複雑・ファジー小説

■漢字にルビが振れるようになりました!使用方法は漢字のよみがなを半角かっこで括るだけ。
 入力例)鳴(な)かぬなら 鳴(な)くまでまとう 不如帰(ホトトギス)

無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2020/08/16 20:36
名前: にっか ◆ShcghXvQB6 (ID: jtELVqQb)

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)


設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメント等は差し控えて下さい。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.104 )
日時: 2017/08/13 23:58
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU (ID: Ij88/0W6)

 屋敷の一室では、ささやかな茶会が開かれていた。参加者はスヴェトラーナとハイルヴィヒ、そしてヨハンの三人だけだ。本来ならば此処にスヴェトラーナの父、ボリーシェゴルノスクの地に座するベケトフ家当主であるユスチンも加わるのが通例であるが、彼は今しがた出かけてしまったのだから参加しようがない。眠れないのと其れらしい理由を添えて、心に巣食う不安をかき消す為に二人を茶会へ誘ったのはスヴェトラーナである。茶の用意をと名乗り出たのはハイルヴィヒで、茶菓子の用意をと笑うのはヨハンであり、私も何か、と口にするスヴェトラーナに笑いながら「お嬢様はゆっくりしててくださいよ」なんて告げたのもヨハンであった。数少ない使用人に頼むとしても、もう夜も遅い。此処はおとなしく、2人の言葉に甘える事にしたらしく部屋でおとなしく待つに留まっていた。一人になると、色々と考えてしまうというもので、少女はやや俯きがちに床を見つめて、白いスカートの上に置いた手を握りしめていた。進む秒針が止まる事はない。揺らぐ心に決着をつける日を先延ばしには出来ないだろう。父の帰還を待つばかりの娘としての気持ちと、いつか来たる継承の日を思う少女としての心は、混ざりあう事はない、相容れぬものであるが同時に成立し得るものであるのか。スヴェトラーナにはまだ分かりやしなかったし、そもそも彼女自身其処までの自覚が或るかと問われれば答え難いものである。不意に、微かな甘い香りが少女の鼻孔を擽った。スヴェトラーナが顔を上げればパンケーキを皿に乗せ、メイプルシロップとバターを共に持ち寄ったヨハンが笑顔で入室してくる。ややあって香ってくるのは茶の香りで、ティーセットを持ったハイルヴィヒがヨハンの後に続く。テーブルの上には茶会の準備がすぐに整い、優しい香りと暖かな空気に包まれる。砂糖をほんの少しだけ混ぜ込んだミルクティーに口をつけ、パンケーキをちみちみと食しつつ、他愛ない会話が茶会の席にて繰り広げられた。先程までの不安をかき消し、打ち消す様に。平素と何一つ変わらぬ風を装う茶会は、けれども確かな綻びを見せる。明日は何をしようか、と言った類の話に転びかけるたびに誰もが口をつぐめば、そうもなるというものだ。漠然とした不安感が、スヴェトラーナを襲う。父は詳しく何をしに行くとは教えてくれなかったけれど、大凡察しは付いている。ハイルヴィヒとヨハンは雇い主たる当主より事のあらましは聞いているし、此度の外出の意味も知っている。其れを令嬢たる少女へ教える事をしなかったのは、特別口止めされていたというわけでもなく、彼女に必要以上の不安を与えないための一種、無意識の措置であったと言えよう。其れがさて、効果を持ったものであるかは、別の問題だが。何も知らぬ事こそが最善であると、スヴェトラーナは今まで思っていた、否、思い込んでいたというよりも、そう思おうと努めていただけなのかもしれない。けれど其の現状に甘んじ、自ら歩まずにいると選択したのは彼女自身である。幾度目かの沈黙の折、少女はアイス・ブルーの瞳を伏せ、床へと視線を落とした。平素柔らかな笑みを形取る唇は、考え込むように真一文字に結ばれていた。
「あくまでも僕の推測ですけどね」
 沈黙を破る様に、ヨハンが口を開く。二杯目の紅茶に入れたミルクと少量の砂糖をかき混ぜたティースプーンを手に持ったまま顔の横でくるくるまわし、ふざけた調子を演出しながらも深い森の泉の色をした瞳に、ほんの少しだけ真剣な色を宿して。
「これから此の国、っていうか……まあ、こっちの方、面倒なことになるかもしれません。正直、この前からなーんか微妙な空気ですし? ……かといって、過剰に反応するにはまだ早いでしょうね。まあなんていうか、少なくとも此の家だけでも守るって言うなら、今回のユスチン殿の介入程度で終わらせておくべきかと。なにせほら、敵は一つじゃないわけですし」
 そういい終えたヨハンは今しがた淹れたばかりの二杯目の紅茶を一気に煽る。行儀が悪いとはヨハン自身とて理解しているが、どうにも喉が渇いて仕方がない。やや険しい視線のハイルヴィヒをよそ目に、カチャリと音を立ててカップをソーサーへ置いたヨハンは只笑うのみである。軽薄な発言はいつものことだが、スヴェトラーナの前で堂々とこうも軽い言葉を吐くのは滅多にない事であった。
「……何を敵とすべきかしら」
「…………お嬢様?」
ヨハンの言葉を聞いたスヴェトラーナはぽつり、と零す。ハイルヴィヒは黙したまま紅茶を口へと運び、ヨハンはやや素っ頓狂な声をあげる。ひとり、またひとりと沈黙を破れば綻びは大きくなり、穴は広がっていく。けれど、此れが間違いではないとスヴェトラーナは信じるしかなかった。否、間違いであったのだとしても、言葉にしなくてはいけないとつい先程思ったばかりなのだ、ならば、どうか。願いながら少女は言葉を紡ぐ。永遠ではなく、終焉を思って。
「最終的な民の安寧と平穏、そして其れを保ち続ける責務を果たす為には私たちは勝者へと与するべきなのでしょう。でも……もしも、もしもね、此処から大きな争いになるとして、勝者の目的が此の国の乃至は此の近辺の統治ではないとしたら? 考え難い事ですがある種の混乱を齎す事こそが目的だとしたら、其の勝者に与した私達がどうなるかなんて、想像に易いわ。……中立を保ち続ける事が叶うならば、其れに越したことはないけれど、そうした場合私達の存在など不要のものと民に判断されかねません。いえ……民が、其れを望むならば私たちは其れを受け入れるべきなのでしょう、けれど」
 少女の言葉ばかりが静かに落ちていく。二人の傭兵はただ黙して、少女の言葉を待っていた。聞くことが叶うならば、聞いていたい。当主へ仕える身ではあるが、当主はいつか変わるやもしれぬ。目の間への少女へと。ならば叶う限り彼女に添いたいと双方思ってしまうのはさて、それだけ深く関わりすぎた故であるのか。生来少女が持つ何か、のせいであるのやら。
「栄枯盛衰は人の世の理、栄え続けるものなど、ありはしないのではないでしょうか。其れこそ人の始まりから存在して、其れが理となっているものでもない限り。……お父様にもそれとなく教えられてきましたが事実、私もそう思わずには居られません。歴史を学べばこそ、いっそうに」
