複雑・ファジー小説

Re: ミストゥギア ( No.8 )
日時: 2022/06/26 22:52
名前: 月砂 ◆NwBfJVe6Lc (ID: gpnkGGUu)


 何時だって、気付いた時には遅かった。

 どれだけ疾く駆けても、どれだけ気を張っていても、どれだけ力を振るおうとも。

 気付いた時には、まるで『霧』に覆われるように何もかもが見えなくなる。

 

 ああ、また俺は。

 大切な何かを取り零す。



 ◆



 寒風を取り入れて凍りついた肺が、裏腹に焼け付くような鋭い痛みを放っている。ひりついた喉は絶え間なく潤いを求めて、粘ついた唾だけでは足りないと訴えていた。
 荒い呼吸は、確かな熱を持って冷気と反応し、口の端から漏れた先から白く染まっていく。額や背中には、身体の熱とは程遠く冷たい汗が流れていた。
 視界の端を高速で景色が流れていく。時折向けられる貧民街の住民の奇異な目線も無視して、フレイはただひた走った。そんな事に気を取られる一秒すら惜しい。
 
 診療所に近付くにつれ、先程の悲鳴を聞いて駆け付けたのか、野次馬の数が多くなってくる。その合間を駆け抜けて、時には突き飛ばしながら進む――まるで六年前の再現だ。

「ッ、どけッ!」

 遠巻きに診療所を見ている野次馬を跳ね除け、ようやくフレイはその場に辿り着く。拓けた視界の先に見えたのは――――無惨に破壊され、横倒しになったドア。存在意義を無くした蝶番が、ブラブラと揺れている。呆気に取られて、喉から乾いた音が鳴る。その一瞬ですら呆けた自分に怒りを覚えて、歯噛みをしながら診療所に駆け込んだ。

「――ッ!」

 酷い有様だった。整然と並べられていた待合室の椅子はどれもこれも破壊され、窓に嵌め込まれていた硝子は砕かれ、部屋に漂っていたはずの暖気は全て凍えるような寒さに置き換えられている。
 人の気配の一つとして感じられない。少なくとも一時間前には誰かいたはずの空間は、貧民街に枚挙する廃墟と同じぐらいに静寂に包まれている。

「……クソッ……!」

 散らばる硝子を踏みしめる。足元から奏でられる耳障りな音が、余計に焦燥感と苛立ちを加速させる。そして。

 ――――視界の端。受付の影に隠れるように、粉状になった硝子がまぶされた蒼い尾が見えた。

 どくり、と鼓動が跳ねた。世界から切り離されたように音が遠ざかり、カラカラと砂漠のように唇が乾いていく。それでも、『ウルヴァス』の鋭い嗅覚だけが、強烈な血の臭いを感じ取っていた。
 近付く。そうする意味など何処にもないのに、足音を立てぬように忍び足で。いや。もう、分かっている。理解をして、それでも否定している。

「……クロ、セル」

 応答はなかった。影に潜むように倒れていた彼女は、もう呼吸のひとつすらしていなかった。小柄な身体に似合ってなかった白衣は、腹部に突き刺されたナイフから流れる黒々とした血で染まり、目の端から零れ落ちた涙の痕が見える。腕は可動域を超え圧し曲がり、皮膚を突き破った白と赤が散らばっていた。

 瞳に、光は無い。ただ、物言わぬ屍がそこにいるのだ、と。無情な現実を突きつけるだけだった。
 
 視界が、赤く、紅く染まっていく。歯噛みした犬歯が擦れ合い、軋む。瞳孔は獲物を狙う獣のように細く伸びていった。胸中に空いた虚しさに入れるべきは、ドロドロに煮え滾った溶岩のような怒りしかない。叫び出したい怒号を押し留めている一線が、沸騰させると錯覚する程に血を熱くさせている。
 
 その時だった。ガタリ、と。窓から吹き付ける寒風の音とは別の、何かを動かす音がしたのは。それは微かな音だったが、『ウルヴァス』の聴覚はソレを聞き逃さない。
 顔を跳ね上げる。視線を忙しなく動かし、音の方角を探る。そして――二階へ続く階段の入り口。その影から、赤と白の斑模様になった白衣の裾が覗いていた。

