複雑・ファジー小説
- Re: すばる ( No.6 )
- 日時: 2020/10/17 02:24
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
お気に入りのブランコと大きなすべり台がせっちされている中央公園は、家からじてんしゃで二十分くらいのところにある。かぞくのだれにも負けないように早く家にかえって、かぞくのだれにも内緒で、ほうかごは毎日公園にあそびにいっていた。家の中はいごこちがわるいから。
小学校にあがって、お兄ちゃんはよく、ぼくを叩くようになった。お母さんはそもそもぼくを無視するし、お父さんも、お兄ちゃんをおこらない。でもお父さんは、ときどきひみつでおかしとかを買ってくれるから、すこし好きだ。
もうすぐやってくるゴールデンウィークに、お母さんとお兄ちゃんは二人だけでおばあちゃんの家に行くと言っていた。きょう、帰ってからのことを考えるとゆううつになるけど、ゴールデンウィークのことを考えればとても楽しい。何度でもすべり台にのぼれちゃう。
「お? めずらしいかおぶれ」
八回目をすべろうとしたとき、下の広場に、見なれない親子がいるのを見つけた。年少さんか、年長さんくらいの女の子と、そのお母さん(たぶんきっと)。女の子はなぜか地面にしゃがみこんでいて、お母さんはその子に話しかけているように見えた。
しゅーーーーーーーーっ、とすべりおりていって、ぼくは女の子に話しかけにいった。
「ねーねー、いっしょにあそぼーっ。ぼく、雨宮スバルっていうの。小学一年生。きみは?」
女の子は、もじもじしながら黙って目をおよがせていた。ぼくを見たり、お母さんを見たり、地面を見たり。いそがしそうに目玉を動かしている。口はつぐんだまま。
お母さんが、ごめんねえ、とやさしい声でぼくに言った。
「まだおしゃべりが難しいんだ」
「ふーん」
ようちえんの星組で、そんな子がいたなーと思い出した。コマ回しと鉄棒が、すごくとくいな男の子。
「この子は、相馬アオイ。年少さんよ。わたしはアオイのお母さんで、ミドリっていうの。よろしくね」
はいっ、よろしくおねがいします! とおじぎでもしようとしたら、アオイちゃんがいきなり立ち上がって、ぼくの手をひっぱって走り出した。
あんまり遠くにいかないでねー。ミドリさんの声が小さく聞こえたので、空いている手をあげて、へんじをしておいた。
「うおおおお、アオイちゃん、ブランコに乗るの?」
走りながら、大きくうなずく。こういう風にならおしゃべりできるのか。
「ブランコはにげないから、ゆっくり歩いてこう! ころんじゃあぶないでしょ」
あわてて言うと、アオイちゃんは急ブレーキをかけた。ぼくのほうが転びそうになってしまう。あぶないあぶない。
息を切らすぼくを見て、アオイちゃんが楽しそうにわらっている。さっき座っていたとき、なんだかかなしそうに見えたから、わらってくれたのがうれしかった。
◇
これは、彼ら三人の物語。
今夜限りで鮮明に彼のもとによみがえる、無かったことにされた、三人の記憶。
2.『ミドリ』
「スバルくん、いつもここで一人で遊んでたの?」
「うん。ときどきクラスの子とか、ようちえんのときの友達とかがいて、いっしょに遊ぶこともあるよ」
「そうなんだ」
夏休みが始まって、子どもたちもだんだん暑さになれてきた頃。
砂場でお城をつくるアオイを木陰のベンチから見守りながら、近くのコンビニで買ったアイス(二人分の容器を引っ張って外すやつ)をふたりで食べて、話していた。
アオイは歯にしみるのが嫌で食べないので、代わりに彼女の大好きなフルーツヨーグルトを選んだのだけど、心配になるくらいの速さであっという間に完食して、砂場に走っていってしまった。物心ついたときから食べるよりも遊んでいたいタイプだ。わたしもそうだった。
