複雑・ファジー小説
- Re: 亘理佳也子と返報の夢 ( No.10 )
- 日時: 2022/08/18 23:03
- 名前: たろす@ ◆kAcZqygfUg (ID: wSTnsyhj)
* * * *
自分がうなされている声で目覚めるのは最悪だ。佳也子はそんな事を思いながら重たい瞼を開けた。
事故の事を夢に見たのは何時ぶりだろうか? 佳也子は少しだけ思い出そうと努力して、すぐにそれが徒労に終わる事を理解した。そんな物を見たのは昨夜が初めてだったから。
それは自分が自然に見た物なのか、それとも夢を操る妖魔が見せた物なのか、佳也子には判断が付かなかった。
こちらから夢魔と名乗った少女とコンタクトを取るには霊縛と呼ばれた力によって世界を切り離す必要がある。あちらを認識できるようになったとは言え、意志の疎通を行うほど明確に両者を結び付けるにはこちら側からは難しい。それはここ最近で佳也子が学んだことの一つだった。
どうしても寝起きから自分の身に潜む能力を発現する気にはなれなかったので、佳也子はベッドを抜け出しながら自分を一晩苦しめた夢を思い返した。
事故の瞬間の夢ではない。事故の後、自分は何処かで見た様なリビングルームに佇んでいて、二人の男と一人の女が何やら向かい合って座るテーブルを眺めていた。男女は夫婦の様で、もう一人の男と向き合うように座っていた。どれもが悲痛な面持ちだったのは思い出せる。
ズキリと頭の片隅が痛んだ。目の裏側に熱した針でも刺されたような鋭い痛み。夫婦と思われる男女に向き合った男に見覚えがある気がした。だが、それを思い出そうとすると鋭い痛みが思考を奪い去った。
「佳也子、お父さんを起こして頂戴」
母の声が聞こえて、佳也子はいつもの亘理佳也子に戻る。もう慣れてしまった毎朝のひと時。
両親の寝室の戸を開けるともう一度、今度は胸の辺りが痛んだ。それから、昨夜の夢が脳裏を奔り抜ける。
「お父さん、刑事さんの名刺を持ってない?」
言葉を発して、佳也子はその声がまた自分の意識を押しのけて出てきた声だと気付いた。佳也子は間違いなく、いつも通り「朝だよ」と言おうとした。それがいつもの、本来の亘理佳也子なのだから。
朝は滅法弱い父が跳び起きる姿を眺めながら、佳也子は自分の口が吐き出した「刑事」と言う言葉について考えた。別に佳也子本人が考えたかった訳ではない。ただ、その言葉の意味に無意識に思考がいっただけだ。
親戚に刑事は居ない。佳也子も両親も刑事の世話になった事など無い。
だが何か、何かが引っ掛かった。最近そのような、刑事だとか警察だとかそう言った公安機関についての何事かが自身に起きた様な、そんな気がした。
「佳也子、なんだって?」
いつもの様に眠気眼を擦るでもなく、父はゆっくりと問いかけた。その眼は真直ぐに佳也子の目を見つめていた。
佳也子は感じた。恐怖を。
佳也子自身が感じた恐怖ではない。父が感じている恐怖だ。あちら側の力に蝕まれ始めているのか、佳也子には他人である父親が感じているのであろう恐怖が肌に触れる様にわかった。
だから佳也子は笑った。無理矢理にいつも通りの笑顔を作る。
「お父さん、朝だよ」
佳也子は今度こそいつも通りの朝を演じた。完璧に。
父はゆっくりとベッドを抜けだして、それを見届けて佳也子は母と母の朝食が待つリビングへと向かう。完璧だ。そして父を見送り、自分も亘理家の門をくぐる。そう、これで良いのだ。胸と頭の片隅の痛みと無意識に出た言葉さえ無ければ、完璧な朝だった。
佳也子は学校への道を黙々と歩みながら自分の口から飛び出した言葉を脳内で反芻した。
