複雑・ファジー小説

美しい星 ( No.11 )
日時: 2022/06/02 22:33
名前: 唯柚 ◆lUykKY/81I (ID: 8qQF9FdS)


 思わず目を瞑った暗闇の中、ガチャンと硬い音が鼓膜を揺らし、一瞬遅れて耳にじわりと熱が滲んだ。

「──できた」

 明るい声と一緒に、スピーカー越しの音声が耳に入ってくる。さっきまでの息が止まるような静寂は、いつの間にかどこかへ消えていた。

「あー、まじか、開いたのかあ……どんな感じ?」
「ちょっと待って、見せてやるよ」

 そう言うとアイツは、テーブルの上に放置してたスマホを掴み上げた。僕にはまだ見慣れない、一面を覆う液晶に触れてなにやら操作してる。不意にそのカメラがこっちを向いて、シャッター音を鳴らした。
 見せられた画面には、伸びた横髪の奥に耳が写っている。毎朝鏡で見るそれに、今は鈍色の鋲のようなものがくっ付いていた。
 貫いた異物から、熱が広がっていく。

「……意外と冷やさなくても痛くないんだ」
「開ける道具にもよるけど。いやあ、まさか初対面の奴にも開けることになるとは。こんな経験なかなか無いわ」
「曲に使う?」
「いいなそれ。あーでも、どうだろ。なんかそれは勿体無い気がする。墓場まで持っていくよ」

 愉快そうな笑い声に合わせて、アイツの明るい茶髪が揺れる。
 同じ鈍色が、カラオケの少し頼りない照明の下で光っていた。





 罫線を超えて、線を引く。朝から頭の中に潜む『何か』を削り出していくように、線は増えて繋がって、一つの形を作っていく。
 もう少し。あと少し。『何か』に指がかかりそうな。

「──じゃあ、今日はここまで」

 パンッと弾けるような騒々しさから逃げて、指先に触れていた感触は離れていった。
 周りが席を立って動き始めるのを視界の端に見ながら、机の上に置いていたものを片付ける。教科書は最初に開いたページから進むことなく閉じられた。
 すぐにホームルームだというのに何故か教室から出て行く奴。前後の席で話し続けている奴。そんな喧騒の中で、淡々と話し始める先生。
 皮一枚を隔てた向こう側で起こる全てが遠く、色褪せて、はっきりとしない。ただ、さっきまで脳内で触れかけていた『何か』だけが自分の中に、まだ痕を残していた。
 名残を追ったまま帰路につく。溶けかけた雪の下に踏みしめるアスファルトも、今日はやたら柔らかい。いつか観た洋画に出てきた、粥でできた床を思い出した。あれはどんな映画だったっけ。
 透明な引き戸を開いて、玄関扉の鍵を開ける。

「ただいまー」

 返ってくるはずのない「おかえり」を待つこともせず、靴を脱いで二階に上がった。
 六畳の部屋。唯一の窓を塞ぐカーテンは、いつから閉めていたのかもう覚えていない。少しだけ久し振りに開こうかと手を伸ばしかけ、すぐに日が沈むことを思い出して引っ込めた。
 机に置かれたパソコンの電源をつける。立ち上がってくるのを待ちながら、ベッドの枕元に置いたはずのリモコンを探してボタンを押した。薄暗かった部屋が、白い光に塗り潰される。目の奥を刺すような眩しさに、思わず瞬きを一つ。
 高校の入学祝いに買ってもらった真新しい椅子は、座り心地がよくてもまだ慣れない。しっくりくる感覚を求めて何度か腰を上げては下ろしを繰り返しながら、パスワードを打ってデスクトップを開いた。
 毎日のように通っている動画サイトを開いて、今朝と同じリンクをクリックする。
 表示された見覚えのあるイラストを暫く眺めてから、再生ボタンを押した。
 唸るようなエレキギターに、それを低く支えるベース。『ドラム、あれじゃ人間には叩けない譜面になってるって言われたんだよね』と笑いながら話す顔が脳裏を過ぎった。まだ慣れないピアスに、指先で触れる。あれはもう、一ヶ月前のことなのか。
 誰もいない家ではヘッドホンをつける必要もない。スピーカーから、合成音声の歌声が狭い部屋に響く。
 その旋律が何かの輪郭になっているような。その詞が彩っているような。胸の奥底にある普段見ないようにしているものが、形を持って動いているような。