「アオイちゃんとミドリさんは、この公園にくるようになったの、最近だよね?」
「……うん。駅のほうに住んでるから、ここからはちょっと遠いの。前までは北公園によく行ってた。となりがアオイの幼稚園だから」
じゃあすみれ幼稚園かー、卒園してもいっしょに西小に通えないんだね、とスバルくんがさみしげに呟く。なんだか微笑ましいし、ありがたい。
「いつもの公園には知り合いがたくさんいて、息苦しくてね。アオイも同じ組の子は苦手だから、ここならいいかなあと思って、来てみたの。そしたら、スバルくんが声をかけてくれた」
大きな瞳で見上げてくる彼のやわらかい髪を、そっと撫でる。天使みたいな笑顔の子だと、あのとき、思ったっけ。
アオイがいてくれるから孤独を感じたことはないけれど。少しだけ、心細かったことは、不安だったことはたしかだ。
夫が病死してから、もう二年が過ぎる。見上げた深い青空には、あの日とそっくりな、高い高い入道雲が伸びていた。うだるような暑さと、近くの木々にとまる蝉たちの鳴き声が、時間感覚を狂わせそうだ。
精密検査で、脳幹近くに悪性腫瘍があるとわかったときには、もう手遅れで。ほとんど苦しめずに逝かせられたことだけが、不幸中の幸いだったと思う。
夫の死後、決意した。だれがなんと言おうとも、わたしの手で、娘のアオイを育て上げると。
けれども世間はそう甘くなかった。ただでさえ子持ちへの風当たりが強い会社に、シングルマザーの居場所なんてあるわけがなく。アオイがよく体調を崩すため、遅刻や早退、欠勤を繰り返していたところ、結果的に首を切られてしまったのだ。よく一年以上も持ちこたえたなと、部長には褒められたけど、半分以上嫌味だろう。
その後、もちろんすぐに次の就職先を探した。ざっと三十回は面接を受けに行ったが、結果は全滅。断られた理由も、ほぼすべて同じ。おまえにできることは何もない、何もするなとだれかから言われているような気がしてきて、一旦すべて諦めることにした。
思えば、葬儀のあとからなかなかアオイに構ってやれる暇がなかった。しばらくはゆっくり休もう。アオイのそばにいてあげよう。贅沢をしなければ、保険金と貯金を切り崩してやっていける。いまは、それがわたしの仕事なのだと、自分に言い聞かせつづけた。あの子の言葉が遅いのは、事実だ。でも夫が倒れてから、それまでできていた簡単な受け答えすらも難しくなってしまったのだ。
ストレスのせいだろうから、ケアを続けていけばきっとまた話せるようになる。そう医者は言っていたものの、もし一生このままだったらと考えると、不安で仕方ない。現に幼稚園ではほかの子どもたちからいやがらせを受けていると、担任の先生から聞いているし。
「パパがいないからふつうの子と違うんだ」「赤ちゃんみたーい」ひどいときは、そんなことをわたしの目の前で言われた。本人は当然言い返せないからストレスが溜まるし、わたしは彼らの保護者に開き直られたり、逆ギレされたりで散々だ。若い女だから舐められるのかもしれない。
…………もしあのとき、癌を患ったのが夫じゃなく、わたしだったら。夫じゃなく、わたしが死んでいたら。
こうは、ならなかったのかなあ。
そんなこと、スバルくんに話したって迷惑なだけなのに。
「ぼく、ふたりに会えてよかったよ。ミドリさんが生きててくれて、よかったなって思うよ」
あの日と同じ、天使みたいな笑顔で言うものだから。
「ご、ごめんなさいっ、アオイちゃんのお父さんが死んでよかったってわけじゃないんだ!」
「わかってるよ。ありがとうね、スバルくん。ほんとにありがとうね」
苦しくて、嬉しくて、涙が止まらなかった。
- Re: すばる ( No.7 )
- 日時: 2020/09/19 18:30
