複雑・ファジー小説

豚の王様 ( No.9 )
日時: 2022/06/02 00:26
名前: 唯柚 ◆lUykKY/81I (ID: 8qQF9FdS)

 黒い頭が群れを成して揺れている。話し声は体育館の高い天井にもよく響いて、意味を成さない雑音として頭から降ってきた。まだ暗いステージの上には、教壇が空っぽのまま置かれている。壁掛けの大きな長針が予定の時間を過ぎても、ざわめきが静まらない中ではスピーカーのスイッチすら入れられない。去年よりも見えるものが増えた視界は、五月蠅さも増した。
 窓の外、春の陽気を帯びた風も千人が集められた体育館の中には割り込めず、窓の外で桜の花びらと校庭の砂を渦巻かせていた。

「静かにしなさい、始められないだろ」

 隣の方から教師の怒鳴り声が聞こえる。きっと中学二年生だろう。まだ制服が馴染み切らず、余った袖が列の間でひらひら揺れている。教師に返す声も似たような浮つき方をしていた。かと言って自分の前で並ぶだけ並んで話し続けている奴等が、それよりも地に足ついているとも思えないけど。十五年も人間やってて、口を閉ざすことすらできないのか。
 大人が声を張った甲斐があったのか、それとも話すことにも退屈し始めたのか、話し声が引いていく。ステージの下、パイプ椅子に座った生徒会役員の一人が、マイクのスイッチを入れた。キン、と鋭い音が響く。

「おはようございます。これより、生徒会役員挨拶を始めさせていただきます。まず、今年度生徒会長に就任した芥原から──」

 芥原。くぐはら? 聞こえてきた聞き覚えのある名前に眉を顰めるのと、ステージが白く照らされたのは同時だった。
 袖から出てきた男は、注がれる視線に居心地悪そうに肩を丸めて、教壇の前へ立った。野暮ったく伸びた前髪に遮られて、こちらを見下ろす目は見えない。前に置かれたマイクを手に取れば、スピーカーからハウリングが劈いて鼓膜に突き刺さった。頭の後ろが痺れる。閉じかけた瞼の隙間から、握ったマイクをあたふたと回している男が見えた。袖の方に視線を向けている。見えないけど分かる。あれは誰か助けてくれないか期待してる。眉尻を下げて、口の端を緩めて、ダメだと分かれば次はこっちに向く。ああ、そうだ。知ってる。分からないのはただ一つ。どうしてアンタが、そこに立ってる。

「どうもぉ、おはようございます」

 生徒会長というのは、誰かの上に立つ人間と言うのは、その言葉に誠意を持たせなくてはいけない。広く多くに届く声でないといけない。

「一年生は初めましてかな。二年生以上はお久し振りです。前年度副会長だった芥原幽海(くぐはらゆう)です。なんかね、会長になっちゃった。どうしようね」

 敬意を持たれて、代表者として信頼されなくてはいけない。

「去年も他の役員のみんなが頑張ってくれて、僕なにもやってないんですよね。今年もきっとみんなに頼りきりになると思います」

 自分以外のものを背負えるくらい、地に足ついていて。いつだって先を見ているべきで。

「先代に任されたので、頑張ります。頑張るから、みんなも助けてくれると嬉しいな」

 誰かの誇りになれるような。そんな人間が担うべきはずなのに。

「今年一年、宜しくお願いします。良い学校生活にしましょう」

 取って付けたような締めの言葉に、戸惑いを滲ませた拍手が広がっていく。それを聞こうともせずアイツは、曖昧なお辞儀を残して逃げるようにステージを降りて行った。
取り残された生徒がざわつく。「え、終わり?」「去年あんな人いたっけ」「もっとマシなのいただろこれ」「でも生徒会長が選んだんでしょ?」。散らばっていく声が鼓膜を揺らすたびに、ギイギイと軋むような気がした。


「納得がいかないんですよ」
「ううん、それをここで僕に言う度胸が凄いよね。そういうとこ好き」

 パチリと小気味良い音を立てて、歩兵が進む。長い爪が引っ掻くように黒く塗られた払いをなぞる。

「先輩、駒が傷みます」
「ああ、うん。このつるつるしたとこ、なんか触っちゃうんだよね」

 だから何だ。私物でやれ。
 頭の中でパターンを思い出しながら、飛車を動かす。こいつはいつだって、将棋の指し方すらふらふらしている。最初は気の抜けた捨て駒をしたり遊んでいるのに、中盤からいきなり勝ちを取りに来たり、逆に途中から急に遊び始めたり。それなのに俺は、一度もその王将に触れたことがない。

