複雑・ファジー小説

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無限の廓にて、大欲に溺す
日時: 2020/08/16 20:36
名前: にっか ◆ShcghXvQB6 (ID: jtELVqQb)

無限の廓にて、大欲に溺す

開始日:2016/8/22(8/21 15:00スレ立ち上げ、創作解禁)


設定については、次レスに張るURLから確認願います。

なお、コメント等は差し控えて下さい。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.33 )
日時: 2016/09/28 22:45
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU (ID: uz6Wg9El)

 “ああ!愛しています、愛しています!貴方達を平等に、等しく!ただ私は愛しているのです!”
 ——少女が少女たる所以とは如何なるものであるのか。例えば一つ、彼女の問いに関して語るなれば。

 “おつかい”を終えた少女達は軽やかな足取りで帰宅する。ふわりとした金糸の髪を揺らすスヴェトラーナは始終笑顔であったが、道を共に行くハイルヴィヒの面持ちは硬い。ヨハンがユスチンに言伝をしたし、そも無理やりであろうけれどユスチンからスヴェトラーナの外出許可は降りている。とはいえど、ユスチンが素直におかえりなさいを言うだけで済むとは思えないのだ。添えるならば、必要な買い物であったといえども、スヴェトラーナをあのような、本来彼女とは無縁であるべき場所へと連れて行ったという事実も、ハイルヴィヒの中に仄かな罪悪感を抱かせている。——屋敷の荘厳な扉が開く、エントランスへ足を踏み入れるのと同時か、足音が反響して聞こえてきた。

「スヴェータ! ああ、もう、ほんっとうに良かった!! ハイルヴィヒが居たから大丈夫だとは思うけど……怪我はないかい? どこもぶつけたりしていないかい? 何か怖いことはなかったかい? ああ、もう……本当に! スヴェータに何かあったら、と思うだけで僕、もう……心配で心配で!」

 駆けてきた白髪交じりのふわりとした髪の男、スヴェトラーナの父たる男ユスチンは大の大人らしくもなく、宛ら妹を心配する兄か何かの様に、愛しい人の無事の帰還を喜ぶかの様に。スヴェトラーナを抱きすくめれば矢継ぎ早にそう告げる。遅れて奥から小走りでやってくるのはスヴェトラーナが幼き折より彼女に仕える侍女である。「おかえりなさいませ」の言葉こそ丁寧なそれであるが、其処には確かな安堵があった。柔く優しい色を宿す瞳もまた、其れを物語って居ることだろう。
 さて件のスヴェトラーナといえばだが、はじめこそキョトン、としていたものの、すぐに呆れにも似た、けれども愛しい人へ向けるのと同義の優しい笑みを其のかんばせに。「もう」だなんて言葉をこぼしつつも、父の背へと手を回す。

「お父さま、もうスヴェータは子供ではないわ。そんなに心配されるほど、幼子であったのは遥か過去の日、其れこそずっとずっと昔のお話。……そうでしょう?」
「……そうだけれど、そうだけれどね、スヴェータ。僕にはもうスヴェータしか居ないんだよ。君にもしものことがあったらって考えるだけで僕はもう耐えきれないんだ、わかって、分かっておくれよスヴェータ! 愛しいディーナと僕の愛しい愛しいたった一人の娘なんだ、君は。……ディーナが居なくなって、君が居て、ならば僕は君を守らなきゃいけないだろうそうだろうそうだよそうだとも! だから、だからねスヴェータ、分かってほしい。どうしようもない、父の我が儘だけれど……それでも、僕は……僕は」

 まくし立てるように男は言葉を連ねていく。言葉尻に行くに連れて徐々にしぼんでいく言葉。其れを全て聞き終えて、娘はけれども静かに微笑むばかりだ。とんとん、と父の背を叩く。宛ら、母が子をあやすかの様に。「だいじょうぶよ、おとうさま」と優しくささやかれる言葉は、喩える為ればさて、ささやかな魔法、おまじないの言葉。此の光景を“いつものこと”と処理してしまう此の屋敷の面々は果たして正常と言えるのか、誰も知りはしない。確証はない、誰の保証もない、真相など、誰も知らない。知る必要も、無かった。なにせ此処は彼らの王国、大きくも狭い箱庭の中なのだから。
 ひとしきり父と娘は再会を喜び、主に父親が満足した頃、娘は漸く解放される。娘のかんばせに浮かぶのは、柔い笑み、穏やかな其れ。いつも浮かべる完璧な笑顔だった。

「うん……ごめんね、スヴェータ。ありがとう。……僕は少し、ハイルヴィヒと話があるから、先にお部屋に戻っていなさい。……ね? 良い子だから」
「ふふ、ふふふ! お父様ったら。そんな風にお願いなさらずとも、スヴェータはきちんとお部屋に戻ります。お父様の“お仕事”の邪魔は、したくないもの。……ハイルヴィヒ、お父様とのお話が終わったら私のお部屋に来てね。約束、約束よ! 絶対なんだから! お茶の用意をしていただいて、待っているから」

 父の言葉に楽しげに、娘は笑う。そうして青の双眸を細めて紡ぐ言葉は聞き分けのいいご令嬢の、正しい言葉、間違い一つ無い、正しく美しい言葉だ。けれど添えられる“友”への言葉がどうにも弾んでしまうことばかりは、許して欲しい。最後に父とひとつ、ふたつ、囁き秘め事を交わしてから、侍女と共に、娘・スヴェトラーナは部屋へと向かう。その前に、洗面台で手を洗うのは忘れずに。なにせスヴェトラーナは良い子であるから、それだけだ。
 スヴェトラーナが去るのを見届ければ、父・ユスチンは改めて、件の少女ハイルヴィヒへと向き直る。些か緊張の面持ちで男を見るハイルヴィヒの視線を受けても尚、男はいつの間にやら浮かべていた柔和な笑みを崩さない。文字通り、完璧な笑みを。

「……ユスチン殿、この度は……」
「ああ、いいんだ、気にしないでくれ。寧ろ……スヴェータを守ってくれて、ありがとう、ハイルヴィヒ。……何処へ行ったか、はこの際問わないよ。スヴェータもいつか……大人にならないと、いけないから。……考えたくはないけどね、わかってる……僕だって、わかっているさ。…………さて、ハイルヴィヒ、此処からは君と“私”の話。お仕事の話だ、いいかな?」