「それが何なのかが、わっかんないんだよなあ」

 肺の中の空気を全部出し切るくらい、大きく溜息を吐く。見えない不満は二酸化炭素と一緒に天井まで上っていき、ゆっくりとまた顔の上に降ってきた。
 アウトロに合わせて、イラストが単調に動く。

「……へったくそな絵」

 吐き捨てた言葉は、画面にぶつかって落ちていった。





『イラストありがとう、投稿したぞ! あれだな、曲に合わせて描いてもらえるってこんなに嬉しいんだな!』

 夕飯から戻ってくると、顔文字付きのメッセージが届いていた。普段何気ない話をする時よりもずっと多い記号が、そのテンションの高さを伝えてくる。
 そっか、喜んでもらえたのか。僕の絵が、役に立ったのか。あんな、一人の世界をなぞるだけだったものが。
 震えて今にも踊りだしそうな指でキーボードを叩いて返信を打つ。

『こっちこそ、描かせてくれてありがとう』

 そのまま送信しようとして、止まる。
 違うんだ。本当はもっと、あの曲から見えた形があった。それを紙の上に書き写してしまいたかった。
 一言だけ文末に付け足す。

『次は、もっと上手く描くから』

 少し間が空いて、『俺も』という二文字だけが返ってきた。それで十分だった。



 アイツ──エーイチの本名を、僕は知らない。知ってるのはサイトで使っている投稿者名と、同じこの北の果てに住んでいること。偶然にも同い年だったというのは一ヶ月前、初めて直接顔を合わせた時に教えられた。
 同じサイトで、同じジャンルの中でそれぞれの作品を上げていただけ。それも曲と絵では見るページも違う。それでもエーイチと僕の会話は切れることがなかった。
 読んだ本の感想を言い合ったり、新作映画のどれが有望か話し合ったり、なんでもない日常の報告をしたり。

『俺さ、いつか東京に行きたいんだ』
『東京? なんでまた』
『首都じゃん。やっぱり人も多いし、イベントにも出やすいし。曲出すだけならそりゃここでもできるけど』

 でも。そこでテンポ良く送られてきたメッセージが途切れる。電波の向こうで言い淀むような間があって、また受信音が鳴った。軽い電子音。

『一番は、遠くに行きたいんだろうな』

 他人事のような言葉に、返そうとした指がキーの上を迷う。
 遠く、ここではないどこかへ。明日提出の宿題も、騒がしいクラスメイトも、一人でいるこの家も、今周りを取り囲んでいる全てを置いて。
 考えるだけでも、心が宙に浮く。今すぐにも玄関を開いて、どこかに行ってしまいそうな。どこにでも行けてしまいそうな。

『良いな、それ』
『だろ? いつか一緒に行こうよ』

 文字の上で笑い合って、どこに住むのが良いかなんて話し合う。
いつ来るかも分からない『いつか』に、見えない未来への漠然とした期待を寄せていた。





 ペンタブの動きに合わせて、画面に線が引かれていく。イヤホンから聴こえるノイズに混ざって、メロディが小さく聞こえていた。聞き慣れた楽器のエフェクトに、聞き慣れた調整。初めて聞く旋律。そこから浮かぶ光景を拾い上げて、線と線を繋いでいく。

「ラフだけどこんな感じとか。聞いたイメージから海にしてみたんだけど」
『あー、なるほど……良いな……』

 向こうの画面にも映っているだろう正方形のイラストに、文字ではなく声で反応が返ってくる。最初は新鮮だったそれも、今では慣れ親しんだものだった。
 無料通話アプリが普及し始めた時、先に使ってみようと誘ってきたのはエーイチの方だった。新しいもの好きなアイツはまだ評判もあまり聞かないうちから、使ってみたいと言ってきた。わざわざダウンロードサイトのアドレスまで貼って。
 あまり新しいものが得意ではない僕も、二人で使ううちにエーイチに教えられてできることが増えていった。
 できなかったことができるようになるのは、楽しい。

