複雑・ファジー小説

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無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2020/08/16 20:36
名前: にっか ◆ShcghXvQB6 (ID: jtELVqQb)

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)


設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメント等は差し控えて下さい。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.159 )
日時: 2018/06/24 22:08
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 恐らくこれがジャリルファハドの云う"戦の匂い"という物なのだろう。それは鼻で感じる物ではなく、皮膚を突き刺すようなひりひりとした刺激を指しているのだろう。彼等はそれを感じ取る能力に長けているのだろうが、そういった感覚を持ち合わせていない自分が感じ取るのだから、クルツェスカに起きている異変は内外にも知れ渡っている事だろうと、ソーニアは思うのだった。
 日の明かりに眼をやられる為、煙水晶で作られた眼鏡を首から吊り下げ、二人の護衛を輩に廓へと向かう。クルツェスカの異変を気にせど、自身に起きた異変は大して気にならず、日常は変わらない。相変わらずミュラはあれや、これやと騒がしく、ジャリルファハドは口数が少ない。時折、ふらっと居なくなる事が増えたが、今クルツェスカで何が起きようとしているか探っているのだろう。危ない橋だけは渡らないで欲しい、とソーニアは横目で彼を見るも、ただただ前ばかりを睨むばかりで脇見一つする気配がない。それは一見、緊張しているようにも見え、彼の雰囲気が伝播してか、心なしミュラの表情も凝り固まっている。原因は言うまでもなく、得物を携えた"彼等"であろう。
「傭兵、ね」
 右を見れば傭兵、左を見ても傭兵。恐らく後ろにも傭兵の群れ。廓へ近づけば近付く程、ジャッバールの兵の姿がその中に見られるようになって来ている。此処で何かしらの衝突が起きたならば、新たな闘争の火種となる可能性もあるだろう。地獄は道を誤り、一歩、二歩と歩むだけで辿り着いてしまう程に近く、また何者かが意図的に地獄を作り出す事もあるだろう。赤子の手を捻るのと同じ位に容易いのだ。
「……どこの兵やら。誰に飼われ、何を成そうとしているのか。……全く分からん」
「良い気分しないでしょ」
 小さく首肯してみせ、ジャリルファハドはにぃと薄ら笑いを浮かべて見せた。何を考え、企んでいるのやら。彪のそれはやや恐ろしげにも見える。元々口数の少ない男であるから、やはり多くを語ろうとはしない。こういう時くらいはきちんと言葉に出せば良いのに、とソーニアは何処か呆れ顔を浮かべながら、立ち止まっていたミュラの背を片手で軽く押した。何か気になるものでもあったのだろうか、と彼女の視線が向かっていた先を一瞥するも、特に目ぼしいものは見当たらない。何か、と問えど答えは煮え切らず、ミュラが普段と違って余所余所しく思えた。ソーニアに続き、ジャリルファハドが見据えるとその先には見慣れた顔ぶれがあった。バッヒアナミルを筆頭に護衛をつけたバシラアサドの姿もあり、彼等は此方に気付いていない様子で近寄ってくる。
「あら、物々しいわね」
 人垣が裂け、崩れてゆく。彼等はそこに在るだけで異様な存在感を放つ。寄せ集めの傭兵の様な烏合の衆等ではなく、統率された集団、軍の姿がそこに在るのだった。少しずつジャリルファハドの表情が険しくなっていくのが見て分かり、ソーニアはその様子がどこかおかしく、口の端を僅かに吊り上げて笑っては、ミュラが困惑したように 二人を交互に見比べている。
「ファハドー!」
 よく通る快活そうな声でジャリルファハドを呼ぶ声、長い髪を揺らしながらバッヒアナミルが手を振っている。仕方ないと手を挙げ、応じたならばバシラアサドはにやにやとした笑みを浮かべている。何かを言いたげな彼女だったが、そんな時間もないのか、そそくさと小路へと入ってしまった。廓とは逆方向の道に何の用があるのだろうか、とソーニアは疑問を抱くが、それよりもバッヒアナミルの事が気になって仕方ないのだ、セノールらしくない浮わついた雰囲気が印象的過ぎる。彼等の中にある翳りが全く見えない。
「変わったセノールね、あの人」
「頭の螺を砂漠に落としてきたんだ。もう見つかるまい……」
 そう揶揄こそせど、バッヒアナミルの苛烈かつ勇猛な側面を知っているからか、それ以上の事は語ろうとせず語尾を濁しては大きな溜息を吐いた。恐らく彼もまたバシラアサドの護衛でありながら、懐刀として呼び出されたのは確かだろう。有事に際して、彼が脅威となるのは必至。ややもすればナッサルが総軍で参戦する可能性すらあるのだ。
「残念な人ね。見てくれは良いのに……天は二物を与えないってところかしら」
「まぁ、あの通りだが腕は立つ。俺が束になっても敵わんよ、だからこそ厄介なんだ。思考が単純であるからこそ、簡単に命を擲つように猛り狂う」
「獅子に飼い慣らされた狂人ね」
「そうさな、いつか月に吼えるだろう」
 そうもなってしまえば、どれだけ助命を頼まれ、すすり泣かれど首を取るしかないのだろう。同胞を討たざるを得ない時が来るやも知れず、輩を討ったと誹られようとも仕方なしと自分に言い聞かせる事しか出来ない、身の上を恨めしく思う。事情は兎も角、東へと奔走し好きな様に振舞った旧友の獅子を羨ましくも思えるのだった。
「なんだよ、腹でも痛いのか?」
「なんでもないさ──」
 変なの、と矢継ぎ早に言い放つミュラであったが、その声はジャリルファハドの耳に届く事はなく、彼はただ一点を睨んでいた。立ち止まる彼を二人は何事かと見据えていたが、遂にソーニアが問い掛ける。
「やっぱり変よ。何かあったの?」
 彼の視線の先、少しだけばつが悪そうに立ち尽くす男の姿があった。少し草臥れているようにも見える。嘗て討ったとジャッバールを謀ったその男、折角殺さず生かしたというのに、此処に居ては危ういという事が分からないのかと、怒りとも呆れとも付かない一念が込み上がるのだ。
