複雑・ファジー小説
- Re: 月をみていない ( No.1 )
- 日時: 2021/09/01 02:39
- 名前: 三森電池 (ID: bOxz4n6K)
一 惑星のかけら
煙草の煙があまりにも幸せそうにくるくる回って空へ登っていくものだから、明日は生きてみることにした。
世田谷区、おんぼろアパート二〇五号室、人間三人撃沈中。久しぶりに集まったこともあり、近況語りにボードゲームにと騒いでいるうちに日付はとっくに超えてしまい、現在時刻は午前三時にさしかかろうとしていた。こりゃあ明日の二限も怪しい。諦めた方が賢明、自明の理。
「羊山にまた怒られるんじゃないの」
パタパタと鳴る便所スリッパの音と共に、落合がやってくる。彼は煙草もライターも持っていないくせに、このアパートにおける喫煙所である、自転車置き場に降りてきた。私の分をたかろうとしているんだろう、セブンスターを一本引き抜いて、ジッポライターと共に渡す。背丈がそう変わらない私たちは、銘柄もそう変わらない。夜の青に、薄い灰色が滲みだした。
「気が利くじゃん」
ありがとうの一言くらい言えばいいのに、と思うが、恐らく彼は「ありがたい」なんて一ミリも思っていないだろう。夜空には煙がふたつ。落合はゆっくりしゃがみこんで、シャボン玉を飛ばすようにふーっと吐き出す。二〇五は古いレコードがガンガン流れ、テレビはお笑い芸人の地方ロケDVDが延々と放送され、それは時々ミスチルのライブになって、誰かが持ち込んだインドの怪しいお香は炊かれていて、の無法地帯。そこから逃れた静寂の地は、夏だけど少し冷たい夜の中。……耳をすませばあの部屋のガンガンが、聞こえてこないこともないけれど、自転車置き場は酔いをさますにはちょうどよかった。
おんぼろアパートこと、羊山荘。世田谷線沿い、築五十年。一階に誰かが居るところは見たことがない。住んでいるのは、地方から上京してきて、この辺の同じ大学に通う大学生四人と、大家の息子を名乗る羊山という男のみ。風呂なし、トイレ共同、家賃三・五万。もちろん喫煙不可。いちいち自転車置き場に集まっては、煙も愚痴も痰も吐く、二階建て。
田舎では当たり前のご近所付き合いが東京では殆ど無いと言うのは有名な話で、マンションの隣の部屋の人と鉢合わせても挨拶さえしない、というのが都会のルールだと思っていた。しかし大家の息子を名乗る羊山がまた変わった男で、二〇一から二〇四までの全部屋を大学生が借りていることを知ると、「上京おめでとうパーティーだ」とか言って、四人を空き部屋である二〇五号室に集めた。
通っている大学は同じだけど、学部も性別もサークルも違う私たちは、最初こそ迷惑だな、と思っていた。羊山だけが「自分は上京してきた時、とても孤独を感じ、ホームシックのあまり三日目で実家に帰った事がある」など、「せっかくこんなボロアパートに大学生が入居してくれたんだ、仲良くなりたい」など、そういう感じの話をひとりでずっとしていて、無理やり集められた私たちは狭い部屋の中で、簡素なテーブルに置かれた柿ピーを気まずい空気で齧るだけ、だったけど。一ヶ月、二ヶ月、そして一年が経つ頃には、「フリールーム」と化した二〇五に、入居者たちが代わる代わる訪れては、酒を飲んだりゲームをしたりするようになった。
「それにしても、今日は潰れなかったのな」
「うん、なんか考え事してたらあんま酔えなかった」
「……就活とか?」
「そろそろ、そういうのだよなぁ」
そういうのだよなぁ、って物凄く他人事みたいな言い方。隣の落合もあまりにも適当な私に返す言葉すら不必要だと感じたのか、何も言わなかった。初夏の暑さでおでこに張り付いていた前髪が、ひゅう、と夜風に吹かれて跳ね上がる。
