼がいたら、文字通り発狂しかねないだろうから。
「おうちまで乗せていこうか?」
「結構です」
関わるだけ時間の無駄だ。帰って寝よう。眠れるかどうかは別として。
それに、知らない人に限らず、知っている大人でもかんたんについていってはいけません、って子どもの頃に習ったもんねえ。なにしろ、防犯ブザーを鳴らしても助けに来てくれる人なんかいないような地区に住んでいたし。
「殺されたんでしょう」
歩き出して数秒で、チカが大きな声をあげた。
「ミドリさんが、殺されたんでしょう」
思わず、振り返ってしまう。
連続殺人の被害者と、まだ決まったわけじゃない。それもあって、メディアでは匿名報道にしてもらったはずなのに。どうしてこいつが知っているんだ。
「五丁目のスーパーの近くなんじゃないですか、きみのおうち。ご近所の主婦が噂していましたよ。怖いよねえ、女の情報網って」
- Re: すばる ( No.3 )
- 日時: 2020/10/17 01:35
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
すこしコンビニに寄りたいと言われたので、車の中で待っていることにした。どう考えてもそこまで広くなくたっていいだろう、と思わずにいられない駐車場には、チカの車しか停まっていない。もしかして、店員はここに住んでいるのかなあ。……冗談だ。
FMラジオから流れる音楽が、さっきレストランで聞いたのと同じ曲だと気づく。この数か月、どこに行ってもこの曲ばかり流れているものだから、好きでもないのにおぼえてしまった。
「お待たせ。注文通りに買ってきましたよ」
「ありがとう、ございます」
ちいさなビニール袋を提げて帰ってきた彼が、温かいカフェオレの紙コップを手渡してくる。頼んだとおり、ちゃんと砂糖も入れてあった。チカはホットコーヒーの、わたしよりひとつ大きいサイズを買ったらしい。
先ほどスバルに事件のことを話したが、反応が芳しくなかったこと。高校生になって彼と再会したときからいままで、自分を思い出してくれたことは一度もなかったこと。それも含めて、これまでの一連の出来事はすべてチカのせいだと言っても過言ではないだろうと、さっき、つい感情のままに彼を責めてしまった。チカは黙ってわたしの話を聞いていた。
家族の不幸に、結果的にわたしまで巻き込む形になってしまったのは申し訳ない、とチカは謝罪した。「それだけは謝ります。ですが兄弟間の問題については、ミドリさんならまあともかく、アオイちゃんに口を出される筋合いはありませんよね」と。あくまでも平淡にそう言われて、わたしは途端に恥ずかしくなってしまった。その通りだ。お母さんはあのとき、不幸の真っ只中にいたスバルを救いだしたけど、わたしは何もしていない。口を出す資格なんて最初からないのに。
「さっきのことは気にしないでください。アオイちゃんの言うことは正論ですから。ミドリさんもきっとそうおっしゃるでしょう」
お詫びにカフェオレを奢っていただいてしまったものの、顔があげられない。
「もしよければ、僕らの実家に来ませんか。弟のアルバムなんかお見せしますよ。もちろん、彼には秘密ですけどね」
「え」
「本当はミドリさんに見せてあげたかったのですが、いろいろな意味で殺されそうでしたし、そもそも、もう……ねえ」
苦笑しながら暖房を弱めるチカを、見上げた。
まさか、それでこっちに帰ってきたのだろうか。
「どうかしましたか。あんまり美味しくなかったですかね、それ」
「い、いえ、なんでもないです。あのっ、明日にでもお邪魔していいですか? すぐ帰りますから」
慌てるわたしを、きょとんとした顔で見ている彼の視線が気まずく思えて、残ったカフェオレを一気飲みする。
「構いませんよ。僕も明日中に片付けたい仕事があるので、人の目があると非常に助かります」
ゆっくりしていってくださいね。チカはまたにっこりと綺麗に笑って、こたえた。
スバルがはじめに通っていた公立高校をやめて、編入してから、あの実家は彼の中でもう存在しないことになっているらしい。同じように記憶を書きかえ、両親とともに死んだことにされている兄がそう語る。
チカが県外に引っ越し、スバルも二度目の入学と同時に独り暮らしをするようになってから、ときどきお母さんが掃除しにいっていたのは知っていた。でもそれは初耳だ。家庭環境のことは、あえて直接訊いてこなかったから。
残された家財もほとんど手付かずなため、そろそろその処分も真剣に考えなければいけない。ハンドルを握りながらそんなことを話す隣で、ゆるやかに、けれども確実に膨らんでいく眠気にさいなまれながら、ぼんやり昔のことを思い出していた。
きのう、あんなに寝たのに。ちょっと睡眠負債がたまりすぎたかな。
※
六年ぶりの実家に担ぎ込んだアオイが目を覚ましたのは、日付が変わって三時間も過ぎてからのことだった。かつてのスバルの部屋に、適当に縛って閉じこめておいたものの、待ちくたびれてこちらまでうたた寝してしまう始末だ。カフェオレに仕込んだ眠剤、けっこう弱いはずなんだけど。
田畑に囲まれている辺鄙な地区の戸建てだし、百メートルは離れている近所の住民も、耳や脚の不自由な年寄りしかいない(まだ生きていれば)。けれども念のため、口にガムテープを貼り付けておいたので、事態を把握し呻きはじめた彼女に気づくのが少々遅れてしまった。
「仕事はとっくに辞めたんだ。俺の個人的な目的を果たすために、あの人たちに迷惑はかけられないからね」
アオイの荷物は黒いポシェットの中の、バスの定期、財布に入った数千円の現金とレストランのクーポン券、そして携帯電話だけだった。彼女の細い身体を床で転がし、うしろに縛った手の指で、指紋認証をかいくぐる。
何か言い返してくるが、どうだっていい。きちんと足も縛ってあるから、抵抗したって無駄なのだ。
「それにしても、母親が死んで自暴自棄だからって、あまりに無防備なんじゃない? 簡単に引っ掛かりすぎ。もうちょっと警戒心持とうよ」
幸い、SNSのアプリには暗証番号も必要なかった。昨日の二十三時頃、スバルで間違いないであろう人物から〈無事に着いた?〉とメッセージが届いている。とりあえず少しは休みたいし、準備もあるしで、既読無視することにして待受へ戻した。
僕が何をしているか、わかったのだろう。返事を送ったとも勘違いしているらしく、アオイがより一層激しく暴れだす。
「おまえさあ、拉致られてるって自覚ねーだろ」
それでもしつこく膝で足元に蹴りを入れようとしてくるので、ポケットに携帯をしまってから、彼女を押さえつけて馬乗りになった。
「俺、女なら誰でもいけるたちだから。あんまりうるせーと襲うよ。いいの?」
その言葉に、強気な目を向けつづけていたアオイが顔色を変え、すぐさま抵抗をやめた。自身の置かれている状況と、立場を、ようやく理解したらしい。
性暴力を受けることは、人間にとって最大の屈辱だと思う。身体的、精神的、経済的なそれよりよほど破壊力があって、老若男女が行使することのできる、最低辺の暴力。優越感や、刺激や快楽を得ることも、被害者の心や人生を壊すことも、口を封じたりその上で自分に繋ぎとめておくことも、すべてがほぼ確実に、手っ取り早くできてしまう。母親の手の中で精通を迎えた僕にとってそれは、身に染みるほど実感できることのひとつだ。
子どもの頃、学校の成績が少しでも下がると、母はヒステリックになって僕を叩いたり、無視したりした。でも好成績を維持していれば違う地獄が待っている。どちらを選んでも悪い方向に転ぶ。あの人は僕に対して息子以上の感情と、行き過ぎた期待を抱いていたのだ。狂っていると思う。
涙をため、怯えた目で見上げてくる彼女の顔が昔の自分と重なって、ひどく眩暈がした。
母を責めようとは思わない。死人を責めたところで、なんの言葉も返ってはこないから。
でも。
勝手に僕を歪めておいて、自分はあっさりと先に死んでしまうなんて。
ずるい。
- Re: すばる ( No.4 )
- 日時: 2020/10/17 01:58
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
アオイを誘拐してから三日が過ぎた。
おしゃべりで、僕に対して妙に強気に出ていた彼女も、二日目を迎える頃には完全に青菜に塩、といった感じだ。ううん……なんだかしっくり来ないけど、いいや。とにかくこれ以上塩をふりつづけたってしょうがないので、すこしの自由を与えることにした。
鎖かなにかで動物を拘束して、逃げようともがけば電流をかける、抵抗しなければ何の危害も加えない。それを一定以上の期間つづけるとたとえ拘束を解いても逃げようとしなくなるらしい。学習性なんとかって、言ったっけ。違ったかも。人間でも同じようなことが起きると聞いたことがあるので、適当な判断だが縄をほどいた。まあ、それよりなにより、風呂に入れていないせいで臭かったからなのだけど。
シャワーを浴びさせ、スバルの古着と最低限の食事を与えたあとは、再び弟の部屋で縛りつけておいた。あくまでも彼女は、僕が果たしたい目的のために存在する人質でしかない。自身の立場を忘れられても困ってしまうから。
アオイはクローゼットにもたれ、窓の外の夕焼けを見つめている。何を考えているのかその横顔からは察することができなかった。母親のことかもしれないし、この部屋の主のことかもしれない。
それにしても。
ずっと無視を決め込んでいるというのに、スバルは一向になにも連絡してこない。もうこちらの準備は整っているというのに。しびれを切らす、とはまさにこういうことだ。無意識に、携帯電話とアオイの手をつかんでいた。
「なに、するんですか」
ロックが解除されると同時に、彼女が振り向く。かすれた声でガムテープの貼り忘れをようやく思い出したが、例の学習性なんとかを信じることにしてそのままSNSを開いた。
「電話すんだよ、弟に」
相手の動きがないのなら、こちらから向かっていけばいい。
「俺は、俺をあいつの兄だと認識させた上で、あいつを殺しにいきたいんだ」
「やめ……、やめてください!」
通話ボタンに指をかけようとした瞬間、飛びかかられて、倒れこんでしまった。
「わたしは死んだっていいからっ、スバルに関わらないで! やなことを思い出させないで!!」
つばをかける勢いで、叫ばれる。
寒気がした。女に、自分の上に乗られるのは苦手だから。
