複雑・ファジー小説

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無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2020/08/16 20:36
名前: にっか ◆ShcghXvQB6 (ID: jtELVqQb)

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)


設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメント等は差し控えて下さい。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.149 )
日時: 2018/04/27 12:12
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: v8Cr5l.H)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 限りなく鈍色に近い空は重く、色彩を失っていた。シェスターンにてバッヒアナミルが散々に斬り殺したナヴァロの兵の骸のような色だ。血の気を失い、雨水を吸い無様に膨れ上がった死体が脳裏に浮かび上がる。切り裂かれた傷口は腐り、肉が海松色に変色していた。そこに湧き上がる蛆はただただ腐肉を食らうべく蠢いている。一歩間違えば自分もそうなっていたと思えば、バッヒアナミルは顔を顰めざるを得ず、今もこうして生き、歩んでいられる事に安堵を抱きながら、未だ痛む右胸の傷を擦り、自分を救ったバシラアサドの後を追う。自分達が死したならばどうなる事だろうか。アゥルトゥラの者達と比べ、明らかに浅黒い肌はどう変わっていくのだろうか、そしてバシラアサドが死んでしまったらどうなるだろうか、と疑問を抱く。セノールは指導者を失い、狂った独楽のように不規則に乱れては自壊を遂げる事だろう。今を生きるセノールにバシラアサド程、民衆を引き付け心酔させ、扇動出来るだけの者は居ない。天賦の才だったのだろう。しかし、彼女には自分で力を用い、血と暴力を以ってして、道を開くだけの力はない。だからこそバッヒアナミルも悲鳴を上げ続けている身体に鞭を打ちながら、彼女と共にあるのだ。自分が矛となり、血の道を開くべくだ。
「どうした」
 少しだけ歩調の鈍いバッヒアナミルへと振り向き、バシラアサドは問う。何処か怪訝な表情を浮かべて見える彼女だったが、すぐに何時もの思い詰めたような表情の薄く、硬い顔付きが戻ってきていた。
「あぁ、いえ。何でもないです」
 そう答えるバッヒアナミルであったが、何処か歯切れが悪くバシラアサドからすると彼が余計で、全く意味のない事でも考えていたのだろう、と察しが付いた。彼女はそんな彼を鼻で笑う。
 バッヒアナミルの疑問であったが、バシラアサドは自分が死ぬとは思ってもいない、仮に死んだとしてもその先の事など微塵も感心はない。弔われたならば先人達と同じ道を辿るだけ。戦地にて死したならば、肉は腐り、野へ還り、骨を曝しては誰なのかも分からないまま捨て置かれるだけの事なのだ。死は必ず訪れるものだ。万人に等しく、足音を立てながら近寄ってくる。拒めど、拒めど寄って来るのだ。逃げ切れず、逃げられず、追って来るものなのだ。だからこそ、生を望み、死という物を恐れ、忌憚し続けなければならない。それが今を生きる者の義務である。
「死ぬって……怖い事ですね」
「あぁ、その通りだ。だから護衛を付けずに私は外を歩かないのさ」
「此処なんて何の"匂い"もしないんですけどね」
 ボリーシェゴルノスク、小規模ではあるが、風光明媚な街である。運河に接している故に港湾設備を持っている程度。ナヴァロの息が掛かった物も居なければ、既得権益が自分達を敵対視する訳ではない。だからこそ、バッヒアナミル"匂い"がしないと言ったのだろう。尤もそういった危機感を抱かない状態であるからこそ、ナヴァロは関与を断っているのだろう。彼等とてクルツェスカに根付いた真新しい貴族であり、クルツェスカ以外に感心がなく、自力で渡り合おうというだけの気概を持ち合わせていない"持つ者"でありながら"持たざる者"と同じく振舞う彼等と歩調を合わせる気はないのだろう。ジャッバールからの兵站に対する妨害を受けているのなら尚更である。
「……非武装中立というのも恐れを知らないように思えて馬鹿げて見える。中立を保つならば、誰よりも強い兵を、誰よりも多く持たねばならんというに。メイ・リエリスの様に口先だけで戦っているふりをしている訳でもあるまい」
「此処が国境に接していないというのもありますが、所詮はクルツェスカの衛星都市ですからね。いざという時の貯えは求められるはずですが……」
「お前はハイドナーを忘れたか?」
「あぁ、いえ。しっかりと覚えていますとも。是非──殺してやりたかった」
 寒風に彼の長い髪が靡き、整った顔立ちと穏やかな表情が絵になるようにも思えたが、吐き出す殺意に塗れた呪詛は何処かおぞましく、憎悪に溢れた物であった。武門の者達は大方が彼と同じような反応を示す事だろう。咎を認めたからと許したジャリルファハドが異質であるのだ。
「そも本を正せばベケトフはヴィムートの馬糞崩れだ。アウルトゥラの中ではあまり信用はない、そこはナヴァロも同じだ。アイツ等とてクィーフスからの流れ者だ」
 アゥルトゥラにはどれだけの時間が経とうとも、払拭しきれない差別感情がある。血こそ薄れ、アゥルトゥラやカルウェノと大差が無くなろうとも、その歴史は拭えず、古くからの貴族や彼等を配下とする王族達からは重用されなかった。だからこそ、運河建造にこそ関与しても戦争では重用されず、各方面からのイデオロギーに染まらなかったのだろう。尤もナヴァロはならず者であったが故に国内に置いておくには危うく、インフラなどの整備には使われず、戦争で重用されたのだが。
「真の中立が有り得んという事ももう分かっているだろうさ。ベケトフの敵は我々ではない、真なる敵は領民と商人だ」
 そう言い放ち、バッヒアナミルへと振り向いたバシラアサドの表情は悪辣で、業悪を孕んでいるように見えた。まるで全てを見透かし、想像しうる事態全てに対し布石を打ち終えているかのようだ。それがバッヒアナミルからしてみると空恐ろしく、彼女が腹の中に飼い続けている悪魔が全てに火を放ち、牙を剥きながら嗤っているようにも感じられるのだ。実父、実兄を殺め、クルツェスカへ至り、多くの既得権益を滅し続けるにつれ、子であったはずの悪魔はすっかり成長しきってしまったのだろう。自身もまたそれを飼っているという自覚こそ在れど、バシラアサドには劣る。それでも尚、自分は彼女に付き従うのが意思であると言い聞かせるのだった。


 これが貴族の屋敷か、と思わずバッヒアナミルは息を呑む。クルツェスカの貴族達は豪奢な物を好まない傾向があった。中には例外も居るが、そういった者達は最前線の城塞都市だというのに武働きをする訳でもなく、仮に私兵を持っていたとしてもハイドナーのように寄せ集めで、小規模な物だった。ベケトフについてはそこまで豪奢ではないのだが、どこか整然としていて人の息衝くような雰囲気が希薄であった。