羊山荘の入居者は私、落合、一倉、赤川。そして時々、気まぐれで二〇五に来る羊山。今日はこの五人が揃ってしまったせいで、平日のくせに大騒ぎ。このアパートは大学生をダメにする、羊山はとんでもない悪人だ、と落合がいつか言っていた通り。でも、それぞれ地方から東京に出てきて、周りに頼れる人も居ないまま一人暮らしを始めるのは、私も含めみんなも不安だっただろうし、特に小中高と目立たないグループのさらに端っこに居た、友達の少ない私はこのコミュニティにかなり助けられていた。もっとも、東京に住み始めて一年にもなると、同じ学部とか、サークルとか、バイト先とか、外にも関係は広がり出す。でも私は、どこにもいまいち馴染みきれず、誰にも心を開けなかった。
羊山荘は、私にとってけっこう大事な場所なのかもしれない、と思ってしまうまで、さほど時間はかからなかった。
ほかの四人は知らない。こんなオンボロアパート早く出ていきたいって思っているかもしれないし、いつまでもこうやって人生の夏休みを遊んでいられる訳でもないし。
「まあ、ぼちぼち将来とか、考える時よなぁ」
だぼだぼのバンドTシャツを着た落合が、ぽつりと呟いた。
彼は私と違って、人付き合いが上手いタイプだ。先輩にも後輩にも気に入られやすい。相手の懐に入って可愛がられるのがとことん上手なのだ。生きやすそうでいいな、と常々思う。本人はあっけらかんとしているけれど、単位もほぼフルで取ってるみたいだし、貯金だってそれなりにあるらしい。身軽な体で、うまく東京を生きている。
私は、ここで煙草の煙を輪っかにして吐き出すことに失敗しながら、今年の夏休みの何日くらいに死のうかな、と思っていた。
- Re: 月をみていない ( No.2 )
- 日時: 2021/09/01 21:33
- 名前: 三森電池 (ID: bOxz4n6K)
吸い終わった煙草の死骸を地面に落とし、便所スリッパで踏みつぶす。火はじんわりと消え、最後の煙が息絶えた魂みたいに目の前を掠めた。夜の濃青に灯っていた小さな赤が消える。
死んだらこんな感じなのかな、と思う。
ゲームでよくあるような、しに状態のキャラクターが体からふわふわと魂を飛ばし、消えていくやつ。ゲームはリセットすれば生き返るが、現実はそうでない。この煙草みたいに、じりじりと命の残り時間を削り取られて、根元まで味わったら炎を消してさようなら。儚いし、虚しい。
落合は急に黙った私には見向きもせずに、スマホを取り出して弄っている。別に画面を覗き込むつもりは無かったが、暗い自転車置き場の中で光がつくとそっちに目がいってしまうのは当然みたいなもので。ちらっと見えた画面はLINEで、落合は片手でタップしながら何件か溜まっていた連絡を、「了解」とか「その日は無理」とか、淡白な文で返していた。
「私、部屋に戻る」
煙草を吸ったら、もうここに用はない。立ち上がってライターをポケットに放り込む。落合も私と話したいことは無いらしく、画面を見たままこくりと頷いた。長い前髪のせいで、表情はなにも見えなかった。そのきのこみたいな、バンドマンみたいな髪型、やめたらいいのに。
水色の塗装が剥げて、悲惨なことになっている階段を登る。きしきしと嫌な金属音が夜に響き、今にも崩れ落ちてしまいそうだが、私にしてはもうそんなものは慣れっこで、早く自室で眠りにつきたかった。二〇五の後始末は落合に任せるとして、別のポケットから古錆びた鍵を取り出す。
私の部屋は二〇一。もちろんオートロックなど付いていない。田舎の両親の反対を押し切っての上京だったので、仕送りも乏しいし大半の生活費は自分で払うことになっている。そうなれば、住む場所の家賃は安ければ安いほど良い。一人娘をこんなところに住まわせるなんて、とは思うが、自分で決めた人生なので仕方がない。私はとにかく、あの閉鎖的な田舎には居たくなかった。