彼女はまだ何かわめき散らしていたが、耳鳴りがしてきて聞こえない。たまらず腹を蹴り飛ばして手近にあったタオルをその口の中に押し込んだ。
「びーびーうるせーんだよ、ほんとにさぁ」
机のペン立てに、カッターナイフのあるのが見えたから。
アオイに乗り上げて、錆びた刃先でその腕を切りつけた。ぎゃあっ、と動物の鳴き声みたいな音が聞こえて、白いパーカーの袖が裂けたところからじわり、色づいていく。同じように死にたい気持ちもどこからか沸き上がってきた。
強引に彼女の服を下ろして、汗で湿った肌に爪を食い込ませる。嗚咽を漏らす表情を、直視できなかった。まあ、見る必要もないが。
「言ったことはちゃんとするから。その覚悟があるんだろ、おまえには」
痛みでのたうち回るアオイを押さえつけて、吐き捨てた。最底辺の暴力を、おまえに振るうと。宣言なんて良心的過ぎたかもしれない。いまから殺しますよ、いまから襲いますよ、なんてふつうの犯罪者は言ってくれないもんな。相手の反応を楽しんでなぶり倒すようなキ××イならともかく。
こいつを刺し殺していっしょに死んでしまおうかとすら思った。でも、今こいつと死んだって、どうせスバルは。どうせスバルは死なないし、あのときみたいに記憶を上書き保存して、僕のこともアオイのことも、都合よく世界から消し去ってしまうかもしれない。僕は、なんにも忘れることなんてできなかったのに。
ちゃんと不幸になってもらわないと。僕から奪った幸せの分。だからそれまで、生きなくちゃ。"死にたい"を、なくさなきゃ。
だから必死に、機械的にでも、塗りつぶして、沈めて、快楽を求める。
僕も所詮、あの狂った人間の息子なんだなと思ったら、ことが済むまで涙が止まらなくなってしまった。
「もしもーし、スバルくん。相馬ミドリを殺した、雨宮チカっていう者なんですけどー」
※
「…………は? 兄なら六年前に死んでますけど。ご友人ですか? なんで、アオイの、」
『だから、おまえの兄さんだよぉ。頼むからさー、勝手にひとを亡霊にすんなー』
どこか気だるげな、ねちっこい男の声が受話器から耳に伝う。わけがわからなかった。
きょうは早上がりなので、休憩室でゆっくり、夕飯がわりのピザを食べてから帰り支度をしていたのだけど。携帯電話の通知ランプがいつもよりたくさん光っているので見てみたら、連絡の途絶えていた(既読はついたので、無事だろうと思った)アオイから五回も不在着信があって。何事かと思っているとまた携帯が震えたので、電話に出たらこの様だ。
うしろでうめき声のような音が聞こえる。だれかが彼の近くで嘔吐しているのだと、すぐにわかった。ときどきレジ前で戻す客がいるのだ。とくに子どもが多いけれど。
『きみの大事なアオイちゃんを拉致っちゃいましたー。彼女を殺されたくなければ、今夜0時にひとりで海浜公園まで来てくださいねー、ひとりでだよーーーっ』
一方的に通話を切られる。アオイを、兄さん、が、誘拐、した? いつ。どうやって。なんで、なんでなんで。
眩暈がしてきて、ロッカーの前で座り込んだ。手にうまく力が入らず、携帯電話を何度も床へ落としてしまう。
たしかにどうしようもなく、あれは兄の声だ。六年前、僕たち四人家族が巻き込まれた交通事故で亡くなったはずの、雨宮チカの声。
「どういう、ことだよ」
僕は疲れているのだろうか。よくできた幻聴と妄想だな、小説一本は書けるぞ。そんなことを考えてはみたものの、最後に一瞬だけ聞こえてきた叫び声も、おそらくアオイのものに間違いなかった。
現実逃避をしていても、しかたない。アオイを助けにいかないと。
「雨宮せんぱーい、なんかあったんすかー?」
カーテンの向こうから、休憩に入ったばかりのカルボナーラくんこと、岸くんが訊いてくる。慌てて荷物をまとめ、靴を履き替えて更衣室から出た。
「なんでもないよ。 ……あれ、今日のメインはドリアなんだ」
「二食連続はちょっちきついですから、へへっ」
「相変わらずよく食べるよねー」
「食べ盛りなんです! これでも削ってるんすよ」
爽やかな笑顔がまぶしい。今回のメニューは、海老サラダとミートドリアと日替わりスープとスパイシーチキン、のようだ。
そういえば、内定をもらって論文も書き終えているからもう暇なんだとか言っていたっけ。それでシフトを増やしたのか。僕ならぜったいに遊び呆けている。カメラ片手に四十七都道府県全制覇! とか、引きこもってゲーム三昧! とか(それができる経済力の有無はさておき)。
生前、父が酒を飲むとよく、公務員になれと口うるさく言ってきたのを思い出した。壁にかけられたシフト表を眺め、今月分の自分の給料をざっと計算して、息をつく。岸くんは、初任給でこの額を追い越してしまうんだろうな。
僕には、そんな当たり前を叶えられそうにもない。だから素直に尊敬してしまう。
退職代行サービスって、即日でも頼めるかな。
「改めて、おめでとう」
チキンを頬張っていた彼が、目を丸くして振り返る。
僕が死ぬことになっても、兄を殺すことになっても、アオイを取り返しにいかなきゃ。大好きなこの場所を、この人たちを、僕のちいさな世界を、守るために。
「ありがとう、ございます?」
「じゃあもう帰るわ。お疲れ様」
「あ、あのっ、スバル先輩!」
休憩室の扉に手をかけようとしたとき、がたんっ、と椅子を蹴飛ばして岸くんが立ち上がった。
スープが若干こぼれているのも気にとめず、まっすぐな笑顔を向けてくる彼に、特別な意図はなかったのかもしれないんだけど。
「また、先輩のカルボナーラ、食べさしてくださいね」
………………あー、
ああああああもう。
「うん」
しょうがないな!
- Re: すばる ( No.5 )
- 日時: 2020/09/17 18:12
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
なーんて、自分で自分に格好をつけてはみたものの。公園までの道中、これほどまでに心細いとは想定外だ。
街灯も、人や車の往来もない、ただ広いだけの道を早足で進んでいく。海浜公園も約束の時間も、すぐそこまで迫っていた。
敵は一人だが、おそらく僕よりも腕力があるし僕の味方だってだれもいない。家を出るとき、カッターナイフでもハンマーでも、なにか武器を持っていこうかと一瞬心が揺らいだけれど。こんな僕をこれまで信用してくれていた岸くんや、店長たちを、正面から裏切るようなことはしたくない思いが強かった。
とにかく全力を尽くそう。
携帯電話をポケットにしまって、公園へ足を踏み入れる。松の防風林をくぐりぬけるとすぐに、月明かりに照らされるだいぶ背の伸びた兄と、以前よりさらにやつれたように見えるアオイの姿を見つけた。やっぱり幻覚なんじゃないかと目をこすってみたけど、ちゃんと影がある。現実だ。
「にい、さん」
かすかな波の音に紛れて、こぼれる声が、震えていた。
目を細めるチカの足下にいるアオイは、僕が昔持っていたのと同じパーカーと上着を着ている。縛られているわけでもないのに、彼女はチカから離れようとしない。誘拐されていたというのは本当だった。
僕はさらに二人に近づいていきながら、たずねた。
「兄さん、どうしてこんなことをしたの。お金が目的じゃないんでしょう。アオイのお母さんを殺したっていうのは本当? もしかして、兄さんは連続殺人の犯人なの? どうして……生きてるの」
「まあまあ、焦るなって。そんなにいっぺんに訊かれても答えらんねえし」
へらへら笑いながら、チカは答えた。
喉の奥に、苦味がこみ上げてくる。いやなことを思い出してしまいそうで、背中に冷や汗が伝った。もう十分冷えてます、間に合ってます。
「その顔が、俺は昔ッから大嫌いなんだよ」
左の頬に重たい衝撃があって、流れるように芝生の上へ転んでしまった。いきなりグーで殴るか、ふつう。なんか遅れてじんじんしてきたし、口の中切れてるし、血は不味いし、うわあいてえ。
「俺よりも馬鹿なくせに、要領ばっかりよくて、呑気に生きてきやがって。俺は毎日毎日、親と先生の期待に応えるために必死に勉強して、いい兄ちゃん演じて、血を吐く思いで生きていたのに」
ああ、子どもの頃もそんなことを言われて、同じように殴られてたっけな。両親はもちろん気づいていたけれど、決して兄さんを叱らなかったんだ。兄さんのほうが、僕よりずっとずっと出来がいいから。むしろ加勢して悪口とか言う人だったもんな、母さんなんか。……いまさら思い出した。これって走馬灯だったりして。
「父さんたちが死んでから、俺、すっごく虚しくなった。なんであいつらは先に死んじまうんだよ、なんで俺はおまえと生き残っちゃったんだよ」
そんなこと、僕にきかれても。
加害者はあのとき即死しているし、家族連れの車を殺すまで煽るような頭のおかしい人間のすることなんて、理解のしようがない。あ、そういうことじゃないか。
何度も身体を蹴られながら、殴られながら、ぼんやりしてきた頭で考える。冷静に考えていられるのは、そのおかげかもしれない。もし正気だったら、発狂していたはずだ。あの事故のあとから、僕の脳みそでは変なスイッチが入ってしまったようで、兄さんの関わる記憶は地雷でしかなくなってしまったから。
「父さんも母さんも、大嫌いなのに。まだ生きている自分のことが許せなかった。あのときから、死にたくて死にたくてたまらなくなったんだよ、俺は。だから、俺のことを好いてくる女たちをいままで何人も道連れにしようとしてきた。でもあいつら、最後には俺のことを異常者呼ばわりして、みんな離れてくんだ。結局は嘘つきなんだよ。すぐほかの男に股開いてるしなぁ」
孤独な人だな、兄さんは。
「それなのにおまえは、俺を家から追い出して勝手に存在まで消して、何事もなかったように生きててさ、くっそムカつく。俺ばっかりこんな思いして死ぬなんてまっぴらだ。どうせならおまえを不幸に突き落としてから死にたかった、だからミドリを殺しに帰ってきたんだよお」
「アオイの、おかあさん? どー、して、」
「あいつさ、死ぬ間際に笑ってたんだ。やっと会えるねって。馬鹿馬鹿しくて死ぬ気失せたよ。そもそもおまえは何にも覚えちゃいなかったし……もう何度死ぬのを諦めてきたのかな、はは」
なんだか会話が噛み合わない。僕の声が聞こえていないだけなのかもしれないけど。
拳は止まなかった。そんなに殴り続けていたら、兄さんだってかなり痛いはずなのに。
「だけど、いまの俺にはアオイがいる。このままおまえを殺して、アオイとふたりで一緒にいくんだ。最初からこーすればよかったかなあ!」