 でも、と少女は続けるが、その先を言うよりも前に紅茶へと口をつける。まるで心を落ち着かせるかの様に。ほのかな甘味は一時の激情を押し流し、少女の胸に柔らかな思いを取り戻させてくれる。溢れる気持ちに蓋はもう、出来そうにもない。
「でも、でもね……叶うならば争いなど無く、平穏で……暖かな心地で過ごす事が出来る未来が、ほしいわ。……誰も彼もが心に平穏を宿して、幸せに暮らす、そんな世界で、あってほしいの。……私も、此の心に詰まった憤りを如何に消化するべきか……悩ましく思いは、しているのです。でもね、きっと、そう、激情のみを拠り所として動くことは、よくない……と、そう思っているから」
 ひどく子供のような夢であると、スヴェトラーナの言葉に対して思ったのは何もハイルヴィヒだけではなく、ヨハンも同じであった。訪れるやもしれぬ滅びを肯定しながらも、平穏を望む少女の心の内を、完全に理解することが叶う者などいやしない。それでも、それでもだ。少なくとも彼女の言葉を聞き届けた2人はそれを忘れる事は無いだろう。たとえ、柔らかな夢想であるとしても。
「私が為すべき事を、為せる事を、とずぅっとね、考えていたんです。……私はいつか、此の家を、ベケトフ家を継ぐ事となりましょう。次代を担い、ボリーシェゴルノスクの民の安寧と平穏、幸福を守る事こそが使命となる。でもそれはきっと、今も変わらないのではないかと、思ったんです。それならば……私、此の家を守りたいのです。横暴、なのかもしれません、驕りであるのかもしれません。でもね、今の私が考えられる限りでは、此の家を存続させる事こそが、民の安寧、幸福につながると思うのです。だから……だから、その」
 それきり少女は口籠る。良い言葉が見つからない、と少しばかりの困惑を其の瞳に湛えていた。歩みださねばと思うくせに、少女の心は何処かに恐怖を残したままだ。安寧の夢に揺蕩う事が許されぬ立場でありながら、それを続けたのは他でもない少女自身。嫌われるのが恐ろしいなど、嗚呼、きっと。
「では、お嬢様は……其の意志をお父上に告げるのが最善ではないでしょうか。我々に告げる事もまた、思考の整理としては得策やもしれませんが……真に伝えるべきは、ユスチン殿へ向けて、でしょう」
 何かへの言及を躊躇う様な表情を浮かべていたスヴェトラーナに、ハイルヴィヒは粛々と告げる。分かっている! そう叫べるものならばスヴェトラーナはそうしていたかも知れないが、幸いにも少女の胸にはギリギリの自制心が宿っていた。というよりも、そうしないように今まで努めていた事のある意味での弊害、恩恵、どちらとも取れるものがあるだけだ。少女は俯いて、暫し黙りこくる。柔い笑みがその表情に舞い戻ることは未だ無く。パンケーキの微かな甘い残香、わずかに香る紅茶の香り、時計の針の音と三人の僅かな息遣いだけが部屋にはあった。
「……ハイルヴィヒ、遅くとも夕方には間に合うように、ランバートお兄さまのお宅へ、お父様を迎えに行ってください。叶う限り、急いで」
 不意に少女は顔を上げ、静かに告げる。名を呼ばれた黒髪の傭兵は静かに頷き、紅茶を一口。考える限り、早いほうが良いならば早朝には家を出るべきか。そんな事を考えるハイルヴィヒから、鈍い金の髪の毛先をいじるもう一人の方へと少女は視線を向ける。
「ヨハンさんは、この家の周囲をそれとなく覗っていてください。何事もないとは思いますが、ハイルヴィヒが居ない以上、何らかの事態に気付くのは早いほうがいいでしょうから。……ヨハンさんなら、細かい事にもすぐ、気付いてくださるし、何よりそういう事、上手ですもの」
 少女の言葉にヨハンは目をパチクリとさせた後「任せといてくださいよ」とへらりと笑う。平素と何一つ変わらぬ笑みであった。拙い思考に相違ない。当主たるひとが此の家に早くに居たほうが良いというのは結局スヴェトラーナの私情に過ぎないし、傭兵達が語ってくれた現状からぼんやり巡らせた考えは杞憂であるやもしれないし、見当違いなのかもしれない。そうだとしても、今できる事はただ指を咥えて待つ事ではなく、考えて、進むことだと判断した。少女の意思が、そうさせた。
「言うまでもない事でしょうし、杞憂である事を願うばかりですが……。事はあまり、荒立てませぬ様、何卒よろしくお願い致します。その……誰かが傷つくのは、悲しいことですから」
 この期に及んで少女はそんな言葉を紡ぐ。2人は勿論、すべての人が傷つく事を恐れる言葉は静かに、消え入りそうな声であった。“どんな人でも、話し合えばきっと分かり合えるわ”そう何処か寂しげに笑う少女の姿を、ハイルヴィヒはぼんやりと思い出しながら、パンケーキを口へと運んだ。夜は更け、時は進む。取り残されぬ様にと進む歩みは、今までの停滞を取り戻すほどに早足でなくてはなるまい。妖精の羽音は聞こえる事はなく、只其処に在るのは僅かな緊張感。暫し時が経てば再び穏やかな談笑が聞こえるばかりである。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.105 )
日時: 2017/08/14 00:01
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU (ID: Ij88/0W6)

「では、ハイルヴィヒ。……お父様を宜しくお願いします。それから……ガウェスお兄様とランバートお兄様にもどうぞよろしくね」
「ええ、お嬢様、どうぞおまかせください。ユスチン殿と合流の後、早急に此方へ戻ります故、ご安心を」
 翌朝、諸準備を終えたハイルヴィヒがスヴェトラーナとヨハンに見送られ、邸宅を出た。出掛けに令嬢よりかけられた言葉への返答の中で、ハイドナーの2人への言及を、ハイルヴィヒはそれとなく避ける。何度言うべきか、上手な言葉が浮かばなかったというだけだ。宜しく、と言われてどうしたら良いやら、些か悩むのがハイルヴィヒ・シュルツという娘であった。スヴェトラーナの横に立つヨハンはといえばハイルヴィヒと視線を交えて、静かに頷くばかりである。大凡、互いの考えたことは伝わっているだろうから、言葉は不要とでも言うべきか。
「それから、その……ハイルヴィヒ、ごめんなさい、もう一つだけお願いが」
 いざ行かんとするハイルヴィヒへとそう告げて、スヴェトラーナがハイルヴィヒに手渡したのは一通の手紙である。シンプルな白い封筒には柔らかな文字で差出人が少女である事を示し、宛先が兄と慕う人出あることを示していた。施された封蝋には、少女が好む月の意匠が見て取れる。
「ガウェスお兄様に直接、乃至はハイドナーの家の……そうね、信頼できそうな方にお会いしたらお兄様に渡していただくようにお願いしてください」
 瞬間、ヨハンの表情が曇った事にハイルヴィヒは気が付いたが“今は抑えろ”と言いたげな視線をハイルヴィヒが送ってやれば、ヨハンは渋々、と言った風に笑って、肩を竦めていた。スヴェトラーナより受け取った手紙は、丁重にしまわれた。
「畏まりました、お嬢様。……ですが何を……いえ、きちんとお渡し致します」