あー、自分の部屋。二〇五と同じくらい散らかっているが、片付ける元気もないし、どうでもいい。山積みになった小説、布団の隣に置いてある元彼から貰ったぬいぐるみ、どれもこれも捨てられないのだ。さて、二日酔いが悪化しないためにも、余計なことはせずに寝るか、とつけたばかりの電気を消す。そしてバイト代で買った、高円寺の雑貨屋で投げ売りされていたお気に入りのランプにスイッチを入れる。布団の下から日記帳を取り出して、死にかけの蛍のようにぼんやりとした光の中、日課である「遺書の更新」をしようと思った。
私は死のうと思っている。できれば、今年の夏休みには。
物心ついた時から漠然とあった希死念慮は、成長していくにつれて肥大化し、私の中で制御が効かなくなっていた。首吊り自殺を決行しようとして失敗した日、母は泣きながらボロボロの私を抱きしめてくれたが、お母さんがそんなに悲しい思いをするのなら、そうやって泣くくらいなら、最初から私なんて産まなきゃ良かったのにな、と考えていた。まるで他人事だ。
通院して貰える薬は付け焼き刃に過ぎず、悪化する不眠と、眠れない夜に決まって訪れる希死念慮。死んだらこの頭痛から開放されるのだろうか、と頭はぐるぐる広い宇宙を回る。記憶は制服を着ていた学生時代まで遡る。卒業文集で、将来の夢を書く欄に困った。おそらく将来なんてないからだ。
「でも、私ももう二十一だよなぁ」
真っ白なシーツにうつ伏せになって、意識もはっきりしないまま、日記帳にボールペンを滑らせていく。
針金で丸く地球をかたどり、その中に金平糖をまぶしたようなランプの光に反射した、変な顔の自分と目が合ってぎょっとした。
私ってこんなんだったっけ。酔っ払っているせいか、それともランプが古いせいか、ぐしゃぐしゃに歪んで気持ち悪い。私は生まれてから今まで、ずっと平均点よりちょっと少ないくらいの人生だ。顔も、勉強も、運動も。しかし憧れとプライドだけは変に高く、読みもしない純文学を本棚に並べ、夏休みの読書感想文では一人だけ課題図書ではなくフランツ・カフカの「変身」で書いた。ああ、思い出してまた死にたくなってきた。同級生たちの冷ややかな目と、国語教師の「こういう時期って誰にでもあるからね」とでも言いたげな顔、全部私が悪いのに全員殺したくなる。
恥の多い生涯を送ってきたとは思う。
中野麻衣、二十一歳。日記という名の遺書を更新しながら、夏休みには決行するから、夏休みまではこの日記も完結させなくては、と、うつらうつら考える。
今まで私の逃げは「東京」にあった。上京してリセットすればやり直せる。今までゴミみたいな人生だったけど、都会に行けば分かり合える人は沢山いる。ていうか田舎ってサブカルチャー好きが生きていくには厳しすぎない?ずっと日陰で生きてきた。東京に行けば毎日が趣味三昧、満喫し放題。更には私立の大学生ともなれば、四年は遊んで暮らせる。そんな幻想を抱いてやってきた私をわずか三日足らずでぶち壊してきた、東京。
何もかもを私よりずっと高いレベルで保持している人達が集まり、こんな狭い街に無理やり作った家で暮らしている。日陰者はどこに出ても日陰者だった。学校に文芸部が無かったという理由でずっと憧れていた文学サークルに見学に行って、中学生の時読書感想文で、と話したらやっぱり笑われた。神保町を走り回って、唯一人に自慢できそうな、価値があるとひと目でわかった、竹久夢二の直筆書籍は高すぎて買えなかった。
田舎がだめなら東京。東京もだめなら、海外。無理無理、だってちょっとだけ自信がある分野、五角形でひとつ抜き出てるのは国語だもん。英語なんて話せないし、TOEICも受けたことが無い。英検は準二級。
海外もだめなら、違う世界。宇宙とか、未来とか、なんかそんなとこ。で、たどり着いたのは「死」だった。だって生きていたくなんかないし。生きていて楽しいことなんて酒と煙草くらいしかない。人生の夏休みだと信じてやまないこの四年間が終わったら一生労働だ、そんなもんは嫌だ、芸術家になりたい、なれないから死にたい。
