複雑・ファジー小説
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- こわして、みせて
- 日時: 2017/02/05 01:49
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
お腹痛いとき、より一層、孤独を感じます。
なんだかんだ、冬の夜は寂しいですね。
そんな自分が嫌いじゃないです。
- Re: こわして、みせて ( No.1 )
- 日時: 2017/02/14 21:31
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
01
空が青い。
絵具をそのままべったり塗りつけたような快晴だった。どこまでも広く、淡く、大きい。手を伸ばしてそれに触れようとしたけど、当然ながらそれは無理だった。空を見るのは好きだけど、見続けていると、まるで自分がちっぽけなもののように感じられる。
ちっぽけだけど。
男なのに165センチという身長は、コンプレックスだ。おまけに「かわいい」と称される自分の顔も苦手だった。女顔なのだ。体もがっちりから程遠い。ひょろりとしていて、自分ではモヤシみたいだなと思う。おまけに色も白い。日焼けをしても赤くなり、ヒリヒリするだけだ。
師岡千秋は、そんな男だった。
外見が男らしくない。いや、外見「も」だ。
優柔不断で答えの白黒を強く求められると言い出せない。きちんと自分のなかに、自分の気持ちがきっちりあてはまっているはずなのに、それが間違いなのではないか、他人から否定されるのではないかと、不安なのだ。自信など毛頭ない。大学入学の面接で自己PRをしてくださいと言われたけど、さんざんネガティブな発言をしたあと、面接官に向かって「だけど、僕は、こんな僕を嫌いになれません」と言い放った。千秋の面白いところはそこだ。
自信も男らしさもまったくない。
だけど、そんな自分が嫌いになれない。
こんなふうに物憂げに空を見上げて、手を伸ばしているが、そんな自分がなんだかいけているんじゃないか……。そんなことを思っているのだ。
場所は古いアパートの一室。ワンルームで家賃が4万円。洋室7.5帖で、風呂はユニットバスだ。「やなぎハイツ」という白塗りのはげた築35年のアパートで、千秋がここで暮らし始めてから三年が経っていた。
昼間は大学の心理学部に通い、授業の空きコマや夜、土日に居酒屋でアルバイトをしている。自分はどこにでもいる普通の大学生だ。こうして、ベランダから空を見上げて、頭のなかを空っぽにしている休日もあっていい。
考えることを、すべて放棄してもいい。
酒が飲めたら、と思う。体質的に弱い千秋は酒を飲んでも酔うことができない。気持ち悪くなって終わりだ。だから空を見上げている。頭を、空っぽにするために。
でも、人間は完全に思考を停止させ続けることなどできない。
少なくとも千秋には無理だった。
「なんで、私をここに連れてきたの」
泣き腫らした目で自分を睨むすみれの存在を確認した朝、死にたいと思った。
ときどきあるのだ。
自分の考えを突き通して、ひどく後悔することが。
瀬谷すみれは高校時代の後輩である。
学年はふたつ下。千秋が3年生のとき、新入生だった。
そのとき地元の高校に通う千秋は、ちょっとした有名人だった。なぜ自分があのとき目立っていたのかわからなかったが、きっと容姿のせいだろう。けっして悪くはない。むしろきれいな方だった。ただ男らしくないだけで。
新入生からは「かわいい先輩がいるんだよ」ときゃあきゃあ言われていたし、実際、そういう男が好きな女子から異様なほどもてた。友だちからは羨ましがられていたけど、千秋からしてみればうんざりである。
男にかわいいとか言うな!
そう声を大にして言いたかったが、女子のあの流行りものを見るような視線に突っかかっていく度胸がなかったのである。友だちはたくさんいたが、女子が多かった。それも千秋が望んだことではない。千秋だって男たちと一緒にちょっとした悪いことをしたいと思っていたし、エッチな動画の話題で盛り上がりたいと思っていた。
でも、自然と周囲が「師岡はそういうのはない」と認識していたせいで、ほとんど無縁だった。女子もなぜだかわからないが、千秋といても間違いは起こらないと確信している部分があった。
俺だって男だぞ!
