複雑・ファジー小説
- Re: ミストゥギア ( No.1 )
- 日時: 2022/07/03 00:33
- 名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)
――――この世界は『霧』に支配されている。
それは何時からだったか。人々の記憶と記録からはとうの昔に消え去った、古き時代。
広く、自由だった世界に『楔』が打ち込まれた。鈍い音を立てて駆動する歯車と、時計の針が合わさったような何かが、森に、野に、山に、海に突き刺さった。
世界が震える。突き刺さった『楔』の根本から、得体の知れぬ『霧』が世界を満たし始める。
水が冷えて生まれる霧ではなかった。その『霧』に包まれた生物は迷い、戻れなくなる。果てには、おおよそ進化の過程を無視したような生物に成り果てる。
人々の生存圏はあっという間に狭まり、僅かに残された『霧』に包まれぬ大地で生きる事を余儀なくされた。
――――この世界は『霧』に支配されている。
それでも、確かに人々は生き続けている。
◆
その日、世界が震えた。
階層都市『ヴェルドミッテ』。『霧』に包まれた世界で、指で数えられる程しかない人々の生存圏の一つ。その下層――貧民街と呼ばれる一区画は、喧騒に包まれていた。
人々の戸惑う声。高らかに鳴り響くサイレンの音。警告を表す赤の光。それらが日常的な光景でない事は、困惑で満たされた雰囲気が如実に示している。
「散れ! 散れ! 『霧』に飲み込まれたいのか!」
コンクリートの住居が立ち並ぶ、決して広いとは言えない路地。そこに所狭しと立った人々の視線は、はるか路地の先に見える『霧』に集約されていた。
人々……いや、野次馬に対して大声で警告しているのは、『霧』と野次馬の間に壁のように立っていた、物々しい装備を全身に纏った人々だ。
鋼鉄の警棒。カーキ色の軍服。顔全体を覆う、機械的なヘルメット――画一的な装備を纏った彼らの腕に巻かれた腕章には、十字のシンボルが刻まれている。これは、『ヴェルドミッテ』における警察組織――通称『エニグマ』の所属である事を表していた。
「どけ、どいてくれ!」
声を荒らげながら、野次馬をかき分けて、『エニグマ』の隊員と同じ装備に身を包んだ一人の青年が飛び出してくる。繰り返す荒い呼吸、汗で額に張り付いた赤い髪。青年が、この場まで全力で走ってきた事は容易に伺えるほどの様相だった。
青年の視線が、路地の奥に漂う『霧』に向かい――目が見開かれる。
「……嘘、だろ」
掠れた声が喉から漏れる。唇が震え、ギリリと音を立てながら歯を食いしばる。そして何を考えたのか――フラつきながら『霧』へと向けて駆け出した。
「っ! 何をしているんだ、フレイ! 死にたいのか!?」
路地を封鎖していた隊員の内の一人が、戸惑いの声を荒げながら青年――フレイの行手を阻む。抱き留められるように止められたフレイは、憔悴した様子で手を『霧』に伸ばした。まるで、その『霧』の中にある何かを求めるように。
「……どいてくれよ。あそこには――俺の家族が居るんだよ。助けねぇと……助けねぇと!」
「『霧』に飲まれた者は――もう助からない。分かっているだろう……!」
「どけっ、どけよっ!!」
行く手を阻む腕を振りほどいて、フレイが飛び出す。だが――背後から組み付くように隊員に押し倒され、地面に押し付けられるように拘束される。
隊員のヘルメットが、衝撃で外れた。押し込められていた銀の長髪が、フレイの頬を撫でる。
「……離してくれよ、ジーヴル。あいつらを――助けねぇと……」
「……ッ駄目だ。行かせる訳にはいかない……! 『時律機』の設置を急げ!」
「離せ……離してくれよ……」
懇願する声。苦虫を噛み潰すような表情を浮かべた女性隊員――ジーヴルが、それを拒否する。か細い声は、慌ただしくなり始めた軍靴の音に掻き消されて。
フレイが手を伸ばす。『霧』に沈んだ向こう側。そこに居るはずの家族を求める。
「……すまない」
