複雑・ファジー小説

Re: シナリオの人生 -短編小説集- ( No.1 )
日時: 2020/11/13 23:07
名前: もっちもち (ID: 9nPJoUDa)

「シナリオの人生」

 私が中学三年の頃、父は山奥の民間病院の病室で息を引き取った。死因は持病の肝炎、合併症の肝臓ガンによるものだった。二十三時、夜であった。
その前日の晩、父と私の担任は私の受験について話し、「また、相談があれば来ます。彼なら第一志望行けます。」と父の血の付いた手に触れ、固く握手を交わした後、病室を去った。
私は驚いた。昨日は元気に楽しげに話していた父は、今、私と母の手を強く握った後、逝ったのだ。だがすぐにそれは受け入れられた。何か心が落ち着くものを感じた。それに疑問は感じなかった。
それも父が入院し、緩和ケアを受け始めてから、ここの院長の言った言葉により沸き起こった感情だと理解した。
「この状態が改善できません。もう命に関わります。」と私達に告げた。彼は私に、辛いものだろう、と同情したが、それも事実であって決まった事なら受け入れる以外ない。と返答し、泣かなかった。
父の死から少しして、朝を迎えた。通夜を行い、大変だろうからと母方の両親が手伝いに来てくれていた。通夜の間、私は泣く事はなかった。
 
 私のこの冷静さはある意味消極的なものだろう。その心理の最奥の原因は、未来だ。時間には未来過去と分かれ、常に進み止まらない。希望ある未来、「未来は変えられる」と世間は言い続け、明るく見せた。
 だが私は違った。運命や未来など変えられるものではない。すべて神、その他第三者によって書かれた――――いやそれであっても未来であり、行動である。‥‥言い換えよう、それは暑ければ氷は溶け、その雫が垂れるように、必然的であり自然的な「現象」。何者も介入できない領域での出来事。私は中学三年にして大人びたものであった。このような心理を抱く子供はいなかっただろう。だがそれは苦しい、辛いと言ったマイナスなものではない。この私が気づいた、新領域の、かつ自然的な「現象」の総称。「未来シナリオ」と言えようか。如何なる人物、生物はこの世で「未来シナリオ」によってすでに、その生き様や経験、生死のタイミングでさえも定められている。そしてそのレールに乗って、我々は生きている。
 生きていると言ってもただ「存在」しているだけだ。すべてに於いて未来シナリオが定まっているのだから、身の回りに起こる全てはシナリオ通りである。ただただ誰も、そのシナリオ冊子を覗けないだけで。
 この理論からすると、父が中学三年の十一月の、二十三時に死んだこともシナリオであり、私がどれだけ注意しても、シナリオによって定まるのであれば、その死を回避するアイデアも絶対に生まれない。「シナリオ」に書いていない事は絶対に起きない。
 これは私を勇気づけ、かつ、無気力にもした。「勇気」ではなかった。それは「精神の安楽」だ。先程、私の冷静さは消極的なものだろうと言った。ああ、そうだ。もし目の前に、時に追われ困窮する人があれば、「今なら間に合う。だから行動を起こせ」と綺麗事を述べられたなら、私がそれを述べる立場であるなら、恐らく建前の言葉であるか、若しくは「あなたの行動はシナリオによって管理され、如何なる挑戦も、結果もシナリオ通りである」と言い告げるだろう。
 とても消極的な意見である。世間はそう思うだろう。この理論で人生を歩めば、自分のしている事は、どのように努力しても結果はすでに決まっているのだろう、ならば努力しても「無駄」。こう言った不安の芽を植え付ける事になる。同時に「努力しないこと」に対する精神的な安楽も抱ける。自身に降りかかる全ては「自業自得」ではなく「すでに決まった事」で片付けられ、心の中では赦されたような感情になるからだ。
 アニメの中でも「未来を変える」と言う、まぁ身近なものであればタイムスリップのできる装置があって、もし父の死を防いでも、きっとその出来事も「シナリオ」通りであろう。「○○がいついつにタイムスリップ」すると言う第三者視点であらわせる時点で、それはシナリオ化している‥‥。
 そんな事を考え悩み、ついに受験を終えた。―――合格した。‥‥だがこのようにシナリオを理解してしまった私には「喜び」を感じる事が出来なくなってしまった。もし喜んだとしても「シナリオ」に気づいてしまってすぐに冷める。
もしどれだけ努力した事に満足するか、または努力しなかったことに後悔しても本人次第でなく、第三者。とても消極的。この高校のどの学科に受かっても、落ちてもシナリオだ。このシナリオは結果として、私を無感情にさせた。
 いずれ私はシナリオ通りの死に方をして、シナリオ通りの感情を抱きながら永遠の眠りにつくだろう。それは避けられないのだ。―――――静かな死だ。