 突然の来訪であったが、二人は応接間へと通された。時折、扉の向こう側から気だるげそうで、やや物憂げにも見える青年が様子を伺うようにちらちらと視線を投げ掛けていた。それがバッヒアナミルには不愉快なようで、彼はその視線に気付くなり顔を顰めてはその青年を睨み付けている。虎というよりは猛犬のようだとバシラアサドは苦笑いをしつつ、静かにユスチンが来るのを待ち続けていた。
「ジャッバールの方々。もう暫く待って下さい、あと三分もしないうちに来ますから」
 青年が扉から顔だけ出して、そう声を掛けていく。「幾らでも待つ」とだけ短くバシラアサドは返答しては、ぼんやりと外を眺めていた。整然とし、人気もなく、それで居ながら塀に囲まれているこの屋敷は外からの目が届きにくい。恐らくハサンの兵達は窓の外から様子を伺う訳でもなく、屋敷の中へも侵入しているだろう。であるから、屋敷の人数、令嬢と護衛の不在まではっきりと伝えてきているのだ。彼等を敵に回す事がなく、自身の配下へ組み込めて良かったと内心、胸を撫で下ろしていた。
「いやぁ、ごめんごめん。突然来るもんだからさ、身支度がね」
「気にする必要はない。……我々も船台が出来上がった報告に来た次第。それともう一つ語らねばならない事があってだな」
 席に座り込みながらユスチンは怪訝そうな顔をしながらバシラアサドを見つめていた。ジャッバールが密偵を放ち、此方の動向を伺っているというのも何かの武力を伴う行動の前準備だと思っていたからだ。圧倒的な武力を持っていながら、用意周到かつ慢心の一切見られない彼女達だからこその行動ではないとしたら、その真意は推し量れそうになく、ユスチンは疑問と猜疑心を抱く。何が企みだと、表情は穏やかなまま思考が巡り、巡っていく。
「……我々に運河の使用権を承諾し、造船所の建造を了承したが故、クルツェスカ、コールヴェンの商人達からボリーシェゴルノスク、引いてはベケトフへの不信感が出ている。今の今まで中立を保っていた者達が我々へと尾を振ったとな。このまま状況が悪化すれば領民からの支持も失うだろう、何せ生活が成り立たなくなるのだからな」
「君達に組するだなんて……そんな事はないんだけどねぇ」
「実態はそうであったとしても、事情を知らぬ者達からしてみればそう見えるのだよ。我々が新しい風を吹き込んだのも事実であろうが、それは既得権益からしてみれば逆風でしかないのだ。ベケトフは今に岐路に立たされよう」
 その言葉にユスチンは首を傾げながら恍けたような素振りを見せる。昼行灯を演じるか、とバシラアサドが彼を睨み付けながら、口角を僅かに吊り上げていた。どちらに付くかを選べと選択を迫っているのだ。既得権益に座す商人達からの不信感があるのも事実、商人に尾を振ればジャッバールと敵対する。また彼女達に尾を振れば商人達と敵対する事となる。どう足掻いても損失は大きい。血が流れるか、ボリーシェゴルノスクが突然衰退するかの何れかである。
「君達は最初から分かっていたんだね」
「さて、何のことやら。私達はあくまで西方交易路の延長線上として運河を使っているだけの事。まさか、今更手を引けなどと言うまい?」
「随分と毒の実は早く育ったみたいだね、君達の手で商人を黙らせるようなことは出来ないのかい?」
「我々を良く思わずとも、彼等は私達と関係を断てば多大な損失を負う。商人というのは強欲な生物だと知っているだろう? ロトス・ハイドナーを思い出せ、あの業突く張りを」
 実際は商人達の不満、不信感を払拭する事は出来るのだろう。それも血を流さず、ただの一声でだ。だというのにバシラアサドは暗にそれをはぐらかすように言葉を返してくる。どうにも弱った、とユスチンは苦笑いを浮かべている。此処で引き下がればジャッバールはベケトフの不義を大声で叫び、糾弾する事だろう。事と次第によっては家人がおかしな死に方をする可能性もある。娘の顔が脳裏に思い浮かぶのだ、ジャッバールがクルツェスカに根差している以上、スヴェトラーナへと危害が及ぶ事も十二分に有り得る話だろう。
「……参ったなぁ」
 四面楚歌どころではない、八方をすっかり塞がれてしまったように思えるのだ。この状況で方々へ助け舟を求めても相手が悪すぎると見向きもしない事だろう。まさか此処で非武装中立という思想が悪く働くとは思っても居なかったのだ。
「はい、あの。ちょっと良いですか。事を深刻に考えすぎじゃないですか? いえ、アサドはこんな感じに言ってますけど、今のままでは危うい。どちらかを選ぶなら早い内にしておけというだけの話なんです。勿論、我々は切られたらその不義を糾弾します、ただ商人達も同じ事をするでしょう。俺は商いをしている訳でもないですけど、そうなるって事はよく分かるんです」
「……えー、護衛の君。名前は?」
「あぁ、すみません。バッヒアナミル・ナッサル・サチと申します。今回はアサドの護衛として来させてもらいました」
「なるほどね、君はそう簡単に言うけれど、僕等は此処に根差してからずっと中立を保ってきた。今更、どちらかに付けと言われてもそれは難しい話なんだよ」
「簡単じゃないですか、どちらかを選び、どちらかと戦う。俺はジャッバールをおすすめしますけど? 俺達は強いですから、アゥルトゥラなんて一噛みです」
 稚拙な言葉で意識もせず毒を盛ると、バッヒアナミルを忌々しげにユスチンは睨む。バシラアサドのように隠し切れない悪意が見えている訳ではない。確かにジャッバールは強いだろう、半世紀も昔の戦争。その中で唯一アゥルトゥラに完勝し続けたサチの武門の最大勢力だ。そこに合流した他の武門の者達も居る。彼の言う事に嘘、偽りは微塵もない。だからこそ、ユスチンは苦しめられるのだ。
「本当ですかぁ? 貴方みたいな優男が強いとは思えませんけど?」
 扉の向こう側から顔だけだして、先ほどの青年がバッヒアナミルを揶揄していた。優男と称された彼に対し、バシラアサドは肩を震わせながら「その通りだ」と笑っていたが、当の本人はコンプレックスを刺激されたのか、不愉快そうに青年を睨む。
「……試してみます? 後悔しますよ」
「ナミル、止せ。……ユスチン殿。ベケトフは選択をしなければならない。これは確かな話だ、我々と戦うというのであれば今すぐ此処でその意思を示してくれれば良い。根絶やしにするだけの事。商人と戦うというのであれば、我々は助力をしよう。それが更なる戦の呼び水となろうともだ」
 バッヒアナミルを制し、バシラアサドは厭に穏やかな表情で語る。どちらかを選ばなければ先がない。一か八かでの勝負、博打をしなければならない。その事にユスチンは顔を顰めていた。何処と無く老け込んだように見える彼の思考は回っていく。そうした末に非武装中立とて大きな流れの中で博打をしているのと変わらないと、自虐的な結論に行き着き、薄っすらとした苦笑いを浮かべているのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.150 )