襟元をつかんで叫ばれる。やっぱり無茶だったかな、手ぶらでボス戦に挑むなんて。
空のてっぺんに浮かぶ、満月の光がまぶしい。なんだか気が遠くなってきた。
「ばいばーい、昴琉」
意識を手放す直前、兄さんの笑う顔が見えたのは、きっと気のせいじゃないだろう。
- Re: すばる ( No.6 )
- 日時: 2020/10/17 02:24
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
お気に入りのブランコと大きなすべり台がせっちされている中央公園は、家からじてんしゃで二十分くらいのところにある。かぞくのだれにも負けないように早く家にかえって、かぞくのだれにも内緒で、ほうかごは毎日公園にあそびにいっていた。家の中はいごこちがわるいから。
小学校にあがって、お兄ちゃんはよく、ぼくを叩くようになった。お母さんはそもそもぼくを無視するし、お父さんも、お兄ちゃんをおこらない。でもお父さんは、ときどきひみつでおかしとかを買ってくれるから、すこし好きだ。
もうすぐやってくるゴールデンウィークに、お母さんとお兄ちゃんは二人だけでおばあちゃんの家に行くと言っていた。きょう、帰ってからのことを考えるとゆううつになるけど、ゴールデンウィークのことを考えればとても楽しい。何度でもすべり台にのぼれちゃう。
「お? めずらしいかおぶれ」
八回目をすべろうとしたとき、下の広場に、見なれない親子がいるのを見つけた。年少さんか、年長さんくらいの女の子と、そのお母さん(たぶんきっと)。女の子はなぜか地面にしゃがみこんでいて、お母さんはその子に話しかけているように見えた。
しゅーーーーーーーーっ、とすべりおりていって、ぼくは女の子に話しかけにいった。
「ねーねー、いっしょにあそぼーっ。ぼく、雨宮スバルっていうの。小学一年生。きみは?」
女の子は、もじもじしながら黙って目をおよがせていた。ぼくを見たり、お母さんを見たり、地面を見たり。いそがしそうに目玉を動かしている。口はつぐんだまま。
お母さんが、ごめんねえ、とやさしい声でぼくに言った。
「まだおしゃべりが難しいんだ」
「ふーん」
ようちえんの星組で、そんな子がいたなーと思い出した。コマ回しと鉄棒が、すごくとくいな男の子。
「この子は、相馬アオイ。年少さんよ。わたしはアオイのお母さんで、ミドリっていうの。よろしくね」
はいっ、よろしくおねがいします! とおじぎでもしようとしたら、アオイちゃんがいきなり立ち上がって、ぼくの手をひっぱって走り出した。
あんまり遠くにいかないでねー。ミドリさんの声が小さく聞こえたので、空いている手をあげて、へんじをしておいた。
「うおおおお、アオイちゃん、ブランコに乗るの?」
走りながら、大きくうなずく。こういう風にならおしゃべりできるのか。
「ブランコはにげないから、ゆっくり歩いてこう! ころんじゃあぶないでしょ」
あわてて言うと、アオイちゃんは急ブレーキをかけた。ぼくのほうが転びそうになってしまう。あぶないあぶない。
息を切らすぼくを見て、アオイちゃんが楽しそうにわらっている。さっき座っていたとき、なんだかかなしそうに見えたから、わらってくれたのがうれしかった。
◇
これは、彼ら三人の物語。
今夜限りで鮮明に彼のもとによみがえる、無かったことにされた、三人の記憶。
2.『ミドリ』
「スバルくん、いつもここで一人で遊んでたの?」
「うん。ときどきクラスの子とか、ようちえんのときの友達とかがいて、いっしょに遊ぶこともあるよ」
「そうなんだ」
夏休みが始まって、子どもたちもだんだん暑さになれてきた頃。
砂場でお城をつくるアオイを木陰のベンチから見守りながら、近くのコンビニで買ったアイス(二人分の容器を引っ張って外すやつ)をふたりで食べて、話していた。
アオイは歯にしみるのが嫌で食べないので、代わりに彼女の大好きなフルーツヨーグルトを選んだのだけど、心配になるくらいの速さであっという間に完食して、砂場に走っていってしまった。物心ついたときから食べるよりも遊んでいたいタイプだ。わたしもそうだった。
「アオイちゃんとミドリさんは、この公園にくるようになったの、最近だよね?」
「……うん。駅のほうに住んでるから、ここからはちょっと遠いの。前までは北公園によく行ってた。となりがアオイの幼稚園だから」
じゃあすみれ幼稚園かー、卒園してもいっしょに西小に通えないんだね、とスバルくんがさみしげに呟く。なんだか微笑ましいし、ありがたい。
「いつもの公園には知り合いがたくさんいて、息苦しくてね。アオイも同じ組の子は苦手だから、ここならいいかなあと思って、来てみたの。そしたら、スバルくんが声をかけてくれた」
大きな瞳で見上げてくる彼のやわらかい髪を、そっと撫でる。天使みたいな笑顔の子だと、あのとき、思ったっけ。
アオイがいてくれるから孤独を感じたことはないけれど。少しだけ、心細かったことは、不安だったことはたしかだ。
夫が病死してから、もう二年が過ぎる。見上げた深い青空には、あの日とそっくりな、高い高い入道雲が伸びていた。うだるような暑さと、近くの木々にとまる蝉たちの鳴き声が、時間感覚を狂わせそうだ。
精密検査で、脳幹近くに悪性腫瘍があるとわかったときには、もう手遅れで。ほとんど苦しめずに逝かせられたことだけが、不幸中の幸いだったと思う。
夫の死後、決意した。だれがなんと言おうとも、わたしの手で、娘のアオイを育て上げると。
けれども世間はそう甘くなかった。ただでさえ子持ちへの風当たりが強い会社に、シングルマザーの居場所なんてあるわけがなく。アオイがよく体調を崩すため、遅刻や早退、欠勤を繰り返していたところ、結果的に首を切られてしまったのだ。よく一年以上も持ちこたえたなと、部長には褒められたけど、半分以上嫌味だろう。
その後、もちろんすぐに次の就職先を探した。ざっと三十回は面接を受けに行ったが、結果は全滅。断られた理由も、ほぼすべて同じ。おまえにできることは何もない、何もするなとだれかから言われているような気がしてきて、一旦すべて諦めることにした。
思えば、葬儀のあとからなかなかアオイに構ってやれる暇がなかった。しばらくはゆっくり休もう。アオイのそばにいてあげよう。贅沢をしなければ、保険金と貯金を切り崩してやっていける。いまは、それがわたしの仕事なのだと、自分に言い聞かせつづけた。あの子の言葉が遅いのは、事実だ。でも夫が倒れてから、それまでできていた簡単な受け答えすらも難しくなってしまったのだ。
ストレスのせいだろうから、ケアを続けていけばきっとまた話せるようになる。そう医者は言っていたものの、もし一生このままだったらと考えると、不安で仕方ない。現に幼稚園ではほかの子どもたちからいやがらせを受けていると、担任の先生から聞いているし。
「パパがいないからふつうの子と違うんだ」「赤ちゃんみたーい」ひどいときは、そんなことをわたしの目の前で言われた。本人は当然言い返せないからストレスが溜まるし、わたしは彼らの保護者に開き直られたり、逆ギレされたりで散々だ。若い女だから舐められるのかもしれない。
…………もしあのとき、癌を患ったのが夫じゃなく、わたしだったら。夫じゃなく、わたしが死んでいたら。
こうは、ならなかったのかなあ。
そんなこと、スバルくんに話したって迷惑なだけなのに。
「ぼく、ふたりに会えてよかったよ。ミドリさんが生きててくれて、よかったなって思うよ」
あの日と同じ、天使みたいな笑顔で言うものだから。
「ご、ごめんなさいっ、アオイちゃんのお父さんが死んでよかったってわけじゃないんだ!」
「わかってるよ。ありがとうね、スバルくん。ほんとにありがとうね」
苦しくて、嬉しくて、涙が止まらなかった。
- Re: すばる ( No.7 )
- 日時: 2020/09/19 18:30
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
十月の半ば頃、広告のチラシやDMに混じって、二通の手紙が自宅に届いた。
ひとつは、スバルくんから。学校行事の関係で忙しいため、しばらく会えそうにないと書かれていた。何かあったときのためにと、念のため、住所なんかを教えておいたのだ。家族に知られたくないというので彼の連絡先は訊かないでおいた。いろいろと事情があるのだろう。
問題は、二通目。
ふたつとなりの県に住む母から、娘(彼女にとっての孫、つまりアオイ)のことについて話がある、近いうちに家へ行くという内容を長ったらしい前置きのあとに書かれた手紙だった。
母は、わたしが仕事をやめていることも知っている。アオイを引き取らせろと言うに違いない。こんな生活じゃ可哀想だとか、将来が心配だとか、一見まともな理由を並び立てて。
十一月の頭に母が来て、本当に同じようなことを深刻そうな顔をして語るものだから、おかしくて思わず笑ってしまった。もちろん真剣に聞けと怒られたけど「聞いてるから笑ってんのよ」父が本気でアオイを引き取ろうとしているから、その忠告と手助けになればというつもりらしい。この人に何ができるというのだろう、父にはいつもへこへこして逆らえないくせに。
「アオイの学校が冬休みになったら、お父さんも連れてくるから。ふたりでちゃんと話し合いなさい。いいわね?」
見送り先の駅で無責任な言葉を残して、母は改札をくぐっていく。当日はどこか旅行にでも行ってやり過ごそうかな。どうせ図々しくうちに泊まっていくつもりなのだろうし。南の島とかどうだろう、予約とれるかなー。
アオイは母の姿が消えるまで手を振りつづけていたけど、当の本人は振り返ってくれることも、もちろん手を振り返してくれることもなかった。本当は孫のことなんてどうでもいいんだろうな。世間体と自分自身を守りたいだけ。わたしが働き続けていたとしても、同じことだろう。
そんな両親と暮らすのが、関わるのがいやで、家を出ていったのに。呪縛はそう簡単に解けないものらしい。
どれほど抵抗したところで、この子が連れていかれてしまうのも、時間の問題なのかな。
「アオイ、帰る前にハンバーガー食べてこうか」
きのうから雨の降り続いている空を見上げながら、問いかける。
不安げな顔をしていたアオイが、だんだんと笑顔になって、水溜まりの上で跳ねだした。
「こらこら、お気に入りの長靴とスカートが汚れてもいいのかい」