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
十月の半ば頃、広告のチラシやDMに混じって、二通の手紙が自宅に届いた。
ひとつは、スバルくんから。学校行事の関係で忙しいため、しばらく会えそうにないと書かれていた。何かあったときのためにと、念のため、住所なんかを教えておいたのだ。家族に知られたくないというので彼の連絡先は訊かないでおいた。いろいろと事情があるのだろう。
問題は、二通目。
ふたつとなりの県に住む母から、娘(彼女にとっての孫、つまりアオイ)のことについて話がある、近いうちに家へ行くという内容を長ったらしい前置きのあとに書かれた手紙だった。
母は、わたしが仕事をやめていることも知っている。アオイを引き取らせろと言うに違いない。こんな生活じゃ可哀想だとか、将来が心配だとか、一見まともな理由を並び立てて。
十一月の頭に母が来て、本当に同じようなことを深刻そうな顔をして語るものだから、おかしくて思わず笑ってしまった。もちろん真剣に聞けと怒られたけど「聞いてるから笑ってんのよ」父が本気でアオイを引き取ろうとしているから、その忠告と手助けになればというつもりらしい。この人に何ができるというのだろう、父にはいつもへこへこして逆らえないくせに。
「アオイの学校が冬休みになったら、お父さんも連れてくるから。ふたりでちゃんと話し合いなさい。いいわね?」
見送り先の駅で無責任な言葉を残して、母は改札をくぐっていく。当日はどこか旅行にでも行ってやり過ごそうかな。どうせ図々しくうちに泊まっていくつもりなのだろうし。南の島とかどうだろう、予約とれるかなー。
アオイは母の姿が消えるまで手を振りつづけていたけど、当の本人は振り返ってくれることも、もちろん手を振り返してくれることもなかった。本当は孫のことなんてどうでもいいんだろうな。世間体と自分自身を守りたいだけ。わたしが働き続けていたとしても、同じことだろう。
そんな両親と暮らすのが、関わるのがいやで、家を出ていったのに。呪縛はそう簡単に解けないものらしい。
どれほど抵抗したところで、この子が連れていかれてしまうのも、時間の問題なのかな。
「アオイ、帰る前にハンバーガー食べてこうか」
きのうから雨の降り続いている空を見上げながら、問いかける。
不安げな顔をしていたアオイが、だんだんと笑顔になって、水溜まりの上で跳ねだした。
「こらこら、お気に入りの長靴とスカートが汚れてもいいのかい」
その頭をわしわしと撫でる。彼女は照り焼きバーガーが大好きなのだ。
「あれ、スバルくん?」
一時間後、ふたりでアパートに戻ると、一階の角部屋のドア……つまりわたしたちの住む部屋のそばに、彼がぼんやりと座り込んでいた。とくに荷物はなく、髪も服もびしょ濡れで地面のコンクリートまで大きく染みている。傘を差してこなかったらしい。
「思ってたより、けっこー遠かったです」
「どうしたのよ、そんなに濡れて」
「……ふたりに会いたくなっちゃったんだ」
弱々しく、スバルくんが笑った。
それだけの理由で、ここまでするだろうか。わたしたちが帰ってこなかったらどうするつもりだ。
「はやく上がってシャワー浴びなさい。服が乾くまで、着替えも貸すから」
鍵を開け、彼のタオルと着替えを用意しに部屋へ入ろうとした、そのとき。
「すぅくん」
雨音に混じって、声がした。
「すぅくん、しゃむい、しゃむい」
「ははー、ほんとさむいよーアオイちゃ……ん?」
スバルくんの手を握りながら、アオイが喋ったのだ。二年ぶりに。
*
「アオイちゃんの声、はじめて聞いたよ。そうぞうしてたより高かった」
お腹いっぱいご飯も食べて、歩き疲れたせいか、となりで毛布にくるまって眠っているアオイの寝顔を見ながら、スバルくんが呟いた。両手でココアの入ったマグカップを持って、ときどきずずずっと啜る音が聞こえる。