日時: 2018/05/02 07:34
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: QxkFlg5H)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 傷を縫い終え、額に浮かぶ汗を拭いながらジャリルファハドは大きく溜息を吐いた。縫われ、塞がれたばかりの傷を睨む。まだ暫くは癒えないだろう、傷を漸く癒したばかりだというのに面倒な事になった、と諦観したように項垂れては背を向け、鉗子や錦紗を片付けているルトを見据えた。
「もう少し早く癒えんのか」
「はぁ? 無理難題を言うんじゃあない。お前が人間止めて化物にでもなるってんなら俺の手当ても要らないだろうな。ただ、そんな事は有り得ない。どんなに猛り狂ったって人間だ、所詮は人間だ。傷一つで苦しんで、下手したら死んでしまうんだ、そもそも──」
 何時の間にかジャリルファハドの眼前まで迫り、ルトはべらべらと説教を垂れている。始まった、と彼から目を逸らしては俯き、目を閉じただただ縦に相槌を打つばかり。聞いた所でどうしようもない、自分の身を案じろという説教を聞き入れてしまえば、己の歩みは止まるだろう。自己の保身に走り、守りに徹する。兄のような人物が親身になって言い聞かせてきたとしても、その言葉の通りに生きようとしては刀は錆び付き、血の匂い、闘争の匂いすら嗅ぎ取れぬ程に鼻は鈍る事だろう。
「……ルト、そうも出来ん。分かってくれ」
「お前もアサドと同じだ、アイツは民を背から押し滅びる、お前は民よりも先を駆け死ぬ。少しゆっくり歩け、馬鹿野郎」
「あぁ、事が全て終わったらな」
「そん時にはお前は屍だ、微塵の肉も残さないただの屍だ。死んじまったらゆっくり歩く事も出来やしない。歩みが止まっちまうんだぞ」
 そう語りかける彼の表情は何処か翳りを帯び、説教を垂れている最中からずっと持ち続けていたであろう鉗子を握る手が微かに震えていた。ムミート、死を齎す者という物騒な姓を持ちながらも、随分と優しい男だとジャリルファハドは目を細めながら彼を見据えていた。だからこそ、ハヤと上手く関係を結べたに違いない。粗暴ながらも懐が広い男と非凡な秀才であるが、視野が狭く粗暴で粗野な女。二人の刃車は上手く噛み合ったのだろう。
「それでも、だ。すまない事をした。……それと助かった、礼は何れ。必ず」
「やめてくれよ、水臭い。そんな礼なんて要らないぜ、これは俺の仕事だからな。それでも礼をくれるってんならよ。そうだな……アサドの手伝いを一つだけしてくれよ」
 バシラアサドの手伝い、余り良い言葉に聞こえなかったがルトの面子を潰す訳には行かないと彼へと視線を向けた。漸く鉗子を片付け終えたのだろうが、相変わらず彼の手は震えていて、静かな怒りとも悲しみとも取り難い感情が渦巻いているのだろう。
「何だ?」
「単純さ、レゥノーラの掃討だ。近々ジャッバール主導で事を起こす。その指揮を執ってもらいたい。他意はない。……いや、あるっちゃあるんだ。お前とアサドの仲違いを少しでも解消出来たらと思ってな」
「アサドに示すべき忠義はない、ただ手当ての礼はしなければならないだろう。……少し考えさせてくれ」
「ガリプから合流した兵達も喜ぶ、お前の存在は大きいんだぞ。お前が思っていり以上にな!」
「っ……折角縫った傷を叩く奴があるか」
 傷を掌で叩かれ、思わずジャリルファハドは苦言を呈した。だがしかし、内心ルトからの申し出は有り難い物に思えるのだ。何故ならばバシラアサドへ接近する機会、口実が出来たからである。ジャッバールの現状を探り、本当にアゥルトゥラを攻めるべく軍備の再編を進めているのか探る事も出来るだろう。事と次第によっては瀬戸際で止める事も可能かも知れない。
「悪い、悪い。ついな、つい。……ファハド。コイツをリエリスの娘さんに渡しといてくれ、薬だ。しっかり塗っておけとな、痕が残ってたら可哀相だろう? それと、ミュラとか言ったか。あそこに掛けてる外套を持っていけ、ずっと寒い寒い騒いでたじゃあないか」
「何から何まですまない、恩に着る」
「いいって事さ、ほら行った行った。俺は忙しいんだ、お前にいつまでも構ってる暇はないんだよ」
「患者など居ないではないか」
「あー、そうだなぁ。さっさと帰れ」
 ルトに促されるまま壁に掛けられた外套を手に取り、ジャリルファハドは薄ら笑いを浮かべたまま頷いた。何時もの凍りついたような人間味の感じられない笑みではない、何処と無く穏やかで人間的な笑みであった。忙しいと追い払いながらも横目でそれを見てはルトも小さく笑っていた。優しい男へと頭を垂れながら踵を返し、ジャリルファハドは去っていく。囲いを一枚隔て、実の兄のように慕った男と別れ、彪はただただ平静を取り戻しながらミュラを見据えた。
「お? 終わったのか」
「あぁ、待たせた。帰ろう。……ソーニア、大丈夫か?」
「えぇ、もう夜だからね。ばっちり見えるわ。それにしても何なんだろね、これ」
 彼女は首を傾げていたが誰も答えを述べる訳でもなく、沈黙が三者の間に広がっていた。ソーニアは壁に立て掛けられた鏡を黙って見つめている。深く、濃く暗い赤髪と同じくして赤い瞳はどうにも彼女が人で無くなったかのように感じられ、ミュラは僅かに身震いをしていた。寒いとか、そういった話ではない。だというのに、ジャリルファハドは左手に持った外套をミュラへと突きつけてる。
「ルトからの餞別だ、クルツェスカは冷える。着ておけ、女が身体を冷やすな」
「あ、あぁ……」
 どうにも的外れなジャリルファハドの言動に呆気に取られながらも、外套を受け取ってはそれを羽織る。セノールの人間が着ている防寒具によく似ており、ジャリルファハドから借りた薄手の外套と重ねる事で冬の寒さも凌げる事だろう。
「良かったじゃない、セノールみたい」
 ソーニアの一言にハヤの言葉が脳裏を過ぎる。「あんたが死のうが私にとってはどーでもいいんだわ」稚拙な言葉に含まれた悪意、害意は果てがなく、恐ろしげに感じられた。赤い唇、赤い爪化粧、それは血で塗りたくられた物にも思えるのだ。得物を携え、サチの兵のように戦場を駆けずり回っては敵を殺し、己の身を擲つような狂気ではない。彼女の狂気は一生掛けても理解出来そうにない、そうミュラは思い口を閉ざしていた。
「ミュラ?」
「私はセノールじゃないから」
「そうだな、お前は何者でもない」
 不味い事を言ったかとジャリルファハドを見遣るも、彼は静かに笑っているだけで、その様子が何処と無く嬉しげに見えて仕方がなかった。彼の語気も穏やかで、何時もの冷淡とした声色でもない。何故か安堵を覚える物だった。
「取り合えず……帰ろうぜ」
 ミュラの号令に二人は短く返事をしていた。扉の取っ手に手を掛け、部屋から出て行く前にルトへ向け、一礼をすると囲いの向こう側から手だけが出て、ひらひらと振られていた。セノールらしくない人だ、と思いながら彼女は部屋を後にしていく。ジャリルファハドは何も述べず、ソーニアは短いながらもセノールの古語で礼を述べていった。そんな三人を囲いの向こう側から見据えながら、ルトは穏やかに笑みを浮かべているのだった。


