複雑・ファジー小説
- Re: ミストゥギア ( No.6 )
- 日時: 2022/06/21 23:33
- 名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)
黒い線が、薄い皮膚の下を巡って這いずり出てくる様は、あまり見ていて気分の良いものじゃない。自分の右腕の完全に塞がった傷の周りに這いずり回る糸――縫合用の糸――が、スルスルと抜けていくのを、フレイは微妙な面持ちで見ていた。
縫い合わせた傷口が治れば、不要となった糸を抜き取っていく抜糸作業。黙々と慣れた手付きでそれを行っているのは、前を真横に切り揃えた青髪の小柄な『ウルヴァス』の女性だ。頭頂部に生えた両耳が、時たま漏らすフレイのうめき声に反応して跳ねている。
糸が一本、また一本と抜けていく度に、針で刺されるような微妙な痛みと痒さが襲ってくる。かれこれそんな状態が、もう数十分は続いていた。
「……あと何本だ」
「これで終わりですよ」
女性の言葉通り、抜き取られた最後の糸がトレイの上へと転がる。残っているのは、硝子が貫通し、向こう側が見える程に大きく開いていたはずの傷跡がかすかに残った右腕。
指先に力を込める。親指から、握り込むように順番に力を込めていって。その動作、感覚に何の異常も無い事を確認して、フレイは安堵の息を漏らした。
「……いや、ホントなんで動くんですか。『ウルヴァス』の生命力でもなんかおかしいですよ」
その動きを見て、青髪の女性が若干引いた様子で唸る。その傷が治ったのが、仮に数ヶ月の治療を経た後ならそうも驚かなかっただろう。だが、フレイがこの診療所に運び込まれて、まだ五十時間程しか経っていない。
「知らねぇよ。医者の方が詳しいんじゃないか、クロセルさんよ」
「医者だから何でも分かるわけじゃありませんよ。分かるのはアナタがおかしいって事ぐらいです」
診療所に運び込まれたフレイの傷を治療し、縫合したのは彼女――クロセルだ。アイザックと同じ元『エニグマ』所属の衛生兵。
尋常ではない速度で治っていく傷をリアルタイムで見ていた彼女がどう考えたっておかしい、と診断するのだ。その言葉の通り、どう考えたっておかしいのだろう。
掌を開き、上下左右に何の憂いもなく動かせている右腕を見て、どうなってんだと小さく嘆息した。
思い出されるのは、硝子が貫通して、大量の血で境界線すら分からなくなりそうだった右腕。それが三日と経たずにほぼ完治しているのだ。『ウルヴァス』という、『ヴィーク』に比べれば生命力の強い種族であろうと、そんな化け物じみた再生力を発揮出来るわけではない。
動くのは良い、喜ばしい事だ。だが、流石に現実を直視するには五十時間という合間は短すぎる。時間でも巻き戻ったか、あるいは夢だったか――そんな現実逃避じみた考えすら浮かんでくるほどだ。
「…………すぅ」
そんな考えも傍らの丸椅子に腰掛けて眠る少女を見れば飛んでいく。間違いなく、あの濃密なチェイスは現実にあった出来事だった。
「……いつまで寝てんだろうな、こいつ」
ジーヴルが診療所を去った後、フレイは眠気に誘われるまま、暗闇に落ちた。その間に一度目覚めていたであろう少女は、ベッドから降りて丸椅子に座ったらしい。が、フレイが起きる頃にはまた眠りについていて、結局今の今まで会話らしい会話の一つも交わしていない。ここまで寝てるのであれば、別の病気すら疑ってしまう。
「そこんところどうなんだ、医者」
「良いんじゃないんです? 寝る子は育つって言うじゃありませんか」
「雑だなおい」
こいつホントに医者かよ、と。フレイが呆れ混じりの視線を向ける。
アイザックやクロセルは『エニグマ』の衛生兵上がりだ。基本的な知識はあれど、経験だけで治療を行うヤブ医者と言ってもいい。良くも悪くも貧民街レベルの技量だ。医療機器の類も乏しい貧民街で、名医だの神の手だの、全てを期待するのはお門違いというものだ。
抜糸の後片付けを終えたクロセルが、窓に掛かったカーテンを勢い良く引く。運び込まれてから二周ほど星を回ったであろう陽の光が、ベッドを柔らかく温める。
「まぁ、早く治ってくれるのであればそれに越したことはありません。この診療所に病床は二つしかありませんから」
「……その二つってのは、お前とアイザックの寝床だろ。このベッド、あいつの匂いがすんだよ」
「ええ、なのでもうちょっと怪我してくれても良かったんですが。そうすれば、一緒にアイザックと寝れるので……えへへ」
「惚気けてんじゃねぇよ」
赤らめた頬に手を当て、腰をくねらせながら全身で喜びを表現するクロセル。胸焼けするような感覚が喉をせり上がってくる。
幸せそうで何よりだ、ひらひらと右手を振るう。その行為で微塵も痛みが走らないあたり、本当に完治しているのだろう。代わりに頭が痛くなりそうだ。
「あ、治療費は何時請求すればいいですか?」
「持ち合わせがねぇ。アイザックにツケといてくれ」
「ダメです。金銭感覚に疎い夫を持つと、苦労するのは妻――」
そこまで言いかけたクロセルの耳が、ピクリと何かの物音に反応する。
甲高い鈴音。玄関を開く音。先生、と呼びかける女性の声、足音。続けて「はいはーい」と言いながらその音へと向かっていくアイザックの声と足音。