「よほどスバルくんに会いたかったのかもねー、久しぶりだったから。わたしもびっくりしたわ。運動会と発表会と、夏休みに書いた作文の表彰式だっけ、どうだった?」
「無事におわったよ。発表会はかたづけをサボる子たちがいて、そのときだけだいらんとーだったけど」
大乱闘か。ブラザーがスマッシュしちゃうのか。それは大変だ、ふっふっふ。
夕飯を作るための前準備がひととおり終わったので、自分の紅茶を片手に彼のいるこたつの向かいに入った。そろそろ本題に入ろう。
「あらためて訊くけど、どうして傘も差さないで、いきなりうちに来たりしたの? 責めているわけじゃなくて、何かあったのなら聞かせてほしいの」
「……かぞくと、ケンカしちゃって。家を出たときはちゃんと傘も持ってたんだけど、ちょっとコンビニによったら傘立てからなくなっちゃったんだ。家には帰りづらいし、ミドリさんたちならアパートにいるかなって思って、それで、ここに」
「そう。おうちの人は、きょうはどうしてるのかな」
「お父さんはお仕事で、お母さんならいつも家にいるけど、ぼくとはあんまりお話ししてくれないから、その」
アオイが敏感なこともあって、子どもに対してはとくにやわらかい態度を意識しているが、思考や心の声がだだ漏れだっただろうか。気まずそうに目を泳がせるスバルくんの表情を見て、確信する。
夏休みの頃、彼には小学五年生の兄がいると聞いていた。母親に関しては虐待を受けている自覚がないらしく、同じようなことを以前から言っていたけれど、兄に関しては口をつぐむことが多かった。
「さっき痣を見ちゃったんだけどさ。ふだんから、お兄ちゃんに痛いことをされてるんじゃない?」
驚いたせいで、マグカップが勢いよく机のふちにぶつかって、中味がこぼれてしまった。
「わっ、ごめんなさい!」
「だいじょうぶ。ちょっとだし、布団にはかかってないでしょう?」
「うん」
「ごめんねえ、誘導尋問みたいなことしちゃって」
「ゆー、じん……?」
なんでもないよーっ、とにこにこ笑いながら近くに置いてあった布巾でココアを吸いとる。
シャワーを浴びようとしていたスバルくんに新しい着替えを持っていったとき。背中に、しかも肌着で隠れる場所にたくさん痣があるのを見つけてしまった。最近できたものであろう紫のものから、ずいぶん古い、消えかけの茶色いものまで。
鏡でも確認しづらいから、本人も気がついていないのかもしれない。今年は学校のプールも改修工事のせいで、一度も入れていないと言っていたし、友だちや先生が気づく機会もないのだろう。
布巾を洗ってからこたつに戻ると、彼はすでに残ったココアを飲み干していた。
「あのね、あなたのお兄ちゃんがしていることはもちろん、お母さんがしていることも本当はいけないことなんだよ。わたしたち大人は、そういう子どもたちを守ったり助けたりしなきゃいけないの」
「ミドリさん……」
「ん?」
「このこと、ふたりの秘密にしておいてくれませんか」
「どうして?」
「お兄ちゃんのことがばれたら、今度はお母さんまでぼくをなぐるかもしれない。そうなったら、じどーそーだんじょってとこに連れてかれちゃうんでしょう? お父さんとも離れなくちゃいけなくなるのは、いやだから」
父親は自分を殴らないし、無視もしない。だから父親だけは好きなのだと、彼は言う。わたしは両親とも嫌いだし、彼の気持ちを理解することは難しいけれど。ひとりだけでも家族に味方がいるのなら、もう少し様子を見てみてもいいかなと思った。
それに、彼は強い。この歳で、ここまで自分の考えを言語化できて意見もはっきり言えるのだから、いざというときは自分で助けを求められるだろう。