刑事の名刺とは何だろうか。そのような物を自分が欲しがっているとは到底思えない。例え佳也子自身が望んでいない無意識の何かが欲していたとして、果たしてそれを得て何だと言うのか。佳也子自身にとって刑事の名刺など紙切れに他ならない。では夢魔と名乗った少女だろうか。それも甚だ疑問だ。少女が望みさえすれば、父の夢でも何でも入り込んで名刺の在り処などすぐに探し出す。父の夢として視れば良いだけなのだから現物を用意する必要すらない。
目の奥がズキリと痛んだ。猛烈な痛みだ。灼熱は目の奥から脳髄を焦がし、そして佳也子の胸へと下って臍まで続く傷跡を撫でた。
「佳也子、やめなさい!」
痛みに明滅する脳内に夢魔と名乗った少女の声が響き渡る。何時に無く焦りを含んだ声だ。だが、それは小さく遠い。
佳也子の周囲が乳白色の世界に包まれた。時間は止まり、世界が宇宙の真理から切り離される。
切り離された世界には少女が居た。それから名も知れぬいくつかの異形が。それらは黒く塗りつぶされた人形の様に、闇ばかりが主人無き影の様に渦巻いている。少女の言った、低級なモノどもだろう。あちらを意識出来る様になった佳也子に付いてきてしまったモノどもだろう。
この世生らざるモノどもがざわめいた。音がするでもそれらが動いた訳でも無い。ただ、それらは確かにざわめいた。恐怖に。この場合、既に死んだモノどもが恐怖を感じる事に驚くべきか、死者すら震わす恐ろしき波長を畏れるべきか。
切り離された世界の真ん中で、佳也子は自分が今までに無いほど清々しい気分で佇んでいる事を知った。偽りの亘理佳也子の皮を、殻を、封を解き放った真の自分自身がそこに居るような心地よさ。
対して囚われの夢魔は自分が今まで犯してきたいくつかの間違いの中で、今回の間違いは最悪の失態だったことを深く思い知った。眠れる獅子の尾を踏んだ程度ならもう一度寝かせるだけだが、眠れる鬼神の眠りを覚まし、あまつさえ寝床を燃やして飢えた目の前に自身の姿を晒す様な真似をしてしまうとは。昨夜佳也子に見せた夢は、自分自身を窮地に追い込んだ。少女の欲した真実とは別の形で少女の前に現れてしまったのだ。
このままではまずい。少女は戦慄する自分を必死になだめながら心の中で呟いた。恐れや迷いは容易く力を減退させる。目の前の鬼神に弱みを見せる訳にはいかない。
――鬼神、まさしく目の前に佇む佳也子は鬼神の如き負の感情の権化だった。迸る凄絶な気の凄まじさよ。
普段通りのややおっとりとした表情の中に爛と輝く血涙を湛えた様な深紅の瞳、やや口角の上がった微笑む様な唇も同じ様に、ただしこちらは今しがた血肉を喰らった様な禍々しい紅を栄えさせている。
その姿を見ただけで、少女は既に死して久しい自分の体が硬直し、全身が総毛立ち、膝が震えて汗が噴き出るのを感じた。そうして知る。佳也子が発作的にこの霊縛と名付けた能力の片鱗を垣間見せていたのは、この恐ろしき存在が佳也子の存在を打ち破って、こちら側へ出てこようとしていたのだと。
少女は一瞬だけ、佳也子への報酬を先払いしてしまおうかと考えた。この鬼神は確実に佳也子の負った過去の傷と結びついている。ならば佳也子の過去を夢と化してしまえば自ずとこの存在も消え去るはずだ。
だがそれが全く愚かな考えだと少女はすぐに気付いた。生者たる佳也子に夢を見せるのと、明らかにこちら側に属する、それも相当に力の強いこの鬼神に夢を見せるのでは訳が違う。マッチ箱を動かすのと何もない所から金塊を生み出す事程度に違う。少女の夢見の能力がこの鬼神に通用するとはとても思えなかった。
格が違う。少女は漠然と感じた。
こちら側にもある程度階級的なものがある。少女の様な意志ある魔性と、佳也子が今捕えている様な意志なき異形では棲む階層が違うし、当然霊的な階級も異なる。目の前の鬼神は霊的階層としては同じ層に居るはずだが、それでもその身に宿した波長は少女のそれを遥かに凌駕する圧倒的な力を宿している。