 漸く家に着き、少し草臥れた様子のソーニアはソファにその身を投げた。彼女の身が僅かに跳ね、うつ伏せになっては何やら呻き声を上げている。呆れた様子でジャリルファハドは彼女を見据えていたが、何も言及する訳ではなく仕方ないか、と目を瞑っていた。
「部屋の中も外と対して変わらないじゃん!」
「仕方ないわよ、底冷えするの。底冷え」
 悪態を吐き合う女二人を他所に何も語る事なく、ジャリルファハドは竈に薪を放り込んでは火を点けるべく、火打石を叩き付けていた。藁に点いた火を消さないように慎重に置いては、どこからかソーニアが持って来たのだろう雑用紙の切れ端を何枚か丸めて投げ込んだ。カシールヴェナから来たばかりのジャリルファハドは紙をこんな使い方するとは思っても居らず、最初は戸惑いを覚えたのは言うまでも無い。セノールからしてみれば紙はそれなりに貴重な品なのだ。そこでアゥルトゥラとの工業力の差を思い知らされたのだった。
「今じきに部屋も温まる。少し堪えろ」
「そういうけど寒くないのかよ?」
「耐え忍べ」
 結局は寒いのか、腑に落ちないと言いたげな表情を浮かべながらミュラは外套の袖に手を隠した。指先がどうにも冷える、冷えに冷えて仕方が無い。よくソーニアやジャリルファハドは手を曝したまま居られると二人を見回した。台所の少し奥まった方の椅子に座り込んでいるジャリルファハドは手は愚か腕まで曝している。困惑しながらソーニアへ視線を向けるも彼女に至ってはコートの下は半袖の衣服という状況で苦笑いせざるを得なかった。
「それ、寒くないのかよ」
「え? えぇ。私暑がりだから……」
「砂漠なんか絶対無理だろ、死ぬ」
「まぁ、夏は"いつもの"着てるからね、案外平気よ」
 彼女のいう"いつもの"とは例の何故か冷たい布で作られた外套であった。膝丈まであるような長さだったが、夏場でもソーニアはいつも前をしっかり締めて着込んでいる。見てくれが暑苦しく見えるが、いつも平然とした様子だった。
「便利だなぁ」
 冬は寒さに強い身体を持ち、夏の暑さを凌ぐべく道具を持っている。少しだけ羨ましく思えた頃、ジャリルファハドが竈の中に薪を更に放り込み、その音にびくりと肩を震わせる。その様子がおかしかったのか、彼は俯き加減に笑っているようで気恥ずかしさを覚えながら再びソーニアと向かい合った。
「なぁ、本当に目はなんともないのか?」
「明るいと何も見えないだけよ、目を瞑ってても光は分かるし、日中でもはぐれなかったら大丈夫」
「ふーん、そっか。……本当だよな?」
「ミュラに嘘吐いたって仕方ないでしょ」
「ま、まぁそうだけどさ」
 ソーニアの身を案じ、あれよこれよと彼女を質問攻めにしているミュラの様子がおかしく思え、ジャリルファハドは思わず苦笑いを浮かべていた。彼女はやはり心配性というよりも、純朴さから来る人の良さを隠し切れないのだろう。問うた所でソーニアの目が元に戻る訳ではない、寧ろ本人が平然としているのだから余り騒ぎ立てるものではない。そうであったとしても、ミュラはそれを止められず思いを口にしてしまうのだろう。身の丈、体躯は大人でソーニアよりもしっかりしてはいるが、中身は年不相応なのだろうと、結論付けながら静かに竈へと薪をくべるのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.151 )
日時: 2018/05/11 23:35
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ (ID: KGoXVX/l)
参照: http://twitter.com/imo00001

 ハイルヴィヒの言うとおり其処に道は有った。獣の鼾ようにごうんごうんと音を立てて地下へと続く階段がぽっかりと口を開けて待ち構えている。篝火さえ届かない暗闇が広がっており、何があるか、起こるか分からず、降りることが躊躇われる。三つの視線が背中に突き刺さる。選択は一つ。彼らは地下へと潜る。危機を脱するための一時凌ぎであることは重々承知しているが、更に彼らの巣穴の奥へ進むことになり、レゥノーラと遭遇する確率が高まるだろう。少なくとも戦力にならないスヴェトラーナは地上に返す必要がある。また、ハイルヴィヒもここを通ったのだろう。等間隔に垂れている血の跡を辿り着いた先にはだだっ広い空間が広がっており、天井の一部に穴が開いていた。少し苔蒸している石の破片が無造作に積み上げられ山になり、特に大きい血溜まりがそこにあった。ハイルヴィヒは恐らく此処に落ちたのだろう。上を向けば先ほど自分たちが覗いた場所が見えていた。
「昇降機が近いな」
 背後を歩いていた傭兵が縒れた煙草に火をつけながら呟いた。確かに、耳を澄ませばワイヤーが軋む音、籠が風を切り上へと向かう音が聞こえる。では、それならば何故、ハイルヴィヒは昇降機で登ることを選ばなかったのか。単に聞こえなかったか、若しくは、ガウェスの隣に立つ少女のせいか。仮に昇降機の場所まで向かえば助けは得られ、治療を受けられよう。しかし、そこに取り残されているスヴェトラーナはどうなる。イイコに待っているはずだったスヴェトラーナの元へ自力で戻ろうとしたのか。仮にそうであるならば、彼女のお嬢様へと信頼と忠誠が凄まじい。もしも彼女が貴族の男性だったなら、立派な騎士になっていただろう。
 昇降機までの道のりに血痕はなく、やはりあれは彼女が垂らしたものだったかと思わず立ち止まる。振り向けば傭兵が二人、その後ろを追従するような形でスヴェトラーナがいた。どうにも右足を引き摺るように歩く少女にもしやとガウェスは一つの仮説を立てた。躊躇うスヴェトラーナを説得させ靴を脱がせ、靴下を取り払い足の裏を確認する。親指の付け根がぷっくりと膨れ白くなっている。
「どうしてこのようになるまで何も言わなかったのですか?」
「皆様に迷惑をかけてはいけないと思ってしまい、どうしても、言い出すことが出来ませんでした」
 しゅんとしょぼくれたスヴェトラーナをこれ以上に叱ることも出来ず、ポシェットから新品のガーゼと包帯を出す。チラリとスヴェトラーナを見ると顔を横に逸らし、顔を見ようとしない。罪悪感と足を晒すことへの羞恥か、手で顔を隠し、耳まで真っ赤に染めており思わず苦笑する。本来ならば針などで幹部を刺して血や水を出してマメが大きくならないようにしなければなるまい。だがそのような暇はない。ここはいつ、口を閉じられるか分からない獣の口の中。早急に脱する必要がある。ガーゼを当てて簡易なテーピングを行う。良くはならないが、多少は歩くのが楽にはなるだろう。戻ったら医者に診せるように念を押して手を取るとゆっくりと立ち上がらせる。一瞬痛みで蹌踉めくも、丸太のような腕がそれを支える。ばつの悪そうな顔をして「すいません」と頭を下げて離れる。おぶらなかったのは不測の事態に備える為だ。
 治療を終え歩き始めた矢先、鈴のような声がガウェスに話し掛けてきた。
「ここへ来て、長いのですか?」
 よもや話しかけられるとは思っておらず、少しだけ返答が遅れた。
「えぇ、まぁ。それなりにこちらにいましたから」