 男の問いに、ハイルヴィヒは静かに頷いた。吐き出される息は、男のもの。一度双眸を伏せてから、再びハイルヴィヒを映すその瞳は、いつの間にか先程まで娘へ向けていた柔らかさとは、また別の穏やかさを湛え、其処に2つ鎮座していた。何処までもただ穏やかなそれは、違和感を覚えるほどのもの。言うなれば、底知れぬ深淵に見つめられているような。ハイルヴィヒは此の瞬間が決して嫌いではなかった。娘にはどこまでも甘いばかりの父であり、けれども彼は間違いなくベケトフ家の当主である。変わったのは一人称ばかりではない事など、既に分かりきったことだ。
 ベケトフの家は、決して非常に広大な領地を持つわけではない。強大な戦力を有するわけでもなければ、積極的に他家や他国と争った記録もない。かのハイドナー家等と比べてしまえば、弱小と嗤われてもしかたなかろう。されど其処には、長きに渡り培われた技術がある、紡がれてきた歴史がある。そして何より一つ、“ユスチン・ヴェニアミノヴィチ・ベケトフ”という男の、家名の存続への強い意志。意志のみではどうにもならなかったやも知れぬが、男が此の家の当主として生まれ落ちたその瞬間から、ベケトフ家の当主となる事を、始めからさだめられていたのだろう。大袈裟ではあるやも知れぬが、言ってしまえば天性の才。彼という男は“治める”というのが得意であった。来る者拒まず去るもの追わず、けれども此の領地を害するものばかりは許さず。領地の無理な拡大は望まず、不要な争いなど持ち込まぬべきと語る。只、此の家を守り、存続させる事と考えて、其れを正しく実行してきただけ。正しく“ベケトフ家の当主”である男。其れが目の前の、柔和な笑みを浮かべる男。して、その男、ユスチンは穏やかな声色で、言葉を紡ぐ。

「ハイドナーのご当主さん、何か言っていたかい?」
「いえ、特には。……ですがあの様子ならばおそらく、協力は取り付けられたかと。……不可抗力かつ、大したものではありませんが、少しばかりは恩を売った形となった事案もございます。……あの馬鹿真面目な騎士ならば、おそらく是と返答してくれるでしょう」
「……ぷっ、あっははは! そうかそうかぁ、ハイルヴィヒ、君に頼んで本当に良かったよ。……ハイドナーの若当主君は本当に真面目だからねぇ。いやぁ、良いことだ、良いことだけれど……ううん、いいか、これはやっぱりやめておこう」

 そう言って、ユスチンはゆるゆると肩を竦めてみせる。ハイルヴィヒはといえば、曖昧な表情を浮かべたままで、困惑混じりの薄い笑みを、ひとつ。止めておく、と言うならば言及する必要もなかろう。其れに添えて凡そ、ユスチンが続けたかったであろう言葉の見当は、付いているのだから。

「返事は急がずとも構わない、と添えておきましたが……現当主殿の方が返事を書いてくれているのならば、明日にでも届くかと。何せ、随分と真面目な方ですから」
「うんうん、そっか。……いやぁ、ふふ、一応元ご当主、現ご隠居殿の方への言葉もそれとなく書いておいたからねぇ……ガウェス君が返事を書いて、ロトス君から返事が来なかったらまあ、はは、その時はお察し、ってやつかな? うちはどの程度だと思われてる、くらいに考えていいかも?」

 そう言って、ユスチンはいたずらっぽい笑みを浮かべた。「なんてね、冗談さ」と軽く笑い飛ばしてはいるが、さて。——否、考えるのはやめよう、とハイルヴィヒはゆるく息を吐く。ベケトフ家とハイドナー家、ひいては当主たるユスチンとロトスはそれなりに付き合いも長い、個人的な付き合いも含めて色々とあることは察しているが、己が踏み込むべき領域ではあるまい。そうハイルヴィヒは考えている。ベケトフ家に雇われて気がつけばそれなりの時を経ているが、あくまでもハイルヴィヒは雇われた身、そのあたりは弁えているつもりだ。
 それからは幾つか、後日の任務に向けて必要な確認を済ませる。他家の協力者の件だとか、手はずだとか、目標目的の照らし合わせ。打ち合わせるべきことはいくつもあったが、それが早くに終えられたのは他でもない、ユスチンの計らいだろう。「スヴェータが待っているんだろう?」と娘の名を紡ぎ細められた瞳の奥に宿った何かには、気付かぬふりをして。ハイルヴィヒは頭を下げて、足早に、廊下を行く。向かうのは、勿論スヴェトラーナの部屋。誘いを断るわけにもいかない、そうする気など更々ない。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.34 )
日時: 2016/09/28 22:46
名前: 霧島 ◆FJjoZBA4mU (ID: uz6Wg9El)

 ——少女の部屋の前、響くノックは二回、私です、と告げるより早く、白い扉は開かれる。照明の柔らかな光が、安寧に漂う揺り籠の中を照らしていた。輝く淡い金糸の髪、朝日を浴びる湖面の様に澄んだ瞳の少女、此の部屋の主は、ハイルヴィヒを見とめるなり、喜びの声を上げる。「待ってたの!」と弾む声が鼓膜を揺さぶれば、ハイルヴィヒはただ穏やかに微笑んだ。隔離された箱庭の、更に奥、深い場所。ある種の神聖さを此処に感じてしまうのは、さて病気というやつなのか。息を整えれば、ハイルヴィヒはその部屋へと足を踏み入れた。スヴェトラーナの傍に控えていた侍女が頭を下げて、ハイルヴィヒは白い手袋に覆われた手をかるく上げてみせる。スヴェトラーナに招かれるがまま椅子に腰掛ければ、侍女が紅茶を一杯、淹れてくれた。ハイルヴィヒが感謝の言葉を告げて、侍女にも茶を勧めるも、彼女はどうやら、これから諸用あるという。深い一礼の後に、部屋を出ていってしまった。残されたハイルヴィヒとスヴェトラーナは、暫し他愛ない雑談に花を咲かせる。

