複雑・ファジー小説

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憂鬱なニーナ
日時: 2015/12/19 22:27
名前: 朝倉疾風 (ID: jx2ntsZm)


改名したので、お伝えしておきます。


朝倉疾風(アサクラ ハヤテ) → 夜枷透子(ヨカセ トウコ)
大幅に。思いきって。
五年間の朝倉とサヨウナラ。






ついったぁ  @_aiue_ohayo




──日常に蔓延る、小さな狂気を。


登場人物


春名依空……蜷川、若狭とは幼なじみ
蜷川月子……通称「ニーナ」
蜷川時恵……ニーナの叔母
若狭壮真……金髪ピアス 総菜屋の息子
茶谷咲和……依空に一目惚れしたいじめられっ子
天羽カヲル……中学時代、咲和と同じクラスだった
秋月冴香……いじめの主犯

Re: 憂鬱なニーナ ( No.17 )
日時: 2015/12/02 23:03
名前: 朝倉疾風 (ID: ZfgN7XgD)



『ノスタルジックメモリー』

 ぜんぜん笑えない。
 ぼくは目の前に広がる状況を見つめて茫然と立ち尽くす。笑える要素がこれっぽっちもふくまれていない。
 七月の始め。
 席替えをし終わったあとの四年二組は、水を打ったようになる。いつもなら動物園のような騒がしさだというのに、時が止まったみたいに全員が動かない。ぼう然と一点を注視している。
 その視線の先にはニーナと、つい先ほどニーナと隣の席になった男子がいた。
 男子の服や足には白の嘔吐物がべっとりとついていて、彼自身「おえええええっ」ともらいゲロを吐いている。ニーナは浜辺に打ち上げられた魚のように、床でのたうち回っている。「ぎぃぃぁあああっ、ああっ、えっ、おぼぼぼおおおっ」と意味不明の奇声をあげながら。奇声がおさまり、びくびくとニーナが痙攣を起こす。
 担任の先生がおそるおそるニーナの体を抱きかかえた。そこから時間が流れ出す。
 保健室の先生と、その助手のような若い女の人と、隣のクラスのゴリラみたいな先生がやってきて、ふたりを背負い教室から出て行く。
 どうしてこうなったのかを説明することは簡単だ。
 ニーナの隣をいやがった男子が、ニーナに悪口を言った。その悪意のなかに、彼女の心を刺す言葉があった。ニーナの何かが爆発し、胃の中が濁流のようになり、嘔吐したわけだ。
 その後の四時間目、ニーナも男子も教室には帰ってこなかった。
 放課後。
 もう他の子は帰っていて、教室にはぼくと担任の鈴浦先生しかいなかった。
 鈴浦先生は三十二歳で、三年前からこの小学校で働いている。曲がったことは大きらいで悪を憎むヒーロー気取りの先生だ。休み時間には流行りのお笑い芸人のネタを披露していて、それがぼくのクラスではウケていた。

「春名は蜷川と仲がいいんだよな」

 いつまでも学校に残っているぼくが、ニーナを待っているということを先生は知っている。仲がいいかどうかはわからないけど、ここで「違います」と答えると先生はきっと心配する。
 あいまいに、斜めに首を振った。
 それをイエスと受け取ったのか、先生は話を進める。

「蜷川は……お母さんのことを春名に話すか?」
「仕事でいそがしいとは、言っていました」
「それだけ?」
「ぼくも、あまり聞かないので」

 言葉と真実を濁す。先生は大人だから、子どもにあまり深いところまで聞かない。納得したふりをしてくれる。

「もし蜷川がお母さんのことを何か言っていたら、教えてくれないか」
「何かってなんですか」
「うーん、そうだな。……ちょっと難しかったかな」
「ニーナは、何も言いませんよ」

 だから、大人ってバカだ。

「お母さんから殴られたり、蹴られたりしていても何も言いません。首を絞められても、煙草の火を押し付けられても、それが愛情だと言って何も語ろうとしません。だからぼくは、その事実を知らない。蜷川から聞いたわけじゃないから、ぼくは何も知らないんです」

 目で得た情報だけだ。
 本当にぼくが知っていることといれば。
ニーナ自身がそれを愛情と信じて疑わないことだけだ。
 鈴浦先生が目を丸くさせて、驚きを隠していない表情でぼくを見つめる。唇が若干震えていた。「それは……お前……春名、それは」何かを言いかけて、口をつぐむ。
 戸が開いて教室にニーナが戻ってきたのだ。
 先生は気まずそうにうつむきかけたけど、すぐに明るい作り笑顔を浮かべた。そして先生としてニーナに声をかける。