 大学を卒業し、ロトスから家督を相続してすぐに、彼はこの仕事に従事した。部下を引き連れ、カンクェノに潜りレゥノーラを狩っていたときのことを思い出す。管理とは名ばかりで賢者の石ばかりを求め、無茶な戦い方ばかりをしてきた。しかし、何も守れやしなかった。名ばかりの騎士によくも付き合ってくれたものだ。なけなしの感謝と無茶をさせてしまったことへの謝罪をする前に彼らは天の国へと召されていった。それとも他者を殺し、生き延びてきた彼らは地獄へと堕ちるのか。
「貴方は此処へ何しに?」
 哀愁打ち消さんとばかりに今度はスヴェトラーナに問う。しかし、彼女からの返事は沈黙のみ。背後を振り返ってみようかと思ったが、段差があるので断念し、利かない目で通路の先を見遣る。
「同じような質問をソーニア様にもされたことがあります」
 スヴェトラーナの表情は見えない。それでも彼女の口調からは戸惑いと迷いが感じられた。さらに詳しく聞き込もうとしたが、返事はなく、違う話題でも振ろうかと考えていた矢先、ついにスヴェトラーナが口を開いた。
「答える間もなくソーニア様は……いいえ。あれは答える暇がなかったのではなく……答えられなかったのではと、そう、思うのです……。貴方様にするお話ではないことは重々承知しています。でも、ですが、私は……」
 彼女らしからぬ、語尾を荒げた口調。重要な何かを言いかけたその時、通路を抜けて昇降機を待つ別の団体と出くわした。何と言っていたのか、か弱いスヴェトラーナの声は雑踏に吸い込まれて消えた。また、レヴェリ人の男性がおり、一瞬ジャッバールの雇兵かと肝を冷やしたが、学者に雇われているだけの傭兵らしい。ガウェスが肩を揺らすとそうビクつくなと男は笑う。男が白い肌に赤い瞳、二ヶ月ほど前、共に廓に潜った少女を思い出す。彼女は今、どうしているのだろうか。ガウェスはふと気になった。
「カウルレヴェリ、ですか?」
「ほお、よく分かったな」 
 袖を捲るとカウルレヴェリには珍しく、赤銅色の鱗が生えていた。カウルレヴェリとは、アゥルトゥラの南東に住まうレヴェリの一派である。羽毛や鱗が生え、小柄な者が多く、飢えや渇きに強いのが特徴である。もちろん、レヴェリらしく普通の人間よりも頑強である。
「知り合いのカウルレヴェリにそっくりでして」と言えば納得したように何度も頷いている。レヴェリ人は少数民族ゆえ、同じ民族間の者ならば繋がりが強い。とくに同じ人種、同じ一派なら猶更その絆は強いのだろう。
「一応。同じレヴェリだからな。彼女はまぁ、気の毒な子さ。幼いうちに両親を殺されて、レゥノーラを殺すことばっかり考えて。ようやくカンクェノに入ったと思った矢先、レゥノーラの攻撃を受けたとなりゃあなぁ」
「亡くなった……の、ですか」
「あー、さすがにそこまでは分からないなぁ。あくまで風の噂さ」
「そうですか。ありがとうございます。助かりました」
 どちらが悪いわけでもないのに、この居心地の悪さは何のか。友達とじゃれ合っていたら肘が歯に当たったような、そんな気まずさの中、早々に彼との会話を切り上げ、壁に凭れかかっている傭兵の元へ。彼らとの契約はまだ切れていない。もう一働きしてもらわねばならない。
「さて、給料分は働いてもらいますよ」
彼らを雇う際、ガウェスが傭兵らに頼んだのはハイルヴィヒの救出である。露骨に顔を歪ませたが、破格の報酬を貰ってしまったのだ。「へいへい」と肩をすくめる二人の傭兵には終わったら酒でも奢ろうかと考え、ようやくスヴェトラーナの方を向き直る。水晶の様な澄んだ瞳にある翳りが妙にガウェスの印象に残る。
「彼女の居場所が分かった以上、貴方がここにいる意味はありません。お嬢さん、貴女はこれからあの人達と合流して地上へお戻りなさい。そうしたら宿に戻るか、若しくは屋敷に帰ってください。すべきことが済んだら我々も地上に戻ります」
 スヴェトラーナが納得できるかと言われたら否である。首をふるふると横に振る少女を見てガウェスは驚き、同時にどうするべきかと悩む。何度も茶会を招かれ、彼女と時間を共にしたことはあるが、明確な意思を見せたのが、これは初めてであった。彼女に僅かに芽を出した自我を摘むようなことはしたくない。しかし、ここで彼女を返さなければ要らぬ死傷者が出る可能性がある。彼は割れ物に触れるように優しく、丁寧にスヴェトラーナの肩を掴む。震える少女に「怖がらせてすいません」と
「この状況がどうなっているか、分からないわけではないでしょう?……貴女の気持ちは痛いほど良く分かります。ですが今は、抑えてください。必ず、あなたの従者を、ハイルヴィヒを連れて帰ります。どんな形になろうとも。だから、今回だけは、私の我が儘を通していただけませんか?」
 それでも納得できるわけがない。半身とも呼べる少女が命の危機に瀕しているのだ。「嫌だ」と明確な拒絶をしようとした時、彼女は出掛かった言葉を飲み込んだ。……ガウェスが頭を下げたのだ。それはスヴェトラーナが見る初めての懇願であった。愛しいお父様や護衛にお願いされることはあろうとも誰かに折りいって頼まれることなどなかった。(無論、そこまでする前にスヴェトラーナが了承したのも理由の一つだが)ましてそれが敬愛して止まない兄のような存在が頭を下げるなど。優越感よりも恐ろしさが少女を駆け抜け、その口を噤んだ。暫しの沈黙。昇降機がガチャンと音を立てて降りてきたことを伝える。人の波が動き、蹴られた小石が踵にぶつかり跳ねる。
「お顔を、上げてくださいまし」
——お兄様
 最後の呼びかけを声に出す勇気は無かった。代わりに傷のないスベスベとした手が無骨な男の手を包む。スヴェトラーナが上げた目線の先、翳りを知らない青空のような瞳がフードの中で爛爛と輝いている。もしもここでお兄様と呼べたなら、ぽっかりと空いた穴を多少なりとも塞いでくれるのだろうか。泣き出しそうなほど瞳を潤わせ、震える薄い唇が言葉を紡ぐのだ。「どうか、どうか、ハイルヴィヒをよろしくお願いいたします」と。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.152 )
日時: 2018/05/17 18:14
名前: 霧島 ◆PTMsAcFezw (ID: Ij88/0W6)

