複雑・ファジー小説

Re: 月をみていない ( No.10 )
日時: 2021/09/09 19:46
名前: パン屋さん (ID: bOxz4n6K)

 「キッショいな、こいつほんまに!」
 「こら、死ね、殺せ、私のアパートに勝手に入ってくんな!」

 今にも崩れ落ちそうな羊山荘の二階の廊下で、いっちと中野が騒いでいる。出たと予測できる黒い虫のことを思うと、無関係を装って自分の部屋に戻りたかったが、僕の部屋は二○二。見事に二人に挟まれている。僕の部屋の前で殺虫剤とハエ叩きを構えた二人が、騒がしくてしょうがない。黙って逃してやればいいのに、わざわざ殺していてもキリがないだろう。

 「落合、帰ってきたなら手伝ってよね、あとその匂い、ラブホのシャンプーでしょ」
 「おっち、こいつほんまにしぶといねん、ここで殺しとかんと夜中部屋に出るで」

 そう言って、弱いものいじめみたいに、瀕死の虫相手に人間二人が本気になっているのが異様で、僕はトートバッグを持ったまま廊下の入り口で立ち止まってしまった。
 赤川さやかはなにしてんのよ、と中野が喚く。赤川さやかは今日戻らない、それを僕が知っていることがバレると面倒なことになる。何も知らない顔をして、部屋と部屋の間に貼ってある「騒ぐな」とルーズリーフに殴り書きをしただけのポスターを見やる。しばらくした後、ばちん、と乾いた音がアパート中に響き、よっしゃ、殺したで、といっちが笑っていた。中野も笑っている。二人がボロい箒で死骸を柵から放るのを見て、薄寒い恐怖を覚えた。
 僕もこいつらにとっては、こんな感じなのだろう。
 有名大学に通う、頭の良い学生様方にとって、名前も知らないFランクの大学など、あってもなくても同じなのだ。
 友達みたいにハイタッチをする二人を呆然と眺めていた。友達みたい、とかじゃなくて実際に友達なのかもしれない。僕とさやかが隠れて会っているのは誰にも言えない秘密だというのに、こいつらは羊山荘で、何にも怯えることなく、楽しそうに笑っている。

 「どけよ、またご近所から通報されんぞ」

 二○一の前に居た中野を軽くどつく。中野はちょっとドアにぶつかったくらいで、痛いなあと喚いて僕を睨みつけた。こんな奴らに挟まれて、僕の暮らしが健康で文化的な訳がない。いっちも、さっきまであんなに虫に殺意を向けていたのが嘘のように、女の子相手にそれはやめたれや、と言ってくる。中野も虫も僕からしたらカーストは一緒、私立の有名大に通う学生など、僕はこの世で一番嫌いだ。
 中野のことは割と上位で嫌い、いっちのことは迷惑な隣人くらいにしか思っていなかったが、訂正、どっちもとんでもなく嫌いだ。僕が落ち着ける場所なんてどこにもない。どんな洒落た店を知ったって、隠れ家的カフェでアルバイトをしたって、取り繕った自分で居るのは、果てしなくつまらない。
 東京はもっと楽しい街だと思っていた。地元よりずっと娯楽もあるし、古着屋が多すぎて一帯の街を形成しているし、古本屋とカレー屋しかない街もあるし、いろんなカルチャーを吸収して、流行りのさらに最前線を見ることができる。下北の小さい箱で見たバンドは、一年でとんとんと地位を上げ、今じゃチケットも入手困難らしい。だらりと布団に転がっていると、中野もいっちも部屋に帰ったのか、両隣から隠そうともしない生活音が聞こえてきた。そりゃあこんなの、さやかも逃げたくなるだろう。
 中野といっちは、虫を潰して煙草でも吸って、じゃあねーって感じで解散したのだろう。さやかが僕に言う「じゃあ、また来週」とは程遠い、お気楽な、友達と交わす感じの挨拶。膝を抱えて、寝返りをした。寂しいわけじゃないけれど、部屋がいつもより暗く感じた。