 紡がれかけた問いは、結局答えを生み出さない。たとえハイルヴィヒが問うて居たところで、スヴェトラーナは「大した内容ではないのです」と誤魔化すばかりであっただろう。封筒には三枚の便箋、一枚は未記入のもの、一枚はささやかな励ましの手紙。そうして、最後の一枚にはささやかな“内緒話”を。公的な効力はきっとない、他愛ない令嬢の戯言。けれどどうか平穏をと望む、少女の淡い願い事——。

 ユスチン・ヴェニアミノヴィチ・ベケトフは会合の後もけろりとして、平素通りに振る舞っていた。かと言って2人を突き回す事はしなかったのだが。帰りがけも弾むような調子であったが、其の瞳の奥で何やら考え込んでいたことばかりは、確かな事実である。
「こんな事言うのも、まあ、当主としてはよくないのかもしれないけれどね」
 帰宅の途につき、邸宅へと入った後にユスチンは泉の色をした瞳をゆるりと細め、唐突に言葉を紡いだ。手を後ろで組んだまま、童子の様に無邪気な風に半回転し後ろに居た二人の青年を真っ直ぐに見やる。少しばかり考え込む様な間を置くのは、あくまでもベケトフの当主としての建前の様なものなのだろう。ゆるゆると口元が弧を描き、瞳も三日月の様に細められる。シルバーグレイの柔らかな髪をふわりと揺らして小首を傾げれば男は言葉を紡いだ。
「此の国の始まりから、人の営みの始まりから、ハイドナーがあったわけでもないんだ。君たちが世の道理ってわけでもなかったんだし……今までだって、栄枯盛衰は世の習い、繁栄があれば衰退があるってものだよ。如何に栄えていた国だって、滅びていった歴史がある。遅い早いの違いはあっても栄えた以上衰退は避けられないものなんだしさ。君たちが滅びずにずーっと栄え続けるっていう道理もないんじゃないかなぁ」
 まあ、其れは僕らだっておんなじだけどね、と笑う姿は実に無邪気なものである。……そう装っているだけとも取れるといえば、取れるのだが。此の男は真相を表に出しやしない。二人が何か言うより早く、ユスチンはまた前を向いてしまった。やや不満げに、何かを言いたそうな表情のガウェスをよそに、ユスチンはただ幼子のように跳ねて進むばかりである。殊、特権階級を盾に驕り、権力に溺れ、特権ばかりを振りかざしてきたならば、とは流石に男も続けはしなかったが、腹の中に抱えている思い等は、そんなものである。哀れみがないわけではないし、同情しないわけでもない。ユスチン・ヴェニアミノヴィチ・ベケトフは確かに彼らひいては今は亡き元当主に友情を感じていた。けれども同時に、家としての価値を測るならば、さて、みなまで言うな。——あくまでもユスチン個人の思考では、あるのだが。
「そーれーでー、僕、スヴェータとの約束も在るから、早く帰らないといけないんだよね。でも……そうだなぁ、うん、もしも君たちだけじゃどうしたって答えが出ないっていうなら」
 其処まで言えばユスチンは言葉を区切り、再びくるり、と半回転。2人の青年を柔らかな水の色は見つめ、ぱちり、揺らめいていた。
「僕、残るよ、ランバート君のお家に。明日の朝にさっさとで帰る形でも、僕はいいわけだし」
 実質、減りに減った彼らの戦力を分散させまいとするのがユスチンの思う所だ。それを直接的に口に出さなかったのはある種ユスチンという男のやり方であり、何でもない風を装う事によって無駄な緊張感を持たせぬための申し訳程度の心遣いであった。
「そいつは困るなぁ、ユスチン殿。早急にお帰りいただかんと」
 ユスチンの言葉に否を返すのはランバートであった。初老の男の瞳は一瞬円を描く。正直、突っぱねるならば彼ではなくガウェスの方であると思っていたのだ。ふぅん、と呼気をもらした男の双眸が細まる。右目に嵌め込まれた片眼鏡の奥にある瞳には僅かに、揺らぎが生まれた。どうして、と問う前に、ランバートは言葉を続ける。
「なにせお宅のお嬢様に“お父様を宜しく”って言われてるんだ。安心安全にさっさとご帰宅いただく他の選択肢があるわけないんでね」
 軽薄な笑みと共に青年は語る。其の言葉を聞けばなるほど、大凡理解はしているらしいとユスチンも納得はするのだが其の納得を受け入れられるかと言えば別の話だ。帰宅の途に就くとしてもハイルヴィヒを連れてこなかった以上此の家から誰かしら、というよりもどちらかが護衛役として己につく事となろう。状況を考えればランバートが来るのが妥当だが、それは極力避けたい、そもそも二人を引き離すという事自体、ユスチンにとって避けたい事態に相違ない。なにせ2人は——少なくともガウェス・ハイドナーは——娘の知己でありそれなりに親しい人である。一人でも欠ける事を、娘が望まないのは明白であろう。
「んーわかった、それじゃあ僕一人で帰るよ。ふふん、もう僕もいい大人だからね! 一人で帰るくらい問題ないさ」
 相も変わらずの態とらしい口調で、男は笑った。ついでに態とらしく胸を張る事も忘れない。そんなふざけた態度をよそ目に、今度男の言葉に難色を示したのはガウェスの方である。恩人を一人で帰らせる訳にはいかないとはなるほど、律儀な彼らしい主張である。でも、と反論しかけたユスチンが最終的に彼らの言葉にうなずかざるを得なくなったのはランバートもまたそういうわけにもいかないから、と口にしたからに他ならない。2人に言われてしまうともなれば、いくらユスチンでも我儘を装ってこの主張を押し通す事も叶わない。途中まででいいよ、なんて軽く笑いつつ帰宅の準備を早急に済ませればユスチンはまた、年齢に見合わぬ子供の様に伸びを一つして「疲れたぁ」だなんて零すばかりであった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.106 )
日時: 2017/09/10 21:17
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU (ID: Ij88/0W6)

 帰りがけのユスチンは、至極寡黙なものであった。行きがけのあの騒がしさは何処へやら、何か考え込むふうに窓外をみやって唇を真一文字に結んだままだ。同行するランバートとしては有り難い反面、行きがけのあの怒涛の、一方的ともとれる会話を思い出せば薄気味悪いものすら感じる。かといって、ユスチンが何か悪巧みをしているとも思えないのは、其の横顔に僅かな寂寞を見たからである。
「……ねえ、ランバート君」
「なんです? ユスチン殿」
 暫しの無言の間を破る声は何処か重苦しい。らしくもないな、とランバートは思うが其れを言葉にする事はなかった。白々しく、なんでもない風に反応するランバートを、ユスチンの瞳が捉える事は無かった。相も変わらず青い色には外の景色が流れていく。
「…………ごめんね」
 空白を置いた男の背が、何処か小さなものに見えてしまったのはランバートの気の所為だろうか。其の姿を其の瞳に映す事はなく、けれども確かに、ランバートへと聞こえるようにユスチンはそう言ったのだ。晴れ渡る空の様な、無邪気な明るさは、其処に存在しない、しえない。ユスチンは明確に何が、とは言わなかった。けれどもその言葉の示す所は明確であった。もしも誰かがユスチンの瞳を見る事が叶ったならば、其処にある懴悔の念に気がついただろう。どこか歪なものすら感じさせる空気の中、けれどもランバートが何かを言うより早くユスチンは声を上げた。其れこそ今までの生真面目な雰囲気が一転、平素の歳不相応な子供らしさすら憶えさせる声であった。
