複雑・ファジー小説

Re: ミストゥギア ( No.2 )
日時: 2022/06/02 20:39
名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)


 BAR『ブラック&ホワイト』の裏路地。陽の光の差さない、暗い空間。無人になった隣のビルのひび割れた壁に空いた穴から、紅い目の鼠が飛び出してくる。
 それを横目に見ながら、黒い水溜りを跳ねさせながら歩いた先に古めかしい車があった。
 凹凸の目立つドアに、ガタガタのタイヤ。かつては赤だったのだろう塗装は、斑模様に剥がれ落ち。その上から汚れでコーティングされている。

 車の近くまで歩み寄る。そうすれば、より鮮明に見える車体の汚れ。黒ずみ、こびりついた土と砂。タイヤは錆びている。
 とてもじゃないが、まともに動くようには見えない。下層にある車で綺麗な状態なモノなど中々無いだろうが……だからと言って、これはどうなんだ。

 憂鬱な気分でドアの取手に手を掛け、開けてみようとすれば――案の定、ガタガタと揺れるだけで開かない。フレイの額に、青筋が浮かんだ。

「――フンッッ!」

 思い切り力を込めて引っ張る。いや、引っこ抜くと言った方が正しいのだろうか。『ウルヴァス』の身体能力で発揮された力は、過不足なく取手へと集中し。

 「あ」

 バキリ、と鈍い音を立てて開かれたドアの取手が外れて、もはや何の役にも立たぬ曲がった棒状の金属だけがフレイの手の中に収まった。
 冷や汗が背を伝う。脳裏に弁償の二文字が浮かんで――そもそも廃車ギリギリのレベルの車だし問題ないだろう、と自分勝手な結論を下す。
 

 ――――ドアは開いたのだから問題なし。


 そう、自分を納得させる。手に収まった取手を放り投げ、腰に吊り下げていたブレードを、ベルトごと外して助手席に放り投げる。運転するには邪魔だからだ。
 運転席に座り、冷え切ったキーを回す。エンジンのメンテナンス自体はされていたようで、心配していたエンジンは問題なく一発で掛かった。
 
 微振動する背もたれに体を預けながら、エンジンが温まるのを待つ。『ヴェルドミッテ』の下層部は、陽の光がまともに当たらない事もあって寒々しい。雪こそ振らないが、フロントガラスに張り付いた霜はしばらく溶けそうになかった。

「……どうすっかね」

 低い天井を眺めながら、白い息を吐き出す。荷物の届け先はウォルト曰く『上層のお得意様』だ。上層と下層は道こそ続いているが――その行き来に掛かる労力は、下層側からの方が遥かに大きい。
 上層の人間が下層に降りてくるのは問題ない。わざわざ好き好んで降りてくるような物好き自体がいない事には目を瞑るとして、その行為に面倒な手続きも許可もいらない。
 だが、下層の人間が上層に行くのは別だ。ある種の選民思想が染み付いた上層部の人間にとって、下層部の人間が上がってくる事は我慢ならないらしい。
 フレイがため息をつく。厳しい検問は当然ながら、荷物も全てチェックされるだろう。最悪、車ごと接収されるかもしれない。

「……まぁ、それならそれでいいか」

 フレイが受けた仕事は『荷物の運搬』だ。最終的に依頼主に届けば良いわけで、フレイ自身が届ける必要はない。責任感の欠片もないような思考だが――その責任の欠片すら背負いたくない、というのがフレイという男だった。

 フロントガラスの霜が取れるまで十数分。微睡み始めた意識を繋ぎ止めて、あくびを噛み殺す。
 『ヴェルドミッテ』は広い。上層に繋がるハイウェイへ向かうだけでも、半日以上は掛かる。

 退屈なドライブになるのは、間違いなさそうだった。



 ◆



 『ヴェルドミッテ』は山岳を切り開いて作られた、三層で構成された階層都市だ。中央に『霧』に対しての結界のような役割を果たす、巨大な柱型の『時律機』が天を貫くようにそびえ立ち、最上層から下層まで円錐状に鉄の大地が広がっている。