「悪い、野暮用だ。先に行っていてくれ」
「──え、あ──ちょ、ちょっと!」
 突然走り出すジャリルファハドを止めようと手を伸ばすも、ソーニアの手は空を切るばかり。それどころか、彼女はバランスを崩しその場に倒れ込んでしまった。慌てた様子のミュラがソーニアを引き起こしながら、すっかり人垣に溶け込んでしまったジャリルファハドを目で探すのだった。



 まずい男が目の前に居る、とガウェスは少し困り顔を浮かべていた。嘗て殺し合い、嘗て生かされた。その男が苛立ちを募らせた様子で、眼前に立ち此方を睨んでいるのだ。何かしてしまったのだろうか、それとも気心が変わり殺しに来たのだろうか。今を思えばガリプとてサチの一員、ジャッバールとの関係はある。何より屋敷に乗り込んできた時はジャッバールからの指示があったと聞く、形振り構わずこの往来の中ですら殺しをするようになったのだろうか、と不安を抱きながら得物に手を掛ける。
「抜くな、馬鹿者が。来い」
 幾分、背の低いジャリルファハドの手が顔面でも殴りつけんばかりの勢いで近寄って来ては、襟首を掴まれ路地へと引き摺られる。彼の「抜くな」という発言から、敵意はないと判断し抵抗はしていないのだが、やけに力が篭っていてガウェスは苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。
「先までアサドが居た。あんな所でボヤっと立つな……肝が冷える。全く……」
「それは……危なかったです。助かりました」
「お前が見つかってしまえば、俺とて危うい。シャーヒンも居れば、バッヒアミルも居る。前者は兎も角、二人を差し向けられては敵わんのだ」
 単なる自己保身であったが、今此処でセノール同士の闘争が起き、その者がハイドナーの残滓を匿っていたともなれば、事は大事となるだろう。メイ・リエリスの関与までジャッバールは持ち出し、嫌疑の目を向けるのが見えきっている。迂闊な事をしてしまえば、ただただクルツェスカに混乱を齎すだけ、と漸く気付き嘗ての行いを思い出しては、ガウェスは表情を顰めた。
「ただでさえ今のクルツェスカは危うい。……傭兵の流入が随分と活発になってきている。何処の飼い犬かも分からん、そんな奴等が得物を携えては歩む様子を見て、何も思わんというのならば、その眼を潰した方が良いぞ」
 眼を持つ意味すらない、と付け加えてジャリルファハドは大きく溜息を吐いた。そして刀の柄に手を掛けるのだった。その視線の先、薄っすらと氷の張り付いた柱があり、その物影からは微かに白い息が漏れている。誰かに聞かれていたのだろうか、とガウェスが二歩、三歩と後退りながら懐に忍ばせた短剣を抜く。
「盗み聞きは感心しない、出て来い」
 傍らの彪はそう唸り、右手で鞘を前へと傾けては左手で僅かに刀を抜く。前は左に鞘があったはずだが、と横目で見遣る。そういえば左右の手どちらでも得物を限りなく、同じように扱えていたと思い出した頃、物陰から両手を上げながら出てくる人物を見て、思わず眼を見開くのだった。
「……メイ・リエリスの」
「探しに来たんだけどね。声がするなぁと思ったら……ちょっと吃驚よ」
 悪びれる様子もなく、ソーニアはにやにやとした笑みを浮かべていた。彼女の傍らには実妹であるミュラの姿もあり、思わずそちらを呼びそうになったのは言うまでもない。
「家が死ねば名は死んだも同然、何もしてくれるなよ」
「えぇ、私は確かにジャッバールと親しい。でも言う必要はないわ。今のクルツェスカは"正常"よ。ハイドナー、貴方達が居なくなってね」
 ソーニアの言う通りに自警主義を掲げる家門が消え去り、自警団の機能は正常化した。しかし、危ういバランスを保ったまま治安を維持しているだけに過ぎず、その治安維持の片棒を担いでいるのは在ろう事か外国人。そんな状況でもクルツェスカが"正常"だというソーニアの正気を疑いながらも、自身が軽率な行動からクルツェスカに混乱と不安を招いたのは事実、何も言い返す事が出来ずガウェスは口を噤むばかりだった。
「貴方の祖先も私達メイ・リエリスを五百年前に殺しておけば、今こうして苦言を呈される事もなかっただろうにね。ザヴィアの彼女は兎も角、カランツェンは今も根に持ってるわよ。敵は多いじゃない、生きにくいわねぇ」
 そう苦言を呈しては彼女は嗤っている、どこか別の側面を見たかのようでその様子は空恐ろしくあり、彼女の傍らミュラの表情は強張って見えた。普段は穏やかに装って居ながら、彼女もまた腹の中に悪心を飼っている。その普段との差異に大きな違和感を覚えたのだろう。
「なんてね。……カランツェン、引いては憲兵達が根に持ってるのは事実、貴方が生きにくいのは言うまでもない。どうするの? これから」
 周りは敵だらけよ、と付け加えてソーニアはその赤い目を細め、ガウェスを見つめていた。深緑の瞳は何処へ消えたのやら、血の様に赤いそれの持ち主が浮かべているのは静かな笑みばかり。まるで悪魔が囁くような声色にガウェスは眼を閉じるのであった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.160 )
日時: 2018/07/08 22:09
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ (ID: KGoXVX/l)
参照: http://twitter.com/imo00001

「……、私も今は雇われの身。ここが私にとっての地獄でもその契約が切れるまで、私は彼を遂行しなくてはならない」
 雇ってほしいとやって来たガウェスに学者の男はこう言ったのだ。クルツェスカにいる間、自分に仇なす者から守ってくれと。なんと曖昧な願いか。ガウェスは断ることも出来たが、冒険に胸躍らせる爛々と輝く瞳に気が付いてしまった。どうにも断るのがどうにも心苦しく、結果、彼に雇われることになったが、誰かに仕え、若しくは契約を交わし、主人が望むことを遂行する。それは騎士でも傭兵でも同じであろう。異なるのはそこに忠義があるかどうかだけで根本は何一つ変わってはいないのだ。
「いっつも何らかに縛られているのね、貴方って」
「それが性分というもの。どうかご容赦ください」
 騎士としては満点、傭兵としては落第点といったところだろう。あまりに騎士としての時間が長すぎた。彼は恐らく自分自身よりも他人を重んじ、その御身を犠牲にするのだろう。素晴らしい、だが、つくづく傭兵には向いていない、ハイルヴィヒと同じ早死にするタイプだと判断した。