「蜷川、もう体調は大丈夫なのか。家まで帰れるのか。車で送ってやろうか」

 ニーナはそれらをすべて無視して、ランドセルを背負う。そしてぼくのほうへ向き直る。
 灰色の日常が鮮やかな赤色に染まって見えた。
 ニーナがそこにいるだけで、ぼくの心は満たされる。ニーナでいっぱいになる。

「早く行くよ、ノロマ」

 氷のような冷たい声。けどぼくにだけは自分から話しかけてくれる。特権っていうやつだ。ぼくはそこに子どもじみた優越感ってものを感じずにはいられないのかもしれない。「さようなら」とぼくだけ先生にあいさつする。先生は苦笑しながら手を振った。ぼくたちは教室を出て、廊下を歩く途中で手をつないだ。
 今日もニーナはぼくの家へ帰る。
 ぼくの家のほうが小学校から遠いのに。子どもの足で歩いて二十分の距離。ニーナは後ろからぼくのランドセルをリコーダーでたたきながら歩く。理由のない暴力にさらされているランドセルには悪いけど、さすがにリコーダーで頭を直接たたかれるのは避けたいからそのままにしている。

「あいつらきらい」

 ぼくとはちがって、感情をゴミのように捨てる。嫌悪感のふくまれた言葉。ぼくの頭に、がこんっとぶちあたる。
 ランドセルへの攻撃がおさまった。振り返ると、ニーナが立ち止まっている。

「だいきらい。ゲボみたいだし。あいつら、世界から消えちゃえばいい」

 小さい鈴のようなセミの鳴き声が遠くで聞こえる。
 地中で長く生きたセミは、短い命をどうして外で過ごしたいと思ったんだろう。空が青いということを知りたかったのだろうか。真っ暗なところで生きてきたから、目がくらむような明るさを実感したかったのかもしれない。
 ニーナは、求めていない。
 空の明るさも、世界の眩しさも、求めていない。
 家のなかで暗闇といっしょに生きている。それを信じて疑わない。ニーナの世界は母親一色だ。地中でずっと生き続けて、ぼくのような例外をそこに引きずり込む。

Re: 憂鬱なニーナ ( No.18 )
日時: 2015/12/05 21:11
名前: 朝倉疾風 (ID: ZfgN7XgD)


「今日もぼくの家に行くの?」

 けっきょく口から出てきたのはこんなこと。
 ニーナの怒りを受けとめるんじゃなくて、受け流す。受け皿がないから、ニーナの思いは宙ぶらりんになって落ちて行く。潰れたトマトみたいにぐちゃぐちゃだろうな。
 ニーナは軽くうなずく。まぁ、ここ最近ぼくの家に来ているから、今日もだろうなとは思っていたけど。母さんも「ああ、あの子また来ているの」とさえ言わなくなった。
 ぼくは今日の鈴浦先生の言葉を思い返してみる。
 うーん、うん。
 少し、触れてみようか。

「ニーナっておかあさんのこと好き?」
「だーいすき」

 蜂蜜が蕩けたような笑顔。普段のニーナからは想像できない、違和感のある表情だった。
 もし夢をべりべりとかさぶたのように剥がして、血が滲む現実がそこにあるとしたら、ぼくには手当てなんてできない。だから、せめて完治するまで傍にいようとは思っている。

「おかあさん、仕事が忙しいけど朝になったら帰ってくるし。わたしのこと大好きだよって言ってくれる。わたしもおかあさんが好き。……いっくんは、わたしとおかあさんが離れて暮らしたほうがいいなんて、言わないよね」
「え?」

 不意の質問。期待の眼差し。
 ぼくが否定しないという期待。
 どう言えばいいのかわからなくて、無言をつらぬく。

「周りのやつら、みんなそう言うの。ジドウソウダンなんとかってところから来た大人がね、わたしとおかあさんを引き離そうとするんだよ。そんなの、わたしはいやだ。おかあさんとずっといっしょにいたい」

 素直で小さな願いに、どうしてか胸がしめつけられるようだった。
 ニーナはおかあさんが大好きで、どれだけ殴られたり蹴られたりしても、何も言わない。そのあとで繰り返される「大好きだよ」の言葉を信じている。それがもう、本当の愛情ではないことはぼくにも理解できていた。
 だけど。
 ニーナにとっては、違うから。

「言わないよ、そんなこと」

 ぼくは受け流す。
 先生とか他の大人にも言わない。ニーナが家で何をされているのか、ずっと黙っておこう。ニーナはおかあさんがいないとだめだから。おかあさんがいなくなると、ニーナは死んじゃうから。
 安心しきった顔でぼくを見つめるニーナは、このときだけぼくへの攻撃をお休みしてくれる。
 再び歩き出す。
 リコーダーを片手に、空いているもう片方で手をつないで。