「わかった。でも、ほんとに危ないと思ったら通報する」
九年後、その判断を後悔することになるとは露知らず、わたしはスバルくんの要求を飲んでしまった。
「…………ねえ、ミドリさんも、何かあったの?」
- Re: すばる ( No.8 )
- 日時: 2020/09/20 18:37
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
わたしばかり彼の事情を聞き出しておいて、自分ははぐらかすのもおかしいと思ったので、一連の出来事を素直に説明した。ちょうどアオイは眠っているし、幼稚園のママ友と違って、だれかに言いふらされる心配もないから。
「へー、おばあちゃんが……」
「アオイはきっと嫌がるだろうし、わたしもあの人たちにアオイを預けるのは嫌だけど、あの家なら経済的な幸福は約束される。学校は私立にも通えるし、この子の好きなピアノや水泳もいい環境できちんと学ばせられる。可能性を広げられる。将来のことを考えると、頭ごなしに否定するのも気が引けるんだよねえ。どうするべきかなあ」
机に頭を乗せ、壁の時計を見上げる。もうすぐ三時になるころだった。
この秋になって初めてつけた暖房の音に耳を澄ませながら、目を閉じる。不意に、以前の職場での、お局からの理不尽な扱いや、上司からセクハラを受けていた日々を思い出して寒気がした。大丈夫、ここには自分を傷つける人間はいない、彼らの悪意はもう届かない。言いきかせて、静かに深呼吸する。
お局様は、過去に五年以上不妊治療を続けたが子どもを授かることができず、諦めたあとに夫側に原因があると判明した。それがきっかけで離婚したらしい。同僚から聞いたことがある。
あの会社の息苦しさを作っている一因であり、一員であると、だれもが気づいていたのだろう。
表面ばかり見て、子どものいる家庭がすべて幸せに思えるのかもしれない。働く母親が楽をしているように感じるのかもしれない。彼女の言動を見ているとそれがひしひしと伝わってくる。どんな背景があろうと、そんなものは身勝手なひがみだ。
子を産むことだけが母親の役割や責任でもないし、育児や教育も、母親ひとりでするものじゃない。父親はもちろん、本来なら地域や社会もいっしょにするものだ。あの人にも、あの会社の人たちにも、面接で落ちた企業にも、わたしたちの気持ちはきっと理解できない。思い出すだけ無駄だ。
アオイにも、スバルくんにも、こんな思いはさせたくないなあ。
十年後、二十年後三十年後、社会はすこしでも明るいほうへ向かっているだろうか。そうすることを諦めてしまったわたしが言えることじゃないけど。
「どっちが幸せかなんて、アオイちゃんが大きくなってから決めることじゃないのかなあ」
わたしだってそう思う。
「お金はだれでも稼げるかもしれないけど、ミドリさんと暮らす幸せは、ミドリさんにしか作れないし」
わたしだって、そう思う。
「ミドリさんは、どうしたい?」
未来が、わかればいいのにねえ。
◇
「ありがとうミドリさん。いろいろ良くしてもらって」
すっかり服が乾いて、ぼくもべつに家出をするつもりでもなかったので、ミドリさんが家の近くに車で送ってくれた。玄関まですこし距離があるので、使っていないビニール傘(幸運にも、家から持ち出したものとよく似ていた)をちょうだいして、歩いていくことにする。へんきゃくふよーだと言われた。
「まあ、暇ですから。でも今度からはなるべく携帯に電話してね」
「はぁい」
「いい返事だっ」
わしわし、と頭をなでられる。
「アオイちゃんも、ばいばい。明日からは公園に行けるからね」
「うんー」
じゃあねーと手を振り合って、ドアを閉めた。