「……ケンタロウ、なにしてんのかな、今」
ペンを置いて、ごろんと布団に転がる。落合が部屋に戻ったのか、隣の部屋から控えめな物音が聞こえてくる。ここの壁は障子みたいに薄い。
実家暮らしの元彼が私の部屋に来たがって、もちろんこんな狭くて汚い部屋には呼べなくて、揉めて、結局私が折れて、二〇一に人を呼んだ日。元彼はセックスが終わったら出ていった。次の週、別れを告げられた。おんぼろアパート民の反応はもう散々で、連れ込んでんじゃねえ、うるさくてゲームもできなかったわ、と空いた酒缶を投げられた。
自省は夜中を越えて朝方まで続く。既に、その日の授業に行く気はなかった。
- Re: 月をみていない ( No.3 )
- 日時: 2021/09/03 21:50
- 名前: 三森 (ID: bOxz4n6K)
目が覚めたのは朝の十時過ぎで、二日酔い特有の気だるさと頭痛に襲われる。気持ち悪い、吐きに行こうと立ち上がろうとしても、寝起きの体は布団から離れてくれなくて、結局その辺にあったゴミ箱を掴み取ってその中に吐いた。吐瀉物でべたべたになった髪が頬に張り付く。爽やかな朝です。
落合のやつはちゃっかりしていて、きちんと大学に行ったようだった。壁の向こうから何も聞こえてこないということは、つまりそういうことである。下手すれば隣の隣まで音が聞こえるこの物件は、生活音のひとつでさえ気をつかって、ひそひそ行動しなくてはいけない。こういう時、私は角部屋かつ、隣の住人も落合というとことんマイペースで人のことを気にしない男で良かったと思う。もし二〇二の落合と二〇三の一倉が入れ替わっていたらと思うと、それだけでまた吐きそうになる。
「うーわ、ゲロくさいなあ」
外はぽかぽかとしたちょうどいい晴天で、太陽の眩しさも気温も心地よかった。
ジャージに適当なTシャツを着た長身の男が、古臭い茶色の箒片手に私を見る。地面に捨てっぱなしだった煙草の吸殻とか、どっかから飛んできた変な色の葉っぱとかが、綺麗にちりとりに収まっていた。
「はいゴミ、これもお願い」
「朝八時までに出せって言うとるやろ、いつも」
なんでこの人、北日本出身なのに関西弁使うんだろう、と首を傾げる。彼が一倉である。
ゲロは六時までや、とゴミ袋を受け取り、収集スペースに投げ捨てる。お母さんみたいだな、と思う。演劇サークルで、真面目で、綺麗好きな男。
羊山荘にゴミ捨て日の概念はなかった。好きな時に出して、気づいたら消えている。一倉はその無秩序状態にイラついたのか、はたまた出したゴミがいつのまにか消えているシステムに疑問を持ったのか、朝の授業がない日は決まって掃除をしていた。
「なんか変なやつが集まるとこ」こと羊山荘のことだ、多分後者の線が強いと私は睨んでいる。偶然大学で会った時、古代民俗学だかなんだかの、変な授業の資料を持っていたからだ。あとで聞いたら履修者は定員割れどころか、真面目に行っているのは自分と他に四人くらいだと言われ、ぽかんとしたのを覚えている。変なやつ、という言葉が羊山荘で一番似合う。
「今日はおっちが一限からで、マイちゃんは二限……行く気ないやろ、もう」
「なんで把握してんのよ、怖いわ」
すらすらと、まるで自分の予定を話すように流暢な口調で彼は喋る。
おっちこと落合は、やはり私の予想通りちゃっかり一限に行ったらしい。そして私の二限は完全アウト。今から風呂に入って、着替えて化粧して、となると絶対に間に合わない。一倉はどうなの、掃除とかしてる場合なの、と聞いたら、「俺は四限」と、にやりと笑われた。そうだった、確か今日はあの気持ち悪い民俗学の日だ。
「あー、だる、私二度寝する、やってられないわ」
「風呂は行っとき、ゲロくさいから」