「いっくん、やさしいから。他のやつらよりは、きらいじゃないよ」

 ぼくらは、地の底へ続く道を歩いている。

Re: 憂鬱なニーナ ( No.19 )
日時: 2015/12/06 00:01
名前: 朝倉疾風 (ID: ZfgN7XgD)




 六月二十九日、火曜日。
 この日、僕は学校を休んだ。
 サボったという言い方のほうが正しいのかもしれない。今までも運動会やクラスマッチ、コーラス大会など行事がある日は、学校に行かなかった。面倒くさいからという理由を当時の担任に伝えたときの、奥歯で虫を潰したような顔が忘れられない。ニーナの出席日数も、僕のサボりと関係してくる。僕が行かないのなら自分も行かないという日がほとんどだった。それは、当時まだ僕がニーナの家まで彼女を登校に誘っていたころで、僕が行かないとニーナの睡眠の妨げになるものが無いからだ。さすがに時恵さんに叱られて、お互いの家の分かれ道までは一人で行かせるということに落ち着いたけど。
 手を伸ばして、スマホの電源を入れる。
 朝、ニーナがまだ家を出る前に、僕は彼女の家に電話をかけた。
 スマホを持たないニーナに連絡をするには、自宅の電話か、彼女の脳内にありったけの電波を送信するしかないのだ。……さて。間抜けな音が数回鳴り、相手が電話をとる。今日はどちらだろう。

「もしもし、春名ですけど」
『…………イソラ?』
「そうでーす。イソラでーす」

 ニーナだった。電話越しの彼女の声は眠気を引きずっているらしく、若干低い。
 声だけで僕をイソラだとわかるなんてさすがだ。ちなみに時恵さんだとわかってくれない。それどころか「もしもし、春名ですけど」と言うと「はるな?……はるな、はるな、はるな……どちらさまでしたっけ」と本気なのか冗談なのかわからない反応をされる。僕の苗字はそれほど覚えにくいのか。

『なに……なんなの。今日、学校休むの?』

 小さい頃からのやりとりだから、電話の理由がすでにお見通しらしい。

「微熱だから、安静にしておく。ニーナはどうするんだよ」
『もう制服着ちゃったから、今日は行く』
「そっか。行くのはいいけど、茶谷のこともあるから気をつけろよ。何かあっても僕は助けてやれないし」
『私が死んだらイソラのせいだから。さっさと寝て風邪を治して。じゃあね』

 そこで電話を切られた。
 小さく息を吸い込む。嘘をつくのが得意じゃないから、電話に出たのが時恵さんだったらきっとバレていただろう。微熱なんて、嘘だ。健康だけが取り柄の僕はインフルエンザにすらかかったことがない。ちなみにどんな怪我をしてもすぐに治癒できたりしてしまうのだ。……そんな体になれたらいいんだけどねぇ。
 あれから茶谷は動きを見せない。さすがに人の腕を切りつけたあとでめだつ行動は控えるか。
 服を着替えて、コーヒーを飲み、簡単に食事をとり、時計の針が十時を過ぎたころ僕は家から出て自転車に乗った。ニーナが自転車に乗れないから、それに合わせて徒歩で登校していた。そのため高校入学を機に買っていた自転車ともご無沙汰であった。
 じんわりと蒸し暑い空気に触れて、不快感が肌を覆う。
 キィキィと音の鳴る車輪を鬱陶しく思いつつも、僕は目的地へと向かった。



 待ち合わせ時間の十時十五分ちょうどに、天羽さんは現れた。背後から急に「わっ」と大きな声を出され、人が驚いてのけぞる姿に爆笑していらっしゃる。実に性格が悪い。何がそんなに面白いのかわからないけど、涙が出るほど笑ったあと、天羽さんは改めて僕と向き合う。

「おはよう、春名くん。待ち合わせ場所を図書館にするなんて、なんだか文系男子っぽくてオシャレだね」

 天羽さんのたはははという笑い方につられて、僕もにたたたたという笑い方に……ならないか。顔の筋肉はピクリとも動かない。ぎゃくに天羽さんは何がそんなに面白いのだろう。僕がのけぞった姿はそんなに間抜けなのか。

「で、今日は何の用なんだい。昨日は驚いちゃったよ。まさか靴箱に春名くんからのラブレターがあったなんて」
「僕がお前に渡したのはルーズリーフの切れ端だ。ラブの要素もレターの要素も無い」