頭上から小さく呟かれた、謝罪の言葉。頬を伝った涙が、硬いコンクリートにシミを作って。伸ばした手が力無く、地面に落ちた。
◆
……最悪の寝覚めだった。フレイは、無機質なコンクリートの天井に伸ばされた手を、投げ出すように下ろす。
白い息が漏れる。肌を刺す寒さと、肺に流れ込む埃混じりの冷たい空気。聴覚を刺激する不快な音は、天井に備え付けられた光と熱を放つ照明で虫が焼ける音だ。
体を起こす。ひび割れた革張りのソファは、寝床としては最悪の一歩手前だ。ソファの前のテーブルには、空になった酒瓶が三本転がっている。
「……クソが」
悪態が口をついて出る。酒の飲み過ぎで痛む頭に、悪夢の光景が蘇った。『霧』に沈んだ、己の生まれ故郷――家族。夢であってくれ、と何度も願った出来事から、もう六年の月日が経った。
『エニグマ』は、あの出来事から間もなく辞した。養うべき家族も、守りたいと思っていた大切な人も、皆『霧』に沈んだから。
寝起きだからか、まだ酔いが残っているのか。ふらつく足で、床に散乱したいつ飲み干したかも忘れた酒瓶を蹴って、霜の張った窓ガラスへと近づく。
結露を手で拭う。ガラスには、あの頃より老け込んだ男が映り込んでいる。
「クソみてぇな面だ」
ボサボサの赤髪。生気の失せた碧眼。こびりついた隈は下手な化粧にも劣るぐらい不格好だ。
ガラスに映る自分を嘲笑する。ガラスに映り込んだ自分も己を嘲笑する。
……これは呪いだ。守ろうとした者を喪い、のうのうと怠惰に生きている自分に対しての。
「……テメェはクソだ」
ガラスの中に映る自分を罵倒する。か細い声は、冷たい空間に虚しく吸い込まれていった。
◆
BAR『ブラック&ホワイト』。『ヴェルドミッテ』の下層、貧民街の一角に居を構える、寂れた酒場。その店――の二階の倉庫が、フレイの今の住処だ。
防寒仕様の暗色のモッズコートを羽織る。ミリタリーズボンの左右からベルトで吊り下げられた一対の鍔の無いブレードは、『エニグマ』を辞したときに永久的に借りた物だ。
現在のフレイの職業は、簡単に言えばBAR『ブラック&ホワイト』の『用心棒』だ。暗黙の了解で維持されている貧民街の治安も、一度花火が上がれば瞬く間に崩れ去る。元々法整備など欠片もされてないような所だ。自主的に『用心棒』を雇い始めるのは自然な流れだった。
『エニグマ』が守るのは、飽くまでも『ヴェルドミッテ』における上層――いわゆる上流階級に該当する人々だ。下層の貧民街の人々はその対象に入っていない。
鉄板が仕込まれたブーツと、寒気が立ち込めた鉄骨の階段が擦れて甲高い音を奏でる。急勾配の階段を降りれば、客の一人も入っていない寂れた酒場だ。
木製のシーリングファンの下には、まるで統一感の無い椅子とテーブルが並べられている。木製の一般的な物もあれば、鉄板を切り出したような物や、バイクや車のシートを引っ剥がしたであろう物まで。
廃材アートとでも言うのだろうか。芸術にとんと興味のないフレイは、その芸術性の一端すら理解出来ないが。
「おう、やっと起きたか」
呼びかけられた声に視線を向ける。そこには、灰色の髪を後ろに撫で付けた痩躯の男性が、カウンター席に座っていた。顔に刻まれた小皺が、それなりに齢を重ねてきた事を感じさせる。
男性が、右手に持った酒瓶を傾けて酒精を口に流し込む。前を軽く開けたシャツの間から覗く肌は赤みを帯びていて、相当な量を飲んでいるようだった。
この男性こそが、BAR『ブラック&ホワイト』のマスターだ。
「……朝っぱらから酒かよ、ウォルト」
「ぷはっ……もう昼前だぜ。それにここは酒場だ。酒飲んで悪い事ァねぇだろう」
「マスターが殆ど飲んじまう酒場なんてあるかよ」
「ハハ、ここがそうだ」
痩躯の男性――ウォルトが、笑いながらカウンターバーの上に置かれていた酒瓶を手にとって、フレイに向かって放り投げる。放物線を描いて飛んできたそれを掴み取って見れば、貼り付けられたラベルには妙に腹の立つ男性の顔が描かれていた。
「なんだ、これ」
「迎え酒だ。一杯いっとけ」