「ねぇハイルヴィヒ、今日はガウェスお兄さ……ハイドナー様とお会いしたのでしょう? 変わらずお元気だった? またいつかおあいしたいわ、ハイドナー様とは、お話しやすいから。……相変わらず人参のグラッセ、お好きなのかしら」
「……変わらずかどうかは、分かりかねますがお元気そうではありましたよ。人参のグラッセが変わらず好きかどうかは……次に合う事があれば聞いておきます。近々の任務でご一緒するやもしれません故。何時かに見た通り、真面目な騎士様でした。……ああ、ですが、道中どこぞの誰かと言い争いの挙句剣を交えておりました。ええ、全くをもって私には理解できぬ理由で。……ハイドナーの家にも色々あるようですよ」

 別段、深い意味があるでもない話だ。先程共に歩いた道でも、彼にあった話はしたが、それだけで終わってしまったから、スヴェトラーナは馴染みある相手のことが気になったと言うだけ。けれど其処に、新しい情報が舞い込めば澄んだ青の瞳は一瞬見開かれる。色々ある、の言葉で薄っすらと全て察したのはさて、彼女もベケトフの家の娘であるという事か。そうなの、と呟いて、スヴェトラーナはジャムを少しばかり舐めた後に、紅茶を一口。カチリ、ソーサーにカップを置けば、まろぶ瞳でハイルヴィヒを見る。

「ねぇ、ハイルヴィヒ。私達って、何なのかしら」

 スヴェトラーナはティーカップをソーサーに置いたまま、唐突に言葉を紡ぐ。澄んだ淡い碧の瞳をハイルヴィヒへと真っ直ぐ向けて、柔らかな笑みをそのかんばせに湛えて。本当に唐突に、少女は問いを投げかけた。ハイルヴィヒは思わずかじりかけのクッキーを落としそうになりつつ、それを咀嚼し嚥下すれば、数秒の空白。

「……私は、己が何者であるかなど、気に留めた事はありません故、あまり上手い事は、言えませんが……其れは、人種的なものでしょうか、それとも別の何かですか?」

 曖昧な答えと、解を導く為の質問をひとつ。柔い笑みを浮かべたままのスヴェトラーナは、双眸を細めて、口を開いた。

「ふふ、そうね……どっちの意味でも、かしら」

 薄桃色の唇が、柔らかな声を紡いでいく。どうしても知りたいひとつ、気になること。けれども、如何なる答えとても、スヴェトラーナにとっては歓迎すべきものであった。ハイルヴィヒ・シュルツという少女が如何なる言葉を紡ぐのか。己の知り得ぬ事を知り、知らぬ世界を見てきた彼女は、一体何と答えてくれるのだろうかと、ただただ興味がある、好奇心が刺激される。添えてスヴェトラーナは、ハイルヴィヒの事をもっと知りたかった。有り体に言えばそれが一番の理由なのだけれど。ほんの少しの空白の間すら愛おしい。悩ましげに、青い双眸を琥珀色へと注ぐ彼女の、なんて——。
 ハイルヴィヒにとって、その問いはなんとも悩ましいものであった。否、答えはあるのだ。けれどもこれは答えとして良いものか、わからない。揺れる琥珀色を見据える内に、眉間には薄らと皺が寄っていた。無言を貫いたのはほんの数秒、けれども言葉を音にするまでにまるでひどく長い時間を経たかの様な感覚があった。

「我々というより、私の事にはなりますが……強いて言う為れば、私は別に、私が何者であろうとどうでもいいとは、思っています。……人種とて、どうだって良い些末な事でしょう。人であることに変わりがないならば、どうだっていい。見目が一般的な“人間”と異なるものであろうと、レヴェリ人とて、人です。……銃を撃てば弾が当たって血が出るでしょう、其れが死因となり得るなれば、私はそれで十分です。そうであると言うならば、其れこそ私自身が、どんなものであろうとも構わない、言ってしまえば興味もありません。其れこそ、私の血の何処かに、レゥノーラの血が……化物の血が混じっていようと、なんだろうと、構いやしません。……そう、思っております。言ってしまえばそれは他人がそうであっても気にしない、ということです。……そういう存在でありますから、我々が何であるかとは……そうですね、人間である、以外の答えは出せそうになく……申し訳ありません」

 其処まで言い終えれば、ハイルヴィヒはジャムを一口、そうしてから紅茶を一口。じわり、と甘みと渋みが口内で混ざり合う。心地よい温かさを感じながら、それを飲み込んだとほぼ同じか。スヴェトラーナが突如席を立ち、ハイルヴィヒの直ぐ側まで歩み寄る。ハイルヴィヒが慌ててソーサーにカップを置いたならば、スヴェトラーナはぐぅい、と顔を一気に近づける。喜ばし気な笑みを浮かべて、けれども瞳の奥には底知れぬ何かを湛えて。

「ハイルヴィヒ、貴女って本当に、素敵ね!」

 此処に、月はない。けれどもまるで月明かりに照らされているかの様な感覚を、ほんの一瞬だけ、ハイルヴィヒは憶えた。流れる時がまるで小川の様に、否、いっそ逆流しているのではないかとすら思う。息を飲み込む、突然水中に沈められたら、こんな風に苦しいのだろうか。息ができないような感覚、否、息が詰まるという類の感覚だろうか。それともいっそ喩えるならば、じわじわと首を絞められているかの、様な。けれど、けれども、其れはほんの一瞬、一時の出来事である。全ては空想、少女は少女であり、彼女が彼女である事が彼女を少女たらしめている為ればこそ。

「ふふっ、じゃあもう一つ。嘘って、嫌い?」
「……別段、其れに対して何らかの感情は抱きませんね。他人が嘘を吐こうがどうしようが、あまり気にしません。……契約において虚偽があったとするなれば、その瞬間契約は打ち切りです。それ以上も以下も、ありません。…………ああ、ですが……優しさからくる嘘、というものだけは、どうにも理解できかねます。……いずれ真実を知る時が来るならば、それを先延ばしにしたところで意味が、見えません。」
「……ふふ、ふふふふ! すき、貴女のそういうところ、だいすき。私ではとても導き出せない答え、とっても素敵な答え。きっと一番真実に近いのだわ、それは。ふふふ、私はそう思うの! それに、ハイルヴィヒの言う事ならば間違ってなんか、ないものね。……ねえハイルヴィヒ、もっともっとお話させて? いっそ今日夜通しお話……ああ、ごめんなさい、ダメだわ。今日は、今日はね、お父様の所に行くんだったわ……ごめんなさい、ハイルヴィヒ。……でも、貴女ともっとお話したいのは、本当なのよ。だってハイルヴィヒ、近いうちにお仕事で此処を離れるのでしょう? そうなのでしょう? ……私の事、置いていってしまうのでしょう」