「それとカンクェノ内であまり目立った行動はしない方がいいわよ。少しだけ噂になってたわ」
 恐らくはハイルヴィヒを病院まで運ぶまでの出来事だろう。火薬の匂いを纏わりつかせながら血まみれの少女を背負いながら、昇降機に飛び乗ったフードの男が目立たないわけがない。彼女を救うためには多少強引なこともしてしまった。目立った行動は控えた方がいいだろう。
「ああ、それとこれを」
 カンクェノで拾った黒い手帳を懐から取り出し、ソーニアに差し出す。
「読んでみれば分かります。拾ったのは八十階。近くには新種のレゥノーラがうろついていました」
 彼の口調には僅かな恐怖と怒りの他に悲哀が混じっていた。手帳の表紙に目を向け、パラパラとページを捲る。黄ばんだ紙は今にも破けそうなほど劣化が進みで一ページ捲る度に紙の端が床へと落ちていく。
「恐らく、アレは……」
 独り言だろう。誰に向けてでもない言葉を途中で切り、目線を下に向けるともう一度ソーニアに向き直った。フードから覗く双眸には、己が信念貫く覚悟の他に、もっと別の決意が感じられた。
「ミュラに見せる見せないは貴女に任せます。きっと貴女の方が彼女の事を理解しているはずですから……」
 本来ならば、家族であるはずの自分が一番に彼女を理解してやらねばならないのに、血の繋がりがない彼らの方がミュラの事を理解している。嫉妬と羨望が混じり歯がゆい思いが胸を焦がすが、醜い感情を押し殺す。
「あの子を、どうか。どうかよろしく頼みます」
 深々と頭を下げるガウェスに背を向けて歩き出す。二人は盗み聞きはしてなかったらしい。ジャリルファハドは立ったまま腕を組み、壁に凭れ目を瞑っている。ミュラは隣でしゃがみ込み、白い息を吐きながら、赤くなった指先を撫でている。ソーニアが二人に近づいてい行けばジャリルファハドはゆっくりと目を開けて壁から背を離した。ミュラはジャリルファハドが立ったのに合わせて立ち上がりソーニアに向かって手を振っている。
「お待たせ。さぁ行きましょう」
 時刻は十五時を過ぎたところで、そろそろ背後を歩いているミュラが小腹が減ったと言い始めることだろう。カンクェノ内部にいるときは緊張感もあってかこのような軽口を叩くことをしないのだが、地上に出ている時は、気が緩むのだろう、どこか店に入らないかと提案することが間々あることだった。
「あいつ、生きてたんだな」
 予想とは反した言葉。誰にも反応されなかったが、独り言に近い言葉だったのだろう。大して気にした様子はなく、二人の後を追いながら続けた。
「意外だったなぁ。あーあ、焼け跡に花束持ってって損した気分だぜ」
 口を尖らしているが彼が生きていて嬉しいのだろう。うっすらと笑みを浮かべていた。砂漠に居た頃、他者との縁が極端に希薄だった彼女にとって誰かとの縁、それがたとい嫌いな人物であったとしても、それが途中で切れてしまうことは、彼女にとって肺を抉られるのと同じくらい苦しい事なのだ。
「ミュラ、分かっていると思うが」
「へーへー、他言無用だろ。分かってるよ、そのくらい」
 軽く手を振って了解の意を示す。ミュラは細かい理由までは把握していない。ただ、ガウェスが死を偽装しなけらばならないくらいの大事が起こったということだけを察し、そしてそのことを誰にも知られてはならないことを無意識ではあるが理解できた。ジャリルファハドの横をすり抜けて二人の前に立ち、体をくるりと回転させれば黒と赤の瞳に自分が軽やかに奥へと歩いているのが確認できた。
「それでさ、何もらったんだ?」
「んー、何でもないわよ。ちょっとした拾い物」
 ここで話すべきではないと判断し、お茶を濁すミュラはそれを色恋沙汰と判断したらしく、汗を拭うのも忘れてソーニアを見ながらニヤニヤと嫌な笑みを浮かべていた。
「そんなこと言ってさぁ、あれ、実は恋文とかじゃねえの?」
「あら、そう思うの? まぁ確かにそうかもね?」
 冗談半分で言った言葉であった。否定されると思っていたミュラにとっては大きな衝撃であったのだろう。目を丸く見開き「えっ!」と大げさに声をあげると往来の目など気にした様子もなくソーニアに詰め寄る。鬼気迫る、というよりは目を輝かせて迫ってきたので足を止める。「ちょっと」と声をかける前にミュラが口を開く。
「ほんとぉ! ほんとに? なぁなぁなぁどんなこと書いてあんの? 見せてくれよ」
「それはだーめ」
「えー。ジャリルファハドは気にならねぇのか?」
「ないな、全く」
「ほんとかよぉ」
 ケラケラと笑い一向に歩こうとしないミュラに痺れを切らし、ソーニアはジャリルファハドへ目線を送り、彼は大げさにため息をついた。手首を掴む。怪訝そうに見上げてくる彼女にお構いなしに腕をひっぱり、ズンズンと進む。
「ソーニアだからあるんだよな。だってそれが本当なら相手は相当なものず、いででででっ」
「悪かったわね、おばさんで」
「誰もおばさんだなんて言ってねえよ!」
 抓られた頬を労わりなが子犬のようにぎゃんぎゃんと吼えるミュラをソーニアが涼しい顔でいなし、そんな二人の会話を聞きながらジャリルファハドが鼻で笑う。数か月前と比べると取り巻く環境は流心にのるかの如く変化してしまった。しかし、数か月前はよくあった光景がそこに確かにあった。 

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.161 )
日時: 2018/08/09 00:43
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 四角く並べられた机の最奥、その男は片肘を突いたまま、ぼんやりと一点を見つめていた。普通の男ならばただただ呆けているだけなのだが、その男はその場にない何かを見据えているかのようで、深い緑色をした瞳は深遠を睨んでいるように感じられた。彼を取り巻くように囲んでいる各貴族達や、協力者達はその視線をなぞるようにしてバシラアサドを見ては、各々交わしていた言葉を呑み込む。これが今まで触れてこなかったクルツェスカの真の支配者かと、口角が無意識に釣り上がる。先人達が何度となく彼等の祖先と殺し合い、謀り合いをしてきた。十年、百年、例え千年経とうともそれは変わらず、今もこうして咽返る様な戦の匂いを漂わせながら、顔を向かい合わせている。