「どうだった、僕の挨拶」
「最低でした」
「アドリブだったことを加味しても?」
「最悪」
「そっかあ、残念だな」

 思わず零れそうになった舌打ちを、唇を噛み締めてやり過ごす。
 年度初めの部活だからか、暖かくなってきたからか、部室は冬よりも賑わっていた。木と木が当たる高い音と、笑い声。その中で一番隅のこの席だけが冬の空気に取り残されている。

「古田はさあ」

 なめらかな布のような耳触りの声が将棋盤の上に落ちる。手番はずっと、指先で駒を弄ぶ相手で止まっていた。持ち時間を付けておけば良かった。
 返事をせずにいても、意に介した素振りもなく話し続ける。

「どうして生徒会に入らなかったの? ほぼ動いてない学級委員なんか毎年やって」
「……最初の選挙に落ちたんで」
「あーなるほどね」

 なにがなるほどだ。
 ようやく回ってきた手番を進める。必ずしも次に最善手を打ってくれないから、考えるのが面倒になる。

「先輩は」
「うん、なあに?」
「どうしてわざわざ生徒会に入ったんですか」
「ああ、他の仕事したくなかったから」

 ふざけてんのかこいつ。
 あっさり銀を進めて、俺の角を摘まみ上げながら言葉は続く。

「選挙って意外と単純なんだよね。ニコニコ分かりやすく話してやればみんな入れてくれるんだよ。それで部活の役職も、他の委員会も全部免除。でも内申書には加点になるから、上手くやれば効率が良いと思って」

 前髪の隙間から、伏せられた目が覗く。並んで立てば見下ろしてくる瞳が、猫背のせいで上目遣いにこちらを見ていた。穏やかに睫毛が瞬く、その動きすら意味も無く癪に障る。

「良い感じにサボろうと思ってたのに、周(あまね)先輩が副会長なんか押し付けてくるからさあ。結局ふっつーに仕事しちゃったよね」

 周先輩。さらりとその名前を呼んでみせるその舌が憎い。
 ステージに立って、朗々と話す姿を思い出す。硬い言葉を好む人だった。それが低くなり切った声にしっくりと合っていた。いつだって二言三言話せば、みんな静まり返って耳を傾けていた。周生徒会長。周先輩。その苗字を俺が呼べたことはない。話したことも無いから当然だ。
 きっと、誰が選んだってあの人はリーダーだった。それなのに。どうして周先輩が選んだのがこいつだったんだ。まともな人間なら、絶対に選ばないこいつが。

「ああ、王手だ」
「は?」

 軽い音と共に、盤面が完成する。彷徨っていた飛車は見事に王将の喉元に刺さり、金が行く手を阻んでいた。会話に気を取られていたわけではないのに、どうして。

「じゃ、僕帰るね。片付け頼んだよ」

 また来週。まだ喧噪が続く中にそう言い残して、部室のドアを開く。取り残された盤の上、相手の王将が笑ったような気がした。



 部室の冷房が、ガラス張りのドアから照り付ける陽光に対抗して冷風を吐き出す。目の前では駒も並べず喋り続ける先輩。久し振りの部活を楽しむには悪すぎる条件だ。

「そもそも行事の要綱を実行委員から俺経由して学級委員会にまで下げるって仕組みが分からなくない? 二段階認証じゃないんだからさあ」
「俺にはそれで提出が遅れて、危うく今年の体育祭を潰しかけたのにその態度って方が分からないんですが」
「いや~、それはあの、違うんだって」

 何も違うところはなかった。
 春、各委員会の最初の仕事は体育祭の準備だ。その皮切りである要綱の提出を、何故かこいつは放棄した。毎週何食わぬ顔で部活に来ては、だらだらと一局指して帰っていく。去年から変わらなさすぎるその様子に、俺が訝しんで訊いても『えぇ、大丈夫だよ。やってるって』とへらへらしていた。その顔を今は殴りたい。
 遅れに遅れた学級委員との会議で実行委員が頭を下げる中、冷めた空気のホールを見回した時にもこいつはいなかった。そうだ、こういう奴だ。春にはそれでも、まともになるかもしれないと思ったのに。

「いやでも、ちゃんと終わったじゃん。楽しかったでしょ?」
「それはアンタの成果じゃない」
「そりゃそうだけどさあ。あ、チョコあった。食べる?」
「いりません」
「そう言わずに」