その頭をわしわしと撫でる。彼女は照り焼きバーガーが大好きなのだ。
「あれ、スバルくん?」
一時間後、ふたりでアパートに戻ると、一階の角部屋のドア……つまりわたしたちの住む部屋のそばに、彼がぼんやりと座り込んでいた。とくに荷物はなく、髪も服もびしょ濡れで地面のコンクリートまで大きく染みている。傘を差してこなかったらしい。
「思ってたより、けっこー遠かったです」
「どうしたのよ、そんなに濡れて」
「……ふたりに会いたくなっちゃったんだ」
弱々しく、スバルくんが笑った。
それだけの理由で、ここまでするだろうか。わたしたちが帰ってこなかったらどうするつもりだ。
「はやく上がってシャワー浴びなさい。服が乾くまで、着替えも貸すから」
鍵を開け、彼のタオルと着替えを用意しに部屋へ入ろうとした、そのとき。
「すぅくん」
雨音に混じって、声がした。
「すぅくん、しゃむい、しゃむい」
「ははー、ほんとさむいよーアオイちゃ……ん?」
スバルくんの手を握りながら、アオイが喋ったのだ。二年ぶりに。
*
「アオイちゃんの声、はじめて聞いたよ。そうぞうしてたより高かった」
お腹いっぱいご飯も食べて、歩き疲れたせいか、となりで毛布にくるまって眠っているアオイの寝顔を見ながら、スバルくんが呟いた。両手でココアの入ったマグカップを持って、ときどきずずずっと啜る音が聞こえる。
「よほどスバルくんに会いたかったのかもねー、久しぶりだったから。わたしもびっくりしたわ。運動会と発表会と、夏休みに書いた作文の表彰式だっけ、どうだった?」
「無事におわったよ。発表会はかたづけをサボる子たちがいて、そのときだけだいらんとーだったけど」
大乱闘か。ブラザーがスマッシュしちゃうのか。それは大変だ、ふっふっふ。
夕飯を作るための前準備がひととおり終わったので、自分の紅茶を片手に彼のいるこたつの向かいに入った。そろそろ本題に入ろう。
「あらためて訊くけど、どうして傘も差さないで、いきなりうちに来たりしたの? 責めているわけじゃなくて、何かあったのなら聞かせてほしいの」
「……かぞくと、ケンカしちゃって。家を出たときはちゃんと傘も持ってたんだけど、ちょっとコンビニによったら傘立てからなくなっちゃったんだ。家には帰りづらいし、ミドリさんたちならアパートにいるかなって思って、それで、ここに」
「そう。おうちの人は、きょうはどうしてるのかな」
「お父さんはお仕事で、お母さんならいつも家にいるけど、ぼくとはあんまりお話ししてくれないから、その」
アオイが敏感なこともあって、子どもに対してはとくにやわらかい態度を意識しているが、思考や心の声がだだ漏れだっただろうか。気まずそうに目を泳がせるスバルくんの表情を見て、確信する。
夏休みの頃、彼には小学五年生の兄がいると聞いていた。母親に関しては虐待を受けている自覚がないらしく、同じようなことを以前から言っていたけれど、兄に関しては口をつぐむことが多かった。
「さっき痣を見ちゃったんだけどさ。ふだんから、お兄ちゃんに痛いことをされてるんじゃない?」
驚いたせいで、マグカップが勢いよく机のふちにぶつかって、中味がこぼれてしまった。
「わっ、ごめんなさい!」
「だいじょうぶ。ちょっとだし、布団にはかかってないでしょう?」
「うん」
「ごめんねえ、誘導尋問みたいなことしちゃって」
「ゆー、じん……?」
なんでもないよーっ、とにこにこ笑いながら近くに置いてあった布巾でココアを吸いとる。
シャワーを浴びようとしていたスバルくんに新しい着替えを持っていったとき。背中に、しかも肌着で隠れる場所にたくさん痣があるのを見つけてしまった。最近できたものであろう紫のものから、ずいぶん古い、消えかけの茶色いものまで。
鏡でも確認しづらいから、本人も気がついていないのかもしれない。今年は学校のプールも改修工事のせいで、一度も入れていないと言っていたし、友だちや先生が気づく機会もないのだろう。
布巾を洗ってからこたつに戻ると、彼はすでに残ったココアを飲み干していた。
「あのね、あなたのお兄ちゃんがしていることはもちろん、お母さんがしていることも本当はいけないことなんだよ。わたしたち大人は、そういう子どもたちを守ったり助けたりしなきゃいけないの」
「ミドリさん……」
「ん?」
「このこと、ふたりの秘密にしておいてくれませんか」
「どうして?」
「お兄ちゃんのことがばれたら、今度はお母さんまでぼくをなぐるかもしれない。そうなったら、じどーそーだんじょってとこに連れてかれちゃうんでしょう? お父さんとも離れなくちゃいけなくなるのは、いやだから」
父親は自分を殴らないし、無視もしない。だから父親だけは好きなのだと、彼は言う。わたしは両親とも嫌いだし、彼の気持ちを理解することは難しいけれど。ひとりだけでも家族に味方がいるのなら、もう少し様子を見てみてもいいかなと思った。
それに、彼は強い。この歳で、ここまで自分の考えを言語化できて意見もはっきり言えるのだから、いざというときは自分で助けを求められるだろう。
「わかった。でも、ほんとに危ないと思ったら通報する」
九年後、その判断を後悔することになるとは露知らず、わたしはスバルくんの要求を飲んでしまった。
「…………ねえ、ミドリさんも、何かあったの?」
- Re: すばる ( No.8 )
- 日時: 2020/09/20 18:37
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
わたしばかり彼の事情を聞き出しておいて、自分ははぐらかすのもおかしいと思ったので、一連の出来事を素直に説明した。ちょうどアオイは眠っているし、幼稚園のママ友と違って、だれかに言いふらされる心配もないから。
「へー、おばあちゃんが……」
「アオイはきっと嫌がるだろうし、わたしもあの人たちにアオイを預けるのは嫌だけど、あの家なら経済的な幸福は約束される。学校は私立にも通えるし、この子の好きなピアノや水泳もいい環境できちんと学ばせられる。可能性を広げられる。将来のことを考えると、頭ごなしに否定するのも気が引けるんだよねえ。どうするべきかなあ」
机に頭を乗せ、壁の時計を見上げる。もうすぐ三時になるころだった。
この秋になって初めてつけた暖房の音に耳を澄ませながら、目を閉じる。不意に、以前の職場での、お局からの理不尽な扱いや、上司からセクハラを受けていた日々を思い出して寒気がした。大丈夫、ここには自分を傷つける人間はいない、彼らの悪意はもう届かない。言いきかせて、静かに深呼吸する。
お局様は、過去に五年以上不妊治療を続けたが子どもを授かることができず、諦めたあとに夫側に原因があると判明した。それがきっかけで離婚したらしい。同僚から聞いたことがある。
あの会社の息苦しさを作っている一因であり、一員であると、だれもが気づいていたのだろう。
表面ばかり見て、子どものいる家庭がすべて幸せに思えるのかもしれない。働く母親が楽をしているように感じるのかもしれない。彼女の言動を見ているとそれがひしひしと伝わってくる。どんな背景があろうと、そんなものは身勝手なひがみだ。
子を産むことだけが母親の役割や責任でもないし、育児や教育も、母親ひとりでするものじゃない。父親はもちろん、本来なら地域や社会もいっしょにするものだ。あの人にも、あの会社の人たちにも、面接で落ちた企業にも、わたしたちの気持ちはきっと理解できない。思い出すだけ無駄だ。
アオイにも、スバルくんにも、こんな思いはさせたくないなあ。
十年後、二十年後三十年後、社会はすこしでも明るいほうへ向かっているだろうか。そうすることを諦めてしまったわたしが言えることじゃないけど。
「どっちが幸せかなんて、アオイちゃんが大きくなってから決めることじゃないのかなあ」
わたしだってそう思う。
「お金はだれでも稼げるかもしれないけど、ミドリさんと暮らす幸せは、ミドリさんにしか作れないし」
わたしだって、そう思う。
「ミドリさんは、どうしたい?」
未来が、わかればいいのにねえ。
◇
「ありがとうミドリさん。いろいろ良くしてもらって」
すっかり服が乾いて、ぼくもべつに家出をするつもりでもなかったので、ミドリさんが家の近くに車で送ってくれた。玄関まですこし距離があるので、使っていないビニール傘(幸運にも、家から持ち出したものとよく似ていた)をちょうだいして、歩いていくことにする。へんきゃくふよーだと言われた。
「まあ、暇ですから。でも今度からはなるべく携帯に電話してね」
「はぁい」
「いい返事だっ」
わしわし、と頭をなでられる。
「アオイちゃんも、ばいばい。明日からは公園に行けるからね」
「うんー」
じゃあねーと手を振り合って、ドアを閉めた。
さっきより強くなっている雨の中、ふたりの乗る車を見送ってから、来た道を引き返していく。お兄ちゃんは今ごろ中学受験のための家庭教師の先生が来ているから、部屋で机に向かっているだろうけど。見つかりにくいように念のため、わざと家を通りすぎたところで降ろしてもらったのだ。傘、もらっておいてよかったな。
ぼくは帰ったら何をしよう。国語の教科書のつづきを読もうかな。
学校に通うようになるまで勉強っていうものがこんなにおもしろいなんて思わなかった。知らないことをどんどん知られる。とくに漢字が書けるようになるのがおもしろくて、入賞した作文のごほうびでこの前、こっそりお父さんに上の学年の練習帳を買ってもらった。こんどは二年生の計算問題集もお願いしよう。塾にいくのはお母さんのきょかがいるし、お金もたくさんかかるから。
最近学校でもはやっているアニメのオープニング曲をちいさく口ずさみながら玄関にあがって、手を洗ってからぼくの部屋がある二階まで階段をかけのぼった。
ぼくの部屋があるということはつまり、お兄ちゃんの部屋もあるということで。
「さっきの車、だれ」
ドアを開けようとしたとき、うす暗い、廊下のおくの窓際でたそがれていたお兄ちゃんが、きいてきた。ぼくは振り向いて初めてそれに気がついたものだから、ぎょっとしてしまう。
「お友だちの、お母さんに会ったから、送ってもらったの」
「……ふぅん」
「か、家庭教師の先生は?」
「来てねえよ。途中で事故渋滞に引っかかったんだってー」
目を細めてへらへら笑いながら、お兄ちゃんはすぐそばの自分の部屋へもどっていった。
ぼくも部屋に帰って、カギをかけてから、やっと手が震えていることに気がついた。