そう主張したかったが、やめた。もう皆さん好きに言っていてください。そういう気持ちだった。
瀬谷すみれを知ったのは、7月。
目前に迫った期末テストより、その後の夏休みにみんながソワソワしていたころ。
太陽がじりじりと容赦なく照りつける。教室の冷房も入った瞬間は涼しいと思えたが、慣れると汗が流れだす。こんなところで勉強なんかできるか!と、運動部の何人かが喚くけど、先生は「きみたちは席に座れていいわね!私はね、この暑いなか、50分も喋らないといけないのよ!」と言って、軽く笑いをとる。
歴史の授業だった。
バルチック艦隊、日露戦争、日本の勝利──。
黒板に書き足される文字をノートに写しながら、教科書にマーカーを引いていく。ああ、楽しい。いかにぶれずにマーカーを引くかが重要だ。真っ直ぐ、定規を使わずに、手が、震える……。
足音が、聞こえる。
マーカーを引く手をとめた。千秋はゆっくり顔を上げる。
授業中だ。どの教室も静かすぎるほど静かだ。その足音は、廊下の一番向こうから、徐々にこっちに近づいてくる。走っている。
みんなが何事かと思い、先生も口を閉じた。
廊下側の列に座る生徒が窓から覗き見て、「あ。瀬谷さんだ」と何人かが呟いた。
瀬谷?
千秋が該当する人物を思い起こそうとする前に、彼女は、廊下を走った。
足音の大きさの割には、華奢な女子だった。
教室の真ん中に座る千秋からは、彼女がどんな顔をしているのかまでは見えない。ただ、全体的に小さい子だなと思った。
そして、後ろから1年のクラスを受け持っている先生が、ひどい形相でその後を追う。
「瀬谷!」
隣のクラスがひどくざわついていた。
鬼ごっこかぁ、と誰かが笑う。
だけど、みんな、廊下を見てそのいやな笑いをやめた。
彼女が走っていた形跡が、彼女自身の赤い血によって示されていた。授業なんてどっちでもいい。生徒が廊下に出て、「うげぇ」とか「やばいな」とか言っている。点々と続くその血を、千秋はぼんやり眺めていた。
その三日後。
期末テストが来週に迫っていた金曜日。
どうせ勉強付けの休日になるのだから、なにか甘いものでも買っておこう。そう思い、学校帰りにスーパーに寄った。余談だが、千秋はなるべく他人といるとき、辛い物を食べようとする。本当は甘い物が好きなのだが、「やっぱり好きそう」と言われるので、うんざりするのだ。もっとも、そのギャップがかわいいとされ、女子から人気なのだが、千秋は気づいていない。
スーパーの菓子売り場で選んでいると、隣にすっと人が立った。
少しビクッとして、隣を見て、また体が強張った。
瀬谷すみれだった。
あのとき、廊下を走っている彼女の顔はわからなかったけど、なぜか千秋は、彼女がすみれだと確信した。
眠たげな二重まぶた、きちんと整えられている眉毛、薄い唇。どのパーツも美しく、整っていた。その左腕にぐるぐる巻きにされてある包帯を目にして、千秋は自分の喉がなぜか渇くのを感じた。
すみれはクッキーの箱をひとつ取り、それから千秋の視線に気づいた。
目と目が合う。
不思議とどちらも逸らさない。
ふたりのあいだに流れる時間が、不透明な膜のように覆い、包む。簡単には破れない膜のなかで、いつまでも二人は見つめ合い続けた。
すみれとの再会は突然だった。
高校を卒業してから彼女と会っていなかったし、連絡も取っていなかった。
金曜の晩は、酒を少し飲んでいたので頭痛がひどかった。
大学の友人たちと飲んでいたのである。
頭痛以外は楽しい夜だった。ばかみたいな話をして、子どものようにはしゃいだし、何人か女性陣もいて、酔って頬がじんわり染まる瞬間が見られた。そこでも女性陣は、千秋には言いこそしなかったけど「お酒が弱いのね」「師岡くん、かわいい」という印象を抱いた。彼が知ればひどく心外なのだろう。
夜の10時。二次会でカラオケでもどうだろうという話になった。