「バシラアサド、よく来た。こうして此処に招いたのはクルツェスカの防備について、一翼を担って欲しいからさ。……まぁ、座り給えよ」
 この男の一つの口先、その中に納まっているであろう幾重もの舌は何人を殺してきただろうか。この男こそクルツェスカに根差す巨悪の一つ。諸悪の権現であり、この都市を守るためならばどんな犠牲をも払う。必要ならば千でも、万でも民の屍を並べては上手く行ったと嗤う、そんな悪魔のような男──フェベスをじっと睨みながら、短く首肯して見せては席へと付く。背後にはバッヒアナミルの姿があり、彼もフェベスの腹に巣食う悪魔の匂いを嗅ぎ取ってか、先ほどまで緩んでいた表情を引き締めた。あの男に何が出来ようか、己と斬り合ったならば万に一度の勝利すら在り得ない。そんな老いた男だというのに不快感に苛まれ、思わず何があっても良いようにと刀の柄に手を掛けた。それでも彼等は動じる様子もなく、ただただバシラアサドを睨むように見つめ続けているのだった。
「まずは紹介を……シューミットから」
 シューミットと呼ばれた者は若い男であった。歳の程はバッヒアナミルとそう変わりはないだろう。だが、彼と違って表情は引き締まり、一つの隙すら見出せない。紙の一枚すら仕込めない事だろうが、痩せ気味で青白い顔からは彼が武働きの出来る身体ではないと暗に語っている。
「此度は留守をしておりますアドルフェスに替わり、シューミットの長子として出席させて頂きます。エストールです。……何卒」
「シューミット……カーゼンスにてラシードを破った者達か」
「あぁ、いえ。それは私の大叔父達です、彼等は後に、アルハームラの丘陵地帯でガリプに首を斬られましたから。私達は少し血が違います、名前だけですね……」
 そうエストールは苦笑しながら、左の頬を掻いた。内向的な者特有のその仕草に、自分の背後に居るバッヒアナミルとはやはり対照的だと思うのだった。ともすればこの男は兵を率いての戦に長けるか、内政に長けるか、と疑問を持つ。知己に照らし合わせるならガリプの長兄か、それとも次兄か。はたまた両方の能力を持つか、だとしたならば事を構えようなら真っ先に排除する必要があるだろうと、バシラアサドは内心結論付ける。不意を突き、闇を討てば良いだけである。
「それでも私達は南門を守備、管理をしてますから、一つ覚えて貰えたら」
「南は普段使わないがな……世話になる事もあるだろう。その時は一つ頼む」
「えぇ、勿論……」
 クルツェスカには南北と西に門があり、それぞれ守備を受け持つ貴族が存在している。その内、南門の守備を受け持つのが彼等シューミットの一族である、門の守備に就くのは西伐で戦勲を上げ、取り立てられた新興貴族達が多いのは気のせいではないのだろう。彼等の歴史は浅く、位こそ持てど武装した民兵のそれに差して変わらない。滅んだとしても挿げ替えは効き、クルツェスカの運営は出来る。
「カルヴィン・カランツェンだ。メイ・リエリスの守護及び西門の守備を受け持つ。……我々の祖は同じくしてセノール、近しい物を感じる限りだ」
「あぁ、五百年も昔はガリプの兵が世話になった」
「ウズマアサド、ただただ恐ろしい兵だったと聞く。今の世にそんな者が居ないのを有り難く思うよ」
 彼はセノール系のアゥルトゥラでありながら、メイ・リエリスに仕え、その勇名を轟かせた者の末裔である。それを目の前にしてもバシラアサドは感心すら無さそうに適当な言葉を交わすも、バッヒアナミルは違い、彼の眼差しには興奮の色が見える。強いんだろうなぁ、という期待が胸の中を走り回り、己の中の獣が腹を空かして吼え声を上げているのだ。出来る事なら今すぐ自分の強さを試したいと、そんな気持ちばかりが逸る。
「ラノトールの様に強いんですよね?」
「さて、五百年前の強いと今の強いは違う。バッヒアナミル、そう猛る物ではないぞ。"胸の傷"が開いては敵わないだろう?」
 そう言い放ち彼はにぃっと笑って見せた。張り付いた肉の面、その凝り固まった表情が少しずつ歪んではその形を崩していく。どこで名を知られたか、傷を知られたかと動揺を覚えながらも「心配ありがとうございます」とバッヒアナミルは余裕を繕いながら笑っていた。肉の面と虎が笑みを湛えている、そんな状況を見ては不機嫌そうにある男が机に拳を二度ばかり打ち付け、視線を集めた。
「俺は名乗らないぜ、知ってんだろ。バシラアサド」
「あぁ、お前等につけられた傷は痛むなぁ──ナヴァロ」
 一人だけ荒ぶるのはレーナルツ・ナヴァロであった。右の舌瞼に付けられ、今もなお熱を帯びる傷。それを作り出した張本人はひたすら悪態を付き、バシラアサドを殺し損ねた時に負った左腿の傷を擦っている。
「まさか櫓から落ちて、杭が刺さるだなんて思いませんよねぇ。俺をシェスターンで殺し損ねて、アサドに傷こそ付けても俺に追いやられて可哀相な貴族様だ」
「口を気をつけろよ、このクソガキ。てめぇみたいにただただ凶暴な獣はどんだけ人を食ったとしても、いつか狩られるんだぜ」
「ふふっ……人の剥製、ですか。良い趣味ですね」
「やめておけ、馬鹿者」
 バッヒアナミルをそう戒めると彼は小声で詫び、バシラアサドに頭を垂れた。その様子を見たレーナルツは舌打ちをしながら、机に肘を付く。貴族らしからぬ粗野な男だと、バシラアサドは嘲りながら彼の隣に座る男を見据えた。視線の先にはルーイットを一度破ったジェリド・ボーフォスの姿があり、彼はわざとらしい笑みを浮かべてはバシラアサドを眺めていた。その顔を見るなり己を「猫」と嘲ったのを思い出し、大きく溜息を吐く。割と本質を突いているのが歯痒くあり、護衛が居なければ何も出来ないとすっかり嘗められているという事実に不快感を覚えたのだ。
「あー……火花を散らしているところ悪いが、俺もしなくて良いな? バシラアサド」
「……構わないとも」
 フェベスの事は良く知っている。今更何の挨拶も必要はない。そもそもジャッバールをクルツェスカに招いたのは彼である。恐らく一番最初に接近してきた貴族の一人である。恐らく接近したばかりの頃から、この男は巨悪を腹に飼い、悪魔の顔を鉄面で隠していたのだろう。
「それは良かった。では、早速本題と行こう。此処クルツェスカは軍事的要衝である。此処を失えば西部防衛は成り立たなくなり、北西にあるセルペツェスカの孤立を招く。ヴィムートの脅威を感じざる得ないだろう?」