「じゃあ全体の雰囲気としてはこんな感じで」
『おう。……なんか今更なんだけどさ』
「うん、なに? 曲の手直し?」
『それはちょっとやりたいかも。いや、そうじゃなくて、作業中に自分の曲がかかってんの、なんかめっちゃ恥ずかしいなって』
「それ今言う?」

 思わず噴き出すと、イヤホンからもカラカラと笑い声が響く。先に送られていた歌詞を開こうとしたマウスを動かして、延々とかけ続けていた音楽を止めた。続きは一人でもできそうだ。
 画面共有を切れば、向こうも何か作業をするのか物を動かすような音が聞こえてきた。僕もパソコンやタブレットを脇によけ、空いたスペースに参考書とノートを開く。さっきまでペン型の端末を握っていた手には、シャープペンシルは余りに細く感じた。
高校三年生。僕は大体の同級生と同じように、大学受験に向けて日にちを数えるようになっていた。
 乾いているのに澱んだ空気の中、西日に照らされて埃が光りながら落ちていく。昨日進めた問題を見返しながら、ふと頭に浮かんだ疑問が舌の上に乗っかった。飲み込んでしまうか少し悩んで、結局そっと唇の隙間から零す。

「あのさ、エーイチは志望校ってもう決めてる?」
『あー、俺、進学しないつもりなんだよね』
「……そっか」

 なんとなく、その答えは知っていた気がする。エーイチが言う前から。僕が尋ねる前から。

『これはお前だから言うんだけど』

 うん、と打った相槌は、果たして震えていなかっただろうか。そんな心配をよそにエーイチの言葉は続く。今まで聞いたこと無いような、静かで凪いだ声。

『レコード会社のほうから、本格的にデビューしないかって話しがきてるんだよ』

 息が止まる。指先で弄んでいたペンが紙の上に落ちて、折れた芯がやけに黒々として見えた。

「マジで? すごいじゃん、おめでとう」

 滑り落ちた言葉が、自分の中に沈んでいく。
 そうだ、すごいことだ。めでたいことなんだ。きっといつか光の浴びる場所に立つとは思っていたけど、こんなに早いとは思わなかった。

『今までも曲は売れてるし、多分上手くいくだろうって。ただ、そうすると上京することになるから』
「遠くに、行くのか」

 ここではないどこかへ。縛るものが何も無い、広いところへ。
 僕の行けない遠くへ。

『そっちは、どうするの』
「道内の大学受けるよ。親が大学行っとけってうるさいし、一人暮らしする金も無いから多分、ここからは出ないと思う」
『……そっか、そうなんだな』

 微かなノイズが、言葉の合間を埋めていく。進まないノートの問題から視線を外すと、パソコンの画面が青白く光っていた。
 出したままの、水色の線で描いたラフ画。今までエーイチがネットに上げた曲をまとめた、アルバムのジャケット。
 遠くへ行きたい。二人で。そんなことを話したのはいつだったか。ついこの間だと思っていたのに、手を伸ばしてももう届かないほど流されてしまった気もした。
 一人で、見知らぬビルの隙間に立つエーイチを思い浮かべる。テレビの中でしか見たことない街に、一度だけ見た十五歳のままの背中が滲んでいく。趣味の悪いコラージュのような光景は、何度か瞬きをすれば瞼の裏に溶けて消えていった。

『まあ、お互い卒業すれば色々できるようになるだろ』
「そうだな。金貯めて遊びに行くよ」
『じゃあ客用の布団買っておかないとなー』

 トーンの明るくなった声を聞きながら、またノートへ視線を戻す。持ち直したペンで数式を書こうとして手が止まり、端の空白を手に任せるままに埋めていく。
 白い紙の上に現れた小さな星は、黒鉛の色をしていた。