「あ……ごめん! ちょっと、ちょっと止まって!」
 身を乗り出すようにしながら御者にそう告げる男の瞳には淡い驚愕が宿る。馬車が止まるとほぼ同時に扉を開け放ち道へと降りる男に声をかける間もなく、ランバートは只後に続くのみであった。同時に、今しがたすれ違った馬車も止まる。何事かと警戒するよりも早く、その馬車から降り立つ娘は一つに結った長い黒髪をふわりと踊らせて、鋭い色の青い瞳で二人を見ていた。
 ——ハイルヴィヒの説明は簡素で至極手早いものであった。ユスチンの帰宅の護衛の引き継ぎ、並びにランバートへ早急に帰宅する様にと促す言葉をさっさと告げて、ユスチンを己が乗ってきた馬車へと乗るように促した。戸惑い気味のユスチンもスヴェトラーナの名前を出されれば何やら納得したように頷き、促される侭に馬車へと乗り込んだ。ハイルヴィヒはその後に続く前、ランバートの方を改めて向き直せば氷の様な瞳で彼を見やる。実質、睨みつけられている様なものだろう、ランバートにとってすれば。
「それから……バート、貴様に此れを……当主……ガウェスに渡してくれ。お嬢様からだ」
 彼の内心等知る由もないハイルヴィヒは至極淡々と言葉を紡ぎ、ランバートへと一通の手紙を押し付ける。真白い封筒に、ダークレッドのシーリング。綴られる文字は柔らかな風合いで至極少女らしいそれである。ほのかに纏う花の香は白百合にも似た香りであった。
「へぇ……何の御用で? あ、恋文か?」
「…………知らん、責任持って預かった手紙を、貴様は盗み見るのか?」
 訝しげな色を孕む蒼穹の瞳はランバートを貫いた。少女らしからぬ鋭い光にランバートは肩を竦める。慣れた手付きで手早く、丁寧に手紙をしまえば確かに、と青年は頷く。
「確かに渡せよ。本来は私が直接渡すべきなのだろうが……私は早急にユスチン殿をお連れしなくてはならない。貴様は信頼できんが……信用は出来る。頼んだぞ」
 その言葉におや、と目を丸くしたのは他でもない、ランバートだ。信用やら信頼の類を、彼女が他人に寄せるとは些か予想外であった。例の金髪の小憎たらしいあの男ならば或いは、と思わなくもないのだが……。少なくとも彼自身に信用を向けられる事は予想外であった。そもそも、彼女が言葉にして伝えてくる事自体が、些か予想の範疇外である。あれを不要な馴れ合いと彼女がしていないだけか、存外にいまだ人らしさが残る犬であるのかはさておくとして、伝えるべきを伝えるだけ口にした少女はそのまま踵を返し、当主の後を追って足早に去ってしまった。

 帰宅したユスチンとハイルヴィヒを迎えるのは娘と一人の傭兵、其れからスヴェトラーナの世話役として付けている女中が二人、執事長と近くに居たらしい使用人数人だ。ただいまと気楽に告げるユスチンに歩み寄るのは淡い金糸の髪を持つ娘であった。
「お父様……その、おかえりなさいませ。……お待ち、しておりました」
「うん、ただいまぁ、スヴェータ。……何事も、なかったかい?」
 父のその言葉に、娘の瞳のアイス・ブルーは一瞬陰る。其れを見逃さぬユスチンではなかったが、娘がすぐに浮かべた花笑みを見てか、別の理由か、それ以上何かを追求する事はなかった。——或いは、血の繋がりとは不可思議なものである故の直感じみたものが、すでにこの時父たる男の中にあったのやも知れぬ。そっとその頭を数度撫でて「何もなかったならいいんだ」と柔い笑みを添えて告げた。本格的に何かあったならば、恐らくヨハンからの報告が上がるだろう。
「……お父様、その……お茶でも、如何ですか?」
「んー……そうだね、少し溜まった仕事がおわったら……すぐにお邪魔するよ。先にお部屋でゆっくりしていなさい」
 最後に娘の頭をひとなでしてから、ユスチンは自室へと歩を進めた。その後にヨハンが続き、何やら言葉をかわしているが聞き耳を立てる様な会話でもなし、ハイルヴィヒの方へと向き直ったスヴェトラーナは女中の一人に茶の用意を申し付けて、ハイルヴィヒへ労りの言葉をかけつつ、白い部屋へと歩みゆく。
「……何かは、為せるかしら」
 ゆらゆらと揺れる琥珀色の湖面を見やりながら、スヴェトラーナはぽつりと零した。何処か悩ましげに伏せられるアイス・ブルーの瞳はその基底にある星をゆらりと瞬かせている。再び沈黙が空間を支配しテーブルの上、カップの中にある琥珀色もまた、凪いだままであった。星はまだ、瞬かない。溢れ出す感情を噛み締めて、感じ得ぬ痛みを思う少女の嘆息は、重苦しく真白の部屋に落ちていく。共にあったハイルヴィヒも、ユスチンへ報告資料を渡し、口頭での簡単な報告も終えてからやってきたヨハンも、言葉を発する事はない。ただ静かにハイルヴィヒの蒼い瞳の深い部分がゆらり、揺れるのみであった。

 書斎にて、些か慌ただしく書類に目を通すのは此の家の当主たる男である。娘に似ながらもやや鮮やかさを増した氷色の瞳の奥には文字の海が広がっている。書類仕事はどうにも性に合わないな、と思ってからはすっかり久しいが、かと言って投げ出す程の無責任さをこの男は持ち合わせていなかった。……平素、プライベートな空間に於いて、些かの無責任感を匂わせる行動が見えてしまう事もある事は決して否定しない。殊、親しい人の前ではどうにも他人の心の機微に疎い箇所すらあるだろうが、幸いにも今は職務の最中ともなれば、至って真面目な当主としての顔でいられるというもの。1通りのサインや修正を終えた後、最後に目を通すのは先程、新聞に乗るよりも早くに情報を持ち寄ったヨハンからの報告内容を纏めたメモ書きである。先刻、報告を受けた折にも感じた脱力感を今一度憶えながら、当主ユスチンは短くも重苦しい溜息をひとつ。いい加減この家、ひいては自領でも警戒を強めるべきだろうか。かと言って突然の行動は混乱ばかりを生むであろう、とも思えば軽率な行動だけは控えたい。過度に反応してしまえば何らかの軋轢を生みかねないだろう。過剰反応は不要、かといって安心しきるわけにもいかない。流石に無反応、というのも能天気がすぎるというものだ。
「……ナヴァロ君の所に色々お願いしないといけないかなぁ」
 ポツリとそう零せば、やや癖のある白髪交じり故にグレーがかった髪をぐしゃりとかき上げる。過剰な反応は避けるべきだ、そもそもベケトフが何をしたかと問われれば何もしていない。いつも通りではないか。中立を程よく保ち、必要ならば多少の出資こそすれど、大々的に此の家が動いた事はかつてアゥルトゥラへ祖先が逃げ込んだ切っ掛けになった出来事、それからカンクェノの建造に携わって以来或りはしなかった。少なくとも書物、ひいては文字に残されている限りは、であるが。記録こそが正しいと、ユスチンは思わない。例えば其処に記しきれない多くの事象が存在しているだろうから。けれど少なくとも、伝え聞く限りでも、文字を読み解く限りでも、ベケトフの家は比較的日和見主義を貫いていると言って構わないのだろう。時に面倒に巻き込まれる事こそあったようだが、此の家は今の今まで続いているし、少なくとも己の代で潰えさせるつもりは、現当主には今のところない。——ただ、己の代で終演を迎える事を否定もしない。