居酒屋から出て、カラオケまでの道を歩く。明日が休みのせいか、飲み屋は賑わい、人も多かった。
正直、頭痛がひどく、千秋は帰りたいと思っていた。それに歌は苦手だった。それほど音痴でもないが、人の前で何かをすることが嫌でしかない。
このコンビニを曲がれば、串カツ屋があって、その隣がカラオケだ。終電にはまだ余裕で間に合う。
適当に理由をつけてしまおうと思ったとき、
「なんで、なんで別れるなんて言うのよ!」
女の声が聴こえた。
鋭く、悲痛で、尖った声。
コンビニの前で一組の男女が対峙していた。女は後ろ姿しか見えないが、男は疲れた表情をしている。どうやら修羅場らしい。あまり見てはいけないのだろうけど、なぜか千秋の歩みが止まった。後ろを歩いていた友人のひとりが「おい、進めよ」と耳打ちしてくる。
千秋はそれを無視した。
女は持っていたショルダーバッグで男の顔を殴りつける。よろめいたが、男は無抵抗だった。これさえ我慢すればこいつと別れられる。そういう雰囲気すらあった。
バッグだけでは足りないのか、女が男の頭をはたく。そのあいだ、ずっと、「愛しているのに。愛しているのに。愛しているのに」と声を荒げていた。
その声に、聞き覚えがあった。
絶対に聞いたことがある。
忘れるわけがない。
なにも確信はないけれど、千秋は、きっと彼女だと思った。
「すみれ?」
呼ばれて、女が振り返る。
ああ、やっぱり。
千秋は思わず笑みをこぼした。頭の奥が締め付けられるように痛んでいたが、関係なかった。すみれだ、と認識した瞬間、千秋は「ごめん!帰る!」と友人たちに言い、すみれの手を引っ張って、走り出した。
手を振りほどかれないことに安堵しながら、千秋は、彼女を連れて逃げた。
こうもしないと、さっきの男が殺されかねないから。
そのまま電車に乗り、千秋のアパートまで連れ帰る。部屋に入った瞬間、せき止められていた何かが溢れるように、すみれは泣き始めた。ものすごく大きな涙の粒だった。それを手で拭いながら、昔、そうしていたみたいに、彼女を抱きしめる。
大丈夫、大丈夫。
そう言いながら、いつの間にか千秋も眠りについていた。
- Re: こわして、みせて ( No.2 )
- 日時: 2017/02/25 09:31
- 名前: 夜枷 透子 (ID: hf2.ND4p)
冷蔵庫から水を取り出し、コップに注ぐ。僕の布団の上にいるすみれに渡すと、勢いよく飲み干した。唇の端から水がこぼれて、顎に伝い落ちる。息をついてそれを拭い、空っぽのコップを「ん」と寄こしてきた。
お互い風呂に入っていないので、酒臭い。
とりあえずシャワーを浴びることを提案すると、無言ですみれは頷いた。スウェットを貸して、脱衣所を指さす。すみれがシャワーを浴びているあいだ、千秋はまた空を見上げた。
昨夜、すみれと思わぬ再会を果たしてから、今日の朝を迎えるまでのあいだ、自分は別の生き物になっていた気がする。すみれを家に連れて帰るという判断を下したのは、師岡千秋ではなく、別の生き物だ。そうでもしなきゃ、あんな大勢の前で修羅場を繰り広げる女を連れて逃げかえることなどしない。舞い上がったのだ。彼女がすみれだとわかった瞬間、三年も会っていない人間に会えたことと、それがすみれだったことが嬉しかった。しかも千秋が高校を卒業してから一切連絡を取っていなかったのだ。あんなに一年を一緒に過ごしたのに。
泣きじゃくり、男にバッグを投げつけるすみれを見て、過去の記憶が蘇った。
本能的に、すみれを抱きしめなければと思った。
震える彼女を三年ぶりに抱きしめたとき、千秋自身がホッとした。すみれの感触が、匂いが、声が、あのころを思い出させて、嘘ではない出来事の証明ができたような気がした。
だから後悔している。
これじゃあ逆戻りじゃないか。
千秋は頭を抱えた。
「そんなに辛いなら」
