複雑・ファジー小説

Re: ミストゥギア ( No.7 )
日時: 2022/06/24 21:51
名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)

 大きく口を開いて、赤い果実を頬張る。強靭な顎で噛み砕かれた林檎は、瑞々しく果汁を滴らせながらその中身を晒した。酸味と甘味、そして異物感。種まで食ったか、とフレイは口をモゴモゴと動かすと器用に種だけを吐き出す。
 寒々しい風が流れ込む路地を、ジーヴルと肩を並べて歩く。かたや『エニグマ』の上官服を纏った『ヴィーク』、かたや白いモッズコートを雑に羽織った『ウルヴァス』。組み合わせとしては異質だったが、その歩調は自然と合っていた。

「警邏も久しぶりだ」
「まぁ、六年振りだからな」
 
 『エニグマ』の警邏、と言っても、腐敗の進んだ組織が行う警邏なんて形だけだ。ジーヴルのように目を光らせる者もいるが、大体が金と賄賂で見過ごされる程度のモノ。フレイだって所属していた時代に、真面目に警邏を行った覚えなど数える程しかない。
 そもそも『エニグマ』に所属している人物の殆どが下層出身だ。少なくとも、フレイは『エニグマ』に所属していた時も、抜けた後も上層の出身だという人間には会ったことがない。

 となれば、後は馴れ合いだ。

 下層の人間同士で、形だけの治安維持をそれなりにやって、金と賄賂を受け取って、いくらかは下層に還元して。ただ上層の連中が与えてくる金で飼い殺されるだけ。上層からすれば、金を払えば勝手に下層の人間同士で厄介事を片付けてくれるのだ。上手いことを考えたもんだ、と当時は考えもしなかった事に思いを馳せる。
 だが、それは傍から見れば上の空に見えたのだろう。並び立って歩いていたジーヴルが、少し不満げに頬を軽く膨らませた。

「上官の前で上の空とは、なってないな」
「いや、部下じゃねぇよ。さっきのはノリで言っただけだろ」

 その返答がさらなる不評を買ったらしい。端正な顔立ちが不満げに歪んだ。昔に比べるとコロコロと変わる表情を見て、「こいつ、こんなに子供っぽかったか」と内心思ったが、どうにか口には出さずに堪える。
 まぁ、やる気のない態度を見せ続けるのも不満に思うか、と。そう考えて、平坦な口調で「申し訳ありませんでした、上官殿」と零す。満足そうに頷かれた。
 どうにもむず痒い感覚を誤魔化すように林檎をもう一口齧った。

「気に入ったのか? それ」
「ああ、美味い」

 実際、上層からの流し物だという林檎は美味い。どこぞの呑んだくれのように味覚がイかれてるわけでもないフレイは、その味をごく普通に楽しんでいた。見たこともない上層の連中は好かないが、食べ物に罪はない。不味いと美味いを天秤に掛ければ、よっぽどでなければ美味い方に傾く。

「そうか。まぁ、確かに品質は良いからな。だが――」

 そう言いながら、ジーヴルが右手に持った籠から一つの林檎を取り出す。フレイが持つ艶々とした赤色ではなく、どこか食欲の失せる青紫。丸々としたフォルムではなく、痩せ細った山羊のような細い果実。
 フレイは良く知っている。幼い頃から何度も食べた。貧民街で穫れる、酸味だけで甘味なんて欠片もない、ただ胃を満たす為だけの品種。それにジーヴルは、何の躊躇いもなく齧り付いた。別に自分が口にしたわけでもないのに、酸味が口の中に広がった気がした。

「うん。私は、こっちの方が好きだな」
「……物好きなヤツだな」

 別に、自分だけ美味い林檎を食べてる事に引け目を感じたわけではないが、微妙に食欲が失せた気がする。そんな表情の変化を悟られたのか、ジーヴルにまた微笑まれた。お前は俺の母親か、と内心で文句を垂れながら、結局齧り付く。
 