 勘違いをするな。ニーナに怒られるぞ。ただでさえ彼女に嘘をついて、女子と学校をサボって会っているんだ。バレたらどうなると思っているんだ。
 靴箱に手紙を入れるという、なんだか青春の甘酸っぱい一ページのような行動を起こしたのは昨日の放課後のことだった。ただし内容は僕のスマホの番号で、手紙といってもルーズリーフを適当に破ったものだけど。
天羽さんから電話がかかってきたのは昨日の夜。
 そこで詳しいことは会ってから話すと前置きし、今日の十時過ぎに県立図書館に来てほしいと連絡したのだ。放課後だとどうしてもニーナがいる。できればニーナ抜きで会いたいから、学校のある日がいいと言うと、「明日は小テストがあるから自分も行きたくない」らしく、二人で堂々とサボりを実行することになった。電話の内容だけ聞くと浮気を疑われてもしょうがないな。
 だけど私服も男子っぽい、というか黙っていれば性別がわからない天羽さんといたところで、高校生の男女が白昼堂々デートしている、とは思われないだろう。

「用事っていうのは、茶谷のことだ」
「まあ、それ以外に春名くんが自分にある用なんて無いだろうからね。予想はしていたよ。ででで、咲和ちゃんがどうしたのかな」
「先週、ニーナの腕を切りつけた」

 天羽さんの眉が微細に動く。小さな動揺。
 僕は続ける。

「ニーナはクラスメイトの顔をよく覚えていない。特徴とお前の話を聞いて、タイミング的に茶谷ではないかと僕が予想しているだけだ。これ以上、ニーナに危害を加えるようなことは避けたいんだよ。だから、警告する」
「どうやって?学校には来ていないんでしょう」
「直接会いに行くんだよ。今から」

 硬い笑顔の天羽さんが「本気っすか?」と変な口調で尋ねてくる。

「天羽さんならあいつの家も知っているだろう」
「知ってはいる……けど、ええええ?行くの?」
「そのために学校をサボったんだろう」
「いや、急すぎる……急すぎて心の準備も何もできていない!」
「天羽さんは僕に、茶谷の家まで案内してくれればいいんだよ。話をするのは僕だけだから」

 話が成り立つのかどうかはさておき。
 もし茶谷が天羽さんと再会したら、僕への執着をまた天羽さんに移り変えることも可能なのではと考えてはみたけど。……そう簡単で楽観的な話じゃないだろうな。好きになった理由は単純なのに、茶谷の場合は、その一点に執着する意味の深さと絡み具合が複雑だ。決めつけるのは良くないけど、そういうやつはだいたい家庭環境に問題がある。根元が腐っているとそこから育つものも十分に実らない。茶谷自身に興味は無いけど、茶谷という人間を知らなければ、僕への執着がおさまることはないだろう。

「頼むよ」
「………………ようし、頼まれた」

 拒まれたら安い土下座のひとつでもしてやろうかと思っていたが、天羽さんは広い心で僕の頼みを聞き入れてくれた「ただし条件があるよ!」前言撤回。なんだ、その悪戯を思いついた子どものような顔は。目が瞬いている。

「おいおい、まさかタダで咲和ちゃんの家まで案内させようだなんて思ってないだろうね!?」
「お金、無いけど」
「お金なんて求めてないよ」
「え……なに、カラダ?」
「セクハラ!」

 季節違いの紅葉のように耳が赤く染まっている。女の子なところもあるんだなぁと、ギャップの激しさを実感する。そういえばカレシもいたんだっけ。
 しかし金でも体でもないとすればいったい何がお望みなのか。
 心、とか言われたらどうしよう。僕のはすでに先約済みだ。
 そんな僕の心配は杞憂に終わる。

「咲和ちゃんの件が終わったら、自分との関係をなかったことにしてほしいんだよ」

 関係の遮断を求められた。……いや、べつにいいけどさ。深い仲でもないし。これからも知り合い程度の付き合いをしていきましょうね、という間柄でもない。ぽっかりと穴が開いたような寂しさを覚えるほど、天羽さんに情もない。
 茶谷に関係のある人物との接点は断ちたい。
 過去の経緯から考えれば、天羽さんがそう思うことは無理もない。
 茶谷の家まで連れていけというのも、実は天羽さんにとっては耐え難いお願いだったのかもしれない。
 左瞼が微痙攣を起こして、彼女の条件に応える。

「いいよ。その条件で」

Re: 憂鬱なニーナ ( No.20 )
日時: 2015/12/06 16:02
名前: 朝倉疾風 (ID: ZfgN7XgD)