怒り。鬼神が放つ波長は純粋な怒りの感情だった。少女の力は憎しみの感情から生み出されている。そう、意志には常に感情が伴うのだ。少女が自身をこんな存在にした相手に対する憎しみを力に還元するように、この鬼神は燃え盛る憤怒を糧に世界を切り離している。
違う。少女は感じた。この力は何か特別な能力じゃない。それはまるで強すぎる重力の様に周囲を歪ませてしまっているんだ。少女はそう気付いた。そう思えば何となく納得がいく。
佳也子が能力を発現させていたのはいつも自分の身体に醜い消えない傷を付けた過去を垣間見せられた時だった。つまり、子供の集団と、白い乗用車。佳也子が遭遇した理不尽な存在、それらに対して湧きあがる無意識の怒りが、この鬼神を僅かに外へと出現させ、そしてこの鬼神の纏う圧倒的な怒りが周囲を歪ませていたのだ。
ふと、もう一度異形のモノどもがざわめいた。それは戸惑いだった。目の前の鬼神に戸惑っているのだった。生者たる佳也子に引き寄せられたはずなのに、目の前に居るのは異形のモノどもを遥かに凌駕した恐るべき存在なのだからそれも仕方が無い。
異形のモノどもが一歩近づいた。刹那、鬼神の腕が振られた。
その瞬間に起きた事を正確に表すならば、異形のモノどもが取り囲んだ輪を一歩の距離だけ小さくした。その位置は到底、鬼神も異形のモノどもも触れあうには及ばぬ距離だ。腕を伸ばしても届かない。それなのに、異形のモノどもはこの世の物とは思えぬ、こちら側の世界でも聞いた事の無い様な絶叫を上げて霧散した。見向きもせずに振われた腕の一振りによって。触れもせぬ、ただ意志の力だけによって。
目の前の鬼神が腕を振った以外に何をしたのか、少女には分からなかった。ただ、この世界に残ったのが自分と、目の前の鬼神だけだという事はわかっていた。
そして、僅かにこの危機を脱する希望を得た。鬼神の表情が明らかに驚きと、戸惑いを宿していたからだ。事実、鬼神たる佳也子は驚きと混乱を感じていた。身体が勝手に動いて、何とも知れぬモノどもを蹴散らしてしまったのだから。
そこで初めて佳也子は夢魔と名乗った少女に気付いた。
「ムマちゃん、これ、何?」
声に出した途端、もう一度目の奥が痛んだ。何か分からない。ただ無性に、胸のあたりがムカついている。やり場の無い怒りが自分の中に渦巻いている。
「佳也子、いいこと? 深呼吸をして頂戴。ゆっくり、落ち着くの。わたしが今のあなたに夢を見せる事は恐らく無理よ。陽が高すぎるし、わたしはここ何日か随分力を使ってしまって弱っているの。わかるわね? 落ち着いて、自分の力でこの切り離してしまった世界を元に戻すの。出来るわね?」
少女の声がゆっくりと、慎重に響いた。
対して佳也子は、その鬼神の如き怒れる深紅の瞳に少女を映してゆっくりと頷いた。徐々に深紅の瞳は色を失い、その冬の湖を映した様な澄んだ黒瞳へと戻っていった。それと同時に、世界を覆った乳白色の霧は晴れ、後には呆然と立ち尽くす佳也子だけが取り残された。
* * * *
学校へ辿りついた佳也子は、いつも通りに瑞穂と揃って授業を受け、昼食の弁当を突き、他愛の無い会話を交わして半日を過ごした。有難い事に中間テストから解放されたからか、近頃の瑞穂はいつのも増して正の波長を放っていて、佳也子は十二分にその波長を吸収する事が出来た。
今朝の一件は勿論胸の奥底で蟠っているが、それをおくびにも出さない精神力が佳也子にはあった。佳也子自身が何かをした所で、夢魔と名乗った少女なしで何か解決出来る思えなかった事もあるが、少なくとも表面上、佳也子は普段の亘理佳也子で有り続ける事が出来た。
そんな午後のことである。
「佳也ー! 隣のクラスの万里がなんか話があるって!」
午後の最後の授業を終え、さあ帰るか、瑞穂を待つかと悩んでいた佳也子の鼓膜を瑞穂の声が揺らした。