「……まるで我々が侵略をするとでも言いたげな言葉だな?」
「バシラアサド。アゥルトゥラからしたら仮想敵国は西と北だ。仕方がないだろう、現に事は起きないと知っていてもな」
「随分と信頼されている事で」
「信頼も何も君達はクルツェスカに利益を齎したではないか。奴隷の解放、自警主義の排斥、交易路整備、カンクェノ発掘、挙句の果てには新たな産業、雇用まで作った。信頼が置けない訳がないだろう。君達は云わば名誉アゥルトゥラ国民だ。……まぁ、そんなものはないがね!」
 嘘ばかりとバシラアサドはほくそ笑みながらも、小さく頷いてみせる。フェベスの語る功績の裏には血腥い暴力と薄汚い姦計ばかり。それ故のナヴァロとの対立がある。敵意を見せていないながらも、良く思わない既得権益も多い事だろう。戦えど勝てないから戦わないだけで、機会があれば彼等がすぐに牙を剥くのは確実なのだ。
「……住まう土地に貢献しないのでは、何のために生きているか分からない。そう思わんかね、ただただ殻を食い潰すだけの木偶を誰が養うというのだね。我が子ならばともかくな。私はそこまで厚顔ではない」
「尤もだ。そういえば……貧民街の"塵掃除"もしてくれたようだね」
「まだまだだ。足らん。"春"も"色"も骸にせねば。全ての塵は焼かねば。……それが望みだろう?」
「そうだなぁ、もう少し綺麗にしたいところだが今は傭兵も多い。彼等の娯楽を奪っては面倒だ。後でしてくれよ……さて、本題と行こうかね」
「あぁ、頼む」
 各自の兵力規模及び兵站事情、装備、防衛方針が曝されていく。何故こうして敵対勢力とも成り得るであろう、外国人に手の内の明かすのか、その理由がバッヒアナミルには分からず、彼は何を思う訳でもなく各自が述べる言葉を聞いては記憶していく。やはりアゥルトゥラ西部の防衛の要だけあり、規模は大きく憲兵を含め、総軍にして三万七千ばかりの兵力がクルツェスカにはあるようだ。それでも動じる様子を見せず、バシラアサドは首を縦に振るばかり。戦の手法も作りこまれ、基本中の基本が成っており、非の打ち所もない。城壁上からの射撃、砲撃。運河を活用した堀の展開。市街戦での待ち伏せを主とした、散兵戦術。
「此処が要点なのだが、敵に兵站、拠点を与えぬための周辺市街に対する焦土作戦も必須でなぁ。何か事があったなら、君達にそれを担ってもらいたいのだ。得意だろう?」
「我々に汚れ仕事をしろというのかね。……良いだろう。アゥルトゥラが幾ら死のうとも関係はない」
 一瞬だけレーナルツとエストールの表情が強張ったのは気のせいではないだろう。互いに何か耳打ちをしている、恐らく苦言の類だ。カルヴィンに至っては何を思ったか分からないのだが、表情が大して変わる事はなかった。必要犠牲と割り切っているのだろうか、だとしたならば随分と冷静で、甘さなど微塵も持ち合わせない、有能な指揮官であるとバシラアサドは思うのであった。
「そう言ってくれるな。我々はあくまで政治をせねばならん。あまり民衆に悪さは働けないのだよ」
「殺し方は何でも良いな? そもそも私達が味方とは限らん」
「そういう冗談は感心しないぞ。それにセノール、いやサチが一枚岩ではない事くらい知っているさ。お前達が敵とは思っていない。さて、最後にだが──」
 そして、最後には中央との連携体制が淡々と述べられていく。運河を用いた兵站輸送と中央への援軍要請。彼が語るのは新しい戦の仕方と、幾度となく使い古されてはいるが、確りとした実績のある戦術が混合された内容だ。このクルツェスカは不落の城塞都市だと言わんばかりに言葉が並んでいく。
「……そうか、中々にして強固な限りだ。やり口も間違っていない。だが、だがだ。人ではない物への備えはあるかね」
「レヴェリの事かね」
「さて、な」
 バッヒアナミルには、今の彼女の言葉が苦し紛れに放たれた物に聞こえていた。クルツェスカにはまだ排していない勢力が多数残っている。その事実を彼女が受け止められない、と吐いた言葉に思えていたのだ。だが、貴族と顔を向け合うバシラアサドは張り付いたような笑みを浮かべ、まるで自分がその人ではない物だと言っているかのようで、思わずジェリドが口を開く。
「セノールはただの獣だ、血が好きで好きで仕方がない獣でしかない。自分達の事を言っ──」
 彼の言葉を遮るようにバシラアサドは声を上げ、肩を震わせて嗤っていた。何時もの少し低めで威圧的な声色ではなく、甲高く引き笑いと似通った笑い声だ。聞いた事のないような声色は不気味で、触れてはいけない何かに触れ、その怪物を目覚めさせてしまったかのように思える。
「ばっ、馬鹿を言っちゃいけない、っふ、ふ。私達が獣だと? 人ではないと? 私達は何処までも人だ、残念な事にな。人間とは獣よりも残酷で、加虐的な暴力を好む生物だ。獣だけの世の中の方が今よりも余程平和ではないのかね!! 忘れてくれるなよ"人間"お前達も血が好きで、好きで堪らない生物だろう? だからこそ私と事を構えようと猛り、狂い、血を流し合っているではないか──」
 獅子が吼え、猛る。カルヴィンは目を瞑ったまま。エストールは大きく目を見開き、レーナルツに至ってはバシラアサドに食って掛かろうとしているジェリドを抑えている。残るフェベスに至っては、何を思うか、表情もなくバシラアサドを見つめているのだった。
「フェベス、フェベスよ。……それではクルツェスカを守れんぞ、戦支度をしていると、抑止力を方々に見せ付けようと意味がない。気に食わない者達が居るというのならば、排したい者がいるというのならば、もっと早く"自分の手を汚せ"……ナミル、帰るぞ」
 椅子が倒れるような勢いで立ち上がっては、踵を返しバシラアサドは立ち去っていく。小さく頭を垂れながらバッヒアナミルも彼女の後を追うようにして部屋から出て行った。背後、扉の向こう側から聞こえるのは厭に大きなフェベスの笑い声だ。悪魔が愉しい、愉しいと嬉々と笑う。地獄の門を開いては、これから雪崩れ込むであろう亡者の群れを見ているかのよう。煉獄などなく、真っ直ぐ地獄へ落ちていく、その様が愉しくて、愉しくて仕方がないのだろう。鉄面を被った悪魔の笑い声を耳にバシラアサドの口角も吊り上がって行く。背後から漂う戦の匂い、それが心地よく、血が滾る。あぁ、己も何処までもセノールだ、と一抹の嫌悪を抱けど、それは一瞬で消え去ってしまった。誰も立ち止まる事が出来ず、戦はあと吐く間もなく、訪れる事だろう。もう潮時が近付いて来ているのだ、と改めて実感し、後は手を下すだけだと獅子も声を上げて笑うのであった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.162 )