さっきより強くなっている雨の中、ふたりの乗る車を見送ってから、来た道を引き返していく。お兄ちゃんは今ごろ中学受験のための家庭教師の先生が来ているから、部屋で机に向かっているだろうけど。見つかりにくいように念のため、わざと家を通りすぎたところで降ろしてもらったのだ。傘、もらっておいてよかったな。
ぼくは帰ったら何をしよう。国語の教科書のつづきを読もうかな。
学校に通うようになるまで勉強っていうものがこんなにおもしろいなんて思わなかった。知らないことをどんどん知られる。とくに漢字が書けるようになるのがおもしろくて、入賞した作文のごほうびでこの前、こっそりお父さんに上の学年の練習帳を買ってもらった。こんどは二年生の計算問題集もお願いしよう。塾にいくのはお母さんのきょかがいるし、お金もたくさんかかるから。
最近学校でもはやっているアニメのオープニング曲をちいさく口ずさみながら玄関にあがって、手を洗ってからぼくの部屋がある二階まで階段をかけのぼった。
ぼくの部屋があるということはつまり、お兄ちゃんの部屋もあるということで。
「さっきの車、だれ」
ドアを開けようとしたとき、うす暗い、廊下のおくの窓際でたそがれていたお兄ちゃんが、きいてきた。ぼくは振り向いて初めてそれに気がついたものだから、ぎょっとしてしまう。
「お友だちの、お母さんに会ったから、送ってもらったの」
「……ふぅん」
「か、家庭教師の先生は?」
「来てねえよ。途中で事故渋滞に引っかかったんだってー」
目を細めてへらへら笑いながら、お兄ちゃんはすぐそばの自分の部屋へもどっていった。
ぼくも部屋に帰って、カギをかけてから、やっと手が震えていることに気がついた。
- Re: すばる ( No.9 )
- 日時: 2020/09/21 13:52
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
クリスマスの日の朝、枕元にサンタクロースが来てくれた痕跡はなかった。お兄ちゃんはちょうど今月発売された新しいゲーム機とソフトをもらったらしく、早速一階のリビングで、ぼくに見せびらかすように遊んでいる。
サンタなんているわけねーだろ、と、去年のいまごろ、お兄ちゃんに言われた。その日から、ぼくのサンタさんは跡形もなくいなくなってしまった。
◇
『もしもぉし、みーちゃん? ミドリ? あたしあたしー』
「オレオレ詐欺の女版? 今どき流行んないでしょう」
『そんなことないって。あたしのお母さん、つい最近引っかかったばっかでさー。ワタシハダイジョーブヨーとか言ってたくせしてー』
「全然似てない」
『まじで? あっははは!』
楽しそうな笑い声が聞こえてくる。父の兄の娘、つまりはわたしのいとこであるなーちゃん……ナナミから、携帯に電話がかかってきたのだ。相変わらずなようで、何よりである。
「で、結局おばさんは振り込んじゃったの?」
肩と耳で携帯を挟みつつ、とりこんだ洗濯物を畳みながらたずねた。スピーカーホンにしようかとも思ったのだが、隣ではアオイが自分の服を畳んでくれていた。相手が何の用でかけてきたのかまだわからない以上、気を遣いたくもなるのだ。
『ギリギリセーフ、黙って銀行にいこうとしてたとこを、息子ちゃんたちがとめてくれて理由を聞き出したのっ! もーっ、ちょーデキる子達ぃ!』
「それはよかったじゃない」
『ほんとよー! 危うく二百万飛んでくとこだったんだから! それに比べたら、警察への付き添いくらいなんてことないわぁ』
さっきからわたしがクスクスと笑っているので、アオイは不思議そうにこちらを見上げてきていた。
『ってー、そんなことはどーでもよしこちゃんなわけー』
「だから古いって。それで、なにか話でもあるの?」
『あーん、今から言おうとしてたのに』
畳み終えた洗濯物を、タンスの中に詰めていく。