- Re: すばる ( No.9 )
- 日時: 2020/09/21 13:52
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
クリスマスの日の朝、枕元にサンタクロースが来てくれた痕跡はなかった。お兄ちゃんはちょうど今月発売された新しいゲーム機とソフトをもらったらしく、早速一階のリビングで、ぼくに見せびらかすように遊んでいる。
サンタなんているわけねーだろ、と、去年のいまごろ、お兄ちゃんに言われた。その日から、ぼくのサンタさんは跡形もなくいなくなってしまった。
◇
『もしもぉし、みーちゃん? ミドリ? あたしあたしー』
「オレオレ詐欺の女版? 今どき流行んないでしょう」
『そんなことないって。あたしのお母さん、つい最近引っかかったばっかでさー。ワタシハダイジョーブヨーとか言ってたくせしてー』
「全然似てない」
『まじで? あっははは!』
楽しそうな笑い声が聞こえてくる。父の兄の娘、つまりはわたしのいとこであるなーちゃん……ナナミから、携帯に電話がかかってきたのだ。相変わらずなようで、何よりである。
「で、結局おばさんは振り込んじゃったの?」
肩と耳で携帯を挟みつつ、とりこんだ洗濯物を畳みながらたずねた。スピーカーホンにしようかとも思ったのだが、隣ではアオイが自分の服を畳んでくれていた。相手が何の用でかけてきたのかまだわからない以上、気を遣いたくもなるのだ。
『ギリギリセーフ、黙って銀行にいこうとしてたとこを、息子ちゃんたちがとめてくれて理由を聞き出したのっ! もーっ、ちょーデキる子達ぃ!』
「それはよかったじゃない」
『ほんとよー! 危うく二百万飛んでくとこだったんだから! それに比べたら、警察への付き添いくらいなんてことないわぁ』
さっきからわたしがクスクスと笑っているので、アオイは不思議そうにこちらを見上げてきていた。
『ってー、そんなことはどーでもよしこちゃんなわけー』
「だから古いって。それで、なにか話でもあるの?」
『あーん、今から言おうとしてたのに』
畳み終えた洗濯物を、タンスの中に詰めていく。
冬服は量のわりにかさばるから若干面倒だ。今年はニットを買わないようにしないと。
『きょうねー、その息子ちゃんたちを、叔父さんのとこに押し付けてきたのー!』
「えっ?!」
しかも、伯母さんを詐欺から救ったご褒美だと称して行かせたらしい。いいんだろうか。いろいろといいんだろうか。
予想外だ、やけにうしろが静かだなあとは思っていたけど。
『風のたよりがびゅんびゅん吹いてくるわけ。叔父さんとこ、無理やりアオイちゃん連れてこようとしてるんでしょー?』
「あぁぁあ、そうなの。もう、恥ずかしい……」
風の便りと言うより、本人たちが言いふらした結果だろうな、それは。
『これまで援助してくれてたわけでもないくせにねえ。あたし的には許せないからさー、そんなに暇なら三ヶ日までこいつらの面倒見てちょんまげ! って三人とも送りこんだわけ。たぶん今ごろお父さんに説教されてるよ、あの人たち。タブルパンチでさすがに懲りるでしょ。くらえ、長男パワー! がははは』
もはや清々しい。父親だから、夫だからと偉そうにする父は、兄である伯父さんや姪のなーちゃんには頭が上がらないなんて、おもしろい皮肉だ。
もう亡くなってしまった祖父もそんな人だった記憶がある。父と伯父さんは、違うものを食べて育ったのだろうか。おばあちゃんに訊いておけばよかったな。…………冗談だ、もちろん。
「二人とも、ありがとう。子どもたちもね」
『いーってことよ。おとんもあたしも、みーちゃんのこと大好きだから。もう、どーしてあたしに相談してくれなかったかなぁ』
「ごめん」
『頼人さん亡くなったときもそうだったでしょ。親がたよれないなら、あたしら使ってくれて全然いいのに。さみしーぞ、みーちゃん』
「ありがと、なーちゃん。でも、旦那さんと伯母さんに申し訳ないからさ。うちの両親に関わらせるの」
『そーお? じゃ、とりあえずはいつも通り、野菜とかお米とか送る程度に留めとくわぁ』
「ありがとう、ほんとに」
今度みーちゃんち遊びにいくねー、あ、もちろんひとりでだよっ。明るい声で言い残して、電話は切れた。今度、使ってる洗濯洗剤を聞き出して、たくさん買って送ってあげよう。
「アオイ」
腰を下ろして、呼んだ彼女の瞳が、じっとわたしの顔を見つめてくる。
ちょうど畳み終えた自分の服を抱えて、こちらに運んでくるところだった。
「おばあちゃんのところ、行かないで済みそう」
「ほんと?」
「うん」
「おかしゃんずっといっしょ?」
「うんっ」
文字通り、ぱあっと輝くような笑顔で、アオイが抱きついてきた。わたしはどんな顔をしていただろう。
久方ぶりの、クリスマスプレゼントをもらってしまった。
- Re: すばる ( No.10 )
- 日時: 2020/09/22 15:03
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
占いとかおみくじとか、あんまり信じるタイプじゃないけれど、今年になって気まぐれで引いてみた近所の神社でのおみくじは、生まれて初めての大吉で。その後再開した就職活動もとんとん拍子で進んだものだから、このままだと信じてしまいそうだ。
大晦日の夜、母から電話がかかってきて、アオイを引き取る件は見送ることにすると言われた。なーちゃんや伯父さんのことは何も言っていなかったけど、疲労を帯びた声色や、うしろから聞こえてきた子どもたちの笑い声ですべて察することができた。もう彼らのことで心配する必要はないだろう。
シングル家庭に理解のある新しい職場も決まって、とりあえずはふたりで生きていけそうだ。
静かに、新しい人生が始まろうとしていた。
「そっかー、よかったね、ふたりとも」
アオイは肉まん、わたしはカレーまん、スバルくんは餡まんを。雲ひとつない晴れた空の下、中央公園のベンチで並んで食べながら、いつものように話した。
「スバルくん、この九ヶ月間、ありがとうございました」
「いえいえこちらこそ」
頭を下げあうわたしたちを見て、アオイがおかしそうに笑う。かわいい。
「明日からお仕事が始まるんだ。週末とかお休みのときは、またこうやって一緒に遊べるといいんだけどねえ。どうかな、わたしの体力次第かも」
こうしてすこしは身体を動かす機会があったとはいえ、どこまで自分が鈍ってしまっているか、正直想像がつかない。彼らには申し訳ないが、あくまでもしばらくは仕事優先だ。
「いろいろと、ちょっとは不安だけど、頑張るから」
だれに言うでもなく、呟いていた。もしかしたら、天国にいるだれかさんかもしれない。
亡くなる前、彼は、将来べつの人といっしょになってほしいと言ってくれた。幸せでいてほしいからと。でも、わたしは結婚を幸福と結びつけて考えているわけじゃないし、何より本当は、まだまだ夫のことについて、ひとつの思い出としてきちんと整理をつけることもできていない。アオイの意思とかいう以前の問題なのに、こんな状態でほかの男性と向き合うことは不可能だ。すくなくとも、わたしにとっては。
整理、どうやったらつくだろう。もしかしたら一生つかないかもしれない。だれかと一緒になるにしろ未婚を貫くにしろ、この状態でいればわたし自身がつらいだけだ。悩みはそれ自体の重さより、抱えている時間の長さのほうがストレスになるんだって、昔、なーちゃんも言っていたっけ。
「あのね、ミドリさん」
食べ終わった餡まんの袋をたたみながら、彼が口を開いた。
スバルくんならなんて言うだろう。
これまで、わたしのしょうもない話をたくさん聞いてくれたスバルくんだったら、なんて言うんだろう。
「ぼく、ミドリさんを守れるようになる。大きくなったら、ミドリさんと、」
そのつづきを、聞いてしまう前に。
見たことのない高学年くらいの男の子が、突然どこかからやって来てわたしを突き飛ばし、スバルくんの腕を物凄い力で引いていった。
ベンチから落ちてしまったわたしは、相当な混乱と腰の痛みで、すぐには起き上がれなかった。
「おかしゃん、すぅくん!」
アオイの叫ぶ声に、一瞬、その男の子が振り向く。
毛糸の帽子をかぶっていたから、はっきりとは見えなかったけれど。わたしたちを睨む目元が、スバルくんによく似ていた。
たぶん、あれが彼の兄の、チカくんだ。
◇
「おにい、ちゃ、はなして!」
二人のいるところからずいぶん離れた、ぼくの自転車のとめてある駐輪場まで、彼は手を離してくれなかった。
乱暴に放り投げられて、アスファルトの上に転んでしまう。やわらかいジャンパーを着ていたからそんなに痛くはなかったけど、びっくりした。この一年で、すごく力が強くなったことに気がついたから。
「おまえ、もう二度とここに来るな」
「どうしてっ」
「殴る」
「お兄ちゃんに関係ないでしょ」
生意気だと、思われたのかもしれない。早速ほっぺをグーで殴られた。いひゃい。
「じゃあ、あいつらを殴ってやるよ。とくにおまえのだぁいすきなミドリとかいうババア、ボコボコにしたら面白いかなあ!」
いつものように、へらへらと笑った。
「おまえにはなーんにもできないんだよ。俺より馬鹿だし、力もないし、母さんにも嫌われてるくせに。俺に関係ないだと? ふざけんなよクソが。黙って俺の言いなりになってろ」
近くに置いてあった彼の自転車にまたがって、お兄ちゃんは吐き捨てるように言った。なんかもうめちゃくちゃだ。
でも、ふたりに迷惑はかけたくない。ぼくはお兄ちゃんの言うとおりに、自転車に乗って帰ることにした。
ミドリさんも、アオイちゃんも、頑張って前に進んでいるのに。ぼくは何も変わっていなくて、なんだか情けなかった。さっきミドリさんに言おうとしたことが、すごく恥ずかしい。
次の日から、公園にはいかなくなった。
◇
- Re: すばる ( No.11 )
- 日時: 2020/10/17 04:40
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
スバルくんを捜してみたけれど、ちょうど駐輪場から出ていくところで、ぎりぎり追い付くことができなかった。
あれから、ふたりで公園に行ってみても彼の姿を見ることはなく、彼からの連絡も一度もなかった。家に行ってみるべきかとも考えたものの、虐待がひどくなってしまったら、父親から引き離すことになってしまったらと考えると、怖くて行けなかった。そうこうしているうちに仕事も忙しくなってきて、職場やアオイの新しい保育園に通いやすいよう、年度の明ける前に、市内のマンションに引っ越しも済ませて。
