複雑・ファジー小説

Re: ミストゥギア ( No.5 )
日時: 2022/06/19 21:45
名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)


 軽微に歪曲した刃が、身に纏った赤の皮と、その薄皮の下に秘めた淡黄の蜜の間に滑り込む。刃が進む度、耳の内側を擦るようなこそばゆい音が鳴って。剥がされた薄皮は、するすると一本の線となって、行儀よく揃えられた両膝の上に置かれた皿に蛇がとぐろを巻くように落ちていく。

「………………」
「………………」

 何のことはない。ジーヴルが見舞い品と称して持ってきた果物の中の一つ、林檎を手慣れた手付きで剥いているだけだ――無言で。
 小さな病室は、林檎を剥く音と少女の寝息。朝日が差し込む窓の外から聞こえてくる鳥だか人だかの声だけが響いていた。

「………………」
「………………」

 気まずい。別にやましい事など何一つとしてないのに気まずい。頼みの綱だったアイザックは「後はお二人で」という余計な気を回して退室した。
 視線を右に逸らす。ベッドの上で丸くなって、静かな寝息を立てる少女。視線を左に向ける。剥き終わった林檎の皮が、ポトリと皿に落ちていった。

「……ッ」
「………………」

 蛇の頭が落ちたのを幻視した。肩がビクリと跳ね上がる。そんなフレイの心情など露知らず、ジーヴルは全ての衣を剥がされ全てを晒された林檎を軽く上空へ放り投げると。
 一閃。二閃。影がブレるほどの速度で、ナイフが、銀閃が果実を通過していき。重力に逆らわず落下していく林檎は、皿に到達する頃には微塵の狂いもなく八等分された。
 ほっそりとした指先で、皿の縁をつかんで。ずい、と無遠慮にフレイに向けて突き出す。

「剥けたぞ」
「…………おう」

 断面から漏れ出た蜜。甘い香りが、フレイの鼻孔をくすぐる。
 いや、剥けたから何だというのだ、と。怪訝そうな表情を浮かべて、フレイは懐疑的な視線をジーヴルに向ける。病室に乗り込んでくるなりジーヴルが取った行動は、無言のまま椅子に座って林檎とナイフと取り出して剥き出した、という事だけ。まるで思考が読めない。
 そして、何時まで経っても林檎に手を出さないフレイを見て、今度はジーヴルが怪訝そうな表情を浮かべ――思い至ったように、そっと一切れを指先で掴み取ると。

「はい、あーん」
「…………何してんだ」

 鼻に押し付けんばかりに、その一切れをフレイに突き出した。より強くなった香りと、妙な圧を感じて軽く後ろに仰け反ってしまう。
 
「腕が動かないんだろう?」
「動くっての。左が」
「傷が開いたら大変だ。ほら」

 ずい。有無を言わさぬ圧が、フレイに向けられる。その眼には頑として譲らないという意思が宿っている。数秒ほど絡み合った視線で、埒が明かないと察したフレイが、大きく開けた口でその林檎の半分ほどを噛み切った。咀嚼する度に、口内に爽やかな酸味と芳醇な甘味のコントラストが広がった。
 貧民街の土壌は酷く荒れている。それは年を通して寒々しい気候が原因なのか、上層から流される廃棄物によるものなのか。詳しい事はフレイには分からないが、貧民街で穫れる果物など大体が不味いの一言で感想が言える。それらに比べれば、今しがた喉を通って胃へと落とされた林檎は、かなりの上物である事がうかがえた。

「美味いな」
「上層からの流し物だ」

 残った半分の果実を、ジーヴルがひょいと口に放り込む。満足そうに咀嚼している姿を見て、こいつも変わったな、とフレイは内心そうごちる。
 ジーヴルとフレイが出会ったのは、まだ幼少の頃の話だ。昔はもっと、そう。無機質で、無感動で、無表情だった。それこそ、機械と話しているような。