 その中でも下層は最も広大だが、最もごみに溢れ――最も貧しい区画だ。

 うず高く積まれた瓦礫と廃材。木製、煉瓦造り、鉄筋構造と統一感の無い家屋が立ち並び、少し遠くへ目をやれば、法整備されていれば間違いなく違法建築のビル群。無人の廃墟となったビルの下では、とうの昔に動かなくなった自動販売機が、その胃を腐らせている。
 頭上に張られた鉄の蓋からは、大小様々なパイプが枝垂れるようにぶら下がっている。所々に設置された割れかけの巨大なモニタでは、上層の有り難いお話が映し出されているらしい。何時からか音も出なくなって、貧民街の住民は寄り付きもしなくなったが。
 
 この貧民街は、光を見れば日々を懸命に生きる人がいる。貧しい中でも良心を捨てぬ者もいる。が、そこから目を逸らせばロクなもんじゃない。
 ロクな物がないのに廃材を漁る子供。路地裏に目を通せば、餓死した浮浪者が倒れている。治安を守るはずの警察である『エニグマ』は、何時からか腐りきっていて犯罪行為を金で見逃すようになった。
 
 整備なんてされてない凸凹の激しい路面は、オンボロ車の貧弱なタイヤ周りと相性抜群だった。時折、身体が浮き上がるぐらいの衝撃を腰に受けながら、ゆっくり車を進ませる。
 出立するのが遅かったのもあって、全行程の半分を終える頃には日はとっくに暮れて、周囲は夜の帳を下ろしていた。乱雑に取り付けられた街灯と、頭上を覆う鉄の蓋の底に取り付けられた照明。何故か動力が通りっぱなしの廃墟ビルのネオンサイン。それが、夜の中でも『ヴェルドミッテ』は無駄に明るく照らしている。
 夜に好んで外に出る住民は少ない。ギャングなり浮浪者なりに餌食にされるのが目に見えているからだ。事実、フレイが進む路地からは人気は感じられず、エンジンの音だけが虚しく響いている。
 
「……今日はもういいか」

 路端に適当に車を停める。今日中に届けろ、なんて言われていないのだ。夜通し走らせてまで荷物を運ぶ義理はどこにもない。
 
 シートを軽く倒す。『ヴェルドミッテ』の寒々しい夜の中で車中泊など、下手をすれば凍え死ぬ可能性もあるが――『ウルヴァス』であるフレイはその心配もない。『ヴィーク』なら凍え死ぬだろう温度も普通に耐えられる。

 ――――仮に死んだとしても、それすらどうでもいい。

 瞳を閉じる。瞼越しに主張していた光が、意識が落ちるのに連動して遠ざかっていく。数分もすれば、フレイは完全に夢の世界へ旅立っていった。



 ◆



 上下が逆さま。左右が逆さま。正転と逆転が混ざり合って、どこを向いているのか分からない。
 眼の前はまるで『霧』のように真っ白だ。もし『霧』の中に迷い込んだらこんな光景なのだろうか、とフレイは皮肉げに笑う。
 
 これは夢だ。そう、フレイは自覚していた。

 明晰夢というやつだろう。夢自体を見るのが久々だというのに、また物珍しい体験をしたものだ。
 とは言え、それが分かった所で何かが変わるわけでもなく。夢を自由に操れるという事もなく、ただ退屈に何もない白い空間を漂っているだけ。
 これなら夢なんぞ見ずに、さっさと寝て起きたかった、とフレイがため息をついた所で。

 
「――――――――!」

 
 声が聞こえた。鼓膜を僅かに揺らす程度の、今にも崩れてかき消えてしまいそうな、か細い声。だが、その声を聞いた途端に。フレイの目が見開かれ、表情が凍りつく。
 知っている声だ。聞き覚えのある声だ。聞き慣れたはずの声だ。ずっと聞き慣れていて――もう聞けなくなった声。

 
「――――――……!」
「…………やめろ」

 
 咄嗟に否定する。それを聞かせるな。明晰夢だっていうなら、自分の思い通りになるはずだろう。やめてくれ。そんな思考で埋め尽くされる。だって、その声を聞かせてくれる人は、もういないのだ。いなくなってしまったのだ。これ以上――俺を責めないでくれ。


「おにぃ!」
「やめろッ!!」

 
 はっと目が覚める。荒い呼吸で肺に流し込まれる冷たい空気が痛みを訴えて、寒さが身体を覆っているはずなのに、心臓が燃えるように熱い。眠気は遥か彼方へ飛んでいき、疲労感が全身を包み込んでいる。額に滲む汗が頬を伝い、それを拭うように目を手で覆った。

