複雑・ファジー小説
- Re: ミストゥギア ( No.3 )
- 日時: 2022/06/07 19:09
- 名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)
どれだけ『霧』に閉ざされた世界でも、太陽は昇る。白み始めてきた空と鉄の大地の境界線から差す光は、徐々に『ヴェルドミッテ』を明るく照らしていく。
「く、ああ……」
数時間ほど寝ただろうか。フレイの口元から、噛み殺しきれない欠伸が漏れ出る。
硬いシートの上でじっとしていたためか、背中と肩の筋肉は凝り固まっていた。グルグルと肩甲骨を回すように動かして、体を暖めていく。
半覚醒といったところだろうか。微睡みと覚醒の合間で揺れ動く意識のまま、覚束ない動きで挿しっぱなしにしていたキーに触れる。
夜の寒さで冷え切ったのだろう。キーに触れた指先は、皮膚が張り付くような感触がした。
低重音。何年ものか分からないエンジンが、唸り声を上げて駆動し始め、その熱が車内にも回っていく。ほう、と上っていった白い吐息がなくなるには、もうしばらく時間がかかりそうだ。
「……ねみぃな」
あのクソ不味い迎え酒でも、気付けにはなる。そう考えると、浮浪者のおっさんに投げ渡したのはもったいなかったかもしれない。
……考え直す。どのみち目覚めるなら美味い酒の方が良い。
両の目の目尻を、親指と人差指で揉み込むように触れる。生理反応で出た涙が、少しだけ指先を湿らせた。
寝惚け眼のまま、フロントガラスの霜が溶けるのを待つ――ことなく。何を思ったのか、フレイは。
――――底に張り付く程の勢いで、アクセルを思い切り踏み込んだ。
空転混じりに回転し、激しい擦過音をがなり立てるタイヤ。唸りをあげるエンジン。排気口から吐き出される氷が溶けた水混じりの白煙。運転者の命ずるままに莫大な推進力を得た車体は、当然の事ながら高速で前進し。
「と、止ま――」
車の前方にいた男を跳ね飛ばした。フロントガラスに乗り上げた体が、霜を巻き取って新たに血霞の紅い化粧を施していく。
ブレーキとアクセルを踏み間違えた不慮の事故ではない。フレイは、確固たる殺意を持ってアクセルを踏み込んだ。それは何故か。
「逃がすんじゃねぇッッ!!」
車内でも聞こえる怒声。続けて響き渡る数多のエンジン音。この車は、フレイは、少なくとも友好的な感情を持っていない集団に囲まれていた。
『ウルヴァス』は獣の特性を強く受け継いだ種族だ。その危機察知能力は、『ヴィーク』のソレを遥かに上回る。寝惚けていようが、フレイの第六感は確実にその敵意を捉えていた。
助手席に投げられていたブレードを左手で持つ。右手はハンドルに添えたままだ。肘と腕の動きだけで引き寄せたブレードの刃を、助手席側のガラス側に向け――思い切り突き刺した。
破砕音と共に車外に散乱していくガラス。霜が張っていたガラスを砕いた事で見えるようになったサイドミラーで、背後の様子を目の端で捉える。
「――――『ブラッドドッグ』……!」
背後から激しいエンジン音と共に迫ってくる集団。バイクに跨った彼らの肩や腕には、血涙を流す狼のタトゥーが彫られている。それこそが貧民街で幅を利かせるギャンググループの一つ――『ブラッドドッグ』のメンバーである証拠だった。
「なんだってんだ……っ!」
悪態をつきながら、アクセルが底に付くほどに踏み込む。だが、どれだけ初速で差を付けられたとしても。コンテナという重量物を背負った骨董品寸前のオンボロ車と、恐らく魔改造されているであろう『ブラッドドッグ』のバイクでは、その性能差は歴然だ。いずれ追い付かれるのは目に見えている。
何故こちらを狙っているのか、などと考えている暇はなかった。
彼我の距離が詰められ始めている事を悟ったフレイは、逆に思い切りブレーキを踏み込み、ハンドルが千切れそうになるほど激しく回す。急制止によりコンクリートの道路と激しく擦れたタイヤが、熱を持って煙を上げる。慣性の乗ったドリフトによって高速で流れていく視界を追いながら、数瞬の後にアクセルを踏み込んだ。
「ぐ、ぬ――ッ!」
直角90度。激しい加速が体を置き去りにしようとしてくる。コンテナに偏った重心が浮き上がりかけるのをなんとか制動し、脇道へと車を滑り込ませた。