「…………チッ」
舌打ちをしながら、封を切った酒瓶を傾けて、喉に流し込む。食道が焼けるような感覚と、ただただ苦いだけの味の悪さ。手っ取り早く酔う為に作られたような安酒だった。
「……クソ不味い」
「ああ? 俺が作った酒に対して随分な言い草じゃねぇか」
「自作かよ。度数高いのばかり飲みすぎて舌が馬鹿になってんじゃねぇか?」
「それもそうだな、ハハ。まぁ、目は覚めたろ」
確かに、その不味さが寝起きの頭にはいい刺激になるのは間違いなかった。口元に僅かに零れた酒を手で拭って、瓶の封を閉める。
幾分かハッキリした意識でウォルトに視線を向けてみれば、やけに鼻につくニヤついた表情を浮かべていた。
「……なんだよ」
「なぁに、迎え酒ついでに仕事を頼みたくてな」
「あぁ? 『用心棒』以外の仕事は契約外――」
「おいおい、飲んだ酒の分ぐらいは働けよ。それだって商品なんだぜ?」
「売ってねぇだろ……」
ウォルトがフレイの持った酒瓶を指差す。
――――最初からそれが目的だったな、こいつ。
嘆息しながら肩を落として、苛立ちを抑えるようにガリガリと頭を掻いた。ついでにそういう魂胆なら、この酒は俺のもんだな、と言うように酒瓶を懐に仕舞った。
まぁ、そもそも『用心棒』として雇われて、寝床を無料で提供してもらっている身だ。強く拒否しようもんなら追い出されかねない、と気を取り直したフレイが、ウォルトに問い返す。
「何すればいい」
「荷物の運搬。仕込んでたワイン樽を納入してくれや」
「…………おい、酒飲ませた奴に車運転させる気かよ」
「『ウルヴァス』なんだから平気だろ。そもそもお前さん、ザルじゃねぇか」
ウォルトが口にした『ウルヴァス』という単語は、この世界における種族の一つだ。獣の特徴が強く表れた、身体能力に優れた種族。事実、フレイの頭頂部には一対の狼の耳が生えているし、肌着に覆われて見えないが、背骨に沿うように赤い体毛が生え揃っている。モッズコートの下にはふさふさとした尻尾が揺れているのだ。
対してウォルトは『ヴィーク』という、この世界で最も人口の多い種族だ。頭の回転が種族的に早く、学習能力の高い種族。特徴的なのは、男性であれば右目に、女性であれば左目に二つの歯車が噛み合ったような紋様が浮かび上がっている事だ。ウォルトであれば、その灰色の眼の内の右側に歯車が刻まれている。
『ウルヴァス』はその身体能力もさることながら、生命力にも優れている。毒物にも耐性が高く、必然的に酔いにくい身体であり――『ウルヴァス』であるフレイが迎え酒の一口如きで酔うはずもなく。
「……どこに運べばいいんだ」
フレイの不服そうな声にカラカラと笑いながら、ウォルトが上を指差す。そこには木製のシーリングファンと、無機質なコンクリートの天井があるだけだったが――フレイにはそのジェスチャーが何を意味するのかは分かった。分かってしまったので、肩を落として嘆息する。
「……上層かよ」
「そういうこった。慎重に運んでくれよ? お得意様への大切な荷物だからな」
「…………? 分かったよ、クソが」
「ハハ、もうちょいボキャブラリー増やせよ。荷物積んだ車は店の裏だ。キーは挿してあるぜ」
苦し紛れの悪態も、笑いで返された。そこには妙な念押しをするウォルトへ感じた違和感を誤魔化す意図もあったが――すぐにどうでもいいか、と思考を破棄する。
……そう、どうでもいいのだ。なにかしらの裏があろうが、思惑があろうが。その結果、何かに巻き込まれようが――命を落とそうが。
フレイにとっては、どうでもよかった。
◆
吹き抜けになった入口から外に出る。頭上を見上げれば、上層と下層を隔てる鉄の蓋が、陽の光を閉ざしている。
視線を下ろす。遥か遠方には、『霧』沈んだ区画を封鎖する為に、『霧』を抑制する『時律機』が組み込まれた壁がそびえ立っている。その向こうには、フレイの生まれ育った区画があるはずだった。
「…………クソみてぇな世界だ」
口をついて出た悪態。それを嘲笑うように、冷たい風が頬を撫でていった。