「――アイザックッ!」

 受付を飛び越え、一足で近付く。接地した靴底が、パキリと硝子を跳ね除けた。

「フレ……イ?」
「――……ッ!」
 
 フレイが息を呑んだ音に掻き消されそうなほどに、弱々しい声だった。
 ――右眼が、潰れていた。頭を殴られたのか止め処なく流れる血が頬を伝い、白衣のキャンパスに雫となって零れ落ちて、紅のシミを広げていく。残った虚ろな左目から伸びる視線は、左右に揺らいでいて――フレイにその焦点が当たることは、一度もなかった。もう、眼がまともに見えていなかった。

「クソッ!」

 犬歯を己の白いコートに突き立てた。鋭く尖ったそれは繊維を容易く噛み切り、裂け目を作って一枚の布へと変えていく。
 フレイに医療の知識など無い。『エニグマ』で聞き齧った程度の応急処置だ。グルグルとアイザックの頭部の出血を布で圧迫止血する。それが果たして、この状況で正しい行動なのかすら分からない。

「…………クロ、は」
「喋るな」

 頭部からの出血は簡単には止まらない。白かったコートの切れ端は、ジワジワと紅色に染まっていく。それでも、フレイに取れる行動はそれしかない。
 アイザックの震える手が、肩を掴んでいたフレイの手首にそっと触れる。指先の血溜まりが、そっと赤い線を腕に引いた。

「……子供が、いたんだ……クロの、お腹の中に」
「……喋るな!」

 強く言い止めても、その口元から流れる言の葉は止まらない。朦朧としている意識では、フレイの言葉は届かない。ギリ、と奥歯が砕けそうな程に噛みしめる。
 どうしてだ。どうして、こんなにも。


 
「……僕たちは、何を、したの……かな……」


 
 ――――この世界は『理不尽クソ』なんだ。
 



「………………おい」

 骨張った手が、スルリと脱力して、血溜まりを跳ねさせる。フレイの頬に飛んだソレは、確かな熱を持っていて、瞬きをする間に冷たくなっていく。まるで、喪ってはいけない大切な何かが抜け落ちていくようだった。

「……………………」

 ただそこにあるだけの抜け殻は、フレイの力でかろうじて支えられているだけだった。だから、フレイが力を抜いてしまえば容易く倒れてしまう。
 支えるものが無くなった掌を見つめる。何もない。何もない。無くなった、失くなった、亡くなった。確かにあったはずの熱が、命が、もう存在していない。

「…………は」

 意味のない言葉が漏れ出た。何だこれは。何だっていうのだ、これは。自答出来ない疑問だけが脳内を満たして、理解を拒んでいく。
 きっとそれは、誤魔化しているだけだ。それを認めてしまえば、きっと本当の意味で彼らは死んでしまうから。




 ――どれだけ呆然としていただろうか。気付いた時には肩を揺さぶられていた。ようやく認識出来た視界には、こちらを心配そうに見つめる群青の瞳があって、いつの間にか診療所は『エニグマ』の兵隊が詰めている。焦点が、視線が合った事に気付いたジーヴルが、安堵の息を吐き出した。

「気付いたか」
「…………あいつらは?」

 ジーヴルが力無く首を左右に振る。ああ、駄目だったか、と。冷静になった自分が吐き捨てるように呟いた。
 立ち上がる。足元は笑ってしまうほどに力がない。視線を外に向ける。夕暮れの光が、眼を焼いた。ふらつきながら歩く。冷え切った身体に、ようやく熱が入ってきた。

「どこに行く気だ」

 ジーヴルの声が、背に突き刺さる。それにゆっくりと振り返ってみれば、視線の先にいたジーヴルが目を見開き、息を呑んだ。
 きっと、今の自分は酷い有様だろう。漏れ出る呼気は熱く、怒りで充血した眼は獣のように鋭くなっている。親しかった相棒にも見せたことは無い、『ウルヴァス』の獣性が剥き出しになった状態だ。

「応報だ」

 短く応える。そして指を、診療所の壁に向けた。ただただ自己顕示欲が滲み出た『血涙を流す狼』がそこには描かれていて。標的とすべき者が誰なのかを、分かりやすく表していた。
 鋭い碧眼から放たれた視線と、片端の群青の明眸から放たれた視線が絡み合う。数秒間の睨み合い。先に折れたのはジーヴルだった。