日時: 2018/07/12 19:06
名前: 霧島 ◆PTMsAcFezw (ID: UpVfKr/1)

 完治まで病室に押し込められるのも御免被りたい所であったが、さる男の言葉を押し切って少女とともに部屋へと戻るには未だ至っていなかった。なにせ少女が治るまで安静に、と懇願してくるものだからどう仕様もない。さしのハイルヴィヒとて、スヴェトラーナの言葉を押し切る事はできそうにもない。四角く切り取られた部屋に押し込められている間も、スヴェトラーナがアパルトマンへと戻ってはハイルヴィヒの為の荷物を持ってくるがてら、せっせとこまめに部屋を掃除をしているという。故に、白を基調とした、妙に整然とした部屋はきっと変わらず彼処にあるのだろう。思いを馳せながら、ハイルヴィヒは小さく息を吐く。リハビリと称して院内をうろつき、其のための部屋へと赴くのもすっかり日常となりそうで恐ろしい。完治した、と言い難くとも大分良くなっていることに変わりはない。銃を握り、前線に立てるか、と問われれば素直に否、と答えるほかないのだが。
 ——小鳥がなく声が、只の平穏を思わせる。近隣、或いは関わりの深い場所にて動乱の前兆が在るなどと微塵も感じさせぬほどに、此の病室は静かだった。柔らかな日差し、かすかな月明かり。照らされる光は時により異なれど、此の場の異様なまでの穏やかさは変わることがない。床板を静かに蹴り飛ばす音、少女のささやき声。或いは耳朶に流れ込む優しい静音。どれをとってもただ、おぞましいまでの静けさと穏やかさがあるばかりだった。けれど此の日、病室へと戻ればサイドテーブルに彩りが添えられている。はてな、と想ったのはハイルヴィヒもスヴェトラーナも同じこと。タタッタ、と足取りは軽やかに、少女はサイドテーブルに置かれた花辺と歩み寄る。其処にメッセージカードが在ることをみとめればアッ、と声を上げる。見覚えのある筆跡、名はなくとも、誰からのものかなんて、少女にはひと目でわかってしまった。“おにいさま”と、わずかに空気が震えた。
 ギシリ、ギシリと床板を軋ませながらベッドへと戻り、そのメッセージカードに在る文言をみとめたハイルヴィヒは小さくため息を一つ。もしもヨハンが見たならば滅入った様な顔をして、小馬鹿にした様にゲラゲラと笑いながら揶揄う様な言葉を吐くだろう。大凡「騎士様って気障ったらしいですねぇ?」とでも半笑いで吐きそうだ。しかしまぁ、光。光と来たか。大凡、暗がりをゆく己には似合わぬ言葉だと、ハイルヴィヒは嗤わずにはいられなかった。光は、眼前に立つ月明かりの君にこそ相応しい。反する少女は、青い双眸をゆるやかに細め、慈しむように、其の白い指先で文字をなぞっている。神聖なるものへと触れるかの様に。昨日の彼女であったならばきっと、はらはらと涙してしまっていたのだろう。
「…………優しすぎるわ、おにいさまったら」
 ベッドサイドの椅子に腰掛け、スヴェトラーナはつぶやいた。其の形の良い眉をわずかに下げて、けれども唇は三日月を描きながら。脳内で、メッセージカードの文言を少女は繰り返す。光射す路を、と言うならば貴方も共に、などと、甘すぎる言葉を舌の上で転がしながら。

 数日の後、一時的な帰宅の許可を取り付けたのはハイルヴィヒの意思だ。いつまでも此処にい続けるわけにも行くまい。と医師に掛け合った結果だった。医師からの許可の言葉に、けれども不安げなスヴェトラーナの手を、ハイルヴィヒはそっと握っていた。叶うならば抱きしめて、その耳元で大丈夫です、と囁きたい衝動を押し殺しながら。
 玄関で、ハイルヴィヒの黒いコートに粉砂糖の様に舞い踊る白をスヴェトラーナが軽くはたき落とす。其の位自分で、と口にする前に、少女の澄んだ瞳と視線がかち合えば口を噤む他なかった。誰に告げるでもない帰還を告げる少女の声だけが響く。宵闇に呑まれる前に帰還出来たのは幸いであっただろう。
「嗚呼……そういえば、ハイルヴィヒ」
 コートを脱いで、室内へ歩を進める最中、少女は柔らかな声で従者を呼ぶ。返答をする従者へと、白いその手を伸ばせば、少しばかり痩せこけた様にも思える従者の頬へその手を添えた。慈しむように、愛しいものを見るようにその双眸をゆるりと細めて、吐息がかかるほどの距離で、柔らかな息を一つ。其の頬を滑るように、白い手は下へ、落ちる。
「…………有難う、本当に。……いきていて、くれて」
 従者の体躯を強く抱きしめられるならば、少女はきっとそうしていただろう。けれども今だ完治からは遠いその身を強く抱きしめてしまう事がただ、恐ろしかった。誰よりも強い、何よりも強い、“私”の信頼する“彼女”が此処まで、今にも崩れ落ちて消えてしまいそうな砂糖菓子の様に見えるなんてあり得るはずがない、と思っていた。
「……スヴェトラーナお嬢様」
 永く、けれどもほんの僅かな空白の後に、従者は酷く神妙な顔をして少女を優しく呼んだ。
「…………恐ろしいならば、暫し此処に居ても、良いのです。……急ぎ地下へ行く必要は、嗚呼、まあ……あるのでしょうが」
 逡巡、空白。一拍ですら只々長い時の様に思えてしまう。長い長い思索の先に、ハイルヴィヒは言葉を選びとれどこれが正しいものであるか、彼女自身わからないままだ。少女の、其の体躯を抱きしめたい、されど手を触れてしまえば壊れてしまうような気がして恐ろしい。ただ笑顔で、何も知らず。柔い心地で、何かが壊れることを知らぬままに生きて居た時の方がずっと、しあわせだった気さえしてしまう。上手に言葉が出てこない、まとまらない。目覚めはひどく唐突であった。閉ざされた少女の双眸を強制的に開かせたのは或いは、己であるのやもしれぬと思えば。ハイルヴィヒとて胸中穏やかではいられなかった。其の唇で酔わせてほしい、いっそ冷たい口付けで、其の薔薇色の花唇で、己に罰を与えてほしいとすら思う。かき乱される様な心地であった。脳髄をかき回されるような、ひどい頭痛がする。キツリ、と目の奥が痛んだ。迷わせる言葉で、此の心を全て殺し尽くしてほしいとすら、思う。
「……ハイルヴィヒ」
 柔い雪のひとひらの様な少女の声が響く、落ちる。凪いだ水面に、波紋を作る。抱き止めれば壊れてしまいそうな程に花は脆く、故に、甘く香る。