 憂いを帯びた瞳は、静かに下方を向いていた。これだ、これこそ、これでこそ——。否、ハイルヴィヒは小さく首を横へ振る。否定の意ではなく、己の浅ましい思考を振り払うために。吐き出す息が少し震える。恐怖ではない、畏怖でもない。幾ばくか孕む熱量は、そんなものを物語ってはいやしない。

「……では、お嬢様、こうしましょう。私が出るまでに、機会が在ればどうぞ夜通しとご命令を。其れまでに時間がなくば……無事に帰還できた折り、お約束を果たしましょう。ですから……どうぞ、契りを。誓いを此処に。行かぬ、という事だけは私、出来かねます故に」
「…………指切りげんまん、するの?」
「ええ、貴女と私で契約を交わすのです。子供じみた誓いでも……ないよりは、ましかと」

 そうハイルヴィヒが告げればスヴェトラーナは嬉嬉として小指を差し出した。小指を絡めて契りを結べば、スヴェトラーナは愛くるしい笑顔と共に、約束だからね、と言葉を紡ぐ。ゆびきりげんまん、嘘ついたらどうなるか、なんて、内緒、内緒。小指と小指が離れる瞬間、名残惜しいとばかりに指先まで触れて、誓いは為った。その事実が此処にある。ただそれだけで、2人は十分であったから。

「それと、お嬢様。私の言葉が必ずしも正しいかどうかは、わかりかねます。どの視点からものを見るかによって、私の言葉とて間違いとなり得ます。ですからどうか……それだけは、お忘れなきよう」
「ふふ、はぁい。わかったわ」

 添えられた言葉に、スヴェトラーナは柔らかく微笑んで、頷いた。小さな約束、これも一緒に先程の指切りげんまんでの誓いの中に入れておこうか、ほんの少しだけ迷っていた。けれど、嗚呼、きっと無理だ。スヴェトラーナという少女にとって、ハイルヴィヒという少女はあまりにも、正しすぎる。外を知らない少女にとって、近くにいる誰かで、初めて、強く外の世界を感じさせた少女は、いつの間にか“特別”になっていたから。

「ねえ、もう一個だけ、聞いていい?……ハイルヴィヒ、神様って、信じてる?」
「別段、特別な信仰は持ち合わせていませんよ。……祈った所で、神の救いなど無いでしょう。それに……死した後の事を語るにしても、だからなんだといいたくなります。死後にあるものは無だと、そう考えていますので。……そも、死した後の事など考え祈っていたら、傭兵など、なれやしないでしょう。……ええ、あくまでも私の考えですが」

 未来過去現在に於いて、同じ立場の人間が必ずしも己と同じ思考であるとはハイルヴィヒとても思ってはいない。問われれば答える。其処に虚偽はなく、誤魔化しもない。たった一つ、ハイルヴィヒ・シュルツという少女が抱く真実であった。ニコニコと微笑んだまま、しなだれかかってくるスヴェトラーナに、ハイルヴィヒは曖昧な笑みを向ける。伸ばされる白く美しい手を握りしめれば、その手の小ささに驚き、指の細さに、肌の滑らかさに、ハイルヴィヒは息を呑む。少し力を入れたら折れてしまいそうな其れを、慈しむように、指を絡める。

「……お嬢様、お紅茶が冷めてしまいます」

 静かな言葉は、其れだけ。ゆるり、と絡めた指を解けば、スヴェトラーナの手は重力に従って、ハイルヴィヒの膝へと落ちる。長い睫毛を震わせて、美しい少女が瞬きをしている、息をしている。ほんの一瞬、“信仰”と言うものを理解仕掛けた気がしてしまう程に、彼女は——。引き込まれるほどに澄んだ瞳を細めて、スヴェトラーナは先程まで腰掛けていた椅子へと戻った。