縁があれば、またスバルくんに会えるだろう。最後に中央公園へ遊びに行った日、アオイはそんなことを、彼女なりの言葉でわたしに伝えてくれた。
それから長い間、わたしは彼のことを記憶の奥底に封じ込めていた。
■
3.『スバル』
高校一年生になった年の夏、父さんが、家族みんなで奄美大島にいかないかと提案してきた。母さんは二つ返事で、兄さんもしぶしぶ賛成して、八月にならないうちに計画は実行されることになった。
兄さんが昔落ちてしまった、第一志望の公立高校に合格してから母さんの態度は手のひらを返すように変わった。おかげで兄さんの僕への嫌がらせもなりをひそめて、多少は生活しやすくなったと感じる。ふたりのことを好きになったわけじゃないけど。
「なあ、スバル。おまえにプレゼントがあるんだ」
旅行に出かける三日前の夜、父さんが僕を部屋に呼んできた。僕や兄さんのよりも広くて、壁いっぱいに取りつけられた本棚には、建築関係や趣味の本なんかが綺麗に並んでいる。それ以外、床やデスクの上にはあまり物がなく、母の部屋と違って絨毯すらも敷かれていない。掃除が面倒だからといつか言っていた気がする。
デスクライトひとつだけの明かりの前で待っていると、部屋の奥から出してきたなにかを僕の首に提げられた。影になっていた父さんがどけて、それが何なのか、ようやくこの目できちんと認識する。彼が持っているのとはべつの、新品らしいカメラだった。
「入学祝い、ちゃんとしてやれてなかったから、それも兼ねてな」
「え、いいの? こんな、」
いっしょに渡された紙袋には、必要なアクセサリが入っていた。父さんも、そろそろ新しいものに買い換えたいと言っていたはずなのに。いいんだろうか。たしかに、中学に上がったくらいからときどき父さんのを借りて、ふたりで出かけた先で写真を撮ったりしていたし、いつか自分のものが欲しいなとも思っていたけど。
「最新のヤツじゃねえんだけど、勘弁してくれよ。さすがに値が張るんだわ」
「そんなの気にしないよ、つーかわかんないから。ありがとう、父さん!」
「使い方はそこまで変わらないはずだ、わからないことがあれば、説明書か俺に訊くといい。大事にしろよ」
もちろん、言われなくとも大切に使うつもりだ。
さっそく今度持っていって、たくさん撮ろう。そのためにいまから慣れておかないと。
改めて父さんにお礼を言って自分の部屋に戻ろうとすると「昴琉」やさしい声で呼び止められた。
「昔は、問題集や本か、お菓子を買ってやることくらいしかできなかった。しかも、母さんやチカに隠れてだ。ごめんな。あのとき、おまえの味方になってあげられなくて」
「……父さんが気にすることじゃないよ。それに充分、僕にとっては心強い味方だった」
力で勝てないのなら、違う方法で追い越してしまえばいい。小学生のとき、そう教えてくれたのは父さんだった。兄さんには劣るけれど幸い地頭は悪いほうではなかったので、それからずっと努力を重ねてきたのだ。
兄さんに教科書やノートに落書きされたり、破られたりしても、負けなかった。いい友達や先生にも恵まれたから、わからないことは分かるようになるまで彼らに聞いて、その代わりに、みんなが困っているときは助けになれるように行動した。
父さんは、僕が自分だけの力でここまで来たと思っているのかもしれないけど、それは違う。クラスのみんなや、部活や生徒会の友達や、先生や、父さんのおかげだから。
「だから、泣かないでよ」
「ばかやろっ、泣いてねーわ!」
涙でぐしゃぐしゃになりながら、父さんが笑う。
まさかこの三日後に、彼が死んでしまうことになるなんて。いったいだれが予想できただろう。
- Re: すばる ( No.12 )
- 日時: 2020/10/17 04:59
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
雨宮千嘉と名乗る男から電話がかかってきたのは、アオイが中学二年生のときの、秋の夜だった。弟の様子がおかしい、助けてくれと、男は切羽詰まった声で言う。
ショートメールに送られた住所を見て、わたしはようやく、その声の主がだれなのかを思い出した。
スバルくんの、お兄さんだ。
「アオイーっ、ちょっとお母さん出かけてくるねー」
「え、いまからぁ?」
部活の練習から帰ってきて、夕飯のカレーを食べ始めたばかりのアオイが、あんぐりと口を開く。わたしはとりあえず、食事は後回しだ。
何時になるかはわからないが、なるべく早く帰ると伝え家を出て、車を走らせた。呼び鈴を鳴らして玄関から出てきたのは、九年ぶりに、しかも初めてきちんと顔を合わせるチカ、本人だった。
■
七月三十日、空港に向かう途中、高速道路で事故に遭った。しつこい煽り運転の車を避けようと、父がハンドルを切って、それから……それからのことは、覚えていない。知らない病院で目がさめたときには、数日が経っていた。両親はもうこの世にいなかった。包帯ギプスその他でぐるぐる巻きになった兄と、それに比べればちっぽけな僕の外傷だけが、あの日の事故を現実だと物語るばかりで。
加害者はとうに死んでいた。他人の未来を、幸せを食い潰し、罪をつぐなうこともなく、だれよりもあっけなく。全身を打って、即死だったと聞く。家族の人たちに何度も頭を下げられたけど、謝って済むのなら警察も裁判所も必要ない。お金をもらっても、奪われたものが返ってくるわけじゃない。弁護士の人にそう言ったら、返ってこないからこそもらうんだよと言われた。
あの事故の影響で、車に乗ることを避けるようになった。兄さんよりも一足早く退院し、家へ帰るために乗ったタクシーの中でフラッシュバックを起こしたのが、きっかけだったと思う。今度は同じ病院の違う科に担ぎ込まれた。
そんな感じなので(どんな感じだ)自分を客観視しすぎてしまって、帰りに駅へ向かう道中は、笑いが止まらなかった。わりと元気だなー自分、まあこれからがんばるかー、なんて思っていたけれど、まあ。その調子で、正気でいられるわけがなかったのだ。
まず、久々の帰宅から一ヶ月分の記憶が吹き飛んだ。生活に必要ないろんなことが、突然できなくなった。
そうしてもう、退院から二ヶ月が経とうとしていた。学校にも行かず、自室の布団にこもって過ごしていたある日、なにかが弾け飛んだように感情が制御できなくなった。泣き叫び、幾度も自傷行為に及び、繰り返し再生される記憶から沸き上がる、強い後悔と怒りを体外に逃がすように、胃液を吐いていた。いつまでこんな悪夢がつづくのだろうかと。うつろな意識で考えていたのを、覚えている。
「スバルくんっ、スバルくんっ」
またいつものように記憶に苛まれていると、なんだか聞き覚えのある声がしてきて、僕をぎゅうと抱き締めてきた。このところ風呂入れてないんだよなー、申し訳ないなあと思っていたら、眠ってしまっていた。
気づいたときには、久しぶりに会ったミドリさんといっしょに、地元の病院の診察室にいた。僕の机の引き出しにあった古いメモを見つけて、兄さんが彼女を呼んでくれたのだそうだ。そういえば、なぜか医者が機嫌を悪くしていたっけ。
僕の状態が予想以上に悪いということで、高校は退学することをすすめられた。ちょうど留年の決まる欠席日数に届きかけていたが、来年の春までに治る見込みがまったくなかったのだ。
諸々の手続きはミドリさんに任せて、僕は再び引きこもりという名の療養生活に徹した。相変わらず発作がおさまらないからだ。どうして自分は生き残ってしまったのか。これから先の人生、兄さんとふたりで生きていかなきゃいけないのか。そんなの生き地獄だ。自動的に展開される思考が僕を蝕み、壊していく。
そうして、退院から三ヶ月になろうとしていた頃。僕を見かねたミドリさんが、ある日兄さんに言った。
「ねえチカくん、あなたの通ってる大学って県外だったよね。突然なんだけど、この家を出ていってもらえないかな? スバルくんが立ち直るまで、わたしが面倒を見るから」
半月後、兄さんが県外のアパートに引っ越していくと、必要な薬の量もずいぶん減って、僕の体調はたちまち回復し始めた。
頭の中では兄さんをあの事故で死んだことにして、彼に関する記憶の大部分を封じ、再構築していったのだ。
- Re: すばる ( No.13 )
- 日時: 2020/10/17 05:13
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
二月の中頃、隣町の通信制高校への入学が決まって、駅に近いアパートへ引っ越すことになった。それまで、引っ越しの準備といっしょに最低限の家の片付けもした。僕がこの家を出てからは、ミドリさんが定期的に掃除なんかに来てくれるらしい。そのため、大事なものはいまのうちに僕が片付けておいてほしい、と言われたのだ。
父さんの部屋で作業をした日、防湿庫や収納スペースの片隅で、彼の愛用していた撮影道具たちが見つかった。旅行には持っていかなかったのだろうか。あるいは、ミドリさんがここに戻したのか。少し考えて、前者の可能性のほうが高いなと結論づける。
事故に遭ったとき、僕のものはスーツケースの中でさらにバッグに入れていたせいか、運良く無事だった。けれどもあの日以来まともに触れてすらいない。一応引っ越しの荷物の中には入れたけど、しばらく使えないだろうな。
いろんなことを、思い出してしまいそうだから。
「ねえ、父さん、僕がもらっていってもいい?」
部屋の隅にでも、彼がいるような気がして。いいぞーと笑ってくれているような気がして。次の日、あの中央公園へ父の愛機を持って出かけることにした。久々すぎたのか、なんだかほとんど知らない場所のように感じたけれど、なぜだろう。
■
前期・後期それぞれはじめてのホームルームは、通学コースの生徒たちが学年ごとに時間を分けて集まり、先生から予定の説明を聞く。僕たち二年生はほかの学年ほど人数がいないので、いつにもましてキャンパスが静かだ。
同級生たちが過ごしているはずの日常から半年以上も離れていたブランクは大きく、なかなか苦しい一年間だった。勉強で困ることはなかったが、通学自体が体力を削ってくるのだ。甘え、などとかんたんに語れる次元の話ではない。