冬服は量のわりにかさばるから若干面倒だ。今年はニットを買わないようにしないと。
『きょうねー、その息子ちゃんたちを、叔父さんのとこに押し付けてきたのー!』
「えっ?!」
しかも、伯母さんを詐欺から救ったご褒美だと称して行かせたらしい。いいんだろうか。いろいろといいんだろうか。
予想外だ、やけにうしろが静かだなあとは思っていたけど。
『風のたよりがびゅんびゅん吹いてくるわけ。叔父さんとこ、無理やりアオイちゃん連れてこようとしてるんでしょー?』
「あぁぁあ、そうなの。もう、恥ずかしい……」
風の便りと言うより、本人たちが言いふらした結果だろうな、それは。
『これまで援助してくれてたわけでもないくせにねえ。あたし的には許せないからさー、そんなに暇なら三ヶ日までこいつらの面倒見てちょんまげ! って三人とも送りこんだわけ。たぶん今ごろお父さんに説教されてるよ、あの人たち。タブルパンチでさすがに懲りるでしょ。くらえ、長男パワー! がははは』
もはや清々しい。父親だから、夫だからと偉そうにする父は、兄である伯父さんや姪のなーちゃんには頭が上がらないなんて、おもしろい皮肉だ。
もう亡くなってしまった祖父もそんな人だった記憶がある。父と伯父さんは、違うものを食べて育ったのだろうか。おばあちゃんに訊いておけばよかったな。…………冗談だ、もちろん。
「二人とも、ありがとう。子どもたちもね」
『いーってことよ。おとんもあたしも、みーちゃんのこと大好きだから。もう、どーしてあたしに相談してくれなかったかなぁ』
「ごめん」
『頼人さん亡くなったときもそうだったでしょ。親がたよれないなら、あたしら使ってくれて全然いいのに。さみしーぞ、みーちゃん』
「ありがと、なーちゃん。でも、旦那さんと伯母さんに申し訳ないからさ。うちの両親に関わらせるの」
『そーお? じゃ、とりあえずはいつも通り、野菜とかお米とか送る程度に留めとくわぁ』
「ありがとう、ほんとに」
今度みーちゃんち遊びにいくねー、あ、もちろんひとりでだよっ。明るい声で言い残して、電話は切れた。今度、使ってる洗濯洗剤を聞き出して、たくさん買って送ってあげよう。
「アオイ」
腰を下ろして、呼んだ彼女の瞳が、じっとわたしの顔を見つめてくる。
ちょうど畳み終えた自分の服を抱えて、こちらに運んでくるところだった。
「おばあちゃんのところ、行かないで済みそう」
「ほんと?」
「うん」
「おかしゃんずっといっしょ?」
「うんっ」
文字通り、ぱあっと輝くような笑顔で、アオイが抱きついてきた。わたしはどんな顔をしていただろう。
久方ぶりの、クリスマスプレゼントをもらってしまった。
- Re: すばる ( No.10 )
- 日時: 2020/09/22 15:03
- 名前: 厳島やよい (ID: l/xDenkt)
占いとかおみくじとか、あんまり信じるタイプじゃないけれど、今年になって気まぐれで引いてみた近所の神社でのおみくじは、生まれて初めての大吉で。その後再開した就職活動もとんとん拍子で進んだものだから、このままだと信じてしまいそうだ。
大晦日の夜、母から電話がかかってきて、アオイを引き取る件は見送ることにすると言われた。なーちゃんや伯父さんのことは何も言っていなかったけど、疲労を帯びた声色や、うしろから聞こえてきた子どもたちの笑い声ですべて察することができた。もう彼らのことで心配する必要はないだろう。
シングル家庭に理解のある新しい職場も決まって、とりあえずはふたりで生きていけそうだ。
静かに、新しい人生が始まろうとしていた。
「そっかー、よかったね、ふたりとも」
アオイは肉まん、わたしはカレーまん、スバルくんは餡まんを。雲ひとつない晴れた空の下、中央公園のベンチで並んで食べながら、いつものように話した。