当然、同じ『ウルヴァス』であるフレイもその一連の音は聴こえており、ほら患者だぞ、という視線をクロセルへと向ける。
「……仕方ありません。お金の話は後にしましょう」
そう言ってじっとりとした視線をフレイに向ける。それは言外に「逃げんなよ」と釘を刺す視線で、フレイはそれから逃げるようにそっと目を逸らした。あわよくば逃げようと思っていたのは既に見透かされていたらしい。
「ここ、使うかもしれないので。お散歩にでも行ったらどうです?」
「あー……邪魔になるか……おう」
元同僚で幾度か世話にもなった衛生兵の言葉だ。あまり強気には出られないフレイが、歯切れ悪くそう応える。その視線の先には、ゆらゆらと夢心地で揺れている少女の姿があった。
クロセルには、フレイとこの少女の関係性は分からない。分かるジーヴルが血塗れになったフレイを担ぎ上げて運んできた時に、一緒に連れてきたという事だけだ。だが、フレイのその視線には噛み切れない複雑な感情があるのは理解出来た。
「私のベッドにでも寝かせておきますよ。さ、行った行った」
「……当たりが妙に強くないか?」
「暗い顔の人がいると患者さんが不安がりますので」
納得したような、していないような。そんな微妙な表情を浮かべたフレイだったが、少しの間考え込んで、仕方がない、と嘆息する。
ベッドから降りる。ベッドの下に置かれていた靴を履き込むと、ぽんと少女の頭を一撫でして、ちらりとクロセルへ視線を向けた。
「……一時間ぐらいでいいか?」
「ええ、気分転換行ってらっしゃい」
「……おう」
素っ気ない。なんだか悲しくなってきたフレイはそのまま病室の窓枠へと足を掛け、一気に外に躍り出る。ちなみに病室は二階だ。
少しの浮遊感の後、身体が重力に従って沈み始める。直下から受ける風の煽りを受けながら、コンクリートへと二本の足で降り立った。硬い大地から伝わる衝撃は、『ウルヴァス』特有の筋繊維が受け流してくれる。
ミリタリーズボンの裾の埃を払い落として、頭上を見上げる。今しがたまでいた病室の窓から、クロセルが小さく手を振っているのが見えた。
後ろ髪を引かれるような思いで、ゆっくりと歩を進める。腰から伸びた真紅の尻尾は、どことなく元気がなかった。
◆
耐久年数なんて疾うの昔に迎えているであろう室外機が、ガラガラと巻き込んだ石と不協和音を奏であげている。酷く耳障りではあったが、貧民街では別に珍しくもない情景だ。フレイは暗い路地を歩きながら、ふぅ、と白い息を吐き出した。
昔から、機械音を奏でる鉄の蓋から見下されているのが嫌だった。お前も、お前の守りたいモノも全て無価値だと言われているような気がして。そのありもしない視線から隠れるように、狭くて暗い路を好んだ。
――――そういえば、あいつに会ったのもこんな暗い路だったか。
霜が溶けて溜まった水が、足元で跳ねる。室外機が吐き出す異臭が鼻を突く。脳裏に思い出されるのは、こんな暗い路でも輝いていた『銀色』だ。
……感傷的になっている、とは自覚している。色んな事があったからか、どうにも過去の事ばかり思い返す。
「フレイ? なんだ、もう脱走か?」
……いや、そんな感情豊かな声色じゃなかった。なんなら出会って数週間はまともに喋らなかった。と、過去を思い返す自分と漫才じみた問答をしていると。
「……無視か? 哀しいな」
「……んん?」
違和感があった。くるりと首を回して、背後に視線を送ると。
暗い路に似合わぬ『銀色』がいた。華美な装飾の軍服と、左目を塞ぐ黒革の眼帯。右手には、籠に盛られた林檎。昨日と変わらぬ様相のジーヴルと目が合って、ニコリと微笑まれる。
目を瞬かせる。右手で、目元を擦り、ピントを合わせて、もう一度瞬かせる。
……いや、何してんだお前。
「いや、何してんだお前」
思考が、そのまま口をついて流れ出た。それに対して不思議そうな表情を浮かべたジーヴルが、首を傾げながら。
「見舞いだが」
「昨日の今日だぞ」
「おかしいか?」
「ああ、うん……」
天を仰いだ。冷たい鉄の蓋が、こちらを見下ろしている。見てんじゃねぇぞ、と睨みつけた。こういうヤツだった、と過去の自分と意見が一致する。
視線を戻せば、また微笑まれる。家出を見つかった子供のような気分だった。いや、やましい事はなにもないのだが。
「で、なんだ? 脱走か?」
「なんでワクワクしてんだよ。散歩だ散歩」
小さく「追い出されたようなもんだが」と言葉尻に付け足す。その様子に可笑しそうに笑ったジーヴルが、籠の中の林檎を手にとって、フレイへと放り投げる。艶々とした林檎が放物線を描き、フレイの広げた掌へ吸い込まれるように収まった。
「散歩なら、ちょっと付き合え。六年振りに警邏へ行こうじゃないか」
手に収まった林檎と、ジーヴルの顔を交互に見て。ほんの少し、逡巡して。どうせ暇な事に違いはない。時間を潰すにはちょうどいいか、と。林檎を持っていない手で、手の甲を相手に向けるように掲げる『エニグマ』式の敬礼を行う。六年という年月が経っても、その動作には淀みはない。
「……了解しました、上官どの」
「よろしい。時刻ヒトヒトマルマル。警邏を開始しよう」