 振り向く事もなく歩み続ける事がここまで息苦しさを憶えるなど、思いもしなかった。胸に巣食う焦燥など消し去ってしまえればよかったのに。何もかもを麻痺させていっそ、この心の臓すら鼓動を止めてしまえばいいのに。ふと浮かんでは消えてを繰り返す思考に、終着点など或りはしない。繋がれた命を無駄にする様な真似はしたくないが、遺される可能性、守られた者の責任、というものはひどく重く少女に伸し掛かる。大して動いていないというのに息苦しさを憶える理由を少女はしれど、目を瞑ってしまいたかった。不安げに揺れる瞳を、慮る者は無い。そも、三人には見えぬようにと俯いて、誰の名も呼ばずに歩み続けたのだから。嘆く間など存在しない、滔々とした言葉の川すら或りはしない。歌声も、また然り。或いは、其の可能性を思わなかったわけではない。されど実用性の証明は不在、確実性など何処にも存在してはいない。賭けるにしては分が悪すぎる。其の位は少女とて理解できている。理解に行動が必ずしも伴うかと問われれば、少女の場合否ではあるが此度は其れに従う以外の道はない。踏み出す足にはまるで、鎖でも巻き付いているかの様な感覚があった。少女は此度、明かりにはなれない。誰一人言葉を発さぬ中、あゆむ道筋を照らすのは心許ない火の光だけ。警戒を緩める者は誰ひとりとして居ない。思いは其々別の方向を向けど、歩む先は同一。いつまでも此処にいるわけには行かずとも、進む以外の選択肢はなかった。或いは、誰かが戻ろうと口にしても少女は歩むことを選んだだろう。一人を向かわせて、三人で歩みゆくのもまた一つ、手だった。彼女の信頼を裏切る形となれど、向かわせるならば恐らくは。スヴェトラーナが思索に耽り、思考が散漫になっていた事は否定できない。不気味なほどの静寂、粛々として張り詰めた空気は、けれども思考には向いたものであった。ひとつ、ふたつ、恐らくは意味を成さない思考が浮かんでは消えていく。
「…………?」
 壁伝いに歩む中ふと、淡い違和感をその指先に感じ取る。次いでふわりと鼻腔に舞い込む、白百合の香。少女が足を止めれば後ろからついてきてきた2人、次いで先頭をいく1人が足を止める。チリン、と鈴の様な音が少女の耳にじっとりと、或いは確かな残響を持って響いた、気きがした。恐らくは気の所為だ。音などしようもない。誰かが鈴を持っているならば別だが、誰もそんなものを持ち合わせては居ないだろう。恐らくは、耳に在る飾りの金属が音を立てたのだろうと一人納得した。けれど、確かな予感が少女にはある。偽りで塗りつぶすには、大きすぎる違和感が。足が、止まる。立ち止まる暇などないと知れど、歩み続ける事が出来ない。縫い付けられたように、足は動かない。隔てられた向こう側に、何を思うのか。己ですら理解が出来ぬまま。静かに、岩壁を撫でる、なぞる。其処に刻まれた見えない何かを探るように。たった一つの真実を見定める様に。
「お嬢ちゃん、何か」
「…………すみません、少し……少しだけ……ごめんなさい」
 男の言葉を遮りながら、少女は多くを語らない、否語れない。ハイルヴィヒの言葉をなぞる。ならば、此処が。——白い手袋は己でも気付かぬ内に外してしまっていた。白魚の如き指はそっと、壁をなぞる。ともすれば周囲には、少女の気が触れたと思われてもおかしくはないのかも知れない。水宝玉の瞳は周囲など視界に映らぬとばかりに一見すれば何もない壁を見つめ、其の指は只の岩肌を往復する。幾度も、幾度も。まるで其処に刻まれている何かを探るように。はた、と少女の手が止まる。何か、答えを得たのかと。問われるより早く少女は振り向き、俯き、息を吐く。
「……ち、がう。……ここは、違う」
 独りごちる少女の言葉はまるで、平素の柔らかさなどを忘れたように冷ややかに、冷淡に。零れ落ちるように紡がれる。
「……ごめんなさい、なんでも……ありません。引き止めて、すみません……すみません、すみません……」
 最後に一度だけ、壁をなぞる。指先は土に汚れてしまったが輝く白磁は変わる事は無い。困惑を浮かべる面々には、としてやや悩ましげに視線を彷徨わせる事、数秒。
「……ごめんなさい、何にせよ此処は、違うわ。きっともっと下……此の岩壁はきっと多少準備があれば容易に崩せるでしょうけれど……今は、それをするべきではないから」
 白百合の檻、夢の跡、或いは墓場。それに相違ない。何故、を問われるよりも早く、少女は岩壁を無言で指差した。かと言って少女の口から何かしらの説明があるわけでもない。ただ小さな声で「なんでもないのです」と紡ぐのみ。理解など不要、と言わんばかりに俯いて、ふるり、と首を横へふる。凸凹とした岩壁に何か刻まれているかと問われればそうであるようにも思えるが少なくとも、現代にて使用される文字の何らかが刻まれている痕跡はない。故に少女は、困惑気味の笑みと共に。行きましょう、と口にせずとも視線で訴え歩み始めた。どうにも気が触れたと思われた所で、少女が何かそれ以上語ることはない。聞かれたことには素直に答えるが何故わかったかの問いにはただわからないわ、ごめんなさい、すみません、との言葉を紡ぐだけだった。ザリ、と地面と靴裏とがこすれる音だけが、響いている。
 辿り着いた場所で、きっと1番大きく息を吐いたのはスヴェトラーナに相違ない。

「あの!」
 少女は実に唐突に口を開く。歩む度に揺れてきた金糸も、其の体躯すらも、不安定な揺れは今は収まっている。歩みゆく彼らの背に、少女が声をかけたのは思わずの反応だった。けれど。
「……もしも」
「もしも?」
「…………もしも、私の求める物が見つかったら、その時は……私も少しは、皆様のお役に立てたのかしら」
 何人も、その問に答えられまい。そも、意味も目的もヴェールで覆われた言葉だ。苛立たし気なひとりをもう1人がまあまあ、と宥めている。奇跡を、或いは実在した夢を、どうか此処に。少女は祈り、引き止めてごめんなさい、と謝罪をささやく。小さな人波に揉まれながら、3人の背をただ黙して見守っていた。ひどく、寒い心地だった。
「お嬢ちゃん、乗らないのかい」
 背後の昇降機から声がする。振り向いて、微笑みをひとつ。淡く柔らかで、それでいて氷の様に、冷ややかな。
「……ごめんなさい、人を待つので、私は大丈夫です。……有難う御座います」
 そうして、少女は息を吐く。

 仮令、此処が彼女の狩場であったとして、おとなしく狩られるだけの狐になる気はありやしない。渇く身体を満たすものが必要だった。水底の記憶を引き摺り出す様に、如何なる人物なれど内に潜むは獣であると嗤う様に。されど恐らくは、死するなれば此処なのだろうというひどく曖昧な確証がある。覆る程度のものか否かなど、ハイルヴィヒ・シュルツに思考する暇はなかった。一撃必殺、とでもいかなければここを切り抜けるのは難しいだろう。ほぼ不可能と言っても過言ではない。身体の痛みは誤魔化せど、既に負った傷を治す術は持ち合わせていない。ザリ、と錠剤を噛み砕く度、其れを飲み込む度、吐き気がする程に心臓が騒がしい。ひどく、目が冴えていた。嫌に視界が透明で、何もかも見通せそうな感さえある。笑い出したいのをぐ、とこらえて照準を定める。相手の動きが嫌に遅く見える。実際はこんなに遅く動いているはずもないと言うのに。荒くなる呼吸を強制的に押さえ込んだ。口をつきそうになる穢らしい言葉も飲み込んだ。傭兵は、或いは少女の様な心地で静かに、引き金を引いた。


 長い長い沈黙をようやく破る男は少しばかり困ったような笑みを浮かべていた。
「…………わかった、それじゃあ“私”は君達に付く選択をするよ」
 これしかないじゃないか、と口に出さずとも思わずにはいられない。至極穏やかな笑みの男はその実、この選択に未だに自信は持てない。かと言って武力抗争で適う術もあるまい。
「まぁ、ほら……誰が悪い、とは言わないけれど……最近商いをする皆へ、うちの領地の人間から不満が少し出てたのは事実だからねぇ」