「永劫続く栄光は、ありはしない……よねぇ」
 男は己の娘に、己の跡を継がせる気でいるが、その実、迷いが或る。此の家が存続する事こそ、民の安寧なればと思えど、男は其れが傲慢であると理解していた。そして男は確かに娘を愛しているが、その愛が枷となり得ると薄々気がついている、わかった上で見て見ぬふりをしているのは他ならぬ彼の選択だ。彼女を次期当主とするために最低限の教育はしている。学ぶべきを学ばせ、令嬢として相応しくあるようにと躾けてきた。——時折、其れが偏に己の傲慢に過ぎず、只理想を追い求めているだけなのではないか、と妻の幻霊に囁かれる様な感覚を覚えながらも、だ。娘に圧倒的に足りないものは見聞であり、外から遠ざけた己の矛盾に、男は乾いた笑いを浮かべるだけである。すでに妻は亡く、兄はそれよりも前に没した。外を恐ろしいと、男は思わない。けれどもこれ以上愛しいものを失う事をこそ、男は恐れている。害するものが何一つ或りやしない楽園が存在するならば、それは。——ため息はひとつのピリオドだ。足を軽く振り上げ、子供の様に立ち上がろうとすればガツン! と音がして男の脚と机とがぶつかった。「痛い!」と反射的に上がる声は至極、子供じみたものである。

 父が娘の部屋を訪れるのは、思えば久々のことであるように思う。屋敷の奥まった其処を、彼女の部屋として与えたのは妻を亡くした後だった。白い扉と、白い調度品を揃えたその部屋の窓枠もまた白く、其処から見える庭の景色が好きなの、と笑ったのはさて、娘であったか、妻であったか。シルバー・グレーの髪をかきあげて、ため息をひとつ。瞳を伏せたのは一瞬で、白い扉をノックする頃にはすっかりいつも通り、穏やかな父の顔をしていた。スヴェトラーナは父を快く迎え入れ、用意していた椅子へと彼の手を引き連れていく。当主たる人の姿を見て、ハイルヴィヒとヨハンは頭を下げる。ユスチンはどうにも、自分が和やかな茶会の空気を固くしてしまったような気がして、些か気まずさを憶えていたらしい。「固くならなくっていいのにー」と告げる声は変わらぬ子供らしさを孕んでいた。
「ねえ、スヴェータ」
 父子水入らず、とは言わずとも気心の知れた者同士の集う茶会は和やかに進んでいた。ユスチンは突如として、真面目な表情で娘の名を呼ぶ。何か、と言いたげな娘のアイス・ブルーの瞳には、淡く不安の色が揺れている。
「……君も、此処最近の市井の事情は、知っているよね。……だから、と、あまり言いたくはないけれど……暫くは家にいなさい。……いいね」
 大凡、予想通りの言葉が父の口から紡がれた。平素の娘であったならばこの言葉に思う所があれども黙って頷き、ただ父の言う通りにしていた事だろう。けれど最早、小鳥は鍵を求める少女になっていた。何かを掴み人となりたがり、夢の果てを求めたがる。揺れる心に、ピリオドを。
「…………ごめんなさい、お父様。其のお約束は、守れません」
 少女の瞳に宿るのは娘の柔らかな花の色では無い。テーブルの下できゅ、と両の手を握りしめ、怯えながらも進む事を選んだ、一人の少女の瞳にはカサブランカの香が混ざる。父の瞳は驚きに大きく見開かれた。彼女が己の言に素直に頷かなかった事なんて、あったろうか。
「……スヴェータ……僕は、」
 君が心配だから、君を守りたいだけだ、喪いたくないから、もうなにも——何と続けるのが最善なのか、もうユスチンには分からなかった。彼女が望むのならば、その背を押して笑顔で見送るのが父たる己のとるべき姿なのかも知れない。けれどそれを上回るのは、彼女も喪う恐怖である。
「お父様……あのね、お父様……私……私、この邸で今まで通り幸せに浸って、優しい夢だけを見て過ごすのはもう……嫌、なのです」
「スヴェータ……スヴェトラーナ、それは……」
「お父様は、何時まで……過去に生きておられるのですか?」
「っ、違……違う! 違うよ——」
 ディーナ、と男が妻の名を口にしたのは無意識下で、娘とその人を重ねていたからなのだろう。ガチャン! と音を立ててカップをソーサーの上へ置いたのも、鼓膜を震わせる自らの声に驚愕するのも、娘ではなく父であった。違う、と言葉を反芻する声はまるで凍えた様な其れ。娘は瞳に哀れみを宿すでもなく、悲哀で満たすでもなく。一瞬細めた薄氷色に変わらぬ柔らかな色を湛えて、父を見る。
「私が……私が生きるのは……今なのですよ。私だけではなく、あなたも……きっと」
 ユスチンに娘の瞳を見る余裕は無かった。ヨハンは表情こそ平素と変わらぬものであるが口を固く結んでいるし、ハイルヴィヒも何かを語る事は無い。泉の色と空の色は1組の父娘の行方を静かに、見守るのみである。
「私……知りたいの、世界を。……私の抱く感情を。すべてを知る事が叶うなどとは、思っていません。でも……でもね、私……気づいて、しまったのです」
 娘は、震える薄氷の色を只真っ直ぐ父へと向けた。貫かぬ様に、けれども逃さぬ様に。淡く冷えた色をした瞳の奥に、暖かな色を僅かに織り交ぜて。震える唇で言葉を紡ぐ。優しい夢を壊すように、硝子箱に罅を入れ、壊していく。
「——お父様、貴方の愛は……牢獄だわ」
 娘は、真っ直ぐに父へと向けていた視線を逸してしまいたかっただろう。訪れた静寂は、娘の耳にただ重苦しく響き続ける。音など皆無、其れでもただ、何かが鼓膜を震わせる感覚ばかりが残り続けていた。ぎゅ、と握りしめる両手のひらはすっかり汗ばんで、吐息すら震える。
「此処に居れば、恐ろしいものなど何も知らずに、穏やかに、作り上げられた幸せだけを見続けて居られたでしょう。……いつか、終わりが来るとしても。其の瞬間までは、きっと。でも、お父様。私は……私、は……もうとっくに、外を知ってしまったから。焦がれる気持ちを知ってしまったから。だから……お父様。私は貴方の持つ鍵が欲しいのです。…………此処を出て、私が、私の足で立つために。歩むために」
 娘は懇願し、新たなる色を望む。訪れる暗闇を恐れず、泉に空ばかりを映さず他のものを写すために。マ・メール・ロワに語られる夢ばかりが現実ではないと知ったから。色とりどりの花々が語りかける夢はこれで、幕引き。咲き沿う薔薇を散らすのが此度の答えであるとしても。
「……いつまでも、子供のままじゃいられない。いや……居てくれないんだね」
 ぽつりと溢される父の言葉に、伸ばされたその腕に、娘は睫毛を震わせる。噛み締めかけた唇を、けれども噛まずに済んだのは父の手が、そっと娘の頭を撫でたから。娘は驚きに目を丸くして、顔を上げる。柔らかな、慈愛に満ちた父の表情、瞳の奥には一抹の寂寞感こそあれど、決して其ればかりではない様であった。例えば、夜空に浮かぶ優しい満月の様な其れ。朧に霞まぬ色をした暖かな其れである。頭を離れた父の手は、一度離れ、歩み寄る父の手は娘の背中へそっと回される。柔く、けれども力強く娘の体躯は抱きしめられ、あふるる雫が頬を伝った。
「……ごめんなさい、お父様」