「ふふっ……お前が教えてくれた味だ。不味いわけがない……なぁ、フレイ」

 片方だけ。ターコイズブルーの瞳が、海のような群青が、フレイの色褪せた碧眼を捉える。首筋を、背を、掌を、冷たい風が撫でて。煽られた枯葉が空を舞った。

「……『エニグマ』に戻る気はないのか?」
「………………戻って何しろってんだ」

 元々『エニグマ』へ入隊した事に、崇高な理念があったわけでもない。ただ金払いが良くて、家族を養う為には都合が良かっただけ。
 だが、その守るべき家族も『霧』に沈んだ。今更『エニグマ』に戻った所で、何になるというのか。どうしてそんな事を聞く、と怪訝そうな視線をジーヴルに向ける。

「……そうだろうな」
「分かってんなら聞くな」
「悪かった。ただ――」

 続ける言葉は、最後まで紡がれる事はなかった。
 最初にソレに反応したのはフレイだった。ピクリ、と跳ねた耳が向きを変えて、僅かに聴こえたソレを再度捉えようと動く。尻尾が忙しなく振られ、集中するように目を閉じて――跳ね起きるように、目を見開いた。はっきりと、ソレが聴こえた。
 焦燥感に駆られるように、ジーヴルへと視線を向け、同じタイミングでこちらを向き直っていた視線がかち合った。

「フレイ!」
「……ああ」

 ジーヴルにもソレは聴こえていた。寒気を震わせ、強かに鼓膜を叩いた――『悲鳴』だ。治安という言葉が息をしていない貧民街では珍しくもない、聞き慣れるほどではないがまるで聞こえない程でもないソレ。だが、それが聴こえたのが――ほんの一時間程前まで、己がいた場所であれば話は別だ。

「――診療所だ……!」
 
 身を翻し、駆け出す。『ウルヴァス』のフレイの肢体は、あっという間に最高速へと辿り着き、漂っていた冷気が風となる。焦燥感だけが胸中に燻り、熱をもたらしていた。
 
 
 
 ◆



 時刻は、一時間ほど前に遡る。フレイがクロセルに追い出される形で、病室から飛び降りたのとほぼ同時。アイザックは、診療所を訪ねてきた一組の親子の診察を行っていた。
 『ヴィーク』の母親と、『ヴィーク』の男児。診療所の近所に暮らす母子であり、アイザックとは顔見知り程度の仲だ。
 恐らく仕事中だったのだろう、娼婦として働いてる母親は着崩れたワンピース一枚で子供を背負って駆け込んできた。背負った子供が、苦しそうに咳をする。

 それを見たアイザックの行動は早かった。フレイが寝ていた病室兼診療室に母子を通すと、ベッドに子供を座らせる。

「水持ってきます」
 
 病室に連れ込まれた母子を見たクロセルが、入れ替わるように部屋を出ていく。長年連れ添った夫婦の連携は、言葉をいちいち交わさずとも成立していた。
 
 子供の口を開かせ、喉奥を確認する。赤く腫れているソレは炎症している事を如実に表していて、全体的に火照った身体は一つの症例を結論づける。
 無意識に流れる鼻水、咳、喉の炎症。発熱――まぁ、平たく言えば。

「……風邪ですね」

 風邪症候群。貧民街はお世辞にも整った環境とは言えず、清潔という言葉とは程遠い街だ。子供の免疫力では風邪に罹るのは珍しくもないが、軽視していいものでもない。
 母親が、心配そうに咳を零す子供の背中を優しくなで上げながら、アイザックへと懇願するように視線を向ける。

「こ、この子は大丈夫……?」
「ええ、薬はまだありますよ」

 貧民街では、薬はとてつもない高級品だ。まるで効果の無い粗悪品も多い。
 その中でも、アイザックの診療所はまだ品質に拘って薬を揃えている方だった。だが、それは同時に絶対数の少なさを意味している。棚に収まった薬の数をかぞえながら、そろそろ仕入しておかないと不味いな、と内心ごちる。

「解熱剤……後は、炎症を抑える薬……」
「げほっ、げほっ!」
「っと……」

 苦しそうに身体を膨らませた子供を、母親が優しく抱きとめる。
 ……この母子は、父親がいない。娼婦という職業から分かる通り、誰ともわからない男の子を産み、それでも大切に育ててきたのを、アイザックは知っている。
 どれだけ薬が高級品だろうが、それを使うのを惜しむ理由にはならない、と瓶から錠剤を取り出す。