 気怠い眠気の中で、教授の話を聞きながらメモを取る。小休止のように雑談が始まって一息吐いた時、机に乗せていたスマホが震えた。
 通知欄のマークは白い手紙。差出人の名前に、なるほどと内容を察する。詳細を開けば思った通り、件名には《原稿お預かりしました》と書かれていた。
 元々エーイチのミュージックビデオを作り始めてから、僕の絵に興味を持っていくれる人も増えていた。それがまたゆっくりと広がっていって、今までの作品をまとめた画集を出さないかと持ちかけられたのが三ヶ月前。最近よく聞く掲載料だけふんだくっていく詐欺かと疑ったけど、出された出版社の名前は僕もよく知っているところだった。
 教授の雑談はまだ終わらない。
 作品のいくつかは、元のデータをもう消していたり失くしていたりしたものもあった。発表したものはできるだけ欲しいと言われて、渡した側に残ってないかと久し振りにチャットではなく、自分からエーイチに連絡した。

『もらったやつ以外にも、見せてくれたやつとか全部取ってあるぞ!』
「マジか」
『なんならラフも残ってる!』
「それは使わないかな」

 数年前に描いた見苦しさを通り越して懐かしいものまで引っ張り出しながら、エーイチは自分のことのようにはしゃいでいた。もしかしたら、自分のこと以上に。
 なんとなく通話を繋げたまま、自分が今まで描いてきたものを眺める。画面に並んだ小さなプレビューは劣化なんてしないはずなのに、どれも色褪せて見えた。
 自分なりに指南書や参考書を読んだりして描き続けていれば、技術は少しずつ付いてきた。技術だけは。

「あのさ」
『うん?』
「良いものって、どうすれば描けるのかな。……なんて、」
『言いたくないこと』

 つい溢れた自問自答に、エーイチの声が割り込む。いつか聞いた静かなそれに、出かけた誤魔化しの言葉は空気を震わさないまま消えた。

『一番言いたくないこと、秘密にしておきたいことを、作品にする。そうするとみんな、自分の中にあるものと勝手に重ねて、共感してくれる』

 って、前に聞いたことある。そう締める時にはもう、いやに冷たい声には熱が戻っていた。

「言いたいことじゃなくて、言いたくないこと?」
『おう。言いたくないこと。いや、人によって違うだろうし、ジャンルによっても違うだろうけど』
「なるほどな……そんな考え方があるんだ。なんか、それって、」

 自分を切り売りしてるみたいだ。そう言おうとして、口を閉じた。エーイチのあの平坦な声は嫌いだった。
 近況報告に互いの作品の感想を言い合って、それが最近観た映画のことにまで広がっていったところで『明日朝から用事あるから』というエーイチの言葉で通話は終わった。
 ふと思い立って、動画サイトからアイツの曲のページを開く。昔は僕の絵が使われていたサムネイルに、今ではカメラで撮った映像のワンシーンが表示されている。歌う声も、誰でも使えたあの合成音声から、エーイチ本人の声へと変わっていた。
 エーイチの歌声は、僕が嫌いなあの声とよく似ていた。





 画集の売れ行きは悪くなかった。それより少し後に出たエーイチのアルバムは、こぞって音楽誌に取り上げられていた。
 エーイチとは文章で話すことすら、少なくなっていった。
 理由なんていくらでも思い付く。僕から話しかけることも、エーイチから連絡が来ることも緩やかに減っていた。互いに環境が変わればやることも、関わる人も変わっていく。もう昔と違って、住んでいる場所だって遠く離れている。仕方ないことだらけだった。そう思うことにしていた。
 大学に入ってから始めた貯金は、既に北海道と東京を軽く二往復くらいはできそうなくらい貯まっていた。それでも、来るならと教えられたエーイチの現住所には一度も行かないまま時間は過ぎていった。
 講義室の隅で、教授の話を聞きながらペンを動かす。開いたノートではなく、その上に重ねた無地のメモ帳に線で形作っていく。描いてるそばから、こうじゃないと思う自分がいた。
 秘めておきたいものを曝け出す絵は、まだ描けていない。
 不意に震え始めたスマホを開けば、チャットアプリのアイコンに《ファイルが送信されました》の文字が並んでいた。

