複雑・ファジー小説
- Re: ミストゥギア ( No.4 )
- 日時: 2022/06/17 00:33
- 名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)
「なんで『霧』が生まれたのかって?」
机の上に立てられたランプの灯りが仄かに照らす、薄暗い部屋。安楽椅子に腰掛けた老人へ、燃えるような赤い髪の少年が好奇心をそのままぶつける。
老人は暗色のローブを被っている。フードの下は暗く、その表情は伺えない。分かるのは長く蓄えられた灰色の長髭が垂れている事だけ。
枯木のように痩せ細った手で、髭を撫でる。少年の問いにどう答えようか、それを思考していた。
『霧』が生まれた理由なんて、誰にも分からない。理解出来ない。老人の父も、その父も、遥か昔の先祖も。誰も彼もが『霧』の正体を掴めていない。
だからといって、それをそのまま伝えても少年は納得しないだろう。それどころか、好奇心のままに『霧』に近付いてしまうかもしれない。
「そうだなぁ……怒ったんだよ」
「怒った? 誰が?」
少年が首を傾げる。老人はローブの下で優しく微笑み、ピンと立てた人差し指を天へ向ける。少年の碧眼が、その指の先を追って上へと動く。そこには、ランプの灯りの届かない暗い天井があるだけだ。少年は胡乱げな目線を老人へ向ける。もしかしてからかっているのか、と。
「神様が怒ったのさ」
「……なんでだよ。俺達、なんかしたのか?」
その答えが納得いかないのか、ムスッとした表情でむくれる少年。その少年の様子を愛おしく見つめた老人が、手を伸ばし宥めるように、頭を撫でる。
枝のように細い指の間を、癖のある赤髪がすり抜けていく。こそばゆい感触に少年が身動ぎするが、決して嫌がっているわけではなかった。むしろ、もっと撫でろと言わんばかりに頭頂部の耳を寄せて、頭を擦り付けてくる。
「分からないさ。でも……そうだね。きっと――私達が悪いんだろうね」
「………………」
そう言って笑う老人。ローブの下で、口元しか見えなくとも。その雰囲気はどこか悲しげで。
その光景は、少年の心に僅かなしこりを残した。
……なぁ、親父。
もし『霧』が神様の怒りだったとして。誰かが『罪』を犯していたとして。
――――俺達が『罰』を受ける理由は、あったのか?
◆
肺に空気が注ぎ込まれた感覚で目覚める。酸素が足りない。脳が情報を処理出来ず、視界は霞んだままだ。
「――――……」
痛みを覚える程に肺胞へ酸素を往復させ、呼気と意識が整う頃には、額にじっとりとした汗をかいていた。
生きている、とフレイが知覚する。ボヤケていた輪郭がハッキリとし始めた視界には、あまり綺麗とは言えないコンクリートの天井が見えた。
周囲には、自らを囲むように広がったカーテンがあり。そして、背中や腕に触れる柔らかい感触で、自分でベッドに寝かされている事に気付く。
視界が復帰し、嗅覚も復帰する。鼻孔をくすぐる薬剤の匂い。あまり得意ではないその匂いに、ようやくフレイは現状を薄ぼんやりながらに把握した。
「……病室、か?」
そうだったとして、何故こんな所にいるのか。それを探ろうにも、体は重く、指先を一本動かすのさえ億劫だ。仕方なく視線を動かすぐらいしか出来なかったフレイは、視線を右へ大きく動かして。
丸椅子に座って、窓から降り注ぐ寒々しくも和らげな光に照らされ、うつらうつらと舟を漕いで眠っている赤髪の少女をようやく認識した。
記憶にある生まれたままの姿ではない。恐らく誰かに着せられたのだろう緑黄色のワンピースが、少女の一挙一動に合わせてゆらゆらと揺れている。
「レイッ!? い、てぇ……!」
跳ね起きろ、と脳が各身体部位からの痛覚情報を無視して体に指令を送る。無理です、と体が拒否して抗議文代わりの激痛を脳へと送る。