 夏服の黒いスラックスから、銀色の包み紙が出てくる。机にころんと捨て置かれたそれは、四角い日向の上で光を反射した。

「……こんなとこで、また油売ってやらかすつもりですか」
「やだなあ、息抜きって大事じゃん」
「息抜きしかしてねぇだろアンタ」

 平べったい体が、まだ将棋盤も乗せてない机にべったり伏せる。子供のように駄々を捏ねて振り回す腕を避けながら、戸棚に入った駒を二箱取り出した。

「そんなんだったら、いつリコールされても文句言えないんじゃないですか」
「リコールなんて制度無いよね?」
「無いですね、今は」

 上靴が床を叩く音が止む。「今は」と鸚鵡返しに呟く声がやけに冷たくて、掴む手が強張った。

「はーん、ははん、なるほどね。最近来れなかったのもそれが理由?」
「なんのことですか」
「おっとぼけていく? いいよ、サプライズみたいで楽しいや」

 緩みの戻った唇が尖る。口笛の甲高い音と、机に木箱を置いた音が重なった。
 気付いてる。気付いてて、俺に対して何も言わないのがこいつだ。人がどれだけ真面目にやってても、遊び半分でその横を追い越していく。そして先まで進んで、こっちをからかい混じりにつついて、そうして投げ出す。二年前、俺が入部してからこいつはずっとそうだった。

「ねえ古田」

 座ったまま、先輩が俺を見上げる。西日で明るいはずなのに、前髪の奥の瞳は暗い。

「なんですか」
「古田ってさあ、しっかりしてるよね。仕事できるっていうか」
「誰かがしない分、俺がしてるだけなんですけど」
「お前が生徒会にいたら、僕ももうちょっと楽だったのになあ」
「……当てつけですか?」
「ううん、反実仮想」

 将棋盤の升目をなぞっていた指が、銀紙に触れる。親指と人差し指が摘まみ、掌に包まれたチョコレートが、俺の目の前に差し出された。

「はい、あげる。美味しいよ」

 押し付けられた糖分の塊をどうしようかと手の中で持て余していれば、がらりと音を立てて引き戸が開いた。中等部の後輩が挨拶と共に入ってくる。風が先輩の前髪を揺らした。
 握りこんだ手の中で、溶けたチョコレートが潰れる。甘い物は嫌いだった。

豚の王様 ( No.10 )
日時: 2022/06/01 00:15
名前: 唯柚 ◆lUykKY/81I (ID: 8qQF9FdS)

 廊下の窓から見えた紫色の空に、日が落ちるのが早くなったことを知った。
 話し過ぎかざらつく喉を撫でながら部室のドアを開くと、薄暗い教室の中で先輩が一人、いつもの隅に置かれた席に座っていた。指を動かしているのに、部屋はしんと静まり返っている。目を凝らせば、盤の上には駒が山になっていた。将棋崩しか。

「なんでいるんですか」
「あっ、お疲れぇ。部活もう終わっちゃったけど」
「知ってます。戸締り確認しておこうと思ったら……」
「古田が寂しがるかなと思って」

 立ったまま滑っていた駒が、溝に引っ掛かって倒れる。溜め息交じりの落胆の声が追うように部屋に響いた。

「最近忙しそうじゃん。青春だねぇ」
「お陰様でやることが増えたんで」
「らしいね。高二でもお前のことは噂になってるよ。今年の中三は優秀だなあって」

 学級委員会は中一から高二まで、受験に専念する高三以外の全学年が参加している。さっきまで白熱していた会議でも、司会進行は高二の先輩達だった。俺はずっと、その横に座って訊かれたことを答えていただけだ。
 教壇の上で、視線を受けていたあの感覚を思い出す。話す内容は決まっているのに、口の中がどんどん乾いていく。舌を動かすたびに頭の中がすっきりする。自分が、目の前の人間と、何かをするんだ。しなければならない。
 これを、同じ視界を、周先輩も見ていたんだろうか。

「ねえ古田」

 やけに落ち着いた先輩の声が、俺は嫌いだ。いつもへらへら笑っていればいいのに。

「リコールも、会長選挙も、古田の案でしょ」
「……だったらなんですか」

 盤に駒が並んでいく。

「ううん、僕の代にあんな面倒なこと進めようとする奴いないし、高一は多分制度を変えるとか思いつかないだろうし。知ってる中でそういうことするの、古田だろうなって」
「それは、流石に言い過ぎじゃ」
「そんなことないよ」