 ――最悪の夢だった。声が、自分を『兄』と呼ぶ声が、耳穴と鼓膜にこびり付いて離れない。

 ……『妹』の声だった。六年前、『霧』に沈んだはずの、幼い声。

「…………クソが」

 バリエーションに乏しい罵倒を繰り返す。今日は寝起きから最悪な事ばかりが起きる。いや、それを言うのなら――こうして生きている自分が、もっともクソだ。
 グルグルと思考が廻る。フレイという男には何の意味もない。そんな事はわかっている。分かっていてなお、ただ生きているだけ。
 臓腑の底から絞り出されるような吐息が、白い糸になって解けていく。もう、寝付けそうになかった。
 
「…………?」

 ふと、気付く。首裏に、ざわりとした感覚。脳が乱れていて、先程までは気付かなかった、わずかな違和感。
 横になったまま、視線をサイドガラスへ向ける。霜が貼って、外の様子は伺えない。だが、フレイは何かに感づいたように目を細める。

 ――――誰か、いる。

 ゆっくりと体を起こして、嘆息する。そして――助手席に投げられていたブレードを、手に取った。



 ◆



 その人影は、極力音を立てずに路端に停められた車の荷台――コンテナに忍び寄っていた。周囲を警戒しながら、ゆっくりとゆっくりと荷台までたどり着き、コンテナの鍵に手を掛ける。
 フケの目立つ無造作に伸ばされた髪の毛、淀んだ瞳、口元を隠す布。身に纏う服は汚れが目立ち、正しく浮浪者という言葉が似合う出で立ちの中年の男性は、貧民街では珍しくもない物盗りだ。

 ――――酒の臭いだ。
 
 布に隠れた口元が、ゆっくりと弧を描く。男の片側が詰まった鼻孔は、確かにコンテナの中に積まれた酒の臭いを嗅ぎ付けていた。
 そっと、慎重に。呼吸すら惜しみながら、ゆっくりとコンテナの取手に手を掛けた、その時。

「おい」

 背後から掛けられた声に、肩を大きく跳ねさせる。慌てて振り返れば、そこには腕を組んで鋭い視線を向ける赤髪の青年――フレイが立っていた。焦りながら、咄嗟に懐へ手を突っ込んだ所で。

「――それを取り出したら殺す。よく考えろ」
「ひっ…………」

 底冷えするような声。フレイの両手は、すでに腰に付けられた一対のブレードの柄に添えられている。心の臓を貫くような殺気に、物盗りの男性の喉から、乾いた音が漏れた。
 男性の懐からチラリと覗いていたのは、鈍い黒の光沢のある物体。銃だ。だが、この距離ならたとえそれを取り出しても、それより早くフレイが男性の腕と首を胴体から切り離せる。
 
 数回の逡巡。混乱する思考で、悩みに悩んだ結果。観念したように物盗りの男がズルズルとコンテナを背に座り込む。そして視線を左右に彷徨わせた後、ゆっくりとフレイに視線を向けた。

「な、なぁお兄ちゃん……今積んでる荷物は、さ、ささ、酒だよな?」
「…………ア゛ァ゛?」

 迂闊に放たれた『兄』という言葉に、思わず唸るような声が出た。物盗りの男は、今度こそ生きた心地がしなかった。

「酒だったらなんだよ」
「さ、ささ……酒、切らしちまってんだ。ほ、ほん、ほんのちょっとでいいんだ……わ、分けてくれよ」

 盗みを働こうとしておいてなんという厚かましい願い事だろうか。あまりの面の皮の厚さに、苛立ちを通り越して呆れの感情が湧き上がってくる。
 ふと、懐に仕舞い込んだままの酒瓶を思い出す。ウォルト特製のクソ不味い酒。もうどうせ飲まないだろう。そう考えたフレイは、懐から酒瓶を取り出して、無造作に男に向かって放り投げた。放物線を描きながら飛んでくるソレが酒だと気付いた男の目の色が変わる。

「お、おおお! マジか! あ、あ、ありがてぇ!」

 男は身体全体で抱え込むように酒瓶をキャッチすると、震える指先で封を開ける。口元を覆った布を下げ、伸び切ったヒゲの合間に覗く唇と酒瓶の口で熱い接吻を交わした。
 どうやら味や風味はどうでもよく、酔えればいいらしい。みるみるうちに流し込まれて減っていく酒瓶の中身に、若干フレイも引き気味だ。