そんなに女相手に臭い臭い連呼しないで貰いたいものだが、何も言い返せない。黙って煙草を吸おうとして、だるだるになった半ズボンのポケットをまさぐるが、布団の中に置いてきたのか何も入っていなかった。
「煙草? 要らう?」
「いらない、私メンソール嫌い」
運が悪い。くるりと背を向けて、古錆びた階段を登り始めた。この階段だって、こんなに身軽で華奢な女相手に、そこまで嫌な音を立てて軋まなくてもいいじゃないか。二階、自室はすぐそこにある。風呂に入りに行く前に顔だけ洗ってもうひと眠りしよう、と考えてドアノブを握ると、高くて可愛らしい声が私を呼んだ。
「あら、中野さん!」
運が悪いポイント加算。きっと今日の星占いは最下位なんだろう。
同じ身軽で華奢でも、階段を軋ませないタイプの女が、ここには一人住んでいた。最悪の遭遇に、思わず「げ」と声に出してしまう。
高いヒール。くるんと巻いたミルクブラウンの髪。ひらひらしたワンピースを身にまとい、目じりには流行りのコスメの細かいラメが光る。同じ女として、「強い」のが一瞬でわかるやつ。
彼女、赤川さやかは、今すぐにでも崩れ落ちそうなおんぼろアパートにはとても不似合いで、出来のいい合成写真みたいだった。
- Re: 月をみていない ( No.4 )
- 日時: 2021/09/05 04:56
- 名前: みもり (ID: bOxz4n6K)
「香水、また変えた?」
「そう! 中野さん、気付いてくれたのね。ありがとう!」
赤川さやかという女は、私が仮に闇だとした場合の光、北だとした場合の南であり、ここで出会った当初から今まで、まったく合わない。合ったことがない。合いたくもない。
「お似合いで。こっちはゲロ捨て帰りのゲロ女ですが」
「そうなの? 昨日飲みすぎたのね、大丈夫? お水取ってこようか?」
「いらない、風呂行くし、赤川はさっさと大学行って友達とわちゃついてなよ」
まず、赤川みたいな女がなぜこんなボロアパートに住んでいるのかがわからない。
流行りのメイクにシースルーの可愛い前髪。ゲロまみれの私を見下すかのような甘い香水の匂い。真っ赤なリップにはブルベの透き通った肌がよく似合う。ヒールを履いて、ヒラヒラのスカートを風のようにまとって。いかにも箱入りのお嬢様、実家暮らしかタワマン在住って感じなのに。
私は彼女のその、光り輝くオーラみたいな一軍のきらめきを、崩れかけた羊山荘の屋根の下に出来た影で命いっぱいかわしている。あと、自分で言っといてなんだけど、わちゃつくってなんだよ。私が欲しいのはお前が持ち歩いてる常温の良いお水じゃなくて、共同トイレの手洗い場に設置されてる不味い都会の、一応冷えてはいる水なんだよ。買いに行く元気とか、金とかないし。
軽いヒールの音を鳴らして、下にいる一倉にご挨拶。私はベランダに寄りかかってふたりを見ていた。赤川に話しかけられて、なんだか一倉も嬉しそう。ゲロ女より香水付きの美女の方が可愛いのは目に見えて明らかなのに、ああ、ムカつくなあ、赤川さやか。
「おばちゃん、タオル忘れてんよ」
「ありがとねぇ、麻衣ちゃんは、優しいねぇ」
なんとなく二度寝ができず、顔を洗って換えの服と下着とバスタオル、それとシャンプーとリンスのセットを持って銭湯に向かった。渋谷まで数駅とはいえ、この辺の住宅街は建物を無闇矢鱈に置きまくった田舎である。ただ、その中にも大当たりのお店があって、大正浪漫を感じる喫煙可能の喫茶店とか、この昔ながらの戸を引いたら「男湯」「女湯」の暖簾がすぐあるスーパー銭湯とかが真っ先に例に上がる。無愛想なおばちゃんが真ん中に座って、一人で金銭のやり取りをしているようなところだ。女湯の扉に入った私は財布から小銭を取りだす。壁越しの男湯でも同じようなやり取りが行われていた。ここは小銭を投げすらすれば自由勝手にしていい場所なのだ。