「……奴らの拠点も分からないだろう。私も行く」
「……下層の事に首突っ込んでいいのかよ」
「気にするな。それに……」

 黒い軍服が翻る。背に流れた銀色が、その黒に煌めきをもたらして、硬質な足音が響く。
 気付く。その手は硬く握りしめられている事に。

「……腸が煮えくり返っているのは、私も同じだ」

 準備をしてくる、と言葉少なく放った背が遠ざかっていく。己の怒りに共感する者がいれば、多少なりともその溜飲を下がるものだ。未だ沸騰する激情は胸の内にあれど、フレイの思考はほんの少しクリアになった。
 診療所の外に出れば、肌を刺すような寒風が破れたコートの隙間から入り込み、体を凍えさせてくる。天を仰いで、臓腑の底から鬱憤というの名の熱を吐き出した。
 
 誰が死のうが、何を喪おうが。この都市は、この世界は変わらない。頭上を塞ぐ鉄の蓋はただただこちらを見下して、『霧』はただただ無慈悲に全てを掻き消していく。


「――…………クソみてぇな、世界だ」

 
 いつかに吐き捨てた言葉。誰にも届く事の無い悪態は、ただただ虚しく空に吸い込まれていった。



 ◆



 暗い空間に、『ヴィーク』の男の荒い呼吸が響き渡る。涎を孤を描いた口の端からダラダラと流しながら、必死に腰を振る姿は滑稽でもあり、悍ましくもあった。
 口汚い喘ぎ。焦点の定まらない眼は中空へ向けられていて、時折意識を虚脱させて揺らめいでいく。

「……まだ死体に盛ってんのかよ」

 その男の背後から、表情から嫌悪感を隠そうともせず、鼻を摘みながらもう一人の『ウルヴァス』の男が話しかける。顔立ちも似ておらず、種族も違うこの二人の共通点は――体の一部に『血涙を流す狼』のタトゥーを彫っているという点だけだ。

「し、し、仕方ねぇだろ。勢い余ってや、や、殺っちまったんだ」

 呂律の回らない怪しい口調でそう応える男の股座の下には、一人の女性が横たわっていた。乱暴に剥がされたワンピースと、段々と冷たくなっていく身体。乱暴に、粗雑に扱われた首元には青褪めた指の痕が残っており――――口の端からは黄色い泡が漏れ出ていた。そこまで見れば、わざわざ近づかなくて確かめなくても分かる。もう死んでいる。

「子供が、どうのこうの、うるせぇから……ぎ、ひひ」
「……クスリ切れかけてんじゃねぇか。盛ってねぇでキメてこいよ」

 もし、この場にフレイがいたのなら、女性に跨っていた男の顔には見覚えがあったはずだ。酒を盗み出そうとした浮浪者、呑んだくれ。気付けのクソ不味い酒を譲った、汚らしい男だ。
 ふらふらと立ち上がる。下を隠せ、下を。『ウルヴァス』の男が穢らわしいモノから目を逸らすようにソッポを向いた……その視線の先には、厚い鋼鉄で閉ざされた一つのドアがあった。
 その先には、先程の襲撃の『戦利品』と、恐ろしい我らの頭領がいる。

「しかし、ウチの頭はあんなチンチクリンのガキに何の用があんだろうな」
「あ? し、し、知らねぇよ。俺は飲んでヤれればいい」
「……そうかよ」
 
 こいつに聞いた俺が馬鹿だった、と。『ウルヴァス』の男が頭を振って溜息を付く。
 だが、ある意味では正しいのだろう。俺達のような馬鹿には、きっと分からない事なのだから。ただただ、従っておけばいいのだ、と。

 そう、思考を停止した。













 目を開いた。視界がボヤケている。長い眠りから目覚めた時の夢か現か幻か、自分の立ち位置が分からない時間。

 黒い長髪の間にある灰色の目が、こちらを覗き込む。頭頂部に生えた歪な角が、その存在を主張し現実だと知らせてくる。

 口元が孤を描いた。おおよそ幼子には見せられぬ、嗤い。








 

「おはよう、『霧の歯車』」