「スバルくん、この九ヶ月間、ありがとうございました」
「いえいえこちらこそ」
頭を下げあうわたしたちを見て、アオイがおかしそうに笑う。かわいい。
「明日からお仕事が始まるんだ。週末とかお休みのときは、またこうやって一緒に遊べるといいんだけどねえ。どうかな、わたしの体力次第かも」
こうしてすこしは身体を動かす機会があったとはいえ、どこまで自分が鈍ってしまっているか、正直想像がつかない。彼らには申し訳ないが、あくまでもしばらくは仕事優先だ。
「いろいろと、ちょっとは不安だけど、頑張るから」
だれに言うでもなく、呟いていた。もしかしたら、天国にいるだれかさんかもしれない。
亡くなる前、彼は、将来べつの人といっしょになってほしいと言ってくれた。幸せでいてほしいからと。でも、わたしは結婚を幸福と結びつけて考えているわけじゃないし、何より本当は、まだまだ夫のことについて、ひとつの思い出としてきちんと整理をつけることもできていない。アオイの意思とかいう以前の問題なのに、こんな状態でほかの男性と向き合うことは不可能だ。すくなくとも、わたしにとっては。
整理、どうやったらつくだろう。もしかしたら一生つかないかもしれない。だれかと一緒になるにしろ未婚を貫くにしろ、この状態でいればわたし自身がつらいだけだ。悩みはそれ自体の重さより、抱えている時間の長さのほうがストレスになるんだって、昔、なーちゃんも言っていたっけ。
「あのね、ミドリさん」
食べ終わった餡まんの袋をたたみながら、彼が口を開いた。
スバルくんならなんて言うだろう。
これまで、わたしのしょうもない話をたくさん聞いてくれたスバルくんだったら、なんて言うんだろう。
「ぼく、ミドリさんを守れるようになる。大きくなったら、ミドリさんと、」
そのつづきを、聞いてしまう前に。
見たことのない高学年くらいの男の子が、突然どこかからやって来てわたしを突き飛ばし、スバルくんの腕を物凄い力で引いていった。
ベンチから落ちてしまったわたしは、相当な混乱と腰の痛みで、すぐには起き上がれなかった。
「おかしゃん、すぅくん!」
アオイの叫ぶ声に、一瞬、その男の子が振り向く。
毛糸の帽子をかぶっていたから、はっきりとは見えなかったけれど。わたしたちを睨む目元が、スバルくんによく似ていた。
たぶん、あれが彼の兄の、チカくんだ。
◇
「おにい、ちゃ、はなして!」
二人のいるところからずいぶん離れた、ぼくの自転車のとめてある駐輪場まで、彼は手を離してくれなかった。
乱暴に放り投げられて、アスファルトの上に転んでしまう。やわらかいジャンパーを着ていたからそんなに痛くはなかったけど、びっくりした。この一年で、すごく力が強くなったことに気がついたから。
「おまえ、もう二度とここに来るな」
「どうしてっ」
「殴る」
「お兄ちゃんに関係ないでしょ」
生意気だと、思われたのかもしれない。早速ほっぺをグーで殴られた。いひゃい。
「じゃあ、あいつらを殴ってやるよ。とくにおまえのだぁいすきなミドリとかいうババア、ボコボコにしたら面白いかなあ!」
いつものように、へらへらと笑った。
「おまえにはなーんにもできないんだよ。俺より馬鹿だし、力もないし、母さんにも嫌われてるくせに。俺に関係ないだと? ふざけんなよクソが。黙って俺の言いなりになってろ」
近くに置いてあった彼の自転車にまたがって、お兄ちゃんは吐き捨てるように言った。なんかもうめちゃくちゃだ。
でも、ふたりに迷惑はかけたくない。ぼくはお兄ちゃんの言うとおりに、自転車に乗って帰ることにした。
ミドリさんも、アオイちゃんも、頑張って前に進んでいるのに。ぼくは何も変わっていなくて、なんだか情けなかった。さっきミドリさんに言おうとしたことが、すごく恥ずかしい。
次の日から、公園にはいかなくなった。
◇