「上層? ……あぁ、昇進したのか」
「ふぉういうことだ」
「飲み込んでから喋れよ」
 
 ジーヴルが纏う軍服は、『エニグマ』の中では隊長格が纏うものだった。フレイやアイザックのような一兵卒が纏うような機能重視の服ではなく、命令を出す立場の威厳とやらを重視した華美な装飾の目立つ服。なるほど、立場が上になれば必然的に上層の人間と近づくことも出来るだろう。この林檎のような上層で作られた流し物も、手に入る機会が増えるかもしれない。
 と、なれば。何故そんな立場の人間が、下層にまで降りてきていたのか、という疑問が湧いてくる。が、その前に、まずは言うべきことがフレイにはあった。

「……ここまで運んでくれたんだろ。助かった」
「どういたしまして。はい、あーん」
「………………あーん」
 
 感謝の言葉をあっさりと流された上に、更に林檎を差し出される。漂っているのは甘い匂いのはずなのに、渋い表情をフレイは浮かべた。釈然としない。

「……で」
「ん?」
「なんで助けた」

 フレイの言葉に、ジーヴルがキョトンとした表情を浮かべる。そして心外だ、と言わんばかりに眉をひそめて。
 
「友人を助けるのに理由がいるのか?」
「……言い方が悪かった。なんであそこに居たんだ」
「んー……」

 軽く曲げた人差し指を、口元に当てる。目を瞑って少し考えた後、ピンと指を立てて、薄く微笑んだ。
 いや、微笑む、というよりは。悪戯を思いついた子供のような笑みだった。なまじ顔が整っているから、違和感が凄まじい。
 何を言われるのか、とフレイが内心警戒していると。

「――秘密だ」
「言う気がねぇのはよく分かった」

 誤魔化された。十中八九『エニグマ』絡みなのだろうが、すでに辞めている自分が聞けるような話ではないのだろう、とフレイは聞き出す事を諦める。

「それよりも、だ」
「あ?」
「その子は?」
 
 ジーヴルの眼がすっと細められた。その視線は、フレイの傍らで眠る少女に向けられていて、続けてフレイに向けられる。その眼は何処となく冷ややかで、フレイの背を嫌な汗がつぅっと伝っていく。
 あらぬ誤解を受けている気がした。林檎の水分を補充したはずなのに少し乾いた唇を開く。

「……俺も分からん」
「ほう」

 いや、なんだその応答は。更に冷感の増した視線はなんだ。フレイは思わず目を逸らした。嘘はついていない。実際、すやすやと呑気に眠っているこの少女については、妹と似ている、という事と、何かしらの事件に巻き込まれていただろう、という事以外は知らないのだ。
 そもそも、誘拐だの人身売買だの、そういう表沙汰に出来ないような裏の仕事は、貧民街にはゴロゴロと転がっている。この少女もそんな裏の世界の哀れな犠牲者なのだろう、と結論立てた所で。

 もしかしてこいつ、俺が誘拐だのなんだのをしたのだ、と疑っちゃいないか、と思い至った。

「……いや、違うぞ」
「ふむ、弁明を聞こう」
「違ぇよ。本当に分からねぇんだ。あー、えーと、そうだ。ウォルトの野郎に騙されたんだよ」
「ウォルトとは?」
「雇い主……の呑んだくれ。なぁ、なんで俺詰められてるんだ」

 慌てて口早に弁明する。実際にウォルトに騙されたか、という所の事実確認はしようもないが、フレイは何の遠慮もなく疑惑を押し付けた。
 重苦しい沈黙が病室を包む。まるで尋問官と相対している虜囚のような気分だった。唯一の癒やしは、傍らで何も知らずに眠ったままの少女だけ。
 静寂がどれだけ続いただろうか。一秒か、それとも数秒か。フレイの瞬きの回数が多くなり始めたその時。
 