「持ってきました」
 
 丁度いいタイミングで、クロセルが盆に水が入ったコップを載せて戻ってくる。小さく「ありがとう」と返しながら、そのコップを受け取った。
 
「飲めるかい?」

 二粒の錠剤を子供の掌に乗せる。ふらふらとする身体を母親に抱き留められていた子供は、少しだけ虚ろだった目をはっきりさせると。

「…………うん」

 小さくそう返した。震える手で口元に近づける手を補助しながら、口に含めたのを確認して、水を口元に近づける。一口、二口と温い水分が喉を鳴らし、小さな薬を子供の体内へ届かせていった。

「偉いね」
「……うん」

 吐き出す兆候もなく、ちゃんと飲み込めた子供を褒めるように頭を優しく撫でる。まだ幼く、柔らかい髪が指の間をすり抜けていき、その感触がこそばゆいのか子供が身体を身動ぎさせた。

「さ、横になって」

 母親の手の中から離された子供が、ゆっくりとベッドに横たわる。まだ荒かった息遣いは、十数分もすれば薬が効いてきたのか、だんだんと穏やかになる。その内、静かに寝息を零し始めた子供の頭を、母親の手が緩やかに撫でた。
 
「ありがとう、センセイ。貴重な薬をもらって……」
「いえ、大丈夫ですよ」

 職業病なのか、情欲を流すような視線を無意識にアイザックに送られる。今まではまるで意識していなかったが、ワンピース一枚の扇情的な格好から視線を逸らした。

「……………………」

 微笑みながらこちらを見つめるクロセルと目が合った。目を逸らす。ごほん、と咳払いを一つ。

「……もしかして、風邪、移ったの?」
「え、ああ、いや。大丈夫ですよ、医者ですから」

 一体どういう理論なのかはさっぱり分からなかったが、ひとまずソレで場は誤魔化せたよう――いや、クロセルの呆れたような目線は止んでいない辺り、後で『お話』がありそうだ、と内心戦々恐々とする。
 片付けますね、と小さく言い放ったクロセルが、水の余ったコップとトレイを回収し、足早に病室を出ていった。どうやら、後でご機嫌を取る必要がありそうだった。

「……誤解させちゃったみたいね、ふふ……可愛い奥さん」
「いえ、お恥ずかしい……」
 
 クスクスと微笑まれる。照れ隠しに頬をカリカリと掻いていると、今度は申し訳無さそうな表情を浮かべているのが目についた。

「ごめんなさいね、センセイ。薬もらったけど、私、お金は払えないわ……」
「あー……いいんですよ。好きでやってますから」

 もしクロセルがいたら、「そんな事ばっかりしてるから、経営が傾くんですよ! 好きですけど!」と惚気混じりに罵倒した事は間違いなかった。

 アイザックが『エニグマ』を辞めて診療所を開業したのは、貧民街で強く生きる人々の助けになりたい、という願いからだ。誰も彼もが自分が生きるので精一杯、『エニグマ』に入っていようが救えない人は多い。そんな世界に、嫌気が差していた。
 高級な薬を無償同然で使うのも、そんな生来の人の良さからだった。まぁ、おかげで懐は『ヴェルドミッテ』の気候の如く冷え切っているのだが。

「最近、変なクスリが出回ってるでしょ……だから、あまり自分でクスリを探すのも怖くて……」
「ああ……」

 その言葉にアイザックが記憶を巡らせる。確かに、ここ最近で薬を仕入れている間にもその噂――もとい、誘い文句は聞こえてきた。
 曰く、『霧』に耐性が付くだとか。曰く、天国へ昇るような心持ちになれるとか。どれもこれも眉唾モノだし、正直ロクな薬でない事は分かる。
 知識のあるアイザックであれば見分けは付くだろう。が、それがこの母親のような素人であれば難しいかもしれない。貧民街では、正誤を判断出来る前知識すら得られないのだ。