 一応、嘘ではなかった。少し大きい顔をしていると彼らを邪険に思う技師は少なくない。かといって、大事になるようななにかがある訳でもなく、ここまで来ている。理由としての妥当性は限りなく低いがそれでも、建前として並べ立てるには程よいものだ。 
「色々お願いする身で、さらに言うのは不躾かとも思うのだけれど……うちの領地内では出来るだけ物騒なものはしまっておいてね」
 困ったような笑顔で男は告げる。ティーカップに手をかけ静かに、琥珀色を呷った。

 吹き荒れる風は、いかなる模様かなど思考する時間すら惜しい。分かりきったことだった。選択肢などはじめからありやしない。けれども彼なる祖先の辿りし道を、選択を、男は否定できない。此処まで状況を悪化させたのは己の対応力の不足故であろう。出来る事はしてきたつもりだった、愛しい娘のために、この地のために、或いは。
「どうしようもないじゃないか」
 男は笑顔の侭、けれども視線はヨハンを捉えずただ遠い場所にいる娘を思い言葉を紡ぐ。
「あの子は、スヴェータは、僕の」
 僕の、何なのだろう。娘、其れは正しい。愛しい子、其れも正しい、けれど今口にしたかった言葉とはきっと違う。——答えにたどり着いてはいけない気がした。執着、或いは崇拝。彼女を此の家に閉じ込めたくせに、真に閉じ込められていたのは、恐らく。
「……父親っていうのも、難儀だなぁ」
 椅子偽を預けてズルズルと沈み込むユスチンの表情をヨハンが窺い知ることは出来ない、否しなかったが平素と変わらぬ気だるげな顔ばせのままぐしゃり、と鈍い金の髪を掻いた。
「そういうもんですかね」
「君も父親になったらわかるかもね」
 ユスチンの言葉に、ヨハンは肩を竦める。或いはひとつ、彼と似た感情を既に憶えてしまっているのかもしれないが、ヨハンはただけだるげな瞳を細めて何かを思うだけだった。
「それにしても……あはは、僕も馬鹿だねぇ」
 実質選択権などあってない様なものだ。民衆を思えば即時的な争いは避けたい。多少の混乱が生まれるとしても最低限にしてほしいと頼みはしたし、こちらも何もしないつもりではない。それでも、恒久的な平和が存在しないように、永遠なる楽園など存在しえないのだろう。別段、非武装を善としたつもりは無い、最低限の用意はしていた。外へのバイパスを断ち切られては意味もないものではあったが。——あるいは、ことの成行きを民へ告げれば勇んで武器を取るものもいるだろう。自惚れと謗られようとも、ボリーシェゴルノスクの民の一部がベケトフへ抱く感情を思えば、またこの地に暮らす人々の思考を思えば可能性としては皆無ではない。かと言ってそのほんのひと握りに全てを預けられるかと問われれば否である。本格的な闘争に身を置いたことも無いそれこそ素人を、事もあろうかプロフェッショナル相手の闘争に借り出すほど鬼ではあるまい。そうはありたくない。娘からの手紙に綴られた言葉をなぞって、東部の親族へ便りを出しはしたが彼らがこちらに来るまで耐え忍ぶ自信はない。己はまだしも、スヴェトラーナが死すればこの家は終わりだとわかる。もはや代を次ぐことすら難しいやもしれないがひとつ、考えがない訳でもない。深い深いため息が、男の口からこぼれ落ちる。
「ま、何にせよ……やれってなら僕は何でもやりますよ。ユスチン殿というか、このお家にゃ恩もありますし……。手始めに秘密警察もどきな事でもやります?」
「…………ヨハン君は、僕にヴィムートの馬鹿皇帝共の真似事をしろっていうのかい?」
「……冗談ですって」
 そう紡ぎつつヨハンはまた肩を竦める。冗談にしては過ぎた言葉であったとの反省もある。源流は北より流れども、この家の、ひいてはユスチンの思考を思えば、それこそ。
「何にせよ……やれるだけはやって、足掻いてやるさ」
 力がないならば無いなりに、ここまでやってこれた理由がある。情報はまた、時として力になり得るとして、それならば。
「……ヨハン君、もしもスヴェータがこっちに帰ってきそうな動きが少しでもあったら、何がなんでも止めてくれるかい」
 基盤は既にある、まだ壊れてはいない。何人も手を出さないかと問われれば確証を持った答えは導けずとも今は、まだ。
「最悪……あの子だけでも残ればいい。全ては教えてきたつもりだよ。……外を知らずとも、知らせずとも、家を率いて、民と共にある事はできるようにしてある……なにせ、僕の娘だ」
 男はただ、滔々と言葉を紡ぎゆく。
「……僕は、あの子のためなら」
 静かに伏せた双眸。震える睫毛は柔らかに長く、あまりにも。
「…………なんにでも、なってやる」
 或いは、少女を英雄と奉る事を誰も望みはしまい。少なくとも今は、誰も。けれどももしもがあるならば、生まれという、家柄という柵が彼女に仇なすとするならば。
「……あーあ、ほんと……難しいねぇ」
 こぼす言葉はそのくせどこか、ほんの少しだけ振り切れたような、それだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.153 )
日時: 2018/05/26 22:20
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: eldbtQ7Y)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 帰路の輩は白く、強い羞恥心を持っているようだ。人の肌に触れては溶けて、消えてしまう。傍らで馬に跨るバッヒアナミルも、そんな雪の様子が物珍しいのか、手に触れたそれをまじまじと見つめていた。仕方ない話だろう、シャボーの砂漠では雪は降らない。冬季に砂礫が凍りつく事こそあれど、朝日に溶けては砂漠に吸い込まれて消えていってしまう。早々雪など見られないのだ。
「あっ……という間に溶けますねぇ」
 そうやって屈託なく、年齢不相応な幼さを見せながら彼は笑っているのだが、四半刻も前に「根雪が降る前に攻め切りたいですね」などと戦の算段とも思える発言をしては、攻略のための要点を語っていたのだ。尤もバシラアサドにはナッサルをボリーシェゴルノスクへの工作や、コールヴェン、クルツェスカの商人達を締め上げに使う気は微塵なかった。彼等の本領は野戦であり、何なら今後の戦争の主役となるだろう、野砲の扱い手である。全面的な戦争に使い出こそ在れど、所謂「汚れ仕事」には向いていないのだ。そういった小規模かつ隠密性、機敏性を求められる荒事には、ハサンの兵達のような薄暗がりを好んで生きている「適任者」が存在しているのだ。
「雪ばかり見てくれるなよ、伏兵から突然襲われては敵わん」
「見ていますとも。……だぁれも居ませんよぉ」
「慢心するな。人間は簡単に死ぬぞ、銃弾一発、一太刀浴びせられるだけでな」
「分かってますよ、よーく分かってますとも」
「本当か?」
「えぇ、敵なんて居ませんよ。今も、クルツェスカにも」