「バンリ? 蛇ノ目くん?」
佳也子は何となくその万里なる人物の為人を思い出しながら問い返した。
蛇ノ目万里、佳也子自身は別段親しくないが、特に悪い噂も聞かない。交友関係の広い瑞穂曰く悪い人ではないが本性を隠している感じのする何とも飄々とした人らしい。そして少なくとも、わざわざ名指しで呼び出される様な間柄の相手ではない。
それでも教室の戸口で手招く瑞穂を放っておく訳にもいかず、佳也子は帰り支度をしていた鞄を一端机の上に放置して席を立った。
そんな佳也子を待っていたのは、大して面識もない佳也子の目からしても掴みどころの無い少年だった。外見から言っても長くは無いが短くもない黒髪、特徴の無い顔、衣類も共通の学生服なせいで余計に特徴が無い。ただ、その眼だけは何故か異様に気を引く。理由は分からない。その眼を覗くと、夢魔と名乗った少女と視線が交錯した時の様な、儀式めいた何かを感じる。それなのに、その少年の顔には本当に取って付けたような他人ごとみたいな作り笑いが張り付いている。まるでその儀式めいた眼を隠すかの様に。
「ちゃんと話すのは初めてかな。僕は蛇ノ目万里、万里の長城の万里。亘理佳也子さん、だよね?」
万里はこれまたどこかから無理矢理借りて来た様な何ともいい加減な声――恐らく本人はそんなつもりはないのだろうが――で自己紹介をした。
そして、こちらの名を確認しながら、何やら紙切れを渡して来る。ノートを適当に千切った様な、無造作に二つ折りにされた紙だ。
「僕自身は特に用は無いんだけどね。多分、これが必要なんじゃないかなって」
相変わらずいい加減な声でそう言って、差し出した紙切れへ視線を移す。
「は? アンタが佳也の事呼べって言ったのに、用がないってどーゆー事よ」
脇から瑞穂が割り込みながら万里の肩を小突く。これが瑞穂流の交友関係の広げ方なのを佳也子はよく知っている。つまり、正直に他人と触れあう事だ。
対して、小突かれた万里の方は特段気にした風でもなく肩を落とす。
「いやぁ、話すと長くなるって言うか、別に長くはならないけど変な奴だと思われるかもしれないんだけど……」
そこまで言った時点で瑞穂が「元から変な奴でしょ」と遮る。そう、正直なのだ。ただひたすらに正直だから、佳也子は瑞穂の事が好きだった。
そんな正直な邪魔を入れられて、万里は更に肩を竦めて見せる。瑞穂とは真逆の、如何にも作り物みたいな動作だ。
「じゃあ言うけど、夢なんだよ。さっき気持ちよく昼寝してたらさ、夢を見たわけ。それで、起きたら亘理さんに伝えなきゃって思ったんだよ。何でかなんて野暮な事聞かないでくれよ? 僕だって何でこんな事を伝えるのか、これが何なのかよく知らないんだから」
そこまで一息に言うと、万里は未だに状況を上手く把握しきれずに面食らっている佳也子の手を取って、無理矢理にその粗雑な紙切れを握らせた。その瞬間、佳也子と見つめ合う万里の瞳、その瞳孔がキュっと絞られた様な気がした。
そしてそのまま、佳也子の反応も待たずに踵を返す。
「あいつ、やっぱ変な奴だなぁ……。何かごめんね、変な事に巻き込んで」
万里の背中を見送りつつ瑞穂が言う。確かに変な人だと佳也子も思った。ただ、それ以上に、蛇ノ目万里の言葉に心が引かれた。彼に夢を見せたのは誰だろうか。
佳也子は僅かな疑問を胸の奥に隠したまま、そっとその二つ折りの紙切れを開いた。
「ねぇ、それ、何が書いてあるか知らないけど、もしもラブレターなら後で教えてね! あんな手渡し方があるか! って文句言うから!」
隣から聞こえる瑞穂の声に、佳也子は曖昧な笑顔で頷いた。
紙切れには短く走り書きされているだけだった。
誰とも知れぬ男の名と、市外局番から始まる電話番号、それから……。
『過去』と。
* * * *