「……ふふふ、本当、冷めちゃったわ」

 至極、穏やかな言葉であった。柔く幼気な笑みをかんばせに湛えたまま、彼女は紅茶を飲み干した。小さく短く息を吐きだす様すら、あゝ、なんて。
 ——此の家は。たった一人の跡取り娘を中心に、些か歪んで廻っている。そんな気がした。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.35 )
日時: 2016/10/02 04:43
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: vVtocYXo)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 太陽が東の地平から顔を覗かせるよりも早い時刻、ソーニアの姿はジャッバールの武器庫にあった。傍らにはハヤの姿があり、彼女は分解されたライフルを組み上げていた。銃の形になりつつあるそれは通常のライフルよりも銃身がやや短く、軽量。取り回しが良い。そして何よりもアゥルトゥラが持つ後装式ライフルよりも信頼性が高く、堅牢な作りをしていた。何より燃焼ガスの漏れが一切なく、引き金を引くと同時に自身の指が吹き飛んだりという致命的な欠陥が解消されている。
「アサドが弾は五百発まではタダであげるってさ」
「本当に?」
「セノールに二言はないわ。ソーニア、これ大事に使ってよ? これの生みの親が調整した凄い銃なんだから。それに……、ちょっとした改造もしてあるの」
 そうやってハヤはキー溝が掘られた親指大の筒状の部品を銃口に組み付け、銃身との芯出し、水平が上手く取れているかを水準器を使って計測していた。何度か銃身に木を添え、金槌で軽く叩くと芯が取れたようで、銃口をソーニアに向けてそれが何なのかを見せつけた。
「何なの、それ?」
 考古学、言語学、民俗学などには秀でているが銃器や、それに付随する技術的な知識には疎いソーニア。ハヤが誇らしげに見せつけてきたそれが何なのか、憶測すらつかず首を傾げる。当然の反応であろう。
「これね、銃口から出る発射ガスを上にだけ流してやって、銃身の跳ね上がりを相殺するんだ。我ながら傑作でね、これは今設計してる連射が利く単銃身のライフルにもつける予定で——」
「ハヤ」
「これが完成した暁には銃器の歴史が変わるんじゃないか、なんて思っててさ! もう馬鹿でっかくて重いガトリングなんて無用の長物。単発のライフルなんて時代遅れにして——」
「……とにかくすごいのね」
 ハヤが矢継ぎ早に繰り出す技術的な説明と、全く技術者らしくない稚拙な言葉の嵐にやや頭を殴られたような気分になりながら、なんとなく納得したかのような言葉を出せば、ハヤは笑みを湛えて大袈裟に頷くのだった。
「とにかく、これがあれば多少は自分の身を守るのも楽になるわ。まぁ、弾自体がレゥノーラよりも人間相手を想定してるから、効果絶大って訳じゃないけどさぁ。あ! でもこれ凄く精密に撃てるよ、口径が小さい分、跳ね上がりにくいし、発射ガス相殺出来るから」
 ジャッバールはカンクェノの階層突破にかなり貢献しているというのに、何故レゥノーラ相手を想定した弾の設計をしなかったかが、ややソーニアには引っかかる。レゥノーラ相手の場合、身体を吹き飛ばすのが最も効果的である。そうなれば散弾銃や大口径ライフルを用意するのだろう。確かにハヤがいうように、このライフルの口径は、アゥルトゥラが持つものよりも小さく感じられた。
「レゥノーラ用はないの?」
「うちで作ってるのは、リボルバーを除いて全部対人想定。弾も全部そう。これはね、命中すると弾が身体の中で回って、体内組織を破壊するんだ。大口径だと射入口と射出口は大きくて、相手を動けなくする事は簡単なんだけど、いまいち身体の中の損傷が小さくてね。致命傷になりにくいんだ。それに弾が小さいと貫通しにくい。そうすれば弾を抜くために身体を開かなきゃいけない。失敗したら出血多量で死ぬ。もし取り出さないと身体が異物に対して拒絶反応起こしたり、感染症で死ぬ」
「そこまで考えてるの?」
「勿論。先人の知恵だよ。どれだけ人間を効率よく殺傷して、後引くダメージを与えるかってね」
 恐らく弾の設計思想としては、ジャリルファハドが言っていた矢のそれと同じなのだろう。セノールは何をどうすれば人間にどれだけの損傷を与えるかをよく知っている。故に銃弾を設計した時も、同じ原理を利用しただけに過ぎず、その弾を使うためにそういった銃の設計を施したと考えられる。
 また、弾を全て共用とする事により補給を容易に出来る上に大量生産を行う事でロットを増やし単価を下げ、費用も抑える意味もあるのだろう。そう考えればセノールの民族的な背景上、当然の事であるようにも感じられた。結果的に対人想定になっただけだと予想される。
「ま、ソーニア。死なないでよ、あんたはアゥルトゥラだけど良いアゥルトゥラだ。そんな人を死なすなんて惜しいからさ。……ってアサドが」
「へぇ、悪いアゥルトゥラの定義は?」
「大よそ全てのアゥルトゥラさ。老いも若きも、女も子もない」
 アゥルトゥラは過去は過去と割り切り、自主的に毀棄していく。先人の知恵や、培った歴史、古の理、大よそ全ての過去を蔑ろにし未来と今のみを睨む業の深い人種である。
 それ故に五十年も昔に行った事について、委細知るものは少ない。歴史教育というものをされないからだ。セノールと争い民間人をも殺め、その文化の負の側面を売り出し、それを壊した。歴史は勝者が作り、敗者は死に体となり口を噤む。その構図の最たる例であった。
「やっぱりセノールから見れば、アゥルトゥラはそう映るのね」
 ソーニアの一人ごちたとも取れる短い言葉にハヤは返事する事なく、黙ったまま銃を組み上げていった。金属同士がぶつかり、擦れ合うような小気味の良い音が静まり返った二人の間を取り持つ。最後に刻印を持ち、それをハンマーで木製の銃床に打ち付け、一際甲高い音が鳴り響き、遂に静寂は終わりを告げる。
「よし、出来た。持ってって」
 押し付けられたライフルの銃床にはセノールが昔から使っている文字で「ハヤ・セイフ・ラーディン」と印字されていた。受け取ったライフルは通常のものよりも軽く、構えを取り、狙いを定めてみると溝ではなく穴に加工された照門と、三方向に開かれた照星がつけられており、咄嗟の狙いが定めやすかった。
「照門は取り外しが出来て、狙撃眼鏡に挿げ替える事も出来るけど使わないでしょ?」
「要らないね。狙撃なんて繊細なこと出来る訳ないじゃん」
 狙撃にはコリオリ効果の計算から、風向き、湿度、温度などといった状況、標的までの距離を伝える観測手の存在が必要不可欠。狙撃を行うなど現実的な話ではない。
「そも、それを扱えるかも怪しいよねぇ」
 第一、ソーニア自身、銃の訓練を専門的に受けた事はない。単独でカンクェノに潜ると聞き及んだレヴェリから多少のレクチャーを受けただけに留まる。上手く扱えるか、微妙なところである。ハヤの言葉は尤もだとソーニアは苦笑いを浮かべながら、ライフルを担ぎ上げるのだった。
「撃ち方教えてよ」
「私達の人殺しの術は教えられないなぁ、対策練られたら困るもの」
 そう物騒な事を語るハヤはにこやかに笑いながら、一冊の書物を突きつけてきた。その書物には「猿でも分かる撃ち方講座」などと如何にも頭の軽いタイトルが付けられ、筆者にはやはり「ハヤ・セイフ・ラーディン」と名が記される。
 それを受け取る事もせず、どこか遠い目をしながらハヤを見据えるソーニア。徐々に心持ちが悪くなってきたのか、ハヤはそれを引っ込めて何事も無かったかのように取り繕うのだった。
「何それ」
「私達ラーディンの氏族、引いてはセイフの家門は武働きする家じゃないからさ。銃の実射試験の時に、戸惑わないように説明書きを作ったんだよね。誰でも分かるようにって、良かったらこれ持っていってよ」
「もう少し、それどうにかならなかったの?」
「堅苦しい題名ついてたら、読みたくない人達が多いからさぁ、セイフの人間って……」
 それはハヤだけではないのだろうかと、首を傾げながら「猿でも分かる撃ち方講座」を受け取り、それを肩から提げた鞄に突っ込む。今この場で読んで、思いの他上手く作られていたとしても、ハヤを褒めるのは何となく負けた気がして悔しい。故に後で読む。
「あぁそうだ。朝、食べてきなよ、口に合わないかも知れないけどね」
「いや、それは……」
 ソーニアは返答に困り、口ごもる。もしその様子を回りのセノールが見たらどうなるのだろうか。朝から不愉快な思いをしないだろうか、それともそれを受け入れるのだろうか。ハヤがそこまで考えていない可能性もあるが、その逆も然り。
「学者足る者、現状、現実を知らずして何を知るってね。だから来なよ」
 半ば無理矢理ハヤに引っ張られるようにして、武器庫から連れ出され、母屋へと連れ込まれる。中にはセノールやレヴェリの姿があり、一瞬ソーニアを見て顔付きが変わり、敵意に似た何かを宿したようであったが、すぐにそれは消え失せて、何事だろうかと興味深々な様子で見据えているのだった。
「朝食べてくってさ、用意してやって頂戴。あぁ、あと私の分も」
 毒でも盛られやしないか、やや恐ろしげであったがハヤの宣言があった以上、今更引くに引けない。観念した様子で促されるままに席につく。左隣のハヤはソーニアの様子を気にする様子もなく、真正面に座っているセノールも一瞥だけしたが、余り関心なさ気に書に目を通しているだけであった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.36 )
日時: 2016/10/02 12:49
名前: NIKKA ◆ShcghXvQB6 (ID: vVtocYXo)
参照: https://twitter.com/NIKKA_Nonbe