一年経てば多少は慣れるかと踏んでいたものの、今でも正直しんどい。学校行事に参加したくないと思ったのは生まれて初めてだ。結局そこそこ楽しんでいるのだが、毎回、帰宅後最低一日は寝て過ごしてしまう。
「なーなー、きみって雨宮きゅんだよねえ?」
七月の宿泊行事で、先生やOBといっしょに撮ってまわった生徒たちの写真を携帯で眺めながら、後期最初のホームルームが始まるのを待っていたとき。わざわざうしろの席から知らない男子生徒に軽く小突かれた。
月のはじめには転入生が大体ひとりはやってくる。彼もその一人なのだろう。転入生に初日から認知されるほどこの学校で悪行を重ねてきたようなおぼえはないが、振り返ってみた。
「あー、やっぱり雨宮きゅん」
笑顔で僕を見つめてくる彼は、地の色なのか日焼けや髪染めでもしたのか、小麦色の肌と金髪に近い長い茶髪の、主張がはげしい外見をしていた。耳にはピアスまでいくつか空いている。
この学校では私服登校が許されているし、事実僕を含めたほとんどの生徒がいつも私服姿だ。校則もそこらの公立高校より断然ゆるく、外に出る学校行事でもない限りは髪を染めていてもアクセサリーを身に付けていてもとくに指導されない。しかし、ここまで派手な外見をしているのもなかなか珍しかった。ここの生徒の半分近くは、放課後や自分の授業のない日にはアルバイトをしているので、必然的に落ち着いてくるものなのである。
「初対面で意見するのもなんですが、その変な呼び方、やめてくれません?」
「だって俺、おまえの兄さんと知り合いなんだもーん。雨宮チカって、スバルきゅんのお兄さんでしょお? 後ろ姿からもう似てるよねー」
ちりちりと瞼のはしが震えた。
「俺のねーちゃんが高校んときの同級生でさあ、いまでも付き合いあんのよ。ねえねえ、今度三人で遊ぼーよ、タピオカ奢っしー」
「人違いじゃないの。頭痛くなってくるから、ちょっと静かにして」
「はあ? なんだよその言い方、むっかつくなあ」
すこーん、と丸めたプリントの冊子で肩を叩かれる。おまえこそ何なんだ。音のわりに大して痛くもないし。
前の壁にかけてある時計がちょうど十一時を指して、同時に隣の職員室から先生が出てきた。チャイムなんてものは、ここに存在しない。
「はーいみんな、席につい……てるか。って、ほんとに少ないよなあ、一年生の半分もいない」
ホワイトボードの前で、僕を含めて全六名の二年生を見渡しながら、キャンパス長が笑った。
「まあ、これからもう少し転入生も来るかもしれないからな。雨宮の後ろのきみ、自己紹介して」
「ほーい」
うしろから椅子の引きずる音が大きく響いてきて、まわりの生徒たち四人の視線が集中する。僕は振り返らずに、彼の短すぎる自己紹介を聞き流した。
「どーも、螯よ怦逅「蜩峨〒縺吶€ゅh繧阪@縺上€�
- Re: すばる ( No.14 )
- 日時: 2020/10/17 15:18
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
三年生に進級してすぐ、アオイが不登校になった。去年から学校でいじめられていたらしい。
わたしは、クラスでも部活でも同級生にいじめられたけど、無理やり学校に通わされつづけていた。それが当時、辛くてたまらなくて、近所の川に飛び込んで死のうとしたことがある。結局、痛みが怖くて飛べなかったけど。
「アオイがいてくれるだけで、わたしは、きょうまで生きててよかったなあって思うの」
死にたいと願うのがどれほど苦しいことか、わたしは知っている。
アオイにはあんな思いをしてほしくなかった。
■
中学卒業から一年後、進学した隣町の私立高校で、昔よく遊んでもらったおにいさんにそっくりな男子生徒を見つけた。昼休み、彼は窓際の席で机に向かって課題を進めていて、申し訳ないかなと思いながらも、わたしはそばに近づいて声をかけた。
「すぅ、くん? わたし、アオイなんだけど、おぼえてる?」
少し遅れて、彼が顔を上げた。やっぱり似ている。でもずいぶんまとう雰囲気が変わったな。
レポートの記名欄に並ぶ角張ったきれいな文字も、漢字ははじめて知ったけど、記憶に残るそれと一致している。だから、きっとすぅくんだと思ったのに。
「……さあ。人違いじゃないですか」
あっさりそう言われて、また意識の外に追いやられてしまった。
「アオイちゃん、ちょっと」
うしろから呼ばれたので振り向くと、部屋の端のほうで三年生の女の子が何人か固まっていて、手まねきしていた。もう名前を覚えてくれたらしい。
なんですかー、と彼女たちのもとへ駆けていくと、そのうちのひとりが声を落として訊いてきた。たしか、北野さんだったっけ。
「あなた、雨宮くんの知り合い?」
「えっと……ちいさい頃の友達に似ていたので、確認したんですけど、人違いだったみたいで。それがなにか?」
「去年、あなたみたいに声をかけた男子がいてさ、悪気はなかったらしいんだけど、あんまりしつこいからトラブルになったことがあってね。ちょっと思い出しちゃったの」
「そうなんですか」
「十月くらいだったっけ、たしか。お兄ちゃんがいるとかいないとか……だよね」
輪の中で、席についてお弁当を食べているべつの女の子が、北野さんにたずねた。
「そうそう、雨宮くんここで爆発しちゃって、びっくりしたよね。それから何か月も休んでて、単位足りなくて留年。一年遅れて入学してるから、今年で十九歳になるはずだよ」
そっか、それでいまからあんなにレポート頑張ってるんだ。
「なんか病気だか障害があるらしいって聞いたけど、そのせいだったのかな」
「あー、この学校だとたまによくいるよねー」
「どっちだよ」
「あたしのお姉ちゃんもそうだから」
いろいろ訳ありな人が多いんだなあと思いながら、さっきコンビニで買ってきたフルーツジュースをストローで吸った。果汁百パーセント、濃縮還元。
彼女たちは噂話を楽しむわけではなく、あくまでも疑問を解消するためとか、彼のことに限らず、わたしが知らずにだれかの地雷を踏んでしまわないようにと言ってくれているみたいだった。現に空気にはそこそこの重みを感じる。
「あのー、そのとき声をかけた男子っていうのは」
「ああ、あいつねぇ、もういないよ。転入してきて二ヶ月くらいで都内に転校したの。雨宮くんのこととは関係なく」
「に、二ヶ月!」
「それもたまによくいるよねー」
「だからどっちだよ」
あっはっは。北野さんのとなりで「たまによくいる」女の子がショートヘアを揺らして快活に笑う。彼女はいちごオレの五百ミリパックから、ずこここーー、とストローで残りを飲みきると、満足そうにまた微笑んだ。
「あたしらも一回くらいは、みんなにここに来た理由とか訊いちゃうんだけどさー。あんまり言いたそうじゃなかったら、踏み込まないであげてね。アオイちゃんなら大丈夫だろうけど」
それから、約半年後。
雨宮くんもわたしも平日はほぼ毎日登校していたし、校内行事に参加することも多かったのだけど、とくに話す機会もないまま時間だけが過ぎてしまった。
無理やり昔のことを掘り起こすつもりはないけど、このまま雨宮くんが卒業してしまったらと考えると、やっぱり全部諦めるなんてできなくて。こういうのをジレンマというのかななんて思いながら、放課後になったキャンパスでのろのろと帰り支度を進めていた。ら。
「えーっ、入賞! すごいじゃん」
前にあるキャンパス長のデスクでノートパソコンの画面にかじりついている、OGの榎本先生が声をあげた。そのそばには雨宮くんが立って恥ずかしそうに辺りを見回している。わたしと目があってもすぐに逸らされてしまった。
わたしたちのほかに何人か残っていた生徒も一瞬、何事かとふたりに視線を送っていたが、出入り口や廊下で待つ生徒たちに呼ばれてすぐ出ていってしまった。わたしが口を出すことじゃないけど、あんまり他人と関わっていないもんなー。
「やっぱり私の目に狂いはなかったんだね、まあ素人なんですけど」
「大したことじゃないですよっ。こんなに小さく載ってるし」
「それほかの受賞者に失礼でしょー。ていうか初応募でいきなり最優秀賞なんてなったら、こっちが怖いわ」
「たまにはいるんじゃないですか?」
たまによくいる、のかと思って身構えてしまった。例の三年生が頭の中で笑っている。とりあえずわたしも前に出て、ダメ元で輪に混じることを試みた。
「あのー、二人とも、何かあったんですか?」
振り返ったふたりの表情が、まるで対照的なのでおもしろい。
「スバルさ、私のすすめで応募したフォトコンテストで入選しちゃったの!」
「ふぉと?」
「ほら、後ろの壁に貼ってある行事のときの写真。今年の分からほとんどスバルが撮ったやつなの。キャンパス長が直々に、撮影係やってほしいって」
「……すこしだけ趣味でやってたので」
「あ、なるほど。そうだったんだぁ」
これまでのささやかな疑問が解決した。
さっきから小躍りしそうな勢いで喜んでいる先生が、パソコンの向きをくるりと変えて画面を見せてくれる。「これこれ」指さしたところをクリックすると、作品が拡大表示された。
「……わ、すごい」
一瞬、絵画かと思った。
生垣の真っ赤なハイビスカスが咲き誇る中、白い肌と麦わら帽子がきれいに浮き立つ、思いきり笑っている先生。視線の先でだれかと話していたワンシーンなのだろう。場所の心当たりはあった。
「夏の宿泊行事のとき、いつのまにか撮っててくれたみたいでさー、すごくない?」
「たまたま、距離も光の具合もよかったんですよ。ただでさえ人を撮るのは難しいのに。あくまで偶然です。入選も、初心者部門だったから」
「雨宮くんっ」
思ったよりも大きな声が出て、びっくりした。
「わたし、中学でバドミントンやっててね、部活の先生によく言われたの。偶然で勝つことはあっても偶然で負けることは絶対ないって。雨宮くんのいう通りたまたまだったのかもしれないけど、いまは喜んでいいと思うよ。逆上がりや二重跳びができるようになったときだって、最初は偶然からじゃなかった?」
わたしたち以外だれもいない部屋が、しんと静まり返ってしまった。見上げた雨宮くんの顔から、表情が薄れていく。
ど、どうしよう。わけわからないこと言っちゃったな。雨宮くんの運動神経が悪い前提みたいな言い方だし、わたしなんて最後に写真撮ったのまさにあの沖縄の行事のとき以来じゃん、しかも友達との自撮りかご飯ばっかりだしそのくせ偉そうで自分でもむかつくしうわーーーーどうしようどうしよう!