 態々、馬を隣に並べ、わざとらしくぐるりと回りを見回して見せた。伏兵などは居ないとおどけた様子だ。それもそうだろう、ユスチンは物騒な物を出すなと吐いた手前、伏兵を仕掛けるなど早々にして自分の言葉に反する行いをしてしまう事になる。これで仕留めそこなったならば、事は大事になる。あっという間に反故にされてしまう。それが分かっているのだ。尤も伏兵をし掛けた所で、ハサンの「露払い」に遭って終いなのだが。それよりもバッヒアナミルのこんな様子をユスチンの前で見せずに済んで良かったとバシラアサドは内心安堵しながら、大きく溜息を吐いた。彼のこの軽率にも見える様子は、自分まで軽く見られかねないのだ。ユスチンに向け、彼が言葉を放ったときは一瞬焦ったが、至極当然な事を言っていたため問題はなく、結果的にユスチンは下った。だがしかし、その身内はあくまで下っていないのが現状である。彼は「私は」という言葉を付け、強調していた。元より慢心するつもりは微塵もないが、それらを非力で矮小な存在だと軽視すべきではないだろう。護衛は勿論、その令嬢、何ならあの茶汲み坊主まで警戒しなければならないとバシラアサドは内心、一人ごちるのだった。
「ナミル。懸念はまだあるぞ、クルツェスカのメイ・リエリスとてそうだ。その一つだ。表向きには戦の支度などしていないが、彼等を慕う者達は未だ多い。鶴の一声で戦の支度をするだろう、あの者達は。何せ私もナヴァロの行動を締め付けるために彼等を使った、それほど影響力がある」
 その言葉を聞いた途端、バッヒアナミルは顔を顰めながら、馬上で振り向きバシラアサドを睨むかのように見つめていた。らしくない顔だと思わず、笑いそうになってしまったがそれを堪えながら視線を交わす。
「あぁ、ファハドがそこの娘と動いてましたね。……消してきましょうか?」
「お前まで身内殺しに手を出してくれるな。…………はぁ、それにその傷を負ってどうしてファハドを斃せると? お前の首が転がって終いだよ、ナミル」
 大きく欠伸をしながらバシラアサドはそう語る。らしくないその様子に違和感を覚えながら、バッヒアナミルは小首を傾げては彼女を黙って見つめていた。そういえば昔はこんな顔をしていたと記憶が蘇る。
「あぁ、いえ。フェベスをですね」
「止めておけ、まだ使い出がある」
 まだ彼の利用価値はある、彼の目的はアゥルトゥラ西部の正常化である。一貴族の専横を許さず、西部貴族達をまとめ上げ全てを西部防衛と対セノール外交に注力させようとしているのだ。その為に外患を招き、それを以ってして内憂を討つ。そして、外患を懐柔してて不可侵を結びつつ、交易を続行し時間を掛けて、民族間の交友を結ぼうという参段なのだろう。尤もバシラアサドには交友を結ぼうなどという気はない。降伏を申し出るには、降伏を受け入れる相手が必要なのと同じように、交友を結ぶにはその好意を受け取る相手が必要なのだ。残念な事にそんな相手シャボーの砂漠を隅から隅まで探し、砂漠の砂と礫を全て引っくり返したとしても居ない。故に恐らく、最後の最後には彼等と敵対する事になるだろう。そこまで事を引き伸ばすつもりは毛頭ないのだが。
「使い出、ですか」
「使い出、だ」
 バシラアサドの真意を汲み取る事は難しい。自分には政、その裏と表を見極められる目がなければ、裏を表とし、表を裏と見せ掛けるだけの知恵がない。ただただ得物と兵を輩に戦場を駆け抜け、暴力の化身、砂漠の化身として血を流し続けるだけしか出来ないのだ。だからこそ、今こうしてバシラアサドから出た己の本分を奪おうとしているような発言が引っ掛かり、バッヒアナミルは手綱を強く、強く握り締めた。それを感じ取ってか、バシラアサドは苦笑いの後、口を開いた。
「ナミル。人間というのは歳を取るにつれて、とても好きだった物が大して特別ではなくなるものだ。そうして少しずつ大事なものを忘れていく。……だが、私はまだ忘れていない、だからこそ今此処でお前を喪う訳にはいかんのだ。まだ、まだお前が得物を携え駆ける時ではない。……まだ私はお前を忘れられない」
 静かに笑みを湛えた彼女に、そう言い聞かせられてしまっては僅かに抱いた不快感が少しずつ落ち着いてく。何処か昔、幼い頃の記憶が蘇ってくるのだ。穏やかで少しばかり気が弱かったが、優しげな彼女がそこに居た。今となっては最早見る影もない、ただただ民を扇動し、闘争へ向けて直走る。だからこそ、バシラアサドに対して命を差し出さなければならないのだと、バッヒアナミルは己へと言い聞かせた。彼女を死なせては多くのセノールの悲願が潰えるのだと。
 二人は言葉を交わそうとせず、その間には寒風が吹き荒ぶ。北風の唸り声だけが辺りに響く。ふと、馬の鼻喇叭から我に帰り、バッヒアナミルは寒さに堪えきれず、身震いをしては再び馬の手綱を強く握り締めた。
「それでも、ですよ」
 五歩ばかし馬が進み、振り向き様に彼は笑みを湛える。その表情は穏やか過ぎて異質にも感じられる。辺りはまったくの白だというのに。自分の吐く息は白いというのに。此処がシャボーの砂漠のように思えるのだ。そこには確かに砂漠の化身が居た。砂塵に塗れ、砂礫の上に佇み、人を焼き殺さんばかりの陽を浴びても尚、猛り狂い、戦に望む。それを是とし、ただただ忠義を尽くすべき相手を前に喜び、笑っているサチの兵が、ナッサルの男が居た。
「そう急ぐな。……まだ、まだ早い」
 その一言に一瞬だけバッヒアナミルの表情は薄れ、俯いては肩を震わせながら笑っていた。彼にも結末が見えたのだろう、恐らくは自分が命を擲つべき時が見えてしまったのだ。バシラアサドは思う、この兵は少しでも背を押せば、死へと直走り、遂に死地に辿り着いては、喜び勇み命を擲つべく、闘争に身を投じる事だろう。
 この虎にも、獅子の名を冠す己にも次代の席はない。犯せるだけの業という業は既に犯してきた、己の触れた気に触れ、目の前の虎は箍を一つ、二つと外しかけている。なんと、業の深い事をしてしまったか、と思わずバシラアサドは目を細め、彼を視界へ入れないように俯いた。こうまで狂信的に思われる自分は恐らく幸福なのだろう。だがしかし、実の弟のように今の今まで接し、見てきたこの男を歪めてしまい、彼を不幸にしてしまうだろう自分自身を嘲り、嗤うのだ。これでは己が忌み嫌う、ハサンの男達と同じだと。嘗ての友を歪めた者達と同じだと。唇を噛み締めるのだった。
「どうしました……? 寒いですから早く帰りましょう」
「あぁ……そうだな、そうだったな」
「唇、血出てますよ、乾燥して切れましたか?」
「さて、な」
 道に敷き詰められた石畳には雪が積もっている。馬の蹄がその雪を蹴散らし、また一歩、一歩と道を進んで行く。一歩進めば、時は過ぎ去り、終わりへと近寄っていく。恐らくは己の死、輩の死に彩られた終わりだろう。三匹の獣は皆が皆、死へと向かって直走ろうとしている。獅子は民を扇動し滅びへと駆け、彪は死への分水嶺を一歩超えて歩む。そして最後の虎は扇動され、命を擲つ覚悟を決めている。そして、皆が皆、そういった道を歩もうとしているという事を確りと理解していた。獅子の笑みはもうじき、結末が見えるという事に対する喜びであり、彪は表情もなく覚悟を決めている。虎は仕え喜びながら死んでいく。そんな事を思えば「自分もまたセノールだ」と、どうしようもなく惨めで、どうしようもない胸苦しさを覚えるのだった。
 クルツェスカはまだ、まだ遠い。


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