 娘の懺悔は、誰が為に。父は再び娘の金糸の髪を優しく撫でる。気にしないでと笑いかけながら、大丈夫だと告げるように。そして父は思う。つくづく娘は素直が過ぎると。己の留守に共に行く事を拒否して護衛と家に残るとだけ告げて、勝手に出ていってしまえば良いものを。結局出てしまえば同じ事、ただ罪悪感のある無しか、或いは。護衛の片割れが許してくれない可能性を考慮し、すべて計算の上であるとは思えない。娘の流す涙は朝露の如き清らかさで、はらはらとこぼれ落ちているのだ。其れを疑うなど、父に出来るわけがなかった、其れだけである。
「スヴェータ、いいんだ。いいんだよ……君はきっと、いつか外へ出なくてはいけないのだから。それなら……うん、早いほうが、いいだろう? それに、ほら、永続的な何かは、僕らがどうしようもなく“人間”である限り、あり得るものじゃ、ないんだ。わかってる、わかっていたさ。……だけどねスヴェータ、一つだけ忘れないで。僕にとってはもう、君が全てなんだ。だからどうか……帰ってくると、約束してほしい。……僕の言葉はもう、その……信用ならないかもしれない、けど、でも……本当に、君が……スヴェータが、大切だから」
 父の言葉に娘はただ首肯する。あふるる言葉は、とても声になりやしなかった。ただ頷いて、了承の意を示すので手一杯であった。永久の別れにあらず、けれども不測の事態とは常にあり得る可能性の一つだ。如何にささやかな可能性であれど、それは直ぐ隣に居るのかもしれない、その可能性は捨てきれない。其の事態を、一度ならず二度経験した男はただ怯えるばかりであった。そしてまた少女も、それは同じくする所であったのやも知れぬ。己が誰かと重ねられる事には慣れていた、期待を裏切る事程恐ろしいものも、見捨てられる程に忌避すべきものもなかった。ただそれも今日で終いにしよう。父を大切に思う気持ちは確かに娘のものである。嫌われたくないと、見捨てられたくないと願うのもまた然り。言葉を紡ぐ事が恐ろしいのもきっと今日でおしまい。明日目覚めた時には、己の身体はまるで己のものではないように感じられるのではないか、そんな漠然とした期待と不安を織り交ぜて、けれども少女は瞳に星の輝きを宿していた。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.107 )
日時: 2017/09/10 21:20
名前: ポテト侍 ◆jrlc6Uq2fQ (ID: UcGUlfNK)
参照: http://twitter.com/imo00001

 美しい西日であった。オレンジ色の斜陽は放射状に伸びており、さながら薄い垂れ幕を敷いているかの如く。見る者に溜息をつかせることだろう。自然のカーテンに巻かれながら、ランバートもガウェスも小難しい顔をして、出発の時間までの僅かな時間ではあるが言葉を交わす。彼方より此方を見つめる太陽は昼間の突き刺すような日差しは成りを潜めたとしてもジリジリとした暑さは未だ健在である。ガウェスの頬を汗が流れる。それがこの蒸し暑さによるものなのかランバートに手痛いことを言われた故のことなのか、馬車の小窓から覗いていただけのユスチンには分からなかった。

 ランバートが屋敷を空けると、ついにガウェスは一人となった。いや、一人というには少々語弊があるかもしれない。何せ、身の回りを世話をする使用人が数人は残っているのだから。もっとも殆どの使用人には暇を出して屋敷から出て行かせた。これ以上余計な犠牲を増やさないための苦肉の策である。屋敷の中を我が物顔で歩いていた傭兵達に至ってはよもや解雇の命が出るとは思ってもみなかっただろう。しかし、ジャッバールとの制約通り、ランバートは屋敷に帰ってくる否や彼らを集めると躊躇いなく解雇の命を出した。多くの傭兵が困惑と悲哀に暮れたのは言うまでもない。そこには彼の末弟の姿もあり、ひどく狼狽えていた。しかし、事情を説明されると、人に好かれるであろう優し気な垂れ目をキッと吊上げて「ここに残る」と最後まで粘っていた。彼は傭兵ではなく、ハイドナーとして、キールとしてここを守りたいと申し出たのだ。ガウェスは彼の心意気に感服の息を洩らしそうになったがランバートの瞳はひどく冷たいものであった。大凡、家族に向ける代物ではない犬畜生に向けられるような軽侮の視線である。それを浴びせられてもなお、若き傭兵はしっかりとランバートから目を逸らさない辺り、彼の意志の強さが伺える。だが、確固たる意志を持つ青年をせせら笑いながら「俺達を物言わぬ肉塊にしたいなら残ればいい」と黒い男は脅しをかけた。それが実弟にかける言葉かと、言葉で咎める代わりに足を踏んだ。だが、全く効いていない。訂正もしなければ、痛がる素振りも見せない。ギョッとしたガウェスをチラリと横目で見遣ると、にやりと意地の悪い笑みを一つ堪え、容赦なく踏みつけた。(ちなみにガウェスは声は出さず奥歯を噛みしめて痛みに耐えていた)青年は冷水をかけられたみたいに肩を震わせ顔を青くした。一度大きく目を見開いたと思うとすぐにアイスブルーの瞳を伏せ渋々と同意したのだった。
 逆に次弟はひどく淡々としていた。文句の一つでも出るかと予想をしていたが、事情を聞くと眉間に寄っていた皺を更に深く刻み、たった一言「分かった」と言うとソファーを立った。彼は商人であり、無理に屋敷を出る必要はない。だが、ここにいては何が起きるか分かったものではないと、ランバートと、本人たっての希望であった。それを拒む権利はありはしないのだ。嗚呼、そして、ガウェスは忘れはしないだろう。部屋を出る寸前、振り返った時の見えた軽蔑と怨嗟に満ちた視線を。
 全員に金品と次の仕事への紹介状を渡して、手は打ったものの、ハイドナーひいてはキールに多少なりともヘイトが溜まることは免れないだろう。それでも、彼はここまで仕事ができる奴だったのかとガウェスは舌を巻いた。もっとも一仕事終えた途端、仕事の途中で知り合った女性に猫なで声で電話し始めた時、少しでも尊敬した自分を恥じ、苦々しく顔を歪めると、彼の足をさっき以上に力で踏んだのだ。
 さて、使用人は既に寝、辺りはシンと静まり返っている。キール邸は大通りに面しているので、屋敷の中にいても人々の動きも賑わいも手に取るように分かる。特にここら辺は飲み屋街が多い地区なので朝から夜まで多くの人で賑わっている。だが、深夜になるとまともな人間ならば帰路へつき、享楽的な人間は色町へと吸い込まれていく。今まで聞こえていた雑踏は遠くへ行ってしまった。鳥の羽ばたく音でさえ耳に届き、静けさが空間を支配していた。本来ならば心地の良い閑散が今のガウェスにとっては孤独感を生み出す装置でしかない。
 質の良いウォールナット材で出来た椅子に腰掛けている彼の顔は冴えない。柳眉を歪ませている原因はテーブルの上に置いてある一枚の書類である。ジャッバールから受け取ったソレは、ハイドナーを破滅に導く悪魔との契約書に他ならない。契約を交わせば、ハイドナーは骨の髄まで邪悪な獅子に食い尽くされることとなろう。無論、彼も理解しているのだ。これにサインをしなければ一族郎党皆殺しにされると。事実、交渉の席ではサインをあぐねいた彼に痺れを切らし、バシラアサドはシャーヒンを用い殺害しようとした。彼らは本気なのだ。