「……踊るなれば、悪魔とでも踊ってみせましょう。……ふふ、ご存知でしょうけれど……私、ワルツ<вальс>は得意ですもの」
 甘やかな、けれども凛、とした声が響く。惑わせる言葉などひとつもない。強い決意と、甘い囁き。其の白いつま先は軽やかにステップを踏むのだろう。仮令、手を取り合う相手が悪魔であれど、或いは、死神であるのだとしても。震える睫で、潤む瞳で。甘やかな蜜を湛える花唇で、惑わせ融かし、喰らってしまう事すら厭わないと言わんばかりに。
「…………貴女は、」
 言葉が続かなかった。其の前にぐらり、と視界が歪む。耳の奥に響く音は金属音ともつかない、奇妙な音であった。時計の鐘の音に似て、けれどもそうではない。暗がりから伸ばされる手の様な、形の、色の見えない悍ましい様で荘厳な楽器の音色の様にすら思える。喉元まで胃液がこみ上げてくる様な感覚を憶えつつ、ハイルヴィヒは柔く微笑んだ。口づければ、此の赤はきっと冷感を憶えるのはずだ、と不可思議な確信があった。少女はうっそりと、けれども甘い少女の顔ばせで微笑みかけてくるのみだった。
「きっとね、ゆっくりもしていられないのでしょう?」
 少女の笑みは崩れる事無く、寧ろ柔らかに深まるばかりであった。森閑たる間は、永く。二人の間に横たわる。
「みんないっしょに、狂ってしまったら……なんて、ふふ。なんでもないわ」
 凪いだ水面に落ちるひとしずくはハイルヴィヒ、と傭兵の名を、其の耳元で優しく囁く。柔らかな光を乱反射させる水面から、ハイルヴィヒは目を離せずにいた。
 深淵の青は、さる赤よりも深く、深く。記憶は色褪せようと、思いは、此処に。帰り道すらわからない小路の中で、何処へ迎えずとも。
「私は、どうあれど……私たちを代々信じて、共に歩んできてくれた皆様を叶う限り助けたいわ。……だから、ハイルヴィヒ」
 瞳の距離が近づく。甘い香りが、ハイルヴィヒの鼻腔に充ちる。
「貴女にも生きてほしい。でも……それでも」
 柔らかな声だ、何一つ曇りのない美しい、それだ。
「……無理を強いるでしょう、きっと。それでもどうか」
「——共に」 
 頬へと伸ばされる手を拒絶することなど、ハイルヴィヒには出来なかった。

 執務机の前で、ユスチンはうんうんと唸っていた。
「移す、ってもねぇ……そんな大々的に人移したら目立っちゃうし……。もー、僕やんなっちゃう!」
 口先では軽い言葉を吐き出しつつもその瞳の奥には違いない真剣な光を宿す。傍に控えるヨハンもまた、その緑の瞳をじ、と資料の文字へと向けていた。
「……僕ら諸共、此の土地で死ぬ気はないさ。僕だけ、ならまだしも……此の我儘に皆を付き合わせるのは正直、最低の領主のすることだ」
 ベケトフの様な、元を辿れば余所者の家に律儀に危機を伝えに来てくれたフェベスの心を無駄になどしたくはない。例え潰えるとしても、無意味に失墜することだけは、避けなければなるまい。
「東部のベケトフから、援軍は貰えることになったけどね……それでも、多少は人を移さなきゃならない……ヨハンくん、君には無理を強いると思うけれど……」
 東部、ヴォストモルスクのベケトフ家は最前線に立つ立地上、頼りになる援軍ではある。かといって、完全に彼らに全てを任せるわけには行くまい。出来ることがあるならば、なんだってする。その為の努力を惜しむほど、ユスチンという男は愚かなつもりは無かった。
「——どうか、力を貸してほしい」
 静かに、男は言葉を吐き出す。青年の緑の瞳はゆるり、瞬く。唇は緩慢に、三日月を描く。
「言われずとも、ですよぉ、ユスチン殿?」
 にんまりとした笑みは、ともすれば全く、善性などないようにすら見えるとしても。
「ま、ハイドナーのお坊ちゃんの件もひっくるめて、使えるもんは使いましょ。勿論、僕のできること、もひっくるめて、ね」

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.163 )
日時: 2018/07/12 23:06
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 草臥れた黒い手帳を開き、ソーニアはぼんやりと眺めていた。一見、まるで興味がないと言いたげなその表情。何処か遠くを見据えては、手帳の中の現実から逃避しているかのようにも見えるだろうが、その実、ソーニアは内心呆れ帰っていた。単なる手の込んだ悪趣味でしかない。意味などないというのに、手帳の中では文面が壊れ、狂気がその芳香を醸す。仮に手帳の中身が事実だとしても、ハイドナーの悪行がまた一つ明るみに出るだけの事。その事に何の意味があるというのだろうか、今更、自分達が犯した罪を雪ごうとしたというのならば、ガウェス・ハイドナーという男が厭に浅ましく思え、彼等を排したジャッバールには万来の拍手と称賛と喝采を送らねばならないだろう。
 手帳を閉じ、鞄の中へと放り込むと少し離れた所から、やや急いだ様子でミュラが駆け寄ってくる。心なしか青い顔をしていて、彼女と動いていたジャリルファハドはと言えば難しい顔をして何者かと話し込んでいるようだった。
「どうしたの?」
「あぁ、いや。ちょっと来てくれよ!」
 何かあったんだろうか、と怪訝そうに彼女が元来た方向へと歩んでいく。ミュラが何かを訴えていたが、聞き耳を持つ訳でもなく、ただただ歩み進めていく。人垣が裂け、姿を現したのは爪紅を差し、目尻には魔除けの意味を兼ねた赤い化粧。廓に巣食う魔女の様な女であった。
「あぁ……ソーニアじゃん」
 ジャリルファハドと話し込んでいたのはハヤであった。相変わらず、にやにやとした人を食ったどころか、人を食い散らかしてその骨まで噛み砕いたかのような得も知れない表情を浮かべている。人を馬鹿にしているでも、見下している訳でもない。ただただ妙に思えるのだ。
「いやぁ、元気そうで何よりだねぇ。……傷も塞がってんじゃん」
 額に伸ばされた手はよく見ると傷や火傷の痕があり、彼女がジャッバールに合流してから、どれだけ働いてきたかが良く見て取れる。恐らくは彼女の"落とし子達"も血腥い荒事の一翼を担いつつ、クルツェスカの正常化に努めたのだろう。
「まぁね、もう一月近くも経ってるし。それより……何かあったの?」
「いやね。近々化物狩りをするんだけどさ、その指揮執って貰いたいんだよね、コイツに」