こんな時間でも、おばちゃん達は集まって、安いサウナに入ったり皆で情報番組にヤジを飛ばしたり、鏡を睨みながら入念にスキンケアをしていたりする。
私のような若い客は、あまり見たことがない。この辺の物件は軒並み風呂付きだからだろう、家賃六〜七万くらいのユニットバスがあって、壁も床も壊れてないアパート。こちとら、トイレすら共同なのに。ボディーソープで体を洗い流し、洗顔料で浮腫んだ顔をほぐす。頭の中の赤川が、「そんなことしても、素のいい女には勝てないのに」と笑う。なんか対抗出来そうなのは、六年使っている、ドンキで売ってない高級シャンプーとリンスだけ。洗い流す、体も髪の毛も綺麗になる。でも顔は綺麗になれない。評判のいい洗顔料を使っても、小顔ローラーを使っても、私の顔も存在も、全然綺麗じゃない。
「麻衣ちゃんは賢いんだねぇ、偉い大学に通って」
置き忘れていたタオルを、マッサージチェアに腰かけているおばちゃんに届けた。今の私は比較的まともだし、お風呂入りたてでいい香りなので人に話しかけても問題無し。おばちゃんはにっこり微笑み、目じりにくっきりしたシワが浮かぶ。どれだけシワだらけになっても、この人は嬉しそうに笑う。
「そんなことないですよ、私も含めみんなみーんな、バカなんです」
扇風機の向きが変わったのか、風でびいどろの風鈴がからんからんと揺れた。
来年の夏には、私はもう居ない、予定だけれど。
さっきの報道も終わり、おばちゃん達が料理番組に向かって「絶対三分で出来ない」と怒っていた。
私もこんなふうに生きて死にたいものだわ、と思いながら、便所スリッパで店を出て煙草に火を灯した。
煙はくるくる周りながら晴天の空に昇っていく。せっかくいい香りになったのに、今度はヤニまみれになっていく。
乾きたての髪がぬるい風に揺れ、向いアパートの階段の踊り場では野良猫がごろんと転がっていた。
帰り道でそいつに、偶然出くわした。野良猫はこの辺の住人、それこそさっきのおばちゃん達みたいな人らに可愛がられているのか、まるまると太っていて人馴れしていた。
自分もけっこう好き勝手生きてるくせに、「おまえは自由でいいなあ」と言いながらしゃがみこむ。
猫はきょとんとした目で私を見たあと、飽きてしまったのか、別の物に惹かれたのか。何も無いところに向かってにゃあ、と鳴いて、もさもさのしっぽを揺らしながら去っていった。
- Re: 月をみていない ( No.5 )
- 日時: 2021/09/06 00:35
- 名前: み (ID: bOxz4n6K)
そうだわ、と思い出して、漫画のように手を叩いた。今月の仕送りが、そろそろ入っているはず。なんだかんだ子供に甘い私の両親は、私がこんな生活をしていることも知らずに、毎月せっせと働いてはお金を送ってくれる。
そりゃあ奨学金だって借りてるし、アルバイトを辞めてからは羊山荘の誰かから常にたかってるし。親的にも羊山荘にとっても、死ぬのはあんまり良くない。
うーん、とまた漫画みたいに首を傾ける。目的はなるべく早い「死」のみ、就職先は天国。新町通りをのんびりと歩く。物件探しに初めて東京に来た時、この辺で良い感じのアパートを見つけたのに、大島てるを見たらばりばりの事故物件だからやめたことを思い出した。あの頃の私は憧れの東京にはしゃぎ倒し、目に見える全ての建物が素敵に思えた。素敵な生活を送るため、事故物件はダメ。できればオートロックがいいわ、家賃は五万以内って、とことん浮かれていた。
今私が死ねば羊山荘も事故物件扱いとなるのだろう。事故物件として空いた二〇一には、私と同じ変な人が住むのかな、と考える。そいつが仮に居たとして、二〇五で楽しく酒を飲んだり、落合と煙草を吸ったり、一倉とゴミ出しの件で揉めたり、赤川の女子力にボコボコにされたり、なんだかんだで楽しく暮らし、最後はみんなの大学卒業を祝うんだろう。