 砂漠であるというのに、暗雲が立ち込め、遠雷が鳴り響き、辺りが白ける程に激しい雨が降りしきる。故に水を吸い切れなくなった砂漠は冠水し始めていた。そこを駆け抜けるのはセノールの民。向かうはアゥルトゥラの兵列。駆け抜け、敵を殺めに死兵の徒は血を求めた。彼等が唱えるのは神への祈り、己が死しても神の御許へ行けるように、殺めた敵はその者が敬う神の御許へ行けるようにと走り続ける全てのセノール兵がそれを唱える。
 ある者は向けられた銃口が何であるかも理解しない。獣であるが故にそれに対する恐れも知らず、ただただ砂漠を駆け抜け、吹き出た血と拉げた肉に伴う痛みが精神を削り取られ、身体が心に追従出来ず、力尽き、果てる。
 ある者は斃れた輩の死体を跨ぎ一太刀。それが誰とも分からない男の助命を嘆願する声を無視し、背に刀を突き立てそれを蹴り上げれば背が開かれ、血が湧き出る泉と化し、次なる標的を探し駆け出す。銃を構える間もなく、恐れ戦くアゥルトゥラ兵が顔が少しずつ近付き、その首が刎ね飛ばされ、冠水した水面に浮かび上がり、辺りを赤く染めていく。
 水を蹴り上げる音とアゥルトゥラ兵の悲鳴が砂漠に響き渡り、時折なる銃声は命を奪う事すら適わず無駄な物となっていく。死体は斬られたり、冠水した水面に押し付けられ溺死した者が多い。一切の外敵を許さず、一切生かして返さない。砂漠の化身のような彼等が勝ち鬨を挙げた時、辺りは死体と血の赤ばかり、その様子は地獄絵図としか言えないような状況であった。



「——はぁ」
 ふと目覚め、祖先達を追体験したような悪夢にジャリルファハドは参ったというような様子で時計を見やる。冠水した砂漠であるという事は聞き及ぶ、西伐における大勝利を収めた緒戦「ヴィエ・ワーディーの戦い」であろうか。あの夢が本物だとしたら、アゥルトゥラ兵はさぞ恐ろしかった事だろう。たった三時間余りの戦いで、アゥルトゥラの歩兵連隊四千名弱が殺害されたのだ。その事実を思い出せば、朝から神妙な思いを抱き、己の心臓を軽く叩いた後、眉間に右手を押し当て、冥福を与えてくれと神へ祈る。敵とは言え、死者を蔑ろにする事は許されない。
 ふと、時計を見ればまだ午前四時をやや回ったばかり。ミュラはベッドで大の字になって寝息を立てている。ミュラを気遣い己はソファーで寝ていたため、何処となく身体に違和感があり座ったままでグッと背伸びをする。先日痛めた足首がやや痛むが問題はないだろう。
 傍らには刀、机の上には鎧通しがあり、それと向かい合うようにして筆架叉が置かれている。その筆架叉の主を見据えれば、品性の欠片すらなく寝乱れ、枕は床に投げ出されていた。疲れたのだろうと思い、ミュラを起こさないように静かに支度を始めた。といっても食料は既に鞄につめられ、刀や鎧通しも昨晩のうちに磨ぎは済ましてある。ついで筆架叉の穂先を磨ごうとしたらミュラに「余計なことすんな」と止められたのだが。確かに研ぐという事は、武器の質量が僅かに変わる事に繋がる。ともすれば使用感が変わり、手に馴染まなくなる可能性もあった。ミュラも存外に繊細なのだろうと、大凡見当外れな思いを抱いたのは誰も知らない。
(まだ起きんだろう)
 ミュラが眠りについている内にやる事があった。鞄から紙と筆記用具を取り出し、それを広げるなり地図を描き始める。それはこの色街からジャッバールの拠点、ハイドナーの屋敷までの道程であった。セノールはクルツェスカの地図を持っていない。ジャリルファハド自身も地理がないため、街の標識を見たり、ランドマークとなりうる建物を目印に大凡の方向で歩いただけに過ぎない。何れセノールが国力を高め、ジャッバールと足並みを合わせ国を盗る時が来た時、西方交易路に直通しているクルツェスカは国盗りの足掛かり、要所となる。円滑に事を済ませる事が出来るように地理を周知させなければならないのだ。
 薄暗がりの中、煙草を吸いながら地図を書くジャリルファハドの様相は不気味にも思えた。静まり返った部屋の中では、鉛筆を走らせる音とミュラの寝息だけが聞こえている。彼女がこの事を知ったならば、何を思うだろうか。彼女は何者でもなく、ましてやセノールでもない。故にアゥルトゥラに対する敵愾心は持ち合わせておらず、セノールがアゥルトゥラへの報復を画策している事を良くは思わないだろう。何より無益な争いを避けたがるようなきらいがあるように感じられた。
(出来る事をしてやらねばな……)
 ジャリルファハドの中で烈火の如く燃え続けるアゥルトゥラへ対する苛烈で、異常な敵愾心は何れ自分の身のみ成らず、一切の輩を消し去ってしまう事だろう。何も知らずに此処へ連れて来てしまったミュラとて例外ではない。教えられる事を全て教えたならば、ミュラを放逐し好きに生きるように仕向けるしか在るまい。彼女に余計な血を見せるのは悪手以外の何者でもないように感じられた。放逐し、それでも付いてくるならば血を見せるしかないのだろうが、恐らくそれはないだろう。