 ジャリルファハドの肩に手を置き、彼を押し退けながらハヤはそう言い放って見せた。難しい顔をしながら彼は黙りこくったままで、抗議の声を挙げる訳でもない。否、恐らくは出来ないのだろう。一月前の恩は返さなければならない、それを反故にしては武門、侵略者の名折れである。だが、此処で頷いてしまっては、本格的にジャッバールに組した事となる。仲違いをしているガリプとしての葛藤があるのだろう、とソーニアはジャリルファハドを見据えていた。ジャリルファハドには中々に頑固な一面がある、仕方ない話である。
「やり方くらい分かるでしょ」
「お前達にも指揮の一つや二つ、執れる者が居るだろうに」
「別の仕事があんの。これでも案外忙しいんだよ?」
 目を細めて笑いながらハヤはジャリルファハドの右肩を叩く。傷に障ったのか、一瞬だけ彼は顔を顰めるも抗議の声を挙げるでなく、じっとハヤを睨んだ。相変わらずの表情の薄さに、何を考えているか分からず、居心地が悪くなったのかハヤは視線を逸らして、俯き加減に笑っている。その様子がどうにも不気味に思えた。
「あのー。ハヤ? 彼を持っていかれると私の護衛がなくなるのと同じなのよ、そこは理解してる?」
「何さ、ちょーっと前まで一人で潜ってたくせに」
「ジャッバールの兵が常に回りに居たのぐらい気付いてるわよ」
 そう苦笑いを浮かべると「気付いてたかぁ」とバツが悪そうにハヤは照れくさを隠すべく、小さく笑っていた。ジャッバールは身内には甘く、庇護下、協力関係にある者へは異常なまでに執着を示す。それは良い方向へ回る事もあれば、悪い方向へ回る事もある。セノールが氏族社会に生きる証であるとも言えるだろう。飢える者には富める者から施しを。そんなシンプルな思想の延長線にあるのだ。
「感謝はしてるわ、私を下から引っ張り上げた時だって、あなた達の手があったもの」
「……同胞の頼み。友人の窮地に動かないのは私達の流儀に反するからね。だーかーらーさー」
 その先は言わなくても分かるだろう、とハヤはジャリルファハドへと視線を投げ掛ける。勝色の瞳がじいっと何を語るでもなく見つめてくるため、彼には居心地が悪く感じられた。深い、深い海底から悪魔に見上げられているかのように感じるのだ。まるで品定めでもされているかのような、表し難い不快感を覚える。
「分かった、分かった。離反した我々の兵を寄越せ、そっちの得物もだ。……全く」
 仕方ないと言いたげに頷き、ジャリルファハドは大きく溜息を吐いた。ハヤから頼み込まれ、珍しく折れたようにも見える。
「へぇ……粘ってみるもんだねぇ」
「恩を返さなければ武門の名折れだ。筋は通す。仕方あるまい」
 そう尤もらしい事を言い放ち、再び溜息を吐く。不本意を言葉に出さずとも、態度に表すその様にハヤは苦笑いを浮かべていたが、そんなジャリルファハドを労うようにその背を軽く叩く。
「まぁ、助かるよ。兵と武器、その準備はこっちでしとくからさ。明日の晩、何時でも構わないから屋敷に来て頂戴。あぁ、ところでさ──」
 ジャリルファハドが観念した様子で短く相槌を打てば、ハヤは突然思い出したかのようにまた別の話をし始めた。それは廓の現状についてであった。彼女の言葉は宛ら甘言の如く。思わせぶりながらも、本質へは触れず散らばった情報の断片を吐くばかり。それでいながら行け、やれと背を押してくるように感じられるのだ。廓の最下層区画、そこへ至る道。そして、そこに眠るもの。要約してしまえばただの三つの話だが、どうにもハヤの語り口は最後のそれを求めているようにも感じられた。彼女の舌の上では悪魔が踊り、口を衝いて出るのは魔女の甘言。何故そんな事を知っているのだ、とソーニアは怪訝に思いながらも黙したまま耳を傾けるのであった。



 ハヤの言葉を思い出しながら、歩む廓の石畳は厭に冷たく、そうでありながら何かが足元で蠢いているような奇妙な感覚を覚えさせた。妙にミュラは落ち着かない様子で、何やらジャリルファハドに訴えては彼も黙りこくってしまう。そんな状況であったがソーニアの歩みは誰よりも速く、二人の前をひたすらに歩み続ける。
 八十階層より下の未到達とされる区域に存在するレゥノーラの母胎、そこに隠された聖櫃と呼ばれる存在。今回のジャッバールによるレゥノーラ掃討に何の関連があるのか、ソーニアは分からず思考の渦はただただ回っていく。
「……ハヤの喋ってた奴?」
「えぇ、まぁね。化物の母胎って言われてもどうしようもないわよ」
「ふーん、私アイツ苦手なんだよなぁ。なんか気持ち悪くてさ。ぱっと見たら普通なんだけど、喋ってる内容も、声も全部が怖い。アイツの方が余程化物だぜ」
 ミュラの苦言にジャリルファハドが鼻で笑っていたが、ミュラが持つ印象は間違いではない。彼女は獅子の血縁、箔こそないがその軽薄さに相反し、アゥルトゥラに対する強い怨嗟、怨恨の念と攻撃性が顔を覗かせるからだ。恐らく彼女がバシラアサドの立場に立っていたならば、既に戦争が起きていた事だろう。彼女はバシラアサドとは違い危ういながらも、動乱と平静を薄氷一枚で隔てられない女である。
「人の形してるんだし、化物呼ばわりはやめてあげなさいよ」
「しかし……化物の胎などすぐに焼けば良いだろうに。ある程度の兵を動員したならば容易い事だろう」
 やはりハヤは何かを隠している、分かっていながら分からないふりをしているのではないかと、疑念を抱かざる得ない。母胎の存在を知っているというならば、レゥノーラの数を調整する事も容易く、それを行うに相応しい得物も所有している。ややもすればこの廓の所有者と言っても過言ではないだろう。
「……何だか気が乗らないわね。帰りましょ」
「え? 帰んの? 此処まで来たのに?」
「こういう時は行かないの。験を担ぐって訳じゃないけどね」
 ミュラの背を押しながら、ソーニアは元来た道を戻るべく歩み進めていく。恐らく、彼女も思う事があるのだろう。そういった素振りを見せる様子もなく、普段通りに振舞う姿は不自然にも思える。どうにも厄介な事が起きそうだ、とジャリルファハドは溜息を吐きながら、二人の後を追いはじめた。二人の話し声と三人の足音ばかりが廓に響いていた。
 残されたのは全くの闇。その闇の向こう、青い二点が彼等の背を見送り、得物を石壁に擦り付けながら、削ぎ取られた頬を撫でる。来なかったか、と踵を返しその化物は更に深い闇の中へと身を隠すのであった。


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