 カチリ、と最後の駒が置かれる。もう座っている先輩が、顔を上げて俺を見た。舌打ちが漏れる。そんな風にされたら、座らないわけにはいかない。対面に着いた俺を見て笑うその顔も嫌いだ。

「古田はさあ、周先輩みたいになりたいの?」
「いや……俺なんかが、恐れ多い」
「えっ笑う。そこまで好きなの?」
「殺すぞ」

 先輩にしては珍しく、テンポ良く手番が回ってくる。というか速い。持ち時間なんて無いのに、その拍子に置いていかれたくなくて手を進めてしまう。

「でもなあ」

 銀将が先輩に取られる。気付けば歩が裏返っていた。いつの間に。

「ねえ古田」
「考えてるんですけど」
「──石鹸箱の上に立つ人間なんて、みんな売女と変わらないよ」

 顔を上げる。すぐ前にあるはずの先輩の顔は、もう夜に呑まれて見えない。薄い唇の端が上がった。

「僕も、周先輩も」
「……先輩のことをアンタなんかと同列にするな」
「同列だよ」
「違う!」

 拳を将棋盤に叩き付ける。下敷きになった駒の角が食い込むよりも、噛み締めた唇が痛い。

「絶対に違う。周先輩は、そんな、」
「まあ、どう思うかは人の自由だから良いけどね」

 立ち上がる先輩が手を伸ばす。「じゃ、これ貰ってくね」と言いながら、俺の王将を拾い上げてドアを開いた。
 学ランの裾が、風に煽られて揺れて消える。気付けば部室に届く光は、外廊下で光る電灯だけになっていた。

「んだよアイツ……」

 取り残された机の上を片付ける。王将が一つ欠けた盤面は、確かに王手になっていた。



 外廊下の手すりには、薄く雪が積もっていた。
 上靴の薄いゴム底からも、じんわりと冷たさが伝う。逃げ込むように引き戸を開けば、暖房の乾燥した熱気が目に沁みた。
 もうみんなは好きな席に座って将棋を打ち始めている。何か紙を広げた先輩の前だけが、誰も座らないまま空いていた。

「……お疲れ様です」
「あ、お疲れぇ。ちょっと待ってね、もうちょいで終わるから」
「いや、無理しなくても他の奴とやるんで。というか王将返してください」
「いーからいーから」

 嫌味に長い指が、ペンを回す。鞄を床に置きながら視線を下ろせば、紙には『卒業式送辞原稿』の文字があった。

「それ」
「ああ、最後の仕事だから。古田にとっては答辞の方が楽しみなんじゃない?」
「やっぱり周先輩ですか」
「そうだよー。まあ生徒会長がやるよね、どっちも」

 最初の一行以外、ほとんど埋められていない原稿用紙が畳まれる。除けられたそこに、将棋の戦場が整えられていく。

「王様が二人いるってなんか滑稽だよね」
「将棋は戦争だから当たり前じゃないですか」
「将棋に関してはそもそも王じゃないじゃん?」
「何ですかその話」

 爪が王将を引っ掻く。よく見ればそこには、王の字には無い一画があった。

「将棋の王って、元々は玉じゃん。なのに今では上手が王を使って下手が玉なの、面白くない?」
「ああ、なるほど」
「今じゃもう、両方王将で売ってるセットも珍しくないしさあ」

 ゆるゆると進んでいく盤上に、先輩の締りない声が重なる。

「王とか、代表とか、ほんと意味無いのに」
「アンタ、また」
「んー、なんてね。冗談だって」

 手を進める。今日はなんだか調子がいい。盤面が思ったように動く。こいつならここに置くと思ったところに、駒が来る。
 タン、と最後の一手を置く。

「王手です」
「ん、ありゃ、負けちゃった。強くなったねえ」
「いや、三年間も打ってれば嫌でも癖とか覚えます」
「そっかあ、いやあ嬉しいな。可愛い後輩に越えられるなんて」

 じとりと睨めば、それですら笑われる。最終下校のチャイムが鳴る。片付けを始めれば、先輩は荷物を持って立ち上がった。

「それじゃ、古田の戦勝祝いに卒業式くらいはちょっと頑張ろうかな」
「……アンタがやる気を出してロクなことがないんですけど」
「え? うっそだあ。僕がやる気を出したことなんて無いよ」