「……なんだ?」

 今は別に出版社とも何かを進めているわけではないし、学友から何か送られてくる予定もない。心当たりが無いまま開けば、出てきたチャット欄はエーイチとのものだった。
 ファイルの種類は音声データ。教授との距離が遠いのを良いことにイヤホンを挿して、再生ボタンを押す。
 そうして四分弱の曲が終わる前に、僕は講義室を飛び出した。
 地下鉄から電車に乗り換え、一番近い空港へ向かう。途中寄ったコンビニで、口座から貯めていた全額を引き出した。
 行ったところで何ができるかも分からないし、そもそも行く理由すら自分の中でも輪郭を欠いている。それでも、もしいきなりインターホンを鳴らした時、アイツが驚いた顔をしてくれたら、それで良かった。
 初めて使う空港の中で迷う時間も惜しくて、売店の店員から受付に立つ女性にまで尋ねながらチケットを買って、搭乗口に向かう。シーズンでもない機内は空席が多かった。
 来るまでの間に自分のスマホへ保存したあの曲を、空の上でもう一度聴く。

「……墓まで持っていくって言ってただろ」

 とっくに癒えたピアスホールが、熱を帯びてじくじくと痛んでいた。





 浴槽の中は、鮮やかな紅色に染まっていた。
 壁のタイルも狭い床も日常に取り残された中で、浴槽に満ちた赤色が澄んでいる。
 真っ白な顔は半分その赤に浸かって、その色の無さが目に痛い。
 沈んだ体に目をやれば、腕の上を縦に真っ直ぐ線が入っているのが見えた。白い皮膚の下から水へ、命が溢れ出た跡だった。

「……う、ぇ」

 嫌な臭いが鼻から入ってきて出ていかない。鉄によく似たそれは、けれど金属なんかよりもずっとぬるりとして、生々しい。
 足から力が抜けて、蹲ったまま嘔吐く。どれだけ出そうとしても胃の中は空っぽで、代わりに唾液が手の平を濡らした。
 熱が抜けて震える指先で、浴槽の縁を掴む。這い上がるように体を起こして、もう一度浴槽の中を覗き込んだ。
 五年前に見た時より、この前ミュージックビデオに映っていたものより、窶れた頬。色の抜けた神の合間から、睫毛が頬に影を落としていた。黒いシャツの襟は、水の中で少し浮かんでいる。記憶より起伏ができて筋張った喉も、薄っぺらな胸も、静かに止まったまま動かない。あの手首の線は左だけで、右は几帳面に黒い布が覆っていた。手首から先、深爪な指はだらりと水の中で揺蕩う。狭い浴槽の中で折りたたまれた脚は窮屈そうで。靴下もない素足が、透き通った赤色越しに見えた。
 静かに目を閉じた顔の横で、星型のピアスが銀色に光っていた。

「け、いさつ、呼ばないと」

 自分に言い聞かせながら、スマホを取ろうとポケットに手を伸ばす。指先に触れたのは布だけで、振り返ればいつの間にか薄い銀色が床の上に転がっていた。さっき蹲った時に落としたのだろうか。
 力が入らない手足でスマホに手を伸ばし──その向こうに置いた、鞄に、その中にいつも入れているスケッチブックに、視線が捕まった。
 手が鞄へ伸びる。
スケッチブックを開いてペンを握った時には、指先の震えは止まっていた。





「では、表紙はこの絵でよろしいでしょうか」
「お願いします」

 忙しなく人が動く中、衝立だけで区切られた空間で、テーブルを挟んで担当さんが頷いた。
 形式的にいくつか挙げた候補が重なる中、最初からいるべきなのは自分だとでも言うように、一枚の絵を担当さんは指した。
 鮮やかな赤に沈んだ、一人の男。

「発表した段階で反響が大きいので、部数は少し多めで頼んでみます」
「……分かりました」

 落ち着かない指先が耳に触れる。伸びた髪が手の甲を擽る。
 星の棘が、指の腹を軽く引っ掻いた。