複雑・ファジー小説

Re: 死にたいなら命を下さい。 ( No.2 )
日時: 2021/01/22 09:03
名前: むう (ID: mkn9uRs/)

 【第1夜:水溜まりに呑まれて 001】

 きっかけは二日前の放課後。
 帰り支度をしていた僕に、ある少女が話しかけて来たのが全ての始まりだった。

「……水野みなの、ちょっといい?」
黒瀬くろせ


 僕は声の主に対し、わずかに高いトーンで彼女の名字を呟いた。
 いきなり話しかけられて少しばかり動揺もしていたが、元々表情が顔に出にくい性質たちなので、自分がどれほど驚いたかということはあまり傍からは分からないはずだ。

 黒瀬灯くろせあかり。彼女はクラスの中で悪い意味で目立っていた。
 減らない暴言、消えないいじめ。
 まだ15歳である少女の手足は、重たい鎖でつながっていた。

 何がクラスメートの癪に障るのかは分からない。
 そのせいでいつも黒瀬は片足だけスリッパを履き、むっつりしながら、誰とも会話を交わすことなく僕の隣の席に座るのだった。


 いじめというカテゴリーに対して、僕は少しは嫌悪感を抱くことはある。
 しかしいじめっ子に向かって怒鳴りつけたり、いじめられている子に優しい言葉をかけたいとは思わない。

 嫌、本音を言えば僕でいいなら力になりたいと思っている。
 だが自分の職業柄、暗くて重いテーマには慣れっこになっているのだ。
 本来ならば慣れてはいけないし、決して許される事ではないのだけれど、僕は何の関心も抱かない。所詮自分はこの手の件で一番厄介な、「傍観者」だった。



「……何の用? 黒瀬から声をかけてくるなんて初めてだね」
「あんただって、いつもは誰とも話さないじゃん」
「……まあ、そうだね」


 その日も今日のように小雨が降っていて、普段校庭で部活をする運動部の部員の退屈そうな声がどの教室にも響いていた。僕は机の引き出しから教科書を取り出しながら、黒瀬に話の続きを促す。


「それで、何の用」
「………死神」



 ピクリと僕の眉が動いたこと、黒瀬は分かっただろうか。
 肝を冷やしながら、教科書をカバンに入れ終え、いかにも終わった終わったという雰囲気をつくりながら、何てことないような調子で聞き返す。


「死神?」
「風の噂で聞いたんだけど、水野が『死神』なんでしょ?」


 なるほど。
 彼女がどこでその噂を聞いたのかは知らないが、簡単な話、新しいお客様というわけだ。
 黒瀬は半信半疑と言った様子で、上目遣いで僕を睨む。微かに両手足を震わせて。



「そうだよ、僕は死神だ」
「…………死にたい人をあの世に送ってくれるって言う、まるで人殺しの職業……」
「………否定はしないよ」


 死にたい理由は人それぞれだ。職場関係、いじめ、家族関係、病気、心理状態など。
 そして自ら死を選ぶのも人それぞれだ。僕は誰もかもを殺そうとしているのではない。
 あくまでも契約から三日間の猶予を与えたうえで、心変わりがない場合そいつを殺す。



「じゃあさ。私を死なせることって出来る?」
「……ちょっと落ち着こうよ。よく考えて。君が死んだら悲しむ人がいるんじゃないの」


 そう言うと黒瀬は目を吊り上げて、叱られた後の子供のように口を尖らせた。


「あんた、この状況でそれ言う? 皆が私を虐めてんのに、今更死んだところで何ともないわよ」
「親御さんは」
「……パパとママも喧嘩に夢中で娘のことなんか眼中にないよ」


 二人で渡り廊下を歩きながら、そんな言葉を交わした。
 したいことがあるんじゃないの? ――したいことなんてない。
 心残りがあって、未練が残るかもしれないよ。――いい。別に。
 もし君を殺したら僕は殺人犯になるよ。――そうだね。


 どの応えにおいても、彼女は無気力で、現実のことなど頭にないというふうだった。
 瞳の輝きがなく、一向に笑わず、僕が手を差し出しても首を振るばかりだ。
 こういう子供を、自分はあと何回見ることになるのだろうか。




「……仕方ない。それが君の願いならどうこう言うつもりはないよ。はい、これ契約書ね。
 指名書いて、下の所にサインしたら契約完了。
 三日までは取り消せるけど、その後は強制的にチェックメイト」

「いいよ別に。元から生きようなんて思ってないし」



 通学カバンから白いファイルを取り出し、挟まっていた契約書を渡すと、何の躊躇もなく少女は使命を書き始める。僕はなぜか、そんな彼女の行動に足を止めてしまった。昔も今も、僕はただ淡々と役割をこなしていった。死神という仕事に感情は必要ない。



 でも。
 なぜか初めて、僕は目の前の彼女を死の運命から救いたいと、そう思ったのだ。
 理由なんてない。何故かはわからない。他人の死など、どうでもよかったはずなのに。





「………ねえ黒瀬」
「なに?」


 契約書をこちらに向け、黒瀬は目を伏せて水たまりの水を足で蹴飛ばした。目の前を、同じ学校の生徒が数人群がって走って行く。ひどく楽しそうで、死への関心がない純粋な表情をして。



「三日間あるよ。その三日間は、僕と一緒に過ごさない?」
「……あんた、死神でしょ」
「確かに僕は死神だけど、なにも全ての人を殺してしまおうとは思っていない。
 あくまでその人の意思を尊重してるんだよ。だからさ」



 三日間、三日間で片がつく可能性はかなり低い。
 それでも君の生きようとする意志を手助けしたいんだ。
 もちろん、それが無駄だったって、生きても何の意味もなかったって言うならまた僕を呼べばいい。どちらにしよ三日後には全てが決まっている。じっくり考えてくれればいいよ。




「…………まぁ、いいけど。水野も友達いないもんね」
「……作らないんだよ。その友達が死神と契約したらまずいだろ」
「そりゃそうだね」