 だが、代々積み上げてきた財を栄光をここで屠って良いモノか。自分が死したのち、先祖に顔向けできるのか、ハイドナーを守ってほしいという母親の願いはどうなるのか。様々なものが重荷となって自分の背にのしかかってくる。先程、ランバートはガウェスに告げた。「お前は自由である。縛るものは何もないのだ」と。だが、だが、否! 何の重責も抱えていない彼は分かるまい。ガウェスの苦悩が。圧し掛かってくる重荷を捨てる度に罪悪という鎖になって絡みついてくる世にも恐ろしい悍ましい感覚が。ポトリと手から万年筆が落ちる。書類に一滴二滴と黒い染みを作っていくが、両の手が万年筆を拾い上げることはなく、代わりに端正な顔を覆うこととなった。無理に動かすとジャリルファハドに刺された傷がズキズキと痛んだが、それよりも心が悲鳴をあげているのだった。
 どれくらい経っただろうか。もしかしたら、一時間も経っていないやもしれぬ。それでもガウェスにとっては悠久の時を過ごしたように感じてならなかった。呆けている彼の耳に二階からパリンと乾いた音が聞こえた。隠されていた青い双眸が自然と天井を見据える。恐らくは真上の部屋からだ。何かが投げ込まれたのか、はたまた盗人か。使用人に任せるべきかと思い浮かせた腰を再び下したが、武器を持って戦えるのはガウェス以外いない。愛用の剣を手に取るが少し考えるような素振りを見せると、壁に立てかけ、真新しいクローゼットを開ける。洋服が一枚もかかっていないクローゼットの中には棹だけが物寂しくかかっている。結局は使わずじまいになるかもしれないと準備をしてくれた仲間には申し訳なく思い苦笑が洩れるが、奥にしまってある一本の剣を見つけると途端に顔が引き締まる。普段は使うことがないもう一つの刀剣。普段使っている剣と比べると小さく、重量も軽い。だが、室内という狭い空間で戦うならば、取り回しが効くように刀身が短くフリの軽い方がいい。
 パッと見た限りでは部屋は荒らされた形跡もなければ、人が出入りした様子もない。気のせいで済めばならば良かったものの、割られた窓ガラスが事実を突き付けてくる。ここから侵入したのだ。石が投げ込まれただけの可能性も考えたが、キールの屋敷にそんな物好きな事をする輩はいない。銃に持ち替えるべきかとグリップを指先でなぞるが、ここで再び問題を起こせば今度こそハイドナーは骨の一片も残らず真実と共に闇に葬られることは明白である。また、騎士らしからぬ思考であることに気が付くと自己嫌悪で胸が軋む思いになった。
 部屋の隅まで調べても手掛かりらしい手掛かりは見つからず、息を吐き、肩を落とした。パタリと扉を閉めて、隣の部屋へ向かおうとした矢先、ふと彼は思い至ったのだ。ここまで用意周到な輩が何故、物音を立ててここから入って来たのか。ここまでの手腕があるならばもっと他にやり方があったはずではないのか。取っ散らかっていた憶測がパチンパチンと嵌り、ようやく一つの答えを導き出した時、自分の置かれている立場を悟った。途端に廊下の照明が一気に消え、今まで見えていた世界が黒く染め上げられる。先手を取られた! ガウェスは焦る。侵入者は彼が部屋に入り、出てくるまで一秒も目を逸らさずにジィと見ていたのだろう。そして、気が抜けた一瞬のスキをついて揺さぶりをかけてきた。何という執念! 何という忍耐力! 梟が遠くで鳴いている。それ以上にバクバクと脈打つ心臓がうるさい。窓から差す月の光が一層青白く光っている。息を吐き、落ち着けとガウェスは言い聞かせる。照明を消せば確かに姿は隠せるが、視界が効かなくなる。それは相手も同じだ。だがもしも、それを一切意に返さない人物、夜目が利く人間だとしたら、例えば、セノールのように。咄嗟に振り向いた先、暗闇に慣れぬ瞳でも確かに捉えた。窓から降り注ぐ白い光。月明かりを乗せた刀が銀色の軌道を描き真っ直ぐとガウェスの首に向かっていく。刀身の部分が彎曲した刀は堕ちた騎士の命を刈り取る、死神の鎌のようであった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.108 )
日時: 2018/01/11 20:28
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: tfithZZM)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 視界の端に収めた刀、剣で受けるには間に合わず鞘ごと刃を受けるも、その刀の持ち主は峰を押し込んでくる。剣は抜けず片手で受けている故に距離を詰められてしまった。切っ先が首へ向いており、下手に力は緩められない。身体を僅かに動かしただけで刃が滑り、首へと食い込む事だろう。
 暗闇の中、見覚えのある刀の持ち主の顔がそこにあり、それは表情一つなく刀の切っ先や首ではなく、全く別の部分を見据えていた。それは腰に差した銃であった。それを引っ手繰るなり、踵を返して一旦距離を取る。そのまま弾を出し、床に投げ捨てるなり彼はその黒い瞳をじっとガウェスへと向け、見据えていた。
 鎧はない、得物は普段と違う、銃も取り上げた。ともすればどう殺すべきかと己に問うも、どうとでも殺せるという答えに行き着き、右手を鎧通しへと掛けた。一度斬り付けたならばあの男は必ず受け太刀するだろう。そこから一歩踏み込み、一度刺すだけで殺せてしまう事だろう。故に微かな愉悦を彪は覚え、暗闇の中で嗤っていた。吊り上がった口角は今にも牙を剥きそうで、それをじっと見据えながら騎士は息を呑む。これがセノールの兵か、と。五十年前に猛威を振るった砂漠の化身、それと見える事三度、天命が尽きるのはどちらかと思考が渦を巻き、闘争へと向かわせようとしているのだ。それは両者同じ事、故に今こうして死が間近に迫りつつある空気に呑まれてしまいそうになるのだ。
 交わす言葉など一つもなく、剣を振るえばその切っ先は空を切り、刀を受けたならば鎧通しが暗闇に鈍く光り、その刃が音も無く突き繰り出されてくる。薄闇に火花が散り、一合、二合と斬り結び、二の太刀、三の太刀と放ち、受ける内に胸へと走る鈍痛に顔を顰めざるを得なかった。痛みは熱を帯びた思考を冷却してくれるが、目の前の彪は如何だろうか。右肩の銃創は癒え切っておらず、開いた傷からは血が滴り、握られた鎧通しの柄は血に汚れている。それでいても眼前の彪は静かに猛り、牙を剥いているのだ。それで居ても思考は熱を帯びておらず、冷徹な獣の如く。騎士の喉笛を噛み契り、首の髄を噛み砕こうと猛っている。
「……ジャリルファハド、もう止めにしませんか」
 その一言に彪の黒い瞳は一瞬見開かれるも、構えを解く気配は全く見られない。寧ろその言葉でより一層に力が篭ったように感じられた。今の一言が何に感じたのだろうか、助命の嘆願か、はたまた殺せという一言か。彪の心情を汲み取る事は不可能だ。ただ、剣戟はより強く鳴り響き、暗がりの中に火花と血の滴が散り、闘争ばかりが加速していく。彪の右肩に刃が走れば、騎士の左脇腹を刃が走る。剣の刃は欠け、刀だけは異常な強靭さで刃毀れ一つなく、異様な存在感を放っていたが主と騎士の血で刀身は赤黒く汚れていた。そこに剣戟の苛烈さが見て取れるのだった。白亜の壁が舞う血で少しずつ、少しずつ汚されていく。
 騎士力に及ばず、彪決め手に欠く。殺し合いの様相は泥沼の如く。騎士の一挙一動は身を蝕み、彪のそれは己の肉を断つ。だらりとぶら下がった右手から遂に鎧通しが滑り落ち、得物は左手に残る刀のみとなる。