全身から跳ね返ってきた痛みに、体を捩って更に痛みを加速させる。ひどい悪循環だ。だが、その痛みは寝惚けていた記憶の蓋を蹴り開ける事に成功し――フレイは今までの出来事を鮮明に思い出す。
積荷。『ブラッドドッグ』。カーチェイス。廃材漁りの子供。不運と踊る。『銀色』。
「……よく助かったな、俺」
よく見れば体中に包帯が巻かれている。治療を受けているのは間違いないが、結局ここが何処なのかはわからずじまいだ。と、その時。
「……ッ!」
――ドアを開閉する音が聞こえた。身動ぎした音で、フレイが目覚めた事に気付いたのか。人の気配が、カーテン越しにすぐ傍まで近付いていた。
警戒心が高まる。同時に、まるで動かない体に焦りが生まれる。そんなフレイの心境をよそに、フレイと外界を隔てていたカーテンはあっさりと開かれ。
「や、目は覚めたみたいだね」
「…………」
カーテンを開いたのは、長身の『ヴィーク』の男だった。ウェーブがかった茶の髪、温和そうな印象を与える垂れ目気味の黄眼。身に纏う白衣は医者のそのままイメージしたようなものだ。
フレイが、男を見て目を見開く。その顔には、見覚えがあった。そしてその表情に気付いたのか、男も懐かしむように笑って。
「フフ、久しぶりだ――」
「……誰だっけ」
「――ね、って覚えてないのか!?」
眉をひそめて呟いたフレイの言葉に、さっきとは逆に男が目を見開いて大きく仰け反る。相当にショックだったらしい。
フレイは内心で弁明した。いや、見覚えはあるのだ。名前が思い出せないだけで。ついでにその見覚えがある、という記憶もちょっと自信がないだけで。
ショックから復帰した男が、問い詰めるようにフレイへと顔を近づける。その目尻には少し涙が浮かんでいた。
「アイザックだよ、アイザック! 一緒に『エニグマ』にいただろう!?」
「……え、アイザック? お前そんな顔だったのか?」
「いやっ、ヘルメットも目の前で脱いだ事あったよ!?」
『エニグマ』に所属する隊員は標準的な装備として機械的なヘルメットを装着している。それは視界を広げるだけでなく、神経系とリンクして反射や判断まで高速化するという、『ヴェルドミッテ』の技術の粋を集めたような装備だ。
だが、『ウルヴァス』であるフレイは装着していなかった。しなくても大体同じぐらいの反射神経は発揮できるし、そもそも耳が邪魔で被れない。つまり、あのヘルメット自体『ヴィーク』専用装備みたいなもので。優男――アイザックも例に漏れず『ヴィーク』の特徴である歯車の紋様が右目に浮かんでいた。
古い記憶を辿る。『エニグマ』に所属する『ヴィーク』の隊員が、ヘルメットを外す場面などそうそうない。非番時とか、相当な緊急事態でない限り――と、そこまで考えて思い出した。
「思い出した。車酔いでゲロ吐いてヘルメット脱いだアイザックか」
「それ以外にもあったろ!?」
感情の発露が激しい。茶髪をかき混ぜるように頭を抱えたアイザックが、唸りながら蹲った。恐らく頭の中では、過去の黒歴史の光景がリフレインされている。
大きい声は頭に響くので止めてほしい。
「…………ん」
「あ」
「ん」
その大喝が丁度いい目覚ましになったのか。丸椅子に腰掛けていた少女が、薄っらと眼を開く。眠気は完全に覚めていないのだろう。今にも閉じられせそうな瞼を指で擦って、左右に視線を彷徨わせる。そして、その焦点がフレイに合った瞬間、ピタリ、と。まるで時間が止まったかのように身動ぎ一つしなくなった。
「…………」
「…………」
少女が、丸椅子から降りる。宙を舞った羽が地面に落ちるように、ふわりと着地した少女は、その虚ろな目をフレイに向けたまま、一歩、二歩とベッドに歩み寄り。
「……見つけた」
「は? え、いやおい」
何を思ったのか、ベッドに乗り上がり。もぞもぞと、子猫が太陽の光の下で丸まるように体を折りたたんで。
「……すぅ」
またもや寝息を立て始めた。