いつのまにか風呂から出てきたすみれが、背後に立っていた。
呆れたように、腫れた目で千秋を睨みつける。
「私のこと放っておけばよかったのに」
それが強がりであると千秋は知っている。すみれの発言は真逆の意味を含んでいることが多い。それを汲み取らずにいると、彼女はたちまち薄っぺらい表情になり、失望した様子で「嫌いだわ、あなた」と吐き捨てるだろう。要は自己中なのだ。
「シャワー、浴びてくるよ」
「私に許可を取らなくていい。ここはあなたのうちなんだから」
それもそうか。少し笑いながら千秋もシャワーを浴びた。
部屋に戻ると、テレビがついていた。すみれがつけたのだろう。しかし、彼女はそちらを見ずに、また布団の上であぐらをかいて座っている。なぜかそこだけ額縁のなかに存在する冷たい絵のようだった。
「千秋、また私に関わって本当に学習しないよね」
「僕もつい今しがたそれを思って泣きそうになった」
「縁って切れるものと切れないものがあるんだって」
「切れない縁かな。僕らの場合」
「もしそうなら、すごく最悪な気分」
お互いに「久しぶり」も「最近はどう?」もない。興味がないわけではなく、知る必要がないと感じる。深入りしても理解できないことのほうが多い。そういう部分は知らないほうが関係は続く。
すみれにどんなことを言われても千秋は怒らない。そもそも千秋は滅多に怒らない。怒るよりも諦めるほうが早いし、楽である。自分の気持ちを沈下させて、なかったことにする。そうすれば物事は流れて、自分も漂っていく。
千秋はすみれを好きである。
恋愛感情などではなく、それよりももっと重たいものだと感じている。あのスーパーの菓子売り場で目が合った瞬間、千秋は飲まれてしまったのだ。すみれという不思議な雰囲気の女の子に。一目惚れではなく、彼女の持つ影というか、闇みたいなものに惹かれたのだ。
依存ではないかと言われることもあるが、そうではない。千秋もすみれも互いに依存はしていない。だからこそ、三年間という空白が存在してもこうして前のように話せている。
「朝の質問に答えてよ。なんで私を連れてきたの」
ゆっくり繰り返される質問。
乾いた笑いが込み上げる。砂のようなざらつきが舌の上に乗っている。
知るか、とこぼしそうになった。
千秋だって帰りたかった。カラオケに行けない理由を探していた。そこにたまたますみれがいた。だから、言い訳として利用した。
「会えて嬉しかったからだよ」
嘘だとわかりきった答えだった。
いや、丸々嘘というわけではない。三年ぶりの偶然の再会に運命的なものを感じたし、テンションも上がった。卒業してから、きっとどこかで会うような気がすると思っていたけど、このタイミングとは思わなかった。
だから、探し物を見つけたような気持ちだったのだ。
やっぱり千秋のところに、すとんと、すみれは落ちてくる。
千秋の答えに、心底呆れた表情を見せたけど、すみれはふっと微笑んだ。再会して初めて見るすみれの笑顔だった。
「嘘つき」
すみれの左腕にある無数の傷跡が、胸の内をざわつかせる。
千秋の日常に彼女が戻ってきた。
あの傷から流れた血を、千秋は覚えている。点々と廊下を色づけた、すみれの赤。あれほど濃い赤は見たことがない。
「煙草、ある?」
「吸わないんだ」
「へぇ……。なんだ、本当に高校のころと変わってないじゃん」
他人から言われると少し気に病むが、すみれに言われると安心した。
これでも髪を染めたり女性と何人かつきあったりと、千秋自身では大学生活を派手に楽しんでいるつもりだった。昨夜のように飲みすぎて気持ち悪くなることだって、なんだかやらかした感じがして、悪くはない。千秋が求めているのは確かな変化だった。
すみれは千秋の時間をとめる天才だと思う。
こうしてなんでもないことを話すだけで、時間があの頃に遡った気持ちになる。