 ジャリルファハドには野心があった。カンクェノから錬金術の技法を盗み出し、あわよくば魔力の復活を遂げさせるのだ。先人が成したように生活用水を確保するためだけの魔術は要らない。全てを壊し、復讐を果たす事が出来る力を欲しているのだ。ジャッバールは事を急ぎ、外貨獲得と兵器開発、薬物汚染の三本柱でアゥルトゥラよりも有利に立とうとしているが、時期尚早な彼等とは歩みを共に進める事が出来ない。何より当主であるバシラアサドには別の思惑があるように感じられ、全く信用にならない。時期を急ぐ理由はなく、急げばどうなるか分かっているはずである。だというのにセノールを煽りその敵愾心を焚き付け、いつ爆発してもおかしくない状況にしている。まるでセノールもアゥルトゥラも共倒れするかのように仕向けているようだ。
「……ずいぶん早いな……。まだ寝てろよぉ」
「——!」
 ベッドにうつ伏せになったまま眠たげにミュラが語りかけてきた。突然すぎて思わずジャリルファハドは身動ぎ、地図を折り畳む。頻繁に地図を描いている姿を見られるのは避けたい。ミュラが何かに感づく可能性もある。
「我々、セノールの武人は人前で寝る姿を見せんのだ。お前が寝た後に寝て、お前が起きる前に起きる。そうしただけだ」
「……ばっちり寝てたの見たぜ」
「お前が起きるから悪いのだ」
「なんだよ、それ……。もう少し寝るから、七時頃起こしてくれよ。じゃ、おやすみ……」
 夜中の二時頃、ミュラが起きたのは知っていたが暗がりの中で見られていたとは思わなかった。存外に彼女も夜目が利くのだろう。思い返せば確かに目が合ったような気もする。苦笑いを浮かべつつ、煙草の火を消した。
「あぁ、おやすみ」
 うつ伏せのミュラは言葉を発さず、右足を上げて返事をしてくる。行儀が悪いと思ったが、これから寝る者を叱った所で仕方がないと、再び地図を広げて書き出した。時間は五時を回る少し前。あと二時間程度しか寝られないというのに、どれだけ寝る気だとジャリルファハドは呆れたような視線でミュラを見据える。仰向けになっていたミュラと目が合うが、彼女はまるで蚊でも払うようなハンドサインでジャリルファハドをあしらう。
「さっさと寝ろ」
「こっち見んな」
「視界に入ったのだ」
「……目潰してやろうか」
「やれるならやってみろ」
「出来ねーよ……」
 眠気が醒めた様子のミュラだったがベッドから起き上がる様子はない。放っておけばまた寝る事だろう。知らぬ振りをして地図を書き進めて行く。ある程度街の様子を書き記した後、クルツェスカ攻略に置いて、早急に制圧する事が求められるであろうハイドナー邸の見取り図を書き始める。さらさらと外を上から見た形の地図を書き、出入り口を記す。ミュラと共に出て行った裏口も漏れなく書き記す。その後に屋敷の中も書き記していく。例に漏れず歩幅と歩数から大凡の広さもだ。地獄を作る下準備であると考えれば、どうにも筆は進まなくなるのだが、民族のためと考えれば筆が進む。我乍ら単純な思考回路だとジャリルファハドは苦笑いを浮かべ、再び時計を見据えるのだった。

Re: [リレー企画]無限の廓にて、大欲に溺す ( No.37 )
日時: 2016/10/11 07:42
名前: ポテト侍@スマホ ◆jrlc6Uq2fQ (ID: UOIDfwjc)

 となればやはり神など存在しないのではないか?そりゃあ勿論、彼女とて最初は信じていた。家族はアゥルトゥラでは珍しい熱心な信者であったし、病める時も健やかなる時も聖書を読み、神への祈りを忘れず、それが幸せでもあった。それがいつからか、疑問を持ち始めたのは。やはり人買いに攫われ、とある売春宿に売られたときか。メシアが本当にいるのなら、なぜ救いの手を差し伸べてくださらなかったのか。なぜその御身をお現しにならないのか。なぜ奇跡を起こさない。ある者は言っていた「神はその奇跡を簡単にはお示しにならない」と。どうして? 皆は、奇跡を今か今かと待ち望んでいるのに。なぜ争いを止めない。なぜ病める者にその手を翳さない。なぜ飢える者にパンを与えぬ。なぜ渇きに喘ぐ者に葡萄酒を施さぬ。
何故何故何故何故?
 あぁ……。ならば、ならばせめてこの身を救っておくれ。淫売に堕ちた私を。
 それとも、操さえ守りきれなかった私は聖地〈エルサレム〉に踏み入れることさえ赦されぬのか。
なぜ人を選ぶ?神は全ての人を天国へと導かぬ。
 故に私は神を信じない。信じたところで報われないのならば、救われないのならば、救ってくださらないのならば、いっそ信仰を捨ててしまおう。私は見ているだけの残酷な神など信じない。
 とある女の独白である。