所在なさげに彷徨わせたフレイの左手が、柔らかい布団の上に落とされ、軽い音が立てられた。アイザックが「懐かれているねぇ」と微笑む。その妙に似合う慈愛の表情をやめろ、とフレイが睨みつければ、そっと目を逸らされた。
「その子、ずっと君の傍から離れないんだよ」
アイザックがベッドの傍らに置かれたワゴンの上の医療器具を整列していく音が響く。穏やかな寝息を立てている少女を、フレイが見つめる。その表情は、綯い交ぜになった感情が、腑に落ちないまま喉元に引っかかっているような……一言でいえば微妙な表情だ。
――――見れば見るほど似ていた。六年前、『霧』に沈んだ故郷。駆け付けた時には、もう顔を見る事も叶わなくなった妹に。
生きているはずがない。『霧』に飲み込まれた人々が無事に戻ってきた事は、少なくとも『霧』が世界を覆って以来、一度もないのだから。
だから、この子はただの他人の空似でしか無い。種族だって違う。それでも――割り切れない自分が、どこかにいる。その事が腹立たしくて仕方ない。
嘆息。じくり、と右腕が痛んだ。フレイは、アイザックに視線を向ける。その手には包帯と、使い込まれた裁ちバサミ。包帯を替える気なのだ、というのはすぐに分かる。
「……なんで俺はここにいるんだ。というか、なんでお前がここにいるんだ」
「質問が多いなぁ。まぁ、一つずつ説明していこうか」
左腕に巻かれた包帯が解かれていく。朱の混じった細布を巻き取っていったその下には、もうすでに塞がりかけている傷跡。『ウルヴァス』の回復力は流石だねぇ、と呟きながら古い包帯を回収していく。
「まず、ここは僕が経営する診療所。君は大体二十時間前に運び込まれてきた」
「運び込まれてきた? 誰が――」
「それは後。で、僕は四年前に『エニグマ』を抜けた。この区画で妻と二人で医者もどきをやってる」
アイザックは『エニグマ』の衛生兵だ――本人の話を聞いてる限り、元、という接頭語が付くらしいが。
手際よく巻かれていく包帯を見ながら、フレイはどこか懐かしい気分になる。名ばかりの治安維持装置とは言え、下っ端はそれなり以上に戦闘行為を行う組織だ。実際フレイも『エニグマ』に所属していた時は、それこそ『ブラッドドッグ』の拠点を鎮圧した事も何度かある。であれば、負傷の一つや二つは当たり前にする訳で――その時に、アイザックに治療してもらったこともあった。
「で、君をここに運び込んだのは僕らもよく知っているあの人」
「…………ジーヴルの野郎か?」
「あの人を野郎呼ばわり出来るの、君だけだと思うよ。というか、相棒だったんだろう?」
パチリ、と包帯が断ち切られた。クルクルと掌の上でハサミを弄びながら、アイザックが苦笑する。
相棒、なんてそんな気の知れた関係ではない。単に任務が一緒になる事が多かっただけだ。別に苦手というわけでもないが、得意でもなかった。そんな関係。
視線を逸らしながら、早口にそうまくし立てる様は、まるで浮気がバレた男のようだった。
照れる事ないのに。少しだけ見当違いな感想を抱いたアイザックが苦笑していると。
「――――そうか。それは寂しいな」
部屋の温度が、一度ほど下がった気がした。その冷ややかな声は、そう大きな音量ではなかったはずなのに、フレイとアイザックの鼓膜を叩く。
乾いた靴音が聞こえた。フレイの視線が、病室の入り口へ向かう。
――――そこには、『銀色』があった。
艷やかに流れる、後頭部で結い上げられた銀糸の長髪。左が眼帯に隠され、残った右の涼やかな目元の下から覗く、群青色の瞳。神秘的だ、とすら感じてしまう程に整った褐色の肌。黒い軍服を纏ったその腕章には、逆十字の刺繍が刻まれてる。
六年前までは、見慣れていた姿。年月を重ねて、より女性らしくなった姿に、フレイが呆気にとられた表情を浮かべて。それを見た女性――ジーヴルが、クスリと微笑んだ。