あと十秒沈黙がつづいたら、ダッシュで帰ってしまおうと思った。だから八秒まで耐えられたのに。
「…………ふっ、そうかも。 ……そうかも。ありがとう、相馬さん」
口元を隠してくすくす笑いながら、肩を叩かれた。バカだと思われたかな。恥ずかしい。
「スバルでいいよ。呼び方」
「じゃあ……わたしもアオイがいい」
「あのーう、おふたりさん。いや、アオイちゃんはいいのか。スバル、あのさあ」
いつのまにかまたパソコンに向かっていた先生が、スバルを呼びとめた。
「はい?」
「さっき初心者部門に応募したって言ってたよね」
「ええ、まあ」
「入選したの、何度見ても上級者部門みたいなんだけど」
「 げっ 」
- Re: すばる ( No.15 )
- 日時: 2020/09/26 15:53
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
「お母さん、あのね、学校にすっごくすぅくんに似た男の子がいるの。声をかけたら違うって言われたんだけど、わたし、それでも絶対すぅくんだって思っちゃうから、ときどきどうしてもそう呼んじゃうの。最近、なんて呼んでもいいよって言ってくれたんだけど、やっぱり申し訳ないんだぁ」
冬休みに入ったある日、学校のクリスマス会で撮ってもらったツーショットをお母さんに見せた。そうしたら、嬉しそうな悲しそうな顔をしながら、スバルのこれまでについての話をたくさんたくさんしてくれた。その子はすぅくんだよ、ずっと黙っててごめんね、と、見たことないくらい大粒の涙をこぼしながら言われた。
今年の四月、ひさしぶりにスバルの様子を見にアパートへ行ったとき、彼はもう、お母さんのことを忘れてしまっていたそうだ。
人間の頭はボタンひとつで記憶を操作できるほど、簡単なつくりをしているわけじゃない。ねじ曲げた分のしわ寄せは、必ずどこかに現れる。
それが必然的に、お母さんやわたしとの思い出だったわけで。
「危うく通報されかけたよ。部屋を間違えたってことにして、すぐ帰ったけど」
こんなに辛そうな顔をするくせに、彼女は笑い話へ昇華しようとする。
わたしは、なんにも言えなかった。
♪
月明かりの目に痛む現実に、意識が浮上する。走馬灯みたいなものの再生は、一通り終了したらしい。なんだかひどく疲れた。全身が痛い。バキバキだ。
「俺が、殺したようなものだ、ミドリ以外の女も。実際に殺したのはあいつだけど、そう指示したのは俺自身だ。俺は連続殺人犯なんだよ」
ぼんやりしていた視界の端に光るものが見えて、その瞬間、僕はめいっぱいの力をこめて兄さんを蹴り飛ばした。頭がうまく回らないから、もうめちゃくちゃに数打ちゃ当たるだろう的作戦でやった。何回か急所にヒットして「んがっっ」運良くナイフまで遠くに飛ばすことができて、僕って「ラッキーだなー」と思う。
母さんと兄さんに嫌われていても、父さんだけは僕の味方でいてくれた。ミドリさんとアオイちゃんに出会うことができた。友達に恵まれた。頭だけは少し良かった。一時的にでも兄さんを見返すことができた。両親が死んでも、五体満足で生き残れた。絶望から救いだしてくれる人がいた。アオイとまた出会えた。岸くんや店長にも出会えた。
もう、嫌になるくらい超ラッキーだ。
なんとか芝生の上に押さえつけた彼の首に、手をかけて、僕はずっと隠していたひみつを告白した。
「子どもの頃、兄さんが母さんにされてたこと、知ってたよ。僕はあのとき何度も見てたけど、父さんにもだれにも言わなかった。何でだと思う?」
力が出ないなりに、なんとか両手でその首を握りしめる。なさけない音のする吐息が額にかかってきて、気持ち悪かった。
「兄さんが不幸でいることで僕は幸せでいられるんだって、気づいちゃったからだよ」
母さんがイカれた感情を兄さんに向けていてくれたから、僕に危害が及ぶことはなかった。無視されて、殴られていても、そんな状態が良くならない代わりに、さほど悪くもならない。半分以上あきらめてあの時を生きていた僕にとっては、それが最善策だった。最良ではなかったけれど、それが平穏を保つための手段だった。
ひとの不幸で相対的な幸福を得る。だれかの不幸を踏み台に、結果的な幸福を手に入れる。
「僕は、兄さんのおかげでやっと幸せになれた。悪いけど、あんたに殺されるわけにはいかないんだ」
そうだ。こうして兄さんが接触してくるまでの間、僕が殺されずにすんだのも、ちがうだれかが犠牲になったからだった。罰当たりだろうか、彼らが死んでくれたおかげで自分が生きているのだと、考えるなんて。
あいつにまたカルボナーラを作ってやらなくちゃいけない。アオイにまた新しい写真を見せたいから、撮りにいかなくちゃならない。ああ、景色だけじゃなくてこんどはアオイのことも撮ってみたいな、彼女さえよければだけど。
だれかの命でできている、そんな平凡な穏やかな毎日を今度こそ生きるために。また築き上げていくために。僕はまだ、死ねない。……そう考えれば、すこしはミドリさんも許してくれるかなあ。
ごめんね、守ってあげられなくて。
わずかに力が緩んだ瞬間を見計らって、兄さんがまた、僕の上に乗ってくる。彼は泣いていた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、また僕を殴っていた。弱々しく首を絞めてきた。多少は苦しいけど、死ぬほどじゃない。もう、彼には体力も気力も残っていないのだ。
僕が兄さんを記憶から消した理由が、こうして僕を助けることになるなんて。ひどい皮肉だ。僕の脳みそ、どうなってるわけ? 自分ですらわからない。
「死ぬななんて言わねーよ。頼むから、死にたいんならだれにも迷惑かけずにひとりで静かに死んでくれ」
目を閉じて、深呼吸して。いちにのさんで、兄さんの顎へ拳を振り上げようとした、そのとき。
「うわああああああああああああああああっ!!」
どこかから、叫びながら走ってきたアオイが、彼の背中を、は、さし、え? 刺した。
それはもう、ぶっすりと、流れるように。
気づいたら、ナイフが刺さったまま、兄さんが僕の上に倒れていて。
かたわらで、放心状態のアオイが座りこんで、大きく息を切らしていて。
叩いてもゆすっても兄さんは起きない。胸元と右手に伝う生温かい感触で、今しがた起きたことに理解が追いついた。
「……アオイ、」
彼の身体をなんとか退かし、熱いほど痛む全身で、アオイのもとに這っていく。
「もう、大丈夫だから。遅くなってほんとにごめんね」
こんなこと、させてしまってごめんね。
腕いっぱいにぎゅうと抱き締める。安心したのか、アオイは僕の言葉と同時にやっと、赤ん坊みたいに泣き出した。
「頑張ったね。しんどかったね」
ちらちらと並んで灯りが瞬く、水平線の彼方まで届きそうな慟哭に目蓋を閉じる。何度も何度も、その背中をさすりながら。
とつぜんに重たい眠気がのしかかってくる。これで終わりだけど、でも終わりなわけじゃない。
アオイのこともなだめつつ、ポケットからなんとか無事だった携帯電話を取り出して、三桁の数字をダイヤルした。海沿いだからもしかしたら繋がらないかなとも思ったし、実際にすこし時間がかかったけど、それでも出てくれた相手に百回くらいはお礼を言いたくなった。
「あの、きゅーきゅーお願いします……けが人が、三人、いるので」
- Re: すばる ( No.16 )
- 日時: 2020/10/17 15:43
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
田舎に住んでいてよかったなと思うこと、そのいち。外がうるさくない。
そのに。空気がきれい。
そのさん。治安はわりといい。
田舎に住んでいてやだなあと思うこと、そのいち。交通の便が悪い。
そのに。虫がうじゃうじゃいる。
そのさん。村八分的な慣習。
「うん、そんな感じだな」
最後に至っては本気で引っ越しと転職を考えたほどだ。犯罪者の家族というものは、それほど偏見に満ちた目で見られる。
けれど、どこに行ったって噂は広まるものだし、悪意や攻撃性や、歪んだ正義感にとり憑かれた人間は山ほど存在するわけで。だから僕は、平和よりも暮らしやすさを取ることにした。彼の罪状が罪状なので直接危害を加えられることもないのだ。やっぱり僕は、兄の不幸のおかげで幸せに生きながらえていた。
店長のお言葉に甘えて、あのレストランでも働きつづけている。客は若干減ったし、ときどき年寄りのクレーマーが僕をやめさせろと唾を吐きに来るけど、がたいのいい男性スタッフが毅然と相手をしにいけば大抵は尻尾を巻いて逃げていく。おもしろいくらいに。あ、田舎に住んでいてやだなあと思うこと、そのわん。じゃなくてよん。男女差別がけっこうひどい。
豆腐とわかめの味噌汁をすすりながら、朝七時のニュースに耳を傾けた。煽り運転の厳罰化が始まったという旨の原稿を、アナウンサーが読み上げている。
「やっと、かあ」
思うことならたくさんある。ありすぎて全然まとめられないから、テレビの画面を消して、朝食の残りを腹に収めることに集中する。
兄さんが搬送先の病院で自殺してから、一年と半年以上が過ぎた。アオイの母親以外を殺していた連続殺人事件の実行犯は、彼の携帯電話に残っていたわずかなメッセージのやり取りから判明し、案外あっさり逮捕されて一件落着となった。相手はSNSで知り合った人間で、じつは県外でも何人かやらかしていたらしい。被害者はすべて、兄さんと面識のある人物。ネットのニュースか何かで読んだけれど、それ以上細かいことは忘れてしまった。
加害者遺族とはいえ、なんの関係もない見知らぬ人間の死にいちいち胸を痛めていられるほど、優しい人間じゃない。そもそも僕だって殺害未遂の被害者なのである。必要があればひと様に頭も下げてきたが、本心はそれ以外の何物でもなかった。
兄さんの件に関する難しいことは、もうほとんど弁護士の人に任せることにしている。七年前の事故のとき、お世話になった先生だ。僕がこんな考えなのにも関わらず最善を尽くしてくれて、なんだか申し訳ないなと思う。それが仕事なのだといえばそれまでだけど。
午前七時四十五分。駅前の小さな噴水近くにあるベンチに荷物をおろして、待ち合わせの相手を待つ。思いのほか暇なので、噴水や近くを通りかかった野良猫たちなんかをマイカメラで写真に収めていたら、あっというまに時間が過ぎていた。
「……す、ばる、おまた、せ」
「全然待ってにゃいよー」
呼びかけられて、振り向く。スーツケースを転がすアオイが、ちょうど路線バスから降りてきたところだった。
「もう、撮っ、てる……あ、れ? あた、らしいの?」
「あー、今まで使ってたやつ、父さんのでさ。こっちは父さんからのプレゼントで、新しいほう」
「なるほ、どっ」
「あれより軽いよ」
「っお、おぉー」
大きさが変わったので、気がついたのだろう。手に持たせてみると、なぜか喜んでいる。
「じゃあ行こうか」
少しぎこちない動きで、アオイが頷いた。ベンチにまとめておいた荷物を背負い、改札に向かってゆっくり、彼女に合わせて歩いていく。
「た、のしみっ、だねえ。あまみ、おー、しま」
「うん」
きょうは、目的地についたら早めの夕ご飯を食べて、寝るだけになる。一般的なそれよりもゆったりとした旅だろうけど、僕もそれくらいがちょうどいい。
「高校のときの、榎本先生とハイビスカス。あれを超える一枚が撮りたいなぁ」
「で、き、るよ」
歩を止めて、アオイが確信に満ちた表情で言った。
……時々、ほんとうに時々、彼女の声を聞くのがつらいことがある。こんな風に、いろいろな気持ちをアオイが一生懸命に伝えてくれるとき。思い通りに言葉を発せず、もどかしそうな目をしているのが見ていて少しだけつらい。
軽度の吃音、緘動。諸々のストレスやショックがもたらした、あの誘拐事件の後遺症だ。幼少期、まったく話せなくなったことがあるらしく、そういう体質なのだろうと本人は言っていた。僕がいるから、またいつかふつうに話せるようになるだろうとも言っていた。後者の意味はよくわからないけれど。
「すぅくんなら、できるよ」
アオイは、二十一年の人生を、過去を経て。いま、幸せだろうか。どうかそうであってほしい。
目の前にある、やわらかい笑顔を見つめながら考える。
相手の感情なんて、思考なんて、わからなくて当たり前だ。ときには相手自身でもわからないことがあるかもしれない。ならば。
「ありがとう」
まずは僕自身が、いまこの瞬間の幸せをめいっぱい噛み締めることにしよう。
僕が幸せだと思いつづける限り、アオイもいっしょに幸せなのだ。きっと。
完