「……んぐ、ぶはーーーっっ!! 生き返った! 生き返ったぁ!」

 男が、口元から零れ落ちた酒を腕で拭う。唾液混じりの酒でテラテラと照らされた髭が、わずかばかりに生気を取り戻していた。
 あの酒でそこまで喜べるのかよ、と。フレイがうんざりしたような表情を浮かべる。
 
「……そりゃよかったな」
「アンタは命の恩人だぁ!  ありがとなぁ!」

 人が変わったようにハキハキと喋りだす男。よく見れば指先の震えも止まってる。典型的なアルコール依存症だ。
 上機嫌になった男が、もう一度酒を呷る。満足したらさっさとどこかに行ってほしいのだが、酒に夢中の男はそんなフレイの視線にも気付かない。
 それどころか、朗々と自らの苦労や身の上ばかりを話す有様だ。これだから酔っ払いは。

「ぷっはぁ……最近は『ブラッドドッグ』の連中の締め上げがキツくてよぉ。酒の一杯すら漁れねぇ」

 陽気に話す男。その話題の中の一つの単語に、フレイがピクリと反応した。
 『ブラッドドッグ』。貧民街の中でも比較的規模の大きいギャンググループだ。元々は上層部に対して革命を起こそうとしていた連中の集まりだったが、いつしかタダの暴力的なグループに成り下がった、と。『エニグマ』に所属していた時に聞いた話が脳裏に浮かぶ。
 このまま酒だけ飲まれるのも癪に障る。どうせなら少し有益な情報の一つでも聞き出さればいいか、とフレイは男に問いかけた。

「なんだって締め上げしてんだ」
「なんか捜し物らしいぜぇ……ぎ、ひひ……」

 情報としては全く役に立たない粒度だった。期待もしてなかったが、それはそれでフレイのフラストレーションが溜まっていく。
 男が酒を呷る。凄まじい飲みっぷりだが、酒は有限だ。酒瓶の口から一滴の酒精が落ちてこなくなったのが分かった男は、わかりやすいほどに落ち込んだ。それはもう、体が萎んで見える程に。

「……………………なぁ兄ちゃん。もう一杯」
「あるわけねぇだろボケ」
「だよなぁ……」

 ガクリと肩を落とした男。だが、枯渇していたアルコールを補充できて一端の満足はしたのか、荷台から飛び降りる。

「ありがとなぁ兄ちゃん。おかげで眠れそうだ」
「こっちは寝不足だ……さっさと行け。息がクセェんだよ」

 心無い罵倒に笑いながら、男が千鳥足で離れていく。辺りに残ったのは、男の悪臭とアルコールの臭いが混ざりあった、ある意味で芳しい香り。
 休息を取ろうとしたはずなのに、無駄に疲れた。

「……もう一眠りするか」

 出来れば、今度は悪夢を見ない事を祈って。



 ◆



 男は口元が緩むのを止められなかった。止める気もなかった。
 弧を描いた口から、下卑た嗤いが漏れていく。震える手で懐から銃を取り出し投げ捨てると、もう一度懐に手を入れる。男が取り出したのは、黒い筐体に簡素なモニタとボタンが取り付けられただけの通信機だった。

 酒が切れた。指先が震え、ボタンを押し間違えそうになる。どうにか目的の番号を打ったらしい男は、発信のボタンを押すとソワソワと忙しいない動きをする。

「や、やややっぱり酒だけじゃ、た、足りねえ」

 呂律が回らない。寒い夜のハズなのにぼたぼたと汗が流れてくる。男にとっては永遠にも感じられた時間は、通信がつながった事を知らせる音が出た瞬間に途切れた。

「おう――」
「見つけた! 見つけましたぜ! あのコンテナの中で間違いねぇ!」

 男は興奮を抑えられていない。通信先の相手の言葉を遮って、矢継ぎ早にまくし立てる。もし通信先の相手と直に対面していたのであれば、その不機嫌な表情が見て取れたに違いない。

「……じゃあ後で届けさせる」
「ありがてぇ! ぁありがてぇ! あぁりがてぇ……!」

 男が感謝を連呼する頃には、通信は切れていた。それにも気付かずただ感謝を述べる男。錯乱状態と言われてもなんらおかしくない精神状態だ。

「は、は、早く……クスリをくれぇ……!」

 左手の袖を捲り上げた。そこには無数の注射痕。そして。


 ――――血の涙を流す、赤い狼のタトゥーが彫られていた。