 県立図書館から北へ、田んぼが広がる面白味もない風景を眺めながら歩くこと十五分。僕は自転車を押しながら。天羽さんは微妙に速足で。お互いに盛り上がりの見せない話をしながらの時間は、なかなかの気まずさが空気中に漂っていた。払拭すべく渾身のギャグを披露して滑ってみたり、素数を言い合ったりしていたけど、どうやらいまいちだったらしい。冗談はここまで。
 実際はそろそろ僕たちを待ち受ける期末テストへの意欲を語り合ったり、顔を見せていない部活動の話を聞かされたりしていた。ちなみに僕は美術部の幽霊部員、天羽さんはコーラス部の幽霊部員らしい。うちの高校は、ぜったいに何かの部に所属しなければならないという意味不明の校則がある。僕もニーナも美術部に籍があるけど、活動に関しては一生冬眠中である。天羽さんは歌いたいと思ったときに音楽室に顔を出して、思いきり歌ってから帰るという自由なスタンスをとっているらしい。

「歌が上手いのか?」
「上手いというよりは好き、のほうが強いかな。ストレス発散になるかなぁと思って入ったけど、正解だったよ」
「ちょっとワンフレーズ歌ってみてくれよ。聞いてみたい」
「それは恥ずかしい!自分の裸を見られるほど恥ずかしい!」
「コーラス部なんだろう?人前で歌うこともあるんじゃないか」
「部活が休みの月曜日だけなんだよ。自分が歌うのは。言っただろう、ストレス発散なんだって。人に聞かせるようなものじゃないから」
「カラオケには行くのか?」
「うーん。音がうるさいところは苦手だから、滅多に行かないな。どうしてもモヤモヤしたら、河川敷でわあああって歌う」
「それ、周りの人に聞こえているじゃねぇか」
「…………うわああああああああああ!」

 今気づいたのかよ。
そんなこんなで僕たちは古ぼけた借家が建ち並ぶ静かな場所に辿りついた。
 天羽さんが「変わらないねぇ」と呟く。
 学校を茶谷が休んだとき、連絡ノートを彼女の家にまで持って行ってほしいと担任に言われたことがあるらしい。その一回だけ訪れたことがあるという茶谷の家は、なるほど。築何十年と経った古い借家だった。表札を見て回って、『茶谷』の家を見つけ出す。錆びた門は開きっぱなしで、のびのびと雑草が生い茂って自己主張をしている。傾いているポストには郵便物が溜まっていた。コンクリートの塗り壁は下の方が、表面だけひび割れている。

「ボロいな」「こら」

 ぽかっと頭を叩かれる。なんだか普通に怒られてしまった。あまり幼少期に怒られた記憶がない。先生には怒りを通り越して呆れられていたからな。親も自分の子どもには感情の躍動が皆無だったわけだから、僕の行動に関して何の感情も湧かなかったみたいだし。
 しかしここが茶谷の家かぁ。

「イメージとちょっと違う……」
「おとぎ話に出てくるお城に住んでいるとでも思ってたの?」
「あいつってなんかお嬢様キャラじゃん。甘やかされて育ってそうな……過保護にされているイメージがあったんだよ」
「なんじゃそれ」

 一人称が自分の名前のやつに対しての勝手なイメージである。

「咲和ちゃんから家族の話は聞いてなかったなぁ」
「一言も?」
「うーん。言っていたとしても、自分はすぐ忘れちゃうから。どうでもいいことだし」

 友人関係をないがしろにする天羽さん。いっそ清々しい。

「お前って本当に友達を作らないんだな」
「その言葉をそっくりそのまま返すよ。春名くんも月子ちゃんしかいないくせに」
「うるせぇよ」

 実は若狭壮真という幼なじみがいるんですよ。ケンカが強くて中卒で実家の総菜屋を手伝っている親孝行な自慢の幼なじみが。本当に僕にはもったいないくらいの。
 さて、茶谷の家はわかったことだし。今から待望のご対面といこうじゃないか。その前に。

「天羽さん、今から茶谷を呼ぶけどお前は会いたくないんじゃないのか。だったら、もうここで天羽さんだけでも授業に出たほうがいいんじゃないのかな。二時間目の途中には充分間に合うだろ」
「おいおい水臭いよ、春名くん。確かに自分は咲和ちゃんと顔を合わせたくはないけど、ここまで来たならあなたを見守っているよ。それに、咲和ちゃんが春名くんをどうにかしようとしたとき、人数が多いほうがいいだろう。ちょっとは応戦できると思うし!」
「そこまで僕のことを考えてくれるなんて、いいやつだな」
「自分は友達を大切にするやつだからね」