「まぁ、こちらを頼って正解ですよ。最近キナ臭い――」

 チリン、と呼び鈴が鳴った。今日は多いな、とアイザックが言葉を中断して立ち上がろうとすると、小さく応答する声と一緒に、病室の外で小走りの足音が駆けていった。
 どうやらクロセルが対応してくれるらしい。ならそちらは任せて、経過を見た方がいいか――と、穏やかな息遣いで寝ている子供を見て、微笑んだ。
 


 ◆
 
 
 
「はいはい、どちら様で――」

 アイザックが経営する診療所は二階建てだ。病室兼夫妻の寝室は二階にあり、受付や待受室、診察室は全て一階に拵えている。
 階段を降りれば、そこは貧民街にしては小綺麗な待合室が広がっていた。寒さに耐えかねて萎れた観葉植物が、添え物程度にあちらこちらへ飾られている。
 
 だからこそ、その存在は、その空間において異質だった。

 開け放たれた診療所のドア。そこから差し込む陽光を遮るように、長身の巨漢がそこに立っていた。クロセルのような小柄な女性から見れば、頭五つ分ぐらいは抜けた上背。筋骨隆々の上半身を惜しげもなく晒して、その肌の上から直接毛皮と合成皮革が混ざったようなコートを羽織っている。
 腰に到達するほど雑に伸ばされた艶のない黒髪の間から、光の無い灰色の瞳が、閑散とした待受室の風景を映し出していた。

 クロセルは、その姿を視認した瞬間。護身用として懐に忍ばせていた小銃をその男へと向けた。少なくとも、治療を受けに来た病人に対する対応ではなく、事実この男は病人などではなかった。
 
「あれぇ……? ここ、診療所だよねぇ~……? 銃、向けんの?」
「ウチは外科専門です。『ディブロ』が、治療が必要になるような傷を負うわけないでしょう」

 惚けたように、口元に弧を描いて嘲笑う男。その頭頂部には、一対の歪な角が渦を巻くように突き出していた。それこそが『ヴィーク』『ウルヴァス』に続く、『ヴェルドミッテ』に住まうもう一つの種族――『ディブロ』の特徴だった。

「あ、そう~……偏見だよぉ、それは――」

 言葉を待たずして、銃口が吼える。引き金によってもたらされた火花が、莫大な圧力を生み出してその脳を食い破らんと、弾丸が飛翔した。
 男が仰け反る。じっくりと照準を合わせた弾丸は、間違いなく男の頭蓋骨へ突き刺さり、血飛沫と脳髄を撒き散らして横たわる――はずだった。男が、『ディブロ』でさえなければ。

「いっ…………てぇ~~……なぁ……」
 
 のんびりとした口調で、額を擦る。そこには多少の擦過痕はあれど、弾丸が直撃して傷一つ無かった。その強靭な肉体は『ウルヴァス』を遥かに凌駕し、莫大な膂力は生物を容易く葬る。歯噛みしたクロセルが、もう一度照準をその額に合わせようとして――その行動は、もはや遅かった。
 
「ぎっ――」

 鬱陶しい蝿を振り払うように。服の裾に付着した埃をはたき落とすように。ごくごく自然な動作で、男はその巨大な拳を、質量をクロセルへぶつけた。
 小さな肢体が、ただただ振り回された暴力に晒されて、ふわりと足元から浮き上がる。待合室の閑散とした空間を、蒼の影が横一直線に飛んでいって、受付を超え。その先にある資料を収めている棚へとぶつかり、破砕音と共にずれ落ちた。

「あぁ~……やっちま、った」

 黒髪をボサボサと掻き乱した男が、やってしまったと後悔の念を滲ませて――まぁいいか、と向き直った。
 その暴力が、破砕が合図だったのか。男の後ろから、ぞろぞろと『血涙を流す狼のタトゥー』が彫られた男たちが診療所に乗り込んでくる。

「ああ、そうだぁ~……挨拶、してなかったな」

 それが彼なりの礼儀なのか、身支度を整える行為なのか。『ディブロ』の男が前髪を掻き上げて、その両の目の下に描かれた『紅い血のタトゥー』を外気に晒す。

「ちわ~……『ブラッドドッグ』……でぇ~す……」

 男が笑う。嘲笑う。嗤う。凄烈な孤を描いた口元の隙間から、湿った吐息が漏れ出ていた。