なんか、それは嫌だな、と思ってしまう。
夏の熱気は視界を揺るがし、ちゃんと洗ってきた肌に汗が滲む。便所スリッパは、ずしゃ、ずしゃと重い音を立てて、憧れだった東京の住宅街を進む。やけに歪んだ私の影と、片方の持ち手が欠けたシャンプーとリンスの箱。煙草をもう一本吸うより、あと少しだけ涼しいところに居たい。
羊山荘が事故物件になるのはともかく、別の誰かが「羊山荘に住むことによって得られる恩恵」を享受するのは、なんとなく嫌だった。
「やっぱ死にたい……」
冷房がガンガンに効いた、この東京における涼しい場所の頂点ことパチンコ屋、それは羊山荘を出て少し歩き、駅の方まで出てドトールと学習塾に挟まれたところにこぢんまりと置かれている。
一階がなにかの事務所で、二階と三階がパチ屋。華々しい音を立てて出る玉の音と、ボーナスを知らせる派手な効果音で店内は思わず耳を塞ぎたくなる……といったことは、もう無い。慣れるとこんなもの、羊山荘で誰かが騒いでいるのとさほど変わりはない。むしろ、東京の人混みのようで心地良い。
私は二階の奥で回るスロット台を間抜けの代表みたいな顔で見ながら、ちんけな赤いベンチに座っている。
「麻衣だけに、マイジャグってか」
去年の十一月まで付き合っていた人が、新宿北口でよくやっていた。唐突に私を呼び出して、閉店まで回しといてくれ、この台設定六だから、絶対当たるから、当たった金で箱根に行こうと言われ、その人は友達とご飯に行った。
新宿北口のゴミみたいなスロットを打っていると、近くの気のいいおじさんが、嬢ちゃん、この台当たるよ、と教えてくれることがある。しかし私は彼氏に「俺の台だけ打ってくれ、絶対当たるから」と言われているから、ありえないくらいの喧騒の中、笑って誤魔化すしかできない。そういって人の優しさを無下にした日は絶対当たらない。彼氏は東京出身で、私には少々眩しすぎたみたいだ。それでも当たると嬉しいし、彼氏のメダルが尽きたら私の財布から残金を回した。結局、箱根に行けるほどのお金が貯まることはなかった。
遠い思い出、「麻衣だけに、マイジャグってか」と綺麗に矯正された歯を見せて笑った元彼が、今は憎くて仕方がない。ある日突然連絡が付かなくなって、全てのSNSをブロックされて、別アカウントで覗いたらガンガンストーリーを更新していた元彼に変わって、中野麻衣は世田谷でマイジャグラーをたまに回している。
とりあえず仕送りの一万を突っ込んで大負け、さらに財布の中にあった三千円でようやく当たるも収支としては当然マイナス。頭が痛くなってきた、今月大丈夫かな。またバイトしなきゃだよなぁ、と頭を抱えて、コンビニか薬局かスーパーかで迷い、薬局が一番楽、だって狭いしと思い立ち、ぱっと顔を上げたら、よく見知った奴が満面の笑顔で、目の前に立っていた。
「マイちゃん、授業も行かんで打ってても、ジャグラーの神様は降りてきいひんよ」
- Re: 月をみていない ( No.6 )
- 日時: 2021/09/06 14:32
- 名前: み (ID: bOxz4n6K)
「何しに来たの、こんなとこ」
パチ屋は通常、会話をするにはうるさすぎる。店を出て、しょうもない景品の炭酸ジュースを飲みながら、私は一倉を見上げた。
「偵察や、暇やし」
「あの民俗学は」
「休講なった」
よって俺全休、と空いた右手で私に向かってピースする一倉。本当は二限から四限まであった私は、目を逸らして時間を確認する。二限はとっくに始まっていた。
「ねえ、こんな町、二人で抜け出そうよ」
つまらないから、スマホを閉じて人混みの方を見て、用意された台本を読むみたいに私は言う。
最近、どうせ私は今夏に死ぬから、死ぬ前に言っておきたいセリフみたいなものを並べるようになった。