「ふっ、はは」

 ジーヴルが、冷ややかに引き締めていた表情を緩めて破顔する。堪えきれない、と言わんばかりに高らかに笑った。からかわれている、とは気付いていたが、流石に心臓に悪い。
 ……いや、『エニグマ』が下層の事情に首を突っ込む訳がないので、誘拐の応報などの心配はしなくても良いはずなのだが。

「冗談だ」
「お前のは冗談に思えねぇんだよ……」
「六年間も相棒に対して連絡の一つも寄越さなかった罰だと思ってくれ」
「……悪かったよ」
 
 六年前。フレイの生まれた区画が『霧』に呑まれたあの時、家族を――妹を助けようとしたフレイを止めたのが、ジーヴルだ。
 『霧』に呑まれれば助からないというのは、ヴェルドミッテのどの階層の住民でも持っている共通認識だ。
 冷静になれば分かる。ジーヴルがフレイを止めたのは何も間違っていない事も。あの時のフレイの行動は自殺行為に他ならない事も。

 だが、それでも。その行動が、フレイという男を殺した一端であったのは間違いなかった。
 それ以来、フレイとジーヴルは疎遠になった。いや、フレイから遠ざかった。恨み辛みがあったわけではない。ただ、心の整理が未だに付いていないだけだ。六年という年月を過ごしても、フレイという男はずっと止まったままだった。

 ふっと、ジーヴルがフレイの傍らで眠る少女に視線を向ける。懐かしむような、悔やむような、嘆くような。様々な感情が綯い交ぜになった表情を浮かべた。
 
「似てるな」
「………………そうだな」

 呟き。フレイが小さく、それに同意する。
 アイザックの前でこそ否定したが、相棒と呼べるぐらいには関係性があったジーヴルと、妹――レイアは仲が良かった。それこそ、フレイが兄で、ジーヴルを姉と見てる節があるぐらいには。六年前の行動を後悔しなかった日は無かった。家族を守れなかった事を。家族を守ろうとした男を止めた事を。互いに、そんな心のしこりを残したまま生きていた。
 レイアと似ている少女に思う所はあるのだろう。じっと見つめるその視線は、どこか悲しげだ。
 
 ふぅ、とジーヴルがため息を付く。後は好きに食べてくれ、小さく声に出して席を立って、六つだけ残った林檎の欠片が乗った皿をトレイの上へ置いた。
 服の裾の埃を軽くはたき落とす。硬質的な靴音を立てる。凛とした佇まいは、六年前から大きく成長した上に立つ者の姿だった。

「そろそろ行くよ」
「……おう」

 その銀色の眩しさに眼が眩みそうだった。遠ざかっていく背は、本当に六年という年月の距離を表しているようで。止まっていた時間を、知覚してしまう。
 
「……っと、そうだ」

 病室を出ようとした所で、ジーヴルが振り返る。群青の瞳が、フレイの表情を写し込んだ。
 
「事故現場から発見したブレード。アイザックに預けてるが、アレは『エニグマ』の備品――」
「知らねぇ」

 そっぽを向いた。フレイが今扱ってるブレードは『エニグマ』を辞めた時に永久的に借りたモノだ。つまるところ、盗品である。
 『エニグマ』は下層の事に首を突っ込むことはないが、組織そのものの事になると別だ。素知らぬ顔で通すしか無い。
 
「ふふっ……そうだな。落とし物だ」
「おう……」

 子供の悪戯を嗜める母のような表情を浮かべて、ジーヴルが病室を出ていく。だんだんと小さくなっていく靴音を耳にしながら、傍らで眠る少女に視線を向ける。
 穏やかな寝顔だ。丸まった背が呼吸に合わせて上下している。守れなかった誰かの背が、ブレて重なって見える。

「……ああ、クソ」

 本当に、似てる。そんな事だけで、六年前に死んだ自分がのうのうと息を吹き返そうとしている事に反吐が出そうだった。