 そこかよ。
 地に足つかない笑い声が降ってくる。盤の上に木箱を置いて俺も立てば、ふとその顔に目がいった。記憶と角度が違う。見上げていた顔が近い。こいつ、こんなに背が低かったっけ。

「僕もう帰るね。卒業式、楽しみにしてるといいよ」


「嫌な予感はしてたんだよ」

 思わず手に力が入る。握った紙が皺になりかけて、すぐに離した。
 卒業式の日。書道部が清書した送辞原稿を持っているのは、アイツじゃなくて俺だった。本来であればアイツが座るはずだったパイプ椅子に俺が座って、出番を待つ。率直に言って死にそうだった。中学生は自由出席で、周りには当然高校の先輩しかいない。手と額に汗が滲む。その癖背筋はずっと冷えていた。
 それでも、逃げられない。アイツが机に入れたまま放置していたこの送辞原稿を、俺に渡した人の前で、醜態を晒すわけにはいかなかった。
 電報の紹介が終わる。司会の声が、やけに固まって聞こえた。

「それでは、在校生からの送辞を中学三年一組、古田北斗」
「はい」

 階段を上がって、ステージの上に立つ。黒い頭、黒い学ラン、黒いスーツ。目の前を埋め尽くす光景に心臓が圧し潰される。それでも一度息を吸えば、喉は動いた。

「卒業生の皆様、この度はご卒業おめでとうございます。現生徒会長、芥原に代わりまして、私が送辞を贈らせて頂きます」

 自分が何を話しているのか、言葉が頭の中で空中分解しそうになる。目の前にある原稿が、それを線で繋ぎとめてくれているようだった。アイツが書いた文章なのに。
 視線で追っていた文章が、最後の句点で結ばれる。顔を上げれば、相変わらず黒い中でも心臓の動きは軽かった。
 一礼して、ゆっくりと階段を降りる。用意された椅子に座った瞬間、全身から力が抜けそうになって肩を強張らせた。ここで気を抜くわけにはいかない。次は答辞がある。あの人の言葉が。

「続きまして、卒業生の答辞です。三年一組、周──」
「はい」

 立ち上がるその背すら、憧れた。
 ゆったりとステージに近付くたびに、その人の周りから空気が作り替えられていく。周先輩のために、今この瞬間がある。

「まずは、この場にいる全ての人に感謝を。私達の意思を継ぎ、新たなことに挑戦してくれた後輩達。君達がいてくれたから、この六年間が学校にとっても私達にとっても、無為ではなかったと誇りを持てる」

 力強い視線が会場に向く。芯のある言葉が続く。この人に肯定されるだけで、何故こうも許されたような気分になるのだろう。
 拍手で歓迎されながら教壇から離れる瞬間、その目が俺を見たような気がした。教壇の上にいた時とは違う、柔く冷たい目が。



 散った桜の花びらが、アスファルトに張り付いていた。
 去年と変わらない学ランはいつの間にか寸足らずになっていた。短くなった袖を引っ張りながら、去年まで自分がいた集団を眺める。
 卒業式の後に行われた生徒会長選挙は俺を選んだ。リコールも今年から正式に導入される。ようやく、自分達で選ぶ学校になる。
 言うべきことは頭の中に用意されている。去年のような醜態は晒さない。絶対に。

「おはようございます。これより、生徒会役員挨拶を始めさせていただきます。まず、今年度生徒会長に就任した古田から──」

 ステージの上に進む。教壇の前に立てば、千人の顔が俺を向いていた。微かに残った話し声すらも、俺の方を見ている。一度息を吸おうと視線を伏せた先に、見慣れた木目があった。
 縦長の五角形。書かれた文字は、王将。後から出てきた紛い物。

「……石鹸箱」

 頭の後ろが、ぐらりと揺れた。
 目の前で群れを成すアイツらは、本当に俺を選んだのか? 今日この日のために、何かしようとしていたか? 欲しかったのは自分達で選べる自由ではなく、選んだという充足感だったんじゃないのか?
 俺は、本当に、このためにやってきたか?
 用意していたはずの言葉が出てこない。喉が動かない。思わず目を向けた列の中に、あの野暮ったい前髪は無い。それなのに、浮ついた笑い声だけが鼓膜の奥で聞こえる。
 声帯に張り付いていた声の欠片が、剥がれ落ちる。マイクに通ったそれは、酷いハウリングになって耳を劈いた。