 さらりと嘘をつかれた。そんなこと微塵にも思っていないくせに。
 とりあえず家の前で話してもしょうがないので、思いきって呼び鈴を鳴らすことにする。ジリリリリという音が聞こえた。人の気配はないけどご在宅中だろうか。

「──いないね」
「いいや。何か物音がする」

 そう言うと天羽さんが少し後ろへ離れる。警戒しているのか。僕も丸腰だけど果たして相手が凶器と狂気を兼ね備えていた場合、勝ち目ってあるのかな。ケンカは若狭の担当だしなぁ。
 反応が見られないのでもう一度呼び鈴を鳴らす。
 本当にいないのか?物音がした気がするんだけど。鼓膜が僕を騙すために幻聴をBGMとして流しているだけかもしれない。まいったなぁ。不在だとしたら、諦めてもう一度サボりを実行するしかない。今度は天羽さんの力を借りなくても一人でここまで辿りつけるだろう。だけどニーナへの言い訳がどこまで通じるのかが問題だ。ニーナよりも時恵さんに勘付かれたときのほうが色々とややこしい。
 ここで待っていれば帰ってくるかなぁ。
 いつになるかわからない耐久戦に持ちこそうとしたときだった。
 目の前の扉が数センチ開くのが見えた。音も無く、少しだけ。こちらの様子を窺うように。そこから眼球がギョロリと見える。あ、あ、あ、あああああ。
 茶谷だった。久々に目にした彼女は前髪の奥の瞳を眼球が飛び出るほど見開いて、その瞬間、扉を閉めようとする。手でそれを制すると、「△#%$~~#IYAIY○$%&#\==~!!!」前髪が暴れて顔が隠れる。その力強さは女性のものじゃなかった。鈍い音がして、左手に激痛が走る。扉が僕の手を挟んで、遠慮も容赦もなくギチギチと骨を砕こうとしている。

「天羽さん!」「っっっっ!」

 天羽さんという頼もしい味方が加勢し、僕の非力な右腕で支えていた扉が一気に開かれる。ドアノブを両手で掴み、全身の重力を外側に集中させる。それが決め手となり、扉が開かれた。
 狭い玄関で激しく息を乱している茶谷がそこにいた。
 彼女にしては珍しく腕を露出させたティーシャツを着ていて、下は下着だけを身に付けている。既視感がじわじわと浸食しだす。ああ、違う。これと似た光景を一度、目にしたことがある。脳味噌のどこかが熱く弾けそうになって、胸糞悪くなる。

「こんな、こんな姿の……咲和を見ないで……」

 玄関で座り込む茶谷を押しのけるように、僕は土足で家に入り込む。後ろから天羽さんが何かを言っているけど、聞こえないふりをして制止を振り切った。廊下を歩いて奥の扉を開く。
 片づけがされている普通のリビング。生活感もあって、何一つ不自然なものなどない。一望したあと、今度は片っ端から扉を開けていった。脱衣所、トイレ、寝室──何かがおかしいと脳内が告げている。なんだ、この違和感は。塗り固められた虚像を剥がせば、ボロが出てくるはずだ。探せ、探せ、探せ。
 そして僕は見つける。見つけてしまう。目にしてしまう。
 徹底的だと思われる、この家の異常を。
 そこは茶谷の部屋だと思われた。女の子らしい、ぬいぐるみが飾ってある可愛い部屋。ニーナの部屋と雰囲気は似ている。白いカーペットが敷かれていて、ハートのクッションがベッドに置いてある。白の勉強机があって、教科書やノートがきちんと整頓されてあった。ただ原因不明の異臭が漂っている。顔をしかめながら部屋に入る。
 僕の視線は、部屋の真ん中にある低めの木の丸テーブルに移った。

「……ああ、これか。これがお前なんだな」

 テーブルの上には大量のコンドームがあった。ゴミ箱には使用済みのものとティッシュが盛り上がっていた。異臭の正体がわかったような気がして不快感が喉元までせり上がってくる。敷かれている布団は一部が黒に変色している。桃色のカーテンを開けてみれば、窓ガラスには古い新聞がガムテープで隙間なく埋め尽くされており、外界の光がすべて遮断されていた。

「だから見ないでって言ったのに」

 振り返ると茶谷が部屋の前で突っ立っていた。
 絶望した人間の顔だった。ヒクヒクと喉が痙攣しているのがわかる。  まるでそこに虫が詰め込まれて蠢いているようだった。
 茶谷の腕を注視する。
 そこには這うように無数のリストカットの痕があった。古いものに上書きをするように新しい傷痕が残っている。左腕が異議を申し立てそうなほど右腕は綺麗だった。