 ようやく東側が明るくなってきた。未だ空を覆う紺色の中、僅かに混ざった橙はまだ淡く、それが町全体を照らす光になるにはもう少し時間がかかるだろう。
 教会のイスに座っていたイザベラは大きな欠伸を一つ漏らす。膝の上にはジャリルファハドから借りたセノールの教典が置いてある。かれこれ3時間は目を通しているものの読み終わったのは数頁に留まっていた。辺りが暗く読みにくいのも理由の1つだが、その最たる理由はセノールの古語が頻繁に出て来ることであろう。ソーニアのようにセノールについての知識、理解がある者ならいざ知らず、アゥルトゥラの人間ならば、意味をとること以前に読み方でさえ困難である。イザベラの隣に古語辞典が坐しているのが何よりの証拠だ。しかも今とは異なる文法、殆ど使われることがなくなった文法が使用されており、理解を妨げる要因となっている。
(思ったよりもきっついわね)
 意味のとれない単語を調べ、分からない文法があれば何度も読み返し推測する。無意識に寄ってしまった眉間を伸ばすように目頭に手を押し当て再び内容に視線を落とせば知らない単語が飛び込んできた。ここでイザベラは溜め息を一つ。そしてゆっくりと本を閉じる。考えることを放棄したのだ。しばらくは髪の毛を弄ったり、古語辞典を読んだりしていたのだが、数分もしないうちに教会のドアが開かれる。イザベラは誰が入ってきたか振り向きもせず、声をかける。
「レディを待たせるなんて騎士失格じゃないかしら」
「失礼。まさか貴女を待たせてしまうなんて。このガウェス・ハイドナー一生の不覚です」
 特に悪びれた様子も無い彼はイザベラの前に立つとガントレットで包まれた手を差し伸べる。逆に引っ張って倒してやろうかと考えたが、常日頃から鍛えている男を引きずり倒せるほどの力が自分にあるとは思えず、その計画は頓挫した。
 せめてもの仕返しにとイザベラはその手を取り勢いよく立ち上がる。やはりガウェスが蹌踉めくことはなく、逆に「大丈夫ですか」と心配されることとなってしまった。子供じみた考えを恥じ、また、そんな感情が湧いてしまったが故、ガウェスの問い掛けに答えるのも気が引ける。一方のガウェスは彼女から嫌味の一つでも飛んでくると思っていた為、拍子抜けしてしまう。おずおずと差し出された紙にはミュラに関することがクセの強い文字で書かれている。スラスラと読み進めるガウェスを余所に、イザベラは教会の──磔になっている男の前に立つ。細く貧弱な体つきは風が吹いたら折れてしまいそうなほど脆く感じられ、茨の冠を被り磔刑に処されているのだ。相変わらず辛気臭い面を晒しているな、とイザベラは思う。こんな軟弱な男が人々の罪を背負い、殺され、そして復活したなんて信じられない。
 でも白状すれば……この男は今のガウェスに通ずるモノがある。先代の罪もセノールの怨嗟もたった一人で背負い、いずれその罪に潰されて彼は死ぬのだろう。復活なんて出来ない。何故ならガウェスは人間だからだ。どんなに模範的な騎士であろうと聖人ぶろうと、人は所詮人なのだ。人生は一度きり。死ぬときは死ぬ。そんな弱い生き物でしかない。
 加えて彼には苦悩を分かち合える友がいない。業を背負い、一族も背負う。その苦しみを理解し、共に支えてくれる友が必要だとイザベラは常々感じている。そうすれば、彼の荷物も多少は軽くなるのではないか。
 憐愍にも近い同情を覚えたところで、彼女はふと気がつく。今から伝える真実は彼にとって新しい枷になる可能性があると。枷をつけようとする人間がつける人間に同情するなど滑稽の極みであろう。しかしそれでも伝えねばならぬ。彼女はそのためにここに来たのだから。だから心を刺す罪の意識に気が付かないフリをした。
「ミュラちゃんについて色々気になることがあってね、ある助産師の所に話を聞きに行ったのよ。貴族の元で働いてたんだけど、事件が起きたと同時に責任とってやめた初老の女性。その事件っていうのが、その時の御当主様が妾と、その間に出来た子供を殺したんですって。酷いことするわよね。することやって出来た子なのに殺しちゃうなんて。……とまぁ、ここまでは当然の如く貴男も知っているでしょうね。何たってハイドナー最大の不祥事ですもの。でもね、これには続きがあったのよ」
 ガウェスの視線を感じたが無視をして、磔刑の男を見ながらつらりつらりと言葉を紡ぐ。
「殺された赤子は一人。でも、その妾が産んだ子供が双子だとしたら、もう一人はどこに行ったんでしょうね?」  
 恐らく彼は雷に打たれたような衝撃を受けていることだろう。ようやく振り返れば立ち竦み、唖然とするガウェスの姿が映る。常に前だけを見ているはずの瞳がゆらゆらと危なげに揺れているのを見て、やはり伝えるべきでは無かったかもしれないと自らの失態を悔やむ。しかし途中で止めることなど許されない。不敵な笑みを浮かべ自らは悪女を演じよう。コツリコツリと足音を響かせ歩き、再びガウェスの前に立った。
「極稀なケースにね、双子なのに生まれてくる時に時間差が出ることがあるんですって。二子が生まれたのは一子を生んだ次の日よ。それで、ロトスが二人を葬ったのもこの日。その時もう一人の赤ちゃんはその助産師と共にいたそうよ。それが」
「ミュラ・ベルバトーレというわけですか」
「その通り」 
「些か信じられる話ではありません」 
「信じる信じないはご随意に。でもこれが真実なの。その助産師はね、このままじゃ生き残った方にも危害が及ぶと思って、クルツェスカからなるべく遠くへ逃がしたのよ。誰かが拾ってくれるように願いを込めて砂漠に置いていった」
「赤子を砂漠に置き去りにするなど正気の沙汰じゃあない」
「そうね、正気の沙汰じゃないわ。でも、だからこそハイドナーの目を欺けた」
 もしも生き残った赤ん坊がクルツェスカにいたら早々にハイドナーに存在がバレていたことだろう。イザベラの他にもハイドナーお抱えの情報屋はごまんといる。しかし、一度関所を抜けてしまえばそこから先はアゥルトゥラの支配が及ばない世界となる。無論、あまりにも分が悪すぎる賭けでもあったが。飢えた野生動物に食い殺されるとも限らなければ毒を持つ生物も存在する。仮に人通りが多い交易路に置いていったとしても何も出来ない赤子を拾う物好きがどこにいようか。むしろ、心優しい者に気の毒だからと殺されていたかもしれない。その点に関して、彼女は非常に幸運だったとしか言いようがない。
   


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