速度で撒けないのは分かりきっている。なら、地の利を活かす他無い。『ブラッドドッグ』がこの地区の地理にどれほど詳しいのかは知るよしもないが、直線で追い付かれるのならこうやってカーブで差を付けるしかない。
怒声と数多のエンジン音が鳴り響く。どれもこれも「殺せ」だの「潰せ」だの「ぶっ殺せ」だの「ぶっ潰せ」だの、不穏な言葉のオンパレードだ。もう少しボキャブラリー増やしやがれ、と悪態混じりに舌打ちをしながらハンドルを回し続ける。
廃墟のビルが、積み上げられた廃材の山が、高速で視界を流れていく。朝露がまだ残る時間帯に始められたカーチェイスは、その静謐な雰囲気を見事に破壊していく。
数度のカーブを曲がる。数人は曲がりきれずに追突したのだろう。僅かに減った追手をサイドミラーに捉えながら、歯を食いしばって、擦り減っていく精神から目を逸らして逃げ続けた。
だが、その追走劇も唐突に終わりを迎える。
――――カーブを曲がった先で、『ヴィーク』の子供が、廃材を漁っていた。
浮浪者に使われているのか、それとも貧困に喘いで少しでも使える何かを探しているのか。いや、そんな事を想像する暇はない。
その幼い子供は、フレイが駆る車に、少しの反応も出来ていなかったのだから。
「く、そがっ!!」
咄嗟に子供を避けるコースへとハンドルを切る。ようやく子供がこちらを向いた。目を見開いて硬直したその姿に、回避能力は微塵も期待できない。
極限の状態でコントロールしていた車体は、大きく蛇行する。子供を避けるコース取りは出来た。だが、その路地は狭かった。
助手席のサイドミラーが積まれた廃材の山と衝突してへし折れる音が、鼓膜を震わせた。コントロールの効かなくなった車体は、何かに引っかかったのか回転しながら宙へ翻る。
子供のつぶらな瞳が、空を駆る車を捉えていた。子供は見た事もないが、まるで映画のワンシーンを見ているような興奮が、その胸中に広がっていく。
きっと、子供はこの光景を忘れないだろう。それが子供にどんな変化をもたらすのか――などというのは。上下が反転し、フロントガラスから見える上層の鉄の蓋を眺めながら「あーやっちまった」と諦観しているフレイには、分かるはずもなかった。
破砕音。衝突音。擦過音。廃材の山にダイブした車が、ひしゃげながら転がっていく。午前5時の目覚ましの音にしては、派手すぎる音だった。
◆
薄く開かれた瞼。そこから見える光景は、約一日程度の相棒だった車の、最後の姿。エンジンが発火したのか、静かに熱を上げていく様を、フレイは霞んだままの意識で知覚した。
どうやら、衝突の瞬間にフロントガラスから放り出されたらしい。視界の右半分が赤い。頬に感じるドロリとした感触で、額から血が流れている事をようやく悟った。
「ぐ、う……」
全身をナイフで刺されるような痛みが走っている。痛みの強弱すら分からない程に、僅かな一挙一動でも全てが痛い。
起き上がろうと右腕に力を込めようとして――――まるで動かない。視線を向けてみれば、その腕と同じ程の幅がありそうなガラスの破片が貫いているではないか。
「は、は」
止めどなく流れ落ちていく命の通貨。それが地面に紅い水溜りを作り始めているのを見て、フレイは乾いた笑いを浮かべた。
よく見れば、全身の至る所にガラスが突き刺さっている。まだ生きているのが不思議な程だった……いや、放っておけば確実に失血死であの世へと逝くだろう。
――――それでも、いいか。
諦めた。いや、どうでもよかった。守りたかった家族が『霧』に沈んだ六年前のあの日から、フレイという男は死んだままだ。今更ここで改めて死を突き付けられた所で、何も思うことはない。体が冷たくなっていく。意識が、どんどんと昏い闇の底に沈んでいくのが分かる。薄く開かれていた瞼が、そのまま閉じられようとした。
「…………?」
ガタリ、という小さな音が、細い糸で手繰られたフレイの意識を繋ぎ止めた。狭められた視界で、音がした方向へと視線を向ける。そこにあったのは、車が廃材と衝突した瞬間に固定が外れたのか、少し離れた場所に転がっていたコンテナ。横倒しになったそのコンテナの扉が開いて、朱紫色の液体がポタポタとこぼれ落ちている。