Re: 憂鬱なニーナ ( No.21 )
日時: 2015/12/09 02:12
名前: 夜枷透子 (ID: jx2ntsZm)

「どうして私の部屋にいるの、春名くん。もしかしてママが呼んだの?お客さんとして、春名くんを呼んだの?」

 勘違いを口にすると不安が一気に迫ってきたのか、茶谷の震えがいっそう酷くなる。僅かに残っている僕の思考がゆっくりと動き出して、答えを探し出そうとする。

「違うよ。茶谷と話がしたくてここに来たんだ」

 僕の真意は彼女に届くだろうか。そんな一抹の不安を含ませた返答は、脆く粉々になる。

「話?話って何?話よりもさぁ、そんなんよりもさぁ、咲和とエッチしてよ!あの蜷川っていう子より絶対に上手だから!オヤジの……汚いやつで練習したから、上手だよ?咲和、腰振れって言われたら振るから、おお、おおおおっ、ああああああああああああああああああっっっっ」

 泣きじゃくりながら茶谷が素手で壁を殴り続ける。茶谷の奇声と物音を不審に思ったのか、外で待っていたであろう天羽さんも部屋に入って様子を見に来た。こちらはご丁寧に靴を脱いでいる。そして僕と目が合う。部屋の中を見て露骨に嫌そうに眉をしかめた。その視線に気づかない天羽さんは、僕のベルトを外そうと手を伸ばしてくる。

「落ち着けって!」
「はぁはぁはぁはぁはぁはぁああああああああああっ!咲和にはもう、これしか残ってないよ。何もないもの、これしか咲和はあげられないの」
「いい加減にしろ。僕はお前が相手をしてきたやつとは違うんだよ」

 憶測で言ったけど、きっと的を射ている。その言葉が引き金となったのか、ますますパニックになった茶谷が「#Y」$(‘)))2”」意味不明な電波をまき散らしながら「ふぐううううううううううううううううっ」ついでに体液も飛び散らせながら、衝動的に、しかし明確な意図を持って引きずりだそうとする。

「やめろってば、」

 僕は今にも舌を伸ばしてきそうな彼女の顔面を、思いきり蹴り飛ばした。首ががくんと後ろへ反り返り、そのまま異臭のする布団に倒れる。僕は今すぐここから逃げ出したい衝動に駆られた。もうこいつは終わっている。色々と手遅れだ。
 とりあえず、閉鎖されている感覚を振り切りたかった。倒れている茶谷を跨いで、僕は窓ガラスを埋め尽くしている新聞紙を、片っ端から剝がしていく。
 それを見た茶谷が僕の足にしがみついてきた。

「やだ、やだやだやだぁ。それはぁ、そんなことしたら外から見られちゃうぅぅあぁっ、ひぃぃっ」
「うるせぇよっ!ちょっとは黙ってろ!」

 なんなんだ、この生き物。
 こんな、糞みたいな部屋で、ずっと何していたんだ。
 考えたくない。
 考えたくないから、とりあえず目の前のものをぐしゃぐしゃにする。新聞を丸める。当たり前だけど綺麗な球体にはならない。しわくちゃで、僕の心みたいに、簡単に破れる。そういえば天羽さんは何をやっているんだろう。ふと気になって見ると、茫然と夢を見ているかのようにそこに佇んでいた。現実を受け入れられないといったふうに、その表情からは人間味が失われている。
 光が部屋に射した。
 悪夢でありたかった現実を生々しく浮かび上がらせる。
 茶谷咲和という人間の淀んだ一部分を。



 落ち着いたというより消沈したというほうが正しい。
 火で炙られ溶けた蝋のように項垂れている茶谷は、先ほどから何の反応も無く、虚ろな目は白いカーペットの一点をぼんやりと眺めているだけだった。人形のように意志が消えた、感情というものを放棄した結果の仕上がりだった。試しに目の前で手のひらを振ってみたり、前髪をわけてみたりしたけど、同じだった。

「どういうことよ」

 熟すタイミングを逃した柿のような渋い顔で天羽さんが僕にわかるはずのない質問をぶつけてくる。中学時代のクラスメイトの変わり果てた姿を視界に入れたくないのか、茶谷には背を向けている。
 座っている位置を線で結べば三角形になるなぁと思いながら、目の前の茶谷から視線を外す。外したのはいいけど、さてどこに目先を向けようかな。