長身の男はペットボトルの蓋をしめ、真夏の下で悪戯に笑みを浮かべる。彼も演劇サークルで、少々ポエミックな面があるのを、羊山荘の面々は知っている。
「どこに行くん、大阪か」
「抜け出すって、東京駅まで一緒に行くだけ。あんたが大阪に行くなら私は北海道。あんたがオセアニアに行くなら私はヨーロッパに行く」
炭酸がゆっくり体に染み渡っていくのを感じ、更には夏の魔物にやられるとこんな台詞まで出る。おかしいな、何にも酔ってないのに。もちろん私と一倉など、同じアパートの住人というだけの関係だ。男二女二の環境ではハーレムも逆ハーレムも生まれず、私を含めた四人はそれぞれ外部で恋愛をしていた。いつか連れてきた、本当にお茶だけして帰った赤川の彼氏、身長高かったな。でもこうして見ると一倉の方が高いかもな。
「好きにせえや、俺は大学に行く」
「じゃあ私は家で寝てる」
炭酸のしゅわしゅわ越しに見る太陽は、眩しくて、眩しすぎて、味のしなくなった私の青春など簡単に焼き殺されてしまう。
成金セレブの巣窟、二子玉川の隣にある我が町は昼になるにつれて賑わいを増し、ベビーカーを引く綺麗なお姉さんや、帽子を被って茶色のランドセルを背負った小学生が行き交っていた。今日って午前授業になるような日だったっけ。終業式やろな、と呟いた一倉の、膝より少し上くらいの背丈しかない学童が、ぱたぱたと楽しそうに街をかけていく。
「煙草、要らうか」
「……だからさ、私メンソール嫌いっていつも言ってるじゃん」
きらめいた大通りも、一つ角を曲がるとただの住宅街になる。煙草を吸うために、高さも大きさもばらばらの建物の影に入ると、とたんに世界は静かになった。東京のこんなに狭い町に私たちは詰め込まれている。戦後急速に栄えた土地であるここは、元はただの田んぼで、国民的アニメの磯野家が住んでいたとか、空き地だらけの平凡な僻地だったとか、特に若者が惹かれるような歴史もない場所である。利点といえば渋谷や下北沢が近く、他に挙げるとするなら三軒茶屋も近い。あのアパートもこのマンションも、地方から来たしょうもない田舎者が下から上まで占拠しているのだから、高円寺や原宿などキャラクター性のある町にもなれず、ただ人々を収納している。
一倉は羊山荘の人間にやたら詳しいくせに、「中野麻衣はメンソールの煙草を吸わない」ということは一向に覚えてくれない。これが落合だったらさほど気にならないのだが、毎朝古箒を持って掃除をして、住民の時間割まで把握している男が、いつまでもいつまでも私の銘柄を覚えないことに疑問を覚えずにはいられなかった。
「ずっと勧めてたら、いつの間にか吸い始めるんかなと思って」
「やだよ、ガムでも噛んでなよ」
私、メンソールの煙草吸う男が一番嫌い。
そう吐き捨てて、数秒沈黙が流れる。言いすぎたかもと口を塞いだ。私が本当に嫌いなのは、カラフルなヘアピンをしている男や、インスタグラムのストーリーを更新しすぎて上の線が点々の並びになっているような男だ。そういった男はメンソールを吸うのが私の中の偏見のひとつとしてあるのだが、それはさておき、別に一倉は一番嫌いな訳ではない。元彼一、元彼二、元彼三に比べたら全然マシだ。
ごめんなあ、と聞こえてきたのは私よりも小さな声。
そしてそれは、第三の人間、我がアパートの実質大家である男の登場によって掻き消される。
羊山だと身構えた時には遅かった。
「住民のキミたち、いやボクもだが。昨日は少々、騒ぎすぎじゃあないのかい?」
退屈なこの町にも、まだこんな人間はいる。私たち二人の前に颯爽と現れ指パッチンをした、身なりはそこそこ適当な男、羊山は、神出鬼没の怪異の様に存在していた。
今日はいろんな人間に会うが、こいつまで出るとは。始まってもないが、終わってはいる。
怪異、羊山。下の名前は誰も知らない。
人もいない住宅路の真ん中で、私たちは急に訪れたアドリブに、立ち尽くすことしかできなかった。