「やはり止めませんか」
「……何故。止めなければ成らん。言え」
 血で濡れた右肩を押さえ付けながら、漸く彪は言葉を放つ。それを機と見てか剣を鞘に収めると呼応するように刀を床板に突き立て、彪は深く溜息を吐いた。黒い瞳が騎士を睨んでいる。不意打ちを警戒しての事だろう、もう一振り隠し持っていた鎧通しに左手を掛け、僅かに刃が顔を覗かせている。
「ハイドナーの状況を知っているでしょう」
「兵もなく、財すら失いかけ、虚栄の誇りすら無い無様な犬畜生だ」
 その言葉に思わず剣を引き抜いて、投付けてしまいそうになったが事実である事からガウェスは溜飲を下げ、斬られた左脇腹の傷を押さえ付けながら深呼吸をして、床に腰を下ろした。すぐ傍に銃が転がっていたが、それを手に取るなり後ろに投げ捨てて、あくまで争う意思はないとする。銃を手に取った時、ジャリルファハドが左腿のホルスターに納まった散弾銃を手に取ろうとしたのは気のせいではないだろう。あんな物で撃たれてしまったら身体は消し飛んでしまうと、ガウェスは一瞬肝を冷やした。
「その通りです、恐らく家は潰えるでしょう。私が生きていたとしても」
「そうか、だがお前は死ぬだろう。俺を退けたとしても、此処で俺を斬り殺したとしてもな」
「えぇ……悔しいですが、その通りです。あの兵を差し向けられては……」
 そもそもジャリルファハドを相手取っても一つの悪手から体を崩しに崩されてしまうのだ。胸の傷はその証である。生き永らえたとしても満身創痍。シャーヒンと呼ばれた大凡人としての存在感など微塵も感じさせなかったあの兵を差し向けられてしまえば、抗う間すらない事だろう。故に今こうして斬り合う手を止めなければならないのだ。
「その前に、我々ハイドナーの不義を侘びようと思いまして。……我々がした事はあなた達セノールにしてはならない事だったと。……あなた方と真っ向から殺し合っていたなら、こうは成らなかったと」
 ジャリルファハドには何を言っているのか、はっきりと分かる。西伐におけるハイドナーの不義である。中立を装い、戦地には立たず物資輸送のみを担い、死の商人として振舞ったという不義だ。真っ向から殺し合ったならば、今こうして斬り合う事はなかった。寧ろクルツェスカで出合った時に友として見る事も出来ただろう。だがしかし、今目の前の男はその不義を認めたのだ。ならば最早罪はない。殺す理由もなければ、傷を負わせる理由はない。ただ、一つの理由を除いてだ。
「……立て」
 左手で鎧通しを握ったまま、ガウェスへ詰め寄りジャリルファハドは彼を引き立たせる。あぁダメだったかと、観念したように成すがままに立ち上がるも喉笛を裂く冷たい鉄の感触は一つもない。ただ代わりに鼻に鈍痛が走り、目の前の火花が収まる頃には生温かい血が滴るだけだった。
「これで手打ちだ、殺す理由はなくなった。……お前は事実を認めた」
 ガウェスを突き放し、ジャリルファハドは鎧通しを投げ捨てると疲労困憊といった様子で床の上に座り込んでしまった。呆気ない幕切れに呆然としつつ、殴られ鼻血の止まらない鼻を押さえながらガウェスは青い瞳を見開いて、草臥れたジャリルファハドを見下ろしていた。そんな視線を気にする様子もなく、煙草を咥えて火打ち式のライターから火を取り、物の数秒も立たない内に煙を吐き出した。
「吸え、痛みは和らぐ。まぁ、余り良い物ではないから……中毒になるなよ。俺はもう遅いがな」
 そうやって随分と硬い笑みを浮かべながら、煙草と先ほどの火打ち式のライターをガウェスへと投げ付けてきた。最初の邂逅でも彼はこれを勧めて来たが断った代物だった。それをまじまじと見つめているガウェスを他所にジャリルファハドは斬られた箇所を眺めながら舌打ちをするばかり。
「早く吸え」
「え、えぇ……」
 そう急かされ促されるままに煙草を手に取り、ジャリルファハドの見様見真似で火を付ける。燃えた煙の匂いは不快な物ではない。バシラアサドが吸っていた物と同じ煙草だとはっきりと分かる。あの屋敷での記憶が呼び起こされ、余り気分の良い物ではなかったがジャリルファハドの手前、煙草を捨てる訳にも行かない。
「俺はお前を赦そう。……だが、お前は死ぬしかあるまいよ、ジャッバールに狙われたらどうしようもない。古来よりそうだ、ドレントのワッケンとてそうだったではないか。五万の守備が居ながら補給を絶たれ攻め落とされ……、果てに皆刎頸された後、その首は海の藻屑。それに目を付けられてしまったならばお前は死ぬしかあるまいよ、あの屋敷と共に」
 そうやって静かにジャリルファハドは語り、もうどうしようもない事だと苦笑いをして見せた。恐らくセノールは騎士の文化など微塵も理解していない。騎士も兵の一人に過ぎず、どうしようもない運命には抗わず、その天命を全うするしかないという考えを持っている事だろう。故に赦すといった人間を救おうとはしない。セノールの兵士からしたら、己の命は軽いものなのだ。
 死ぬしかないと言われガウェスは瞳を閉じる。死にたいはずなどない。だが、死でしか贖罪出来ないだろう。ハイドナーの血を絶やす事でしか贖罪出来ない事だろう。多くの郎党を間接的に死なせ、分家へも迷惑を掛けた。クルツェスカの平静を乱したのも己自身。まさか突いた巣穴が獅子の巣穴だとも思わず、その結果招いたのは多くの血と死。そして混沌。どう考えても生きるという事を許されそうにないのだ。
「死んで償うしかないないでしょうね。……斬ってもらえますか」
「戦って死んだ、か。仕方ない」
 ふらりと煙草を咥えたままジャリルファハドは立ち上がり、ガウェスは煙草の火を消し、瞳を閉じる。これしかないと腹を据え、歯を食いしばり、拳を握り締める。ものの三歩歩み、ジャリルファハドの足音が止まると何かを拾い上げてそれを眺めているようだった。
「……からかっているのですか」
「俺はお前を殺すとは一言も言っていない。だがお前は死んだ。ならば剣を貰う。我々の慣習も知らず死ぬと言ったか、馬鹿者が。いいか? お前は死んだ。ならばこれからはジャッバールを謀る時だ」
 先程まで自身を斬り付けていた剣を拾い上げ、それを鞘に収めながらジャリルファハドは静かに語る。ジャッバールを謀るという一言にガウェスは悪寒を覚えるも、その青い目はジャリルファハドから離せそうになかった。
「浮浪者を一人殺し、その死体を屋敷に放り込んだ後、お前の屋敷に火を放つ。首から上は徹底的に潰すぞ。もうお前は咎塗れだ、一つ二つ……いや一人二人殺したって同じ事だろう。手伝わせてもらおう。それに……裏口の鍵があるのでな」
「それ……、どこから?」
「ミュラから没収した」
 そうやってジャリルファハドは薄ら笑いを浮かべていた。ガウェスの襟首を掴み、無理矢理彼を引き立たせると血塗れのまま、血の滴るままに彼は歩き始めた。時折痛みに苛まれ、おかしく身体を捻りながら階下へ向かうとキールの女中から悲鳴が上がっていた。何故こうもセノールの人間は良くも悪くも強引なのか、と少し頭痛を覚えながらも彼もジャリルファハドの背中を追うのであった。


Page:1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51