「どういうことって聞いているの」

 天羽さんと目が合う。顔が青白い。部屋は冷房をつけていないというのに、天羽さんの唇は若干震えていた。

「何も知らないよ」
「何もって……それなら尚更、ここにいたらまずいんじゃないの?誰か戻ってきたら、どういえばいいの」
「誰が戻ってくるっていうんだよ」
「咲和ちゃんの親とか……その、そいつらとか」

 そいつら。
 複数形だな。まぁ、コンドームの量から見てもひとりが相手とは考えにくい。それに、茶谷が意味不明の電波に乗せて、何か言っていたな。
 オヤジで練習したとか。母親が客として呼んだとか、なんとか。
 嫌な見当が安易につけられて払拭できない。結果には原因があって、その原因には過程がある。もし茶谷の根深い執着の理由が、ここにあるとしたらとても厄介だ。どす黒い闇が目の前に広がって、僕らを引きずり込もうとしている。その真ん中で、茶谷は逃げることも闘うこともせず、どこか他人事で受け入れていた。周囲に知られないように、ひっそりと。今まで隠していた秘密に、茶谷の知られたくなかった場所に僕らは土足で上がり込んでしまった。

──私以外を助けないでね。

 こんなときにまで思い出すのは彼女との約束。
 僕の脳にこびり付いて、心まで支配している呪いの言葉だ。
 助ける、とかじゃないけど。茶谷が再起不能になったのは僕のせいでもあるし。このままにしておくと少ない良心が痛んで後味が悪い──って何に言い訳しているんだ。

「茶谷、聞こえているんだろう」

 屍と同じで返事が無いため続ける。

「ニーナの腕を切りつけたのがお前なら、今後一切あいつに関わらないでほしい。あいつを傷つけるならこの僕が許さない。運が悪ければお前を殺すかもしれない。ニーナじゃなくて、僕が。今日はそれを伝えに来たんだよ。お前に、僕のことを諦めてほしいと思って」

 そう伝えた途端、茶谷の目から涙が零れた。
 心情を吐露しているわけでもなく、涙をただ作業的に垂れ流している印象だ。茶谷だけを切り取って額縁の中に収めると、一枚の絵として成立しそうなほど、彼女は人間らしくなかった。

「だけどね、茶谷」

 話にはまだ続きがある。
 絶望の縁に立っている可哀想な彼女に求められているのなら。
 ほんの少しだけ、ピクリとも動かないはずの僕の心も、久々に潤う。
 だから囁く。
 彼女を縛る言葉を。
 それと知って。

「僕は、僕を好いてくれたお前を、心の底から嫌いだとは思えないんだよ」

 茶谷がゆっくりと顔を上げる。僕を見て、信じられないというふうに目を丸くさせている。先ほどまで失われていたはずの感情が、再び生まれ、彼女は意志を取り戻す。機能した心を可動させたかと思えば、僕の胸元へ飛び込んできた。
 そのまま抱擁する。
 赤子のように泣き喚く茶谷を守る繭のように。
 偽善だろうが何だろうがどうだっていい。

「春名くん、本気なのか……?」

 先ほどから天羽さんは疑問の種をそこら中に蒔いている。
 僕について問われても答えられない。僕という人間に対して勉強不足だからかな。それとも真面目に向き合おうとしなかったせいか。
 だから気持ちの変化が著しく、自分でもついていけていない。僕の心が勝手に独り歩きしている。置いてきぼりをくらって、気づけば茶谷を抱きしめていた。

「本気だよ」
「それは……どうかと思うよ。正しいとは思えない」
「元から正しいことなんて、一つもしていないよ」
「──月子ちゃんはどうなるの」
「ニーナのことは────」

 このとき、僕は天羽さんにどう答えたのか覚えていない。
 涙で濡れて熱くなる胸への不快感と、僕にしがみつくことしかできない茶谷に気を取られていた。
 もしかしたら答えを曖昧にぼかしたかもしれない。
 目の前の女の子を放っておけないじゃないか。
 そんなことを答えたような気がする。だけど、これはもちろん冗談だ。そんな理由で面倒事を引き受けるような僕じゃない。こんな闇に溶け込んでいる子に関わりたいとは思わないだろう。
 茶谷を気にかけた理由なんて、そんなのひとつしかない。
 茶谷が僕を好きでいてくれたからだ。

「我ながら単純だなぁ」

 矛盾している箇所はまだ伏せておこう。
 ニーナが生きている限り、僕と彼女の奇妙な縁は消えないだろうから。
 とにかく、茶谷が泣き止んで落ち着いたところで「いつか学校に来いよ」と約束をしたことは覚えている。
指きりげんまんをして、「春名くんとの約束、咲和は守るよ」茶谷の家から出た。


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