血の臭いに混じって芳醇な酒精の香りが漂う。マジでワインだったのかよ、とフレイが薄く笑った。だが次の瞬間。
その笑いが、凍りついた。目は見開かれ、口がワナワナと震え始める。
ペタリ、と足音を立てながら。コンテナの奥の暗闇から、一糸まとわぬ裸体の少女が姿を現した。燃えるような赤髪と、昏く淀んだ翡翠の瞳。虚ろな瞳は何も捉える事がなく、ただ宙を眺めるだけ。その左目には『ヴィーク』の特徴でもある歯車の紋様がくっきりと浮き上がっている。
人身売買の片棒を担がされたのか、とか。ウォルトの野郎、仕組みやがったな、とか。フレイに生まれるはずだった思考は、全て脳裏に浮かんだ『名前』に塗りつぶされた。
「……レイア?」
無意識に、呼ぶ。『霧』に沈んだ妹の名前を。
眼前に現れた少女が、妹であるはずがない。そもそも種族が違う。虚ろな表情で立ち尽くす少女は間違いなく『ヴィーク』で、フレイの妹――レイアは『ウルヴァス』だったのだから。
仮に生きていたとしても、六年も月日が立っている。フレイが知っている妹の姿そのままであるはずがない。
だが、そんな事も些細な問題だと思える程に――――少女は、妹に酷似していた。
「……………………」
「ッ! お、い……!」
立ち尽くしていた少女が、急に脱力して、コンテナから身を投げるように倒れ込む。冷たくなりかけていたフレイの意識は覚醒し、這いずるようにして少女へと近づいていく。
全身に走る痛みなどどうでもよかった。突き動かされるようにして近付き――――少女の胸板が上下し、ただ気を失っているだけだと分かって安堵の息を付く。
「……い! …………こ……ちだ!」
遠くから怒声が聞こえる。『ブラッドドッグ』の連中だ。
――――慎重に運んでくれよ? お得意様への大切な荷物だからな。
ウォルトの言葉が、脳内でリフレインする。
今なら分かる。ただのワイン如きに、あのギャンググループが食い付くはずもない。元から、目的はこの少女だったのだろう。
「――――ふざ、けんな」
動く左腕で、少女を掻き抱く。小さく軽い肢体はフレイの腕に容易く収まる。腕から伝わる熱と鼓動は、確かに少女が生きている事を示していた。
「ぐ、が……ッ!」
四肢に力を込める。立ち上がろうともがく度、ボタボタと血が流れ落ちる。霞んでいく視界と意識を、歯を食いしばって繋ぎ止める。
――――これ以上、喪ってたまるか。
――――これ以上、奪われてたまるか。
喪った妹に面影を重ねているだけだ。そんな事は分かりきっている。「何してんだ」と、六年間死んでいた『フレイ』が呆れた声で諌めてくる。黙れ、と否定する。
足音が迫ってくるのが分かる。ひしゃげた車が爆ぜた。末期の声のように弾けた音は、連中に居場所を知らせるには十分すぎた。
「おい、こっちだ!」
足音。滲んでいく紅い視界に、黒い影が映る。
「て……ずらせ……」
「こい…………どう……る?」
「……ねぇよ。殺し……いい」
黒い影が蠢いて、聞き取れない声を浴びせてくる。鼓膜を揺らす音を脳が処理出来ていない。それでも、その影が銃口をこちらに向けたのだけは、背筋に走る悪寒で分かった。
僅かに身動ぎする。その程度で銃弾が躱せるはずもない。そうだと分かっていても、腕に抱く小さな命だけは守ろうと、覆いかぶさるように。
「…………死ね」
その言葉だけが耳に届いて。己に風穴を開ける衝撃を待ち構えて。
――――上空から飛来した『銀色』に、その黒い凶器が叩き落とされた。
「な……だ!?」
黒い影が、『銀色』が振るう何かに吹き飛ばされる。あっという間だった。翻った『銀色』が、悲鳴すら許さずに黒い影を刈り取る。
硬い靴音を立てながら、爆ぜる車の音をBGMに『銀色』が近付いてくる。その輪郭が、ボヤケた視界にハッキリと映っている。結い上げられた銀の長髪。褐色の肌。左目を覆う眼帯。残された右目の群青色。それは――――フレイにとって、見知った顔の一つだった。
「……ジー……ヴル」
「…………! …………!」
端正な口元が動いている。何かを喋っているのは理解出来た。もう、音が聞こえない。
繋ぎ止めていた意識が途切れる。視界が昏い闇に沈んでいる。最後に感じたのは、腕の中で眠る少女の、小さな鼓動だけだった。