千秋は妙な気持ちにソワソワしながら、「昨日の、男の人」と話しかけた。すみれが面倒くさそうに千秋を見る。
「なんか連絡とかきてないの」
「来るわけないわ」
「そうか」
「どう思ってるの」
「なにを」
「私のこと、どう思ってるの」
色恋のそれではないことはわかった。
「変わってないなって……思ったよ」
「あいかわらず阿呆だなって、思ってるでしょう」
「まさか」
それを言うなら、すみれを連れて家に帰った千秋のほうが阿呆である。
「それとも、また私みたいなやつに関わってみたくなった?」
返事はできなかった。
瀬谷すみれの噂は高校に瞬く間に広まった。
宙を漂う煙のように、形のない悪意は蔓延していく。深夜に近所を徘徊して小動物を刺し殺しているとか、数学教師の恩田と関係があるとか、両親が宗教にはまっているとか、借金まみれで体で返しているとか。
入学したての1年の噂が、千秋のいる3年のクラスにも常に囁かれている。
それは当然のことでもあった。
あれだけ派手に廊下に血の跡を残し、教師に追われ逃げていたすみれだ。日々話題性を求める高校生の好奇の目に晒されることは、予測されていた。
それに、すみれは美人であった。
丁重に扱わなければ折れてしまいそうな弱々しさ。目が虚ろで、どこか遠くをいつも見ている。それなのにやることは大胆で、余計に目立つ原因でもあるのだが、人目を決して気にしない。
後々にすみれから聞いて知ることだが、頭がカッとなると周りなんてどうでもよくなるらしい。自分と、相手という、二人だけの世界にワープして、この人がいなくなれば自分はひとりぼっちになるという不安感が増し、コントロールが効かないのだという。
本人から落ち着いた口調でそう説明されれば、わからなくもないと思うかもしれない。でも、周りはみんな高校生で、子どもだ。すみれの頭がおかしい。すみれは変人だ。関わるとまずい。人生が終わる。そんな噂でいっぱいだった。
「すみれ」
その花の名前を口にするとき、千秋はいつも緊張した。
すみれがゆっくり振り返る。
テストが終わって全校集会で長く座りっぱなしだった体は、変に足が痺れていた
校門を出て、テストが終わった解放感で心が満たされていく。もう少しで夏休みだ。そのとき、前をふらふら歩くすみれを見つけた。スーパーで一度会っただけだけど、その後ろ姿がすみれであると、千秋はわかった。
すみれ、と小さく声に出した。
聴こえてないだろうと思っていたので、振り返られて、驚いた。
そんなに大きな声じゃなかったのに。
「なあに」
どうしよう。
千秋は目を泳がせた。緊張で、さっきまで緩んでいた体がまた硬くなる。
すみれは、怪訝そうに首を傾げ、千秋に近づいてきた。千秋は俯くが、彼女は遠慮なく千秋を見つめている。穴が開くのではないか、と不安になった。
すみれはずっと待っている。
千秋の言葉を。
そう思うと千秋はプレッシャーになり、頭の中がぐちゃぐちゃになって、泣き出しそうになった。情けない。二つも年下の女子相手に、何も言えない。
「傷、大丈夫?」
けっきょく出てきたのは、そんな言葉だった。
一瞬、目を丸くさせた。すみれが驚いていた。そしてすぐ目を細めて、えくぼを作って笑った。その笑顔に千秋は見惚れる。
「あれぐらいじゃ、まだまだよ」
初めての会話だった。
すみれはきっと、千秋の名前すら知らない。それでもいい。
何気なく一緒に帰ることになった。家の方向を聞いて、近所だということを知る。そしてすみれが母子家庭ということも。
「お父さん、自殺したの」
風のように軽い口調で、すみれが言う。
あんまりにも涼しそうな横顔なので、思わず「暑い?」と訊いてしまう。すみれは不思議そうな顔をしたけど、すぐに「暑い」と答えて、また笑った。
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